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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

主の祈り−御名、御国、御心(マタイ6:9−13)
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主の祈りは、主イエス様が「こう祈りなさい」と示された「祈りの手本」であり、一分弱で終える事のできる、この短い祈りの中には、私達が祈るべき全ての祈りにおいて必要なエッセンスが納められている。

主の祈りの冒頭は、「天にいますわれらの父よ」という文句で始まる。
人が何かを話す時、誰を対象に話すのか明確にするために、真っ先に呼びかけをするものだが、この冒頭の文句は、今生きており、今聞いておられる方への「呼びかけ」である。
祈りとは神様との会話である事は知っての通りだが、私達が祈る時、神様との会話になっていない場合がよくある。祈り文句を人に聞かせるためであったり、また、自分自身を奮い立たせるためであったり・・・。
そのような、聞いて下さるべき相手を無視した祈り「もどき」を防ぐために、正しく呼びかける必要があるのだ。
私達が祈る時、一体誰に呼びかけるのか。それは、「天に座しておられる」 「私達の」 「父」 にである。
今、呼びかけている相手、これから自分の口から出る事を、聞いていただくお方は、高き天にいます方。
今生きておられ、たとい私達がどこにいても、呼びかけるなら、そこで聞いて下さる、偏在なるお方。
そして、「私達の父」、すなわち、私達を造られた、私達の源なる、私達の全てをご存知なる、父なる神。
そのようなお方であるという信仰を、明確に示すのが、この冒頭の呼びかけである。
この呼びかけに続いて、最初に祈る三つの願いの主語は、「御名(Thy name)」、「御国(Thy kingdom)」、「御心(Thy will)」である。すなわち、祈りで優先すべき主語は「Thy(あなた)」であって、私達ではない。
今回は、「御名」が、「御国」が、「御心」が、どのようになるよう、祈るべきか。それを見て行きたい。

第一の願いは「御名があがめられますように。」これは、「御名が聖められますように」とも訳す事が出来る。
私達が祈りにおいて最も先んじて祈るべきは、父なる神が、人々から聖とされ、栄光をお受けになる事。
詩篇100篇3節に「主こそ神であることを知れ。われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である。」と記されている通り、私達を造られたお方は主であり、造られた目的は、主を称える事、そして私達は、主のものである。
人は祈る時、大体「**して下さい」と、自分の願い事を並べがちで、あたかも、神様が私達に仕えるかのように錯覚している人は多いが、そうではなく、私達の側こそ、神様に仕える身分である。
その事の表明を、真っ先にすべきであり、私達が第一に願うべき事は、「御名」があがめられる事である。

第二の願いは、「御国がきますように。」 この「国(バシレイア)」とは、王権、権威、支配、統治、王威、王の称号や栄誉などの意味もあり、すなわち「御国」とは、神の支配、権威、統治の行き届く領域の事である。
すなわち「御国がきますように」とは、御父のご支配が、私達の体に、心に、思いに、また、私達の家庭に、職場に、私達に属する、全ての領域が、あなたのご支配が行き届きますように、という願いである。
世の多くの領域は、人間の好き勝手によって、そしてサタンによって、正しき支配が為されていない。
自分自身が支配しようとする領域を、次々と手放し、その所の支配権を御父に渡すのであれば、その領域は、神の支配が「有効」となり、神のものとされる。

第三の願いは、「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」である。
生まれながらの人は、誰でも、自分が思い描く事が成るようにと、当然のごとく願い、知恵と力をやりくりして、周りの環境や、周りの人間を、支配しようとする。そうして罪をはびこらせ、世界をおかしくさせて来た。
その事を止め、主の御心のみが最善である事を認め、その支配に委ねるのである。
イエス様もゲッセマネで「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と祈られた。
おそらく、誰しもが天国に入りたいと願っているであろうが、主が「御心の天になるごとく、地にも」と言われた、という事は、天国とは、自分の願いが100%叶う国ではなく、その真逆、御心が100%成る国である。
天国に入るには、自分の心を降ろし、御心を優先させる事こそ、不可欠である。

祈りの時は主を第一として祈り、皆さんの内に、御父の支配を、天国を招き寄せる皆さんでありますように!

聖霊のご性質(ヨハネ14:16-20)
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聖霊はどのような霊であり、どのような特徴があるのか。聖書の色々な箇所から見て行きたい。
聖霊の「霊」は、神の「息」や「風」をあらわす「プネウマ」であり、「聖霊」「御霊」いずれも同じ神の息である。

聖霊は、イエスキリストをあかしする霊である。「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」(ヨハネ15:26) 「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。」(1ヨハネ4:2-3)
誰でも聖霊によるのでなければ、イエスは主であると告白できない。(1コリント12:3)
イエスを主とする人は、既に、聖霊を受けている人である。しかし、聖霊が充満したとは限らない。
聖霊の「満たし」には二段階ある。最初の段階は、イエスを主とした人が誰でも受ける「満たし」(プレレース、あるいはプレロー)であり、それは公ではなく密かに、しかし、本質的に聖霊が備わった事を意味する。
次に、ペンテコステのような外面的で力を伴った「充満」(プレソー)という段階があり、イエスを力強く証したり(使徒4:8)、真理の対決をしたり(使徒13:9)、しるしと不思議など(4:31)、力強く機能的な現れである。

