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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

栄光の家系の女達 – ラハブ4 有力者への子育て(マタイ1:5-6a)
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イスラエルがエリコを陥落させたヨシュアの時代、イスラエルは敵無しだった。御言葉から右にも左にも離れず、神の民として大いに栄え、祝福され、国々から恐れられた。それなのに、その子・孫の世代は、主の御言葉に従順しなかったため、外敵の攻撃や、ききん等によって、不安定な生活を強いられていた。
ラハブが憧れた、あの神の民は弱くなってしまい、神の民として恐れられていたイスラエルの威光は、わずか二,三世代で地に落ちてしまったが、そんな時世のイスラエルでも、着実に力をつけ有力者として成長して行った一族は、確かにあった。ラハブが嫁いだ家も、そうである。彼女の子ボアズは、有力者となった。
異邦人で遊女だったラハブを、妻として迎えた男性は、サルモン(名の意:平和を好む)という男である。
異邦人や不品行に厳しいイスラエルの中で、ラハブをめとり、彼女との間に生まれた息子・ボアズを養う時、世間の理不尽な差別や偏見もあったであろう事は、想像に難くない。
しかし、社会事情も家庭事情も、不利に不利が重なっているような状況であっても、このサルモンとラハブの家庭は、着実に力を伸ばして行き、彼らの子ボアズは、時代の有力者になった。
ラハブは異邦人として生まれ、人生の大半を、悪しき習慣に染まって過ごして来た。だから、律法の教育によって正しく子育てできる自信もスキルも、無かったであろう。それでも、彼女の子は、立派に育った。
その秘訣は一体何だろう。ボアズの言動から、ラハブ達がどう彼を育てたのかを、想像して行きたい。

ボアズは身内との挨拶に「主が共におられるように」という祈りと、「主が祝福して下さるように」という祝福の挨拶を、日常的に交わしていた。(ルツ2:4)という事は、家庭の中でも幼い頃から、頻繁に祝福の挨拶が為されていたはずである。家庭内で、祝福の挨拶を取り交わす事。これが有力者への第一歩である。
ラハブは在留異邦人であり、弱き立場の彼女を憐れむ主の恵みを、多くいただいていた故、息子にも、主の「憐れみ」のわざを、自分のものとするよう、教えた事だろう。事実、ボアズは在留異国人ルツのために「わざと」穂を落とすよう指示した。(ルツ2:16) 在留異国人や、やもめを憐れみ養う主のわざを、自分のわざとし、主の思いを自分の思いとするからには、主から祝福を受けない訳は無い。主は、惜しみなく与える人には、さらに押入れゆすり入れして与え、その人が憐れみのわざを為す力をさらに与えられるのである。
また、ナオミは、全能者が自分をひどい目に合わせた、自分をマラ(苦しむ)と呼ぶよう人々に言った。
それ対し、ボアズは、主は「報いて下さるお方」「翼の下でかくまって下さるお方」と告白した。(ルツ2:12)
この事から、主は全能者であり、その翼の下に救いを求めて来る人には、報いて下さるお方だと、ボアズは常々教育されていたのだろう。実際、母ラハブの人生は、まさにそれを実体験して来た人生だった。
またボアズは、自分のはやる思いは抑え、律法のルールに従順した。
若く美しいルツにせまられた時も、自分よりも権利のある親類をさし置いて身勝手は出来ないと告げ、正式な買い戻しの手続きを踏んでから、ルツを公に、正式にめとった。それだから、皆から公に祝福された。
結婚が皆から公に祝福されるコツは、身勝手に走らず、公に、御言葉のルールを踏み行う事であり、情欲に流され、御心に反し、親や世間にも逆らった、誰からも祝福を得られないような結婚は、必ず挫折する。

ラハブは元々、異邦人の遊女だった。にもかかわらず、主から多く赦された。だから人一倍、多く主を愛したのだろう。『この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。そして女に、「あなたの罪はゆるされた」と言われた。』(ルカ7:47-48)
彼女は生まれながらのイスラエル人ではない。イスラエルのどの女性よりも、御言葉の知識は少ないし、そのたしなみも無かった。それでも人一倍、立派な子育てが出来たのは、主を多く愛したからであろう。
生まれや知識よりも、人一倍主の恵みを実感し、感動し、心底主に従順したいと願う事の方が大事である。
ラハブを見ていると、救いにも、子育てにも、「遅すぎる」という事は無い事が、本当にわかる。
主に愛され、多く赦され、恵みに包まれている事を実感し、御業に感動し、主をもっと知りたいという渇きがあるなら、生まれながらのイスラエル女を、すぐに追い越し、どの家よりも立派な子育てが出来るのである。
祝福の挨拶を交わし、主の憐れみを自分のわざとし、主は報いて下さるお方と告白し、御言葉のルールに沿った結婚をして、サルモンとラハブが築いた家庭のように、この災い多い世情においても、有力者となって栄える皆さんの家庭でありますように!イエス様の名前によって祝福します!

