メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ
圧倒的で繊細な主のご性質(ヨハネ21:1-14)
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復活のイエス様から「聖霊を受けなさい」と息を吹きかけられ、主の権威が与えられ、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」と言われていた弟子たちだったが、彼らがそのうちやり始めたのは、イエス様と出会う前にしていた世の仕事、「漁」であった。
復活後のイエス様の現れは、弟子たちと寝食を共に過ごした三年半のような現れ方ではなく、しばらく姿を現さなかったり、突然現れたり、突然見えなくなったりと、常人ならぬ現れ方だった。
イエス様から「わたしもあなたがたを遣わす」と言われていたものの、その後何をして良いのか分からず、するべき事も見えず、間がもたなくて、以前していた「漁」をしに戻ったのかもしれない。
皆さんも、イエス様があたかも遠くにいるように感じて、世の手段に戻ってしまう事は無いだろうか。
彼らは漁に出たが、その初日、夜通し働いたのに、何も獲れなかった。
春から初夏にかけての夜が肌寒い時期、水に濡れつつ、一晩中網を打っても一匹も取れない状況である。
イエス様はこれからどう関わって下さるのか、分からないため、以前の職業だった漁師に久しぶりに戻ったというのに、魚は一匹も取れない。この夜の寒さと、疲れと、落胆と、心細さは、いか程だっただろう。
そんな夜が明け染めた時、岸辺に人影が見え、彼はこう言った。「子たちよ、何か食べるものがあるか」
この「何か食べるもの(プロスファギオン)」とは、パンに添えて食べるおかずのようなもので、この声の主は、パンだけ食べるには口が寂しいのだろう、それはあるか?と声をかけ、弟子達は「ありません」と答えた。
声の主は、「舟の右の方に網をおろして見なさい。」と言ったが、もし弟子たちが頑なな心だったら、「俺たちの苦労を知らないで素人が何を!」と怒ったであろう。しかし、弟子たちは、この誰とも知れぬ人の言葉の通り、舟の右の方に網をおろした所、網もやぶれんばかりの多くの魚がかかった。
ヨハネは、自分の「働き人」としての原点を思い出し、その声の主は「主イエス」だと気付いた。
彼らが漁に出たのは、単にパンに添えるおかずを手に入れたかっただけだったのかもしれないし、あるいは、本格的に世の仕事に戻ろうとしていたのかもしれない。
それは分からないが、いずれであっても、彼らが御声に従って引き揚げたのは、153匹の大きな魚という圧倒的な結果であり、それでも網は破けず、船も沈まなかった。
人はパンだけで生きるのではなく、主の御口から語られる一つ一つの言葉による、とあるが、私達は、主の御口から出てくる「言葉」に従ってこそ、地の産物を得、魚の収穫を得、世の仕事の成功を得るのである。
私たちが世に出て働く時、いかに何年も働いてきた職であったとしても、一晩中働いて頑張っても、何も取れない事がある。それは、人のプロフェッショナリティや寝ずの働きではどうにもならない。
その時は初心に返り、主の御言葉に聞き従い、怒らず恐れず、ただその通り行えば、物事は成るのである。
弟子たちのミニストリーの原点は、彼らがイエス様と出会う前の漁師をしていた時、イエス様のお言葉通りに実行したら、それまでの自分の経験や努力をあざ笑うかのような大漁を得た事と、「あなたがたを人間を獲る漁師にしてあげよう」というイエス様の言葉であった。
イエス様は、彼らに原点を思い起こさせ、主のご性質を思い起こさせて下さっただけでなく、必要な糧も同時に与えて下さったが、私たちにも、同じように現れて下さるのである。
イエス様は、確かに生きて働いておられる。目で見えなくても、手で触れなくても、たしかに私たちと共におられ、食べるものがない状況と奮闘している様を見て、そっと傍に立り、為すべき事を指示して下さる。
主のご性質は、人の経験や努力を遥かに越えた力を、一見それとは分からぬほど繊細に、静かに示され、
人間の力で寒い中、夜通し努力奮闘しても、何も取れなかった私達を、大漁で溢れさせ、しかも、陸地で暖かい炭火をおこし、石の上でパンと魚を焼いて、こおばしく温かい食事をもって、迎えて下さる。
しかも、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と、主のアドバイスに従って獲る事が出来た魚を用い、焼かれる。主のこの一連の振る舞い、その優雅なご性質は、どんなに心がほぐれる事だろう!
