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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

主日礼拝

父の日礼拝:父と母と子供の聖書的役割(コロサイ3:18-23)

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週報/メッセージ(説教)概要

 今日は父の日、普段から一家のために働いておられる父に感謝する日である。父は大抵、母よりは無口であまり話さない傾向はあるが、父がいてこそ家は安定する。今回、聖書的な家族の役割を見ていきたい。
 
 『妻たる者よ、夫に仕えなさい。それが、主にある者にふさわしい事である…子たる者よ。何事についても両親に従いなさい。これが主に喜ばれる事である。』(コロサイ3:18,20) 妻の、夫に対する責任は「仕える」、原意は「相手の権威に服する」事で、子の、両親に対する責任は「従う」、原意は、「聞いて、従う」事である。
 夫や主人を意味するヘブライ語「アードーン」は、「主」「所有者」「支配者」の意味だ。 父が家の主ではあるが、圧政的・支配的であってはならず、愛を根底するべきだ、と命じられている。『夫たる者よ、妻を「愛(アガパオー:無償の捧げ尽くす愛)」しなさい。辛く当たってはいけない…。父たる者よ、子供をいらだたせてはいけない。心が「いじける(アスメイオー:やる気・意欲を削ぐ)」かも知れないから。』(19,21節)
 
 このように、父、また夫には、重要な責任が与えられている。家族を支え、正しく導く義務があり、また、
一家を祝福する祭司の役割が与えられている。アブラハムやダビデ、ヨブは、家族の幸せと祝福のために祈り、また、罪の赦しのために、いけにえを捧げた。パウロもまた、多くの教会・多くの兄弟姉妹たちの、
霊的な父として、主にあって産んできた霊的な子達を日夜気遣い、何日も徹夜しつつ祈ってきた。
 第2コリント11章を見ると、パウロの「父」としての苦労が、並大抵のものではなかった事が分かる。
彼はコリントの聖徒達を、キリストへと嫁がせる花嫁として主に捧げ、婚期を迎える娘の父親のような心境で、彼らの霊的清純が汚されはしまいか、と、気にかけていた(同2-3節)。それなのに、コリントの聖徒達は、
偽教師の、言葉巧みな言葉にそそのかされ、霊の父であるパウロを軽んじたり、ばかにしたりして来た。
パウロは言う。たとえ、話は巧みでないにせよ、自分は全ての点で、色々な場合に、誠実を示してきた、と。
偽教師は、外見も言葉も立派な先生に見え、それにひきかえ謙遜なパウロは弱々しく見られ、それで惑わされてしまったコリントの聖徒の目を覚ますために、パウロも敢えて「愚か」になって誇らざるを得なかった。
 パウロは何を誇ったか。彼は、最高の先生から師事を受け、最高の学校を卒業し、多くの国々に宣教し、多くの病や悪霊を追い出し、多くのいのちを救ったのに、彼は、そうした実績は、おくびにも出さなかった。
 むしろ彼が誇ったのは、彼自身が受けてきた数々の困難や迫害、そして、主にあって産んできた霊的な息子・娘達を、日夜、気遣い、何日も徹夜しつつ祈ってきた事だった(22-28節)。私達も誇るべきは、何かの実績ではなく、主にあって働く事と、養わなくてはならない人々のために日夜祈りつつ養う事である。
 父は、人知れず苦労して来た事を、滅多に家族に漏らさない。そのために誤解される事も多いが、たとえ家族に疎んじられたとしても、よほどでない限り、家族のために相変わらず働いて、養う。それは、父は本能的に、家長として、責務を全うしなければならない、という、神様が植えて下さった使命感があるからだ。
 しかし、養っている家族から、心をへし折られない訳ではない。父親にとって一番痛い事は、養っている家族が、他の者にそそのかされ、別の者を父、あるいは主人としてしまう事である(同28-29節)。
父なる神様が最も悲しまれるのが、それである。人が悪魔にそそのかされ、神なしで生きようとしたり、別の者を神としてしまうなら、神様はひどく悲しみ、ねたみ、真の父・真の神はどなたであるのか思い知らされる。
 
 父親は、仕事や使命を為すゆえに、あまり家におらず、交わる時間があまりないかもしれないが、家族を養わなくてはならないと誰より思うからこそ、仕事をするものである。男性と女性は、愛情表現の仕方が違う。
 女性は、子育てをするため、一緒にいる事や、いっぱい話す事、感情や体験を共有する事に、価値を見出すが、男性は、働いて、責務を全うし、家族に必要なものを手に入れ、持ち帰る事によって、家族を愛している証とする傾向がある。その食い違いから、誤解が生じる事も多々あるが、二人が一体となって、共に、主が与えて下さった役割をこなしつつ、家庭を築き上げ、産んで増えて地に満ちて行く事が、御心である。
 しあわせな家庭は、各々が、神様から定められた役割を正しく果たす家庭である。妻は、主にある者にふさわしく夫に従い、夫は、妻につらく当たる事をせず、むしろ主が私達を愛されたごとくに、妻を愛する。
 子供たちは、全ての事において両親に従う。そのように正しく歩む事によって、それぞれ主キリストに仕え、報いとして、御国を相続させていただく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝

主の息(聖霊)が来る時、枯れた骨は生き返る(エゼキエル37:1-14)

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週報/メッセージ(説教)概要

 本日、聖霊降臨祭(ペンテコステ)は、イエス様の弟子達が聖霊を受け、大胆で力強い働き人になった事を覚える日である。それまで弱かった弟子達も、聖霊を受けて以降、力強く変わった。本日、聖霊の力はどれ程偉大で、日本の福音化のためにいかに必要であるのか、エゼキエル書37章から、その極意を得たい。
 