栄光の家系の女達 – ラハブ3 救いと滅びを永遠に分ける日(ヨシュア記6:15−25)
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ラハブは元々「遊女」だったが、同時に王族の女として、イエスの母の一人として、聖書は記している。
救いはただ、イエス(ユダヤ名「イエシュア」=ヨシュア=「神は救い」という意味)を、救い主とする事による。
イエス様を救い主とするなら、以前がいかに罪深く汚れていても、例外なく救われ、王族に加えられるのだ。
そして実際に救われるには、神の側から示された条件を「聞き」、それを実際に「行う」必要がある。
ラハブは、聞かされた事をすぐに「行い」、いつ来るとも知れぬ「かの日」が来るのを待った。
「かの日」とは、赤い印のある人には救いの日、印の無い人には滅びの日で、その日がいつかは、神のみが知っている。聞いた御言葉を信仰によって自分自身に結び付けず、いつまでも救いの行動を先延ばしにしたままにして、「かの日」を迎えてしまうのであれば、その人の永遠は、「滅び」として確定してしまう。
私達も、救いの御言葉を聞いた時、ラハブのように、すぐに信仰によって結び付けるなら、幸いである。

イエシュアの軍団は六日間、エリコの周りを回った。彼らに先立って進むのは契約の箱であり、その中には主の約束の御言葉が入っている。民も、契約の箱も、ものを言わない。ただ角笛の音だけが響いていた。
対してエリコは、神の軍が間近に迫っても頑なに城門を閉ざし、五日、六日と過ぎても行いを改なかった。
そしていよいよ、エリコに「かの日」が来た。
イエシュアの軍団がエリコの城壁を回って第七の日、契約の箱は七度回り、その七度目に、祭司たちが角笛を吹いた時、イエシュアは民に言った。「鬨(とき)の声をあげよ。主はあなたたちにこの町を与えられた。・・・ただし、遊女ラハブおよび彼女と一緒に家の中にいる者は皆、生かしておきなさい。我々が遣わした”使い”をかくまってくれたからである。」(6:16-17)
その時、窓に赤い印を結びつけて息を潜めていたラハブは、イエシュアの軍団の角笛と鬨の声を聞いた。
自分達のいる回りの城壁が、大音響を立てながら崩れ落ちたが、彼女達がいた一角だけは崩れなかった。
イエシュアの軍団が、剣を手に攻め寄せて来るのが、赤い印をつけたその窓から見えたが、しかし彼らは、自分達のいる家には手出しせず、その周りは全て攻め滅ぼした。
そして、彼女がかつてかくまった、あの二人の使いが来た。今度は、彼らが彼女たちをかくまう番となり、赤い印をつけた家の人全員を連れ出し、安全な所へと導いた。そしてエリコは滅ぼし尽くされ、赤い印の内でかくまわれていた人達は、滅びの向こう側へと渡り行き、遊女だったラハブは、栄光の家系に入った。

全世界にとっての「かの日」は来ようとしており、その日、エリコに起きた事と同じ事が起きる。
今、約束の御言葉の実現は、静かに近づき、その音づれを世界中は聞いている。
そして人々は、それでも心を頑なにして自分の行いを悔い改めようとしない人達と、悔い改めて主イエス(イエシュア)に立ち返り、その憐れみにすがって救いの印を受ける人とに、分かれている。
七人の御使いが、七つのラッパを吹き鳴らす度に、災いが降り、第七の御使いがラッパを吹き鳴らす時、人類が積み上げてきた全ての営みは崩壊し、全てが私達の主イエシュアのものとなる。(黙示11:15)
その日、人類が築きあげて来た全ての「城壁」は崩れ落ち、頑なに悔い改めなかった人達は、イエシュアの軍団に滅ぼされ、イエス様の赤い血にかくまわれていた人達、神の印を押されていた人達には、かつて彼らがもてなした御使いが迎えに来て、安全に天の御国へと導き、永遠の栄光の救いに入る。

イエス様が十字架上で流された赤い血潮、それが私達の救いのしるしである。
イエス様が十字架上で私達の身代わりとなって死に、私達を救って下さったという事を、信仰によって私達自身に結びつけ、そうして救いの印を私達につけるなら、私達も救われるのだ。
ラハブは、救いの条件は「赤い印を、自分の所に結びつける事」であると聞いて、それをすぐに行ったように、私達も今すぐにでも、イエス様を救い主として、救いを得るべきである。
救いの行動を先延ばしにしたりせず、聞いた御言葉をラハブのようにすぐに信仰によって結び付け、「かの日」には救いのしるしを掲げつつ迎え、滅びが決して届く事なく「救い」を永遠に確定する皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

栄光の家系の女達 – ラハブ2 約束の赤いしるし(ヨシュア記2:8-21)
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城塞都市エリコの、城壁の中に建て込まれた部屋に住みつつ、身売りをしていた遊女ラハブは、全能なる神と、その民イスラエルの噂を聞き、このような日々の終わりが近いと、悟っていた。エリコの王も、城壁も、そして、遊女という罪深い事を強いるカナン全体のシステムも、義なる神によって、もうすぐ滅ぼされる、と。
そんなある日、神の民の二人の男が、この地を探るために彼女の元を訪れた時、エリコの人々は彼らを捕えようとしたが、ラハブは彼らの側につき、彼らをかくまい、自分とその家族が救われるよう、交渉を始めた。
皆さんも、救われるために、神の国からのおとづれが来た時、救いのための交渉をすべきである。

彼女は「主(エホバ)が」この地をイスラエルに賜わった、と、確信をもって告白している。(ヨシュア2:9)
彼女の「エホバ」に関する知識は、わずかだったかもしれないが、救われるには、必要十分なものだった。
「あなたがたの神、主は上の天にも、下の地にも、神でいらせられるからです。」(ヨシュア記2:11)
主こそ神で、この御方以外に救いは無いという告白。それこそ、救われるに必要十分な条件である。
彼女の知識はわずかだったし、そして彼女は遊女である。悪い事を日常的に行っていたが、救われるために知識はあまり必要無いし、それまでの人生、善人だったか悪人だったかも、救いには全く関係無い。
救いの条件、それは、イエス・キリストが、あなたを救う主だと信じ、この御方に助けを求める事である。
私達は、何かと勘違いしやすい。「神の救い」を得るためには、聖書知識を蓄えて勉強しなければならない、とか、善人にならなくてはならないとか、あの事この事も我慢しなければならない、などと。
しかし救いは、イエス(ユダヤ名:イエシュア=ヨシュア=「神は救い」という意味)を、救い主とする事にある。
聖書は彼女を「遊女」と記しているが、しかしそれでも彼女は、王族の女となり、イエスの母の一人となった。
私達もイエス様を救い主とするなら、いかに罪深くあっても、救われ、王族に加えられるのである。

