メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ
カイン - 罪に慕われる時、支配せよ(創世記4:3-7)
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人類史上、初の「死」は、兄の手による弟の殺人であり、その動機は、捧げものに関するねたみであった。ねたみや怒りの衝動は、現代を生きる私達にも、ありありと存在し、それを対処する責任は私達にある。
そうした性質は、どのように対処すべきか。今回はそれを学びたい。
『カインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。』(創世記4:5)
神は、気まぐれや意地悪でカインの捧げ物を顧みられなかったのではない。彼が神を主としておらず、自分を主とする傲慢な心があったから、御前に正しくなかったから、その捧げ物を受け取らなかったのだ。
彼の行動は、明らかに、彼は自己流の方法を、神よりも高い所に置いていた事を示している。
私達の主は、キリストであって、自分ではない。まず、高ぶる心を下ろし、主を主として拝するべきである。
御前で怒り、顔を背けるという、尊大な態度を取ったにもかかわらず、神は彼を救うために、取り扱われた。
「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。(創世記4:6-7)
罪が戸口の隙間から私達を慕い求めながら見ている時、私達には二つの道がある。
その罪を「支配」するか、それとも、怒りや欲望の欲するままに罪に飲み込まれるか。怒りや欲望の欲するままに罪に飲み込まれるのは、ラクで、ある種の爽快感もあるが、その行く先は、呪いと放浪、死である。
罪を「支配」するのは、ちょっとした我慢と努力が必要だが、その行く先は、いのちと祝福である。
礼拝や奉仕で、思い通りに行かずに「怒り」がこみ上げた時、神と人の前から「顔を伏せたい」時は、罪が私達をのぞき見して、待ち伏せしている事を知るべきであり、その時私達はそれを支配しなくてはならない。罪を支配するとは、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにして「キリストに従わせ」、完全に服従させる事である。(2コリント10:5-6) すなわち、こみ上げて来た怒りを、湧き起こって来た欲望を、イエスキリストの名によって捕縛し、キリストの前に引きずり出して、宣言するのである。
「イエス様、この罪が、怒りが、欲望が、私に誘惑をかけて来ましたので、逮捕して、あなたの御前に引きずり出しました。どうか、あなたがこれを永遠の火の牢屋に入れ、私の事は、あなたが支配して下さい」と。
私達は日々、礼拝においても、日常においても、常に自分を御言葉の光に照らし合わせて、主の道を正しく歩んでいるかどうかチェックすべきである。自分が為そうとしている事が、御心にかなっているかどうかをチェックする、最も簡単な方法は、真理なるお方、御言葉なるお方である、イエス・キリストの名によって、その事が出来るかどうかを問う事である。(コロサイ3:17)
皆さんが成しているあの事、この事は、イエス様の名によって堂々と出来るだろうか?もし、そうでないのなら、それをとりこにし、キリストにあって支配すべきである。
カインとアベルは、何月何日に信仰の試験があるから、その日に備えて準備しておこう、などとは思っていなかったはずだ。信仰の試験は、盗人のように、ある日突然来るものだ。それは私達も同じである。
その試験の時、私達がどんなパフォーマンスをするかは、私達が日常をどんな心構えで過ごすかで決まる。
彼らが、主に、供え物を捧げた時、彼らが普段、どういう信仰態度であったのかが、如実に示された。
普段から、神と人とに感謝が無い者は、とっさに感謝は出せないものであるし、また、普段から怒りに身を任せている者は、怒ってはならぬ時に、それが制御できないものである。
カインは「主の前」という、決して怒ってはならない時に怒り、主に顔を背けるという尊大さが現れた。突発的な怒りが、彼を尊大にさせたのではなく、普段から怒りを制御しない事の、「霊的怠慢」が、露わにされ、その怠慢の刈り取りは、永遠に受けるのだ。それ故、私達は普段の心がけが大事である。
普段から、少しずつでも罪や怒り、欲望をキリストにあって制御し続け、良きものはキリストに捧げ続けるのであれば、それが積りに積もって、いざという時、正しい立ち居振る舞いが出来るのである。
皆さんはいざという時、カインのように振る舞うだろうか。それとも、アベルのように振る舞うだろうか。
アベル - 神にリスペクトされる捧げ物(創世記4:1-5)
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『彼女はみごもり、カインを産んで言った、「わたしは主によって、ひとりの人を得た」。彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。』(創世記4:1-2)
カインの名前には「得た」「所有」の意味があり、アベルは「吐息」「虚しい」の意味がある。
あまりパッとしないアベルだが、新約で彼は「義人」として数えられている。(マタイ23:35、ヘブル11:4)
彼について記されている情報は、僅かである。カインは、語ったセリフも、神様からの語りかけも多いのに、アベルには、全く無い。それなのに、なぜアベルは義人として有名なのか。僅かな情報から辿ってみたい。
「時が経って次の事が起こった、カインは、地の実りから主へのささげ物を持って来た。また、アベルも彼の群の中から、初子の、それも最も肥えたものを主に持って来た。主は、アベルと、そのささげ物とに、リスペクトした。しかし、カインと、その捧げ物とに、彼はリスペクトしなかった。」(創世記4:3-4、KJVから翻訳)
主に捧げ物を捧げる時、カインは、ただ地の実りを、ただ持ってきた、のに対し、アベルは、自分の群れの中から「どれが一番良いものだろうか」と悩み、初子達の中から、最も肥えたものを選び出して、主に持って行ったのだ。 アベルは「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして」神を敬っていたのが分かる。