 エゼキエルの時代は、バビロン捕囚下の時代で、かつてソロモン王が建てた豪華絢爛な神殿も、ダビデ王が建てた堅牢なエルサレム城壁も、バビロンによって破壊し尽くされ、荒れ果てた状態の時代である。
 その破壊された理由は、神の民たる聖徒が、御言葉と礼拝をおろそかにし、世の諸々に奔走し、主がしてはならないと言われていた悪い事をし続け、警告を受け続けて来たにもかかわらず、改めなかった故だ。
それで彼らは、敵にやぶれ果て、打ちのめされ尽くされた様が、この、ひどく干からびた骨々の有様である。
 この有様は、今の私達にも当てはまるかもしれない。若かりし頃の夢に破れ、もはや復帰する望みが無いまま何年も経ち、ただ枯れるに任せるしかないような状態に。あるいは、神様から離れ、好き放題にした結果、身から出た錆によって徹底的に打ちのめされ、もはや復帰の望みが絶たれてしまったような。
 この日本も、霊的には、エゼキエル37章のような、干からびた骨々のような状況である。かつて日本は、多くの人が福音を受け入れ、いのちにみなぎっていた。1549 年、フランシスコ・ザビエルによって、初めて福音がこの地に入った時、信者の数はどんどん増えて行ったが、時の指導者達が、主にある私達の兄弟姉妹を迫害し、多くの殉教の血が流され、その人達の骨々で埋め尽くされているような状況である。
 主は問われる。『「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか」。』(3節)
 エゼキエルは答えた。神、主よ。あなたがご存じです。と。アーメン。枯れた骨々が生き返るかどうかは、主にかかっている! この国で、干からびた骨となってしまった信仰が、よみがえって、主の大勇士軍団となる事も。また、干からびた骨となってしまったような人生が、生きかえって、力強い働き人となる事も。
それは、権力によらず、能力によらず、主の霊によって!(ゼカリヤ4:6) 聖霊によって、可能である。
 
 主はエゼキエルに、骨に対して主の言葉を語れ、と言われた。枯れた骨よ、主の言葉を聞け、と。(4節)
彼が、主から命じられた通りに、御言葉を宣言すると、大きな音、大きなとどろきが起こり、骨と骨が互いにつながった。『私が見ていると、その上に筋ができ、肉が生じ、皮がこれをおおったが、息はその中になかった。』(8節) 私達も、信じた御言葉をそのまま語りだすなら、大きな変化が起きる。
たとえ、干からびた骨のような相手、状況、あるいは、干からびた骨のような、自分自身にも。
 しかし、その中に「息(霊)」は無かった、と書いてある。主は確かに、干からびた骨のような人、モノ、状況を、人並みの状態へと戻して下さる事はおできになるし、そのようにされたキリスト者は、大勢いる。 しかし、神の息、すなわち、聖霊が無い状態では、マネキンのように、力の無い、死んだも同然の状態なのだ。
 
 『時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、息(ルアッハ:霊)に預言せよ、息に預言して言え。主なる神はこう言われる、息よ、四方から吹いて来て、この殺された者たちの上に吹き、彼らを生かせ」。』(9 節)
 その通りに彼が「息(霊)」に預言すると、霊が彼らの中に入り、自分の足で立ち上がった。それは、非常に多くの「集団(ハイル:軍団、勇士、厳粛な者、富んだ者)」となった(10節)。 このハイルは、有力者ボアズに、厳粛な女ルツに、勇士ギデオンに、ダビデに与えられた称号である。弱い、臆病な者は強くされ、貧しく何も無かった者は富んだ者とされ、異邦生まれの者が、栄光の王族の家系へと組み入れられた。
 私達も、主の息、すなわち、聖霊が与えられるなら、枯れた骨のような者が生かされ、ハイルとされるのだ。
  神の息、聖霊を求めるべきである。ペテロや他の弟子達は、聖霊降臨以前は、大した実を結ぶ事のできない、烏合の集団だった。しかし聖霊降臨以降、彼らは死をも恐れない、力強い神の軍団となり、全世界に出て行き、ローマ帝国を席巻し、ヨーロッパ、アジア、地の果てにまで、福音を広めて行った。
 自分は干からびた骨のようだ、と思っている人は、自分自身に御言葉を宣言すべきである。生き返れ、と 。
そして、「息」に預言すべきである。「息、四方から吹いて来い、この者に吹きつけて、生き返らせよ」と。
神の息吹のダイナマイトパワーに満たされて、干からびた骨から、神の軍団へと創り変えるられ、大胆にキリストを証して行く皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
 

主日礼拝

偉大な母の性質(詩篇34:12-15)

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週報/メッセージ(説教)概要

 先月4月17日、米国で一人の女性が天に召され、多くの人が悲しんだ。彼女の名はヘスター・フォード、115歳だった。なぜ彼女の死が多くの人に感銘を与えたのか。それは彼女は、「偉大な母」だったからだ。
 母の日である今日、偉大な母と言われた彼女から、偉大な人生・高貴な人生のコツを得ていきたい。
 
 彼女の子供は12人、孫は68人、ひ孫は125人、玄孫は120人、計325人もの子孫と、同時代を生きた。
(なお、子孫の数があまりに多く、年齢の記録も古い為、情報元によって数字や年齢に若干の違いがある)
 彼女は1905年8月15日、アメリカ・サウスカロライナ州ランカスターで生まれ、ジョン・フォードという男性と15歳で結婚し、12人の子を産んだ。彼女は農場で働いて後、48歳からは乳母として20年以上働いた。
 1963年、彼女の夫が57歳で天に召されて後も乳母として働きつつ、教会での礼拝と奉仕を生涯捧げた。
 真に偉大な人とは、生涯、信仰生活を守り、その信仰をしっかり子々孫々へと継承し、空の星々のような、素晴らしい信仰の子々孫々を残す人である。有象無象をたくさん増やしても、何もならない。私達の使命は、信仰者である神の子達を、産んで、増えて、地に満たす事であり、全被造物もそれを待ち望んでいる。
 
 彼女は高齢になると認知症を患ったが、幾つかの聖書箇所は完璧に覚えており、112歳の誕生日には、詩篇23篇を暗唱してみせたのだ。御言葉暗唱こそ祝福と長寿の秘訣であり、生涯現役の秘訣である。ユダヤ人は健康・長寿で有名で、色々な研究が為されているが、結局、それはテフィリン(御言葉暗唱)をしている故だ。彼女は、長寿の秘訣について聞かれると、「わからない」と言っていたが、聖書に書いてある。
主は、主を愛する人を助け、御名を知る人を守られる。その人が、主の御名を呼ぶ時、主は答え、その人の悩みの時、彼と共におられ、彼を救い、彼に栄光を与え、長寿で満ち足らせる、と。(詩篇91:14-16)
 