救われるには、神の側から示された条件を、実際に「行う」必要もある。二人の男はその条件を示した。
その内容は、実にシンプルで、誰にでも出来る簡単な事で、それを守るなら、滅びの日が来ても恐れる事は無い。それはすなわち、救いの赤い印を、自分の所に結びつける事。(ヨシュア記2:18)
この救いの条件は、ラハブだけでなく、現代日本を生きる私達にも、そして、人類全体にも全く同じである。
エジプトに裁きが降される日、イスラエルの民は自分たちの身代わりとしてほふられた小羊の血の赤い印を、自分の所に塗って滅びを免れたように、私達も、イエス様が私達の身代わりとなってほふられ、流された血潮の、その赤いしるしを、信仰をもって私達に塗るのである。
イエス様が十字架上で流された、赤い血潮、それだけが、私達の救いのしるしである。
ラハブが赤い印を信仰をもって結びつけたように、私達も聞いた御言葉を、信仰をもって結びつけるのだ。
神の国に入れず滅ぼされた者達は、ヨシュア(イエシュア)の軍団が、間近に迫っても、警告のラッパの合図が七度、吹き鳴らされても、頑なになって、築き上げて来た城壁に頼り、神とその民に逆らったからだ。
『その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。』(ヘブル4:2-3)

『ラハブは言った、「あなたがたの仰せのとおりにいたしましょう」。こうして彼らを送り出したので、彼らは去った。そして彼女は赤いひもを窓に結んだ。 』(ヨシュア記2:21)
赤い印を結ぶのは、裁きの日の前日でも、滅びのラッパが吹き鳴らされる直前でも別にいいのだが、彼女は、彼らから教えられてすぐに結んだ。
「あなたの仰せのとおりに」。これこそ、苦もなく救われる人に特徴的な、主に対してよく発する言葉である。
大いなる裁きの日、赤い印を結んだ状態で、かつ、その中にいる事。それが救いの条件であるが、御言葉に対して「でも」や「だって」が多い人は、信仰の歩みに苦労が多い。そういう人は、御言葉を身勝手に解釈して、ややこしい事をしたり、人々に「あれせよ、これせよ」と言っておきながら、かんじんのその日、見事に赤いしるしを結び忘れていたり、あるいは、しるしの外に飛び出して、滅びてしまったりするのである。
ラハブや、イエスの母マリヤのように、「あなたの仰せの通りに」というこの言葉を、いつもシンプルに主に言える皆さんでありますように!イエスのお名前によって祝福します!

栄光の家系の女達 – ラハブ1 城壁の町で身売りする日々から(ヨシュア2:1−7)
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イエス・キリストの系図に登場する二人目の女性は、ラハブである。
タマルの時代から下る事およそ五百年、死海北岸付近の、岩砂漠に囲まれたエリコという城塞都市である。
彼女は、イスラエル人が結婚するなどとんでもないとされている、カナン人で、しかも、遊女であった。
カナン地方は不道徳な地域で、弱肉強食の世界で、戦争も多かったが、それでも、彼女がエリコという堅固な城塞都市に住めた、という点では、生きて行く上では若干、有利な立場を得ていたかもしれない。
しかし決して、裕福な家に生まれた訳ではなかった。「将来、遊女になりたい」などと希望する子供など、いないだろうし、自分の家族が遊女になって欲しいなどと思う者は、いないだろう。
それでも彼女が身売りをしなければならなかったのは、それでも、生きて行かなくてはならなかったからだ。
先祖代々、補強して来た城壁の、その壁の中に立て込まれた家に住み、来る日も来る日も、欲望に駆られた、好きでもない男達に身を売り、いくばくかの報酬を得ては、家族に持ち帰る、という日々を送っていた。
彼女が「神殿娼婦」だったとしても、彼女が仕えるカナンの神々は、過酷な要求をするだけで、そんな彼女の生活を良い方向に変えるわけでも、生き方が改善するわけも、全然無かった。彼女の信じる神々も、決して変わる様子も無い膨大な日々も、ただ、彼女から若さと将来と希望を、削ぎ取って行くだけだった。

そんな彼女は、ある噂を聞いていた。すなわち、力ある唯一の神と、その神に導かれている民族について。
その民族は神の民と呼ばれ、神から与えられた律法を有し、優れた道徳と規律を持っている。
その民はエジプトを徹底的に敗退させ、海を割って渡り、水も食物も無い荒野で四十年もの間、超自然的に養われ、川向こうの強力な王達を滅ぼし、そして今、このエリコをも滅ぼそうと、近くまで来ているという。
過酷な要求ばかりする神々に搾取され、ただ過酷なだけのこの現実の日々は、もうすぐ、その正しき神とその民の制裁によって、崩壊するかもしれない。それも良いかもしれない。ただ願う事なら、自分達もその神の憐れみにすがって、救われたい。でも、彼らとコンタクトを取ろうにも為す術はなく、どうにもならない。
しかし、彼女のその心は、全能なる神に届いていた。なぜなら主は、御目をもってあまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に、御力をあらわしてくださるからだ。(2歴代誌16:9)

