メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ
ノア - 滅びの日が来る前に為すべき事(創世記7章)
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ノアとその家族以外の人類は、全て、暴虐と不品行に染まってしまった時代においても、ノアは、子供達や嫁達にしっかりと信仰を継承し、本当に起こるとも分からない大洪水に備えるために、百年をかけて、全長およそ135mの巨大な船を、主から示された通りの寸法で造り続けた。
その間、彼らは義を宣べ伝え続けたが、結局、誰も改心しなかったようである。(2ペテロ2:5)
そうして、ついに箱舟は完成し、主が定められた時が近づいた。
『主はノアに言われた、「あなたと家族とはみな箱舟にはいりなさい。あなたがこの時代の人々の中で、わたしの前に正しい人であるとわたしは認めたからである。』(創世記7:1)
主に命じられた通りの仕様で箱舟が完成した時、ノアの信仰は実体となり、主から「わたしの前に正しい人」と認められた。信仰は行いによって実体化される。行いの無い信仰は死んだものである。(ヤコブ2:17)
このようにノアは、行いを伴った信仰によって、多くのいのちを救う箱舟を造る働きをしたが、彼が主に命じられて救ったのは、きよい動物だけでなかった。「あなたはすべての清い獣の中から雄と雌とを七つずつ取り、清くない獣の中から雄と雌とを二つずつ取り、また空の鳥の中から雄と雌とを七つずつ取って、その種類が全地のおもてに生き残るようにしなさい。」(創世記7:2-3)
主は、清い動物だけでなく、清くない動物をも、滅びから救われる。この事は、救いは、きよい民だけでなく、きよくない民である異邦人にも開かれている事を意味し、主の働き人の宣教を通して救いは広められる。
ペテロは幻の内に、四隅を吊るされた敷布が天から降りてきて、そこに、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っているのを見せられ、主に屠って食べるよう言われた。彼は「できません」と断ったが、主は「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」と言われた。(使徒10:9-16)
救われたのは、きよいかきよくないかは関係なく、ただその時、救いの箱舟に入っているかどうかであった。
同じように今、救われるのは、良い人か悪い人かは一切関係なく、ただイエスを信ているかどうかなのだ。
「雄と雌とが、二つずつノアのもとにきて、神がノアに命じられたように箱舟にはいった。」(9節)
この動物たちが主の促しによって救いを得たように、私達も、主の促しが聞き分けられるように、いつも耳を研ぎ澄ませ、主の御声を聞けるようにしているべきである。
もし世の思い煩いや富の誘惑によって、霊的感性が鈍っていたら、主の御声を聞き分けられず、ノアの家族以外は箱舟をばからしく思ったように、救いの箱舟に入るべき時に「入らない」のだ。
「そこで主は彼のうしろの戸を閉ざされた。」(16節) その日その時、救いの扉を閉ざすのは人ではなく神であり、ひと度、救いの門が閉じられたら、内にいる者には救いが、外にいる者には滅びが確定してしまう。
今は救いの時だが、それにはリミットがあり、それがいつなのかは、ただ主だけがご存知である。
「その日に大いなる淵の源は、ことごとく破れ、天の窓が開けて、雨は四十日四十夜、地に降り注いだ。」(創世記7:11-12) 悔い改める事をせずにいた人々に、ついに、裁きの時が来てしまった。
天の水門が一気に開かれ、地の底の深淵の源が張り裂け、そこから溢れる水は大波のように、濁流のように全てを洗い流し、わずか40日ほどで、何千メートル級の山々さえ水没し、その上15キュビトも覆うほど、地球全体は水で覆われた。人々はそれまで、めとったり嫁いだり、売ったり買ったりしながら築きあげて来た家も土地も財産も、ことごとく、一瞬にして流し去ってしまった。
それまで、天の上の水も地の下の水の源も、元々は全て生けるものを潤す恵みとして与えられていたが、この日、それらは全てのいのちに反旗を翻し、死のために押し迫った。
やがて来るべき終わりの日にも、同じことが起きる。私達は今、恵みが恵みとして注がれている今の内に悔い改め、救いの箱舟であるイエスキリストへと立ち返るべきである。
そして、ノアが忍耐しながら箱舟を建て上げつつ、義を宣べ伝えたように、私達も、忍耐しつつキリストの体を建て上げる働きをしつつ、福音を宣べ伝えるべきである。
ノアのように、キリストの体を建て上げつつ、多くのいのちを救いへと導く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
ノア - 闇の時代に輝く新しい希望(創世記6章)
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かつて全人類は、神の御前に甚だ悪くなり、一つの家族を除く、全てが滅ぼされてしまった事があった。
その、唯一生き残った一つの家族が、ノアの家族である。今回より、邪悪な世代において神の御前に正しく信仰を貫き、新しい世代へと多くの命をつないだ、ノアについて、何度かに渡って見て行きたい。
アダム以降、ノアの時代に至るまで、人はどんどん増えていったが、その邪悪さも増していった。
『人が地のおもてにふえ始めて、娘たちが彼らに生れた時、神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった。』(創世記6:1-2)
「神の子たち」という言葉は、御使いを指す事もあるし、神に従う人達を指す事もあるが、私達キリスト者を含む「神の子達」が、人の娘が美しいからと好き勝手に選んで妻にしてしまうと、良くない事が起こる。
神の霊は、もはやその人には留まらなくなり、肉に過ぎない存在となり、齢も縮められてしまうのだ。(3節)