主は今、生きておられ、今この瞬間も、私たちの心の成り行きを見て、知っておられる。それ故、主を敬う心こそ礼拝で最も必要であり、形だけの礼拝では、主から御言葉も恵みも答えも祝福も頂く事は出来ない。
主に捧げているのに、主からそっぽ向かれている感じがしたり、仕事や人間関係がうまく行っていない、祝福から遠い、と感じる事は、あるだろうか。私達は、ある捧げ物は主にリスペクトされ、ある捧げ物はそっぽ向かれてしまう、という事が厳然としてある事を、知るべきである。
また、アベルの捧げ方は、神様がよしとされる方法にのっとっていた。
神様がよしとされる方法とは何か。それは前回見たように、”犠牲”がある事である。カインの捧げ物には、命の犠牲は無かったが、アベルは、自分の手で育てた最も良いいのちを、犠牲にして主に捧げた。
私達は、勝手に考え編み出した礼拝形式を人に、そして神に、押し付けてはならず、神の側が提示された方法に、私達の側が従うべきであり、御言葉の根拠なき礼拝や奉仕、御心から外れた「自分流の礼拝」を捧げても、主を怒らせるだけである。
「主への祭り」と称して金の子牛を造って飲み食いし戯れたイスラエルの民は、それで主に仕えているつもりだったが、主は彼らを怒り、滅ぼそうとされた。(出エジプト記32章)
示されていた御言葉を読んだなら、それは、とんでもない反逆だと容易に判るはずなのに、彼らには、御言葉に聞く心が無かったため、「礼拝を捧げている」と 大真面目に 思いつつ、逆に、主に滅ぼされる寸前までの怒りを買っていたのだ。
主に仕えているつもりでいながら、主を悲しませ怒らせている、という事も、厳然としてある。それを防ぐために、私達は常に御言葉の真理に照らし合わせ、主の道を正しく歩んでいるかチェックすべきである。
またアベルは、その名前からして、自分を誇らない、砕かれた、悔いた心を持っていたはずである。「あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげても、あなたは喜ばれないでしょう。神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。」(詩篇51:16-17)
たとえ、アベルがどんな豪勢な焼き尽くす捧げ物をささげても、彼の心が砕かれていなかったなら、その捧げ物は受け入れられなかったのだろう。それに対し、カインの心は砕かれてもおらず、悔いてもいなかった。
カインとその捧げ物に、神からのリスペクトが得られなかった時、彼は憤り、顔を伏せたが、その行動から、彼は明らかに自分の方法や自分の気分を、神よりも高い位置に置いていた事が分かる。
『信仰によって、アベルはカインよりも勝ったいけにえを神に捧げ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。』(ヘブ11:4)
もし私たちが、正しく行っていないとしたら、神に受け入れられない。思い通りに行かない事で、怒りが込み上げてくるとしたら、罪は戸口で私達を慕っている。その時、私達はそれを治めるべきである。
もしそれをしなければ、どうなるか。それは次回詳しく見ていきたい。
アダム - 土地の呪いとそこからの救い(創世記3:17-24)
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「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。」(創世記3:17-18)
アダムの御言葉に対する不従順への報いは、土(アダマ)への呪いである。男は一生、汗水流し、労苦して働くけれど、土地はそれに対抗して、わずかしか実らせず、しかもわざわざ茨やあざみを生えさせるのだ。
私達はどうしたら、このアダムへの呪いから開放されるのだろうか。今回は、その方法を学びたい。
『主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」』(創世記3:22)
神から離れ、ほしいままに罪の善悪判断をすようになった人間を、永遠に生きないようにされたのは、神の大きな憐れみである。実際、後の時代になると、道ならぬ性によっていのちが呪われ、ネフィル(原意:伐採者。巨人、いじめっ子、暴君の意味もある)がはびこり、虐待が虐待を生み、暴力が暴力を生み、憎しみが憎しみを生んで、新しく世に生まれてくる命たちは、ただ無防備に、暴虐に満ちた世へと、送り出されて行くだけだった。それで神は、人の齢を120年程度とされたのだ。(創世記6章)
神を知らぬ善悪判断を持った巨人達が、ほしいままに振舞っている世界、痛みと悲惨に満ちた世界の中で、決して死ぬ事が出来ないとしたら、それこそ地獄である。
神は、人が罪を犯したからと言って、そのまま滅ぼすことをせず、また裸のまま追い出す事はしなかった。
「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。」(創世記3:21)
人は裸を覆うために自分の編み出した方法(いちじくの葉)によって取り繕いをしたが、それでは不完全だ。
真に裸を覆うのは、主の方法でなければならない。
日本で犯罪を犯したら、日本の法律に則って対処しなくてはならないように、人の弱さや罪を覆う方法は、神の方法に乗っていなくてはならない。その神の方法とは、犠牲である。
何かの動物を犠牲として、人に「皮の衣」が与えられたように、神は、私達の罪や弱さという”裸”を覆うために、キリストという、罪を贖うまことの小羊を犠牲として与えて下さり、”裸”を覆おうとされた。
キリストこそ贖いの衣であり(ガラテヤ3:27)、この衣を着ているなら、神と悪魔の前に、決して裸ではない。
アダムとエバはいちじくの葉で取り繕ったが、そういう自前の方法では、罪や弱さという裸を覆った事にはならない。ただ、神が与えて下さった”衣”で覆われてのみ、御前に有効なのだ。
罪や弱さという裸を覆う、神が与えて下さるまことの”衣”。それはキリスト、すなわち”第二のアダム”である。
ヤコブが動物の毛皮を着た事で、祝福を受けるべき子と認定され、祝福を勝ち得たように(創世記27章)、私達もキリストを着るなら、父なる神様から「祝福を受けるべき子」と認定され、祝福を勝ち得られるのだ。