そんなある日、彼女の元に、二人の男性が来た。彼らは今までのどんな男とも違い、分別と秩序があった。
彼女は直感した。彼らこそ、あの神の民で、斥候としてこの地を探りに来たのだと。
エリコの王が彼らを捕らえる為、兵士達を遣わし、家の戸を叩いた時、彼女は究極の決断を迫られた。
すなわち、エリコの側につく者として彼らを差し出し、王からいくばくかの報酬を得て、もう暫く同じような日々を生きるか。それとも、神につく者として、彼らをかくまい、神の民に入るための交渉を仕掛けるか。
彼女は、神につく決断を下した。リスクを犯して彼らを屋上に連れて行って、穂の束の間に彼らを隠した。(ヨシュア2:1-7) そうして彼女は、栄光の家系に入るチケットを手にした。

城壁の町で身売りをする日々から救われて神の民に入りたいと願っていたラハブに、神は目を留め、使いを送られたように、コンクリート砂漠の壁の中で、身売りをしつつ虚しく日々を過ごしている私達全てに、主は目を留めておられる。そしてもし、主に救いを求めるのであれば、神の国からの使いが直接訪ねて来る。
その時、決断しなければならない。滅び去っていくべき、罪にまみれた生活を捨て去り、新しい、きよい生き方へと飛び込むか。それとも、今まで通り、城壁を頼りに身売りしつつ漫然と生きていくか。
不道徳に満ちたこの世界の終わりが近づいている、と、ぼんやり認知し、その滅びから救われたい、と思う人は多いが、救われるためには、イエスキリストを主とする決断をし、そして、実際の行動が必要である。
『信仰によって、遊女ラハブは、探りにきた者たちをおだやかに迎えたので、「不従順な(アペイセオー:服従しない、逆らう)」者どもと一緒に滅びることはなかった。』(ヘブル11:31)
彼女が救われ、栄光の家系に加えられたのは、信仰によってである。そして、彼女とその家族以外が滅びたのは、力強き神の噂を聞き、神の民が近くまで来ていたのに、それでも逆らい服従しなかったからである。
神様に助けを求め、救われたいと願い、主を呼び求める事、それが救いの第一歩である。イエス・キリストこそ唯一の救い主とし、この御方に自分の支配権を全て委ねるなら、その人は必ず救われるのである。

栄光の家系の女達 – タマル4 祝福を掴む執念(創世記38:27-30)
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世の中のお父さんとお母さんの馴れ初め話を聞くと、心和むものや、聞いていて嬉しくなる話は多いが、必ずしもそうでない場合もある。ユダとタマルという父母の馴れ初め話(?)は、最悪な部類に入ると言えるだろう。しかしなんと、タマルの子ペレツは、後にはイスラエルの中で、祝福の代名詞となった。(ルツ4:12)
いかに父母の最悪な行為によって生まれた子でも、祝福の代名詞にまでなれるのが、栄光の家系の不思議であり、神の民の醍醐味であり、キリストによって神の民に加えたらた私達には、慰めである。
イエス様を受けいれた人々、すなわちその名を信じた人々には、神の子となる全権が与えられた。
その人は、親の血統や肉欲は一切関係なく、ただ、神によって全く新しく生れたのである。(ヨハネ1:12)
では、タマルの子ペレツは、なぜ祝福の代名詞になったのか。その鍵は、祝福を掴む執念である。

『さて彼女の出産の時がきたが、胎内には、ふたごがあった。』(創世記38:27)
助産婦は、最初に出てきた赤子の手に「こちらが長男だ」という印として、真っ赤な糸を結びつけたが、その子は、お母さんのお腹のほうが居心地良かったのか、戻ってしまい、その間に、もう一方の子が先に生まれ出てきた。その、先に生まれてきた子はペレツ(割り込む)、手だけ先に出して、長男としての真っ赤な印をつけられながらも、後から出て来て、長男ではなくなってしまった子は、ゼラフ(輝き)と名付けられた。
ゼラフも、手を引っ込めたりせず、そのまま長男として出ていれば、王族の家系を継ぐものとされていたものを、それを逃し、割り込んで先に生まれ出たペレツが長男とされ、このペレツから王族が出る事となった。
この事は、現代を生きる私達への警告であり、戒めである。
ひと度、栄光の世界に一歩足を踏み入れ、祝福のしるしがつけられたのに、肉の中にいる事のほうを良しとし、その中へと引っ込んでしまうなら、その王族の家系の権利は別の人に奪われ、永遠に逃してしまう。
ヤコブの兄・エサウも、長子の権利を軽んじ、それを奪わんと虎視眈々と狙っていた弟によって、長子の権利も、祝福も、奪われてしまった。彼は、一杯の食物によって、長男の権利そのものを売ってしまった。
『一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように、不品行な俗悪な者にならないようにしなさい。あなたがたの知っているように、彼はその後、祝福を受け継ごうと願ったけれども、捨てられてしまい、涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかったのである。』(ヘブル12:16-17)

