メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ
先のしゅろの日と後のしゅろの日(黙示録7:9-17)
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本日は教会暦では「しゅろの聖日(パームサンデー)」、すなわち、イエス様がろばに乗ってエルサレムに入城し、人々が自分の衣服や「しゅろの葉」を置いて「ホサナ」と叫びつつ歓迎した日に相当し(マタイ21:6-11)、次週主日のイースター(復活祭)までの1週間を「受難週(Passion Week)」 としている。
その日、大勢の人々が、ろばに乗ってエルサレムに入城する柔和な様子のイエス様を、しゅろの葉を手に持って、「ホザナ」と叫びつつ両手を挙げて歓迎し、弟子たちも意気揚々としていた。
非常に絵になる場面であり、一見、イエス様が高く上げられているように見えるが、彼らは、自分が「ホサナ(”おお、救い給え”という意味)」と叫んだ相手が、何者で、どういう人物であるか、一体何から「救って」下さるのかを、実は、分かっていなかった。(マタイ21:10-11)その証拠に、一週間後、群衆は一変して「イエス様を十字架につけろ!」と叫ぶ側に回ってしまい、弟子たちも、一人残らず逃げてしまう。
人々はそれぞれの身勝手なメシヤ像を思い描き、当時のローマ帝国の圧制から”救われ”、力強い指導としてイスラエルを再興してくれる事をイエス様に期待したり(使徒1:6)、パンをいつでも提供してくれる王として期待したり(ヨハネ6:14-15)、別の人達は、病気や悪霊を追い出してくれる人としたり。ようするに、イエス様を、「何か自分の願望を満たしてくれるべき人」という、身勝手な幻想を抱いていたのだった。
そのような、身勝手な幻想を抱いている人は、イエス様が自分の願望を満たしてくれないと分かると、とたんに「除け、除け、十字架につけろ!」と、手のひらを返したように叫ぶ側になってしまうもので、自分の中に罪があると示されたり、悔い改めるよう促されたり、十字架を負ってついて来るように言われたりすると、そんなメシヤはいらない、除け、となってしまうのだ。
実際、イエス様が自分の思い通りに行かないと分かると、それで信仰を離れてしまった人達は多い。
先のエルサレムでの「しゅろの日」は、信仰があやふやな人達の身勝手なホザナで満ち、彼等が喜び迎えたイエス様を、わずか一週間後に十字架につけてしまったが、後には「もう一つのしゅろの日」が訪れる。
その日、あらゆる国民、部族、国語の中から、誰にも数え切れぬ程の大勢の群衆、すなわち、イエス様が十字架で流された血潮によって衣を白く清めた群衆が、しゅろの枝を手に持って、大声で叫んで言う。
「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。」(黙示録7:10)
この群衆は、救いはどこから来るのか、誰にあるのかを、明確に分かっていて、それを叫んでいる。
世の多くの人達は、かつての「しゅろの日」の人達のように、救いが何であるのかも、どこから来るのかも、履き違えている人が多い。「救いはお金にある」「救いは権力にある」「救いは美貌にある」等など。
そもそも彼らはなぜ、救いを求めるのか。それは、何かしらの災い、例えば、「自然災害」という災い、「老い」という災い、「人からの拒絶」という災いなどから逃れるためだ。
彼等は、それら災いに備えつつ、罪という災いを積み重ね、神の怒りという究極の災いを、積み立てている。
最も根本的な災いは、死であり、罪であり、神との断絶である。唯一、イエス様こそ、それらの災いから人類を救って下さるお方であり、イエスを主とするなら、その他「災い」と言われるものは、もはや力を失う。
世の人達は、災いに備えて罪の災いを行ない、神との断絶という永遠の災いを積み立てている。
しかし、キリストにある人々は、災いの大元である罪を、小羊の血で洗い清め、世のあらゆる災いから逃れ、守られる保証が与えられ、昼も夜も聖所にて神に仕え、永遠にいのちの務めを為すのである。
「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、/昼も夜もその神殿で神に仕える。玉座に座っておられる方が、/この者たちの上に幕屋を張る。彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、/太陽も、どのような暑さも、/彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、/命の水の泉へ導き、/神が彼らの目から涙をことごとく/ぬぐわれるからである。」(黙示録7:14-17)
「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。」この告白にしっかりと立ち、しゅろの枝を手に持った大勢の群衆と共に、主をほめたたえる恵みを得る皆さんでありますように!