キリストを受け入れた人、その名を信じた人には、神の子どもとされる特権が与えられる。(ヨハネ1:12)
神の子と認定された人には、もはや第一のアダムの呪いは、及ばない。(1コリント15:42-49)
第一のアダムの失敗以来、被造物は切実な思いで神の子ども達の現われを待ち望んでいる。(ロマ8:19)
つまり被造物は、神の子達、すなわち、イエス様を信じるキリスト者達の現れを切に待ち望み、罪ある人達の支配から解放され、神の子たちによる正当な支配に入る事を、アダム以来の呪いから解放される事を、切望しているのだ。だから被造物は、キリスト者が目の前に現れたなら、両手を上げて喜び歓迎するのだ。
キリストにあって歩み続ける人は、神の子としての性質をますます帯び、ますます被造物から歓迎される。
人がまだ善悪を知る前、神は人に、生んで増えるように、全ての生物を支配するようにと命じ、祝福された。
「他を支配するのは良くないのでは」と思う方もいるが、そう思う理由は、神を恐れぬ者による圧政や搾取などの「悪い支配」にうんざりしており、それを無意識的に恐れているからだ。
しかし、キリストにあって歩む人、御言葉に忠実な人が行う「正しい支配」は、確かに存在する。
神の子とされたキリスト者は、世の中から悪い支配権を奪回し、多くの人を、全被造物を、幸いにすべきだ
エバ - いのち産む事の呪いと救い(創世記3:16)
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女は、善悪を知る実を自ら取って食べ、それを夫にも与え、罪と死を、全被造物に運び込んでしまった。
それで女性は、産みの苦しみが増し加わる事の呪いと、夫を切望するのだけれど、支配権は夫のほうにあり、女性は彼に支配される事になるという呪いが、定められてしまった。
『わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。』(創世記3:16)
出産は元々、主が祝福された命を、産んで増やしていくという、御心に叶ったすばらしき事であったはずなのに、全人類に罪を導入してしまって以降、それは罪を地にはびこらせる「悪しき事」に変容してしまった。
レビ記12章を見ると、出産は「汚れ」と定められ、男の子を産んだ女性は、七日間汚れ、さらにもう三十三日、きよめのために家に篭もり、その間は、聖なる所に出入りしてはならないとされた。
そして、女の子を出産した場合は、その汚れときよめの期間は、男の子の場合の2倍とされた。
新しいいのちを世に送り出される「おめでた」は、なぜ「汚れ」となってしまい、「きよめ」が必要なのか。
また、女の子の場合は、なぜ汚れからきよめられる期間が、男の子の2倍なのか。
ある人達はここを「女性差別」だ、失礼だ、としている。しかし、主がそのように定められた以上、私達は善し悪し判断は止め、なぜそのように定められているのかに思いを巡らせるべきで、その背後に隠されている重要な意味を汲み取ろうとするのが、御言葉への正しい対応である。
主は女性にいのちを産み育てるという特別な役割を与えられ、また「母性」という特別な愛情を与えられた。
だから、いのちを産む事に対し、また、性に対しては、ことさら注意深く、清めに立つ必要があるのだ。
出産した女性は、計四十日(女児の場合は八十日)という閉じこもるべき期間に、新しく生まれたいのちとじっくり向き合いながら、エバ特有の、犯しやすい罪と弱さについて、また、汚れときよめについて、そして、これから母として、いのちを育み育てて行くべき事を、思いめぐらし、じっくり考えるべきなのだ。
「汚れ」と「きよめ」を、しっかり思い巡らす女性には、この期間は、いのちと向き合う良き学びの時であり、同時に、産後の肥立ちを良くして、新しいいのちを再び生み出す土台を体に造る、安息の期間なのだ。
四十日という期間、それはまた、ノアの時代に大雨が降り続いたのと同じ期間である。
洪水の四十日の間、増え続けてしまった悪しきいのち達は、洗い流され、ノア家族の他、神に呼び出されたいのち達は、方舟の中にじっと閉じこもり、新しく改まった世へ送り出される事を、じっと待っていた。
同じように女性も、四十という間、じっと閉じこもり、悪しき呪われるべきいのちを洗い流し、神の御手によって守られた新しきいのちを世に送り出す準備期間とするのだ。
『それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう。』(創世記3:16)
罪ある男に支配される事は、呪い以外の何物でもない。女性は、どのようにして、この「呪い」を「祝福」に変えることが出来るだろうか。それは、唯一完全な男・キリストを夫とし、彼の支配に入る事によってである。
サマリヤの女には、5人の夫があったが、それでも渇きに渇いた。しかし全人類の真の「主人」であるキリストを主人とするなら決して渇く事が無く、その人の内から永遠のいのちへの水がほとばしり出る。(ヨハ4章)
また、パウロは命じている。女性は身なりも態度も「慎み深さ」によって飾るべき事を。(1テモテ2:9)
『アダムは惑わされなかったが、女は惑わされて、あやまちを犯した。 しかし、女が慎み深く、信仰と愛と清さとを持ち続けるなら、子を産むことによって救われるであろう。』(1テモテ2:14-15)
子を産む事によって救われる、とは、どういう事か。主は「女の子孫」すなわちキリストによって、蛇の頭を砕く事を預言しておられた。私達も、世界も、キリストという新しいいのちを生み出すなら、救われるのだ。
だから私達は、キリストが形造られるまで、肉の思いを殺しつつ、産みの苦しみをするのだ。
いのちを産む事、子を育てる事、そして、性的な事には、ことさら「汚れ」が入りやすく、それらの事には、特に「きよめ」の意識を持たなくてはならない。
ユダヤ人女性は、出産のたびにそれを学び、いのちと性に関する概念がとてもしっかりしているため、ユダヤ民族は様々な歴史的困難にもかかわらず、栄え、増え広がって行った。しかし、そうした学びの一切無い異教徒達は、性を快楽の道具として、いたずらに用い、罪と汚れ、悲惨さを多く生み出して来てしまった。
いのちを産む事の大切さを正しく学び、祝福のいのちを産んで増やして行く皆さんでありますように!