このように、温かいおもてなしによって、心を開かせ、生活の必要を圧倒的に満たし、その上で、福音の仕事への整えを、物質的にも、霊的にも、豊かに整えて下さるのが、私達の主である。
信じない者にならないで信じる者に(ヨハネ20:19-29)
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『その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。』(ヨハネ20:19-20)
この時、トマスだけが何かの用事のためにそこにおらず、彼が帰って来た時、弟子たちや婦人達は、きっと興奮ぎみに語っただろう。イエス様は確かに現れた、確かに生きておられ、「平和があるように」と言って下さった、そして、その手とわきには痛々しい傷跡があり、聖霊を受けるようにと息を吹きかけられた、と。
『トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」』(同25節)
トマスはそう言ったものの、まさか、10人の弟子たちと婦人達が、よってたかってトマスにウソをついて、からかっていたのだ、などと、本気で思っていたわけではあるまい。
自分が何らかの用事で不在の間に、兄弟姉妹の間に、主が、ありありと現れ、すばらしい事をなされた、と言われたとしたら、どう思うだろうか。きっと、強烈な「置いてけぼり感」にとらわれるのではなかろうか。
しかし、たとい私たちが「わたしは絶対に信じない」と頑なになってしまったとしても、主は憐れんで下さる。
『さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」』(同26-27節)
皆さんはどう思うだろうか。死んだとばかり思っていたイエス様が、肉体を持った人として目の前に現れ、その、刺し貫かれた手と脇腹とを示され、「あなたの指を、ここに差し入れてみなさい」と、やさしい御声で話しかけられ、その刺し貫かれた傷跡、肉が赤く裂け、骨まで見えているその傷跡を、目の前に差し出されたら。
トマスは、涙ながらに言う他になかっただろう。「私の主、私の神。」
私たちの神、私たちの主は、頑なで信じないトマスのような私たちのために、まさにその傷を負われたのだ。
1週間前、トマスが弟子たちに囲まれながらも「信じない」と言ったその時、主はその場にいなかったはずなのに、主はなぜか、トマスの言った言葉を知っており、覚えていた。
主は、私達が不信仰で頑なな時、不信仰な言葉を言った時、たといそこが密室であったとしても、主はそこにいて聞いておられ、また、私たちが主がいないかのように感じたり、取り残されたように感じる時も、実は、ちゃんと共におられて、私達がその時感じた事や心の言葉も、全て知り、覚えておられるのだ。
トマスはイエス様の手や脇腹に指を突き刺してみなければ信じない、と言った。当人がそこにいないと思って、大げさに言ったのであろうが、それは言ってみれば、イエス様を再び刺し貫くような言葉である。
「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
置いてけぼり感や、取り残され感から、イエス様を突き刺すような言葉を思わず口走ってしまうとしても、主は「いいよ、それで信じるなら、あなたの指をここに入れなさい」と、裂かれた手や脇腹を示されるのである。
復活の後のイエス様は、繊細に、そっと、私たちに現れて下さる。強制力によってではなく、愛によって、優雅な品性漂う振舞いによって、頑なな心を溶かし、私達はその愛に触れられ降参するしかなくなるのだ。
現代を生きる私達は、肉体をまとったイエス様を、目で見たり、手で触ったり(通常なら)できないが、当時の目で見たり触ったりした弟子たちより、幸いである。なぜなら、「見ないのに信じる人は、幸いである」から。
『信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。』(1ペテロ1:7-8)
見える所によるのではなく、見えないキリストを信じる信仰によって歩み、キリストのあらわれの時には、称賛と光栄と栄誉に至る皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
完璧なるキリストの復活(マタイ27:62-28:10)
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本日はイースター、イエス様の復活を記念する日である。
イエス様はひとたび、十字架上で、完全に死なれた。ヨハネやマリヤの目の前で、兵士や百人隊長、その他多くの人達の目の前で、息を引き取り、槍で突かれても、血と水が流れ、全く動かなかった。
イエス様を十字架から降ろしたアリマタヤのヨセフとニコデモは、死後硬直して冷たくなりつつあるイエス様の体に、苦心して没薬とアロエとを共に亜麻布で巻きつけ、ヨセフが用意した墓へと葬り、番兵が封印した。
イエス様の死という「敗北」に、祭司長や律法学者達は勝ち誇ったが、イエス様は三日目に復活する、との言葉を思い出し、弟子たちが遺体を盗まぬよう手配さえしたが、その弟子達は、皆、イエス様がよみがえるなど、つゆ思っておらず、絶望し、恐れ、隠れた。それ程、イエス様は完璧に「死に尽くした」のである。
しかし、イエス様のあらゆる敵にとって「残念」な事に、イエス様は、完全に復活されたのだ。
封印は圧倒的な力で破られ、墓の入口を塞いていた大きな石は、脇に転がされ、墓を見張っていた番兵たちは、御使いを見て死人のようになり、女たちがイエス様の遺体に香油を塗ろうとして墓に行った時、墓の中にはイエス様の遺体は無く、ただ体を巻いていた布が巻かれたままに置き去りにされていた。
番兵達は祭司長たちに報告したが、祭司長たちは、なぜか、「そんなばかな事があるか」と一蹴する事も、失われた遺体を捜索する事も一切せず、番兵たちに金を掴ませ、偽りの情報を流させた。
しかし! 女たちはすぐにイエス様に出会い、「おはよう。」と声をかけられた。イエス様は弟子たちに現れ、信じられない様子の彼らに、よく見させ、触らせ、釘跡に指を入れさせ、彼らの面前で魚を召し上がった。
その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われ、迫害者サウロにも現れパウロへと造り変えた。
復活は、私達キリスト者にとって最重要事項であり、もし私達に復活が無いとしたら、キリストの復活も無かったはずで、宣教も、実質の無いものとなってしまう(1コリント15:12-19)。
マホメットや仏陀は死に、墓は聖地として奉り上げられているが、キリストの墓は無い。生きているからだ。
イエス様は実際よみがえられ、その、莫大なる復活の力を体験した人達は、実際に大勢いる。