御国が私達に向かって手を差し伸べている時、天国への道が開かれている時、臆病になってはならない。『臆病な者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、全て偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である。』(黙21:7)
黙示録のこの箇所では、第二の死へと向かう筆頭は、「臆病者」で、その次が「信じない者」である。
なぜ、邪悪な「人殺し」とか、神を知らぬ「偶像礼拝者」を差し置いて、「おくびょう者」が筆頭なのか?
それは、御国に入るチャンスが与えられ、その前味わいまでしたのに、捨て去るべき以前の世と決別する段になって、おくびょうになり、捨てきれないからだ。
ポンテオ・ピラトをかわいそう、と言う向きもある。イエス様を敬う心を少し持っていたのだから、赦してあげればいいじゃないか、と。しかし、イエス様を敬う心を持っていながらに、最後には臆病の故にイエス様を捨てて世に従ってしまう、これは、最初からイエス様に敵対していたパリサイ人達よりも、たちが悪い。
なぜなら、イエス様が真理であり王の王であると知った上で、なお、拒否したからだ。

『バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。』(マタイ11:12) 神の国の権利は、それを奪おうとする人が勝ち取り、自分は大丈夫だと安穏として肉に浸り続け、そこから動こうとしない人は、祝福の権利を奪われてしまう。
パリサイ人達は、ヨハネのバプテスマはどこから来たのか、と、イエス様から質問をされた時、人前で臆病になり、「わかりません」と答えた。そこで主は、あなたがたよりも取税人や遊女の方が、先に神の国に入っている、と、宣言された。(マタイ21:23-32)
イエスの血潮という、救いの「赤い印」が与えられたなら、それを決して離さず、神の国を熱心に求め、執念深く祝福を奪い取って行く皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

栄光の家系の女達 – タマル3 王族としての整え(創世記38:20-26)
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皆さんは、印鑑や一族のしるしを、誰とも分からぬ遊女に報酬の抵当として預けたりするだろうか。イスラエル王族の父祖・ユダは、それをしてしまう程、霊的に落ちぶれていたが、主はそこから立ち直らせて下さる。
ユダが、遊女の報酬のやぎを送ろうとしたのは、遊女にさえ律儀に約束を守るため、というより、大事な自分の印と紐、つえを取り戻すためだった。しかし、彼女は探しても見つからなかった。(創世記38:20)
それらの三品は、本人証明に使える程の大事なものであるにもかかわらず、それを持っている”遊女”を徹底的に探す事をしなかったのは、ユダにとって、自分のした事は、恥だったからである。(23節)

『ところが三月ほどたって、ひとりの人がユダに言った、「あなたの嫁タマルは姦淫しました。そのうえ、彼女は姦淫によってみごもりました」。ユダは言った、「彼女を引き出して焼いてしまえ」。』(24節)
この場面はタマルの危機というより、ユダの危機である。ユダは、タマルが姦淫したという事で死刑に定めたが、彼自身こそ、3ヶ月前、密かに遊女を買い、それを隠しおおせたつもりが、主はそうは行かせない。
『彼女は引き出された時、そのしゅうとに人をつかわして言った、「わたしはこれをもっている人によって、みごもりました」。彼女はまた言った、「どうか、この印と、紐と、つえとはだれのものか、見定めてください」。』
ユダは、うやむやに葬り去ろうとした諸々が、全て、明るみに出されてしまった。
自分と家族が主から離れている事をうやむやにし、タマルに夫を与える約束をうやむやにし、神様の御心である産んで増えて行くという事をうやむやにしつつ、自分は遊女と遊び、その事も秘密裏に葬り去ろうとした結果、それら全てが結実した実は、自分の赤ちゃんという、誰にも申し開き出来ないものだった。
神に属する一族は、罪の問題やいのちを生む事、悔い改める事など、神に果たすべき責任を、うやむやのまま先延ばしにして、そのままフェードアウトする事など、出来ないのだ。

本来、かけがえのないはずの自分の赤ちゃんが、恥である時、その人自身には必ず 罪がある。
しかし、いかに人の罪の行いの結果生まれたいのちであっても、いのちは例外なく主の御前に尊い光であり、人が隠しおおせるものではなく、そのいのちを疎む者を、主は疎まれる。ユダはどう対応しただろうか。
『ユダはこれを見定めて言った、「彼女はわたしよりも正しい。わたしが彼女をわが子シラに与えなかったためである」。彼は再び彼女を知らなかった。』(26節)
彼は試されたが、主の前に正しい対応をした。すなわち、自分の罪を認め、悔い改め、罪の行いを離れた。
もしこの時、頑固になって怒り狂い、タマルを焼き殺し、自分の赤ちゃんのいのちまで奪っていたとしたら、彼もオナンのように、主に打たれていたのではなかろうか。
彼の子孫・ダビデ王も、姦淫の結果のいのちの事で、犯した罪が示された時「私は主に対して罪を犯した」と正直に非を認め、正しい判断をした。それで主は、ダビデを打たれず、罪を見過ごして下さった。

罪ある事を主から示された時、正直に認め、悔い改め、罪に戻らない事。それこそ、王族の対応である。
ユダはずっと後、エジプトの宰相となった弟・ヨセフから濡れ衣を着せられた時、一切の言い訳をせず、告白した。『われわれはわが主に何を言い、何を述べ得ましょう。どうしてわれわれは身の潔白をあらわし得ましょう。神がしもべらの罪をあばかれました。』(44:16)
ユダは、主からの懲らしめと恥を受けた事により、罪を指摘された時は断然、正直になって悔い改めるようにと、また、伴侶選びと女性に関してはくれぐれも気をつけるようにと、自分と子孫達を教育した事だろう。
それでユダの家は、多くの失敗を事前に防げた事だろう。こうしてユダ族は、支配者として整えられて行き、ついには、罪なき身であるのに、罪人の身代わりとなって、その身を差し出すという、主イエスにも似た、黄金のように気高く尊い性質を帯びるまでになった。(創世記44章)
そうしてユダは、後に、兄弟の中で一番の祝福を父ヤコブから受けた。『つえはユダを離れず、立法者のつえはその足の間を離れることなく、シロの来る時までに及ぶであろう。もろもろの民は彼に従う。』(49:8)
一度は、肉欲のために手放してしまった支配者の杖だが、タマルという主の懲らしめの杖を真正面から受け入れ、悔い改めた結果、もはや支配の杖は、彼から決して離れる事は無くなったのだ。
罪を正直に認め、悔い改め、王族の高貴な性質を帯びるようになって行く皆さんでありますように!

