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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

栄光の家系の女達 – ウリヤの妻 5 御心にかなった王朝の確立(1列王記1−2章)
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元々ウリヤの妻だったバテ・シェバは、後に、ダビデ王家の後継者争いに巻き込まれる事になる。
主は、ダビデの次に王となるのはソロモンであると示され、ダビデはその事を公にしていた。(1歴代22章)
しかし、その御心を何とも思わず、王となろうと野心を起こした王子がいた。4男アドニヤである。
彼は自分が王になろうと言い出し、自分につく者達を招いて宴会を催し、王として既成事実を作ろうとした。
『彼の父は彼が生れてこのかた一度も「なぜ、そのような事をするのか」と言って彼をたしなめたことがなかった。アドニヤもまた非常に姿の良い人であって、アブサロムの次に生れた者である。』(1列王記1:6)
親に戒められずに育った子は、恐れを知らず勢いがあり、その上美しい人なら、人は追従するものだ。
私達も、主の御心が既に示されているのに、実際的な動きが全く無さそうな時に、美しく行動力のある者が現れ、御心に反してはいるけれども具体的な行動を取られると、それに迎合したくなる所がある。
王の家来の中に、彼に組する者はいたが、それでも組しない者もいた。王はソロモンであると主が定められた事を覚えていて、それを重んじていた人は彼にくみせず、それを軽んじた人は、彼にくみした。
サタンが私達から奪うやり口も全く一緒で、偽りの所有権を主張して既成事実を作り、人がその勢い飲まれたり無抵抗でいたりすると、さらに調子に乗って、もっと侵入して来る。
偽りの所有権に対しては、速やかに「真理」をつきつけて、必ず、対処しなくてはならない。
偽りの侵入をひと度許してしまうと、もっと調子に乗って来るので、追い出すのがより困難になるからだ。

預言者ナタンはその点、行動が早かった。バテ・シェバの所に行き、ダビデ王に真理を訴えるよう助言する。
王は、バテ・シェバと預言者ナタンの報告と勧めを聞き、動いた。王公認でソロモンを王として立てたのだ。
アドニヤはそれを聞いて震え上がり、祭壇の角をつかんだ。祭壇の角は、赦しのためのいけにえの血が塗られる所で(レビ4:7)、つまりアドニヤは赦しを重んじるやさしい聖徒たちの良心に訴えようとしたのである。
彼が本当に神を恐れる者であったら、自分が王になろうなどという御心に反した行動は起さなかっただろう。
アドニヤはこのように、主と、聖徒のやさしさとを良いように利用したが、主は侮られるようなお方ではない。
ソロモンはこの時、アドニヤを放免した。こうして血を流すこと無く、後継者問題は解決したかのように見えたが、アドニヤは諦めない。悪しき者とは、どうしても自分を滅びへ導くための行動をしたがるようである。

ダビデ王が死んだ後、アドニヤは、今度はソロモンの母、バテ・シェバにターゲットを絞って来た。
母バテ・シェバの願う事なら、断らないだろう、と、踏んだのである。
「ご存知のように、国はわたしのもので、イスラエルの人は皆わたしが王になるものと期待していました。しかし国は転じて、私の兄弟のものとなりました。彼のものとなったのは、主から出たことです。」(1列王2:15)
彼は、ソロモンが王になったのは主から出たと告白している。なのに、自分の野心の方を通そうとしたのだ。
「どうかソロモン王に請うて、シュナミびとアビシャグをわたしに与えて妻にさせてください。」(1列王2:17)
アビシャグを自分の妻としたい、という願いは、巧妙な罠である。父ダビデの妻(あるいは妾)であった彼女を自分の妻とするなら、自分こそダビデの王位を継ぐに相応しいと、いつ名乗りをあげないとも限らない。
バテ・シェバは、よく分からないで了解し、そのまま正直にソロモンに伝えに行った。彼女は王家で育った訳でないから、そういう事に疎いし、あるいは、アドニヤの勢いに押されたのかもしれない。彼は、ソロモンの実母バテ・シェバの頼みなら聞くだろう、そして彼女をだますのは、たやすい事だ、と思っていたのだろう。
悪しき者が、女を先に欺くのは、エデンの園から用いられてきた、人を堕落させる古典的な方法である。
しかし主は、その企みをソロモンに見抜かせて下さり、アドニヤはそれが元で殺される事になった。

アドニヤが野心を抱いて行動した事がきっかけとなって、ソロモンの即位が実体となっただけでなく、新王朝で反乱しそうな者達をも、早期に燻り出す結果となり、こうして、ソロモン王朝が確立した。
私達も、油断している時に、悪しき者が入り込んで来る時がある。その時、その者に飲まれたり、無抵抗でいたりしてはならず、早急に真理を突きつけ、御言葉の剣を突きつけて、対処しなくてはならない。
知恵と真理をもって、悪しき者に対するなら、かえってその事は益となり、滞っていた物事は進み、いのちの前進があるのである。

栄光の家系の女達 - ウリヤの妻4 罪の増す所に恵みも満ちる(2サムエル記12:15-25)
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『主は、ウリヤの妻がダビデに産んだ子を撃たれたので、病気になった。ダビデはその子のために神に嘆願した。すなわちダビデは断食して、へやにはいり終夜地に伏した。』(2サムエル12:15-16)
ダビデは七日間、そのように断食して祈った。周りの人が見て、痛々しいと見えるほどに。
しかし主は、ダビデが主の敵に大いに侮りの心を起させたために、その子は必ず死ぬ、という宣告を取り下げず、その子は七日目に死んでしまった。
人が祈っても無駄か、というと、そうではない。悔い改めて立ち返るなら、主は災いを思い直される事もある。
ニネベの町は罪から立ち直ろうと真剣になったため災いの宣告は撤回されたし、ソドムの町も、アブラハムの執り成しによって、義人が10人でもいるなら、災いは起こらない所まで漕ぎ着けられた。
しかし、いかに人が断食して祈ろうとも、いかに執り成そうとも、主が宣告された通りの事が起こる事がある。
そうなった場合、私達はダビデの取った対応を取るべきだ。ダビデは、子が死んだと分かった時、地から起き上がり、体を洗って油をぬり、着物を替えて、主の宮に入って礼拝してから、家に帰って食事をとった。
その事は人々を不思議がらせた。あんなに子のために必死に祈ったのに、死んでしまったのだから、もっと大声で泣き、主に涙と叫びをもって訴えるほうが、理にかなっているのでは、と人は思う。
しかし、いかに断食し、必死で執り成しても、主が宣告された通りの事が起こったなら、私達はその結果をとやかく言わず、そのまま受け止めるべきだ。ダビデも「あなたが宣告をお与えになるときは正しく、あなたが人をさばかれるときは誤りがありません。」(詩篇51:4 )と告白している。