彼らは元々、ユダヤ教のナザレ派という弱小集団で、漁師や取税人、遊女といった、社会的弱者から構成される、お金も知恵も力も、まとまりも無い、ただの要領の悪い小さな集団だったが、見事な統率と武力で世界を席巻した、あの、ローマ帝国を凌駕し、後には、帝国そのものがキリスト教国になってしまったのだ。
そしてイエスキリストを信じる人には、イエスの名によって病が癒され、問題は解決され、イエスを信じた家族や国はますます栄え、勝利し、イエスの名をおとしめる者達は、災いに満ちた終わり方をしている。
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力である。
イエス様は今まさに生きておられ、その復活の命は、何者にも押し留められるものでは無い。イエスの敵は、協議と権力と金と偽りとで、いのちを押し潰そうとするかもしれないが、春に萌え出る草や花を、人が留められないように、復活のいのちの広がりは、サタンも人も、死も、もみ消そうとして消せるものではない。
『朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」』(1コリント15:54-55)
キリストはなぜ、復活の後、あの圧倒的な御力をもって公に見える形で現れず、信じる者たちに、ごく内密にしか現れないのだろうか。それは、神の御心により、信じる者達の宣教のことばの愚かさを通し、信じる者達を救おうと定められたからである。(1コリント1:21)
神は何ゆえか、この土の器に過ぎぬ私達を通して、全被造物の救いという宇宙的事業の一端を担わせられ、この救いの言葉、十字架の福音を全世界に宣べ伝える事を、私達に委ねられたのである。
そして、やがては天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物が「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」と言って、ほふられた小羊キリストに栄光を捧げるようになるのである。
先のしゅろの日と後のしゅろの日(黙示録7:9-17)
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本日は教会暦では「しゅろの聖日(パームサンデー)」、すなわち、イエス様がろばに乗ってエルサレムに入城し、人々が自分の衣服や「しゅろの葉」を置いて「ホサナ」と叫びつつ歓迎した日に相当し(マタイ21:6-11)、次週主日のイースター(復活祭)までの1週間を「受難週(Passion Week)」 としている。
その日、大勢の人々が、ろばに乗ってエルサレムに入城する柔和な様子のイエス様を、しゅろの葉を手に持って、「ホザナ」と叫びつつ両手を挙げて歓迎し、弟子たちも意気揚々としていた。
非常に絵になる場面であり、一見、イエス様が高く上げられているように見えるが、彼らは、自分が「ホサナ(”おお、救い給え”という意味)」と叫んだ相手が、何者で、どういう人物であるか、一体何から「救って」下さるのかを、実は、分かっていなかった。(マタイ21:10-11)その証拠に、一週間後、群衆は一変して「イエス様を十字架につけろ!」と叫ぶ側に回ってしまい、弟子たちも、一人残らず逃げてしまう。
人々はそれぞれの身勝手なメシヤ像を思い描き、当時のローマ帝国の圧制から”救われ”、力強い指導としてイスラエルを再興してくれる事をイエス様に期待したり(使徒1:6)、パンをいつでも提供してくれる王として期待したり(ヨハネ6:14-15)、別の人達は、病気や悪霊を追い出してくれる人としたり。ようするに、イエス様を、「何か自分の願望を満たしてくれるべき人」という、身勝手な幻想を抱いていたのだった。
そのような、身勝手な幻想を抱いている人は、イエス様が自分の願望を満たしてくれないと分かると、とたんに「除け、除け、十字架につけろ!」と、手のひらを返したように叫ぶ側になってしまうもので、自分の中に罪があると示されたり、悔い改めるよう促されたり、十字架を負ってついて来るように言われたりすると、そんなメシヤはいらない、除け、となってしまうのだ。
実際、イエス様が自分の思い通りに行かないと分かると、それで信仰を離れてしまった人達は多い。
先のエルサレムでの「しゅろの日」は、信仰があやふやな人達の身勝手なホザナで満ち、彼等が喜び迎えたイエス様を、わずか一週間後に十字架につけてしまったが、後には「もう一つのしゅろの日」が訪れる。
その日、あらゆる国民、部族、国語の中から、誰にも数え切れぬ程の大勢の群衆、すなわち、イエス様が十字架で流された血潮によって衣を白く清めた群衆が、しゅろの枝を手に持って、大声で叫んで言う。
「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。」(黙示録7:10)
この群衆は、救いはどこから来るのか、誰にあるのかを、明確に分かっていて、それを叫んでいる。
世の多くの人達は、かつての「しゅろの日」の人達のように、救いが何であるのかも、どこから来るのかも、履き違えている人が多い。「救いはお金にある」「救いは権力にある」「救いは美貌にある」等など。
そもそも彼らはなぜ、救いを求めるのか。それは、何かしらの災い、例えば、「自然災害」という災い、「老い」という災い、「人からの拒絶」という災いなどから逃れるためだ。
彼等は、それら災いに備えつつ、罪という災いを積み重ね、神の怒りという究極の災いを、積み立てている。
最も根本的な災いは、死であり、罪であり、神との断絶である。唯一、イエス様こそ、それらの災いから人類を救って下さるお方であり、イエスを主とするなら、その他「災い」と言われるものは、もはや力を失う。
世の人達は、災いに備えて罪の災いを行ない、神との断絶という永遠の災いを積み立てている。
しかし、キリストにある人々は、災いの大元である罪を、小羊の血で洗い清め、世のあらゆる災いから逃れ、守られる保証が与えられ、昼も夜も聖所にて神に仕え、永遠にいのちの務めを為すのである。
「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、/昼も夜もその神殿で神に仕える。玉座に座っておられる方が、/この者たちの上に幕屋を張る。彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、/太陽も、どのような暑さも、/彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、/命の水の泉へ導き、/神が彼らの目から涙をことごとく/ぬぐわれるからである。」(黙示録7:14-17)
「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。」この告白にしっかりと立ち、しゅろの枝を手に持った大勢の群衆と共に、主をほめたたえる恵みを得る皆さんでありますように!