頑なな心と柔和な心(ヘブル3:7-19)
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聖霊は私達に、以下の命令を、三度も繰り返して警告している。
「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、 荒野における試錬の日に、/神にそむいた時のように、/あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。」(ヘブル3:7-8、同15節、同4:7)
かたくなさ。それは、主の道を見えなくさせ、迷わせる性質であり(ヘブル3:10)、決して主の安息に入る事の出来ない性質(同11、18節)、御怒りを引き起こし、しかばねを荒野に晒す性質である。(同17節)
「兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない。」(同12節) ここの「不信仰(アピスティア)」は、2節や5節の、キリストの「忠実(ピストス)」の反対言葉で、不忠実を意味する。「弱い信仰」ではなく「反・信仰」なのだ。
頑なな人は、災いである。いかに多くの奇跡を体験しても、いかにモーセのような素晴らしい導き者の指導を受けても、荒野で滅んでしまい、安息の地に決して入れないものだ。
そこには身分の高い低いは関係無く、多数決の原理も無い。エフライム部族の族長は約束の地に入れなかったのに、同じ部族でモーセのかばん持ちの若者・ヨシュアは、入れた。モーセが40日山から降りて来なかった時、アロンや民は不忠実に身勝手な神を造って堕落したが、ヨシュアは忠実に待っていた。
また彼は、モーセが会見の天幕から帰った後も、ずっと幕屋を離れずにいた程、忠実だったからだ。
60万以上の民が「エジプトへ帰ろう」と言い、二人が「約束の地へ行こう」と言うなら、普通、その集いはエジプトへ行く、というのが、多数決の原理であるが、神の真実は、それを許さない。
神の御心が、神の御約束が「約束の地へ導く」というのであれば、それを信じて従うべきであり、それに逆らったのがいかにアブラハムの子孫60万以上であっても、全員が荒野で屍を晒す事になったのである。
それ程、神の約束は峻厳であり、御声に逆らい、御言葉に逆らう事には、厳然たる「災い」しか無いのだ。
「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、 あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。」皆さんには今、主から何か御言葉は与えられているだろうか。何か約束が与えられているだろうか。
主に喜ばれるあの事を、今しなさい、と言われているだろうか。捧げ物を滞らせてはならない、と言われているだろうか。あの兄弟、あの姉妹を、憎む事を止めなさい、和解しなさい、と言われているだろうか。
赦しなさい、と言われているだろうか。怒りや憤り、陰口、ねたみを捨てなさい、と言われているだろうか。
体を害するようなあの習慣から離れなさい、と言われているだろうか。
もし言われているなら、それから顔を背けずに服従すべきである。いつから?それは、きょうである。(13節)
聖書の御言葉を読んだ時、あるいは礼拝のメッセージや兄弟姉妹との交わりの内で、心に特に印象付けられたり、ひっかかりを覚える示しがあったなら、その「主の御声」から顔を背けず、服従すべきである。
私達は、聞いた御声に従い、与えられた御言葉を信じて服従するなら、安息に入る。しかし、荒野の民のように、御言葉を聞いてもそれを信じず、頑なになって御声を退けるなら、安息に入れず、滅んでしまう。
「彼等は聞きし言葉に信仰を交ぜざりしかば、その聞ける言葉も彼等を益せざりき。」(永井訳 ヘブル4:2)
頑なな心、すなわち、世の価値観によって踏み固められていたり、表層は柔らかくても内には固い岩があったり、あるいは、いばらの茂るような心であったなら、御言葉を混ぜても、実を結ばない。
しかし、御言葉が混ざりやすい柔和な心は、幸いである。その人は地を相続し、安息に入るからである。
信仰によって御言葉を自分自身と交ぜるなら、御言葉なるキリストと一体化する事となり、キリストの御業が自分の内に働き、キリストのいのちが自分のものとなり、キリストのご性質が、自身の内と外とに現わされる。
「わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。」(ヘブル4:3)
安息の休みは、信仰をもって御言葉を交ぜる聖徒のために残されており、そして神の安息にあずかった人は、神が御業を終えて休まれたように、自分のやりくりや頑張りを終えて、休みに入る。(同10節)
信仰によって御言葉なるキリストを自分自身に混ぜ、キリストとひとつとなり、神の安息の内に居続ける皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