ダビデは生きながらえ、子は死んだ。そしてこれから、主が言われた通り、剣がダビデの家を離れない。
長男アムノン、三男アブシャロムは罪を犯し、殺されて然るべき状況に自ら邁進して刃に倒れたが、いずれもダビデは、不自然な程に、泣き過ぎる程、泣いていた。(2サムエル13:39、18:33-19:8)
もしかしたら、「剣はあなたの家から離れない」という、「自分の罪のせい」だと思っていたのかもしれない。
ダビデは自分の罪の故に死ぬのではなく、罪を背負い、報いを刈り取りつつ生きなくてはならなかった。
罪の刈り取りは、必ずある。しかし主は、人が一度罪を犯せば罰の中に永遠に閉じ込めたままにされるお方ではない。懲らしめられて悔い、主に帰ろうとする人を、主は憐れまずにはいられない。(エレ31:18-22)

『ダビデは妻(英訳:「his wife」)バテシバを慰め、彼女の所にはいって、彼女と共に寝たので、彼女は男の子を産んだ。ダビデはその名をソロモンと名づけた。主はこれを愛された。』(2サムエル12:24)
ダビデは、バテシェバを「彼の妻」として近づき、慰め、夫婦の営みをした。いかに元々が姦淫によって結ばれ、元夫ウリヤの血に塗られた夫婦であっても、罪の処罰の後には、慰めがあるのだ。
同じ罪によって、二度も、三度も罰される事は無い。主イエスはただ一度、私達の罪の故に身代わりとなって懲らしめを受け、十字架上で死んで下さった。ただ一度だけである。そしてそこに恵みが増し加わった。
そして産まれて来た子を、ダビデは「ソロモン(平和)」と名づけた。ノアの洪水の後に、虹と共に平和の契約が成就したように、キリストの十字架上の処罰によって、神と人との間に平和が実現したように。
そうしてイエス・キリストの系図に「ウリヤの妻」が記され、ソロモン(平和)が記された。
まさしく、次の御言葉の通りである。『罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。それは、罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである。』(ローマ5:20-21)

もしダビデが、姦淫と殺人の罪を犯さなければ、ソロモンは生まれず、イエス・キリストも生まれなかったのだろうか。姦淫と殺人の罪は、必然だったのだろうか。決してそんな事は無い。(ローマ6:1-2)
ダビデが罪を犯さない状態で人生を過ごしていたなら、剣に追われる事も無く、妻達を公然と寝取られる事も無かったはずだ。ただ主は、人間の罪ごときによって、祝福のご計画を頓挫される事など、決して無い。
たとい人が最悪の罪を犯したとしても、それを最善へと造り替える事の出来るお方である。
私達は、ダビデのように罪を犯して、剣で追われる生涯は送る必要は無い。むしろ生涯、正しく主に仕え通し、栄光ある者として名を残す皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

栄光の家系の女達 – ウリヤの妻3 あなたがその人です。(2サムエル記12:1-14)
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『主はナタンをダビデにつかわされたので、彼はダビデの所にきて言った、「ある町にふたりの人があって、ひとりは富み、ひとりは貧しかった・・・。』(2サムエル12:1)
この話中の、富んだ人はダビデを、貧しい人は、ダビデによって謀殺されたヘテ人ウリヤを、よく表している。
ウリヤは元々、滅ぼされるべきカナンのヘテ人であったのに、まことの神・主を慕い求め、イスラエルの民に加えられ、その純粋な信仰と誠実な人柄の故に、そして、戦士としての有能さの故に、ダビデの三十勇士の一人に数えられ、同じ三十勇士の一人エリアムの娘、バテ・シェバという美しい妻も与えられた。
以前は暗闇の民であったのに、今は神の民とされ、与えられた恵みの日々に喜びつつ、与えられた妻と共に食べ、共に寝ていた。そうして、主と、主が立てられた権威とに忠実に仕える幸いな日々を送っていた。
しかし、その幸いな日々は、ある日突然、ダビデ王によって奪われてしまった。
ダビデはその事を隠れて行ったが、覆われているもので、露わにされないものは無い。(ルカ12:2-3)