蛇 - 踏み砕かれるべき者(創世記3:14-15)
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エバを欺き、人類全体に罪と死を導入してしまった蛇(サタン)に対し、主は、呪いを宣言した。
蛇(サタン)は、どの獣よりも呪われ、一生、腹で這いつくばって地を生き巡り(ヨブ1:7)、食いつくすべき「ちり(アファー:土、泥:人の組成)」を探しまわる事になった。(1ペテロ5:8)
神の息吹(霊)なき人は、ちりに過ぎず、蛇のえじきなのだ。神である主は、蛇にだまされて死に陥り、神の似姿からかけ離れた「ちり」になってしまった人間を救うため、救いのご計画を早速立てられた。
世界の救い主であるイエスキリストの誕生が、最も最初に預言された箇所は、どこだろうか。アダムとエバが全人類に罪と死をもたらしたのは創世記3章6節だが、そこから10節も数えぬ、創世記3章15節である。
エバが蛇にそそのかされ、禁じられていた実を食べてしまった時、神は蛇に「お前と女、お前の子孫と女の子孫(種)の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」と言われた。
創世記3章15節。この短い箇所は、実に、聖書全体を簡潔に表している。
聖書は、本としては分厚いほうだが、分厚くなってしまった原因は、この創世記3章1-15節にあると言っても、過言ではない。もしアダムとエバが、善悪を知る知識の木から取って食べていなければ、創世記3章から、黙示録20章までの長い部分は、必要無かっただろう。
創世記2章以前と、黙示録21章以降は、神と人との隔てが一切無く、神と人とが永遠に共に住み、罪も、死も、呪いも、一切無い世界である。神の目的は、人類を、本来あるべき姿である「そこ」へ戻す事なのだ。
全人類は、この事件以降、神から離れ、蛇(サタン)に思うままに支配され、自ら善悪判断をしながら生きなくてはならなくなってしまったが、エデン追放以降の人類歴史、いや、全被造物の歴史は、「女の子孫(単数形の種)」を神が備え、彼をして蛇の頭を砕かせ、全被造物に救いをもたらす「救い」の歴史なのだ。
神は、堕落してしまった人類を、罪と死から救い出すために、アブラハムを選び、アブラハムからイスラエル民族を興され、そのアブラハムの子孫によって全人類は祝福に入る事を約束された。(創世記15:1-6)
このイスラエル民族に律法を預けて、神の義の基準を明示し、忠実なしもべダビデから永遠に続く一つの家、永遠に続く王国を建てる約束を与え(1歴代誌17:4-15)、そのダビデの末から、キリストが生まれた。
聖書の最重要キーパーソンは、イエス・キリストである。
「女の子孫」の預言は、このメシヤであるイエスキリストの誕生によって、成就した。
『 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。』(マタイ1:23)
神は、いつも共におられたのだ。罪を犯し死の呪いに陥ってしまった人間を、決して見捨てる事なく。
「彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」と言われている通り、蛇(サタン)はキリストに、ある程度のダメージを与えるが、キリストは、サタンの頭を打ち砕き、致命打を与え、勝利する。
イエス様は何によって勝利したか。それは十字架の死に至るまでの従順によってである。(ピリピ2:8)
第一のアダムは、御言葉への不従順によって、罪と死の呪いを全被造物に招いてしまった。
しかし第二のアダムは、十字架の死に至るまでの従順によって勝利し、このキリストに連なる、全て御言葉に従順な人には、罪の赦しと、死の体からのよみがえりと、永遠のいのちが与えられる。
私達に必要なのは、イエス・キリストへの信仰と、自分の十字架を負って主について行く従順である。
『あなたがたの従順は、すべての人々の耳に達しており、それをあなたがたのために喜んでいる。しかし、わたしの願うところは、あなたがたが善にさとく、悪には、うとくあってほしいことである。平和の神は、サタンをすみやかにあなたがたの足の下に踏み砕くであろう。』(ローマ16:20)
主は、善にさとく悪にうとく、御言葉に従順な人の足を用いて、サタンを踏み砕かせて下さるのである。
人の道は、エデンの園以来、二つに一つだ。すなわち、善悪判断の木を選ぶか、それとも、十字架といういのちの木を選ぶか。御言葉に従順して、永遠のいのちを生きるか、それとも退けて、死を選ぶか。
キリストを選び、永遠のいのちを獲得する皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
アダムとエバ - 覆い隠しと訴えの始まり(創世記3:6-13)
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『すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。』(創世記3:7)
善悪の実を食べたアダムとエバは、善悪判断の目が開かれ、そこで真っ先にした事は、自分を見、裸である事を認知し、それを「良くない」と判断して、その見られたくない部分を、手頃な物で覆い隠した事だった。
そして、主なる神の歩まれる音を聞くと、恐れ、全てを見ておられる主の御顔を避けるために、園の木の間に隠れるという、実に”あさって”な事をするようになった。