カインの礼拝とアベルの礼拝(創世記4:1-7)
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礼拝の時間は、神である主を敬い、賛美や祈りや捧げ物をささげ、そして主から、御言葉と恵みと答えと祝福をいただく、神と人との双方向の交わりの時である。
主は今、生きておられ、今この瞬間も、私たちの心の成り行きを見て、知っておられる。それ故主を敬う心は礼拝で最も必要であり、主が不在の形だけの礼拝は、御言葉も恵みも答えも祝福も、頂く事は出来ない。
そして、主と関わる時は、主の法則、すなわち御言葉に則って関わる必要があり、御言葉の根拠なき、御心から外れた「自分流の礼拝」を捧げても、主を怒らせるだけである。
「主への祭り」と称して、金の子牛を造って飲み食いし戯れたイスラエルの民は、それで主に仕えているつもりだったが、主は彼らを怒り、滅ぼそうとされた。(出エジプト記32章) 示されていた御言葉を読んだなら、それはとんでもない反逆だと判るものなのに、彼らには御言葉が無かったため、主へ礼拝を捧げていると大真面目に思いながらにして、主に滅ぼされる寸前の怒りを買っていたのである。
主に仕えている「気」になっておりながら、主を怒らせ、悲しませるという事は、確かにある。それを防ぐために、私達は常に御言葉の真理に照らし合わせて、主の道を正しく歩んでいるかどうかチェックすべきである。
カインとアベルの礼拝から、私達が礼拝において気をつけるべき示唆を、多く得る事ができる。
「時が経って次の事が起こった、カインは、地の実りから主へのささげ物を持って来た。また、アベルも彼の群の中から、初子の、それも最も肥えたものを主に持って来た。主はアベルと、そのささげ物とに、リスペクトした。しかし、カインと、その捧げ物とに彼はリスペクトしなかった。」(創世記4:3-4、KJVから翻訳)
主に捧げたのに、主からそっぽ向かれている感じがあったり、仕事や人間関係がうまく行っていない、祝福から遠いと感じる事があるだろうか。しかし、ある捧げ物は主に目を向けられ、ある捧げ物は主からそっぽ向かれてしまう。そういう事は、厳然としてあるという事を、知るべきである。
アベルの捧げ物は、なぜ受け入れられたのか。それはまず、彼の捧げ方は、神の規定に叶っていた。
前回見たように、神の御前に有効とされる捧げ物は、いのちの犠牲がある事である。
アダムとエバは、いちじくの葉をつづり合わせて裸を覆うものとしたが、そのような、犠牲なき手軽な繕いは、神の目には何も覆われていないも同じである。犠牲がある事が、まず、神様の方法である。
また、アベルは最良のものの中からさらに厳選して捧げた。彼は「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして」神を敬い(申命記6:5)、最良のものを捧げたからこそ、神様は彼と彼の捧げ物とにリスペクトされたのだ。
カインの捧げ物は、なぜ受け入れられなかったのか。それは、正しく行なっていなかったからである。(7節)
神の受けられるいけにえは、砕かれた魂、悔いた心。神はそれを軽んじられない。(詩篇51:17)
カインの心が、もし神の前に砕かれ、悔いた心を持っていたなら、彼は「怒る」という事をしなかっただろう。
しかし彼は、怒った。怒った事によって、彼の心の内の傲慢さが明らかとされた。
また彼は、礼拝において、またその礼拝の成果について、他人と見比べるという事をした。
神ではなく人を、目に見えない神を敬うのではなく、目に見える人を気にしたのである。
私達は礼拝や奉仕で、人と見比べたり、自分がしようとした奉仕が、思い通りに行かなかったり、評価されなかったら、怒ったり、あの兄弟姉妹なぞいなくなってしまえ、という心が芽生えたり、していないだろうか。
礼拝や奉仕で「怒り」が出てきた時、神と人の前から「顔を伏せ」る時、私達の内に、カインの性質がある事を知るべきであり、その時は、戸口で待ち伏せしている罪を、支配しなくてはならない。(創世記4:6-7)
罪を支配するとは、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにして「キリストに従わせ」、完全に服従させる事によって、である。(2コリント10:5-6)
私達は神と関わる時、礼拝する時、常に御言葉の真理に照らし合わせて、主の道を正しく歩んでいるかどうかチェックすべきである。
為そうとしている事が御心にかなっているかどうかをチェックする最も簡単な方法は、真理なるお方、御言葉なるお方である、イエス・キリストの名によって、その事が出来るかどうかを問う事である。(コロサイ3:17)
礼拝や捧げ物に限らず、全ての事を、イエス・キリストの名に恥じずに行う皆さんでありますように!