ダビデはナタンの話を聞いて、話中の貧しい者の一頭の雌羊を取った金持ちに激しく怒り、そのような憐れみの無い者は死ぬべきだ、なおかつ、四倍にして償いをしなくてはならない、と宣告した。
確かに律法には、羊一頭を盗んだ場合は四倍にして償うべき事が記されているが、死刑とは書いていない(出エジプト記22:1)。ダビデは、この喩えが自分に向けて語られた事に気付いていなかったが、それ程に人は、自分がした事、神と人とに犯してきた罪を覚えておらず、それでいて、他人の犯した罪をよく覚えていて、その裁きを厳しくし、そうして自分自身を罪に定めてしまうのだ。(ローマ2:1)
『ナタンはダビデに言った、「あなたがその人です。」』(2サムエル12:7)
自分が犯した罪を明確に指摘されたダビデは、王権を乱用して闇に葬り去ろうとする事なく素直に認めた。
「私は主に罪をおかしました。」 ダビデはこの素直でシンプルな罪の告白によって、死を免れたが、この言葉にさらに色々な付け足しをして、逆に罪を増し加えた人も、多い。言葉数の多い所には罪がある。
サウルの場合は、私は主に罪をおかしました、だから私を赦して、一緒に来て礼拝を捧げささせて下さい、と、サムエルに頼んだ。それは、彼の体面を保つためだった。(1サムエル15章)
エジプトのパロも、自分は主に罪を犯した、と言ったが、すぐ後に、だからこの苦しみを取ってくれ、自分のために祝福を祈ってくれ、と続けた。でも彼は、苦しみが取り除けられたら、すぐまた心頑なにしてしまった。
私達が「自分は罪を犯した」と言う場合、どれ程の当事者意識があるだろうか。インスタントに苦しみから脱却したいから口先で言っているだけではなかろうか。もう、その罪を犯さない覚悟は、あるだろうか。
「あなたがその人です。」という言葉を聞いた時、どれ程純粋に、そのまま受け取れるだろうか。
ダビデは、ナタンに罪を指摘された時、詩篇51篇を記したが、そこで彼は、自分の罪は母の胎にいる時から本質的に存在しており、ただ、主に清めていただく事が必要だと告白し祈っている。(詩篇51:5-9)
「あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげても、あなたは喜ばれないでしょう。神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。」(16-17節)
サウル王は、自分は罪を犯した、だから礼拝だ、いけにえだ、と言って聞かなかったが、ダビデの場合、たとえ主に捧げても、今の自分の罪ある状態では、決して受け取られない事を、わきまえていた。
自分の罪を悲しみ、悔い、もうそこには戻らないという決心を含んだ、砕かれた心を、主は受け取られる。
そうして主が赦して下さる時、私達ははじめて真に礼拝を捧げられ、主はそれを受け取って下さるのだ。

確かにダビデの罪は、主の御前に赦された。しかし、行動の結果は、必ず刈り取らなければならない。
ナタンを通して主が語られた通り、この姦淫の結果生まれた子供は死に、後には、ダビデのそばめ10人は彼の子アブシャロムによって白昼堂々と寝取られ、ダビデの家から剣が離れないと言われた通りに、ヘブロンで生まれた3人の子は剣で殺された。そしてダビデは、それらに逆らわず、甘んじて受けた。
自分の罪の故に、主からの懲らしめを受ける時、それは確かに辛い経験ではあるが、罪を隠している時よりは、心は安らかである。彼は罪を隠している時の、骨身にしみる渇きと疲れを、そして、罪を告白して主に赦していただいた時の幸いと喜びを、詩篇32篇に記している。
罪があればすぐに主に告白し、いつも御前に心安らかでいる皆さんでありますように!

栄光の家系の女達 – ウリヤの妻2 いのちの光を消す罪(2サムエル記11:14-27)
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ダビデは、ヘテ人ウリヤを妻の所に帰らせ、妻と寝るように仕向けて、自分が彼の妻を身ごもらせる行為をした罪を隠そうとしたが、ウリヤは実直で忠実な性格の故に、帰らず、ダビデの目論見は失敗に終わった。
そこでダビデは別の手段を講じて罪を隠そうとした。すなわち、ウリヤを謀殺し、妻を奪う事によって。
『朝になってダビデはヨアブにあてた手紙を書き、ウリヤの手に託してそれを送った。彼はその手紙に、「あなたがたはウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼の後から退いて、彼を討死させよ」と書いた。』
新しく結実した、自分の子という新しいいのち。そのいのちの存在そのものが、自分の罪の証左となり、都合が悪いからという事で、そのいのちを、あるいは、相手のいのちを消す。
それは、昔から現代に至るまで、人の間ではよく行われて来た事である。現在、わが国の死亡原因の一位は「ガン」で、年間30万人ほどであるが、1950-2000年の死因のトップは、ずっと「中絶」で、1950年代はなんと、年間100万以上の生まれぬいのちがあった。事実、日本には、水子供養の偶像がいたる所にある。

『ウリヤの妻は夫ウリヤが死んだことを聞いて、夫のために悲しんだ。その喪が過ぎた時、ダビデは人をつかわして彼女を自分の家に召し入れた。彼女は彼の妻となって男の子を産んだ。しかしダビデがしたこの事は主を怒らせた。』(2サムエル11:26-27)
ウリヤの妻は、夫の死を悲しんだ。彼女はきっと泣きながら、死んだ夫の名を幾度も呼んだ事だろう。
ウリヤよ、ウリヤよ、と。ウリヤの名は「主の光」という意味である。主の光よ、主の光よ・・・。
主は、一人の忠実なしもべの不当な死を、見過ごしにはされず、不当な死を痛み悲しむ嘆きと祈りを、聞き漏らす事は無い。人の犯した罪の全てを、人知れず流した罪なき者の涙を、主の光は晒しだす。
人は思うかもしれない。主はそこまで徹底して明らかにしなくても良いのでは、と。しかし、もし主がほうって置かれたなら、ダビデの家に、第二第三のウリヤが、第二第三のバテ・シェバが出たかもしれない。

聖書は、性的な罪については、旧約でも新約でも、禁止事項としての優先順位が高い。性は、いのちに関わる事である。いのちを完全無視し、快楽だけを全面に押し出し、いのちをその背後に抹殺してしまう者は呪われ、土地から吐き出されてしまう。実際カナンがそうだったし(レビ記18:24-28)、今の日本がそうである。
世界はかつて、道を踏み外した行為のはびこりにより、一度滅びた事がある。ノアの洪水の前、神の子達は人の娘の美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとり、ネフィリムが生まれ、そして暴虐が満ちて行った。
『主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。・・・時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである。』(創世記6:5-11)
ノアの時代、道ならぬ性によっていのちが呪われ、虐待が虐待を生み、暴力が暴力を生み、憎しみが憎しみを生み、新しく世に生まれてくるいのち達は、無防備に、暴虐に満ちた世へと、ただ送り出されて行った。
神はどれほど心を痛められただろう。
その世界を一度、水によって全て洗い流した事は、神の憐れみではなかろうか。