御霊には色々な種類がある、などと勘違いされやすいが、現れ方や働き方が違うだけで、御霊は一つであり、皆、同じ御霊を飲む者とされた(エペソ4:4)。その同じ一つの御霊から、一人ひとりに違った”現れ”がある。(1コリント12章) 「霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。務は種々あるが、主は同じである。働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである。」(1コリント12:4-7)

また、聖霊は、自分から語るのではなく、父なる神から聞くままを話す(ヨハネ16:13)。この、自分から語るのではなく、聞くままを話す、という特徴は、キリストも同じであり(ヨハネ12:49、14:10)、聖霊に導かれるキリスト者も、同じ性質である。弟子達は、ペンテコステ以前は自分から語って色々な失敗をしたが、ペンテコステ以降は、自分由来の事は一切語らず、ただ、聖霊に導かれるままを話した。(使徒4:1-21)

また、聖霊の働き方や現れは、旧約と新約では、違う。
旧約時代は、神様がある人をある特別な任務に就かせるために、聖霊をその人に注ぎ、王や祭司、士師、預言者などの、特別な役割を与えら、その人の不従順や罪の故に、聖霊がその人から離れる、という事もあった。(1サムエル16:14、詩篇51:11)
しかし今、新約において、聖霊が与えられるなら、それが離れてしまう、という事は、無い。(ヨハネ14:16)
ただ、その人が聖霊を悲しませたり(エペソ4:30)、聖霊を侮ったり、という事は可能である。
ひとたび聖霊が与えられて、なお、聖霊を侮る者には、重い罰が下る。(ヘブル10:26-31)

聖霊は、人の本質的な渇きを癒し、その人の内から、霊的な潤いが、生ける泉として沸き上がってくる。
『「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかった(直訳:御霊はまだ無かった)のである。』(ヨハネ7:37-39)
イエス様がこれを宣言された時点、イエス様はまだ父の御元に上っておらず(ヨハネ14:16-28)、イエスを証する御霊、イエスの言われた事をことごとく思い起こさせ、世ならぬ平安で満たし、決して離れる事の無い助け主は、まだ、弟子達に下っていなかったのだ。
しかし、十字架以降、イエスを信じる人々には全て聖霊が与えられ、それが離れる事は、決して無い。
「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である。・・・それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。
わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。」(ヨハネ14:16-28)

枯れた骨も息を吹き返す(使徒2:1-4、エゼキエル37章)
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本日ペンテコステは、イエス・キリストの弟子達が、聖霊に満たされ、力を受けた事を記念する日である。
聖霊の「霊」は、ギリシア語でプネウマ、ヘブライ語でルアッハ、いずれも「(神の)息」、「風」、「霊」を意味し、主のしもべにも、はしためにも、それが与えられる事は、旧約の預言者たちによって預言されており(ヨエル2章)、それはまさに主の弟子達に与えられる事は、イエス様も言われていた事だった。(使徒1章)
このペンテコステの日、激しい風が天から吹いて来るようなとどろきが、弟子達のいた家全体に響き渡り、炎のような分かれた舌が現れ一人一人の上に留まり、みな、聖霊に満たされ、異なる舌で話し出した。
「聖霊があなたがたに降る時、あなたがたは”力”を受け、、、地の果てまでわたしの証人となる」(使徒1:8)
力(デュナミス)。それはダイナマイトの語源で、ダイナマイトのような莫大なパワーを持つものであり、その力が与えられる目的は、イエス様の証人となるためである。
聖霊の「力」は、どれ程のものであるのか。エゼキエル書37章に、その顕著な様子を見る事ができる。

『主の手がわたしに臨み、主はわたしを主の霊に満たして出て行かせ、谷の中にわたしを置かれた。そこには骨が満ちていた。』(エゼキエル37:1) エゼキエルが連れて行かれた場所は、ひどく干からびた骨に満ちた谷、かつて戦により切り殺された者達が、骨の残骸となって、あちこちに散らばっている所だった。
これらの骨は、バビロン捕囚で移されたイスラエルの全家をあらわしているが、それは次のような人達にも当てはめる事ができる。
すなわち、自らの不従順の罪によって徹底的に打たれ、もはや復興の望みは絶たれてしまったような人。
昔、若かりし頃の戦いに破れ、夢破られ、復帰する望みもない骨として年月を重ね、ただ枯れるに任せるしかなかった状態。あるいは、自らの罪と神への不従順のために、暗く死に満ちた谷底に落とされ、果てしなく長い間、身動きもできぬまま、枯れ果てて行く自分を、ただじっと眺めていたような。そんな人達に。

『「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか」。わたしは答えた、「主なる神よ、あなたはご存じです。」』(3節) 枯れ果てた骨が、生き返る。それは、人には考えつきもしない事だが、主には何でも出来る。
主はエゼキエルに、それらの骨に預言せよ、と言われる。わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす、と。(5-6節)
彼がその通り預言すると、ペンテコステの日のような、大きなとどろきと共に、骨と骨が互いにつながり、筋がつき、肉が生じ、皮膚が覆った。しかし、その中に「息」は無かった。(7-8節)
確かに主は、死んだような状態から、生き返らせて下さる。主の憐れみによって、かつては骨のような状態から、人並みの状態にまで戻されたキリスト者は大勢いるし、そのように求めている人は多い。
しかし、「神の息」が無い状態では、マネキンのように、「行い」の無い、死んだも同然の状態である。

