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栄光の家系の女達 – ウリヤの妻2 いのちの光を消す罪(2サムエル記11:14-27)
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- pastor 2013-10-27 18:58
栄光の家系の女達 – ウリヤの妻2 いのちの光を消す罪(2サムエル記11:14-27)
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ダビデは、ヘテ人ウリヤを妻の所に帰らせ、妻と寝るように仕向けて、自分が彼の妻を身ごもらせる行為をした罪を隠そうとしたが、ウリヤは実直で忠実な性格の故に、帰らず、ダビデの目論見は失敗に終わった。
そこでダビデは別の手段を講じて罪を隠そうとした。すなわち、ウリヤを謀殺し、妻を奪う事によって。
『朝になってダビデはヨアブにあてた手紙を書き、ウリヤの手に託してそれを送った。彼はその手紙に、「あなたがたはウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼の後から退いて、彼を討死させよ」と書いた。』
新しく結実した、自分の子という新しいいのち。そのいのちの存在そのものが、自分の罪の証左となり、都合が悪いからという事で、そのいのちを、あるいは、相手のいのちを消す。
それは、昔から現代に至るまで、人の間ではよく行われて来た事である。現在、わが国の死亡原因の一位は「ガン」で、年間30万人ほどであるが、1950-2000年の死因のトップは、ずっと「中絶」で、1950年代はなんと、年間100万以上の生まれぬいのちがあった。事実、日本には、水子供養の偶像がいたる所にある。
『ウリヤの妻は夫ウリヤが死んだことを聞いて、夫のために悲しんだ。その喪が過ぎた時、ダビデは人をつかわして彼女を自分の家に召し入れた。彼女は彼の妻となって男の子を産んだ。しかしダビデがしたこの事は主を怒らせた。』(2サムエル11:26-27)
ウリヤの妻は、夫の死を悲しんだ。彼女はきっと泣きながら、死んだ夫の名を幾度も呼んだ事だろう。
ウリヤよ、ウリヤよ、と。ウリヤの名は「主の光」という意味である。主の光よ、主の光よ・・・。
主は、一人の忠実なしもべの不当な死を、見過ごしにはされず、不当な死を痛み悲しむ嘆きと祈りを、聞き漏らす事は無い。人の犯した罪の全てを、人知れず流した罪なき者の涙を、主の光は晒しだす。
人は思うかもしれない。主はそこまで徹底して明らかにしなくても良いのでは、と。しかし、もし主がほうって置かれたなら、ダビデの家に、第二第三のウリヤが、第二第三のバテ・シェバが出たかもしれない。
聖書は、性的な罪については、旧約でも新約でも、禁止事項としての優先順位が高い。性は、いのちに関わる事である。いのちを完全無視し、快楽だけを全面に押し出し、いのちをその背後に抹殺してしまう者は呪われ、土地から吐き出されてしまう。実際カナンがそうだったし(レビ記18:24-28)、今の日本がそうである。
世界はかつて、道を踏み外した行為のはびこりにより、一度滅びた事がある。ノアの洪水の前、神の子達は人の娘の美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとり、ネフィリムが生まれ、そして暴虐が満ちて行った。
『主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。・・・時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである。』(創世記6:5-11)
ノアの時代、道ならぬ性によっていのちが呪われ、虐待が虐待を生み、暴力が暴力を生み、憎しみが憎しみを生み、新しく世に生まれてくるいのち達は、無防備に、暴虐に満ちた世へと、ただ送り出されて行った。
神はどれほど心を痛められただろう。
その世界を一度、水によって全て洗い流した事は、神の憐れみではなかろうか。
だから神は、栄光の家系を築き上げていくダビデの、そのような罪を、決して見逃す事はしなかったのだ。
ひと度罪を犯し、それを絶対に隠し通そうとすると、坂道を転げ落ちるがごとく、罪に罪を重ねる事になる。
ダビデは、嘘に嘘を塗り固めるために、あの実直で忠実なウリヤを謀殺し、その妻を自分のものとするまでになり、罪に歯止めが効かなくなってしまった自分に、苦しんでいたかもしれない。(詩篇51:3 、32:3-4)
主は、そんなダビデをも、憐れまれる。歯止めが効かなくなってしまった、罪に走る足を、主の光に照らし出す事によって、止めて下さる。それは、痛みを伴う事ではあるが、主の懲らしめは、主の慰めである。
性的に「道」を踏み外す事、それは暴虐が満ち溢れる元であり、呪いと滅びを招く元、その地から吐き出される元である。私達キリスト者は、御言葉に従って正しく伴侶を愛し、正しく産み、神の御心に叶ったいのちを増やして行くべきであり、そのためにも、この国に福音を告げ知らせて行くべきである。
栄光の家系の女達 - ウリヤの妻 忠実なヘテ人ウリヤ(2サムエル記11:1-13)
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栄光の家系の女達の第四人目は、ウリヤの妻、バテ・シェバである。
彼女は、それまでの3人とは、色々な面において異なっている。今までの3人は、何かしらの信仰の行動を起こして、栄光の家系へと加えられたが、彼女は、特に何か行動を起こしたわけでもない。
彼女はただ為されるがままである。体を洗っている裸を、ダビデ王に勝手に覗かれ、一方的に王に召しだされ、王の姦淫の相手とされ、そして一方的に王の子をみごもり、後には、一方的に夫・ウリヤは謀殺され、彼女はダビデ王の妻として迎えられ、そして、生まれて来た子は、王の罪の故に、主に打たれてしまった。
マタイの福音書には、バテ・シェバという名は記されず、「ウリヤの妻」として記されている。だから彼女を見る時、「ウリヤの妻」として見る必要があり、そしてウリヤがどのような人であったかを、まず知る必要がある。