だから神は、栄光の家系を築き上げていくダビデの、そのような罪を、決して見逃す事はしなかったのだ。
ひと度罪を犯し、それを絶対に隠し通そうとすると、坂道を転げ落ちるがごとく、罪に罪を重ねる事になる。
ダビデは、嘘に嘘を塗り固めるために、あの実直で忠実なウリヤを謀殺し、その妻を自分のものとするまでになり、罪に歯止めが効かなくなってしまった自分に、苦しんでいたかもしれない。(詩篇51:3 、32:3-4)
主は、そんなダビデをも、憐れまれる。歯止めが効かなくなってしまった、罪に走る足を、主の光に照らし出す事によって、止めて下さる。それは、痛みを伴う事ではあるが、主の懲らしめは、主の慰めである。
性的に「道」を踏み外す事、それは暴虐が満ち溢れる元であり、呪いと滅びを招く元、その地から吐き出される元である。私達キリスト者は、御言葉に従って正しく伴侶を愛し、正しく産み、神の御心に叶ったいのちを増やして行くべきであり、そのためにも、この国に福音を告げ知らせて行くべきである。

栄光の家系の女達 - ウリヤの妻 忠実なヘテ人ウリヤ(2サムエル記11:1-13)
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栄光の家系の女達の第四人目は、ウリヤの妻、バテ・シェバである。
彼女は、それまでの3人とは、色々な面において異なっている。今までの3人は、何かしらの信仰の行動を起こして、栄光の家系へと加えられたが、彼女は、特に何か行動を起こしたわけでもない。
彼女はただ為されるがままである。体を洗っている裸を、ダビデ王に勝手に覗かれ、一方的に王に召しだされ、王の姦淫の相手とされ、そして一方的に王の子をみごもり、後には、一方的に夫・ウリヤは謀殺され、彼女はダビデ王の妻として迎えられ、そして、生まれて来た子は、王の罪の故に、主に打たれてしまった。
マタイの福音書には、バテ・シェバという名は記されず、「ウリヤの妻」として記されている。だから彼女を見る時、「ウリヤの妻」として見る必要があり、そしてウリヤがどのような人であったかを、まず知る必要がある。

ウリヤはヘテ人である。つまり、イスラエルが忌み嫌っているカナン人の末裔ではあるが、ウリヤという名前は「主(ヤハウェ)の光」という意味があり、また、ダビデの三十勇士の一人に数えられていたため(2サムエル記23:39)、恐らく彼も、ルツのように、イスラエルの神を慕い求めて来た異邦人の改宗者だったのだろう。
彼は、バテ・シェバという美しい妻を迎えた。彼女は、ダビデの三十勇士の一人エリアム(2サムエル23:34  名前の意味:神の民)の娘で、きっとエリアムは、ウリヤのその純粋な信仰と、誠実な人柄のゆえ、また、戦士としてのその有能さのゆえ、彼がヘテ人であるにもかかわらず、自分の娘を嫁がせたのだろう。
彼は、偉大な王ダビデに仕える戦士とされた事と、美しい神の民の娘を妻として迎えた事、そして、イスラエルの神に仕える者とされた事を喜びつつ、忠実に責務を果たす日々を送っていたのだろう。

その日もウリヤは、アモン人との戦争のために、イスラエルの全軍と共に遠征していた。
しかしダビデ王は、イスラエルの全軍が遠征に出かけていたのに、彼だけはエルサレムに留まっていた。
『ある日の夕暮、ダビデは床から起き出て、王の家の屋上を歩いていたが、屋上から、一人の女が体を洗っているのを見た。その女は非常に美しかった。ダビデは人をつかわしてその女の事を探らせたが、ある人は言った、「これはエリアムの娘で、ヘテびとウリヤの妻バテシバではありませんか」。』(2サム11:2)
律法によると、人妻と通じる者は死刑であるのに(レビ記20:10)、ダビデは、ヘテ人の妻なら何しても良いと思ったのだろうか、彼は使いをやって彼女を召し入れ、彼女と寝た。
しかし、タマルの時と同じように、この、たった一度の逢瀬により、彼女はみごもる事になる。

ダビデ王は、彼女がみごもった事を聞いて、自分の罪を隠そうと、一計を案じる。
彼は、ウリヤを自分の所に送るように命じ、彼から適当に戦いの状況をたずねてから、家に帰るよう命じた。
ウリヤからすれば、あの尊敬する神の民・イスラエルの王・ダビデのお墨付きで、しかも贈り物つきである。
普通なら、喜んで美しい妻の待っている家に帰り、久しぶりに妻と一緒の時を楽しむ所だが、そうではない。
「神の箱も、イスラエルも、ユダも、小屋の中に住み、わたしの主人ヨアブと、わが主君の家来たちが野の表に陣を取っているのに、わたしはどうして家に帰って食い飲みし、妻と寝ることができましょう。」(11節)
彼はなんと忠実な人だろうか!主御自身も、イスラエルも、主人ヨアブも、戦いに出て野営している、それに引き換え自分だけ家に帰り、妻といい思いをする事など、できない、と言うのである。
それに引き換え、ダビデ王は一体、何をしたのだろう。主も、部下も、戦いに出て野営しているというのに、彼だけ王宮に留まり、しかも夕方に起きだして屋上を散歩し、人妻を見て欲情し、姦淫する。
ダビデ王は、ヘテ人のこの忠実な一兵士の言葉を聞いて、悔い改めるべきだったが、そうはせず、かえってますます罪を隠そうとし、ついには、この忠実なしもべを殺そうとたくらむまでになってしまう。
ダビデ王と言えば、誰もが認める偉大な王である。ちょっとくらい、人妻と寝ても良いのでは、と思われる。かもしれないが、主の光に照らされる時、むしろ王だからこそ、そのような事は、許されないのだ。
福音書の系図に、なぜ「ウリヤの妻」として記されたか、それは、忠実なウリヤというヘテ人がいた事が記録され、多くの人に知られるためではないだろうか。主は、ウリヤのように、一外国人であっても、主と主君に忠実な人が陰謀によって殺され、人知れず暗闇の中に葬り去られる事など、決してゆるさないのだ。
その主のご性質は、弱き人にとっては慰めであり、強き人にとっては、戒めとして覚えておくべきである。