『時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、息に預言せよ、息に預言して言え。主なる神はこう言われる、息よ、四方から吹いて来て、この殺された者たちの上に吹き、彼らを生かせ」。』(9節)
その通り、彼が「息」に預言すると、息が彼らの中に入り、自分の足で立ち上がった。それは、非常に多くの集団(カッイル:軍団、部隊)となった。
ペテロやイエス様の弟子達は、以前は、大した実を結ぶ事のできない烏合の集団で、イエス様が十字架につけられた時、ちりぢりになり、死んだ骨のような状態だったが、イエス様の息で息吹かれ、ペンテコステで聖霊に満たされて以降、力強く、大胆な伝道者となり、死をも恐れない神の軍団となって全世界に出て行き、ローマを席巻し、ヨーロッパやアメリカ、アジアにまで、神の言葉が伝わっている。

自分は干からびた骨のようだ、と言っている人は、自分自身に、御言葉を宣言すべきである。生き返れ、と。
人並みに回復しても、御前に良しとされる行いの無い、死んだも同然のような人も、「息」に預言すべきである。「息よ、四方から吹いて来い、この者に吹きつけて、生き返らせよ」と。
神の息吹のダイナマイトパワーに満たされて、干からびた骨から、神の軍団へと造り替えられ、大胆にキリストを証して行く皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

ある母の愛の行動(2サムエル21:1-14)
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本日は、母の日である。そこで今回は、リツパという、ある母の話をしたい。
リツパは、サウル王のそばめで、サウル王にふたりの子、アルモニとメフィボシェテを産んだ。
サウル王の死後、サウル王家の実権を握った将軍アブネルは、彼女と「寝る」事で、実権の確固たるをイスラエルにアピールしたが、彼も程なく殺され、全イスラエルはダビデの支配となった。(2サムエル3章)
それから年月が経ったある時、イスラエルに、三年続いて飢饉があった。
ダビデが主に伺うと、サウル王の時代、サウルがギブオン人達の血を流したため、という事だった。
ギブオン人はカナン人だが、ヨシュアの時代、計略を用いてイスラエルと盟約を結び、イスラエルは御心を求めず軽はずみな誓いをした事に後悔したが、主の御前に誓ってしまった故、その約束は長らく守られてきた。しかし、サウル王は「熱心のあまり」、昔の誓いを無視して、ギブオン人の血を流していたのである。
主との誓いを軽んじ、身勝手な熱心を大上段に振り回した結果、招いたのは、子孫たちへの呪いだった。
そこでこの時、サウルの子孫7人がギブオン人の手に渡され、彼らの手によって殺され、主の御前に「さらし者」(恐らく木にかけられた)にされる事となったが、その7人の中に、リツパの二人の息子も入っていた。

『アヤの娘リツパは、荒布を脱いで、それを岩の上に敷いてすわり、刈り入れの始まりから雨が天から彼らの上に降るときまで、昼には空の鳥が、夜には野の獣が死体に近寄らないようにした。』(21:10)
彼女は、息子たちが木にかけられた日以来、神が天の雨を降らせる時まで、その場を離れず、猛禽や獣から、息子たちの遺体を守り続けた。
ここまで徹底した愛、子が犠牲とされ、晒されても、なお守ろうとする「母の愛」以上の愛は、人間には無い。
子が、ぐれて悪くなり、一家の皆からは「死人」のように見なされても、それでも忘れず、いつも子を想い、守り、執り成す。母とは、そういうものである。しかしそれよりも、もっとすごい愛が存在する。神の愛である。
 「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。 見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ。あなたの石がきは常にわが前にある。 」(イザヤ49:15-16)
今、私達を言いようもない深いうめきによって執り成して下さる霊が、聖霊である。(ローマ8:26-27)
聖霊はいつまでも、どこまでも私達を探り、追いかける。たとい私達が、罪にまみれ、汚れに陥り、死人のようになっても、なお深く憐れみ、弁護し、主の御前に正しく立てるまでに、執り成す。

リツパのこの行動は、ダビデ王の心を動かし、忘れ去られていたサウルとその子ヨナタンの骨をヤベシュ・ギルアデのところから取り出す行動へと導き、サウルの父・キシュの墓に葬るようにさせた。
そして人々は、さらし者にされた者たちの骨を集め、王が命じた通りに行い、そうして、神は、イスラエルの祈りに心を動かされるに至った。
彼女が若い時に、サウル王のために産んだ子供たちは、父の罪の故に、犠牲にされてしまった。しかし、彼女がその遺体を守り続け、神と人との前にその犠牲を「さらし」続けた事によって、神はなだめられ、ギブオン人もなだめられ、日照りと乾燥の中、遺体を守り続けていた彼女の上に、三年ぶりの雨が降り注いだ。
その雨は、イスラエル全体を潤し、イスラエルの多くの民に、パンをもたらした。
身勝手な正義は、子孫を呪いへと導く。しかし愛は建て上げ、多くの人に愛を思い起こさせ、恵みへと導く。