いちじくの葉か、犠牲の衣か(創世記3:7,21)
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人類に罪と死が入ってしまった瞬間、すなわち、アダムとエバが「善悪を知る実」を食べた時、真っ先に彼らに起きた事は、目が開かれ、自分達は裸であった事を知った事であり、その事を見て知った彼らが真っ先に実行した事は、いちじくの葉をつづり合わせて、裸を覆う事だった。(創世記3:7)
神との関係が絶たれてしまった人間は、呪われてしまった自然や環境、人間関係の脅威の中を、自身の体力や知識、思いや意志、感情をやりくりし、自力で渡り合って行かなくてはならなくなってしまった。
この、自分の恥ずかしい所、見られて欲しくない部分を覆う行為こそ、全ての人が持つ「取り繕い」である。
アダム以来人類の呪われた生き方は、自分の弱さや裸をカヴァーするために力を蓄え、知識を蓄え、技術を発展させ自活して行くもので、いちじくの葉はやがて発展し、鎧となり、城壁となり、兵器となって行った。そして、人はまた、浅知恵による言葉の「いちじくの葉」で自分を覆う生き方をも身につけた。
アダムは、自分の罪を告白せず、逆に神が与えて下さった妻が悪いかのように、詭弁といういちじくの葉によって自分の罪を覆おうとし、人を責め、神を責めた。エバもまた同様であった。(創3:12-13)
小さい子供は、誰からも教えてもらわないのに、言葉を覚えた当初から、詭弁という「いちじくの葉」で自己弁護する。そのように人は、生まれながらに取り繕う「くせ」が、身にしみてしまっている。
いちじくの葉がやがてぼろぼろになってしまうように、それは永遠に保つものではない。取り繕って一時的に救われた気がしても、永遠に続くものではないため、喪失への恐れや不安がどこかしらあるものだ。
神を離れた人がやる事なす事は、全て、主の御前に実を結ばない「取り繕い」である。(ヨハネ15:5)
神に対して有用な実を結ばない「いちじくの葉」という取り繕いだらけの人は、主によって枯らされてしまう。
イエス様が唯一、呪いの奇跡を行われたのは、葉っぱばかりのいちじくの木に対してであった。(マタイ21:18-22)
人は、何によって罪と裸を覆って頂けるのか。それは、神が一方的に与えて下さる衣によってである。
「主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。」(創世記3:21)
主は、人を裸のままエデンの外に追い出す事をなさらず、呪われた地でもやって行けるように、何かしらの動物を殺して犠牲とし、その皮を剥がれ、それを人に着させて下さり、それから救いのご計画を発動された。
日本で犯罪を犯したら日本の法律に則って対処するように、神の御前で罪を犯したなら神の方法に則って罪を対処しなくてはならない。神の御前に有効な、罪の贖いの方法。それは、いのちの犠牲である。
イエス様は、たとえ話の中で、王が婚礼に客を招いた際に、礼服を身に着けてこなかった者は外に追い出された話をされた。礼服は王から支給されるものであり、せっかく支給されたものを跳ね除けて、自前の服を身に着けて行くなら、善人であれ悪人であれ、外の闇に追い出されてしまう。(マタイ22:11-14)
同様に、神の支給して下さったキリストという贖いの衣を身に着けず、自前のいちじくの葉で取り繕うなら、どんな善人であっても、天の王国から追い出されてしまうのである。
キリストこそ贖いの衣であり(ガラテヤ3:27)、この衣を着るなら、決して裸になる事は無く、死ぬべきものはいのちに飲み込まれるのである。(2コリ5:1-4)
アダムとエバはいちじくの葉で取り繕ったが、自前の方法では、神の前に罪や裸を覆った事にはならない。ただ、神の側が示された衣で覆われてのみ、御前に有効なのだ。
ヤコブは自前の服ではなく兄エサウの晴れ着や動物の毛皮を纏ったため父からの祝福をいただき、エステルは自分好みのものではなく勧められたもの以外は身につけなかったため王の好意を受け、大祭司ヨシュアは、ただ一方的に、汚れた衣を脱がされ、神が用意された礼服を着せられた。
ルツはナオミから言われた通り、ボアズの衣をまくって彼の懐に入り、「わたしは、あなたのはしためルツです。どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です。」と言って迫ったために、栄光の家系へと入れられた。(ルツ記3:9)
私達も、まことのボアズであるキリストの懐に飛び込んで行き、申し上げるべきである。
「わたしはあなたのはしためです。」「あなたの贖いの衣でわたしを覆ってください。」「あなたは私を、罪と死から、いのちへと買い戻して下さるお方です。」と。
永遠の衣に何を織り込むか(黙示録19:6-9)
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キリストにあって忠実な働き人だったある姉妹が、天に凱旋された。
彼女の生涯は、主の御前に尊い日々で綾なされていた。子供たちを、しっかりと神の働き人として育て上げ、子や孫からは福音のための働き人たちがおこされ、その働き人達を通して、多くのキリストにある霊的な神の子達が、彼女から産まれ出て、そのいのちは、今も産んで増えて地に満ちて行っている。