頑なな心と柔和な心(ヘブル3:7-19)
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聖霊は私達に、以下の命令を、三度も繰り返して警告している。
「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、 荒野における試錬の日に、/神にそむいた時のように、/あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。」(ヘブル3:7-8、同15節、同4:7)
かたくなさ。それは、主の道を見えなくさせ、迷わせる性質であり(ヘブル3:10)、決して主の安息に入る事の出来ない性質(同11、18節)、御怒りを引き起こし、しかばねを荒野に晒す性質である。(同17節)
「兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない。」(同12節) ここの「不信仰(アピスティア)」は、2節や5節の、キリストの「忠実(ピストス)」の反対言葉で、不忠実を意味する。「弱い信仰」ではなく「反・信仰」なのだ。
頑なな人は、災いである。いかに多くの奇跡を体験しても、いかにモーセのような素晴らしい導き者の指導を受けても、荒野で滅んでしまい、安息の地に決して入れないものだ。
そこには身分の高い低いは関係無く、多数決の原理も無い。エフライム部族の族長は約束の地に入れなかったのに、同じ部族でモーセのかばん持ちの若者・ヨシュアは、入れた。モーセが40日山から降りて来なかった時、アロンや民は不忠実に身勝手な神を造って堕落したが、ヨシュアは忠実に待っていた。
また彼は、モーセが会見の天幕から帰った後も、ずっと幕屋を離れずにいた程、忠実だったからだ。
60万以上の民が「エジプトへ帰ろう」と言い、二人が「約束の地へ行こう」と言うなら、普通、その集いはエジプトへ行く、というのが、多数決の原理であるが、神の真実は、それを許さない。
神の御心が、神の御約束が「約束の地へ導く」というのであれば、それを信じて従うべきであり、それに逆らったのがいかにアブラハムの子孫60万以上であっても、全員が荒野で屍を晒す事になったのである。
それ程、神の約束は峻厳であり、御声に逆らい、御言葉に逆らう事には、厳然たる「災い」しか無いのだ。
「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、 あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。」皆さんには今、主から何か御言葉は与えられているだろうか。何か約束が与えられているだろうか。
主に喜ばれるあの事を、今しなさい、と言われているだろうか。捧げ物を滞らせてはならない、と言われているだろうか。あの兄弟、あの姉妹を、憎む事を止めなさい、和解しなさい、と言われているだろうか。
赦しなさい、と言われているだろうか。怒りや憤り、陰口、ねたみを捨てなさい、と言われているだろうか。
体を害するようなあの習慣から離れなさい、と言われているだろうか。
もし言われているなら、それから顔を背けずに服従すべきである。いつから?それは、きょうである。(13節)
聖書の御言葉を読んだ時、あるいは礼拝のメッセージや兄弟姉妹との交わりの内で、心に特に印象付けられたり、ひっかかりを覚える示しがあったなら、その「主の御声」から顔を背けず、服従すべきである。
私達は、聞いた御声に従い、与えられた御言葉を信じて服従するなら、安息に入る。しかし、荒野の民のように、御言葉を聞いてもそれを信じず、頑なになって御声を退けるなら、安息に入れず、滅んでしまう。
「彼等は聞きし言葉に信仰を交ぜざりしかば、その聞ける言葉も彼等を益せざりき。」(永井訳 ヘブル4:2)
頑なな心、すなわち、世の価値観によって踏み固められていたり、表層は柔らかくても内には固い岩があったり、あるいは、いばらの茂るような心であったなら、御言葉を混ぜても、実を結ばない。
しかし、御言葉が混ざりやすい柔和な心は、幸いである。その人は地を相続し、安息に入るからである。
信仰によって御言葉を自分自身と交ぜるなら、御言葉なるキリストと一体化する事となり、キリストの御業が自分の内に働き、キリストのいのちが自分のものとなり、キリストのご性質が、自身の内と外とに現わされる。
「わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。」(ヘブル4:3)
安息の休みは、信仰をもって御言葉を交ぜる聖徒のために残されており、そして神の安息にあずかった人は、神が御業を終えて休まれたように、自分のやりくりや頑張りを終えて、休みに入る。(同10節)
信仰によって御言葉なるキリストを自分自身に混ぜ、キリストとひとつとなり、神の安息の内に居続ける皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