神の子が、人の娘と結婚した結果、生まれるのは、ネフィリム(原意:伐採者。巨人、いじめっ子、暴君の意味)である。「彼らは昔の勇士であり、有名な人々であった。」人の価値観では、より強く大きい事、より有名な事、より美しい事は、望ましい事であるが、神から離れてそれらを追求する結果、引き起こされるのは、人の悪が増大する事、人の心に思い量る事は、いつも悪い方へ傾いてしまう事である。
その結果、この世代はノア以外、全員が邪悪になってしまった。全人口が一億人だとしたら、一億総殺人鬼時代である。神の似姿であるはずの人々がそうなってしまったので、神は、目も当てられなかっただろう。
「しかし、ノアは主の前に恵みを得た。」(創世記6:8)
全被造物は、ノアの故に滅ぼし尽くされなかった、と言っても過言ではない。
神は一人の義人でもその町、その国、その世界、その宇宙にいるなら、神はそれを滅ぼさない。
神は人を身勝手に創造して、また身勝手に滅ぼすお方ではない。
創世記1章から6章まで読むまでに私たちは1時間もかからないが、その間、時間的には千年以上の月日が流れており、その間、神はずっと人が悔い改めて立ち返るのを望まれ、エノクやノアのような義の宣伝者を送り、彼らを通して全人類を立ち返らせようと、忍耐して待っておられた。
「(神は)古い世界をそのままにしておかないで、その不信仰な世界に洪水をきたらせ、ただ、義の宣伝者ノアたち八人の者だけを保護された。」(2ペテロ2:5) ノアは五百歳の時に3人の子を産み、箱舟を造るよう指示を受け、六百歳で洪水が起きるまでの、およそ100年の間、箱舟を造りながら人々に義を説いて来たのだが、結局救われたのは、ノアの家族だけだった。立ち返る者は誰もいなかった、という事である。
ノアが建造したのは、全長135m、幅22.5m、高さ13.5mの巨大な船である。
横浜大さん橋にも時折、100mを超える船が停泊するが、そのような巨大船を、なんと500歳以上の老夫婦と、その子達の3組の夫婦、合計8人が、およそ百年がかりで仕上げた訳である。
一体どれほど大変だっただろう。それを実際に実行してしまう信仰は偉大だが、そればかりでなく、邪悪な価値観の世界の中で、子供達や嫁たち全員にもそれを行わせる信仰は、どれほど大きなものであろうか。
ノアが多くのいのちを救うことができたのは、神から命じられた事を、全てその通り忠実に行ったからである。
わずか8人で、100年がかりで、巨大船を建造するという、人の目から見たら気違い沙汰とも思える事業を実際に成し遂げ、その箱舟が完成した時、ノアのそれまでの見えなかった信仰が、実体となったのである。
箱舟は50mではだめで、きっかり示された寸法でなくてはならなかったし、子供たちに信仰生活の苦労をかけさせる事を躊躇していたら、彼らへの救いも無かったのだ。もしノアが、神様に言われた事があまりにも途方も無いという事で、少しでも妥協していたなら、家族の救いも、動物たちの救いも、無かったのだ。
ノアの名前は「慰め」「新しい希望」という意味である。ノアがその世界にとって慰めとなり、滅ぼさない事の原因となったように、私達も信仰によって、その地域、その国にとって慰めとなり、新しい希望となる事が出来るのだ。そして、ノアが信仰によって、古い世界から新しい世界へと生きのびたように、私達も、信仰によって来るべき世へと入り、宣教によって、多くのいのち達を御国へと継がせる事が出来るのである。
困難な時代の母の信仰(出エジプト記2:1-10)
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本日は、母の日である。今回は信仰によって幸いを得たモーセの母ヨケベデについて見てみたい。
『レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。』(出エジプト2:1)
それは、とても困難な時代での結婚である。イスラエル人は奴隷とされ、強制労働で搾取され、虐待され、結婚して子供を産んでも、男の子ならナイル川に投げ込まれてしまうという、絶望的な時代である。
過酷な労働で搾取され、将来に希望が見いだせない時代は、普通、結婚する事や子供を産む事が億劫になって、人口は減って行くものだという事は、現代日本を生きる若者なら、実感する所であろう。
それでもこの男女は結婚し、子供を産み、パロの命令どおりにいのちを消す事は、しなかった。それは、信仰による。『信仰によって、モーセの生れたとき、両親は、三か月のあいだ彼を隠した。それは、彼らが子供のうるわしいのを見たからである。彼らはまた、王の命令をも恐れなかった。』(ヘブル11:23)
時代の王の命令は、いのちを殺す事だったが、この両親は、そんな王の命令を恐れず、むしろ、いのちを守ろうとした。なぜなら、その子のいのちの輝きの美しさ、麗しさを見たからだ。
まったき愛は、恐れを締め出す。(1ヨハネ4:18) 彼らは、愛の故に、王の命令も恐れなかったのだ。
しかし3ヶ月も経つと、さすがに隠しきれなくなったために、彼らは苦渋の決断をする。パピルスで編んだかごを取り、それにアスファルトと樹脂とを塗って、子をその中に入れ、これをナイル川の葦の中においた。
この行動は、赤ちゃんを放棄する事とは違う。他の多くの親たちは、パロの命令は絶対だから、今の世情は、男の赤ちゃんは捨てるべし、という流れだから、みんなも赤ちゃんを捨てているから、と、初めから諦めていたのに対し、この両親は、信仰によって、思いを尽くし力を尽くしていのちを守ろうとしたが、それでも自分の力ではどうしようもなくなったから、神様の御手に委ねたのだ。
私達も、時代が時代だから、と、いのちに対し、子育てに対し、あきらめてはいないだろうか。
しかし主は、それでも信仰によっていのちにあきらめない人に対しては、祝福と守りを与えられる。
かごにかわいい赤ちゃんを入れて水の上に送り出さなければならない母親の心は、断腸の思いだったろう。