彼女のその生涯は、主の御前に尊く、美しい綾織り物のような生涯であり、今や、キリストの花嫁として、新しいからだが着せられ、天のまことの夫の懐で、世の諸々の煩いや病から解放され、安息を得ている。
「花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。」(黙示19:8) 「衣」は聖徒たちの正しい行いである、と書いてあるからには、私達はこの地上で、日々の「正しい行い」をもって、天国で着るための「衣」を織っているようなものであろう。
私達はこの地上の一日一日の「行い」を、どのように正しくできるだろう。
どうしたら、天で着せて頂く永遠の衣を、より美しく完璧に仕立て上げる事が出来るだろうか。
それは、一言で言えば、主イエス・キリストと共に歩む事によって、である。
キリスト者として歩む人生は、決して平坦なものではない。キリストを信じている故の患難があり、迫害もあり、災いもある。私達もまた弱く、時に誘惑に負けて罪を犯してしまう事もある。
私達の力には限りがあるが、キリストには限り無き力があり、キリストと共に歩むなら、どんなに非道く、耐えがたいような困難でも、不思議と神からの力で守られ、平安の内に歩む事が出来るのだ。
ステパノは、常人ならばとても耐え切れないような迫害の中でも、聖なる平安の内にキリストを証した。
群衆は口々に叫びながら彼に殺到し、彼は多くの腕に掴まれ、殴られ、もみくちゃにされ、外に引き摺り出され、よってたかって石を投げつけられた。そのような暴力的な混沌の中、ステパノは御使のような面向きで、殺意に満ちた群衆をキリストのように執り成し、祈り、美しい平和の内に天に凱旋した。(使徒7:54-60)
彼に微塵の絶望も憎しみも悲嘆も無く、世のものならぬ平安に満たされつつ、眠りにつけたのは、なぜか。
それは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見つめていたからである。(55節)
世の中の人々、あるいは、呪われてしまった自然界が、殺意に燃えて私達を飲み込もうとする事があるかもしれない。そのような状況でもステパノのような平安を保つには、天を見つめ、イエスを見つめる事である。
キリストの愛と守りは、生も死も超えている。死も、命も、御使いも、支配する者も、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私達を引き離すことはできない。(ローマ8:39)
もし私達が地上で身勝手に歩み、主イエスを無視して日々を送るなら、その分だけそこがほころびとなり、いざ天に召された時、その部分は焼きつくされ、僅かにキリストと歩んだ部分しか残らない。(1コリ3:11-15)
キリストと共に歩み、キリストにあって何かを行う時、私達の人生という織物は、キリストにあって織りなされ、それは「聖徒の正しい行い」という清い衣として栄光の内に永遠に残されるのであり、そして多くの聖徒達によって紡がれた織物が完成する時、キリストの花嫁の光り輝く衣装が完成し、花嫁として迎えられるのだ。
今や彼女は、キリストの花嫁として迎え入れられ、目の涙をすっかりぬぐい取られ、全く新しいからだを着せられ、イエス様の懐に抱かれ、安息している。(黙示録21:1-7) そして彼女のように、天では多くの信仰の先人達が、私達の地上での歩みを応援し、執り成し、天の栄光ある御国へ入れられる日を待っている。
「このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:1-2)
今、地上に残されている私達も、信仰の先人達に続き、イエスから目を離さず、イエスと共に歩み、「正しい行い」という永遠の衣を、共に地上でしっかりと紡いでいく皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
いのちの木と善悪知識の木(創世記2:8-17)
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『主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。』(2:15)
主はアダムとエバをエデンに置かれたように、私達が住むべき領域に、私達を置いてくださっている。
主が人を園に置き、そこを耕し守り、管理させたように、私達も、主が置いて下さった場において、そこをしっかりと耕し、守り、て管理するべきである。
そして、主が置いて下さった生活ステージの中央には、ふた種類の木がある。
『園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。』(創世記2:8-9)
人類なら誰しも必ず通る「二者択一」がある。すなわち、いのちの木を取るか、それとも善悪の知識の木を取るか。それは、人類創造以降、全ての人が避けて通れない究極の選択である。
究極の二択というと、「善か悪か」と思われやすい。しかしそうではない。聖書が提示する究極の選択は、「いのちか、善悪判断か」である。
「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2:16-17) 神は善悪の知識の木から食べる事を、禁じられた。
善悪を知る事、それはすなわち、神のようになる事である。(創世記3:5,22)