栄光の家系の女達 - ルツ5 買い戻して下さる方(ルツ記4章)
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ルツやナオミの家を買い取る人が、ボアズとなるかどうかは、第三者の判断次第となり、この問題は一旦、ルツやナオミの手を離れて、全能なる主の采配に委ねるしかなくなった。
ナオミはルツに、この事がどうなるか分かるまで、落ち着いて信頼するように言い、さらに、「あの人は、きょう、その事を決定しなければ落ち着かないでしょう」(ルツ3:18) とも言った。
あの人は、きょう、その事を決定する・・・。彼女達は確かにこの問題をどうする事も出来ない。しかし「あの人」が、この問題の解決のために、動いて手続きしてくれる。
私達も、ルツのように、信仰の先輩に言われた通りに主イエス様の元に行き、自分が主のはしためである事を告白し、主の救いの衣の内に入らせて下さいと願うなら、主はそれを喜んで下さり、私達が納まるべき所へと納まるまで、全ての算段を整えて働いて下さるのだ。

ボアズは早速、正式に手続きするために、その親類の人と、さらに町の長老10人を呼び寄せた。
かの親類は、畑の買い戻しは自分がする、とは言ったものの、ルツと結婚しなくてはならない事も聞くと、それは出来ないと拒んだ。そもそも、買戻しの話は、買戻す側にとって、デメリットしか無いような話である。
ヨベルの年までの年数に従ったレートでその畑を買い戻すのだが、その畑は、自分のものとはならない。
生まれてくる最初の男の子に、死んでしまった親類の名を継がせ、その畑は、その子のものとなるのだ。
『そこで親戚の人がボアズにむかい「あなたが自分であがないなさい」と言って、そのくつを脱いだ』(7節)
主は、アブラハムやヨシュアに「あなたの足の裏で踏む所は、ことごとく与えた」と言ったが、靴を脱いで相手に渡す事は、その土地を踏み歩く権利を、相手に渡した事を象徴するものであり、イスラエルにおいては、買戻しの権利を譲渡する事の、正式な証明方法である。
だから、妻とすべき女性をめとる事を嫌がって「くつを脱がされた者の家」(申命記25:10)と烙印を押される事は、イスラエルの土地を踏み歩く権利を脱がされた者として、かなりの恥辱となる。
実際ルツ記は、オルパという脇役女性の名さえ記されているのに、この親類の名は、一切記されていない。
栄光の家系を受け継ぐ人とは、物質的・肉的な相続を優先させる者ではなく、信仰によって身寄りのない人を養い、御言葉を実践する人である。
飢えた人にパンを分け与え、貧しい人々を家に入れ、裸の人に着せ、肉親の世話をするなら、暁のように光がさし出で、傷はすみやかに癒され、絶えず主に導かれ、焼けつく土地でも、思いは満たされ、骨は強くされ、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。(イザヤ58:6-12)

「わたしはマロンの妻であったモアブの女ルツをも買って、わたしの妻としました。」(ルツ記4:10)
ボアズがルツを買った事、それは、私達のボアズであるイエス様が、私達を買って下さる事を表している。
世の何者も、私達を買い取る事は無い。私達を買い取るメリットなど無く、ただ重荷にしかならないからだ。
しかしイエス様は、私達を買い取って下さった。何のメリットも無いのに。それどころか、自分のいのちを投げ出さねばならぬという「究極のデメリット」しか無いのに。それは、ただ、大きな愛の故である。

こうしてボアズは、神と人とに祝福されつつ、正式にルツをめとり、主は、ルツに男の子を授けて下さった。
律法によるなら、本来、この子の名はマフロンとなるはずだが(申命記25:6)、なぜか女たちはその子を「オベデ」と呼んだ。(ルツ記4:17)
ルツの亡夫「マフロン」の名には「大きな欠点」「病弱」という意味があるが(ちなみにオルパの夫キルヨンは「浪費する」「消え失せる」の意味)、「オベデ」という名には「仕える」「僕」という意味がある。
私達の家を絶やさない責任のある人に、大きな欠点があったり、病弱であってりするなら、困るだろう。
あいにく、世の人は、罪という病の故に欠点があったり弱かったりして、その責任は果たせないが、父なる神の忠実なるしもべであるイエス様は、その責任を、完全に果たす事がおできになる。
ルツの子オベデは、ナオミの老後を養う者となり、その子孫から、偉大な王ダビデが、そしてキリストが出た。
同じように私達も、信仰によってイエス様を内に宿し、信仰によって生んだ霊的な子孫たちは、後に私達を養い、キリストの花嫁として、神の教会(エクレシア:召し出された者達)として、共に完成されて行くのだ。

栄光の家系の女達 - ルツ4 栄光の家系の婚活(ルツ記3章)
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ルツ記3章は、ルツの結婚のための「婚活」と言える。
世の中の”婚活”は、いかに自分好みの、いかに条件の良い相手を見つけて、いかにやりくりしてそのような人との結婚へ持っていくか、というイメージがあり、その相手選びの判断基準は「自分中心」である。
しかし、神の民の婚活は、その真逆である。神の民の婚活は、イサクの結婚の時のように、自分の好みや意志は一切関係なく、霊的指導者や親に一任し、主の御心を求めて行うものである。
聖書では、自分の好みや目に慕わしい、という価値観で結婚相手を選ぶとしたら、それは身を滅ぼす元である。(創世記6章、士師記14:3)
それで、ルツの霊的指導者であるナオミは、ルツの「落ち着き所」へと導くため、一働きする。
『娘よ、わたしはあなたの「落ち着き所(原意:家庭、憩いの場所、休みの場所)」を求めて、あなたをしあわせにすべきではないでしょうか。』(ルツ記3:1)
女性にとって落ち着き所、憩いの場所は、男性の左腕の下(雅歌2:6)、脇腹の所(創世記2:21-22)である。
ナオミはルツに、ボアズの所に行って、「その足の所をまくって、そこに寝なさい」、と指示するが、ルツはナオミの言葉に、とまどったかもしれない。しかし、ルツがボアズと結婚する事、そして、ルツがボアズに言った言葉は、確かに御言葉に叶った事であった。(申命記25:5) 
ルツは、自分の判断は一切捨て、「あなたのおっしゃることを皆いたしましょう』(5節)と言って服従した。