栄光の家系の女達 - タマル2(創世記38:12-23)
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イエスキリストの系図の中で、ユダは、アブラハム、イサク、ヤコブにつぐ重要人物である。
ユダとタマル、すなわち義理の父と義理の娘との間に生まれた子から、キリストへと続く王族が生まれ出た。
一族成り立ちの初めから、人の愚かさ、罪深さで満ちているが、主の憐れみと導きは、それを遥かに超えている。主は、そんなユダの家系を、王族の家系へと整えるために、まず、家の清めから始める。
すなわち、家の中から、主に逆う者、家全体を災いへと導く事を止めない者を、まず取り除かれる。
『日がたってシュアの娘ユダの妻は死んだ。その後、ユダは喪を終って・・・』(創世記38:12)
この「喪を終って」と訳された語「nacham」は、「慰める、あわれむ」という意味がある。
また、シュアという名には「叫び」という意味があり、ユダの名には、「褒め称える、賛美する」の意味がある。
つまり、この節は、字義通りに訳すなら「”叫び”の娘は死に、その後、”賛美”は慰められた」となる。
主を褒め称えるべき人(ユダ)が、神の家族から離れ、叫びの娘(シュアの娘)をめとってしまうと、その家の中は、どんどん人間的な「叫び」が大きくなり、主を褒め称える口は、かき消されてしまう。
どんな人であれ、家族の死は、痛く悲しいものがある。しかし、家の中から「叫びの娘」が除かれ、主に逆らう人達が取り除かれるなら、後々、主をほめたたえる家の将来は、慰めを受けるのだ。

ユダはその後、ティムナに上り、自分の羊の毛を切る者のところへ行った。タマルはそれを聞くと、やもめの服を脱ぎ捨て、遊女の格好をし、ユダが通りそうな道の傍らに座った。それは、シェラが成人したのに、ユダは約束どおりに行わず、自分がその妻にされないのを知ったからである。(創世記38:13-14)
タマルのこの行動は、理解し難い。ユダと出会えるか分からないし、出会っても遊女として買ってくれるか分からないし、買ってくれても身篭るかも分からないし、いずれにしても、悪い結果以外が想像できない。
一体どうして彼女はそのような行動に出たのか。
タマルは、自分の夫達が主の怒りを買い、主に打たれて死んだのを、二度も、生々しく見ている。
ユダと共におられる主に逆らう事が、いかに恐ろしいか。人間の好き嫌いや、良し悪し判断を優先させ、アブラハムの子孫を生まない事が、いかに災いを招くか。それを、身をもって、二度も体験している。
今、ユダは自分に子を産ませないようにしているが、それはオナンと同じ罪、「生んで増える」という主のいのちの祝福に逆らう罪であり、このままでは、どんな恐ろしい災いが主から降されるか、分からない。
それで彼女は、一見愚かで、確立のとても低い、そして、命がけの、大胆な行動に出たのかもしれない。

ユダは、遊女の格好をしたタマルを見ると、まんまと引っ掛かり、「遊女を買うため」の交渉を始める。
タマルは報酬の抵当として、ユダに「印と紐と、つえ」を要求したが、なんと、ユダはそれらを彼女に預け、そして彼女の所にはいった。(創世記38:17-18) ユダが遊女の報酬の抵当として預けた3つの品々は、いずれも、持ち主本人を特定できるもので、むやみに他人に手渡してはならぬ貴重品の類である。
まず「印」は、指輪のように指にはめられる「印鑑」で、その人そのものを表明するしるしである。
「紐」は聖書の他の箇所を見ると、飾りや服、エポデなどを固定させるためのもので、持ち主の特徴が出る。
そして「つえ(matteh)」は、杖や棒の意味のほか、旗ざお、権標、部族という意味まである。
つまり、これらは、一族の支配と権威の象徴である。そんなに大切なものを、ユダはなんと、遊女と寝るための抵当として、預けてしまったのだ。中身はタマルではあっても、ユダにとっては「異邦の遊女」である。
主を褒め讃えるはずのユダは、異邦人の価値観に染まり切り、神の民としてのアイデンティティが地に堕ちてしまったのが伺える。しかし主は、そんなユダを、懲らしめのむちによって、地の底から救い出して下さる。

ユダがやった事も、タマルがやった事も、カナン人の女も、息子たちも、いや、人類は皆、する事は、主の御前に最低である。しかし、いのちの主は、全ての人間の罪と死を、いのちの中へと飲み込んで下さる。
人は罪深く、どうしようもない事しか出来ない。しかし、そのどうしようもない「人」の子孫から、神の子キリストは人として宿り、罪こそ犯されなかったものの、人と共に生き、人としての貧しさ悲惨さを全て味わい、人の身代わりとなって死んで下さり、人としてよみがえって下さったのである。
人間の罪に汚れた有様の中に、主の憐れみ、主の良きご性質だけが、ただひときわ際立つ。