 彼女の「人となり」は、どうだったか。彼女のひ孫であるパターソン=パウ氏は、彼女についてこう語った。
「彼女は発明家で、革新者で、地域社会や家庭内では独自の流行を生み出す先駆者だったため、1つの枠に収まる事は無かった。」「彼女は逆境に面しても揺るがず、動じない人だった。」「彼女は決して不平を言わず、敗北を示さず、同情を誘う事も無かった」と。 まさに彼女は、素晴らしいアイデアを実践する力で満ちた人で、地に住み誠実を養った人、口を制して否定的な言葉を言わせず、主にある勝利者の立場を、言葉において貫き、宣言し、実現し続けた人だった、とわかる。私達が日毎、宣言している通りである。
 彼女は、いつでも子孫に言っていたと言う。「あなたは誰かを祝福するために、ここにいるのですよ」と。
彼女は分かっていたのだろう。アブラハムの子孫である私達・信仰者は、呪いに満ちている世に、祝福をもたらすために生かされており、私達が祝福するなら、その祝福は巡り巡って、自分へと帰ってくるのだ、と。
『人は自分の言葉の結ぶ実によって、満ち足り、そのくちびるの産物によって自ら飽きる。』(箴言18:20)
 だから、私達も日々、祝福を宣言し、その実を実体として得ていくべきだ。
 
 彼女は、自身の沢山の子達を育てた、のみならず、他人の子も乳母として育てた。神はいのちの神、また愛の神である。それ故、いのちを愛し、大切に育み育てる人を、神は大切にされる。偉大な人とは、いのちを大切に守り、増やし、育む人だが、いのちを軽んじ、傷つけ、殺す人は、神と人から忌み嫌われる。
 『幸いを見ようとして、いのちを慕い、ながらえる事を好む人は誰か。あなたの舌をおさえて悪を言わせず、あなたの唇をおさえて偽りを言わすな。悪を離れて善を行い、やわらぎを求めて、これを努めよ。主の目は正しい人をかえりみ、その耳は彼らの叫びに傾く。主のみ顔は悪を行う者にむかい、その記憶を地から断ち滅ぼされる。』(詩篇34:12-15) 
 主にあって両親を敬い、従う人は、幸せになって地上で長生きする、と約束されている(エペソ6:1-3)。
 幸せで、祝福され、信仰の家庭を建てあげて行くためには、親は、御言葉教育を行う責任があり、子供は両親に従う、という、双方向の責任をそれぞれ全うする必要がある。それが合致した家庭は幸いである!
今日は母の日、母が日頃負っている労をねぎらい、感謝する日であるが、親に感謝する人は幸いなのだ。
 信仰を受けたなら、それをしっかり保持し、子へと、孫へと受け継がせ、地上において幸せで、長生きし、偉大な信仰者の列へと加えられていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝

きよさと敬虔さによって時代を支配した信仰の先人たち(1テモテ4:8)

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週報/メッセージ(説教)概要

 私達が日々宣言するようになった「成功のための宣言文」で、最も大事なキーワードは、「イエス様にあって」である。イエスのヘブライ語「イエシュア」は、「彼は救い」という意味だ。そう、「神こそ救い」、それが聖書全体を一言で表した言葉である。皆さんは、救われたいだろうか?病気、お金、生活、人間関係、塞がれているように見える未来、などなど。目の前に立ちはだかる問題の数々から「救われたい」、と私達は願う。
 イエス様は私達を愛し、私達を罪と死の呪いから救うために、身代わりに十字架にかかって下さった。
聖書は言っている。「イエスこそ私の主である」と告白し、神がイエスを死人の中からよみがえらせたと信じるなら、救われる、信じる人は失望に終る事がない!と。主の御名を呼び求める者は、全て救われるのだ。
 主イエス様の御名を呼び求めるなら、あらゆる問題から救われる故、「イエス様にあって」が大事なのだ。
 
 この宣言文には、4人の聖書中の人物が登場する。ダビデとヨセフは男性、アビガイルとエステルは女性である。彼らに共通している事は、神様に対して敬虔である事、また、自分自身をきよく保っている事だ。
そのようにした彼らは、神様に愛され、保護され、チャンスや良い出会いに巡り合わされ、未来が拓かれ、この世において抜きん出た者となって行った。敬虔である事と、きよさを保つ事、これが祝福の源である。
 「敬虔(ユセベイア)」とは「恐れ敬う事」、日本語で親孝行の「孝」に相当する語である。肉体の鍛錬は少しは有益であるが、敬虔は、今のいのちと未来のいのちが約束されている故、全てに対して有益である。(1テモテ4:8) 敬虔であればあるほど、すなわち、神様を恐れ敬う度合いが高く、真の父である神様に”孝行”する心が強ければ強いほど、神様に愛され、あらゆる面で守られ、最善の導きで、導かれるのだ。
 
 ヨセフは、敬虔さときよさを保つ事において、当時の世界ではダントツだった。彼は、兄が悪事を行う時、それに加担せず、むしろそれを父に報告した。また、彼がポテファルの妻から毎日、性的な誘惑を仕掛けられた時、「どうしてそのような大きな悪事をして、神に罪を犯す事ができましょうか」と言って聞き入れず、彼女のそばに寝る事も、彼女と一緒にいる事もしなかった(創世記39:10)。彼は正直すぎた故に、奴隷に売られたり牢に入れられたりしたが、神は彼を引き上げ、総理大臣とし、生涯エジプトの王達の父となった。
 ダビデも若かりし頃、信仰において清さを保っていたため、敵の巨大さや強さには一切ひるまず、信仰によって勝利し、またサウル王に憑いていた悪霊を、彼の賛美によって追い出す事ができた。ダビデを殺そうと付け狙っていたサウル王を殺すチャンスが二度も与えられたが、ダビデは「主が油注がれた王を殺す事など、とんでもない」と、二度とも自分で手を降す事をしなかった。彼はイ、スラエルの誰もが尊敬する偉大な王となったが、彼は祝福されると、性的な罪と殺人を犯してしまった。それを預言者から指摘されると、彼は主を恐れ敬っていた故に、すぐに自分の罪を告白し、赦しと、きよめられる事を求めた。(詩篇51篇)
 アビガイルは、聡明で美しい女だった。ダビデは彼女と2,3の会話をしただけで、「彼女と結婚したい」と惚れさせた程の女性だ。それは、彼女の敬虔さと清さが醸し出す、真の美しさの故だ。彼女は元々、ナバルという、頑迷で、物事を破壊する男の妻だったが、そんなひどい夫でも、彼の事業を日々誠実に運営し、拡大させて行ったため、部下は彼女にアドバイスを求めるようになった。ダビデがサウル王に追われていた時、報われない事ばかり続いて心が荒んでしまっていたダビデを、彼女は彼の信仰を回復させたのだ。
ナバルは頑迷さを変えなかったため、神に打たれて死んだが、ダビデは即座に彼女に結婚を申し込んだ。
 エステルは美しい女性で、数ある美しい女性達の中から特に選ばれて、ペルシア王の王妃となったが、彼女は、数多くいる美女には無い清らかさと、敬虔から来る芯の強さがあった。彼女は夫に対してはいつも慎ましく従順であった。神が彼女を美しくし、王妃としたのは、神の民イスラエルの危機を救うためだった。
 神の民が危機に瀕した時、彼女は命の危険を顧みず王の前に進み出て、思慮深く、凛として対応し、イスラエルを救った。夫である王に対しては良き慰めとなり、神の民の敵に対しては少しもはばからなかった。
 