ウリヤはヘテ人である。つまり、イスラエルが忌み嫌っているカナン人の末裔ではあるが、ウリヤという名前は「主(ヤハウェ)の光」という意味があり、また、ダビデの三十勇士の一人に数えられていたため(2サムエル記23:39)、恐らく彼も、ルツのように、イスラエルの神を慕い求めて来た異邦人の改宗者だったのだろう。
彼は、バテ・シェバという美しい妻を迎えた。彼女は、ダビデの三十勇士の一人エリアム(2サムエル23:34 名前の意味:神の民)の娘で、きっとエリアムは、ウリヤのその純粋な信仰と、誠実な人柄のゆえ、また、戦士としてのその有能さのゆえ、彼がヘテ人であるにもかかわらず、自分の娘を嫁がせたのだろう。
彼は、偉大な王ダビデに仕える戦士とされた事と、美しい神の民の娘を妻として迎えた事、そして、イスラエルの神に仕える者とされた事を喜びつつ、忠実に責務を果たす日々を送っていたのだろう。
その日もウリヤは、アモン人との戦争のために、イスラエルの全軍と共に遠征していた。
しかしダビデ王は、イスラエルの全軍が遠征に出かけていたのに、彼だけはエルサレムに留まっていた。
『ある日の夕暮、ダビデは床から起き出て、王の家の屋上を歩いていたが、屋上から、一人の女が体を洗っているのを見た。その女は非常に美しかった。ダビデは人をつかわしてその女の事を探らせたが、ある人は言った、「これはエリアムの娘で、ヘテびとウリヤの妻バテシバではありませんか」。』(2サム11:2)
律法によると、人妻と通じる者は死刑であるのに(レビ記20:10)、ダビデは、ヘテ人の妻なら何しても良いと思ったのだろうか、彼は使いをやって彼女を召し入れ、彼女と寝た。
しかし、タマルの時と同じように、この、たった一度の逢瀬により、彼女はみごもる事になる。
ダビデ王は、彼女がみごもった事を聞いて、自分の罪を隠そうと、一計を案じる。
彼は、ウリヤを自分の所に送るように命じ、彼から適当に戦いの状況をたずねてから、家に帰るよう命じた。
ウリヤからすれば、あの尊敬する神の民・イスラエルの王・ダビデのお墨付きで、しかも贈り物つきである。
普通なら、喜んで美しい妻の待っている家に帰り、久しぶりに妻と一緒の時を楽しむ所だが、そうではない。
「神の箱も、イスラエルも、ユダも、小屋の中に住み、わたしの主人ヨアブと、わが主君の家来たちが野の表に陣を取っているのに、わたしはどうして家に帰って食い飲みし、妻と寝ることができましょう。」(11節)
彼はなんと忠実な人だろうか!主御自身も、イスラエルも、主人ヨアブも、戦いに出て野営している、それに引き換え自分だけ家に帰り、妻といい思いをする事など、できない、と言うのである。
それに引き換え、ダビデ王は一体、何をしたのだろう。主も、部下も、戦いに出て野営しているというのに、彼だけ王宮に留まり、しかも夕方に起きだして屋上を散歩し、人妻を見て欲情し、姦淫する。
ダビデ王は、ヘテ人のこの忠実な一兵士の言葉を聞いて、悔い改めるべきだったが、そうはせず、かえってますます罪を隠そうとし、ついには、この忠実なしもべを殺そうとたくらむまでになってしまう。
ダビデ王と言えば、誰もが認める偉大な王である。ちょっとくらい、人妻と寝ても良いのでは、と思われる。かもしれないが、主の光に照らされる時、むしろ王だからこそ、そのような事は、許されないのだ。
福音書の系図に、なぜ「ウリヤの妻」として記されたか、それは、忠実なウリヤというヘテ人がいた事が記録され、多くの人に知られるためではないだろうか。主は、ウリヤのように、一外国人であっても、主と主君に忠実な人が陰謀によって殺され、人知れず暗闇の中に葬り去られる事など、決してゆるさないのだ。
その主のご性質は、弱き人にとっては慰めであり、強き人にとっては、戒めとして覚えておくべきである。
栄光の家系の女達 - ルツ5 買い戻して下さる方(ルツ記4章)
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ルツやナオミの家を買い取る人が、ボアズとなるかどうかは、第三者の判断次第となり、この問題は一旦、ルツやナオミの手を離れて、全能なる主の采配に委ねるしかなくなった。
ナオミはルツに、この事がどうなるか分かるまで、落ち着いて信頼するように言い、さらに、「あの人は、きょう、その事を決定しなければ落ち着かないでしょう」(ルツ3:18) とも言った。
あの人は、きょう、その事を決定する・・・。彼女達は確かにこの問題をどうする事も出来ない。しかし「あの人」が、この問題の解決のために、動いて手続きしてくれる。
私達も、ルツのように、信仰の先輩に言われた通りに主イエス様の元に行き、自分が主のはしためである事を告白し、主の救いの衣の内に入らせて下さいと願うなら、主はそれを喜んで下さり、私達が納まるべき所へと納まるまで、全ての算段を整えて働いて下さるのだ。
ボアズは早速、正式に手続きするために、その親類の人と、さらに町の長老10人を呼び寄せた。
かの親類は、畑の買い戻しは自分がする、とは言ったものの、ルツと結婚しなくてはならない事も聞くと、それは出来ないと拒んだ。そもそも、買戻しの話は、買戻す側にとって、デメリットしか無いような話である。
ヨベルの年までの年数に従ったレートでその畑を買い戻すのだが、その畑は、自分のものとはならない。
生まれてくる最初の男の子に、死んでしまった親類の名を継がせ、その畑は、その子のものとなるのだ。
『そこで親戚の人がボアズにむかい「あなたが自分であがないなさい」と言って、そのくつを脱いだ』(7節)
主は、アブラハムやヨシュアに「あなたの足の裏で踏む所は、ことごとく与えた」と言ったが、靴を脱いで相手に渡す事は、その土地を踏み歩く権利を、相手に渡した事を象徴するものであり、イスラエルにおいては、買戻しの権利を譲渡する事の、正式な証明方法である。
だから、妻とすべき女性をめとる事を嫌がって「くつを脱がされた者の家」(申命記25:10)と烙印を押される事は、イスラエルの土地を踏み歩く権利を脱がされた者として、かなりの恥辱となる。
実際ルツ記は、オルパという脇役女性の名さえ記されているのに、この親類の名は、一切記されていない。
