メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ
エバ – 女 - の成り立ち (創世記2:18-25)
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「また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう。」
主が創られたものは、全て良かったが、一つの事を「良くない」と言われた。それは、人が一人でいる事だ。
そこで主は、彼のために「ふさわしい」「助け手」、すなわち、女を造る事にされた。
「ふさわしい(ネゲド)」という言葉は、向き合う者、ペアの一方、対応する同等のものを意味する。
また、旧約聖書で「助け手(エゼル)」という言葉は、そのほとんどの場合、人を助けて下さる神をあらわす言葉で、その「助け」が無ければどうしようもないような、重要な存在である。
つまり女は、男の重要な助け手(エゼル)として造られた。通常、エゼルの言葉が使われる多くの場合、エゼル(助け手)の側が上位であるが、男と女は互いに同等の命であり、互いは助け合い、不足を補いあうものである。『主にあっては、男なしには女はないし、女なしには男はない。それは、女が男から出たように、男もまた女から生れたからである。そして、すべてのものは神から出たのである。』(1コリント11:11-12)
『人にはふさわしい助け手が見つからなかった。そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。』(創世記2:20-22)
未婚の男女が、ふさわしい助け手を得る条件、それは、深い眠り、すなわち、死を通る必要がある。
結婚は人生の墓場だと良く言われるが、それはある意味正しい。独身時代は自分の思うがままに生き、あらゆる異性が、結婚相手になるかもしれない可能性があったが、結婚してからは、そうはいかない。
自分に対して死に、伴侶のために、そして新しく生まれるいのちのために生きるのでなければ、結婚生活は成り立たないが、自分に死ぬのであれば、結婚生活において、すぐれた命の喜びを見出す事になる。
そういうわけで、結婚のための第一条件は「自分に対して死ぬ」事である。
キリストもいのちを投げ出した事によって、助け主・聖霊が、私達に与えられるようになった。(ヨハネ16:7)
『そのとき、人は言った。「これこそ、ついに(今や、今度こそ)わたしの骨の骨、/わたしの肉の肉。男から取ったものだから、/これを女と名づけよう」。』(創世記2:23) 「これこそ、ついに(今や、今度こそ)」という言葉に、アダムが待ちに待っていたものが与えられ、大喜びしている様を見て取れる。
聖書に記録される人間の言葉は、骨の骨、肉の肉が現れた事を喜ぶ言葉である。
アダムは、動物たちに名前をつけて行く際、雄と雌のつがいが、産んで増えて行く様を見て、自分もパートナーを持ちたいと思っていた事だろう。そんな彼が、深く眠らされ、自分のあばら骨を元に、同じいのちを共有する「女」が造られ、彼が目覚めた時、その女が、彼の前に立ったのだ。
神は、アダムも含め全生物を全て、土のちりから創られたが、唯一例外がある。それは、女である。
女は、男の脇腹の骨を元に、同じ骨、同じ肉、同じいのちとして造られた。それで女は、男の脇腹の所が本来の居るべき場所であり、男も、女を同じいのちを共有するものとして尊敬すべきである。(1ペテロ3:7)
『それで人はその父と母を離れて、妻と「結び合い(くっついて離れない)」、一体(一つ肉)となるのである。』(創2:34) これは、男と女の結婚の事にとどまらない。夫と妻との関係は、キリストと教会の関係のひな形であり、パウロは、この奥義は偉大である、と言っている。(エペソ5:32)
そして結婚のための第二条件は、父母の庇護から離れて、一人立ちしている事である。(エペソ5:31-32)
男も女も、親の庇護から離れなくては、伴侶を苛立たせてしまうように、私達も、キリストの庇護に入ったからには、世という親元からは離れていなければならない。
キリストは第二のアダムであり(1コリント15:45)、教会はキリストの花嫁、第二のエバである。
キリストは、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるために、いのちを投げ出され、激しい苦しみによって生み出された教会を見て満足された(イザヤ53:11)。そして、花婿が花嫁を喜ぶように、主は教会である私達を喜ばれるのだ。(イザヤ62:5)
皆さんは、こんなにも愛して下さったキリストに、ふさわしい助け手として、苦しみと喜びを共に受ける生き方をしているだろうか。主人であるイエス様の言うとおりにして、彼に養われる事を望んでいるだろうか。
アダム - 人 - の成り立ち (創世記2:7-9)
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「人」はヘブル語で「アダム」と発音し、人類最初の人の個人名も、そして、人類自体を言う時も、同じアダムという言葉で表す。この、アダムの成り立ちを見る時、人類全体の成り立ちをも、知る事が出来る。
『主なる神は「土(アダマ)」のちりで人を形造り、「命(カイ)」の「息(ネシャマ:霊、風)」をその鼻に吹きいれられた。そこで「人(アダム)」は「生きた(カイ)」「者(ネフェシュ:たましい)」となった。』(創世記2:7)
つまり、人間の元々の成り立ちは、陶器師の手で形作られた器のように、土を素材として神の御手によって形作られた「体」と、神の息を素材とし吹きこまれた「霊」と、神の息が吹き込まれた結果生成した「たましい」の、3要素から成っている事が分かる。体と霊と魂、それが、人間の構成要素である。
それ故、人類は、土を元に体を形作って下さった神から、そして、いのちの息を吹き込んで下さった、霊の大元であられる神から離れて生きる存在ではない。現在、神を知らない人たちが神から離れて歩んでいる有り様は、あたかも、人格の死んだゾンビが、目的もなく、ただ欲求の赴くままに破壊活動したり、互いを喰い合ったりしているようなものである。(何故そうなってしまったのかは後述)