カインの礼拝とアベルの礼拝(創世記4:1-7)
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礼拝の時間は、神である主を敬い、賛美や祈りや捧げ物をささげ、そして主から、御言葉と恵みと答えと祝福をいただく、神と人との双方向の交わりの時である。
主は今、生きておられ、今この瞬間も、私たちの心の成り行きを見て、知っておられる。それ故主を敬う心は礼拝で最も必要であり、主が不在の形だけの礼拝は、御言葉も恵みも答えも祝福も、頂く事は出来ない。
そして、主と関わる時は、主の法則、すなわち御言葉に則って関わる必要があり、御言葉の根拠なき、御心から外れた「自分流の礼拝」を捧げても、主を怒らせるだけである。
「主への祭り」と称して、金の子牛を造って飲み食いし戯れたイスラエルの民は、それで主に仕えているつもりだったが、主は彼らを怒り、滅ぼそうとされた。(出エジプト記32章) 示されていた御言葉を読んだなら、それはとんでもない反逆だと判るものなのに、彼らには御言葉が無かったため、主へ礼拝を捧げていると大真面目に思いながらにして、主に滅ぼされる寸前の怒りを買っていたのである。
主に仕えている「気」になっておりながら、主を怒らせ、悲しませるという事は、確かにある。それを防ぐために、私達は常に御言葉の真理に照らし合わせて、主の道を正しく歩んでいるかどうかチェックすべきである。
カインとアベルの礼拝から、私達が礼拝において気をつけるべき示唆を、多く得る事ができる。
「時が経って次の事が起こった、カインは、地の実りから主へのささげ物を持って来た。また、アベルも彼の群の中から、初子の、それも最も肥えたものを主に持って来た。主はアベルと、そのささげ物とに、リスペクトした。しかし、カインと、その捧げ物とに彼はリスペクトしなかった。」(創世記4:3-4、KJVから翻訳)
主に捧げたのに、主からそっぽ向かれている感じがあったり、仕事や人間関係がうまく行っていない、祝福から遠いと感じる事があるだろうか。しかし、ある捧げ物は主に目を向けられ、ある捧げ物は主からそっぽ向かれてしまう。そういう事は、厳然としてあるという事を、知るべきである。
アベルの捧げ物は、なぜ受け入れられたのか。それはまず、彼の捧げ方は、神の規定に叶っていた。
前回見たように、神の御前に有効とされる捧げ物は、いのちの犠牲がある事である。
アダムとエバは、いちじくの葉をつづり合わせて裸を覆うものとしたが、そのような、犠牲なき手軽な繕いは、神の目には何も覆われていないも同じである。犠牲がある事が、まず、神様の方法である。
また、アベルは最良のものの中からさらに厳選して捧げた。彼は「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして」神を敬い(申命記6:5)、最良のものを捧げたからこそ、神様は彼と彼の捧げ物とにリスペクトされたのだ。
カインの捧げ物は、なぜ受け入れられなかったのか。それは、正しく行なっていなかったからである。(7節)
神の受けられるいけにえは、砕かれた魂、悔いた心。神はそれを軽んじられない。(詩篇51:17)
カインの心が、もし神の前に砕かれ、悔いた心を持っていたなら、彼は「怒る」という事をしなかっただろう。
しかし彼は、怒った。怒った事によって、彼の心の内の傲慢さが明らかとされた。
また彼は、礼拝において、またその礼拝の成果について、他人と見比べるという事をした。
神ではなく人を、目に見えない神を敬うのではなく、目に見える人を気にしたのである。
私達は礼拝や奉仕で、人と見比べたり、自分がしようとした奉仕が、思い通りに行かなかったり、評価されなかったら、怒ったり、あの兄弟姉妹なぞいなくなってしまえ、という心が芽生えたり、していないだろうか。
礼拝や奉仕で「怒り」が出てきた時、神と人の前から「顔を伏せ」る時、私達の内に、カインの性質がある事を知るべきであり、その時は、戸口で待ち伏せしている罪を、支配しなくてはならない。(創世記4:6-7)
罪を支配するとは、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにして「キリストに従わせ」、完全に服従させる事によって、である。(2コリント10:5-6)
私達は神と関わる時、礼拝する時、常に御言葉の真理に照らし合わせて、主の道を正しく歩んでいるかどうかチェックすべきである。
為そうとしている事が御心にかなっているかどうかをチェックする最も簡単な方法は、真理なるお方、御言葉なるお方である、イエス・キリストの名によって、その事が出来るかどうかを問う事である。(コロサイ3:17)
礼拝や捧げ物に限らず、全ての事を、イエス・キリストの名に恥じずに行う皆さんでありますように!