この、神と人との前にさらし者とされた7人は、イエスキリストのひな形である。
キリストも、大麦の刈り入れの頃、母マリヤに見守られている中、木にかけられ、呪われた者として神と人との前に、晒された。そして神は、ひとり子であるキリストのこの犠牲によってなだめられ、このイエスキリストを通して、全人類に、恵みと慈しみの雨が降り注ぐのだ。
私達も、アダムという「父」の罪の故に、生まれながらに呪われた者として、罪の刑罰を受ける者達だった。
しかし憐れみ豊かな神は、私達を愛する大きな愛の故に、キリスト・イエスを身代わりとして十字架の木にかけ、私達にいのちを得させて下さった。
このキリストの愛に浸され、潤され、さらに多くの愛を触発しつつ、福音は今に至り広まっているのである。

聖霊を受ける備え:イエス様の証人となる(使徒1:3-9)
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主は天に挙げられる前、もうすぐ弟子達に聖霊のバプテスマが授けられる事を預言し、その時までの備えとして、「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。」と言われた。(使徒1:4)
エルサレム。その名前の意味は、「平和の土台」であり、神殿のある場所、礼拝者達が集う、神の都である。
私達も、聖霊が与えられるのを待ち望む時は、まず、平和という土台に立ち、主を礼拝する所から離れず、御言葉にとどまり続け、主がかねてから言われている約束を待ち望む事である。
聖霊は、扇動的な言葉によって高揚して得るものではない。御霊の実は、平安である。

続いて主は言われた。「ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」(使徒1:5)
バプテスマには2種類ある。一つは、ヨハネが授けた「水のバプテスマ」。これは、それまでの生き方を悔い改め、生来の自分を「死」へと渡すために、水へと浸しこむものである。もう一つは、主が授けて下さる「聖霊と火とのバプテスマ」(マタイ3:11)で、力を受け、全世界に対しイエスキリストの証人となるしるしである。
キリストの弟子としての条件は、ヨハネのバプテスマから、キリストの昇天まで、いつも行動を共にした者であり、「イエスの復活の証人」たる者である。(使徒1:22) つまり、キリストの弟子として聖霊を頂くには、悔い改めた者である事は必須条件であり、聖霊を受ける目的も、イエス・キリストの証人となる事である。

まもなく聖霊を受ける事を言われた弟子達は、イエスに問うて言った。「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」。(使徒1:6)
弟子達が望んでいた事は、イエス様が王権を取り、イスラエルがローマ帝国の支配から脱却し、支配される側から、支配する側となり、自分たちが栄える事であったが、主は彼らに言われた。「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。」(使徒1:7) 
イエス様はその直後、人の世の王座に座して君臨するのではなく、天に挙げられ、人々の目から見えなくなるのである。主が実権をもって直接世を支配されるその時は、父なる神が主権をもって定めておられるが、その前に、弟子達が、そして私達が、為さねばならない事がある。
「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となるであろう。」(使徒1:8)
弟子達が、そして私達が、主が実権をもって来られる前に、為さねばならない事、それは、地の果てにまで、イエス・キリストの証人となる事である!そのためにこそ、聖霊が与えられ、力を着せられるのだ。

「こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。」(使徒1:9) まさにこの時以降、弟子達は、イエス様と顔と顔とを合わせて会う事が、もはや無くなる。
ある意味、8節の言葉が「最後のお別れの言葉」であったのだが、とてもそうとは思えない内容である。
他の福音書のイエス様の最後の言葉も、とても、お別れの言葉とは思えない。
「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。」(マルコ16:16)
「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。(マタイ28:20)
「それから、イエスは彼らをベタニヤの近くまで連れて行き、手をあげて彼らを祝福された。祝福しておられるうちに、彼らを離れて、天にあげられた。」(ルカ24:50-51)
イエス様は「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。」と言われた。真理の御霊が来る時、私達は知るのである。主が御父におり、私達が主におり、主が私達におる事を。(ヨハネ14:16-20)
そして私達は、地の果てまでイエス様の証人となる。イエス様をあかしする霊を宿し、全ての事について教えられ、イエス様が生きている事の証人として、地の果てまで出て行くのである!
平和の土台に立ち、主を礼拝する所から離れず、御言葉にとどまり続け、聖霊に満たされる事を待ち望む皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

主のしもべの道(ヨハネ21:18-25)
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『あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、「行きたくない(ethelo:「意図」しない)」所へ連れて行くであろう」。これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。』(ヨハネ21:18-19)
自分で帯をしめ、望む所へ行き、やりたい事を追求しているようでは、主のしもべとしてはまだまだ若く、未熟であるが、成熟すればする程、自分のやりたい事を主の御前に手放し、ただ主に導かれるままとなる。
物事を自分の思い通りに行かせようとする「未熟なしもべ」は、自由でいるようでいて、実はそうではない。
モグラ叩きのごとく、あちらこちらから噴出する問題を、ひたすら対処しなくてはならないからだ。
しかし、成熟したしもべは、全てをご存知で最善へと導いて下さる主の導きに両手離しで委ねるため、自分の思う通りに行かせようと奮闘する必要がなく、「楽」である加減も、安息の度合いも、非常に大きい。
たとい、その先に苦難や死が待っていると分かっていても、聖霊の促しによって、そうせざるを得ない衝動となり、進んで行う願望として、突き動かされて行くのだ。