神に由来するものは「いのち(カイ:命、生の、新鮮な、力強い)」である。土のちりを由来とする「人」に、神由来のいのちの息が吹き込まれると、それは、活発で、新鮮な、いのちの活動をするようになるのだ。
『主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に「命(カイ)」の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。・・・主なる神は人(アダム)を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。』(創世記2:9,15)
主なる神は、人が働き生活するべき領域である「園」に、アダムを置き、彼にそこを耕し、守り、管理させたのと同様に、私達も、主が置いて下さった場を、正しく守り、管理するように定められている。
そして、主が置いて下さった私達の働きの場、私達の生活ステージの中央には、2種類の木がある。
すなわち、神が由来である「命の木」と、神から離れ自立して生きる「善悪を知る木」の二つが。
人類なら誰しも必ず通らざるを得ない「二者択一」がある。すなわち、いのちの木を取るか、それとも善悪の知識の木を取るか。それは、人類創造以降、全ての人が避けて通れない究極の二択である。
究極の二択というと、「善か悪か」と思われやすいが、そうではない。聖書が提示する究極の二択とは、神由来のいのちにあって生きるか、それとも、神から独立し自分で善悪判断して生きるかだ。
神である主は、人(アダム)に、一つのルールを授けられた。
「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう。」(創世記2:16-17)
神は、善悪の知識の木から食べる事を、禁じられた。それを食べるその時、必ず死ぬためだ。
結果的にアダムはそれを食べたが、その瞬間に心臓が止まって死んだわけではなく、相変わらず生き続けていた。では、神はウソの脅しをしていたのか?そうではない。人はその時、確かに、死んだのだ。
何が死んだのか?それは、神のいのちの息である「霊」が、である。
神を認知し神と交わりをする器官である「霊」が死んだ人間は、神を離れ、ちりである「体」と、霊が吹き込まれた時の名残である「魂」とをやりくりし、自分で善悪判断をしながら生きていかなくてはならなくなった。
それ故、人は、ゾンビのごとく、目的もなくただ欲求の赴くまま破壊したり、喰い合ったりしているのである。
以上のように、人(アダム)の組成は、元々土のちりであるが、人は元々、この土の器に計り知れない宝を、すなわち、神の息であるいのちの霊を入れる存在として、創られていたのである。
そして、人の生活ステージには、二つの選択肢が置かれている。いのちを選ぶか、善悪判断を選ぶか。
善悪の木にしがみつき、ぶら下がって生きる生き方は、呪い以外の何物でもなく、やがてちりに帰るのみである。しかし、自分で善悪判断する事を捨て去り、いのちなる神に従って生きる時、この土の器の中に、全能なる神由来の、新鮮で力強い、永遠のいのちのともしびが灯るのである。
新鮮な、力強い、いのちの木。それは、イエス・キリストの十字架以外の何物であろうか。私達は最初のアダムとしての生き方は十字架につけ、第二のアダムであるキリストにあって生きるのである。(1コリ15:45)
人間の存在する理由と目的(創世記1:26-31)
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昨年は、イエスキリストの系図に登場する女性たちに的を絞り、どのような性質の持ち主が栄光の家系に入ったのか学んだが、今回から、男性・女性に関わらず、また、栄光の家系に入った・入れなかったに関わらず、聖書の登場人物を観察し、どういう性質の持ち主が、神の民となれるのか、なれないのか、あるいは、神の民であっても、どういう性質であるなら追い出されてしまうのかを、学んで行きたい。
この学びを始める前に、そもそも、神は何のために人間を創られたのか、人間を本来、どのような存在として創られたのか、人が歩むべき本質とは何かをまず知る必要がある。
そうするなら、聖書のあの人物はどういう性質なのか、というのを容易に理解出来るようになり、また、私達が今、人生において、正しい歩みをしているかどうかも、分かるようになるからだ。
まず、人は何のために創造されたのか。それを一言で言うなら、御子キリストのためである。
『万物は、天にあるものも地にあるものも見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。』(コロサイ1:16-17)
そして私達は、万物の創造される前から、既に、キリストにあって選ばれており、父なる神は、天にあるすべての霊的祝福をもって私達を祝福され、御前で聖く、傷のない者にしようとされ、イエス・キリストによって私たちをご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのだ。(エペソ1:3-5)
だから人間は、神抜きに、キリスト抜きに歩むなら、本質を外した、あさっての、とんちんかんな歩みである。
聖書が言う「罪」の元々の意味は、「的外れ」であり、この、本質という「的」を射た歩みをするか、的を外した歩みをするかによって、その人の人生は祝福か呪いか、生か死かの、真逆の実を刈り取る事になる。
神は人を、どのような存在として創られたのか。
『神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。』(創世記1:26-27)
神は元々、人を聖なる神のかたちに、似姿として創られた。だから人は聖なる歩みをすべきであり、神もまた、人に聖である事を求めておられる。(レビ記19:2)
そして、神が創造した全被造物を管理し、全生物を支配するようにと、人は創られている。
果たして人間ごときが全てを支配して良いものだろうか?という疑問が沸くかもしれない。それは、人に罪がある故であるが、神が人類を創造された当初、人は罪を知らなかった。