水に浮かべたかごに、眼差しを向け、自分の胸に抱いて、自分の乳で養いたかった、成長して行く様を見守りたかった、と思いながらも、彼らの神である主に、赤ちゃんの守りを祈りつつ、見送ったに違いない。
母の、子を思う愛以上の愛は、人間には無い。苦しみながら産んだ子供に、自分のいのちを分け与え、その子を見守り、いつも気にかけ、言葉にならないうめきで執り成し、育てる。母とはそういうものである。
今、私達を言いようもない深いうめきによって執り成して下さる霊は、聖霊である。(ローマ8:26-27)
聖霊はいつまでも、どこまでも私達を探り、追いかける。たとえ私達が、罪と汚れにまみれ、死んだかのようになっても、なお深く憐れみ、弁護し、成長して主の御前に立てるまで、守り、育て、執り成すのだ。
母の自分の子に対する祈りは、絶大である。主は、母の、子に対する愛については、何者も犯してはならない守りを定められた。主に捧げるいけにえの動物でさえ、生まれてから7日間は母親のそばに置かなくてはならないし(出エジプト記22:30)、子をその母の乳で煮てはならないとも命じられた。(申命記14:21)
母は、痛みつつも自らの体を開いて新しい命を生み出し、自らの乳で養い、守り、育てていくものであり、母と子の両方を引き離したり、いのちの養いである乳で子を煮る行為は、いのちを踏みにじる行為なのだ。
主は、その母の執り成す祈りを、聞かれた。主は赤ちゃんをナイルの獣から守り、水に沈める事なく、パロの娘の所へと導いて下さり、しかも、その子を合法的に、自分の乳で養い育てる事が出来るようになり、その報酬さえも、もらえるように、して下さったのだ。
赤ちゃんの親は、一旦は失ったと思っていた子のいのちを、信仰によって、水の中から取り返したのだ。
他の多くの赤ちゃん達は、時代がそうだから、という事で死に渡されて行ったが、どのような時代になったとしても、いのちは主のものである。主は御心のままに人の所に新しいいのちを送り、そのいのちを養うのに必要な物も、力も、全て備えて下さり、いのちを大切にする人には、さらに祝福し、徹底して守られる。
困難な時代にあっても、いのちを大切にし、主ご自身から、全て必要な養いをいただき、家族の中が和気あいあいで、いのちと食べ物と笑いが絶えない家でありますように、イエス様の名前によって祝福します!
復活以降の主の現れ方(ルカ24:13-35)
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復活以降のイエス様は、突然現れたり、消えたり、一瞬で遠く離れた場所に現れたり、イエス様がそこにいるというのに、弟子たちは、それをイエス様だと気付かなかったりと、色々不思議な事がある。
この、復活以降のイエス様の現れ方は、現代を生きる私達への現れ方と、全く同じである。
復活以降のイエス様は、主にある兄弟姉妹が、二人でも三人でもイエスの名の元に集まっている時、そこがどんなに遠くであれ、いかに鍵を閉じた部屋に隠れていようと、主はそこに来られるのだ。
この事は、実際、現代の我々も体験している所である。復活以降のイエス様は、どんな風に我々と接されるのか。エマオへの途上の弟子達に現れて下さった場面から学びたい。
『この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイル(十一キロメートル余り)ばかり離れたエマオという村へ行きながら、このいっさいの出来事について互に語り合っていた。』(ルカ24:13-14)
この日とは、週の初めの日、すなわち主日である。そして彼らは、イエス様に関する出来事について、話しあったり論じ合ったりしていたが、二人の目は「さえぎられて(クラテオー)」いた。そこにイエス様は現れた。
このクラテオーは、力づくで思いのままにする、握りしめる、という意味であり、つまりこの二人のその時の状態は、信仰者に望ましい「従順」や「明け渡し」とは逆の状態で、イエス様について論じ合っていたのだ。
現代の我々も、同じ経験をする。主ご自身が近づいてきているのに、思いも心もクラテオーの状態だと、イエス様が目の前におられるというのに、死と心配に満ちた思いを握りしめ、暗い顔つきで、イエス様に面と向かって、イエス様についての心配ごとや、死の話題をしてしまう。
二人は実際に起こった出来事、すなわち、墓には御体が無かった事や、女達がイエス様と出会った、と言っていた事などを、暗い顔つきで論じた時、主は「ああ、頭の悪い心の鈍い者らよ」と言って諭された。
そしてイエス様は、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身について記してある事どもを、説きあかされた。
不思議である。「私がイエスだ」と一言言えば、話は簡単に済むであろうに、そうではなく、聖書の話題へと導いたのだ。なぜ、そんな遠回りな事をされたのだろうか。ここに、私達が学ぶべき姿勢がある。
現代私達が拠りすがるべきは、目で見たり手で触れたりが可能な人間ではなく、御言葉なるイエスなのだ。
私達は、自分の思いの「握りしめ」を手放し、御言葉へと耳と心と思いを向けるべきなのだ。
弟子達は、目的地に近づいたのに、彼はさらに先へ行こうとしていたので、弟子たちは強いて一緒にいるよう押し留めた。なぜなら、このお方の語る聖書の言葉に、心が燃え出していたからである。
それまで彼らの心は、死が、心配が、支配し、主が生きていると言った女達の言う事を、たわごとだと思っていた不信仰な心に、御言葉の種が蒔かれると、死はいのちに、心配は平安へと取って変わって行くのだ。
自分の固定概念を一旦置いて、御言葉に耳を傾ける時、いかなる騒動があっても、心が燃えるのだ。
食事の席に着いた時、主ご自身がパンを裂いた。この場合、招いたホストである弟子達が「パンを裂く」という”もてなし”をするはずなのに、招かれた側の主のほうが、パンを取り、祝福して裂き、手渡して下さった。