いちじくの葉か、犠牲の衣か(創世記3:7,21)
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人類に罪と死が入ってしまった瞬間、すなわち、アダムとエバが「善悪を知る実」を食べた時、真っ先に彼らに起きた事は、目が開かれ、自分達は裸であった事を知った事であり、その事を見て知った彼らが真っ先に実行した事は、いちじくの葉をつづり合わせて、裸を覆う事だった。(創世記3:7)
神との関係が絶たれてしまった人間は、呪われてしまった自然や環境、人間関係の脅威の中を、自身の体力や知識、思いや意志、感情をやりくりし、自力で渡り合って行かなくてはならなくなってしまった。
この、自分の恥ずかしい所、見られて欲しくない部分を覆う行為こそ、全ての人が持つ「取り繕い」である。
アダム以来人類の呪われた生き方は、自分の弱さや裸をカヴァーするために力を蓄え、知識を蓄え、技術を発展させ自活して行くもので、いちじくの葉はやがて発展し、鎧となり、城壁となり、兵器となって行った。そして、人はまた、浅知恵による言葉の「いちじくの葉」で自分を覆う生き方をも身につけた。
アダムは、自分の罪を告白せず、逆に神が与えて下さった妻が悪いかのように、詭弁といういちじくの葉によって自分の罪を覆おうとし、人を責め、神を責めた。エバもまた同様であった。(創3:12-13)
小さい子供は、誰からも教えてもらわないのに、言葉を覚えた当初から、詭弁という「いちじくの葉」で自己弁護する。そのように人は、生まれながらに取り繕う「くせ」が、身にしみてしまっている。
いちじくの葉がやがてぼろぼろになってしまうように、それは永遠に保つものではない。取り繕って一時的に救われた気がしても、永遠に続くものではないため、喪失への恐れや不安がどこかしらあるものだ。
神を離れた人がやる事なす事は、全て、主の御前に実を結ばない「取り繕い」である。(ヨハネ15:5)
神に対して有用な実を結ばない「いちじくの葉」という取り繕いだらけの人は、主によって枯らされてしまう。
イエス様が唯一、呪いの奇跡を行われたのは、葉っぱばかりのいちじくの木に対してであった。(マタイ21:18-22)
人は、何によって罪と裸を覆って頂けるのか。それは、神が一方的に与えて下さる衣によってである。
「主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。」(創世記3:21)
主は、人を裸のままエデンの外に追い出す事をなさらず、呪われた地でもやって行けるように、何かしらの動物を殺して犠牲とし、その皮を剥がれ、それを人に着させて下さり、それから救いのご計画を発動された。
日本で犯罪を犯したら日本の法律に則って対処するように、神の御前で罪を犯したなら神の方法に則って罪を対処しなくてはならない。神の御前に有効な、罪の贖いの方法。それは、いのちの犠牲である。
イエス様は、たとえ話の中で、王が婚礼に客を招いた際に、礼服を身に着けてこなかった者は外に追い出された話をされた。礼服は王から支給されるものであり、せっかく支給されたものを跳ね除けて、自前の服を身に着けて行くなら、善人であれ悪人であれ、外の闇に追い出されてしまう。(マタイ22:11-14)
同様に、神の支給して下さったキリストという贖いの衣を身に着けず、自前のいちじくの葉で取り繕うなら、どんな善人であっても、天の王国から追い出されてしまうのである。
キリストこそ贖いの衣であり(ガラテヤ3:27)、この衣を着るなら、決して裸になる事は無く、死ぬべきものはいのちに飲み込まれるのである。(2コリ5:1-4)
アダムとエバはいちじくの葉で取り繕ったが、自前の方法では、神の前に罪や裸を覆った事にはならない。ただ、神の側が示された衣で覆われてのみ、御前に有効なのだ。
ヤコブは自前の服ではなく兄エサウの晴れ着や動物の毛皮を纏ったため父からの祝福をいただき、エステルは自分好みのものではなく勧められたもの以外は身につけなかったため王の好意を受け、大祭司ヨシュアは、ただ一方的に、汚れた衣を脱がされ、神が用意された礼服を着せられた。
ルツはナオミから言われた通り、ボアズの衣をまくって彼の懐に入り、「わたしは、あなたのはしためルツです。どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です。」と言って迫ったために、栄光の家系へと入れられた。(ルツ記3:9)
私達も、まことのボアズであるキリストの懐に飛び込んで行き、申し上げるべきである。
「わたしはあなたのはしためです。」「あなたの贖いの衣でわたしを覆ってください。」「あなたは私を、罪と死から、いのちへと買い戻して下さるお方です。」と。
永遠の衣に何を織り込むか(黙示録19:6-9)
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キリストにあって忠実な働き人だったある姉妹が、天に凱旋された。
彼女の生涯は、主の御前に尊い日々で綾なされていた。子供たちを、しっかりと神の働き人として育て上げ、子や孫からは福音のための働き人たちがおこされ、その働き人達を通して、多くのキリストにある霊的な神の子達が、彼女から産まれ出て、そのいのちは、今も産んで増えて地に満ちて行っている。
彼女のその生涯は、主の御前に尊く、美しい綾織り物のような生涯であり、今や、キリストの花嫁として、新しいからだが着せられ、天のまことの夫の懐で、世の諸々の煩いや病から解放され、安息を得ている。
「花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。」(黙示19:8) 「衣」は聖徒たちの正しい行いである、と書いてあるからには、私達はこの地上で、日々の「正しい行い」をもって、天国で着るための「衣」を織っているようなものであろう。
私達はこの地上の一日一日の「行い」を、どのように正しくできるだろう。
どうしたら、天で着せて頂く永遠の衣を、より美しく完璧に仕立て上げる事が出来るだろうか。
それは、一言で言えば、主イエス・キリストと共に歩む事によって、である。
キリスト者として歩む人生は、決して平坦なものではない。キリストを信じている故の患難があり、迫害もあり、災いもある。私達もまた弱く、時に誘惑に負けて罪を犯してしまう事もある。