逆に言えば、人は罪の問題を取り扱わなければ、何事も正しく支配する事は出来ない。
神はまた、人を男と女とに創造された。男と女との関係、それはキリストと教会との関係のひな形である。
男性は、妻や子のために必要なものをもたらして養い、女性は、いのちを生み、夫が与えてくれたものを用いて、家や子供たちの面倒をみて来た。最近はどうあれ、古来より男女はそのような役割分担をして来た。
キリストと人との関係も、同じである。キリストは、私達に必要な良きものをもたらして来る主人であり、そして私達はキリストの妻として、全被造物という家全体を管理し、キリストのいのちを産んで増やし、そのいのち達や、全ての生き物を、妻が家全体のめんどうを見るように、正しく治めるのである。
そういうわけで、私達には「主人」とすべきキリストがおり、父なる神様は私達を、キリストの「妻」としての目的をもって創造された。故に私達には、キリストのいのち産んで増やし地に満ちていく役割と、また、 キリストと共に住むスイートホームであるこの世において、全被造物を、全生物を正しく治め、いのちを養い、管理する責任がある。人は、キリストを差し置いて好き勝手する存在ではないのだ。
全生物が、まだ罪なき人間によって治められ、人が完全にその目的に従って歩んでいた頃、神がそれを見られると、「はなはだ良かった」と評価された。(創世記1:31)
人が創られた目的に従って歩むなら、それは「はなはだ良い」状態であり、充実し、幸い多き人生を送れるが、神から離れ、自分の身勝手な善悪判断によって生きるなら、それは本質を外した歩みである。
鳩の性質とカラスの性質(創世記8:1-12)
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今日は、年が改まってから最初の主日礼拝である。当教会では、昨年の終わりの時間は、古き年の罪を洗い流すために悔い改めの祈りで過ごし、新年が開けたと同時に礼拝で始め、心も思いも霊も一新した。
この世界もかつて、古く罪深い世界を水で洗い流され、新しく改まった事があった。それはノアの時代である。ノアは主に命じられて箱舟を造り、洪水が来た時、雄と雌の一つがいの動物たちと共に箱舟の中で過ごし、古き時代から、新しい時代へと、いのちを繋いだ。
その動物たちの中で、ノアよりも、誰よりも早く、新天新地で住まいを得た動物は、鳩である。
今回は、誰よりも先んじて、新天新地の住まいを得る幸いにあずかった鳩の性質と、それとは反対のカラスの性質について、見て行きたい。
『神はノアと、箱舟の中にいたすべての生き物と、すべての家畜とを心にとめられた。神が風を地の上に吹かせられたので、水は退いた。』(創世記8:1) その時、全地は、見渡すばかりの、水、水、水で、その膨大なさばきと死の水の中、ただ箱舟だけが、ぽつんと浮かんでいた。主は、その箱舟にこそ心に留められ、その中にいるわずかな生き物たちのために、地に「風(ルアッハ:息吹、主の霊)」を吹き巡らせ、徐々に水は引いてゆき、山々の頂もあらわれ始めた。
『四十日たって、ノアはその造った箱舟の窓を開いて、からすを放ったところ、からすは地の上から水がかわききるまで、あちらこちらへ飛びまわった(原文:行った、行った、戻った)。』(創世記8:6-7)
カラスは賢い鳥であるが、ノアや箱舟の生き物に対し何の益ももたらさなかった。
主人であるノアの手の中に戻らず、ノアが望んだように遠くへ行って何か情報を持ち帰るでもなく、ただ気ままに、箱舟の周辺を行ったり戻ったりを繰り返すだけで、そんな身勝手を、水が引く時までやっていた。
キリスト者の中にも、このカラスのように、何か問題が解決されたら、気ままに教会と世を行ったり来たりを繰り返し、主イエスの御腕の中に戻らず、教会にも主イエスにも、何の益をもたらさないような人がいる。
カラスは何の役にも断たないので、ノアは次に鳩を放った。鳩は、小さな羽を羽ばたかせ、力の限り飛んで行き、ノアの意を汲んで陸地を探したが、飛べども飛べども水ばかりだった。この第一回目の飛行では何も収穫は無く、鳩は箱舟のノアの手の中に帰って来て、箱舟の中で、次の働きに備えて休んだ。
鳩の二回目の働きの時、とても小さなおみやげを、くちばしにくわえて戻ってきた。その小さなおみやげは、ノアと、箱舟の中の生き物達とに、希望をもたらした。『はとは夕方になって彼のもとに帰ってきた。見ると、そのくちばしには、オリブの若葉があった。ノアは地から水がひいたのを知った。』(創世記8:11 )
そして三回目に放った所、鳩は戻って来なかった。一新して改まった世界で、最初に住処を得たのである。
後に、カラスは汚れた動物として扱われ、鳩は、貧しい人が主に捧げるいけにえとなり(レビ記1,5,12章)、かわいらしく愛される象徴となり(雅歌1,2,4章)、イエス様が生まれて八日目に割礼を施された時にも捧げられ、そして、イエス様が水のバプテスマを受け、水から上がられた時、聖霊が鳩のように降った。
鳩は、カラスより力も知恵も無いが、カラスよりも有用な働きをした。
カラスは鳩よりも力強く飛べるのにそれをせず、手近な所を行き来して、身勝手に屍肉をついばんだり、その汚れを箱舟に持ち込んだりしたが、鳩はカラスよりも遠くへ行き、希望の良き知らせを口にして、ノアの手の中に戻り、箱舟の中で休みを得て、そしてカラスに先んじて、新天新地に住まいを得た。
鳩の性質、それは素直(マタイ10:16)である。主は、カラスの知恵や力より、鳩の素直さを喜ばれる。
従わないことは偶像礼拝の罪であり、御言葉に素直に聞き従う人は、雅歌書の女のように主から愛される。
そして、鳩のように柔和な性質こそ、地を相続する性質である。(マタイ5:5)
ノアや動物たちが、やがて箱舟から去り、新天新地に行って住まいを設けたように、私達もやがて、この地上を去り、永遠の住まいへと入植する時が来る。
この地上にとどまっている間、鳩のように素直に主イエス様の用を果たし、働きから戻ってきた時には、主の御手の中へと飛び込んで行き、次なる働きの時まで、教会の中で養いを受け、新天新地においては、真っ先に住まいを得、主に捧げられる者とされ、主イエス様の元に留まる皆さんでありますように!