人は神のようになろうという誘惑によって善悪の実を取って食べ、また、サタンも、神のようになろうとして地に落とされた。(イザヤ14:14)神の命令を敢えて超える神から独立した善悪判断は、死へと導かれてしまう。
善悪の実を食べた時、真っ先に人に起こった事は、目が開かれた事であり(創世記3:7)、こうしてある意味、神のようになった。しかし、神のようになった彼らが最初に気づいた事は、実は自分達は裸であった事。
そこで彼らが最初に働かせた善悪判断は、恥ずかしい所をいちじくの葉で隠そうという「取り繕い」だった。
このように、神のような開かれた目で周りの状況や人間をじっと見、善悪判断する事は、自らに死を招く。
神から離れ、神との関わりが絶たれた人間は、所詮裸であり、弱い者であり、罪深く何も出来ない者である。
自分の弱さや裸を覆うために、力や知識を蓄え、技術を発展させて自活して生きて行く生き方こそ、アダム以来の呪いの生き方の本性であり、この、神から離れて取り繕う道具「いちじくの葉」は、歴史を下るごとに進化し、やがて身を守る道具となり、武器となり、知識や学術体系となって発展して行ったが、それは所詮、自分の不完全さに対して、罪に対して、死に対して、どうする事も出来ないのだ。
どこどこに行って遊んでも良いか悪いか、この映画を見ても良いか悪いか、など、何でもいちいち誰かに伺いたがる人がいるが、そのように、何でも「善いか悪いか」の善悪判断で生きる生き方こそ、呪いである。
律法は善悪の集大成だが、律法の行いの内にある人は全て呪いの元にある。(ガラテヤ3:10-12)
しかし、キリストは呪いの木にかけられ、私たちを、その律法の呪いから贖い出して下さった。
この事は、信仰によって義とされるアブラハムの祝福が、私達に及び、私達が信仰によって約束の御霊を受けるためである。(同13-14節) イエス様を信じた人には、聖霊が与えられ、もはや「善いか、悪いか」という善悪判断の呪いの中ではなく、聖霊が教えて下さる導きに従って歩むのである。(ヨハネ14:26)
現代、私達が選ぶべき「いのちの木の実」は、まことの食物であるイエス・キリストである。
「わたしは命のパンである。・・・これは天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」(ヨハネ6:48-51)
呪いの木に掛かって下さった、イエス様という「いのちの木の実」を食べるなら、私達は生きるのである。
福音は、律法のような「こうせよ/するな」という善悪の集大成ではなく、イエス・キリストという「いのちの実」を、信仰によって受け取り、いただくという、命の路線である。
キリストは十字架を負われ、そこで自分の善悪判断を捨てられ、ただ御父のみこころに委ねられた。
私達もキリストにならい、自分で善悪判断する生き方を十字架にはりつけ、それを死に渡し、いのちなるお方イエス様と共に、十字架上で両手離しで御父に自らを委ねるなら、いのちを得るのである。
神のような開かれた目で善悪判断する生き方を止め、呪いの木に架って下さったキリストといういのちの実を食べ、命を得る皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
どの土地となるか(マタイ13:1-23)
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群衆がイエス様の所に大勢押しかけたので、イエス様は舟に乗り、岸にいる群衆に向かって口を開かれた。
群衆は、世の隠された秘密を解き明かすような話や、心打つ感動物語を期待していたかもしれないが、イエス様の口から出たのは、あまりに短く平坦でオチも無い話、種蒔きの話であった。(マタイ13:3-9)
多くの人が、イエス様の話は大した事ないな、噂ほどではなかったな、と思った事だろう。ところが、この種まきのたとえは、多くの預言者や義人達が聞きたいと切に願って来た、天の御国の奥義だったのである。
多くの群衆はそのたとえの真意を知る事無く帰っていったが、弟子たちはイエス様の所に来て、聞いたので、そのたとえの真意を教えていただく事ができた。
天の御国の奥義を知る事がゆるされている人とは、弟子達のようにイエス様の所に「来て」「聞く」人である。
イエス様に聞かぬは、永遠の恥。イエス様に求める姿勢、探す姿勢、叩く姿勢を持っている人は、さらに与えられて豊かになり、それらを持たない人は、持っているものまでも取り上げられてしまう。
「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。」(マタイ13:18-19)
イエス様が語られた「種」は御言葉で、それが蒔かれる土地は人をあらわし、そして人には四タイプある。
第一のタイプの人は、「道端」の人。道端は色々な人や獣が来ては過ぎ去り、地面は踏み固められている。
こういう人は、世の人やテレビ、ラジオ、ネットなど、世の情報の往来を見聞きしては思い巡らし、御国の言葉さえも膨大な情報の一つとして、心に植える事なく、聞いてもすぐにサタンがそれを持ち去ってしまう。
テレビやラジオ、インターネットなどの内容は良く覚えていても、語られた御言葉はさっぱり覚えていない、となると、道端の人となっている自分に気づくべきである。
アブラハムが礼拝の捧げ物に群がるハゲタカを追い払ったように、自分という土地は、余計な者の往来を規制し、つとめて余計な情報は入れず、霊的に必要な御言葉を受け入れる土壌を耕すべきである。