栄光の家系を受け継ぐ人とは、物質的・肉的な相続を優先させる者ではなく、信仰によって身寄りのない人を養い、御言葉を実践する人である。
飢えた人にパンを分け与え、貧しい人々を家に入れ、裸の人に着せ、肉親の世話をするなら、暁のように光がさし出で、傷はすみやかに癒され、絶えず主に導かれ、焼けつく土地でも、思いは満たされ、骨は強くされ、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。(イザヤ58:6-12)
「わたしはマロンの妻であったモアブの女ルツをも買って、わたしの妻としました。」(ルツ記4:10)
ボアズがルツを買った事、それは、私達のボアズであるイエス様が、私達を買って下さる事を表している。
世の何者も、私達を買い取る事は無い。私達を買い取るメリットなど無く、ただ重荷にしかならないからだ。
しかしイエス様は、私達を買い取って下さった。何のメリットも無いのに。それどころか、自分のいのちを投げ出さねばならぬという「究極のデメリット」しか無いのに。それは、ただ、大きな愛の故である。
こうしてボアズは、神と人とに祝福されつつ、正式にルツをめとり、主は、ルツに男の子を授けて下さった。
律法によるなら、本来、この子の名はマフロンとなるはずだが(申命記25:6)、なぜか女たちはその子を「オベデ」と呼んだ。(ルツ記4:17)
ルツの亡夫「マフロン」の名には「大きな欠点」「病弱」という意味があるが(ちなみにオルパの夫キルヨンは「浪費する」「消え失せる」の意味)、「オベデ」という名には「仕える」「僕」という意味がある。
私達の家を絶やさない責任のある人に、大きな欠点があったり、病弱であってりするなら、困るだろう。
あいにく、世の人は、罪という病の故に欠点があったり弱かったりして、その責任は果たせないが、父なる神の忠実なるしもべであるイエス様は、その責任を、完全に果たす事がおできになる。
ルツの子オベデは、ナオミの老後を養う者となり、その子孫から、偉大な王ダビデが、そしてキリストが出た。
同じように私達も、信仰によってイエス様を内に宿し、信仰によって生んだ霊的な子孫たちは、後に私達を養い、キリストの花嫁として、神の教会(エクレシア:召し出された者達)として、共に完成されて行くのだ。
栄光の家系の女達 - ルツ4 栄光の家系の婚活(ルツ記3章)
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ルツ記3章は、ルツの結婚のための「婚活」と言える。
世の中の”婚活”は、いかに自分好みの、いかに条件の良い相手を見つけて、いかにやりくりしてそのような人との結婚へ持っていくか、というイメージがあり、その相手選びの判断基準は「自分中心」である。
しかし、神の民の婚活は、その真逆である。神の民の婚活は、イサクの結婚の時のように、自分の好みや意志は一切関係なく、霊的指導者や親に一任し、主の御心を求めて行うものである。
聖書では、自分の好みや目に慕わしい、という価値観で結婚相手を選ぶとしたら、それは身を滅ぼす元である。(創世記6章、士師記14:3)
それで、ルツの霊的指導者であるナオミは、ルツの「落ち着き所」へと導くため、一働きする。
『娘よ、わたしはあなたの「落ち着き所(原意:家庭、憩いの場所、休みの場所)」を求めて、あなたをしあわせにすべきではないでしょうか。』(ルツ記3:1)
女性にとって落ち着き所、憩いの場所は、男性の左腕の下(雅歌2:6)、脇腹の所(創世記2:21-22)である。
ナオミはルツに、ボアズの所に行って、「その足の所をまくって、そこに寝なさい」、と指示するが、ルツはナオミの言葉に、とまどったかもしれない。しかし、ルツがボアズと結婚する事、そして、ルツがボアズに言った言葉は、確かに御言葉に叶った事であった。(申命記25:5)
ルツは、自分の判断は一切捨て、「あなたのおっしゃることを皆いたしましょう』(5節)と言って服従した。
ルツはナオミからの言いつけ通り、身を洗って、油をぬり、晴れ着をまとって、ボアズの所へ行った。
私達もキリストの所に行く時は、そのまま行くのではなく、御言葉の洗いによって身を洗い清め、聖霊の油を塗り、キリストが与えて下さった贖いの衣を身にまとって行くべきである。
そして言われた通り、ボアズの衣をまくって中に入り、そこに寝た。
『 「お前は誰だ」とボアズが言うとルツは答えた。「わたしは、あなたのはしためルツです。どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です』(3:9新共同訳)
女性が男性に積極的に求婚する事は、イスラエルではかなり例外的な事であり、ましてや、未婚女性が寝ている男性のすそをまくって、その中に入るなど、もっての外である。
しかし、彼女がした事は、「真実な事」である。私達は全て、キリストに対しては女であり、私達の家を絶やさぬ責任のある方・キリストの御衣の下に自ら飛びこんで行く事は、御心に叶った事である。
ボアズは、彼女がした事は、ナオミにした親切よりも勝っている、と褒めた。なぜならルツは「自分の選び」によって若い人の所へ走らず、御言葉に服従し、買戻しの権利のあるボアズの所に来たからである。
御言葉を大切にするボアズとしては、御言葉に叶った彼女の願いを、蹴る訳にはいかない。
私達も、まことのボアズであるキリストに、「わたしはあなたのはしためです。」「あなたの贖いの衣でわたしを覆ってください。」「あなたは罪と死から、いのちへと買い取って下さる方です。」と願い出るべきである。
私達の真の落ち着き所、憩いの場所、戻るべき家は、キリストの御衣の内、キリストの脇腹の所であり、私達の上に翻るあの方の旗じるしは、愛である。(雅歌2:4)
御言葉そのものであるキリストは、御言葉を盾にとって願い出るなら、それを拒む訳にはいかない。
ボアズは言う。「たしかにわたしは近い親戚ではありますが、わたしよりも、もっと近い親戚があります。」
ルツをめとるべき責任がボアズよりも大きい親類が、他にいたのだ。
ボアズは、彼を差し置いて結婚に急ぐ事は道理に叶わぬ事とし、その事をないがしろにしなかった。