ルツはナオミからの言いつけ通り、身を洗って、油をぬり、晴れ着をまとって、ボアズの所へ行った。
私達もキリストの所に行く時は、そのまま行くのではなく、御言葉の洗いによって身を洗い清め、聖霊の油を塗り、キリストが与えて下さった贖いの衣を身にまとって行くべきである。
そして言われた通り、ボアズの衣をまくって中に入り、そこに寝た。
『 「お前は誰だ」とボアズが言うとルツは答えた。「わたしは、あなたのはしためルツです。どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です』(3:9新共同訳)
女性が男性に積極的に求婚する事は、イスラエルではかなり例外的な事であり、ましてや、未婚女性が寝ている男性のすそをまくって、その中に入るなど、もっての外である。
しかし、彼女がした事は、「真実な事」である。私達は全て、キリストに対しては女であり、私達の家を絶やさぬ責任のある方・キリストの御衣の下に自ら飛びこんで行く事は、御心に叶った事である。
ボアズは、彼女がした事は、ナオミにした親切よりも勝っている、と褒めた。なぜならルツは「自分の選び」によって若い人の所へ走らず、御言葉に服従し、買戻しの権利のあるボアズの所に来たからである。
御言葉を大切にするボアズとしては、御言葉に叶った彼女の願いを、蹴る訳にはいかない。

私達も、まことのボアズであるキリストに、「わたしはあなたのはしためです。」「あなたの贖いの衣でわたしを覆ってください。」「あなたは罪と死から、いのちへと買い取って下さる方です。」と願い出るべきである。
私達の真の落ち着き所、憩いの場所、戻るべき家は、キリストの御衣の内、キリストの脇腹の所であり、私達の上に翻るあの方の旗じるしは、愛である。(雅歌2:4)
御言葉そのものであるキリストは、御言葉を盾にとって願い出るなら、それを拒む訳にはいかない。

ボアズは言う。「たしかにわたしは近い親戚ではありますが、わたしよりも、もっと近い親戚があります。」
ルツをめとるべき責任がボアズよりも大きい親類が、他にいたのだ。
ボアズは、彼を差し置いて結婚に急ぐ事は道理に叶わぬ事とし、その事をないがしろにしなかった。
こうして、ボアズとルツの結婚は、その人の意志次第となり、ボアズにとっても、ルツにとっても、ナオミにとっても、結婚は一旦、神の元に手放された事になる。
ナオミはルツに言った。『娘よ、この事がどうなるかわかるまで「お待ちなさい(ヤーシャブ)」。あの人は、きょう、その事を決定しなければ落ち着かないでしょう』(ルツ3:18)
ヤーシャブは「住む、とどまる、座る」という意味がある。じっと座っている事、落ち着いて静かにしている事。
主の御前に手放したものは、落ち着いて信頼していれば、あとは主が、全ての手続きをして下さるのだ。

栄光の家系の女達 – ルツ3 驚くばかりの恵み(ルツ記2章)
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ルツが飛び込んだ畑は、はからずも、彼女の家を絶やさぬ責任のある親族の一人、ボアズの畑だった。
ボアズは、私達を買い取ってくださるイエス・キリストの雛型であり、そのボアズの畑は、主イエスキリストが支配される神の王国の特徴そのものである。私達も、イエス様を主とし、神様を中心とした新しい生き方へと飛び込むなら、神のものとされ、王族の息子や娘のように、主からの特別扱いを受けるようになるのだ。
私達は主から、どのような特別扱いを受けられるのか。それは、ボアズがルツに為した通りである。
今回、主イエスを信じ神の国に飛び込んだ私達は、どれ程の特別待遇を受けられるのか、見て行きたい。

ボアズの畑には豊かに恵みの落ち穂が落ちており、祝福の挨拶が交わされている。(4節) しかし、ボアズの畑以外に入っても、そこは落ち穂は残っていなかったり、たとい落ち穂が落ちていたとしても、そこの人にいじめられたり、刺々しい雰囲気だったりする。主を除外して渡る世間は、鬼ばかりである。
私達のボアズである主イエス様は、私達に、他の所に行ったりせず、主の元にいる娘たちと共にいなさいと語りかけられ(8節)、主の働き人たちが、いのちの刈り取りの働きをしている後について行って、そのおこぼれに与りなさい、と言われる。私達は、そのいのちの恵みと祝福のおこぼれに、十分与かれるばかりでなく、私達が恵みを拾う事の邪魔をしないよう、主は周りにきつく命じて下さり、渇いたなら、主のしもべが汲んでくれた水から、存分に飲んで良いと言って下さる。(9節、イザヤ55:1、ヨハネ7:37)
ルツはボアズの優しい言葉に驚いたが、私達が主から頂く恵みは、本当に、驚くばかりである。
主はなぜ、恵みを受けるに値しないような私達に、そこまでの恵みを注いで下さるのか。
『ボアズは答えて彼女に言った、「あなたの夫が死んでこのかた、あなたがしゅうとめにつくしたこと、また自分の父母と生れた国を離れ、かつて知らなかった民のところにきたことは皆わたしに聞えました。』(11節)
ボアズが言ったように、主は、私達が主の聖徒達にした事を、すっかり見聞きしておられる。主の弟子だという事で、たとい、小さな子どもの一人に水一杯でも与えるなら、その報いからこぼれ落ちる事は無い。
もし私達が今まで生きてきた世の価値観から離れ、主を頼り、主の元に来るなら、私達のボアズである主は次のように祝福して下さる。「どうぞ主があなたのしたことに報いられるように。どうぞイスラエルの神、主、すなわちあなたがその翼の下に身を寄せようとしてきた主からじゅうぶんの報いを得られるように。」(12節)