神様は無限大

カテゴリ : 
礼拝メッセージ説教音声配信 » 主日礼拝
執筆 : 
pastor 2013-7-21 21:33

本日、天声では愛知からはるばる来て下さった柿本ひかる先生と、その五人のお子さん達が、礼拝の奉仕をして下さいました。

神様は無限大(2コリント12:9):右クリックで保存
柿本先生一家による特別礼拝:右クリックで保存

先生の娘さん達は、ワーシップ&ダンスの奉仕をしておられましたので、私が帰って来た時はみなさん素敵な衣装に身を包んでおられ、また、天声の姉妹達も、今日は夏らしく浴衣を着て参加しようと申し合わせて来ておりましたので、私が入って来た時は、とても華やかな様相(?)が展開されていました。

柿本ファミリーは、ホームスクーリングで聖書を土台として育てておられますので、世の中で育った子供と比べ、とても思慮分別があってしっかりしており、今日の礼拝でも十分な働き人として元気に奉仕しておられました。

神様がプレゼントして下さった何より素敵な事は、今回、ひかる先生の旦那さんである満先生が、本当はは仕事で参加できないはずだったのに、主の特別なはからいにより、昨日も、今日も、この交わりと礼拝に合流できた事です。
満先生は本当に主を愛していて、今日の集会に参加したいと切に願っていた祈りを聞いて下さり、しかも、礼拝を導く時間も、賛美し祈り、証する時をも、十分与えて下さいました。

私・林のほうは、今日初めて横浜華僑教会でのメッセージの奉仕をさせていただきました。
キリストのいのちを二世へ三世へと正しく引き継がせ、多くのクリスチャンホームや働き人を生み出している、成熟した、素晴らしい教会でした。
賛美も司会も中国語で慣れない中でしたが、主は、私のメッセージも、通訳の方も、御霊で支配して下さり、無事、御言葉を送り届ける奉仕を、為させて下さいました。
礼拝の動画は、じき横浜華僑教会ホームページで見れるようになると思います。
http://www.yoccc.jp/

この日のそれぞれの奉仕が祝福されるよう、日々祈っておりましたが、主は本当にお腹いっぱいに、これでもかという程の祝福を与えて下さいました。
いのちの養いと喜びと笑いで溢れた一日を与えて下さった主に感謝です!

栄光の家系の女達 - タマル1(創世記38:1-11)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
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週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

新約聖書は、いきなりイエス・キリストの系図で始まる。何とも初心者に不親切と思えるが、この系図に名を連ねている人々の成り立ちは、知れば知るほど、人の罪深さと、主の憐れみ深さを知り、いかに、どうしようもない人であっても、栄光の家系に連なる事ができるのだ、という希望が湧いて来る。
これから、この系図に登場する「女性たち」に焦点を当て、何度かに分けて見て行きたい。
系図の中で最初に登場する女性は、タマルである。(マタイ1:3) ユダとタマルによってパレスとザラが生まれた、とあるが、ユダとタマルは、夫婦ではない。タマルは、ユダにとっては、息子の嫁、という関係である。
ユダはイスラエルの王族の父祖であり、全世界を救うメシヤの家系の家長だが、その大切な一族の初期の段階から、既に人の罪が渦巻くドラマがある。一体なぜ、このような事になってしまったのか。

『そのころユダは兄弟たちを離れて下り、アドラムびとで、名をヒラという者の所へ行った。ユダはその所で、名を「シュアというカナンびとの娘」を見て、これをめとり、その所にはいった。』(創世記38:1-2)
事の発端は、ユダが、神に召された家族の元を離れ、異邦人の地に行き、異邦人の娘を見て、それを妻とした所に始まる。神の子達が兄弟姉妹の元を離れ、異邦人を見染めて妻を迎え入れると、必ず多くの悲しみや、時間やエネルギーの多大なロスを生み出す元となってしまうのは、ノアの大洪水前からそうである。
この異邦人の女との間に最初に生まれた息子・エルは、ユダ自身が名付けたが、2番目・3番目の息子はこのシュアの娘が名付けたようである。(同3-5節) 異邦人の妻と暮らしていく中で、ユダの家長としての権威はますます弱くなり、異邦人の娘の影響力がますます大きくなって行ったのだろう。

『ユダは長子エルのために、名をタマルという妻を迎えた。』(同6節)
ユダの妻である「シュアの娘」は、出所は「カナン人」であると記されているのに、名前は聖書に一切記されていない。それに対し、タマルは全く逆で、名前は明確に記されているのに、出所が一切記されていない。
という事は、タマルはアブラハムの家系だったのかもしれない。いずれにせよ彼女は、ユダの子孫を残す事の大切さをユダより意識しており、ユダも、しっかりした彼女によって息子が改善するのを望んだ事だろう。
しかし長男エルは、異邦人の母の影響を多大に受け、主を畏れる心は育たず、主を怒らせるようになり、ついには子供を残さないまま、主に殺されてしまった。
ユダは、次男のオナンに「兄の妻の所にはいって、彼女をめとり、兄に子供を得させなさい」と命じたが、彼は、子が自分のものとならないので、兄に子を得させまいと、行為の度に子種を地面に流した。
それは「生んで増えて地に満ちる」という神の御心にも、また、父の命令にも、反抗する事だったため、主は彼をも殺された。神にも父にも反抗してまで、自分を貫きたい、という者を、主は打たれるのだ。
ところで、ユダを含め、ヤコブの12人の子達は、カナン人に劣らず罪深い行いを沢山したのに、主に打たれていない。それは、主は、罪深い人を打つというより、主に反抗する者を打たれるからである。