パウロがエルサレムを目指して進んでいた時、行く先々の兄弟姉妹達は、パウロの行く道に苦難が待ち受けている事を、聖霊によって示され、「行かないでください」と涙ながらに懇願したが、パウロは言った。
「あなたがたは、泣いたり、わたしの心をくじいたりして、いったい、どうしようとするのか。わたしは、主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことをも覚悟しているのだ。」(使徒21:13)
人々の願いとしては、パウロが生きていて、いつもパウロからメッセージを頂いたり、導きを得る事だった。
彼らの指示どおり、もしパウロが行かなかったなら、確かに彼は安全に、安心に、生き延びる事が出来、そして各地にいる多くの兄弟姉妹達と、もっと一緒に、楽しく、交われる時間を長びかせられただろう。
しかし、聖霊に導かれる成熟したしもべにとって「御心」は強烈な拘束力であり、それは人間的でセンチメンタルな愛着を、振り払う。行かず、伝えずに生き延びるよりも、行って、伝えて死ぬほうが、御心であり、それで福音といのちが、さらに増え広がる事であるなら、成熟したしもべは、行かざるを得ないのである。
私達も、主に仕える者になれば、なるほど、そのように自身の望みを主イエスの名のために手放し、主の望まれるままに導かれていく事を、せつに願い求めるようになって行くのである。

ペテロは主から「あなたはこうなる」と言われた時、ヨハネを見て、「主よ、この人はどうなのですか」と尋ねた。
人は、どうしても、他人の事が気になるもので、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。」と主が言われたのに、他の弟子達は、その言葉を早速気にして、「ヨハネは死なない」と勝手な解釈をし、誤解の噂を早速広めてしまった程である。
主が言われた事を、自分の思い込みというフィルターを通して身勝手に解釈してしまうと、不健全な噂を広めたり、兄弟姉妹の間に混乱を招いてしまったりする。主が言われた事は、そのまま受け止めるべきである。

人がどう願うかは、さほど重要ではない。ただ、御父が定められた通りの御心が成っていく。
イエス様の「誰々はどうなって欲しい」という願いより、実はもっと重要な事がある。それは「あなたは、わたしに従ってきなさい。」という主の言葉であり(22節)、主に従っていく事こそ、誰彼の願いよりも重要である。
主がヨハネに生きていて欲しいと願ったように、主は、私達が生きて、幸いを得、健やかである事を、確かに願っておられる。しかし、いかに主が「死なない事」を願っていたとしても、福音のゆえに死ぬ事が定められている人は、死ぬのであり、主のしもべは、ただ自分に量り与えられた使命を、両手を広げて受け入れ、御霊の導きに委ね、そのまま生きるのみである。そしてその道は、平安と安息、栄光に満ちている。
私達が、自分の好きな帯を締め、やりたい事成した数々を、日記に書き記すなら、人に見せられる内容は、せいぜいわずか、むしろ、誰にも読まれたくない内容ばかりであるが、主イエスの御業は何もかも素晴らしく、それらを書物にして書き記すとすれば、この世界さえ、その文書を収めきれない程である。(25節)
そうであるからには、この御方に全てを委ねる事のほうが遥かに確実で、委ねない事のほうが、断然、損である。主に全てを委ね、平安と確実さと栄光に富んだ人生を歩んでいく皆さんでありますように!

Do you love me? (ヨハネ21:15-17)
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ペテロはかつて、弱さのゆえに、三度、イエス様の事を知らないと公の前で宣言したが、イエス様はそんなペテロを、温かい食事のもてなしの後、個人的に取り扱われた。
「イエスはシモンペテロに言い給ふ、ヨナのシモンよ、汝はこれらに勝りて我を愛する(アガパオー)や。彼に言ふ、然り、主よ、汝は我が汝をねんごろに(フィレオー)し参らすことを知り(エイドー)給ふ。彼に言い給ふ、我が羔(こひつじ)を飼へ。」(ヨハネ21:15 永井訳)
イエス様はここで、ヨナの子、すなわち、人から生まれたシモンよ、と語りかける。あなたは「これら」すなわち、この人達や、漁師という職業、住み慣れた土地、それら以上に、わたしを愛(アガパオー)するのか、と。
ギリシヤ語の「愛」には三種類ある。イエス様がペテロにチャレンジした「アガペー」の愛は、ただ与える愛。
見返りを求めず、惜しみなく捧げ尽くす愛、人を生かし、いのちを豊かにする愛である。それとは真逆の愛が「エロス」の愛、すなわち、見返りを求め、相手から奪う愛。相手の美しさや若さ、お金など、メリットが無くなったら即切れてしまうような、人から奪い、人のいのちを廃らせる愛である。そして三つ目はペテロが答えた「フィレオー」の愛、すなわち、常に交わりを持つ身近な人に自然に芽生える親近感や親愛の情である。
主は、人に、チャレンジする。あなたは、周りのあの人この人よりも、職業や地位よりも、見返りを求めず、わたしを「アガペー」の愛によって愛し尽くすか?と。
以前のペテロなら、何の躊躇もなく、得意げに「はい」と答えたであろうが、今の彼には「アガペー」で応える事に、躊躇があった。彼は、私があなたに親しみを持っている事を、知っておられるでしょう、と答えた。
イエス様は「私の子羊を飼いなさい」と言われた。ここの「飼う」は、食物を与えて守れ、という意味である。
イエス様の所有である、幼い羊。それに食物を与え、守るという資格が与えられるのは、イエス様をフィレオーによってでも、愛する人である。