その時、彼らはハッとしたに違いない。この経験、かつてあった、と。5千人以上の前で、4千人以上の前で、十字架の前の晩において、パンを取り、祝福して裂き、手渡してくださったのは、イエス様であった。
主は食べ物のパンだけでなく、物質的・金銭的・精神的な必要を満たすパンを取り、祝福して裂き、私達に手渡してくださる。それが私達に渡された時、確かに主がそこにおられた、と気付くのである。
この弟子達は主だと知って、夜で疲れていたにもかかわらず、歩いてきた11.5キロの道を戻って、弟子達に起きた出来事を伝えた。疲れていても夜であっても、主の良きお方である事を伝えずにはおれないのだ。
私達も、日常の内に隠れているイエス様に気付くべきである。彼に御言葉を解き明かされ、豊かに養われるべきである。そして主ご自身からパンを受け取り、主が確かにこの旅路に共におられ、御言葉を示された事を伝えずにはおれなくなる皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福します!
十字架上の七つの言葉 2 (詩篇22:1-18)
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イエス様は十字架上で7つの言葉を語られたが、それらは私達キリスト者にとって、とても大切なものである。
前回はその内の3つを学び、それらによって私達は執り成され、パラダイスへの道が開かれ、主を信じた人は神の家族としてひとつに結び合わされる事が分かった。今回は、残る4つの言葉を詳しく見て行きたい。
イエス様が十字架上で語られた言葉の四つ目は、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」(マタイ27:46)、これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。
彼の呼びかけは「父よ」ではなく「わが神」である事に注目したい。
イエス様は「神の御子」という座からは下りて、私達と同じ「人」となり、人として苦しみ、刑罰を受けられ、神から見捨てられた。本来、全ての人がそれらを受けるべきなのに、主が身代わりとなられたのだ。
キリストは、私達の身代わりに刑罰を受けられ、それに引き換え私達キリスト者は、キリストの身代わりに神の子としての特権が与えられ、キリストの義が付与され、神をアバ父と呼ぶ事の、神の子の特権が与えられたのだ!(2コリント5:21)
イエス様が十字架上で語られた言葉の五つ目は、「わたしは、かわく」(ヨハネ19:28)である。
この言葉が語られたのは、神に対してでも人に対してでもなく、苦しみの極限状態にあった彼自身の口から、おのずと出てきた言葉であり、そしてそれは、「聖書が全うされるため」である。
キリストは十字架上で、それこそ全身全霊が焼きつくされるような苦しみを味わったのだが、人々がそれを聞いた時、ヒソプにつけて差し出したのは、甘いぶどう酒ではなく、変質してしまった、酸いぶどう酒だった。
『彼らはわたしの食物に「毒(ロシュ:ヒソプ)」を入れ、わたしの渇いた時に酢を飲ませました。』(詩篇69:21)
酸いぶどうは、イスラエルを表している。神は甘いぶどうを望んだのに、酸いぶどうがなってしまったため、そのぶどう畑を荒れさせ、踏みつけ、滅びるにまかせられる事を、イザヤは預言した。(イザヤ5:1-7)
キリストは、だめになってしまったイスラエルを受けられ、イスラエルが受けるべき「滅び」を、受けられた時、「すべてが終った(テテレスタイ)」(ヨハネ19:30)と言われた。これが、十字架上の六つ目の言葉である。
この言葉は、イスラエルの祭り・大贖罪日に、大祭司が至聖所に入って、全イスラエルの贖罪を成し遂げ、出てきた時に発する言葉でもあり、完成した、完済した、成就した、満たした、終わった、等の意味がある。
キリストは神と人との間に立つ大祭司であり、父なる神と、人との双方に対し、「成就した」と語られた。
イスラエルだけでなく、全世界の人が受けるべき呪いと罰を受け尽くし、罪の罰金を全額払い、私達を責め立てていた債務証書を無効とし、人も全被造物も、十字架の血によって、神と和解させられたのだ。
そしてイエス様が十字架上で語られた七つ目の言葉は「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」(ルカ23:46)である。こう言って息を引きとられた。全てを成し遂げた後、父なる神に全てを委ね尽くしたのだ。
キリストは、神の御姿であられる方なのに、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人としての性質をもって自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われた。それ故、神は、キリストを高く上げ、全ての名にまさる名をお与えになったのだ。こうしてキリストは、全権威の上に立つお方となられた。
それはイエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものの全てが膝をかがめ、全ての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白し、父なる神がほめたたえられるためである。(ピリピ2:6-11)
私達は、キリストが十字架上で語られた言葉のゆえに、執り成され、パラダイスへの道が開かれ、主にある兄弟姉妹は一つの家族として結び合わされた。そしてキリストは、神に見捨てられ、焼き尽くされるような苦しみを受けられ、そうして全てを成就した後、霊さえも父なる神に委ね尽くし、息を引き取られた。
このキリストを信じ、主とする者には、十字架上で成就された、全ての良き恩恵を受ける事が出来る。
このようにして成された、キリストの尊い十字架上での贖いを、私達は、ないがしろにしてはならない。