ダチョウは、目の前に猛獣が現れると、砂の中に頭を埋めるらしい。そうするとダチョウの目には猛獣が見えなくなるため、猛獣から逃げおおせた、と、思い込んでいるのだが、猛獣の前には、相変わらず頭だけ砂に突っ込んだ大きな図体を晒し続けているだけなのだ。
この時のアダムとエバは、このダチョウと同じ愚かさを演じている。そして、神はいないと言っている人も、あるいは、神はいないと自らに言い聞かせ、好き放題に罪を飲み食いしている人も、同様である。
『あなたが裸であるのを誰が知らせたのか。食べるなと命じておいた木から、あなたは取って食べたのか』
神は、分からないから質問したのではない。神は全能だから、何でも知っておられる。
神が敢えて聞かれたのは、自分の事を、自分の口で告白させるためである。(マルコ10:36,51)
彼は、自分が行った事は一切言わず、他人が行った事を指摘して、フォーカスをずらした。
『わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです。』
この言葉の中には、自分が悪かったという告白は一片も無く、神様が自分のあばら骨から造って下さった女のせいにし、ひいては、女を自分の所に連れてきて下さった神様にも、責任の一端があるように言った。
女もまた、自分が悪かったという告白をせず、男になぜ食べさせたのかも言わず、ただ蛇のせいにした。
他人の欠点や罪をあら捜しばかりして、それを糾弾する人がいる。彼らはなぜそれをするのか。
それは、他人の罪や欠点にフォーカスを向けさせる事で、自分から視線を離させ、自分の罪を覆い隠したいからだ。だから、やましさのある人ほど、他人の欠点や罪をあら捜しばかりするものだ。「先に訴え出る者は正しいように見える、しかしその訴えられた人が来て、それを調べて、事は明らかになる。」(箴18:17)
もしアダムとエバが、あの時、自分の罪を告白し、主に赦しを請い願っていたら、どうなっていただろうか。
主のご性質から、彼らは赦されていたのではないか、と、私は思う。なぜなら、主は赦しに富みたもうお方であり、自分の罪を素直に認めたダビデの罪を、神は罪を見過ごしてくださったからだ。
放蕩息子も、罪を告白した時、父は罪を不問にし、肥えた子牛をほふり、子として元の地位に戻してくれた。
「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」(1ヨハネ1:9)
だから、私達が罪を指摘された時、ただそれを認め、悔い改めて赦しを乞うのみである。
自分の罪を告白し、悔い改めるなら、主は赦してくださる。しかし、自分を棚に上げ、「兄弟姉妹を中傷する」という、サタンと同じ座に着く者は、アダムとエバのように呪われてしまう。
ゼカリヤ3章には、神の裁きの座にノコノコと来て立ち、大祭司ヨシュアをを罪定めしようとするサタンの様子が書かれているが、ぬけぬけと神の裁きの座に立って、訴えようとする者は、逆に神に訴えられるのだ。
アダムとエバは、自分の罪を認めず、告白せず、他人あるいは神のせいにして呪いを受け、エデンの園から追い出されてしまった。もし彼らが、あの時、罪を認め、告白し、悔い改めていたなら、どうなっていたか。
それは起きていない事なので、正確には分からないし、推測する以外に無いが、一つ確かな事は、皆さんは、主から罪を示されたのであれば、それを認め、主に赦しを乞い、悔い改めるなら、赦されるのである。
そうではなく、他の人(愛すべき妻や夫、両親、兄弟姉妹、働き人、そして、神ご自身)を糾弾して、自分の罪を隠そうとするなら、呪いを受け、エデン(「歓喜の場所」という意味」)からは追い出されてしまうのだ。
ダビデのように、罪が指摘されたら素直に認め、主に罪を赦していただき、神と聖徒との光の交わりを、常に保って行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
蛇 - 悪魔 - の誘惑の徹底解剖 (創世記3:1-5)
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「主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。」(創3:1) この蛇こそ、天から投げ落とされた、全人類を惑わす者、すなわち悪魔とかサタンとか呼ばれる、あの古い蛇(黙12:9)である。
悪魔の「魔」、その漢字は、广(まだれ:家や庭を意味)の中に、二本の木があり、その間に「鬼」と書くように、悪魔の誘惑の特徴は、いかに人をいのちの木から遠ざけ、善悪の木に向かわせるか、という点にあり、御言葉の肝心な所を抜いたり、不純物を混ぜたりして、人に不安の波紋を起こさせ、御言葉否定へと導く。
神が言われたのは、?「園のどの木からも」 ?「思いのまま食べてよい」、?「しかし善悪の知識の木からは」 ?「取って食べてはならない」だった。(創世記2:16-17)
しかし悪魔であるこの古い蛇は、『?「園にあるどの木からも」 ?「取って食べてはならない」と、ほんとうに神が言われたのですか』(創3:1)、と言っており、肝心の、?と?を除いてしまっている。
蛇は、神様から与えられているあらゆる良き祝福には、全く言及せず、たった一つのしてはならない事にクローズアップさせ、あたかも神は、我々に制限を大きく課しているかのような錯覚を、吹き込ませた。
御言葉をしっかり覚えていないと、容易に騙されてしまう。エバはその掻き乱しに、まんまと乗ってしまった。
皆さんも、エバのように、神様は我々を大きく制限し、良き物を出し惜しみしていると思っていないだろうか。
エバは「園にある木の実を食べてよいのです」と答えたが、「どの木からでも」「思いのまま」を省いている。