こうして、ボアズとルツの結婚は、その人の意志次第となり、ボアズにとっても、ルツにとっても、ナオミにとっても、結婚は一旦、神の元に手放された事になる。
ナオミはルツに言った。『娘よ、この事がどうなるかわかるまで「お待ちなさい(ヤーシャブ)」。あの人は、きょう、その事を決定しなければ落ち着かないでしょう』(ルツ3:18)
ヤーシャブは「住む、とどまる、座る」という意味がある。じっと座っている事、落ち着いて静かにしている事。
主の御前に手放したものは、落ち着いて信頼していれば、あとは主が、全ての手続きをして下さるのだ。
栄光の家系の女達 – ルツ3 驚くばかりの恵み(ルツ記2章)
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ルツが飛び込んだ畑は、はからずも、彼女の家を絶やさぬ責任のある親族の一人、ボアズの畑だった。
ボアズは、私達を買い取ってくださるイエス・キリストの雛型であり、そのボアズの畑は、主イエスキリストが支配される神の王国の特徴そのものである。私達も、イエス様を主とし、神様を中心とした新しい生き方へと飛び込むなら、神のものとされ、王族の息子や娘のように、主からの特別扱いを受けるようになるのだ。
私達は主から、どのような特別扱いを受けられるのか。それは、ボアズがルツに為した通りである。
今回、主イエスを信じ神の国に飛び込んだ私達は、どれ程の特別待遇を受けられるのか、見て行きたい。
ボアズの畑には豊かに恵みの落ち穂が落ちており、祝福の挨拶が交わされている。(4節) しかし、ボアズの畑以外に入っても、そこは落ち穂は残っていなかったり、たとい落ち穂が落ちていたとしても、そこの人にいじめられたり、刺々しい雰囲気だったりする。主を除外して渡る世間は、鬼ばかりである。
私達のボアズである主イエス様は、私達に、他の所に行ったりせず、主の元にいる娘たちと共にいなさいと語りかけられ(8節)、主の働き人たちが、いのちの刈り取りの働きをしている後について行って、そのおこぼれに与りなさい、と言われる。私達は、そのいのちの恵みと祝福のおこぼれに、十分与かれるばかりでなく、私達が恵みを拾う事の邪魔をしないよう、主は周りにきつく命じて下さり、渇いたなら、主のしもべが汲んでくれた水から、存分に飲んで良いと言って下さる。(9節、イザヤ55:1、ヨハネ7:37)
ルツはボアズの優しい言葉に驚いたが、私達が主から頂く恵みは、本当に、驚くばかりである。
主はなぜ、恵みを受けるに値しないような私達に、そこまでの恵みを注いで下さるのか。
『ボアズは答えて彼女に言った、「あなたの夫が死んでこのかた、あなたがしゅうとめにつくしたこと、また自分の父母と生れた国を離れ、かつて知らなかった民のところにきたことは皆わたしに聞えました。』(11節)
ボアズが言ったように、主は、私達が主の聖徒達にした事を、すっかり見聞きしておられる。主の弟子だという事で、たとい、小さな子どもの一人に水一杯でも与えるなら、その報いからこぼれ落ちる事は無い。
もし私達が今まで生きてきた世の価値観から離れ、主を頼り、主の元に来るなら、私達のボアズである主は次のように祝福して下さる。「どうぞ主があなたのしたことに報いられるように。どうぞイスラエルの神、主、すなわちあなたがその翼の下に身を寄せようとしてきた主からじゅうぶんの報いを得られるように。」(12節)
ルツはボアズに、実に謙虚な感謝をしたが、それでボアズは、さらなる恵みの命令を、しもべ達に命じる。
私達も、主が下さった恵みに感謝し、謙虚に喜ぶなら、主はさらなる恵みを命じて下さる。しかし、与えられた恵みを当たり前のように受け、何の感動も礼もなく、傲慢に振る舞うなら、恵みはそこでストップしてしまう。
ボアズは、ルツに炒り麦をたっぷり与え、ルツは食べ残した余りをナオミに持って帰るほどに満たしたが、主も、私達の渇いた心を満ち足らせ、飢えたたましいを良いもので満たされる。(詩篇107:9)
『ボアズは若者たちに命じて言った、「彼女には束の間でも穂を拾わせなさい。とがめてはならない。また彼女のために束からわざと抜き落しておいて拾わせなさい。しかってはならない」』(15,16節)
私達も、ルツのようにへりくだるなら、主は私達にさらなる恵みの深きへと導いて下さり、しかも、本来なら主の倉に入るべきものさえ、抜き取って、私達が拾えるように、わざと落として下さる。
主は、私達がそれを拾う事に、何の咎めも無いようにし、そうして私達は、大胆に恵みの座に近づき、折にかなった助けを、存分に得る事を許されるのだ。(ヘブル4:15-16)
ボアズの畑に入ったルツは、その日だけでも、二十三リットルもの大麦と、ボアズ自身から頂いた炒り麦を、ナオミの元に持ち帰り、主から見放されたような気持ちだったナオミに、主の恵み深さを再び気付かせた。
ナオミは、ボアズが「わたしたちの家を絶やさないようにする責任のある人の一人」であると言った。(20節)
新共同訳で「家を絶やさないようにする責任のある人」と訳された言葉はヘブル語で「ゴエル」、「買い戻す責任と権利のある人」とも「最も近い親戚」とも訳す事の出来る言葉であるが、主イエス様こそ、私達の家を絶やさぬ責任のあるお方である。主は、私達の人生を、いのちへと買い戻してくださるお方である。
ボアズの特徴こそ、私達の主の特徴であり、主は私達の仕事を祝福して下さるだけでなく、家族をも満ち足らせて下さり、「こんなに恵まれて良いのだろうか」と、逆にこわくなってしまう程に、恵んで下さるのだ。
栄光の家系の女達 – ルツ2 信仰をもって畑に飛び込め(ルツ記2:1-3)
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ルツがイスラエルに初入国した時、彼女は、モアブ出身の一介の未亡人で、頼るべき男手も、財産も一切無い、一緒にいるのは、ただ傷心に沈んでいる、年老いた姑のナオミだけという人生を歩み出すには、あまりにも不利な条件が揃いすぎている状況であった。
しかし彼女は、偉大な王・ダビデの曾祖母となり、全世界を祝福へ導くイエスキリストの母として名を連ねた。
私達もルツのように、栄光の家系へと加えて頂く事が、可能である!