 私達も、この時代の彼らのようになるために、まず、きよくなる事を求め、そして主をおそれ敬う「敬虔」を身につけるのだ。汚れをもたらす習慣を止め、普段のきよさを保っていくなら、それが大きな力となって行く。
まことの父である神様に親孝行し、神様にますます愛され、この時代のダビデやヨセフ、アビガイルやエステルのようになっていく皆さんと、その子供達でありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 

主日礼拝

限りない栄光の将来を勝ち取るために(ハバクク2:1-4)

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週報/メッセージ(説教)概要

 新学期が始まってから、私達は、イエス様にあって成功するための宣言文を宣言している。今回、その内容をいくつか詳細に見て、成功の確信を得ていきたい。(「祝福の御言葉」はこちら
 
 ? 宣言文は、詩篇37篇から始まる。 悪を行う者に対して腹を立てたり、不正を行う者を妬む事は、時間の無駄な使い方だと知るべきだ。なぜなら、その者に腹を立てたり、妬んだりしている間は、その者に「支配」されている事なのだから。きよい神の民である私達が、そんな者に時間泥棒されるべきではない。
むしろ、そのような者は、「草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れる」という御言葉を宣言し、宣言した御言葉に任せ、私達のほうはますます、有益で、生産的な事に、身と心と体を投じるべきだ。
 
 ? ヨセフはまさに、そのような者達に心を留めず、むしろ、主にあって見せられた夢だけに目を留め、主が計画された栄光の将来を仰ぎ見ながら、日々、誠実を養った。 彼は、世の人から見れば、正直過ぎるほど正直だったために、奴隷として売られ、牢にも入れられ、多くの時間を無駄に過ごしたかのように見えたが、若干30歳にして、総理大臣にまで登りつめた彼の時間を、一体、誰が「無駄」と言えるだろう?
 主が見せて下さった夢を握りしめ、その通りに生きる道は、世の人から見れば無駄のように見えるかもしれないが、実はそれは、主が用意しておられる「ぶっちぎりのトップ」へと至る、一番最短のルートなのだ。
 神様が彼に与えられた、独創的で特別なタラント、すなわち、主の夢を解き明かす賜物を、彼がフル活用できるようになったのは、彼は、主が見せてくださった夢をずっと握りしめた故だった。彼はその夢の実現に備え、自分を汚す事なく、不正を離れ、日々誠実を養った。彼が送る日々の中で、主が示して下さった夢が、人からひどく評価される事が目に見えていたとしても、彼はそれをそのまま正直に告白した。それで神様は、定められた時、用意しておられたチャンスにめぐり合わせ、彼をエジプトの総理大臣としたのだ。
 彼は、7年間の豊作の時期、穀物が穫れ過ぎて、普通なら収穫制限するような状況でも、神様が示した夢を手放さず、貯蔵庫を造ってなお貯め、計り切れなくなっても貯め続け故に、後に来た凶作の7年の時期、穀物の価格は暴騰し、あっという間に世界一富む国となった。それで彼は、パロの父とさえ呼ばれるようになった(創世記45:8)。 今、私達は、御言葉を貯めている。それは、世の中ではつまらないもののように見えても、しかし現実、御言葉を貯めた故の祝福を得ており、やがてそれが暴騰する時が必ず来るのだ。
 ヨセフは最終的に、父ヤコブや、11人の兄弟すべての面倒を見るようになり、イスラエルという家族を、一つの国家へと育て上げる土台を構築した。私達も、主が示された通りのものを、今、貯めて行くべきである。
いかに今、人数や規模が少なくても、栄光の次世代たちが、御言葉教育を受け、生んで、増えて、地を支配して行くための素晴らしいシステムの枠組みや、すばらしい施設を構築する皆さんでありますように!
 
 ? 新しく始まる一日、最初にすべき事は、まず、寝床を畳む事からである。イエス様が38年も病に臥せていた人に言われた言葉は、「よくなりたいか」、「起きて床を取り上げて歩きなさい」、だった。私達も、良くなりたいなら、まず起きて、床を取り上げ、歩くのだ。古いものをどんどん捨て、新しいものを得ていくのだ。
 2012年、ハンチングドットコムという所が、68000人の男女を対象に、起床後にどんな事をしているのか、また、人生への満足度や、収入との関連性を調べた所、自分でベッドメイキングをする人の、約71%の人が、「自分は幸せ」と答え、それをしない人の内、62%が、「自分は不幸だ」と答えたという。
 寝床という、ぬくぬくと居心地が良い、しかし、何の生産性をもたらさない「本土、親戚、父の家」は、さっさと畳んで、イエス様が用意された素晴らしい一日へと踏み出して行く。それが成功への近道である。
 