その尊い贖いによって、罪赦され、永遠の命が与えられ、神の子、聖なる国民とされた事を喜び感謝しつつ、この地上での歩みを全うしていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
十字架上の七つの言葉 1 (イザヤ53:10-12)
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本日はイースター、イエス様の復活を記念する日である。
イエス様は十字架の苦しみと死を経られ、復活された。イエス様が通られた一連の十字架の経験と、十字架上で為して下さった業は、私達キリスト者には最も大切な事である。なぜなら、彼が十字架上でなされたその一つ一つの故に、私達は執り成され、全ての贖いが成され、パラダイスへの道が開かれたからである。
イエス様が十字架上で発された言葉は、7つあり、それらは、御父に、私達に、そして、全被造物のために語られた。それら7つの言葉を、今回と次回とで見て行きたい。
まず一つ目の言葉は、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23:34)である。これはイエス様が二人の犯罪人と共に十字架につけられた時に語られた。
この言葉は、他の誰にでもない、父なる神へ語った言葉であり、父の大切な、尊いひとり子を、このようにあざけり、罵り、十字架につけた事を、子自身がなだめた言葉である。
もし皆さんが父親で、愛する独り子が、邪悪な者達にあざけられ、罵られ、十字架に釘付けにされたなら、一体どうするだろうか。すぐに飛んでいってその者達を打ち倒し、子を救い出すのではなかろうか。
しかしイエス様は、父をなだめた。彼らをお赦し下さい、何をしているのか自分で分かっていないから、と。
全人類は、自分が何をしているのか分かっていない。神に対して、御子に対して、どんなに無礼を働き、自分自身に災いを積み重ねているか。しかしイエス様は十字架上で、全ての人のため執り成して下さった。
この時、彼を十字架につけているユダヤ人も、ローマ兵も、一緒になってイエス様を罵っている強盗も、そして、後に生まれてくる世界の人々、すなわち、私達も含め、全ての人がこの時、執り成されたのである。
確かにこの時、全人類は執り成されたのだが、それで全ての人が自動的にパラダイスに入れる訳ではない。
パラダイスに入れるのは、自分の罪を悔い改めて、イエス様を主とした人である。
イエス様が十字架上で語られた言葉の二つ目は、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」(ルカ23:43)である。
これは、イエス様と共に十字架につけられている強盗に語られた言葉だ。死刑執行中の重罪人である。
パラダイスという、彼のような罪人は到底入る望みの無い、いや、入ってはならない所に、入る権利が与えられる事の宣言だ。なぜそのような大逆転が彼に与えられたのか。それは悔い改めと信仰告白の故である。
彼は、自分が今受けている苦しみは、自分の罪の当然の報いで、イエス様は罪なきお方だと告白した。
そしてイエス様は、彼と同じく、死刑の真っ最中で、あと数時間で死ぬはずなのに、その先の話をしている。
なんと、十字架刑という最高の苦しみと恥辱の死の向こう側で、イエス様は栄光の御国の座に着くというのだ。つまり彼は、イエス様は、生死を越えた王であると認め、告白したのだ。
そして、「私の事を思い出してください」と言ってイエス様に個人的に関わって欲しい事を申し出た。
これが、イエス様と共にパラダイスに入れる人の特徴である。
十字架上の言葉の 三つ目は、イエスの母マリヤと、愛する弟子のヨハネへ語られた言葉、「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です。」「ごらんなさい。これはあなたの母です。」である。
イエス様は、血の繋がった母マリヤに対して「婦人よ」と声をかけている。まるで血のつながった母ではないかのように。そして、これまた血の繋がっていないヨハネに、マリヤを「あなたの母です」と定めている。
キリストの血は、血の繋がっていない聖徒同士を、主にある兄弟姉妹を、血の繋がり以上の繋がりとするものであり、隔ての壁を打ち壊す。そのようにして、キリストの血によって結ばれた者たちは、もはや異国人でも旅人でもなく、天の国籍の者であり、聖徒であり、神の家族である。(エペソ2:11-20)
『このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。』(エペソ2:21-22)
イエス様は十字架上で、このように産みの苦しみをされ、そして私達は赦され、癒され、聖徒とされ、神の家族、聖なる国民とされたのだ。私達は決して、イエス様の十字架上での苦しみを軽んじてはならない。
アダム系図に隠されていた福音(創世記5章)
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本日は教会暦では「しゅろの聖日(パームサンデー)」、すなわち、イエス様がろばに乗ってエルサレムに入城し、人々が自分の衣服や「しゅろの葉」を置いて「ホサナ」と叫びつつ歓迎した日である。
そして、次週主日のイースター(復活祭)までの1週間を、「受難週(Passion Week)」 としている。
イエス様はなぜ苦難を受けられ、十字架で死なれ、そして、復活されたのか。それは、愛の故である。
神は人(ヘブル語:アダム)を、神の似姿として、そして、愛し愛される事の”相手”として、創造された。
神の人に対する愛は、独り子を捧げる程であり、御子キリストの愛の深さは、自らの命を投げ出す程である。
神は、全被造物を、神と人とが共に住み、愛の関係を結びつつ暮らして行く”住み家”として創造された。