「また二たびめ彼に言い給ふ、ヨナのシモンよ、汝われを愛するや。彼言ふ、然り、主よ、汝は我が汝をねんごろにし参らすことを知り給ふ。彼に言い給ふ、我が羊(ひつじ)を牧(か)へ。」(ヨハネ21:16 永井訳)
シモンは繰り返し聞かれ、耳が痛かっただろうが、イエス様はなお訊ねた。私をアガペーするのか、と。
人間の子には、どんなに振り絞ってもアガペーの愛は出てこない事、主の基準には達しえない事を、思い知った事だろう。イエス様は今度は、「子羊」ではなく「羊」を、「飼いなさい」ではなく「牧し」なさい、と言われた。「牧す」とは、「飼う」よりも、より進んだ養いで、食べさせるだけでなく、訓戒し、治める事を意味する。
イエス様を「フィレオーする」と、なお重ねて告白する人には、羊を牧する資格が与えられる。

「三たびめは、彼に言い給ふ、ヨナのシモンよ、汝われをねんごろにするか。」(ヨハネ21:17 永井訳)
イエス様は、三度目の質問では、ペテロの不完全な愛のレベルに降りてこられ、同情するかのように「あなたは私を、フィレオーするのか」と言われた。あたかも、小さい子供が悪い事をして泣いている所に、大人がしゃがんで子供と同じ目線に来て、なだめてくれるかのように。それでペテロは悲しくなって、言った。
「主よ、汝はすべての事を知り(エイドー)給ふ、汝は我が汝をねんごろにし参らすことを知り(ギノスコー)給ふ。」(ヨハネ21:17 永井訳)
私達には、完全な愛など無い。主の基準には、達し得ない。だから私達もペテロのように、主に告白するしか無い。「あなたは、私達が弱く不完全で、アガペーの無い者である事を、感覚的に知っておられ(エイドー)、客観的にも知って(ギノスコー)おいででしょう、それでも私は、あなたを親っている、それしかありません。」と。 私達は結局、主が私達を「知っておられる」事に、よりすがるしか無いのである。
主は、天を押し曲げて降りて来られ、私達と同じ「人」として住み、同じ目線に立って下さり、辛うじて「フィレオー」しか出来ない私達に、イエス様の大切な羊を飼うようにと、主の働きを託して下さるのだ。
その時は、辛うじてフィレオーとしか答えられないペテロだったが、主と共に歩んで行き、主の羊達を養う内に、彼は「持ち合わせていない」と思っていたアガペーを、自然に身につけて行ったようである。
伝承によると、ペテロは後に、捕らえられ殺されると知りながらもローマへと戻って、迫害されているイエス様の羊たちを養い、捕らえられ、自らのいのちを投げ出してアガペーの愛を体現した。神の国は、御言葉の種が蒔かれたなら、夜は寝て朝は起き、そうこうしている内に、その人の内で育っていくものである。

圧倒的で繊細な主のご性質(ヨハネ21:1-14)
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復活のイエス様から「聖霊を受けなさい」と息を吹きかけられ、主の権威が与えられ、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」と言われていた弟子たちだったが、彼らがそのうちやり始めたのは、イエス様と出会う前にしていた世の仕事、「漁」であった。
復活後のイエス様の現れは、弟子たちと寝食を共に過ごした三年半のような現れ方ではなく、しばらく姿を現さなかったり、突然現れたり、突然見えなくなったりと、常人ならぬ現れ方だった。
イエス様から「わたしもあなたがたを遣わす」と言われていたものの、その後何をして良いのか分からず、するべき事も見えず、間がもたなくて、以前していた「漁」をしに戻ったのかもしれない。
皆さんも、イエス様があたかも遠くにいるように感じて、世の手段に戻ってしまう事は無いだろうか。

彼らは漁に出たが、その初日、夜通し働いたのに、何も獲れなかった。
春から初夏にかけての夜が肌寒い時期、水に濡れつつ、一晩中網を打っても一匹も取れない状況である。
イエス様はこれからどう関わって下さるのか、分からないため、以前の職業だった漁師に久しぶりに戻ったというのに、魚は一匹も取れない。この夜の寒さと、疲れと、落胆と、心細さは、いか程だっただろう。
そんな夜が明け染めた時、岸辺に人影が見え、彼はこう言った。「子たちよ、何か食べるものがあるか」
この「何か食べるもの(プロスファギオン)」とは、パンに添えて食べるおかずのようなもので、この声の主は、パンだけ食べるには口が寂しいのだろう、それはあるか?と声をかけ、弟子達は「ありません」と答えた。
声の主は、「舟の右の方に網をおろして見なさい。」と言ったが、もし弟子たちが頑なな心だったら、「俺たちの苦労を知らないで素人が何を!」と怒ったであろう。しかし、弟子たちは、この誰とも知れぬ人の言葉の通り、舟の右の方に網をおろした所、網もやぶれんばかりの多くの魚がかかった。
ヨハネは、自分の「働き人」としての原点を思い出し、その声の主は「主イエス」だと気付いた。