 ? 私達はイエス様にあって、無限の可能性を秘めており、イエス様にあって、健康で幸せである権利を、生まれつき持っている。なぜなら私達は神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたから。神様は、私たちが良い行ないに歩むように、と、良い行ないをあらかじめ備えられておられる(エペソ2:10)。だから、正統に受けるべきそれらの権利を、日々、主に求め、宣言し、またそれらを否定する一切の悪魔サタンのささやきを、打ち消して行くべきである!日々、真理を宣言し、主が用意して下さった、限りない栄光の将来を勝ち取る皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

 

主日礼拝

床を取り上げて、歩きなさい(ヨハネ5:1-9)

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週報/メッセージ(説教)概要

 
 競争社会と呼ばれるこの世の中を生きていく時、私達クリスチャンは、礼拝したり、祈祷会に参加したりして、その分だけ遅れを取っているかのように見えるかもしれない。世は、私達が礼拝している間に働いたり、訓練したりして、先を進んでしまっているのではないか、と。しかしクリスチャンは、世の人と同じ世界に生きておりながら、別次元の仕組みで生かされており、主が各々に定められた「断トツ」で生きる事ができる。
 世では、富や栄誉、成功を獲得するために、競争する。限られた少数の良いものを勝ち得るために努力し、鍛錬し、強引に奪ったり、騙して得ようとさえする。まさに今回の、ベテスダの状態である。(ヨハネ5:1-9)
 ベテスダの池には時々、御使いが来て水を動かし、一番先に水に入る人には、どんな病気も癒やされた。
そのためそこは水が動くのを待つ人々の競争社会と化すのだが、そこに38年ずっと負け続けた人がいた。
イエス様は、彼を見るに見かね、安息日に彼に会いに来て、彼を癒やし、38年もの呪縛を解いて下さった。
 
 主が彼に言われた言葉はたった2つ、「良くなりたいか?」と、「起きて床を取り上げて歩きなさい」である。
現代、世というベテスダには、通常の病人だけでなく、富における病人、地位における病人、成功における病人が、みんな、虎視眈々とトップを狙っている。しかし私達は、三つの条件を揃えるなら、世の誰も得られない、主から独占的に与えられた特別な地位を、獲得でき、ベテスダの呪縛から開放される事ができる。
 第一の条件は、まず、イエス様に来ていただく事。私達は人生には限りがある。38年も待つべきでない。
ヤコブのように、格闘するかのようにイエス様を求め続け、探し続け、叩き続けて、すぐにでも来て頂くのだ。
 二つ目は、「良くなりたいです」と、願う事だ。どう良くなりたいのか?ビジョンを、まぼろしを書くのだ。
私達は脳内で、「こうなればなあ」と、思い浮かんでも、そのままなら、それはやがて消えてしまい、願っていた内容すら思い出せなくなってしまう。私達は、書いて、掴んで離さず、祈り続けるべきである。
 三つ目は、「床を取り上げて歩く」事だ。どういう床を?「あそこに入れば良くなるのに」「皆に先取りされてしまった」「でも体が言う事を聞かない」「誰も助けてくれない」といった、長年臥せてきたベテスダという床を。
 私達クリスチャンは、世の人とは別次元の仕組みで、すなわち、イエス様にあって生かされている。主は、用意しておられる。あなただけに用意した特別な賜物を、あなただけが獲得できる唯一のトップの地位を。
私達は、がむしゃらに頑張って奪って獲得する者ではなく、イエス様と「すったもんだ」する民である。
 
 ヤコブは、神様から「約束の地に戻りなさい」と言われた時、既に、危険から守られる保証は、与えられていたはずだが、彼には不安があった。まだ兄に恨まれていて、殺されるのではないか、と(創世記32章)。そこで彼は、祈りに集中するために、皆を川向こうに渡らせて、主と一対一で格闘した。彼は、主を掴んで離さなかった。「もう離しなさい」と言われたのに、「祝福して下さらなければ離しません」と食い下がった。
 私達も、彼の姿勢にならうべきである!与えられた夢やビジョンに不安があるなら、もしくは、祝福の実体がはっきり見えないなら、まぼろしを書いて、食らいつくのだ。もし、ビジョンが浮かんでは消え、なんとなく過ごしているだけなら、38年はあっという間に過ぎてしまう。何年もそのままの状態を、主が見るに見かねて、癒しをして頂く、という人生を送りたいだろうか?私達は、ヤコブのように、主を掴む信仰を持つべきだ。
 
 ヤコブは度々、他人を掴む生活に戻っていた。床を取り上げよ、と言われても、中々取りあげなかった。
しかし彼は、もものつがいを打たれて逃げる足をへし折られ、もはや逃げられなくなった。それで彼は、接着剤で強制的に固定されるかのように、祝福の場から絶対に逃げられないように、主はして下さった。 今、主は、平安の主である。私達がヤコブのように求めるなら、主は、足ではなく、恐怖をへし折ってくださる!
 ヤコブは、主にしつこく掴む信仰の故に、主から「イスラエル」という新しい名を頂いて、祝福してもらった。
ヤコブの名は、「かかとを掴む」という意味であるが、イスラエルの名は、「神と粘り強く格闘(すったもんだ)する」である。彼はもはや、他人の足を掴むために、追いかけたり、出し抜いたりする必要は無くなった。
 彼は神様に完全に守られ、全てにダントツとなり、エジプトの王パロをも祝福するイスラエルの父となった。
 私達も、祝福が実体化されるまで、ヤコブのように絶対離さない信仰をもつべきである。ベテスダという床は畳んで、そこから離れ、書き記した夢やまぼろしを絶対手離さず、ヤコブのように主と「すったもんだ」し、夢や幻を完全に答えていただくに至る皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝

まぼろしをはっきり書き記せ(ハバクク2:1-4)

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週報/メッセージ(説教)概要

 
 ここ最近、特に主から与えられている御言葉は、ヘブル書11章の、「信仰」についての御言葉である。
信仰とは、望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものである。この信仰によって、私達の先人たちは称賛された。信仰なしに、神に喜ばれる事は、無い。だから私達も、神に喜ばれるために、神がおられる事と、神は求める者には、報いてくださるお方である、と、信じるべきだ(ヘブル11:1,6)。
 