主は私達の羊飼い(詩篇23篇)
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いよいよ今年最後の礼拝である。今までを振り返るに、まことに主が羊飼いとなって導いて下さった。
「主は私の羊飼い。私は、乏しいこと(欠乏)がありません。」(詩篇23:1 )
羊は弱く愚かな動物で、もし羊飼いたる人がいなかったら、とうの昔に絶滅していただろうと言われている。
同じようにこの教会も、主イエス・キリストを羊飼いとしていなかったなら、とうの昔に滅んでいただろう。
ダビデ王も、主が、自分の羊飼いである事を告白した。
彼自身、元々羊飼いだった。羊を緑の牧場や水のほとりへ導いた事もあるし、羊を守るためライオンや熊と戦った事もある。それで彼は、羊の弱く愚かな性質を、守り養わなければならない事を、よく知っている。
彼は、自分は弱く愚かな羊のような存在である事を認め、そして、主を羊飼いとした。その結果、彼はこの詩を詠んだ日に至るまで一切の欠乏は無かったし、これからも決して無い、と、告白している。
私達も、主を羊飼いとするなら、一切の欠乏は無い。
「いや、自分は主を羊飼いとして来たけれど、欠乏ばかりだった」と言う人は、自分が望んでも与えられなかったもの、というのは、実は有害なもので、むしろ主が羊飼いとして、それらに毒されぬよう、今まで守っておられた事を、そして、自分はそれさえ見えなかった、無知な羊であった事を、悟るべきである。
「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。」(2-3節)
羊は目が悪いため、自分で食べ物や飲み物を探しに行けない。同じように、私達も未来は分からず、この先に何が待ち受けているかを知らない。だから未来も最善も全てを見通す主を羊飼いとする必要がある。
主は、導く。義の道へと。主は、伴われる。緑の牧場と、憩いの水のほとりへと。人にとって、真のたましいの潤いは、主から来る。私達が主の導きに従って歩むのであれば、私達は決して飢える事も渇く事も無い。
「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわい(悪)を恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」(4節)
私達はできれば死の陰の谷は歩みたくないものだが、しかし主は、敢えてそこを通らせる事もある。
この一年、ある聖徒にとっては、死の陰の谷を通らされたような状況もあったし、今まさに通っている最中の聖徒もいる。しかし主は、無意味に、死の陰の谷を通らせる訳ではない。その向こうに最善があるからだ。
「あなたがたが、色々な試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。」(ヤコブ1:2)
主がわざわざそこを通らせているという事は、想像もつかないスペシャルな未来がその先にあるという事だ。
「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」(5-6節)
私達が主を羊飼いとしているなら、主は敵の面前で私達に宴席を設けて下さり、頭に油を注いで下さる。
主を羊飼いとしているなら、恵みと慈しみとの方が、私達を追いかけて来る。しかし、主を羊飼いとしていないなら、敵の前で逆に冷や水を浴びせられ、恵みと慈しみを追いかけても追いかけても、それは逃げてしまって、決して追いつく事はない。
主イエスの元にこそ、恵みといつくしみが豊かにあり、他には無いのだ。(1歴代16:34、詩篇86:5、118:1)
ヨハネ10章には、良き羊飼いなる主イエス様と、私達・羊との間の正しい関係がある。(ヨハ10:1-6)
羊飼いは、自分の羊の名を呼んで連れ出して先頭を歩き、羊は、羊飼いの声を聞き分け、ついて行く。
その逆は無いのだ。羊は、目が悪い。だから羊は目に頼らず、耳に頼る。
同じように私達も、主の御声であられる御言葉によく耳を傾け、ついて行くなら、乏しい事も、飢える事も渇く事も決して無く、死の陰の谷のさなかでも安全に導かれ、やがては、いこいの水のほとりへ、緑の牧場へと導かれ、敵の目前で宴席が設けられ、頭に油が注がれる。そして、恵みと慈しみとが、ついてまわる。
来る2014年は、何が起きるのか私達には分からないが、ひとつ確かな事、それは、主を羊飼いとして私達がついて行くなら、この詩篇23篇の祝福が、私達のほうを追いかけて来るという事だ。今までのように。
栄光の家系の女達 - マリヤ4 皇帝アウグスト vs 乙女マリヤ(ルカ2:1-7)