創造の当初、全て創られたものは、あらゆる良きもので満ち満ちており、呪われるべきものは何一つ無かったが、人は神のいましめをないがしろにし、善悪を知る木から取って食べ、愛なる神のその愛を捨て、神から独立し、自分で善悪判断しながら、好き勝手に生きるようになってしまった。
それで人は、罪と死という、致命的な運命を背負って生きるようになり、悲惨に満ちた人生となってしまった。
神はそんな人類を救おうとご計画されるのだが、実は、その全容が創世記5章の系図に隠されているのだ。
ヘブル語の人名には、それぞれ意味があるのだが、この創世記5章のアダム系図の名前を、順番に列挙して行くと、面白い事に、一つの意味が浮かび上がって来る。
アダムは「人、土」という意味であり、セツは「約束の、授けられた、定着した」という意味、エノシュは「脆い、致命的、悲惨」、ケナンは「悲しみ、哀歌」、マハラルエルは「祝福の神」という意味である。
エレデは「降りてくる」、エノクは「教える、始まる、ささげる」、メトシェラは「彼が死ぬ時、何かが起きる」、レメクは「嘆き、悲しみ」、ノアは「慰め、新しい希望」という意味である。
以上、これらの名前の意味をつなげると、次のようになる。
「人は、約束された(授けられた)。脆さ、致命的な悲惨が。祝福の神は、降りて来て、教え、捧げた。
彼が死ぬ時、何かが起きる。嘆き悲しみは、慰められ、新しい希望となる。」
この浮かび上がった意味は、まさしく、イエス・キリストによる人類の救いを表しているではないか。
祝福の神の御子、キリストは、人に定められてしまった罪と死の悲惨から救い出すため、神であられる身分に固執する事をせず、人の世に降りて来られ、赤ちゃんとなって、人の間に宿られた。小さなその手に、全ての人の罪と穢れを握り締め、彼らの身代わりとなるために、十字架に向かって歩み出された。
彼が30歳になった時、福音を教え始められ、そして時至った時、自ら十字架につけられるために、ろばに乗って、エルサレムに入られた。本日は、それを記念する日である。
人々はしゅろの枝を手に持ち、諸手を挙げて彼を歓迎したが、一体誰が想像しただろうか。週の終わりにその歓声は「十字架につけろ」という罵倒に逆転し、人々はこぞって彼を十字架につける側に回る事を。
彼は蔑まれ、ののしられ、十字架の上へと渡された。彼は血を流し、自らを捧げ、死なれた。
しかし彼が死んだ時、何かが起こった。それは全人類にとって、とてつもなく素晴らしい”何か”である。
すなわち私達は、私達の身代わりとなって懲らしめを受けられた彼にあって、罪は取り除かれ、癒され、呪いは祝福へと変えられ、悲惨だった人生は慰められ、死と呪いに満ちた私達の人生に、新しい希望の光が灯ったのだ。(イザヤ53:5)
キリストは、全世界の王の王、主の主であられるのに、人々はそれを拒否した。しかし、この御方を受け入れた人は、神の子となる特権が与えられる。(ヨハネ1:9-14) この素晴らしい救いは、アダムの時代、人が堕落した時点から、神はそのご計画を定めておられ、系図に記され、時が及んで、それを成就されたのだ。
「ほむべきかな、私達の主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊の諸々の祝福をもって、わたしたちを祝福し、御前にきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあって私達を選び、私達にイエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。」(エペソ1:3-5)
エノク – 邪悪な世で死を免れた預言者(創世記5:19-24)
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カインの子孫は、城を建てて集結し、文明を発達させ、やられたら何倍にもして仕返しする性質によって勢力を伸ばして行った。そのような者達が増え栄えて行くと、地は堕落し、暴虐に満ちて行ってしまう。
そんな彼らを、神はすぐに裁く事はせず、神に従う子孫、すなわち、主の御名を呼び求め祈る子孫達を備え、彼らを通して全世界の人々に御言葉を伝え、平和の内に、人々を神に立ち返らせようとした。
主のその方法は、昔も今も全く同じである。主は、裁きよりも憐れみを、滅びよりも救いを望まれるからだ。
今回はそのように、主の預言者として用いられ、愛され、死を見なかった人・エノクについて見て行きたい。
エノクが他の人達と違う所は、「エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった」点である。エノクは、信仰によって、神に喜ばれていた。(ヘブル11:5)『信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。』(同6節)
エノクのように、裁きの日の前に、神に取られ、天に引き上げられ、死を見る事が無い人は、確かにいる。
イエス・キリストを信じる人は、決して滅びる事がなく、永遠のいのちを持つ。(ヨハネ6:50、11:26)
エノクは、その型である。すなわち、信仰によって永遠のいのちへと移される人の型なのだ。
彼のもう一つの性質は”預言者”であり、不信心な世代に対し警鐘を鳴らした。『アダムから七代目のエノクも、”彼ら”について預言してこう言っています。「見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。すべての者にさばきを行ない、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためである。」』(ユダ14,15節)
エノクは、当時のカイン系列の不信心な”彼ら”に、そのように預言した。その”彼ら”とは、どういう性質か。
『彼らはぶつぶつ言う者、不平を鳴らす者で、自分の欲望のままに歩んでいます。その口は大きなことを言い、利益のためにへつらって人をほめるのです。』(同16節)