私達の力には限りがあるが、キリストには限り無き力があり、キリストと共に歩むなら、どんなに非道く、耐えがたいような困難でも、不思議と神からの力で守られ、平安の内に歩む事が出来るのだ。
ステパノは、常人ならばとても耐え切れないような迫害の中でも、聖なる平安の内にキリストを証した。
群衆は口々に叫びながら彼に殺到し、彼は多くの腕に掴まれ、殴られ、もみくちゃにされ、外に引き摺り出され、よってたかって石を投げつけられた。そのような暴力的な混沌の中、ステパノは御使のような面向きで、殺意に満ちた群衆をキリストのように執り成し、祈り、美しい平和の内に天に凱旋した。(使徒7:54-60)
彼に微塵の絶望も憎しみも悲嘆も無く、世のものならぬ平安に満たされつつ、眠りにつけたのは、なぜか。
それは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見つめていたからである。(55節)
世の中の人々、あるいは、呪われてしまった自然界が、殺意に燃えて私達を飲み込もうとする事があるかもしれない。そのような状況でもステパノのような平安を保つには、天を見つめ、イエスを見つめる事である。
キリストの愛と守りは、生も死も超えている。死も、命も、御使いも、支配する者も、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私達を引き離すことはできない。(ローマ8:39)
もし私達が地上で身勝手に歩み、主イエスを無視して日々を送るなら、その分だけそこがほころびとなり、いざ天に召された時、その部分は焼きつくされ、僅かにキリストと歩んだ部分しか残らない。(1コリ3:11-15)
キリストと共に歩み、キリストにあって何かを行う時、私達の人生という織物は、キリストにあって織りなされ、それは「聖徒の正しい行い」という清い衣として栄光の内に永遠に残されるのであり、そして多くの聖徒達によって紡がれた織物が完成する時、キリストの花嫁の光り輝く衣装が完成し、花嫁として迎えられるのだ。
今や彼女は、キリストの花嫁として迎え入れられ、目の涙をすっかりぬぐい取られ、全く新しいからだを着せられ、イエス様の懐に抱かれ、安息している。(黙示録21:1-7) そして彼女のように、天では多くの信仰の先人達が、私達の地上での歩みを応援し、執り成し、天の栄光ある御国へ入れられる日を待っている。
「このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:1-2)
今、地上に残されている私達も、信仰の先人達に続き、イエスから目を離さず、イエスと共に歩み、「正しい行い」という永遠の衣を、共に地上でしっかりと紡いでいく皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
いのちの木と善悪知識の木(創世記2:8-17)
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『主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。』(2:15)
主はアダムとエバをエデンに置かれたように、私達が住むべき領域に、私達を置いてくださっている。
主が人を園に置き、そこを耕し守り、管理させたように、私達も、主が置いて下さった場において、そこをしっかりと耕し、守り、て管理するべきである。
そして、主が置いて下さった生活ステージの中央には、ふた種類の木がある。
『園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。』(創世記2:8-9)
人類なら誰しも必ず通る「二者択一」がある。すなわち、いのちの木を取るか、それとも善悪の知識の木を取るか。それは、人類創造以降、全ての人が避けて通れない究極の選択である。
究極の二択というと、「善か悪か」と思われやすい。しかしそうではない。聖書が提示する究極の選択は、「いのちか、善悪判断か」である。
「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2:16-17) 神は善悪の知識の木から食べる事を、禁じられた。
善悪を知る事、それはすなわち、神のようになる事である。(創世記3:5,22)
人は神のようになろうという誘惑によって善悪の実を取って食べ、また、サタンも、神のようになろうとして地に落とされた。(イザヤ14:14)神の命令を敢えて超える神から独立した善悪判断は、死へと導かれてしまう。
善悪の実を食べた時、真っ先に人に起こった事は、目が開かれた事であり(創世記3:7)、こうしてある意味、神のようになった。しかし、神のようになった彼らが最初に気づいた事は、実は自分達は裸であった事。
そこで彼らが最初に働かせた善悪判断は、恥ずかしい所をいちじくの葉で隠そうという「取り繕い」だった。
このように、神のような開かれた目で周りの状況や人間をじっと見、善悪判断する事は、自らに死を招く。
神から離れ、神との関わりが絶たれた人間は、所詮裸であり、弱い者であり、罪深く何も出来ない者である。
自分の弱さや裸を覆うために、力や知識を蓄え、技術を発展させて自活して生きて行く生き方こそ、アダム以来の呪いの生き方の本性であり、この、神から離れて取り繕う道具「いちじくの葉」は、歴史を下るごとに進化し、やがて身を守る道具となり、武器となり、知識や学術体系となって発展して行ったが、それは所詮、自分の不完全さに対して、罪に対して、死に対して、どうする事も出来ないのだ。
どこどこに行って遊んでも良いか悪いか、この映画を見ても良いか悪いか、など、何でもいちいち誰かに伺いたがる人がいるが、そのように、何でも「善いか悪いか」の善悪判断で生きる生き方こそ、呪いである。
律法は善悪の集大成だが、律法の行いの内にある人は全て呪いの元にある。(ガラテヤ3:10-12)
しかし、キリストは呪いの木にかけられ、私たちを、その律法の呪いから贖い出して下さった。
この事は、信仰によって義とされるアブラハムの祝福が、私達に及び、私達が信仰によって約束の御霊を受けるためである。(同13-14節) イエス様を信じた人には、聖霊が与えられ、もはや「善いか、悪いか」という善悪判断の呪いの中ではなく、聖霊が教えて下さる導きに従って歩むのである。(ヨハネ14:26)