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『そのころ、全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝アウグストから出た。』(ルカ2:1)
この皇帝アウグストは、ローマ帝国の初代皇帝で、強大な権力と強力な軍隊を持ち、莫大な富を貯え、人々から「神の子、救い主」と呼ばれ、彼が赦免を告知することを人々は福音と言った。
とは言っても、それは武力による支配、十字架刑に象徴される恐れと刑罰を伴った強制的な支配であった。
それはキリストの支配、すなわち、平和と自由、愛による喜びの支配とは、全く逆の支配である。
そのアウグストが、人口調査せよとの勅令を出した場合、属国であるイスラエルの人は皆、それに従う以外には無かった。いかに、臨月に差し掛かっているマリヤと言えども。
マリヤ達が住んでいたナザレからベツレヘムまでは、百キロ以上ある。車も無い当時、妊娠し臨月になっていたマリヤにとって、かなり過酷な旅だった事は、容易に想像がつく。
思えば、マリヤにとってのクリスマスは、一番嫌なタイミングの時に、大変な思いばかりしている。
婚約中という最もセンシティブなタイミングに身ごもり、もうすぐ生まれるというタイミングで皇帝から勅令が出て、臨月中に長旅をしなくてはならなくなった。また、イエス様が生まれてまだ間もない時に、御使いのヨセフへのお告げで、着の身着のままでエジプトへ逃げなくてはならなかった。
これは、よほど御言葉に対する「従順力」が無ければ出来ない事だ。だからこそ、マリヤは選ばれたのだ。
マリヤのような栄誉と幸いに与れる人とは、どんな時でも主の御言葉に従順する人だと私達は学んでいる。
人は思うかもしれない。自分はマリヤのような特別な栄誉はいらない、マリヤのような試練にあうくらいなら、もっと凡人の、普通でささやかな人生を送れるなら、それでいい、と。そのような心配は、無用である。
主は私達に耐えられないような試練に遭わせたり、負いきれないような重荷を負わせるお方ではない。
私達の分に応じた役割と、ご計画を立てておられるのだ。いずれにせよ、御言葉に対する従順こそが、何よりの幸いの秘訣であり、御言葉への不従順こそ、何よりの不幸の元である。
私達は、日々の小さな従順を積み重ねていけば良い。それは積もり積もって大きな栄誉へと育って行く。
そして主は、誰もが目を見張って憧れるローマ皇帝よりも、主に対するつつましやかな従順を積み重ねる無名な信仰者にこそ、目を留められ、彼らを守り、導き、後には栄光の内に受け入れて下さるのだ。
皇帝アウグストとマリヤ、この二人を比べるなら、当時のマリヤは、無きも同然の弱く無名な者だったが、今、全世界に対し、また全歴史に対して、より影響力を与えた人は、どちらだろうか?
きっと、キリスト教を信じていない人でも、多くはマリヤだと答えるだろう。
事実、世界史は、マリヤが御言葉に従順した結果、生まれたイエス・キリストによって、大転換を迎える。
キリストの生まれる前はB.C.で「キリストの前」の意味、生まれた後はA.D.で「主の年に」の意味である。
そしてイエスを信じた人の一体、何十億の人生が、また社会が、そして国々が、光へと変えられただろうか。
同じように、無名な私達が、主に対して従順し服従する事によって、世界が、時代が動くのである。
マリヤのこの従順によって、およそ八百年前の預言、「イスラエルの支配者になる者ベツレヘムから出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」(ミカ5:2)が成就し、そして「彼は大いなる者となって、(支配は)地の果にまで及ぶ」(同4節)という預言は、これからも成就して行くのである。
主は、永遠の昔から定められた事を成就させるために、アウグストを立て、動かし、聖徒のためには星をさえ動かす。主のなさる事は、時に、人の目には「どうしてこんなタイミングで?」と思う事もあるかもしれない。
しかしそれは、主が永遠の昔から私達に立てている将来と希望のご計画を成就されるためのものなのだ。
そして、主に対する聖徒の祈りと、その従順な行動は、世界を動かし、歴史を動かすのである。
どういう訳か主は、主を信じ御言葉に従順する人の祈りや行動を通して、世に関与され働かれる。
人は、この世においてアウグストのように強く、有名で、金持ちで、権力者になりたがる欲求が、少なからずあるが、主が現れ力を働かされるのは、その正反対にいる人達である。
支配権を主に明け渡して、主の前にへりくだる人達にこそ、主は現れ、力を働かれるのである。
そういう人は、真理と永遠の観点から見れば、世間の支配者よりも、より大きな影響力を持っているのだ!