たとい当時のルツのように、弱く頼り無くても。いかに、人生を生きるには不利な条件ばかり揃っていても。
ルツ達は、大麦の刈り入れの時期にベツレヘムに着いた。落ち穂拾いが出来るのは、刈り入れた日から一、二週間ほどの短い期間で、ルツ達は、それが出来るちょうど良い時期に、ベツレヘムに着いた。
困難な状況の中でも、主が与えて下さった、ちょうど良いタイミング。しかしナオミは、落ち穂拾いには行けなかった。誰かの畑に入って落ち穂を拾わなくてはならないまでに落ちぶれてしまった自分を、昔ながらの知り合いの前に、晒したくなかったのだろう。しかしルツは、イスラエルの神が定めて下さった「落ち穂拾い」という憐れみにすがり、取るものも取り敢えず、落ち穂を拾うために、どこかの畑に飛び込んだ。
信仰が萎え果て、何も出来なくなった時でも、信仰によって育てた霊的な娘が助けてくれるのである。
外国人の彼女が、他人の畑に入り、人が取りこぼした落ち穂を拾い集める。それは、どれほど恥をしのぶ行為だっただろう。それでも彼女は、ただ謙虚に、膝をかがめて、憐れみにすがった。
私達も、「恵み」という 落穂を拾うには、謙虚に膝をつき、低くかがむ事によって、拾う事が出来る。
困った状況に陥った時、「自分は大丈夫だ」「人の憐れみなどいらない」などと、やせ我慢をしてしまうと、そのプライドが、逆に自分の首を締め、ますますどうにもならない状況へと、追い詰められてしまう。
主の恵みを頂くには、まず「誇り高さ」や「自尊心」は、打ち砕かれていなくてはならない。
主は憐れみ深い。どんなにそしりを受けても、口をちりにつけて主の救いを黙って求めるなら、主はいつまでも見放してはおられず、豊かな恵みによって憐れんでくださるのだ。(哀歌3:22-32)
ルツも、ラハブ同様、まず信仰告白によって神の民に加えられるチケットを手に入れた。
パーティーのチケットを手に入れたなら、その会場に実際に行って使わなければ、そのチケットの恩恵に預かれないように、信仰告白によって手にした「天のパーティーチケット」を「使う」には、恵みが落ちている畑へと実際に行き、その中に飛び込み、落ち穂拾いをしなければならない。
ルツは思い切って刈り入れをしている一つの畑に飛び込んだが、「そこはたまたまエリメレクの一族のボアズが所有する畑地であった。」(2:3)ルツは、それとは知らずに飛び込んだのだが、単なる偶然ではない。
ルツがこの畑に飛び込んだのも、ダビデがゴリアテに致命傷を負わせる石を放ったのも、一人の兵が悪王アハブに致命傷を負わせる矢を放ったのも、それら全ては、「何気なく」であったが、主は人や環境、状況の「何気なく」を支配して御心を行い、信仰を持って第一歩を踏み出す人に、恵みを与えて下さる。
しかし、思い切って畑に飛び込まない者、石を投げない者、弓矢を引かない者には、何も下さらない。
ルツがたまたま飛び込んだボアズの畑は、私達が頼りとした主・イエス様が支配される神の国のようであり、ボアズは、私達を買い取ってくださるイエス・キリストの雛型である。私達も、それまでの自分中心の生き方を捨て、イエス様を主とし、神様を中心とした新しい生き方へと飛び込むなら、「選ばれた種族、王族の祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」(1ペテロ2:9)へ加えられるのである。
この世の営みは、落ち穂を拾うようなものかもしれない。仕事も、家事も、恥を忍ぶ日々である。
しかし、イエス様を主として、「神の国」にいる限り、恵みは落穂のように、必ず落ちている。
いかに不利な条件が揃いすぎている状況であっても、信仰告白によって、天の王国のパーティーチケットを入手し、信仰によって畑に飛び込んでそのチケットを「使い」、そして、謙虚に恵みをいただく「落穂拾い」によって、主から豊かな恵みをいただき、地上においては家族をしっかり養い、天を故郷とする栄光の家系へと加えられる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
栄光の家系の女達 - ルツ1 七人の息子にも勝る信仰の娘(ルツ記1:1-7)
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マタイ1章のイエスキリストの系図に名を連ねた3人目の女性・ルツは、ユダヤ人に忌み嫌われているモアブの国の女である。バラムはイスラエルを、モアブの女を使って誘惑させ、堕落させた。(民数記25章)
それでもルツは、栄光の家系として名を連ねるに至った。それは何故か。その秘訣を探って行きたい。
ルツの義理の母にあたるナオミは、ユダヤのベツレヘムで、夫、息子二人に囲まれ、幸せに暮らしていた。
しかしある時、飢饉のためにパンが無くなり、一家揃ってモアブに移住する事にした。
モアブに来て、パンにありつけた当初は、家族内で「来て良かったね」と語り合っていたかもしれない。
しかし結論から言うと、パンを求めて神の国を離れ、異邦の国に来たのが、全ての災いの始まりであった。
ユダヤ人にとって、主の懲らしめから逃げ、「神の国」を捨てて異邦の国にパンを求めて行くのは、もっての外であり、その身にさらなる災いを招いてしまう。それは、神の民たる私達も同じである。
素直に主からの懲らしめを受け、悔い改めていれば、やがて飢饉は去ったのに、この一家は、安易に困難から逃げ出したいばかりに、さらなる災いを受け、一家の主と、息子を全て失ってしまった。
主の懲らしめを受けた時、私達は自分で編み出した脱出方法に頼るべきではなく、主に対して素直になって悔い改め、口をちりにつける(哀歌3章)ならば、主は憐れみ、ちょうど良い時に引き上げて下さる。
主の民から遠く離れ、モアブの野で淋しく取り残されてしまったナオミの所に、神がご自分の民を顧み、パンをお与えになったという、風の便りが届いた。この風の便りは、異邦の国に長らく浸かっていたナオミに、神の国で養われていた幸いな日々を思い起こさせ、「帰っておいで」という主の語りかけとして響いた。
私達も、主からの語りかけを聞いていないだろうか?聞いていながら、敢えて離れていないだろうか?