神様からのあらゆる豊かな恵みが縮小されてしまっており、さらに「園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」と続けた。
エバが「いけない」を3つも言った所に、神様は「いけない」を良く言うお方だという否定的認識を垣間見る。
皆さんも、エバのように、神様は「いけない」を良く言うお方だという思いに、曇らされていないだろうか。
もしそうなら、蛇は、皆さんの誘惑に成功し、神様からの、あらゆる豊かな恵みが、まんまと曇らされている。
神は「触れてはいけない」とは言っていなかった。エバとしては、神様をかばうつもりで、拡大解釈して言ったのだろうが、神様は、人間の力や思いつきによって弁護されるようなお方ではない。神様はむしろ、人間が御言葉にしっかり留まり、多くの実を結ぶ事によってこそ、栄光をお受けになるのだ。(ヨハネ15:7-8)
御言葉に人間的な解釈をつけ足しする事は、パリサイ派や律法学者の道であり、それは、ますます人を束縛し、人を御言葉の真理から遠ざけさせ、サタンを喜ばせる事である。
神様は「それ(善悪を知る知識の実)を取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」と言われたのに、エバの中では「死んではいけないから」と変換されており、「必ず死ぬ」という確信が揺らいでいるのも分かる。
私達がサタンに、心かき乱されるような事を言われた時、答えに急いて、口からでまかせを言ったり、御言葉に根拠の無い、自分なりの解釈を、ぽろっと言ってはならない。
サタンは、御言葉に根拠の無い解釈や、人間的な力・知恵など、これっぽちも怖くはない。
むしろ、御言葉に付け足したり、差し引いたりする事は、サタンの大好物で、さらに付け上がって来る。
エバの中に御言葉への確信がなく、付け足したり差し引いたりしたのを見たサタンは、今度は、御言葉の完全否定を吹きかけて来た。「蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」(3:4-5)
サタンの本質的な性質は、神を引きずり降ろし、自分が神のように高くなる事である(イザヤ14:12-15)。
それに対し、救いの道はその全く逆で、自分を降ろし、主を高くする事である。
私達が主とするべきお方は、唯一キリストのみ、土台とすべきは、自分の考えではなく、御言葉のみである。
主はサタンに試みられた時、御言葉によってを撥ね付けたように、私たちも、御言葉をそのまま、信仰を混ぜて宣言するなら、サタンはやがて去っていくのだ。
「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。」(コロサイ3:16)
御言葉をたっぷりと蓄え、サタンの策略を知って見極め、その手には乗らず、御言葉によって勝利し、信仰者として堂々と歩み、サタンからはむしろ分捕っていく皆さんでありますように!
エバ – 女 - の成り立ち (創世記2:18-25)
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「また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう。」
主が創られたものは、全て良かったが、一つの事を「良くない」と言われた。それは、人が一人でいる事だ。
そこで主は、彼のために「ふさわしい」「助け手」、すなわち、女を造る事にされた。
「ふさわしい(ネゲド)」という言葉は、向き合う者、ペアの一方、対応する同等のものを意味する。
また、旧約聖書で「助け手(エゼル)」という言葉は、そのほとんどの場合、人を助けて下さる神をあらわす言葉で、その「助け」が無ければどうしようもないような、重要な存在である。
つまり女は、男の重要な助け手(エゼル)として造られた。通常、エゼルの言葉が使われる多くの場合、エゼル(助け手)の側が上位であるが、男と女は互いに同等の命であり、互いは助け合い、不足を補いあうものである。『主にあっては、男なしには女はないし、女なしには男はない。それは、女が男から出たように、男もまた女から生れたからである。そして、すべてのものは神から出たのである。』(1コリント11:11-12)
『人にはふさわしい助け手が見つからなかった。そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。』(創世記2:20-22)
未婚の男女が、ふさわしい助け手を得る条件、それは、深い眠り、すなわち、死を通る必要がある。
結婚は人生の墓場だと良く言われるが、それはある意味正しい。独身時代は自分の思うがままに生き、あらゆる異性が、結婚相手になるかもしれない可能性があったが、結婚してからは、そうはいかない。
自分に対して死に、伴侶のために、そして新しく生まれるいのちのために生きるのでなければ、結婚生活は成り立たないが、自分に死ぬのであれば、結婚生活において、すぐれた命の喜びを見出す事になる。
そういうわけで、結婚のための第一条件は「自分に対して死ぬ」事である。
キリストもいのちを投げ出した事によって、助け主・聖霊が、私達に与えられるようになった。(ヨハネ16:7)
『そのとき、人は言った。「これこそ、ついに(今や、今度こそ)わたしの骨の骨、/わたしの肉の肉。男から取ったものだから、/これを女と名づけよう」。』(創世記2:23) 「これこそ、ついに(今や、今度こそ)」という言葉に、アダムが待ちに待っていたものが与えられ、大喜びしている様を見て取れる。