栄光の家系の女達 - マリヤ3 マリヤの賛歌(ルカ1:46-55)
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『わたしの魂は主をあがめ、 わたしの霊は救主なる神を「たたえ(大いに喜び)」ます。 この卑しい女をさえ心にかけてくださいました。今からのち代々の人々は、わたしを幸いな女と言うでしょう。』(ルカ1:46-48)
ルカ1:46〜55の箇所は「マリヤの賛歌」と呼ばれる有名な歌である。マリヤは自分を、「どの時代の人々もうらやむ幸いな女」と言う程、喜びに喜んだ。彼女のように大いなる幸いを得るための秘訣を探りたい。
彼女が主を「あがめる」と言った言葉は、ギリシャ語で「メガリュオー」、「大きくする」という意味であり、また「卑しい(タペイノシス)」と自分を呼んだ言葉は、「低い」「陽のあたらない」等の意味がある。
つまり、マリヤの魂は主を大きくし、自分を低く、卑しくしたのだ。
バプテスマのヨハネも、「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3:30)と言ったように、主を大きくし、自分を小さくする姿勢こそ、聖書で成功している聖徒達の性質であり、私達もならうべき姿勢であり、そして、世の何者にも勝る平安と喜びに満たされるコツである。
逆に、神を「小さく」して、自分を「大きく」する事、それは神の力を自ら制限する事に他ならない。
私達が心配したり、自分の事で頭がいっぱいになっている時、神を小さくし、働けなくしてしまっているが、自分を下ろし、神を大きくするなら、無限なる神が主体性を持って働かれ、大きな事を為して下さる。
私達は、主に対しては清純な乙女として低くへりくだるべきであるが、世に対しては、王族の祭司として主イエスの名によって大胆に神の子としての主権を行使し、サタンに対しては、イエスの名によって強く雄々しく立ち向かい、大いに勝利し分捕るべきである。
マリヤは続いて、傲慢な者がたどる道についても歌っている。
『主はみ腕をもって力をふるい、心の思いの奢り高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。』
自分を大きくし、主たるお方を小さくするのは、聖書では失敗する典型であり、強制的に低くされてしまう。
例えば、アブラハムの妻・サラの女奴隷であったハガルは、自分が身篭ったのを知ると、アブラハムの家の「はしため」である地位を忘れ、傲慢になり、女主人であるサラを軽んじるようになった。(創世記16章)
マリヤは、神の子を身篭った事を聞いた時、自分を卑しく低くしたが、ハガルはその全く逆だった。
それ故ハガルは追い出され、道を行く途中、主の使いに声をかけられた。「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」 主の使いはハガルの本来の立場である「サライの女奴隷」と呼び、彼女はそれに対し、自分は「”女主人”サライのもとから逃げているところです」と答えた。
彼女がもし「自分はアブラムの妻になってしかるべき」とか「サライは不当だ」などと自己主張していたら、どうなっていただろうか?それは、アダムやエバ、カインが自己主張した結果を見れば、大体想像できる。
彼女が正しい立ち位置を宣言したので、主の使いは「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」と、本来あるべき姿、あるべき所へ帰るよう諭し、そして、「あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす。」と、祝福の約束も与えられた。主従関係において、正しい立ち位置に戻るなら、主は祝福を戻して下さるのである。
キリストは、神であられるのに自分を低くし、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
このように、神の力強い御手の下にへりくだるなら、神はちょうど良い時に高くして下さるのだ。(1ペテ5:6)
マリヤは、霊においては「救い主」なる神を、大いに喜び楽しんだ(47節)。
皆さんは、若い花嫁が花婿を喜び楽しむように、主を喜び楽しんでいるだろうか?
私達を再建して下さる主もまた、私達を喜びとされる。「若者がおとめをめとるように、あなたを再建される方があなたをめとり、花婿が花嫁を喜びとするように、あなたの神はあなたを喜びとされる。」(イザヤ62:5)
マリヤが大いに喜んだ根拠は「力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったから」だった。
万物はキリストのために存在し、キリストにあって成り立っている。その偉大な主が、私達の所に下りて来られ、私達と実際に関わり、しかも、私達の内に宿って下さる。それはどんなに莫大な喜びであろうか。
「そのみ名はきよく、そのあわれみは、代々限りなく主をかしこみ恐れる者に及びます。」(ルカ1:49-50)
マリヤに与えられた、途方も無い幸いと祝福は、主を大きくし、自分を低くする人のものなのだ。
万物の存在の根拠なる主を喜び楽しみ、そして、その主からも喜び楽しまれる皆さんでありますように!
栄光の家系の女達 - マリヤ2 インマヌエル(マタイ1:18-23)
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『「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)』(マタイ1:23)
マリヤのように男を知らぬ女が身籠る事、人間由来の何かによらずいのちが宿る事は、現実的にはありえないが、キリストはむしろ、処女のような性質の人、「思いが汚されていない人」にこそ、宿る。(2コリ11:2-3)
そして、処女がみごもる事は、「神が私達と共におられる事」(インマヌエル)のしるしである。
インマヌエル。それは、マリヤの時代よりもはるか昔、預言者イザヤによって示された。
当時、不信仰な王アハズは、主から「しるしを求めよ」と言われたのに、「私は主にしるしを求めません」と言ったため、主は彼の主に期待しない心を怒って言われた。『主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。』(イザヤ7:14)
人間が不信仰である故、主みずから降りて来られ、人が思ってもいない「しるし」を与えて下さったが、実は、イザヤの時代よりもっと前、人がエデンの園で堕落した時から「処女がみごもる」事は既に預言されていた。
エバが蛇にそそのかされ、禁じられていた実を食べてしまった時、神は蛇に「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。」と言われた。
この「子孫」はヘブライ語でゼラ、「子孫、子」の他に「種」の意味もある。
「種」は父系をあらわす用語で、女には「種」は無く、女は男から「種」を受けなくては子は生まれない。
つまり、この「女の種」という、一見相反する言葉は、処女がみごもる事を意味している。
「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(マタイ1:20)
マリヤは、人間の男の種によらず、聖霊によって、超自然的にイエス・キリストのいのちを宿した。
実は私達も、マリヤのように、聖霊によってキリストのいのちを宿す事が出来る。
それは、マリヤが「お言葉どおりこの身になりますように」と言って御言葉を受け入れたように、私達も、御言葉(ロゴス)という「種」を信仰によって受け入れ、私達の内に植え付ける事によって。
『言は自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。』(ヨハネ1:12)
聖霊によるのでなければ、誰も、イエスを主とはしない。そして、聖霊の促しによって御言葉を受け入れ、信じた人々は、神の子になるという、驚くべき、超自然的な作用が、私達に起こる。
マリヤは実際にその事を体験し、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救主なる神をたたえます。この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう、力ある方が、わたしに大きな事をしてくださったからです。」(ルカ1:46-49)と言って、喜びに喜んだ。
私達も、マリヤのこの喜びと同じ喜びを味わえる。なぜなら、御言葉であるキリストを信じる事によって、マリヤと同等の事、キリストを宿す事が、私達の身に起きるのだから!