ナオミは帰るまでに10年もかかり、その間に、夫に先立たれ、息子達にも先立たれてしまった。
私達は何もかも失う前に、主に帰るべきである。放蕩息子も全てを失ってから我に返ったが、自分がいかに弱く、罪深く、神から離れたら何も出来ないのだと「我に返る」所から、回復は始まるのだ。
ナオミもついに、自分が拠り頼むべき所は、主にしかないと悟り、帰る事にした。
「オルパはやがて、しゅうとめに別れの口づけをしたが、ルツはすがりついて離れなかった。」(14節)
オルパは、自分がナオミと一緒にいる事が彼女にとって苦しみとなると聞き(13節)、ナオミの元を去った。
それは大人の「思いやり」だったのかもしれない。しかし帰って行った先は結局、偶像の神の元であった。
それに対し、ルツは、「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神」と言って、まことの神を自分の神とする「信仰告白」をし、ナオミについて行こうとした。
何にも増して真に有益なものは、大人の対応でも人間的な思いやりでもなく、主を信じ告白する事である。
ナオミにとっては10年ぶりの帰郷であったが、それは懐かしさよりも惨めさに満たされたものだった。
ベツレヘムを離れずに主の懲らしめを受けていた友人たちは、口々に「ナオミさんではありませんか」と声をかけ、色々聞いて来たが、彼女にはそれが苦痛で耐えられず、「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。出て行くときは、満たされていたわたしを/主はうつろにして帰らせたのです。」(21,22節)と、惨めな思いで返事せざるを得なかった。
人々との交流が苦痛で仕方ない時こそ、一対一で神に向き合い、神に近づくチャンスである。
家族やパンという「快さ」は、いつ「マラ」になってもおかしくはない。神は、ご自身以外のものによって快くなろうとする「ナオミ」は、「マラ」にされ、その代わり、決して色褪せる事のない真の「ナオミ」へと導かれる。
彼女は「うつろにして帰らせた」と言っているが、彼女は七人の息子にも勝るルツを育て上げ、連れ帰った。
ルツは、パンもお金も力も無いが、祝福の器としてナオミに希望と喜びをもたらすようになったばかりでなく、イスラエル全体に祝福をもたらす器となった。ルツの曾孫にダビデが生まれ、イエスキリストが生まれるのだ。信仰によって産んだ娘とは、そのようなものである。
不信仰な男たちに遥かに勝るルツになるための第一ステップは、まことの神を主とする、信仰告白である。
イエスを主として信仰告白し、自分の家族に、国全体に、祝福をもたらす皆さんでありますように!
栄光の家系の女達 – ラハブ4 有力者への子育て(マタイ1:5-6a)
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イスラエルがエリコを陥落させたヨシュアの時代、イスラエルは敵無しだった。御言葉から右にも左にも離れず、神の民として大いに栄え、祝福され、国々から恐れられた。それなのに、その子・孫の世代は、主の御言葉に従順しなかったため、外敵の攻撃や、ききん等によって、不安定な生活を強いられていた。
ラハブが憧れた、あの神の民は弱くなってしまい、神の民として恐れられていたイスラエルの威光は、わずか二,三世代で地に落ちてしまったが、そんな時世のイスラエルでも、着実に力をつけ有力者として成長して行った一族は、確かにあった。ラハブが嫁いだ家も、そうである。彼女の子ボアズは、有力者となった。
異邦人で遊女だったラハブを、妻として迎えた男性は、サルモン(名の意:平和を好む)という男である。
異邦人や不品行に厳しいイスラエルの中で、ラハブをめとり、彼女との間に生まれた息子・ボアズを養う時、世間の理不尽な差別や偏見もあったであろう事は、想像に難くない。
しかし、社会事情も家庭事情も、不利に不利が重なっているような状況であっても、このサルモンとラハブの家庭は、着実に力を伸ばして行き、彼らの子ボアズは、時代の有力者になった。
ラハブは異邦人として生まれ、人生の大半を、悪しき習慣に染まって過ごして来た。だから、律法の教育によって正しく子育てできる自信もスキルも、無かったであろう。それでも、彼女の子は、立派に育った。
その秘訣は一体何だろう。ボアズの言動から、ラハブ達がどう彼を育てたのかを、想像して行きたい。
ボアズは身内との挨拶に「主が共におられるように」という祈りと、「主が祝福して下さるように」という祝福の挨拶を、日常的に交わしていた。(ルツ2:4)という事は、家庭の中でも幼い頃から、頻繁に祝福の挨拶が為されていたはずである。家庭内で、祝福の挨拶を取り交わす事。これが有力者への第一歩である。
ラハブは在留異邦人であり、弱き立場の彼女を憐れむ主の恵みを、多くいただいていた故、息子にも、主の「憐れみ」のわざを、自分のものとするよう、教えた事だろう。事実、ボアズは在留異国人ルツのために「わざと」穂を落とすよう指示した。(ルツ2:16) 在留異国人や、やもめを憐れみ養う主のわざを、自分のわざとし、主の思いを自分の思いとするからには、主から祝福を受けない訳は無い。主は、惜しみなく与える人には、さらに押入れゆすり入れして与え、その人が憐れみのわざを為す力をさらに与えられるのである。
また、ナオミは、全能者が自分をひどい目に合わせた、自分をマラ(苦しむ)と呼ぶよう人々に言った。
それ対し、ボアズは、主は「報いて下さるお方」「翼の下でかくまって下さるお方」と告白した。(ルツ2:12)