 世の巷に溢れている成功哲学や、ニューエイジ思想では、よく言われている。世の中、強く念じた事が実現して行く、と。しかし私達は、何をどのように求めていくべきか、気をつけるべきである。  『私は、見張り所に立ち、砦にしかと立って見張り、主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見よう。』(ハバクク2:1)
預言者ハバククは、まず、見張所に立った。「主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見」るためだ。
私達は、主が何を語っておられるのかを求める事なしに、自分で考え出したあれこれを求めてはならない。
なぜなら、自分で考え出した諸々には、ご多分に、主の御心から外れた願望を孕ませている危険があるからだ。だからまず、ハバククのように、「主が」何を語られ、何を望んでおられるかを吟味するべきである。
 そのビジョンが、主から与えられたもの、と、はっきりわかったなら、次は、それをはっきりと書き記すのだ。
『主は私に答えて言われた。幻(ハージョン:夢、預言)を書き記せ。これを読む者が急使として走るために、板の上にはっきり書き記せ。』(2節) 私達の書いた幻を見て、走って届ける「急使」がいる。御使いがそれをするのだが(黙示録8:3)、それがハッキリしていればいる程、「急使」として届けるスピードが、早い。
 『この幻はなお定められた時を待ち、「終り(ケツ:終結、究極)」をさして急いでいる。それは偽りではない。もし遅ければ待っておれ。それは必ず臨む。滞りはしない。』(3節) 書き記した幻は、実現という「終結」を目指して、走っていく。その終結は、人の目から見れば遅いと見えるかもしれないが、忍耐して待つべきだ。
 「忍耐」はギリシア語でフィポモネン、下に平伏する意味で、それは、農夫が、あたかも今、豊かな実りを刈り取っているかのように、喜び楽しみながら、下に平伏しつつ種を蒔いている様を言う。同様に私達も日々、信仰をもって、与えられた幻の宣言を「蒔く」のであれば、主はそれを喜び、必ず報いてくださる。
 私達の先祖・アブラハムも、主から促されて、星空を見た時、自分の子孫はこうなる、と、信じ、喜んだ故に、神はそれを喜び、彼の子孫は、「地の砂粒」から、「空の星々」のような子孫へとバージョンアップした。
 ビジョンを描く時には、大体邪魔が入る。サタンから、あるいは、自分自身のマイナス感情から。それらは、吹きかけてくる。「ダメだ」「無理だ」「どうせ自分には出来ない」「現状のままでいい」、など。そんなものは、踏みつけるべきである。主が用意しておられる将来と希望を、枡の下や寝台の下に閉じ込めてはならない。
 また、主から与えられたビジョンを思い描く時、ケチケチしてはならない。「このぐらいでいい」と制限してはならない。本当に望んでいる事が、はっきりイメージされるその時、大いに、喜びと希望が湧いて来るはずだ。その喜びは、誰も、絶対に崩せない。だからいつも思い描き、それを握りしめ続けるべきである。
 
 『見よ。心のまっすぐでない者は心高ぶる。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。』(4節) 今、義人ではない者、心のまっすぐでない者が、世界を牛耳っている。これから量子コンピューティングやAI技術が発達し、彼らの手に支配権が渡るなら、間違いなく、99%の人々は奴隷化してしまう。ハバクク2:5以降を読むなら、神様は、そうなる事を望んでおられない事は明らかだ。私達「信仰によって生きる義人」こそ、世界を正しく御心に沿って治めなくてはならない。 だからこそ今、はっきり幻を書いて求めるべきだ。
 今、主は、幻をはっきり提示する人の現れを、今か今かと待っておられる。この世を悪い者の支配に渡さないために、主は、信仰ある人に「出資」したくて、うずうずしておられるのに、それに適合する人がいない。
だから今、私達が幻を提示して、求めるべきである!主がミナのたとえを話された時、信仰をもって行動して儲けた人には、報酬として「町を支配しなさい」、と言われた(ルカ19章)。しかし、主から出資されたものを、活用しなかった者は、外の暗闇に追い出された。「悪い、なまけ者のしもべ」と言われて、持っているものまで剥ぎ取られ、外の暗闇に追い出されたのは、失敗した者ではなく、活用しなかった者だ。
 だから、神の国においては、失敗は無い!信仰によって、望んで、活用するなら、必ず報いが、成功がある。失敗者とは、信仰を活用せず、何もしない者だ。 主にあって大いに信仰を活用し、大いに実際に稼ぎ、優れた町々を支配していく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝

主が十字架と復活を通して私達にして下さった事(ヨハネ20:19-23)

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週報/メッセージ(説教)概要

 本日は復活祭、私達の主イエス様が復活された事を、記念し、祝う、キリスト教会で最も重要な日である。
私達にとって一番大切な事、それは、聖書が示す通り、イエス様が私達の罪のために死なれた事、葬られた事、三日目によみがえられた事、そして、その彼が、私達に現れて下さった事である。(1コリント15:3-5)
 復活がある事を信じているだろうか?私達にも、復活がある!と、信じているだろうか??もし復活が無い、と言うなら、その人の信仰は空しく、今なお、自分の罪の中で死んでいる事になってしまう。(同12-19)
 しかし今や、キリストは、眠った者の初穂として、死者の中からよみがえられた。「死」という、あまりにリアルな脅威は、一人の人アダムを通して来たが、復活というあまりに偉大な喜びは、一人の人イエス・キリストを通して来た。キリストはやがて来て、あらゆる支配、権威、権力を滅ぼし、一切を父なる神にお渡しになる。
そして、最後の敵である死も、滅ぼされる!(同20-26)。これこそ、全クリスチャンにとっての希望である。
 イエス様は復活した後、弟子たちの真っただ中に入って来られ、宣言されたのは「平安」だった(ヨハネ20:19)。 不安があるだろうか?確かに不安の種は、日常生活の中に、沢山ある。死の不安、将来の不安、人との関係の不安、仕事の不安など…。しかし、復活の主が真っ先に取り除かれたのが、「不安」である。
 