第二のタイプの人は、「岩地」の人。表面上は土があるので、種がよく育つだろうと思われがちで、事実、御言葉を聞くとすぐに喜んで受け入れるが、内面は固い岩がごろごろしていて、根を深く張る事が出来ない。
表面上は敬虔そうでも内面は頑なで、御言葉が張るのを頑として受け入れず、自分の心を貫く人である。
例えば、「互いに愛し合いなさい」という御言葉を喜んで聞きはしても、「あの人だけは絶対イヤ」と頑なに自分を貫く時、自分の中に存在する岩を取り扱う必要がある。努めて自らを清くに保ち、内側から主に喜ばれないものを取り除こうとする人に、主は石の心を取り除き、肉の心を与えて下さるが、忌み嫌われるべき心を自分の心として歩む者には、自分の行ないを自分の頭上に返されてしまう。(エゼキエル11:18-21)
第三のタイプの人は、「茨の地」の人。道端のような往来は無く、土の下に岩も無いが、「世の煩い」や「富の誘惑」といった「茨」を自分の中から生えさせ、それによって、御言葉のいのちを窒息させてしまうのだ。
御言葉を読んでも「将来どうなるだろう」「住宅ローンどうしよう」などと言った思い煩いで御言葉を上塗りする傾向のある人は、「茨」に養分を与え育てていると知るべきである。思い煩いは茨の冠となってイエス様の頭を刺し、あくまで茨を生えさせ続けるとやがて呪われ、ついには焼かれてしまう。(ヘブル6:7-8)
苦い根を出させないコツは、よく監督する事(ヘブル12:15)。思いをよく監督し、煩いを膨らませて茨に養分をやる事を止め、御言葉にこそ思い巡らし、御言葉のいのちにこそ水と養分を与え、育てるべきである。
第四のタイプの人は、「良い地」の人。その人は、世の情報の往来は規制され、頑なな心の岩も取り除かれ、茨もしっかり監督して規制され、主に耕された人であり、御言葉のために自らを耕す人である。
そういう人は、御言葉を喜んで受け入れ、芽を出し葉を茂らせ、花を咲かせ、豊かに命の実りをもたらす。
イサクは百倍の収穫を実らせたが、それは彼がアブラハムによって主に自らを捧げ、ペリシテ人に井戸を奪われてもそれを与える、自らをよく耕す人であったからだ。彼はアブラハムに捧げられ、「鍬(くわ)を当てられる経験」を通し、また、ペリシテ人という鍬をも通して、よく耕されたが故に、豊かな実りを見せたのだ。
多くの実を結ぶため、皆さんの土地からは悪しき者達の往来は規制し、内面にある頑なな岩は取り除き、よく監督して「思い煩い」という茨に栄養をやる事なく、主から耕される事をいとわず、よく耕された土地として、多くのいのちの実を結ぶ皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
どの法則に乗って生きるか(ローマ7:14-8:2)
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私達はキリストに似た者へ、清く聖なる者になりたいと願っているが、やっている事はハエのようで、汚い思いに吸い寄せられ、うるさく人に付きまとっては神経を逆撫でさせ、ペタッと汚い思いをくっつけたりする。
聖書に記されている為すべき事は分かっているのに、それができず、かえって、してはならぬ悪を行なってしまう。あたかも自分の中に二つの異なるものが住んでいて、その葛藤の内に、したくない事をしてしまう。
今日は、そうした葛藤から開放される方法を学びたい。
まず、私達はなぜハエのような汚れた行いをしてしまうのか。それは、私達の内に宿る罪の故である。
「そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。」(ローマ7:17)
よく、わたしはサタンの末裔だとか、罪の申し子だとかの「偽り」を思い込まされている人はいるが、この節を良く読むと「罪≠私」であり、私とは別物なる”罪”という楔が、私に打ち込まれている原理を見出す。
罪は外来性のものであり、アダムとエバが自分の意思を用いて善悪の知識の木の実を取って食べ、神から離れ自分の善悪判断で生きる生き方を”選択”してしまった時、この楔が打ち込まれてしまったのだ。
皆さんに犬が噛み付いて、痛くて、のた打ち回っている時、「のたうち回る自分が悪い」と言って自分を打ち叩くだろうか?いや、犬を打ち叩くはずである。同様に、罪にのたうち回る自分を、滝に打たせても、冷水を浴びせても、その他あらゆる修行も、無意味である。打ち叩くべきは、自分ではなく、罪である。
この罪に対し、どう対処したら良いのだろうか。
キリスト者が葛藤する原因が、21−23節にある。この節で「原理」とか「律法」とか訳されている言葉は、皆、同じギリシヤ語「ノモス」という言葉で、「法則」という意味である。
これらの節の中から、3種類の法則を見出す。第一の法則は「神の法則」。しかし、からだの中に異なった第二の法則があって、「心の法則」(第三の法則)に戦いを挑み、「罪の法則」(第二の法則)のとりこにしている。これが葛藤の原因であり、これら三つの法則のせめぎあいのために、したい善が出来ないのだ。
つまり、事は頑張りとか人格とかの問題ではなく、法則の問題である。
同じ60kgの女性がいて、一方は人格者で、他方は悪人だとする。体重計に乗ると、人格者はボーナスで体重計が30kgを指し、悪人のほうはペナルティで90kgを指す、などという事は、ありうるだろうか?