現代、私達が選ぶべき「いのちの木の実」は、まことの食物であるイエス・キリストである。
「わたしは命のパンである。・・・これは天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」(ヨハネ6:48-51)
呪いの木に掛かって下さった、イエス様という「いのちの木の実」を食べるなら、私達は生きるのである。
福音は、律法のような「こうせよ/するな」という善悪の集大成ではなく、イエス・キリストという「いのちの実」を、信仰によって受け取り、いただくという、命の路線である。
キリストは十字架を負われ、そこで自分の善悪判断を捨てられ、ただ御父のみこころに委ねられた。
私達もキリストにならい、自分で善悪判断する生き方を十字架にはりつけ、それを死に渡し、いのちなるお方イエス様と共に、十字架上で両手離しで御父に自らを委ねるなら、いのちを得るのである。
神のような開かれた目で善悪判断する生き方を止め、呪いの木に架って下さったキリストといういのちの実を食べ、命を得る皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
どの土地となるか(マタイ13:1-23)
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群衆がイエス様の所に大勢押しかけたので、イエス様は舟に乗り、岸にいる群衆に向かって口を開かれた。
群衆は、世の隠された秘密を解き明かすような話や、心打つ感動物語を期待していたかもしれないが、イエス様の口から出たのは、あまりに短く平坦でオチも無い話、種蒔きの話であった。(マタイ13:3-9)
多くの人が、イエス様の話は大した事ないな、噂ほどではなかったな、と思った事だろう。ところが、この種まきのたとえは、多くの預言者や義人達が聞きたいと切に願って来た、天の御国の奥義だったのである。
多くの群衆はそのたとえの真意を知る事無く帰っていったが、弟子たちはイエス様の所に来て、聞いたので、そのたとえの真意を教えていただく事ができた。
天の御国の奥義を知る事がゆるされている人とは、弟子達のようにイエス様の所に「来て」「聞く」人である。
イエス様に聞かぬは、永遠の恥。イエス様に求める姿勢、探す姿勢、叩く姿勢を持っている人は、さらに与えられて豊かになり、それらを持たない人は、持っているものまでも取り上げられてしまう。
「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。」(マタイ13:18-19)
イエス様が語られた「種」は御言葉で、それが蒔かれる土地は人をあらわし、そして人には四タイプある。
第一のタイプの人は、「道端」の人。道端は色々な人や獣が来ては過ぎ去り、地面は踏み固められている。
こういう人は、世の人やテレビ、ラジオ、ネットなど、世の情報の往来を見聞きしては思い巡らし、御国の言葉さえも膨大な情報の一つとして、心に植える事なく、聞いてもすぐにサタンがそれを持ち去ってしまう。
テレビやラジオ、インターネットなどの内容は良く覚えていても、語られた御言葉はさっぱり覚えていない、となると、道端の人となっている自分に気づくべきである。
アブラハムが礼拝の捧げ物に群がるハゲタカを追い払ったように、自分という土地は、余計な者の往来を規制し、つとめて余計な情報は入れず、霊的に必要な御言葉を受け入れる土壌を耕すべきである。
第二のタイプの人は、「岩地」の人。表面上は土があるので、種がよく育つだろうと思われがちで、事実、御言葉を聞くとすぐに喜んで受け入れるが、内面は固い岩がごろごろしていて、根を深く張る事が出来ない。
表面上は敬虔そうでも内面は頑なで、御言葉が張るのを頑として受け入れず、自分の心を貫く人である。
例えば、「互いに愛し合いなさい」という御言葉を喜んで聞きはしても、「あの人だけは絶対イヤ」と頑なに自分を貫く時、自分の中に存在する岩を取り扱う必要がある。努めて自らを清くに保ち、内側から主に喜ばれないものを取り除こうとする人に、主は石の心を取り除き、肉の心を与えて下さるが、忌み嫌われるべき心を自分の心として歩む者には、自分の行ないを自分の頭上に返されてしまう。(エゼキエル11:18-21)
第三のタイプの人は、「茨の地」の人。道端のような往来は無く、土の下に岩も無いが、「世の煩い」や「富の誘惑」といった「茨」を自分の中から生えさせ、それによって、御言葉のいのちを窒息させてしまうのだ。
御言葉を読んでも「将来どうなるだろう」「住宅ローンどうしよう」などと言った思い煩いで御言葉を上塗りする傾向のある人は、「茨」に養分を与え育てていると知るべきである。思い煩いは茨の冠となってイエス様の頭を刺し、あくまで茨を生えさせ続けるとやがて呪われ、ついには焼かれてしまう。(ヘブル6:7-8)
苦い根を出させないコツは、よく監督する事(ヘブル12:15)。思いをよく監督し、煩いを膨らませて茨に養分をやる事を止め、御言葉にこそ思い巡らし、御言葉のいのちにこそ水と養分を与え、育てるべきである。
第四のタイプの人は、「良い地」の人。その人は、世の情報の往来は規制され、頑なな心の岩も取り除かれ、茨もしっかり監督して規制され、主に耕された人であり、御言葉のために自らを耕す人である。
そういう人は、御言葉を喜んで受け入れ、芽を出し葉を茂らせ、花を咲かせ、豊かに命の実りをもたらす。
イサクは百倍の収穫を実らせたが、それは彼がアブラハムによって主に自らを捧げ、ペリシテ人に井戸を奪われてもそれを与える、自らをよく耕す人であったからだ。彼はアブラハムに捧げられ、「鍬(くわ)を当てられる経験」を通し、また、ペリシテ人という鍬をも通して、よく耕されたが故に、豊かな実りを見せたのだ。
多くの実を結ぶため、皆さんの土地からは悪しき者達の往来は規制し、内面にある頑なな岩は取り除き、よく監督して「思い煩い」という茨に栄養をやる事なく、主から耕される事をいとわず、よく耕された土地として、多くのいのちの実を結ぶ皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!