聖書に記録される人間の言葉は、骨の骨、肉の肉が現れた事を喜ぶ言葉である。
アダムは、動物たちに名前をつけて行く際、雄と雌のつがいが、産んで増えて行く様を見て、自分もパートナーを持ちたいと思っていた事だろう。そんな彼が、深く眠らされ、自分のあばら骨を元に、同じいのちを共有する「女」が造られ、彼が目覚めた時、その女が、彼の前に立ったのだ。
神は、アダムも含め全生物を全て、土のちりから創られたが、唯一例外がある。それは、女である。
女は、男の脇腹の骨を元に、同じ骨、同じ肉、同じいのちとして造られた。それで女は、男の脇腹の所が本来の居るべき場所であり、男も、女を同じいのちを共有するものとして尊敬すべきである。(1ペテロ3:7)
『それで人はその父と母を離れて、妻と「結び合い(くっついて離れない)」、一体(一つ肉)となるのである。』(創2:34) これは、男と女の結婚の事にとどまらない。夫と妻との関係は、キリストと教会の関係のひな形であり、パウロは、この奥義は偉大である、と言っている。(エペソ5:32)
そして結婚のための第二条件は、父母の庇護から離れて、一人立ちしている事である。(エペソ5:31-32)
男も女も、親の庇護から離れなくては、伴侶を苛立たせてしまうように、私達も、キリストの庇護に入ったからには、世という親元からは離れていなければならない。
キリストは第二のアダムであり(1コリント15:45)、教会はキリストの花嫁、第二のエバである。
キリストは、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるために、いのちを投げ出され、激しい苦しみによって生み出された教会を見て満足された(イザヤ53:11)。そして、花婿が花嫁を喜ぶように、主は教会である私達を喜ばれるのだ。(イザヤ62:5)
皆さんは、こんなにも愛して下さったキリストに、ふさわしい助け手として、苦しみと喜びを共に受ける生き方をしているだろうか。主人であるイエス様の言うとおりにして、彼に養われる事を望んでいるだろうか。
アダム - 人 - の成り立ち (創世記2:7-9)
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「人」はヘブル語で「アダム」と発音し、人類最初の人の個人名も、そして、人類自体を言う時も、同じアダムという言葉で表す。この、アダムの成り立ちを見る時、人類全体の成り立ちをも、知る事が出来る。
『主なる神は「土(アダマ)」のちりで人を形造り、「命(カイ)」の「息(ネシャマ:霊、風)」をその鼻に吹きいれられた。そこで「人(アダム)」は「生きた(カイ)」「者(ネフェシュ:たましい)」となった。』(創世記2:7)
つまり、人間の元々の成り立ちは、陶器師の手で形作られた器のように、土を素材として神の御手によって形作られた「体」と、神の息を素材とし吹きこまれた「霊」と、神の息が吹き込まれた結果生成した「たましい」の、3要素から成っている事が分かる。体と霊と魂、それが、人間の構成要素である。
それ故、人類は、土を元に体を形作って下さった神から、そして、いのちの息を吹き込んで下さった、霊の大元であられる神から離れて生きる存在ではない。現在、神を知らない人たちが神から離れて歩んでいる有り様は、あたかも、人格の死んだゾンビが、目的もなく、ただ欲求の赴くままに破壊活動したり、互いを喰い合ったりしているようなものである。(何故そうなってしまったのかは後述)
神に由来するものは「いのち(カイ:命、生の、新鮮な、力強い)」である。土のちりを由来とする「人」に、神由来のいのちの息が吹き込まれると、それは、活発で、新鮮な、いのちの活動をするようになるのだ。
『主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に「命(カイ)」の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。・・・主なる神は人(アダム)を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。』(創世記2:9,15)
主なる神は、人が働き生活するべき領域である「園」に、アダムを置き、彼にそこを耕し、守り、管理させたのと同様に、私達も、主が置いて下さった場を、正しく守り、管理するように定められている。
そして、主が置いて下さった私達の働きの場、私達の生活ステージの中央には、2種類の木がある。
すなわち、神が由来である「命の木」と、神から離れ自立して生きる「善悪を知る木」の二つが。
人類なら誰しも必ず通らざるを得ない「二者択一」がある。すなわち、いのちの木を取るか、それとも善悪の知識の木を取るか。それは、人類創造以降、全ての人が避けて通れない究極の二択である。
究極の二択というと、「善か悪か」と思われやすいが、そうではない。聖書が提示する究極の二択とは、神由来のいのちにあって生きるか、それとも、神から独立し自分で善悪判断して生きるかだ。
神である主は、人(アダム)に、一つのルールを授けられた。
「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう。」(創世記2:16-17)
神は、善悪の知識の木から食べる事を、禁じられた。それを食べるその時、必ず死ぬためだ。
結果的にアダムはそれを食べたが、その瞬間に心臓が止まって死んだわけではなく、相変わらず生き続けていた。では、神はウソの脅しをしていたのか?そうではない。人はその時、確かに、死んだのだ。