彼らが漁に出たのは、単にパンに添えるおかずを手に入れたかっただけだったのかもしれないし、あるいは、本格的に世の仕事に戻ろうとしていたのかもしれない。
それは分からないが、いずれであっても、彼らが御声に従って引き揚げたのは、153匹の大きな魚という圧倒的な結果であり、それでも網は破けず、船も沈まなかった。
人はパンだけで生きるのではなく、主の御口から語られる一つ一つの言葉による、とあるが、私達は、主の御口から出てくる「言葉」に従ってこそ、地の産物を得、魚の収穫を得、世の仕事の成功を得るのである。
私たちが世に出て働く時、いかに何年も働いてきた職であったとしても、一晩中働いて頑張っても、何も取れない事がある。それは、人のプロフェッショナリティや寝ずの働きではどうにもならない。
その時は初心に返り、主の御言葉に聞き従い、怒らず恐れず、ただその通り行えば、物事は成るのである。

弟子たちのミニストリーの原点は、彼らがイエス様と出会う前の漁師をしていた時、イエス様のお言葉通りに実行したら、それまでの自分の経験や努力をあざ笑うかのような大漁を得た事と、「あなたがたを人間を獲る漁師にしてあげよう」というイエス様の言葉であった。
イエス様は、彼らに原点を思い起こさせ、主のご性質を思い起こさせて下さっただけでなく、必要な糧も同時に与えて下さったが、私たちにも、同じように現れて下さるのである。
イエス様は、確かに生きて働いておられる。目で見えなくても、手で触れなくても、たしかに私たちと共におられ、食べるものがない状況と奮闘している様を見て、そっと傍に立り、為すべき事を指示して下さる。
主のご性質は、人の経験や努力を遥かに越えた力を、一見それとは分からぬほど繊細に、静かに示され、
人間の力で寒い中、夜通し努力奮闘しても、何も取れなかった私達を、大漁で溢れさせ、しかも、陸地で暖かい炭火をおこし、石の上でパンと魚を焼いて、こおばしく温かい食事をもって、迎えて下さる。
しかも、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と、主のアドバイスに従って獲る事が出来た魚を用い、焼かれる。主のこの一連の振る舞い、その優雅なご性質は、どんなに心がほぐれる事だろう!
このように、温かいおもてなしによって、心を開かせ、生活の必要を圧倒的に満たし、その上で、福音の仕事への整えを、物質的にも、霊的にも、豊かに整えて下さるのが、私達の主である。

信じない者にならないで信じる者に(ヨハネ20:19-29)
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『その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。』(ヨハネ20:19-20)
この時、トマスだけが何かの用事のためにそこにおらず、彼が帰って来た時、弟子たちや婦人達は、きっと興奮ぎみに語っただろう。イエス様は確かに現れた、確かに生きておられ、「平和があるように」と言って下さった、そして、その手とわきには痛々しい傷跡があり、聖霊を受けるようにと息を吹きかけられた、と。
『トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」』(同25節)
トマスはそう言ったものの、まさか、10人の弟子たちと婦人達が、よってたかってトマスにウソをついて、からかっていたのだ、などと、本気で思っていたわけではあるまい。
自分が何らかの用事で不在の間に、兄弟姉妹の間に、主が、ありありと現れ、すばらしい事をなされた、と言われたとしたら、どう思うだろうか。きっと、強烈な「置いてけぼり感」にとらわれるのではなかろうか。
しかし、たとい私たちが「わたしは絶対に信じない」と頑なになってしまったとしても、主は憐れんで下さる。

『さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」』(同26-27節)
皆さんはどう思うだろうか。死んだとばかり思っていたイエス様が、肉体を持った人として目の前に現れ、その、刺し貫かれた手と脇腹とを示され、「あなたの指を、ここに差し入れてみなさい」と、やさしい御声で話しかけられ、その刺し貫かれた傷跡、肉が赤く裂け、骨まで見えているその傷跡を、目の前に差し出されたら。
トマスは、涙ながらに言う他になかっただろう。「私の主、私の神。」
私たちの神、私たちの主は、頑なで信じないトマスのような私たちのために、まさにその傷を負われたのだ。