息子が二人死んでしまったので、ユダはタマルが縁起悪いと思ったのだろうか、彼女を三男から遠ざけた。
しかし、息子二人が死んでしまったのは、書いてある通り、息子たち二人が、主に逆らったからである。
そしてこの三男シェラも、主に打たれて死ぬ要素が、十分にあった事を、ユダ自身認めていたのだろう。
ユダは、タマルを遠ざけるよりも、自分達の内にある神に嫌われる性質を遠ざけるべきだったのに、それをせず、一人の弱い立場の女性・タマルを遠くにやって、嫌な事はうやむやのまま、葬り去ろうとした。
しかし、神に属する一族にあっては、罪の問題やいのちを生む事、神へ果たすべき責任を、うやむやのまま先延ばしにして、そのままフェードアウト出来るわけは無いのだ。
ユダは悔い改めを先延ばしにしてしまった結果、後に神と人の前でとても恥ずかしい思いをする事となる。
ちょっとした信仰の妥協は、大きなロスと悲しみを生み出し、果たすべき謝罪や悔い改めを、先延ばしにすればする程、後に受ける恥も災いもどんどん膨れ上がっていく。その詳細は、次回にゆずりたい。
主の御声は、どんなささやかなものでも、正確に聞く耳が開かれ、その導きに従って歩み、時間も、いのちも、ロスする事なく歩んで行く皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

要塞をも打ち破る力を得るには(2コリント10:1-8)
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2コリント10章以降は、コリントにいるパウロの反対者達への、パウロの勧めである。
彼はその書き出しを、「キリストの優しさ、寛大さをもって」勧めている。
反対者達は、「面と向かってはおとなしいが、離れていると、気が強くなる」とパウロを 評しているが、反対者の視点から見るこのパウロのあり方から、逆に、キリスト者のあるべき姿を学ぶ事が出来る。
パウロは事実、聖徒と面と向かっている時は、「優しさ」と「寛大さ」をもって接していたのだ。
「優しさ」と「寛大さ」は一見弱々しく見えるため、力強さや雄弁さに頼みとする反対者を強気にさせたのだが、御言葉の真理を語る時は、語調は柔和に、そして真理はそのまま語るべきだ。 『主の僕たる者は争ってはならない。だれに対しても親切であって、よく教え、よく忍び、反対する者を柔和な心で教え導くべきである。おそらく神は、彼らに悔改めの心を与えて、真理を知らせ、一度は悪魔に捕えられてその欲するままになっていても、目ざめて彼のわなからのがれさせて下さるであろう。 』(2テモテ2:24-26)

肉的な力を頼みとするパウロの反対者は、違ったイエスや異なった福音を伝えており(2コリント11:4)、しかも、コリントの聖徒達の顔を叩いたり、威張ったり、奴隷にしたりと、威圧的だった。(2コリント11:20)
肉に頼る者達は、威圧的・暴力的になる事によって、人を支配しがちである。
そのために彼らは、イエス様の有様を別様に変えてしまったり、福音をねじ曲げてしまう事さえするが、私たちの戦いの武器は、肉的な力でも、威圧でも、暴力でもなない。『わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。』(2コリント10:4)
私たちの武具は、エペソ6章にある霊的武器であり、そして唯一の攻撃の武器は、御言葉の剣である。

パウロの手紙は確かに重々しい。「主イエスの権能をもってサタンに引き渡す」(1コリント5:4)とか「私たちは御使いをも裁くべき者だ、ならばこの世の事は言うまでもない」(1コリント6:3)とか、実に重々しく見える。
しかしパウロは、自分の手紙をおごそかにするために、装飾として「イエスの権能をもってサタンに引き渡す」「私たちは御使いをも裁くべき者」などと言っているのではない。真実そのままを語っているだけなのだ。
御言葉は、そのままでは、実に突拍子もない事、あり得ない事のようにに聞こえるものもあるが、私達は、人に何と評価されようとも、御言葉はそのまま語るべきなのだ。
御言葉を、信仰を混ぜてそのまま語る事は、大きな力である。
ある人の御言葉の宣言は権威があって、天候も、世界情勢さえも動くのに、ある人の宣言には権威が無く、物事が全く動かない。それは一体、どういう事から来るのだろうか。それは、続く節にヒントがある。

『わたしたちは「理屈(イマジネーション)」を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる「高慢」を打ち倒し、あらゆる「思惑(考え)」を「とりこに(捕縛)」してキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。』(同4-6)
すなわち、御言葉の剣を、要塞をも打ち破るほどに研ぎ澄ますには、まず、自分自身の身勝手な理屈(イマジネーション)を、自ら打ち破り、神の知識に逆らう「高慢」を打ち砕く、という「下準備」が必須である。
次に、全ての「思い(考え)」を捕えて、キリストへと連行させるのだ。そうして、キリストに対する「その従順(女性形単数)」が完全になる時、あらゆる不従順を罰する用意ができ、その力は要塞をも打ち破るのだ。

結局のところ、自分の理屈や思惑、考えは一切降ろし、それらをキリストへと連行し、御言葉なるキリストに従順し服従しなければ、この偉大な武器に、効力を持たせる事はできない。もし私達が、御言葉の内容を知り、それに服従し、行動するなら、その時こそ、私達は力と権威を帯び、あらゆる敵を打ち破るのである。
そして、この武具の使用目的は、人を倒すためでない。人を建て上げるためである。(同8節)
全ての高ぶりを取り除き、あらゆる思惑をキリストに服従させ、そうして与えられたこの霊的武器を、神に逆らうあらゆる敵に行使し、そして、兄弟姉妹は建て上げる皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

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