何が死んだのか?それは、神のいのちの息である「霊」が、である。
神を認知し神と交わりをする器官である「霊」が死んだ人間は、神を離れ、ちりである「体」と、霊が吹き込まれた時の名残である「魂」とをやりくりし、自分で善悪判断をしながら生きていかなくてはならなくなった。
それ故、人は、ゾンビのごとく、目的もなくただ欲求の赴くまま破壊したり、喰い合ったりしているのである。
以上のように、人(アダム)の組成は、元々土のちりであるが、人は元々、この土の器に計り知れない宝を、すなわち、神の息であるいのちの霊を入れる存在として、創られていたのである。
そして、人の生活ステージには、二つの選択肢が置かれている。いのちを選ぶか、善悪判断を選ぶか。
善悪の木にしがみつき、ぶら下がって生きる生き方は、呪い以外の何物でもなく、やがてちりに帰るのみである。しかし、自分で善悪判断する事を捨て去り、いのちなる神に従って生きる時、この土の器の中に、全能なる神由来の、新鮮で力強い、永遠のいのちのともしびが灯るのである。
新鮮な、力強い、いのちの木。それは、イエス・キリストの十字架以外の何物であろうか。私達は最初のアダムとしての生き方は十字架につけ、第二のアダムであるキリストにあって生きるのである。(1コリ15:45)
人間の存在する理由と目的(創世記1:26-31)
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昨年は、イエスキリストの系図に登場する女性たちに的を絞り、どのような性質の持ち主が栄光の家系に入ったのか学んだが、今回から、男性・女性に関わらず、また、栄光の家系に入った・入れなかったに関わらず、聖書の登場人物を観察し、どういう性質の持ち主が、神の民となれるのか、なれないのか、あるいは、神の民であっても、どういう性質であるなら追い出されてしまうのかを、学んで行きたい。
この学びを始める前に、そもそも、神は何のために人間を創られたのか、人間を本来、どのような存在として創られたのか、人が歩むべき本質とは何かをまず知る必要がある。
そうするなら、聖書のあの人物はどういう性質なのか、というのを容易に理解出来るようになり、また、私達が今、人生において、正しい歩みをしているかどうかも、分かるようになるからだ。
まず、人は何のために創造されたのか。それを一言で言うなら、御子キリストのためである。
『万物は、天にあるものも地にあるものも見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。』(コロサイ1:16-17)
そして私達は、万物の創造される前から、既に、キリストにあって選ばれており、父なる神は、天にあるすべての霊的祝福をもって私達を祝福され、御前で聖く、傷のない者にしようとされ、イエス・キリストによって私たちをご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのだ。(エペソ1:3-5)
だから人間は、神抜きに、キリスト抜きに歩むなら、本質を外した、あさっての、とんちんかんな歩みである。
聖書が言う「罪」の元々の意味は、「的外れ」であり、この、本質という「的」を射た歩みをするか、的を外した歩みをするかによって、その人の人生は祝福か呪いか、生か死かの、真逆の実を刈り取る事になる。
神は人を、どのような存在として創られたのか。
『神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。』(創世記1:26-27)
神は元々、人を聖なる神のかたちに、似姿として創られた。だから人は聖なる歩みをすべきであり、神もまた、人に聖である事を求めておられる。(レビ記19:2)
そして、神が創造した全被造物を管理し、全生物を支配するようにと、人は創られている。
果たして人間ごときが全てを支配して良いものだろうか?という疑問が沸くかもしれない。それは、人に罪がある故であるが、神が人類を創造された当初、人は罪を知らなかった。
逆に言えば、人は罪の問題を取り扱わなければ、何事も正しく支配する事は出来ない。
神はまた、人を男と女とに創造された。男と女との関係、それはキリストと教会との関係のひな形である。
男性は、妻や子のために必要なものをもたらして養い、女性は、いのちを生み、夫が与えてくれたものを用いて、家や子供たちの面倒をみて来た。最近はどうあれ、古来より男女はそのような役割分担をして来た。
キリストと人との関係も、同じである。キリストは、私達に必要な良きものをもたらして来る主人であり、そして私達はキリストの妻として、全被造物という家全体を管理し、キリストのいのちを産んで増やし、そのいのち達や、全ての生き物を、妻が家全体のめんどうを見るように、正しく治めるのである。
そういうわけで、私達には「主人」とすべきキリストがおり、父なる神様は私達を、キリストの「妻」としての目的をもって創造された。故に私達には、キリストのいのち産んで増やし地に満ちていく役割と、また、 キリストと共に住むスイートホームであるこの世において、全被造物を、全生物を正しく治め、いのちを養い、管理する責任がある。人は、キリストを差し置いて好き勝手する存在ではないのだ。
全生物が、まだ罪なき人間によって治められ、人が完全にその目的に従って歩んでいた頃、神がそれを見られると、「はなはだ良かった」と評価された。(創世記1:31)
人が創られた目的に従って歩むなら、それは「はなはだ良い」状態であり、充実し、幸い多き人生を送れるが、神から離れ、自分の身勝手な善悪判断によって生きるなら、それは本質を外した歩みである。