1週間前、トマスが弟子たちに囲まれながらも「信じない」と言ったその時、主はその場にいなかったはずなのに、主はなぜか、トマスの言った言葉を知っており、覚えていた。
主は、私達が不信仰で頑なな時、不信仰な言葉を言った時、たといそこが密室であったとしても、主はそこにいて聞いておられ、また、私たちが主がいないかのように感じたり、取り残されたように感じる時も、実は、ちゃんと共におられて、私達がその時感じた事や心の言葉も、全て知り、覚えておられるのだ。
トマスはイエス様の手や脇腹に指を突き刺してみなければ信じない、と言った。当人がそこにいないと思って、大げさに言ったのであろうが、それは言ってみれば、イエス様を再び刺し貫くような言葉である。
「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
置いてけぼり感や、取り残され感から、イエス様を突き刺すような言葉を思わず口走ってしまうとしても、主は「いいよ、それで信じるなら、あなたの指をここに入れなさい」と、裂かれた手や脇腹を示されるのである。
復活の後のイエス様は、繊細に、そっと、私たちに現れて下さる。強制力によってではなく、愛によって、優雅な品性漂う振舞いによって、頑なな心を溶かし、私達はその愛に触れられ降参するしかなくなるのだ。

現代を生きる私達は、肉体をまとったイエス様を、目で見たり、手で触ったり(通常なら)できないが、当時の目で見たり触ったりした弟子たちより、幸いである。なぜなら、「見ないのに信じる人は、幸いである」から。
『信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。』(1ペテロ1:7-8)
見える所によるのではなく、見えないキリストを信じる信仰によって歩み、キリストのあらわれの時には、称賛と光栄と栄誉に至る皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

完璧なるキリストの復活(マタイ27:62-28:10)
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本日はイースター、イエス様の復活を記念する日である。
イエス様はひとたび、十字架上で、完全に死なれた。ヨハネやマリヤの目の前で、兵士や百人隊長、その他多くの人達の目の前で、息を引き取り、槍で突かれても、血と水が流れ、全く動かなかった。
イエス様を十字架から降ろしたアリマタヤのヨセフとニコデモは、死後硬直して冷たくなりつつあるイエス様の体に、苦心して没薬とアロエとを共に亜麻布で巻きつけ、ヨセフが用意した墓へと葬り、番兵が封印した。
イエス様の死という「敗北」に、祭司長や律法学者達は勝ち誇ったが、イエス様は三日目に復活する、との言葉を思い出し、弟子たちが遺体を盗まぬよう手配さえしたが、その弟子達は、皆、イエス様がよみがえるなど、つゆ思っておらず、絶望し、恐れ、隠れた。それ程、イエス様は完璧に「死に尽くした」のである。

しかし、イエス様のあらゆる敵にとって「残念」な事に、イエス様は、完全に復活されたのだ。
封印は圧倒的な力で破られ、墓の入口を塞いていた大きな石は、脇に転がされ、墓を見張っていた番兵たちは、御使いを見て死人のようになり、女たちがイエス様の遺体に香油を塗ろうとして墓に行った時、墓の中にはイエス様の遺体は無く、ただ体を巻いていた布が巻かれたままに置き去りにされていた。
番兵達は祭司長たちに報告したが、祭司長たちは、なぜか、「そんなばかな事があるか」と一蹴する事も、失われた遺体を捜索する事も一切せず、番兵たちに金を掴ませ、偽りの情報を流させた。
しかし! 女たちはすぐにイエス様に出会い、「おはよう。」と声をかけられた。イエス様は弟子たちに現れ、信じられない様子の彼らに、よく見させ、触らせ、釘跡に指を入れさせ、彼らの面前で魚を召し上がった。
その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われ、迫害者サウロにも現れパウロへと造り変えた。

復活は、私達キリスト者にとって最重要事項であり、もし私達に復活が無いとしたら、キリストの復活も無かったはずで、宣教も、実質の無いものとなってしまう(1コリント15:12-19)。
マホメットや仏陀は死に、墓は聖地として奉り上げられているが、キリストの墓は無い。生きているからだ。
イエス様は実際よみがえられ、その、莫大なる復活の力を体験した人達は、実際に大勢いる。
彼らは元々、ユダヤ教のナザレ派という弱小集団で、漁師や取税人、遊女といった、社会的弱者から構成される、お金も知恵も力も、まとまりも無い、ただの要領の悪い小さな集団だったが、見事な統率と武力で世界を席巻した、あの、ローマ帝国を凌駕し、後には、帝国そのものがキリスト教国になってしまったのだ。
そしてイエスキリストを信じる人には、イエスの名によって病が癒され、問題は解決され、イエスを信じた家族や国はますます栄え、勝利し、イエスの名をおとしめる者達は、災いに満ちた終わり方をしている。
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力である。

イエス様は今まさに生きておられ、その復活の命は、何者にも押し留められるものでは無い。イエスの敵は、協議と権力と金と偽りとで、いのちを押し潰そうとするかもしれないが、春に萌え出る草や花を、人が留められないように、復活のいのちの広がりは、サタンも人も、死も、もみ消そうとして消せるものではない。
『朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」』(1コリント15:54-55)

キリストはなぜ、復活の後、あの圧倒的な御力をもって公に見える形で現れず、信じる者たちに、ごく内密にしか現れないのだろうか。それは、神の御心により、信じる者達の宣教のことばの愚かさを通し、信じる者達を救おうと定められたからである。(1コリント1:21)
神は何ゆえか、この土の器に過ぎぬ私達を通して、全被造物の救いという宇宙的事業の一端を担わせられ、この救いの言葉、十字架の福音を全世界に宣べ伝える事を、私達に委ねられたのである。
そして、やがては天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物が「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」と言って、ほふられた小羊キリストに栄光を捧げるようになるのである。

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