私達も、ぶつぶつ言う者、不平を鳴らす者、自分の欲望のままに歩む者、大きなことを言う者、利益のためにへつらって人をほめる者には、御言葉を宣言して戒めるのだ。それ以上の事は、するべきではない。
カインの子孫のような者達を見る時、怒ったり、思い煩ったり、悩んだり、苦しんだりしがちだが、そのようにして、心と思いを汚してはならない。
聖なる御言葉を宣言し、跡の裁きは、主に委ね、自分はただ、聖なる御言葉に心と思いを向けるべきだ。
ユダ書に共通して示されている事は、裁きは主がなさる事、その主に委ねよ、自分で何かを行うな、である。
主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日の裁きのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められた。(6節) また、ソドムとゴモラのように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めた者達を、永遠の火の刑罰を受けさせ、みせしめにした。(7節)
また、御使いのかしらミカエルは、悪魔と論じ言い争った時、相手を罵り裁くような事はせず、「主があなたを戒めてくださるように」とだけ言って、後の裁きは主に委ねた。ミカエルは悪魔より強いにもかかわらず、主の裁きの時でないなら、自分の力を行使しなかった。そして、エノクも、「主は裁かれる」と言った。
私達聖徒が身につけるべきたしなみは、ユダ書17節以降に記されている。
私達は、主に愛された者として、いつも御言葉を思い出すべきである。
今の終わりの時、不自然な欲望のままに振舞う”あざける者”が現われる。彼らは御霊を持たず、分裂を起こす”肉の人”であるが、私達は、聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、神の愛のうちに自分自身を保ち、主イエス・キリストのあわれみを待ち望むべきである。(17-21節)
疑いを抱く「人々」は、あわれむべきであって、憎むべきではない。彼らを火の中から掴み出して救い、それでいて、肉によって汚された「行い」は、徹底して忌み嫌うのだ。(22-23節)
この邪悪な時代にあって、カインのような者には、御言葉をただ宣言し、そして自身は、聖なる御言葉に浸され、清められ、愛の内に命を養われる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
レメクとセツ - 神抜きで生きる子孫と、主を呼ぶ子孫(創世記4:19-24)
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神は、カインが犯した殺人と傲慢の罪に対し、彼が示した、僅かばかりの悔いる心に、憐れみで応え、誰もカインを撃つことのないようにと、しるしを与えて下さった。
彼は、その後、主の前から(KJV:主の臨在から)去って、町(城)を建てて住み、その町の名は、自分の子の名にちなんだ名をつけ、そうして子孫を産んで行った。
カインの来孫(らいそん)にあたるレメクは、二人の妻をめとり、家畜を飼う者の先祖・ヤバル、笛と竪琴を巧みに奏する者の先祖・ユバル、青銅と鉄のあらゆる用具の鍛治屋の先祖・トバル・カインとを産んだ。
地が呪われ、農耕ができなくなってしまったカインは、城を建て、結束し、その子孫たちは畜産や芸術、技術などの文明を発達させた。神に頼るのではなく、人々を結束させ、その力に頼って生きるようになった。
しかしそれは、アダムの以来の「いちじくの葉」の進化形に過ぎず、自分の裸を覆うための取り繕いに過ぎない。このいちじくの葉は、代を降るごとに発展し、鎧となり、城壁となり、兵器となって行く。
神抜きの必要の満たし、神抜きの娯楽や慰め、神から離れたテクノロジーの発達は、代を降って行くごとに暴虐さ邪悪さが増し加わって行くのだ。
カインの子孫は、代を重ねるごとに、どのような価値観を培ってきたのか。レメクの言葉から見る事が出来る。
『レメクはその妻たちに言った、「アダとチラよ、わたしの声を聞け、レメクの妻たちよ、わたしの言葉に耳を傾けよ。わたしは受ける傷のために、人を殺し、受ける打ち傷のために、わたしは若者を殺す。カインのための復讐が七倍ならば、レメクのための復讐は七十七倍。」』(創世記4:23-24)
カインを殺す者には七倍の復讐、だったのに、レメクの代では、それが七十七倍に増加している。
少しでも傷を受けたなら、相手を殺す。しかも、その事を妻たちに誇らしげに自慢している。
集結し、城を建ててそこに住み、文明を発達させ、やられたら倍返しする。まるでマフィア同じ性質だ。
神はなぜカインを生かし、カインを殺す者には7倍の復讐を受けるようにされたのか。それは、神の彼に対する憐れみであって、決して倍返しの爽快感を彼に味わわせるためではないし、誇らせるためではない。
それなのに彼は、神様が与えて下さった憐れみを、悪用し、自分のため、人を脅すために用いた。
このように、やられたら何倍にもして返す生き方、共に結束し、力を合わせて文明を発達させる生き方を続けて行くと、やがて地は堕落し、暴虐に満ちて行き、神が心痛めるまでになるのである。(6章)
カインのような者は、すぐにでも滅ぼせば良かったのに、と人は思うかもしれない。しかし、もし神がそのようなお方だったとしたら、人は誰も残っていなかっただろう。
神は、忍耐と赦しに富みたもうお方だからこそ、私達は救われたのだ。
神は、主を呼び求める子孫、すなわち、神と共に歩む子孫をも、備えて下さる。(創世記4:25-26)
カインとは別の、アダムとエバの子「セツ(約束された、倍賞)」の子孫は、主の御名を呼ぶ事をはじめた。
エバに約束された、サタンの頭を踏み砕く「女の子孫」は、彼の系列から生まれる。
世の中がいかに不信仰に満ちようとも、主は、残された民を備えておられるのだ。
私達はカインとセツのうち、属するとしたらどちらに所属して生きたいだろうか?