 『イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもまたあなた方を遣わす」。』 不安が取り除かれ、平安を得たなら、次は、働き人として、主から「遣わされる」のだ。遣わされる上で必要なものが、聖霊と権威である。『そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。あなた方が赦す罪は、誰の罪でも赦され、あなた方が赦さずにおく罪は、そのまま残る。』(21-23節)
 聖霊を通して受ける力・デュナミスは、ダイナマイトの語源である。すなわち私達が、復活の主を信じて平安が与えられ、聖霊をいただく時、私達は、爆弾を抱えた者となる。その時、私達は、あらゆる不安を爆破し、消極的の「消極」を爆破し、あらゆる貧乏根性を、ケチケチ精神を、奴隷根性を、そして人生破綻してしまった、その「破綻」を爆破する、ダイナマイトを持つ者となっているのだ。これは、信じた者のものである!
 聖霊の「霊」は、「風」とも訳せる。ダイナマイトの爆風は、いろいろなものを破壊するが、イエス様の復活の爆風は、死をいのちへと飲み込み、不安を平安へと飲み込む、破壊とは真逆の、いのちの爆風なのだ。
 
 イエス様の復活の爆発的な効力は、自動的に人に適用されるものではない。イエス様の復活を「信じる」必要があるのだ。あれこれ思い患ったり、不安や心配などで心の戸を閉ざしてしまっていないだろうか。
御言葉が、心の戸を叩いておられる時、戸を開いて、受け入れる(信じる)なら、主は入ってきて、平安を宣言し、聖霊の息吹で、あらゆる不安や心配を吹き飛ばして下さる。私達が信仰を持つ時、主はそれを喜び、実際に事を起こし、あらゆる不安をもたらす問題を解決して下さる。なぜなら神は、神がおられる事と、神を求める者には、報いてくださる方である、と信じる人を、喜んで下さるからだ。(ヘブル11:6)
 「信仰とは、望んでいる事がらを”確信(実体、権利証書)”し、まだ見ていない事実を”確認(証拠、監査明細)”する事である。」(ヘブル11:1) 信仰とは、望んでいる事柄の「権利証書」である。もし、ある土地の所有権を示す権利証書を持っていて、それを提示し、主張するなら、その土地は確かにその人のものだ。
 世の権利証書は、紙にサインしたものであるが、神の国における権利証書は、神の言葉を信じた事、すなわち、御言葉を信仰でサインしたものあり、それは、世の権利証書より、はるかに力がある。
 主は、私達を、不利に攻め立てるあらゆる債務証書を取りのけ、十字架に釘づけにされた。それ故、私達は、主が十字架と復活を通して私達に下さった、このすばらしい権利証書を、世のあらゆる物事に対し、提示すべきだ。信仰の先祖アブラハムは、神の言葉を「信じた」事によって、神に喜ばれ、報いられた。
 
 主が創って下さったあらゆる良きものや、富や、経済、権利、それらは今、不信仰な者の手に不当に渡っていて、悪用されている。私達は信仰をもって、それはわたしのもの!と、権利証書を主張するべきである。
今、そうする人があまりにいないので、信じて宣言するなら、神は喜んで報い、豊かに与えて下さる。
 イエス様は言われた。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と。イエス様がせっかく十字架で流された血によって、死からいのちへ名義変更されたのだから、この偉大な権利を、大胆に主張し、行使し、世からどんどん分捕り返していく皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

主日礼拝

十字架の福音という愛のプロポーズ(雅歌8:5-7)

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週報/メッセージ(説教)概要

 今週はイエス様の受難週、英語ではpassion weekという。なぜパッション(情熱)なのか。それはイエス様が、限りない情熱をもって、私達を愛した故、私達の身代わりに十字架の上で死んで下さった事によって、その愛を、実践して見せて下さったからだ。極みに至る愛を表現された十字架の主を、本日、おぼえたい。
 
 イエス様はなぜそこまで、私達を愛されたか。それは、「結婚」という、愛の究極を、結実させるためである。
結婚と、十字架は、密接な関係がある。ユダヤ人は過越祭の度に、雅歌書を朗読するが、過越祭は、十字架でほふられたキリストを意味しており、また、雅歌書のテーマは、まさに、男女の愛、そして結婚である。
 結婚とは、男性が女性に対し、また、女性が男性に対し、これからわたしは、自分の生涯(いのち)を、あなたに、そして、あなたと共に築いて行く新たな家庭のために、捧げます、そうして神様の「生めよ、増えよ」という使命を、あなたと一緒に、生涯を通して全うして行きます、という、聖なる契約である。イエス様は、私達と、その「結婚」関係を築くために、まず、イエス様の側から、ご自身のいのちを、私達へと捧げられた。
 
 私達が、その契約関係へと入るために、まず必要なものが、信仰である。すなわち、イエス・キリストこそ私の救い主であり、また、私の人生の主人である、と、信じて、告白するのだ。信仰とは「to unite(連合する)」、「to band(結ぶ)」を意味するが、それはまさに婚姻関係と同じである。私達の信仰先祖・アブラハムは、神様の言葉を信じた故に、それが彼の義とされた、と書いてある。しかし、信じた事で完成、ではない。
 結婚という契約に入った際、日々要求される事は「捧げる事」である。結婚生活とは、自分を相手に捧げ、また、結婚した事によって生じた新しい「家庭」のために捧げる事によって、成り立つ。こうして自分は相手のものとなり、相手は自分のものとなり、そうして新しいいのち、新しい家庭を築き上げて行くのだ。もし夫婦のどちらか、あるいは両方が、その「捧げる」事をしないなら、その家庭はやがて分解してしまうだろう。
 以上、まことの花婿であるイエス様を「信じる」事と、「捧げる」事が、そして、イエス様と共に構築して行く新しい家庭、すなわち「神の国」のために、自らを捧げる事が、イエス様との契約において、必要である。
 私達自身を、きよい、生きた供えものとして、神様に捧げるなら、私達は神様の所有とされ、神様が私達の所有となるのだ。事実、アブラハムの信仰が「完成」したのは、彼のひとり子・イサクを「捧げた」時だった。
アブラハムは、その行いによって、彼の信仰は完成し(ヤコブ2:22)、それによって、彼の子々孫々は、永久に「神のもの、神の所有」となった。それ故、アブラハムの子孫は、この地上において特別な存在なのだ。
 私達も同じように、イエス様を信じ、自分の生涯(いのち)をイエス様へと捧げ、自分自身の所有権を、イエス様へと渡すなら、私達はイエス様と婚約関係となり、雅歌書にある通り、『わたしはわが愛する人のもの、わが愛する者はわたしのものです。』(雅歌6:3)という関係、私達はイエス様の所有となり、夫であられるイエス様に永遠に保護され、愛されつつ、永遠の家・天国において、永遠に共に王として治めるのである。
 