『インマヌエルよ、その広げた翼はあまねく、あなたの国に満ちわたる。』(イザヤ8:8)
海が水で満ちているように、主の霊は全地に満ちており、主の愛とあわれみは溢れている。
預言者イザヤの時代、不信仰なイスラエルに、強大な敵国アッシリアが押し寄せて来たが、それでもインマヌエルなる主は、翼を広げ、イスラエルを覆っておられた。これは、創世記1:2の、「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてを”おおって”いた」時と、同じ状況である。
ここの「おおう(ラゥカフ)」の語は、親鳥が卵の上を覆ったり、鷲が雛の上を舞いかけたりする様を意味する。
光が創られる前の、暗闇と混沌の時、めんどりが雛を翼でかくまうように、神の霊は既に全地を覆っていた。
同じように主は、私達が暗闇で混沌状態だった時から、私達を愛の御翼によって覆っておられたのだ。
この、暗闇と混沌に満ちた「世界」という器に、ある時、ひとつの「種」が降りて来た。
それは、言葉であり、光であり、いのちなるキリストである。このキリストを信仰によって受け入れた人には、インマヌエルが実現する。すなわち、いつまでも主は共におられ、主とひとつとなる恵みにあずかるのだ。
栄光の家系の女達 - マリヤ1 キリストを宿す性質(マタイ1:16)
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『ヤコブはマリヤの夫ヨセフの父であった。このマリヤからキリストといわれるイエスがお生れになった。』(マタイ1:16) 今まで、マタイ一章のイエス・キリストの系図に出てくる女性に焦点を絞り、「栄光の家系の女達」のシリーズとして見て来たが、その最後の女性は、イエスの母・マリヤである。
今まで四人の女性達を見てきたが、いずれも何かしらの「訳あり」だったが、その点マリヤは、血筋においても、素養においても、申し分のない女性であった。
イエス・キリストは、どのような血筋として生まれているか。
マタイ一章の系図は、ダビデの子としてのイエスキリストの系図で、ダビデ以降バビロン捕囚までは王族が、それ以降は王族はなく一般人が連なり、最後は、イエス・キリストの(法律上の)父・ヨセフで終わっている。
しかしイエス様は、聖霊によってみごもり、処女マリヤから生まれたため、ヨセフの血は継いでいない。
継いではならない理由があるのだ。系図の中のマタイ1:11に、エコニヤの名があるが、彼と、その前の王達は、あまりに悪い事をし続けたために、主はエコニヤ以降について、以下のように仰せられている。
「この人を、子なき人として、またその一生のうち、栄えることのない人として記録せよ。その子孫のうち、ひとりも栄えて、ダビデの位にすわり、ユダを治めるものが再び起らないからである。」(エレミヤ22:30)
実際、エコニヤ以降に王は出なかった。では、イエス様は王族ではないのか?ダビデの子ではないのだろうか?いいや、ダビデの子であり王族である。
実は、ルカの福音書三章に、もう一つの系図がある。この系図は、マリヤの家系の系図であり、マタイ一章のヨセフ系図では、ダビデの子はソロモンであるが、ルカのマリヤ系図では、ダビデの子はナタン(バテ・シェバの子でソロモンの兄:1歴代3:5)となっており、それ以降のマタイとルカの系図は、分岐している。
つまり、イエスの母マリヤは、歴代の王族の家系ではないものの、れっきとしたダビデの子孫であり、そして悪に染まった王族の血を継いでもいない。つまりイエス様は、法的なヨセフの子、すなわち法的には歴代の王族の子であり、血筋としては、悪しき王達の血を継がない純粋なダビデの子孫である。
人間が王になると、必ず過ちを犯す。ダビデ王さえ、そうだった。主は元々、人間を王を立てるのは、御心ではなかった。それでも人間が王に立ったのは、人々が神を退けたからだった。(1サムエル8章)
人間の王は代々失敗し罪を重ね、エコニヤ以降、イスラエルにはもはや人間の王は立たなかった。
そこで主は、人間の王には頼らず、聖霊によって処女マリヤに宿り、生まれた神の子・キリストを真の王として立てたのだ。主に選ばれたマリヤはどのような性質であったか。主が宿られる人の性質を見てみたい。
マリヤはダビデ王の家系であるものの、ダビデはもう遠い遠い先祖であり、彼女の代にはあまり関係なかっただろう。彼女はごく普通の、どちらかと言えば貧しい家の女の子であった。そんな彼女の所に、ある日突然、御使いが現れて「おめでとう、恵まれた方」と言われた。彼女はその言葉に考え込んだ。(ルカ1:28)
彼女は、主から何かを受けた時は、それに対し口でとやかく言わず、「思い巡らす」性質の持ち主である。
御使いが羊飼いに現れ、羊飼い達が生まれたばかりの赤ちゃんイエス様に会いに来た時もそうだったし、イエス様が12歳の時、子供であるイエス様が言われた事に言い返さず、心に留め、思い巡らしていた。
御言葉に対し「でも」や「だって」を言わず、そのまま受け止め、たとえ理解できなくても、それを心に留め、思い巡らす性質は、きよい性質である。反芻する動物は、きよい(レビ記11:3)とされている。
また彼女は、主の語られた事は必ず成就すると信じ、100%受け入れる体制が整っている人である。