ルツはボアズに、実に謙虚な感謝をしたが、それでボアズは、さらなる恵みの命令を、しもべ達に命じる。
私達も、主が下さった恵みに感謝し、謙虚に喜ぶなら、主はさらなる恵みを命じて下さる。しかし、与えられた恵みを当たり前のように受け、何の感動も礼もなく、傲慢に振る舞うなら、恵みはそこでストップしてしまう。
ボアズは、ルツに炒り麦をたっぷり与え、ルツは食べ残した余りをナオミに持って帰るほどに満たしたが、主も、私達の渇いた心を満ち足らせ、飢えたたましいを良いもので満たされる。(詩篇107:9)
『ボアズは若者たちに命じて言った、「彼女には束の間でも穂を拾わせなさい。とがめてはならない。また彼女のために束からわざと抜き落しておいて拾わせなさい。しかってはならない」』(15,16節)
私達も、ルツのようにへりくだるなら、主は私達にさらなる恵みの深きへと導いて下さり、しかも、本来なら主の倉に入るべきものさえ、抜き取って、私達が拾えるように、わざと落として下さる。
主は、私達がそれを拾う事に、何の咎めも無いようにし、そうして私達は、大胆に恵みの座に近づき、折にかなった助けを、存分に得る事を許されるのだ。(ヘブル4:15-16)

ボアズの畑に入ったルツは、その日だけでも、二十三リットルもの大麦と、ボアズ自身から頂いた炒り麦を、ナオミの元に持ち帰り、主から見放されたような気持ちだったナオミに、主の恵み深さを再び気付かせた。
ナオミは、ボアズが「わたしたちの家を絶やさないようにする責任のある人の一人」であると言った。(20節)
新共同訳で「家を絶やさないようにする責任のある人」と訳された言葉はヘブル語で「ゴエル」、「買い戻す責任と権利のある人」とも「最も近い親戚」とも訳す事の出来る言葉であるが、主イエス様こそ、私達の家を絶やさぬ責任のあるお方である。主は、私達の人生を、いのちへと買い戻してくださるお方である。
ボアズの特徴こそ、私達の主の特徴であり、主は私達の仕事を祝福して下さるだけでなく、家族をも満ち足らせて下さり、「こんなに恵まれて良いのだろうか」と、逆にこわくなってしまう程に、恵んで下さるのだ。

栄光の家系の女達 – ルツ2 信仰をもって畑に飛び込め(ルツ記2:1-3)
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ルツがイスラエルに初入国した時、彼女は、モアブ出身の一介の未亡人で、頼るべき男手も、財産も一切無い、一緒にいるのは、ただ傷心に沈んでいる、年老いた姑のナオミだけという人生を歩み出すには、あまりにも不利な条件が揃いすぎている状況であった。
しかし彼女は、偉大な王・ダビデの曾祖母となり、全世界を祝福へ導くイエスキリストの母として名を連ねた。
私達もルツのように、栄光の家系へと加えて頂く事が、可能である!
たとい当時のルツのように、弱く頼り無くても。いかに、人生を生きるには不利な条件ばかり揃っていても。

ルツ達は、大麦の刈り入れの時期にベツレヘムに着いた。落ち穂拾いが出来るのは、刈り入れた日から一、二週間ほどの短い期間で、ルツ達は、それが出来るちょうど良い時期に、ベツレヘムに着いた。
困難な状況の中でも、主が与えて下さった、ちょうど良いタイミング。しかしナオミは、落ち穂拾いには行けなかった。誰かの畑に入って落ち穂を拾わなくてはならないまでに落ちぶれてしまった自分を、昔ながらの知り合いの前に、晒したくなかったのだろう。しかしルツは、イスラエルの神が定めて下さった「落ち穂拾い」という憐れみにすがり、取るものも取り敢えず、落ち穂を拾うために、どこかの畑に飛び込んだ。
信仰が萎え果て、何も出来なくなった時でも、信仰によって育てた霊的な娘が助けてくれるのである。

外国人の彼女が、他人の畑に入り、人が取りこぼした落ち穂を拾い集める。それは、どれほど恥をしのぶ行為だっただろう。それでも彼女は、ただ謙虚に、膝をかがめて、憐れみにすがった。
私達も、「恵み」という 落穂を拾うには、謙虚に膝をつき、低くかがむ事によって、拾う事が出来る。
困った状況に陥った時、「自分は大丈夫だ」「人の憐れみなどいらない」などと、やせ我慢をしてしまうと、そのプライドが、逆に自分の首を締め、ますますどうにもならない状況へと、追い詰められてしまう。
主の恵みを頂くには、まず「誇り高さ」や「自尊心」は、打ち砕かれていなくてはならない。
主は憐れみ深い。どんなにそしりを受けても、口をちりにつけて主の救いを黙って求めるなら、主はいつまでも見放してはおられず、豊かな恵みによって憐れんでくださるのだ。(哀歌3:22-32)

ルツも、ラハブ同様、まず信仰告白によって神の民に加えられるチケットを手に入れた。
パーティーのチケットを手に入れたなら、その会場に実際に行って使わなければ、そのチケットの恩恵に預かれないように、信仰告白によって手にした「天のパーティーチケット」を「使う」には、恵みが落ちている畑へと実際に行き、その中に飛び込み、落ち穂拾いをしなければならない。
ルツは思い切って刈り入れをしている一つの畑に飛び込んだが、「そこはたまたまエリメレクの一族のボアズが所有する畑地であった。」(2:3)ルツは、それとは知らずに飛び込んだのだが、単なる偶然ではない。
ルツがこの畑に飛び込んだのも、ダビデがゴリアテに致命傷を負わせる石を放ったのも、一人の兵が悪王アハブに致命傷を負わせる矢を放ったのも、それら全ては、「何気なく」であったが、主は人や環境、状況の「何気なく」を支配して御心を行い、信仰を持って第一歩を踏み出す人に、恵みを与えて下さる。
しかし、思い切って畑に飛び込まない者、石を投げない者、弓矢を引かない者には、何も下さらない。
ルツがたまたま飛び込んだボアズの畑は、私達が頼りとした主・イエス様が支配される神の国のようであり、ボアズは、私達を買い取ってくださるイエス・キリストの雛型である。私達も、それまでの自分中心の生き方を捨て、イエス様を主とし、神様を中心とした新しい生き方へと飛び込むなら、「選ばれた種族、王族の祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」(1ペテロ2:9)へ加えられるのである。