 結婚において、肝心な事は、意志による決断だ。神様は、全て創られた生き物のうち、ただ人間にだけ、神様に従う自由・従わない自由を、与えられた。それは、人は唯一、キリストの花嫁となれる存在であり、キリストを愛し、その契約関係に入る、と、意思表明する事こそ、結婚においての前提だからである。
 私達もアブラハムのように、自分のしきたりと縄張りを捨て、主へと捧げるなら、この、永遠の契約関係へと入れられる。しかし、その自由意志を用いて、イエス様を「信じない」と選択する者、神様が提示した契約を捨て、ただ、自分の好む事をし続ける者は、”永遠の独身者”として、自分の罪の中で死に、永遠に絶たれてしまう。それ故、私達を愛してくださった主は、イエス様との結婚関係へと入りなさい、と、招かれる。
 
 十字架の出来事、それは、イエス様が自身を私達へと捧げられ、こよなき愛を示された出来事であり、福音とは、イエス様のその捧げた愛を「受け取りなさい」という、愛のプロポーズである。私達が先に神を愛したのではなく、神がまず私達を愛し、ひとり子を私達へ与えて下さった故に、私達に愛が分かったのである。
 このパッションウィーク、十字架上で自らを捧げる程に情熱を示してくださったその愛を思い、信仰をもってそれを受け入れ、イエス様との婚姻関係を、高らかに宣言し、天と地において一切の権威が与えられたイエス様と、永遠の家を築き上げていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝

あなたを救うために、彼は十字架で死なれた(ルカ23:33-34)

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週報/メッセージ(説教)概要

 来週から、イエス・キリストの受難週に入る。神の御子であられるお方が、何故に、十字架の上で苦しまれ、死なれ、そして、よみがえられたのか。イエス様は、どのようなお方であるのか、この時期、思いを馳せたい。
 
 『されこうべと呼ばれている所に着くと、人々はそこでイエスを十字架につけ、犯罪人達も、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。』(ルカ23:33) 私達は、イエス・キリストは、神の御子であられる事を知っているが、なぜ、神であられるお方が、人間の手によって、十字架刑という死刑に処せられたのだろうか。
 多くの人は、神について、次のように認識している。神は高尚で、力強いお方だから、私達は神に、色々なものを貢いで、願い事を叶えてもらおう、と。それで祈ったり、捧げものを捧げたり等して、「貢ぎ」をする。
 もしも貢ぎ方が悪かったなら、罰として災いが起こったり、報われなかったりする。人から拝まれている神は、このように、ご機嫌を伺わなければならない神だと認識があるが、そればかりではない。人の運命も、この世の力ある人も、皆、何を考えていて、どう動くのか分からない。人は常に、自分にはどうしようもない存在に振り回されつつ生きている。だから、神なぞ居ても居なくても同じだ、と言って生きる人もいる。それで多くの人は、どう転ぶか分からない将来のためベストを尽くし、もがきながら生きるしか無い、と思っている。
 
 聖書には書いてある。天と地と、宇宙万物を創り、私達・人間を創られた、ひとりの神が天におられ、その神は、実に、ひとり子をお与えになった程、私達・人間を愛された。神であられるイエス・キリストは、人に貢ぐために、高き天の御座から降りて来られた。何を貢ぐため?十字架上で、神のいのちを私達に貢ぐため。
 神の御子・イエス様がこの世に来られたのは、世の王のように、権力をふるって支配するためではない。
神の御子・イエス様は、人としてこの世に降りて来られた故に、私達の無知も、罪も、弱さも、全部ご存知で、それら全部をひっくるめて、私達の事を、父なる神様に執り成し、祈って下さる。 『そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」』(34節)
 イエス様は人々のために、それも、わけも分からず、神であられるお方を十字架につけて、嘲っている私達・全ての人のために、「彼らは何をしているのか分からないのです」と、父なる神様に執り成して下さった。
 
 私達は、本当に、真理について無知である。人は本来、神様と共に、永遠に、神様の愛の中で生きるように、と、創造されたのに、サタンにそそのかされて、罪と死が入り、神様も真理も、わからなくなってしまった。
 人は、罪と死が厳然として目の前にある不安に、おののきつつも、訳もわからない不条理な人生を生きている。罪なく、死も無いはずの、神の御子キリストは、その全ての呪いを打ち破るために、全人類の罪と死を、一身に背負って、十字架に釘づけられ、そうして、全ての罪と死を十字架上で処罰して下さったのだ。
 しかしそれで終わりではない。イエス様は、三日目に、死を打ち破って、よみがえって下さった。イエス様は、人類最後の敵である死に勝利し、罪も、死も、サタンも、一切を十字架で処罰し、勝利して下さった。
 このイエス様を、「わたしの救い主」として信じつつ生きる人は、全て、罪に、死に、サタンに勝利するのだ。
このイエス様に呼び求める時、天と地と時間を支配しておられる神様は、私達の将来も、なすべき事も、最善へと導いて下さる(ローマ8:28)。もはや、未来も、人生も、わけのわからない偶然の連続ではなくなる。
 私達を創造し、私達を愛し、私達に、将来と希望の計画を立てておられる主は、私達の最善を、一番良く知っておられる故、もし私達が、イエス様を主とし、一切の思い煩いも、未来も、主導権を全部、お委ねするなら、彼は世の全てを動かして、私達のベストの未来へと導いて下さり、将来への不安は一切なくなる。
 
 父なる神様は、限りなく愛であられ、実に、ひとり子をお与えになるほどに、世を、あなたを、愛された。
御子キリストは、全人類の身代わりとなって、十字架上で処罰を受けられた。罪なきお方なのに、罪とされ、聖なる、不死の「神のいのち」を、私達・全人類の罪の借金の支払のために差し出し、交換して下さった。
 私達がそれを信じ、祈り心を込めつつ「わたしを救って下さい」と、救い主・イエス様の御名を呼ぶなら、生きておられるイエス様は、この祈りを聞かれ、不思議な導きをもって、答えてくださる。なぜなら、イエス様の御名(ヘブライ語では「イエシュア」)の意味は、「彼は救い」であるから。この、救い主の御名を呼び、あらゆる面において、救いに入る皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 
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