彼女は御使いから示された事を「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」と言って受け止めたし、エリザベツも彼女を「主の語られた事は必ず成就すると信じ切った人」と評した。
キリストに宿られる体制が整っている人とは、御言葉を受けた時には、「でも」や「だって」は一切なく、素直に受け止め、信じ、それを思い巡らす人であって、血筋や能力、人の意欲や欲望は一切関係ない。
『言は自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。』(ヨハネ1:12)
マリヤのように、素直に御言葉を受け入れ、信じ、思い巡らす、主イエスキリストが宿る性質を持つ皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
収穫感謝祭 (詩篇96:7-13)
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ユダヤには「仮庵の祭り」という7日間の祭りがあり、この祭りの期間、庭や屋根などに仮庵(仮小屋)を立て、なつめやしの葉や、葉の多い茂った枝、秋に取れた収穫物で小屋を飾り、その仮庵の中で七日間宿って、主の御前で収穫を喜ぶ。今私達が祝っている収穫感謝祭は、それに似ている。
『その祭の時には、あなたはむすこ、娘、しもべ、はしためおよび町の内におるレビびと、寄留の他国人、孤児、寡婦と共に喜び楽しまなければならない。主が選ばれる場所で七日の間、あなたの神、主のために祭を行わなければならない。あなたの神、主はすべての産物と、手のすべてのわざとにおいて、あなたを祝福されるから、あなたは大いに喜び楽しまなければならない。』(申命記16:14-15)
この祭りは喜びの祭りであり、皆で共に、主が実らせて下さった実りを喜ぶ事が命じられている。
また、この祭りは、一年で最も盛大にいけにえが捧げられる時であり(民数記29章)、人が喜んで主に捧げるのなら、主は喜びと祝福を大いに増し加え、押入れ揺すり入れして与えて下さるのである。
大地の実りは、人を喜ばせる。色々な種類の果物や木の実、穀物などが並んでいるのを、見ているだけでも幸せな気持ちになってくるのは、元々、主がそれらを祝福し、人の口に、そして全ての生きているものの口に、食物として入るよう、主が創られたからだ。(創世記1:29)
『天は喜び、地は楽しみ、海とその中に満ちるものとは鳴りどよめき、田畑とその中のすべての物は大いに喜べ。そのとき、林のもろもろの木も主のみ前に喜び歌うであろう。主は来られる、地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき、まことをもってもろもろの民をさばかれる。』(詩篇96:11-13)
天も地も、海も、田畑とその中の全てのものも、「喜び」や「うめき」などの感情をもっており、神の子が現れ、主が正しくさばかれる時には、喜びをもって主をほめたたえる。
ところが、人は食べてはならぬ実りを、すなわち、「善悪を知る知識の実」を食べてしまったが故に、土地も、地の実りも、被造物全体が呪われてしまい、創造本来の実りを結ばせる事ができなくなってしまった。
穀物や果実は元々、全生物のために豊かに実って、主が創られた生き物の口に入るのが本望であるのに、周辺にいる人間が呪いの子であるなら、不本意にも、わずかしか実らせられず、かえって、有用でない実、いばらやあざみを生えさせてしまうのだ。
「被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。」(ローマ8:19-21)
被造物は、神の子たちのあらわれを、すなわち、第二のアダムであるイエス・キリストに連なる聖徒達のあらわれを待ち望んでいる。そして、神の子たちに、正当に支配される事を、望んでいる。
私達はどうすれば神の子となれるか?
「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」(ローマ8:14)
全能者の霊によって導かれるなら、神の子であり、全被造物を正しく治める事が出来る。また、第一のアダムによって入った呪いも届かなくなり、草木も、神の子たちのために、豊かな実りを結ばせるのである。
人が御霊によって導かれ、呪いの行いを捨て、神の子へと方向転換なら、次の御言葉が成就する。
『主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。』(イザヤ2:4)
例えば、すぐ怒ってしまう人にとって、そのカッとなる性質が、人を傷つける「剣」や「槍」であるが、御霊によって導かれ、造り変えられるなら、実りをもたらす「鋤」になり、実りを刈り取る「かま」になっていく。
御霊の働きにより、人を切り刻む道具は、土地(アダム)を耕す平和の道具となり、人を突き刺す武具は、実りを刈り取る道具へと造り替えられ、神の栄光をあらわす器となって行くのだ。
その時、本当の意味で私達は、収穫の喜びを祝う事が出来、一つ一つの果物や穀物もまた、神の子達と一緒になって、主を誉め称え、共に主を喜び祝うのだ。