この世の営みは、落ち穂を拾うようなものかもしれない。仕事も、家事も、恥を忍ぶ日々である。
しかし、イエス様を主として、「神の国」にいる限り、恵みは落穂のように、必ず落ちている。
いかに不利な条件が揃いすぎている状況であっても、信仰告白によって、天の王国のパーティーチケットを入手し、信仰によって畑に飛び込んでそのチケットを「使い」、そして、謙虚に恵みをいただく「落穂拾い」によって、主から豊かな恵みをいただき、地上においては家族をしっかり養い、天を故郷とする栄光の家系へと加えられる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

栄光の家系の女達 - ルツ1 七人の息子にも勝る信仰の娘(ルツ記1:1-7)
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マタイ1章のイエスキリストの系図に名を連ねた3人目の女性・ルツは、ユダヤ人に忌み嫌われているモアブの国の女である。バラムはイスラエルを、モアブの女を使って誘惑させ、堕落させた。(民数記25章)
それでもルツは、栄光の家系として名を連ねるに至った。それは何故か。その秘訣を探って行きたい。

ルツの義理の母にあたるナオミは、ユダヤのベツレヘムで、夫、息子二人に囲まれ、幸せに暮らしていた。
しかしある時、飢饉のためにパンが無くなり、一家揃ってモアブに移住する事にした。
モアブに来て、パンにありつけた当初は、家族内で「来て良かったね」と語り合っていたかもしれない。
しかし結論から言うと、パンを求めて神の国を離れ、異邦の国に来たのが、全ての災いの始まりであった。
ユダヤ人にとって、主の懲らしめから逃げ、「神の国」を捨てて異邦の国にパンを求めて行くのは、もっての外であり、その身にさらなる災いを招いてしまう。それは、神の民たる私達も同じである。
素直に主からの懲らしめを受け、悔い改めていれば、やがて飢饉は去ったのに、この一家は、安易に困難から逃げ出したいばかりに、さらなる災いを受け、一家の主と、息子を全て失ってしまった。
主の懲らしめを受けた時、私達は自分で編み出した脱出方法に頼るべきではなく、主に対して素直になって悔い改め、口をちりにつける(哀歌3章)ならば、主は憐れみ、ちょうど良い時に引き上げて下さる。

主の民から遠く離れ、モアブの野で淋しく取り残されてしまったナオミの所に、神がご自分の民を顧み、パンをお与えになったという、風の便りが届いた。この風の便りは、異邦の国に長らく浸かっていたナオミに、神の国で養われていた幸いな日々を思い起こさせ、「帰っておいで」という主の語りかけとして響いた。
私達も、主からの語りかけを聞いていないだろうか?聞いていながら、敢えて離れていないだろうか?
ナオミは帰るまでに10年もかかり、その間に、夫に先立たれ、息子達にも先立たれてしまった。
私達は何もかも失う前に、主に帰るべきである。放蕩息子も全てを失ってから我に返ったが、自分がいかに弱く、罪深く、神から離れたら何も出来ないのだと「我に返る」所から、回復は始まるのだ。
ナオミもついに、自分が拠り頼むべき所は、主にしかないと悟り、帰る事にした。

「オルパはやがて、しゅうとめに別れの口づけをしたが、ルツはすがりついて離れなかった。」(14節)
オルパは、自分がナオミと一緒にいる事が彼女にとって苦しみとなると聞き(13節)、ナオミの元を去った。
それは大人の「思いやり」だったのかもしれない。しかし帰って行った先は結局、偶像の神の元であった。
それに対し、ルツは、「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神」と言って、まことの神を自分の神とする「信仰告白」をし、ナオミについて行こうとした。
何にも増して真に有益なものは、大人の対応でも人間的な思いやりでもなく、主を信じ告白する事である。

ナオミにとっては10年ぶりの帰郷であったが、それは懐かしさよりも惨めさに満たされたものだった。
ベツレヘムを離れずに主の懲らしめを受けていた友人たちは、口々に「ナオミさんではありませんか」と声をかけ、色々聞いて来たが、彼女にはそれが苦痛で耐えられず、「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。出て行くときは、満たされていたわたしを/主はうつろにして帰らせたのです。」(21,22節)と、惨めな思いで返事せざるを得なかった。
人々との交流が苦痛で仕方ない時こそ、一対一で神に向き合い、神に近づくチャンスである。
家族やパンという「快さ」は、いつ「マラ」になってもおかしくはない。神は、ご自身以外のものによって快くなろうとする「ナオミ」は、「マラ」にされ、その代わり、決して色褪せる事のない真の「ナオミ」へと導かれる。
彼女は「うつろにして帰らせた」と言っているが、彼女は七人の息子にも勝るルツを育て上げ、連れ帰った。
ルツは、パンもお金も力も無いが、祝福の器としてナオミに希望と喜びをもたらすようになったばかりでなく、イスラエル全体に祝福をもたらす器となった。ルツの曾孫にダビデが生まれ、イエスキリストが生まれるのだ。信仰によって産んだ娘とは、そのようなものである。
不信仰な男たちに遥かに勝るルツになるための第一ステップは、まことの神を主とする、信仰告白である。
イエスを主として信仰告白し、自分の家族に、国全体に、祝福をもたらす皆さんでありますように!

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