この事から、主は全能者であり、その翼の下に救いを求めて来る人には、報いて下さるお方だと、ボアズは常々教育されていたのだろう。実際、母ラハブの人生は、まさにそれを実体験して来た人生だった。
またボアズは、自分のはやる思いは抑え、律法のルールに従順した。
若く美しいルツにせまられた時も、自分よりも権利のある親類をさし置いて身勝手は出来ないと告げ、正式な買い戻しの手続きを踏んでから、ルツを公に、正式にめとった。それだから、皆から公に祝福された。
結婚が皆から公に祝福されるコツは、身勝手に走らず、公に、御言葉のルールを踏み行う事であり、情欲に流され、御心に反し、親や世間にも逆らった、誰からも祝福を得られないような結婚は、必ず挫折する。
ラハブは元々、異邦人の遊女だった。にもかかわらず、主から多く赦された。だから人一倍、多く主を愛したのだろう。『この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。そして女に、「あなたの罪はゆるされた」と言われた。』(ルカ7:47-48)
彼女は生まれながらのイスラエル人ではない。イスラエルのどの女性よりも、御言葉の知識は少ないし、そのたしなみも無かった。それでも人一倍、立派な子育てが出来たのは、主を多く愛したからであろう。
生まれや知識よりも、人一倍主の恵みを実感し、感動し、心底主に従順したいと願う事の方が大事である。
ラハブを見ていると、救いにも、子育てにも、「遅すぎる」という事は無い事が、本当にわかる。
主に愛され、多く赦され、恵みに包まれている事を実感し、御業に感動し、主をもっと知りたいという渇きがあるなら、生まれながらのイスラエル女を、すぐに追い越し、どの家よりも立派な子育てが出来るのである。
祝福の挨拶を交わし、主の憐れみを自分のわざとし、主は報いて下さるお方と告白し、御言葉のルールに沿った結婚をして、サルモンとラハブが築いた家庭のように、この災い多い世情においても、有力者となって栄える皆さんの家庭でありますように!イエス様の名前によって祝福します!
栄光の家系の女達 – ラハブ3 救いと滅びを永遠に分ける日(ヨシュア記6:15−25)
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ラハブは元々「遊女」だったが、同時に王族の女として、イエスの母の一人として、聖書は記している。
救いはただ、イエス(ユダヤ名「イエシュア」=ヨシュア=「神は救い」という意味)を、救い主とする事による。
イエス様を救い主とするなら、以前がいかに罪深く汚れていても、例外なく救われ、王族に加えられるのだ。
そして実際に救われるには、神の側から示された条件を「聞き」、それを実際に「行う」必要がある。
ラハブは、聞かされた事をすぐに「行い」、いつ来るとも知れぬ「かの日」が来るのを待った。
「かの日」とは、赤い印のある人には救いの日、印の無い人には滅びの日で、その日がいつかは、神のみが知っている。聞いた御言葉を信仰によって自分自身に結び付けず、いつまでも救いの行動を先延ばしにしたままにして、「かの日」を迎えてしまうのであれば、その人の永遠は、「滅び」として確定してしまう。
私達も、救いの御言葉を聞いた時、ラハブのように、すぐに信仰によって結び付けるなら、幸いである。
イエシュアの軍団は六日間、エリコの周りを回った。彼らに先立って進むのは契約の箱であり、その中には主の約束の御言葉が入っている。民も、契約の箱も、ものを言わない。ただ角笛の音だけが響いていた。
対してエリコは、神の軍が間近に迫っても頑なに城門を閉ざし、五日、六日と過ぎても行いを改なかった。
そしていよいよ、エリコに「かの日」が来た。
イエシュアの軍団がエリコの城壁を回って第七の日、契約の箱は七度回り、その七度目に、祭司たちが角笛を吹いた時、イエシュアは民に言った。「鬨(とき)の声をあげよ。主はあなたたちにこの町を与えられた。・・・ただし、遊女ラハブおよび彼女と一緒に家の中にいる者は皆、生かしておきなさい。我々が遣わした”使い”をかくまってくれたからである。」(6:16-17)
その時、窓に赤い印を結びつけて息を潜めていたラハブは、イエシュアの軍団の角笛と鬨の声を聞いた。
自分達のいる回りの城壁が、大音響を立てながら崩れ落ちたが、彼女達がいた一角だけは崩れなかった。
イエシュアの軍団が、剣を手に攻め寄せて来るのが、赤い印をつけたその窓から見えたが、しかし彼らは、自分達のいる家には手出しせず、その周りは全て攻め滅ぼした。
そして、彼女がかつてかくまった、あの二人の使いが来た。今度は、彼らが彼女たちをかくまう番となり、赤い印をつけた家の人全員を連れ出し、安全な所へと導いた。そしてエリコは滅ぼし尽くされ、赤い印の内でかくまわれていた人達は、滅びの向こう側へと渡り行き、遊女だったラハブは、栄光の家系に入った。
全世界にとっての「かの日」は来ようとしており、その日、エリコに起きた事と同じ事が起きる。
今、約束の御言葉の実現は、静かに近づき、その音づれを世界中は聞いている。
そして人々は、それでも心を頑なにして自分の行いを悔い改めようとしない人達と、悔い改めて主イエス(イエシュア)に立ち返り、その憐れみにすがって救いの印を受ける人とに、分かれている。
七人の御使いが、七つのラッパを吹き鳴らす度に、災いが降り、第七の御使いがラッパを吹き鳴らす時、人類が積み上げてきた全ての営みは崩壊し、全てが私達の主イエシュアのものとなる。(黙示11:15)
その日、人類が築きあげて来た全ての「城壁」は崩れ落ち、頑なに悔い改めなかった人達は、イエシュアの軍団に滅ぼされ、イエス様の赤い血にかくまわれていた人達、神の印を押されていた人達には、かつて彼らがもてなした御使いが迎えに来て、安全に天の御国へと導き、永遠の栄光の救いに入る。