キリスト者なら「セツ」と答えるのが模範的だろうが、本当にそうだろうか。別の観点から質問しよう。
城を建て、その中で結束して住み、肉を食べ、スタイリッシュな音楽を聞き、発達したテクノロジーの恩恵に与り、力と知恵を集結して文化を発展させ、やられたら7倍返しができる。けれども、神様からは離れた価値観で生きている集団と、そのような神を知らぬ集団からは離れ、主の御名を呼び、主と共に歩む集団。
一体どちらに所属して生きたいだろうか?クリスチャンの中には、「セツの道を選びます」と口先で言いながら、実はカインの道に憧れて、そちらの集団で生きている者は、意外と多いのではないだろうか。
カインの子孫は、やがて水で滅ぼし尽くされ、カインの子孫と結合した神の子達も、同じ運命をたどる。
それは現代を生きる私達も、同じである。
私たちは、主に呼び出された者達、エクレシア(教会)である。私達は主キリストから呼び出されているからには、主の御名を呼ぶ事をやめてはならない。
カイン2 - 呪いと拒絶と放浪の原因(創世記4:6-15)
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主への捧げ物が受け入れられなかったカインは、怒り、主に対し顔を伏せるという傲慢な態度を取ったが、主は彼を早速罰するのでなく、彼を恋い慕う罪から助け出そうと、彼に「罪を治めよ」と助言した。
罪を治めるとは、前回学んだ通り、神に逆らって立つ全ての思いを捕縛してキリストに服従させる事である。
しかしカインは、主のアドバイスどおりにせず、罪を治める努力をせずに、逆に、怒りに身を委ねた。
『カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。』(創世記4:8) こうして人類初の殺人は、女から生まれた最初の人によって行われた。
アベルは、カインの手によって血が流れ、カインの目の前で倒れ、カインの目の前で息が絶えた。
アベルはもう二度と、その目がカインを見る事はなくなり、その口でカインに語りかける事も、なくなった。
全能なる主は、どれ程心を痛めていただろう。それでも主は、再度、カインのほうに歩み寄った。
『弟アベルは、どこにいますか。』(創世記4:9a) この主からの問いかけに、自分は一体アベルに何をしてしまったのか、アベルは今どうなって、一体どこに行ってしまったのか、そこに思いを馳せるのではなく、さらに傲慢無礼になって、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか。」(創世記4:9b) と、主に答えた。
怒り。それは、兄弟姉妹への愛と憐れみを忘れさせ、主から伸べられた救いを忘れさせ、主への恐れと、地獄の刑罰に対する恐れをも、忘れさせる。主は、人の怒りにひるむお方ではないし、「ああそうですか、それじゃ他を当たります」などと退くような方ではない。主は、侮られるような方ではない。
自分の為した結果と、神の前で告白した言葉の報いは、きっちりと、受けるのである。
自ら手を下して動かなくなってしまった兄弟姉妹を見ても、何とも思わない者、自分が一体兄弟姉妹に何を言ったか、何をしてしまったかに、心を配らない者、全能者を前に、恐れる心もなく、うそをつき、楯突くような者は、仕事が呪われ、人々からも忌み嫌われ、どこにも居場所が無くなり、さすらい人となるのだ。
『主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」。 』(創世記4:10-12)
不当に流された血は、その地を汚す。カインは土を耕す者だったが、その土地はカインにとって呪われたものとなり、もはや彼が耕しても、地は彼に敵対して、産物を出さない。
不当に傷つけて流された血は、主に向かって叫ぶ。経済的に流された血も主に叫び(ヤコブ5:4-5)、貧しい人の心が流した血の叫びを、主は忘れる事は無い。(詩篇9:12)
その叫びによって、血を流した者の手のわざは呪われる。そして流されてきた義人たちの血は、アベルの時から積み重なっており、終わりの日に、血を流した者たちの上に返ってくるのである。(マタイ23:35)
自分の罪や恥ずべき事を「指摘」された時、嫌がったり、話題を逸そうとしたり、あるいは指摘している人を逆に訴える者がいるが、そのような人は、いつまでも呪われた生き方から脱却出来ない。
自分の罪と向き合う事をしないから、罪は相変わらず手付かずのまま残ったままで、その罪が、神との隔ての壁となり、祝福の窓はふさがったままだからだ。
カインもアダムも、神様から罪を指摘された時、それを認めるのではなく、逆に訴え、それで呪いが確定してしまったように、罪を認めず、神や人を逆に訴える者の受ける分は、呪いと人々からの拒絶と放浪である。
『カインは主に言った。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。』(4:13) この言葉には少しだけ、神様に憐みを求める意図が見えるが、続く言葉は、これから待ち受けいる呪いへの悲嘆とつぶやきに満ちている。
それでも神は、そんな彼のわずかばかりの憐れみを求める願いにこたえて下さり、出会う者がだれも彼を撃つことのないようにと、カインにしるしを付けて下さった。神は幾度、カインに憐れみで歩み寄っただろう!
カインは神の憐れみにへりくだり、悔い改めるべきだったが、そうではなかった。次回に詳しく見ていきたい。
神に逆らって立つ全ての思いを捕縛してキリストに服従させ、罪を逆に支配する皆さんでありますように!