イエス様が十字架上で流された赤い血潮、それが私達の救いのしるしである。
イエス様が十字架上で私達の身代わりとなって死に、私達を救って下さったという事を、信仰によって私達自身に結びつけ、そうして救いの印を私達につけるなら、私達も救われるのだ。
ラハブは、救いの条件は「赤い印を、自分の所に結びつける事」であると聞いて、それをすぐに行ったように、私達も今すぐにでも、イエス様を救い主として、救いを得るべきである。
救いの行動を先延ばしにしたりせず、聞いた御言葉をラハブのようにすぐに信仰によって結び付け、「かの日」には救いのしるしを掲げつつ迎え、滅びが決して届く事なく「救い」を永遠に確定する皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
栄光の家系の女達 – ラハブ2 約束の赤いしるし(ヨシュア記2:8-21)
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城塞都市エリコの、城壁の中に建て込まれた部屋に住みつつ、身売りをしていた遊女ラハブは、全能なる神と、その民イスラエルの噂を聞き、このような日々の終わりが近いと、悟っていた。エリコの王も、城壁も、そして、遊女という罪深い事を強いるカナン全体のシステムも、義なる神によって、もうすぐ滅ぼされる、と。
そんなある日、神の民の二人の男が、この地を探るために彼女の元を訪れた時、エリコの人々は彼らを捕えようとしたが、ラハブは彼らの側につき、彼らをかくまい、自分とその家族が救われるよう、交渉を始めた。
皆さんも、救われるために、神の国からのおとづれが来た時、救いのための交渉をすべきである。
彼女は「主(エホバ)が」この地をイスラエルに賜わった、と、確信をもって告白している。(ヨシュア2:9)
彼女の「エホバ」に関する知識は、わずかだったかもしれないが、救われるには、必要十分なものだった。
「あなたがたの神、主は上の天にも、下の地にも、神でいらせられるからです。」(ヨシュア記2:11)
主こそ神で、この御方以外に救いは無いという告白。それこそ、救われるに必要十分な条件である。
彼女の知識はわずかだったし、そして彼女は遊女である。悪い事を日常的に行っていたが、救われるために知識はあまり必要無いし、それまでの人生、善人だったか悪人だったかも、救いには全く関係無い。
救いの条件、それは、イエス・キリストが、あなたを救う主だと信じ、この御方に助けを求める事である。
私達は、何かと勘違いしやすい。「神の救い」を得るためには、聖書知識を蓄えて勉強しなければならない、とか、善人にならなくてはならないとか、あの事この事も我慢しなければならない、などと。
しかし救いは、イエス(ユダヤ名:イエシュア=ヨシュア=「神は救い」という意味)を、救い主とする事にある。
聖書は彼女を「遊女」と記しているが、しかしそれでも彼女は、王族の女となり、イエスの母の一人となった。
私達もイエス様を救い主とするなら、いかに罪深くあっても、救われ、王族に加えられるのである。
救われるには、神の側から示された条件を、実際に「行う」必要もある。二人の男はその条件を示した。
その内容は、実にシンプルで、誰にでも出来る簡単な事で、それを守るなら、滅びの日が来ても恐れる事は無い。それはすなわち、救いの赤い印を、自分の所に結びつける事。(ヨシュア記2:18)
この救いの条件は、ラハブだけでなく、現代日本を生きる私達にも、そして、人類全体にも全く同じである。
エジプトに裁きが降される日、イスラエルの民は自分たちの身代わりとしてほふられた小羊の血の赤い印を、自分の所に塗って滅びを免れたように、私達も、イエス様が私達の身代わりとなってほふられ、流された血潮の、その赤いしるしを、信仰をもって私達に塗るのである。
イエス様が十字架上で流された、赤い血潮、それだけが、私達の救いのしるしである。
ラハブが赤い印を信仰をもって結びつけたように、私達も聞いた御言葉を、信仰をもって結びつけるのだ。
神の国に入れず滅ぼされた者達は、ヨシュア(イエシュア)の軍団が、間近に迫っても、警告のラッパの合図が七度、吹き鳴らされても、頑なになって、築き上げて来た城壁に頼り、神とその民に逆らったからだ。
『その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。』(ヘブル4:2-3)
『ラハブは言った、「あなたがたの仰せのとおりにいたしましょう」。こうして彼らを送り出したので、彼らは去った。そして彼女は赤いひもを窓に結んだ。 』(ヨシュア記2:21)
赤い印を結ぶのは、裁きの日の前日でも、滅びのラッパが吹き鳴らされる直前でも別にいいのだが、彼女は、彼らから教えられてすぐに結んだ。
「あなたの仰せのとおりに」。これこそ、苦もなく救われる人に特徴的な、主に対してよく発する言葉である。
大いなる裁きの日、赤い印を結んだ状態で、かつ、その中にいる事。それが救いの条件であるが、御言葉に対して「でも」や「だって」が多い人は、信仰の歩みに苦労が多い。そういう人は、御言葉を身勝手に解釈して、ややこしい事をしたり、人々に「あれせよ、これせよ」と言っておきながら、かんじんのその日、見事に赤いしるしを結び忘れていたり、あるいは、しるしの外に飛び出して、滅びてしまったりするのである。
ラハブや、イエスの母マリヤのように、「あなたの仰せの通りに」というこの言葉を、いつもシンプルに主に言える皆さんでありますように!イエスのお名前によって祝福します!