そんな事は有り得ない。法則に反するからである。法則がそうなら、別の法則によって対処するものである。
パウロは、24節では自分はみじめだと叫んでいるのに、25節では喜びに溢れ感謝を叫んでいるのはなぜか?それは、対処方法を見出したからである。そう、対処方法があるのだ!私達にも。
「キリスト・イエスにある”いのちの御霊の法則”は、罪と死との法則からあなたを解放した」(ローマ8:2)
この第四の法則”いのちの御霊の法則”こそ、罪と死の法則に対抗する唯一の手段である。
この世には重力の法則があり、それに縛られている限り人は地上から離れる事はできない。
ところが、ライト兄弟が飛行の法則を発見し、飛行機に乗る事で地上を離れる事が出来るようになった。
同じように、キリスト・イエスがいのちの御霊の法則を開放し、私達も罪から離れる事が出来るようになった。
どうしたらこの法則に乗っかる事が出来るのだろうか?
それは、皆さんの継続的な選択の問題であり、肉によらず、霊によって歩み続ける選択によって、である。
欽定訳のローマ8:1を訳すと「こういうわけで、今や、<肉によらず霊によって歩み続ける>キリスト・イエスにある者は、罪に定められることがない。」となる。(ネストレの底本からは上記<カッコ部分>がなぜか削除されている。)
命の御霊の法則に乗り続けるには、肉によらず霊に従って歩み続ける事によって、である。
あらゆる場面において、罪に対して死んだ者であると「仕分け」し、キリスト・イエスにあって神に生きている者であると「仕分け」する事である。(ローマ6:11)
私達の死ぬべき体を、罪の支配や情欲に「委ねない」と選択し、死人の中から生かされた者として、自分自身を神に捧げ、自分の体を義の武器として神に捧げる事を、意思で決定するのである。(同12-13節)
私達はアダム以来、選択によって罪と死を取り入れてしまった。故に、選択によって、救われるのだ。
御言葉によって正しく仕分けし、霊に従って歩む事を選択し続け、いのちに歩む皆さんでありますように!
肉と御霊、どちらを歩むか(ローマ8:5-17)
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肉によって歩むか、それとも御霊によって歩むかによって、全く別の「永遠」が待っている。
まず、肉によって歩む人の歩んだ結果の実は、ガラテヤ5章の19〜21節にある通りである。
その人は、人の道を踏み外した快楽を求め、神でないものを神として拝み、自分の方向性を阻む人に対して争いを起こし、党派を組んで分裂を促すような行動パタンがあり、礼拝や賛美などの聖なる事に、何の意欲も感動も無いが、遊興や飲み騒ぐなど、世の事に関してはとたんに目を輝かせる性質がある。
「肉にある者は神を喜ばせることができません。」(ローマ8:8)
「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」(ローマ8:6-7)
肉にある人は、どう頑張っても、神の律法に服従できず、むしろ聖徒たちの歩みを邪魔する。
彼らは聖徒の交わりの中にいても、御言葉や礼拝の恵みの喜ばしさを、理解できず、むしろ、世のうわさ話や趣味享楽の話題によって聖なる雰囲気を、俗なる雰囲気で上塗りしようとし、自己栄光化を促し、妬みや嫉妬に促され、聖徒の交わりを分裂へと引きずり込み、肉のリストにある実を結ばせるのみである。
肉に従って歩む人は奴隷であり、やりたくない事ばかりやらされるが、御霊に導かれるなら、神の子である。
「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。」(ローマ8:14-15)
肉の実ばかりを結んでどうしようもない、という人、そこから離れたい、という人は、肉によって歩む事を止め、御霊によって歩む事を始めれば良いわけである。
一体どうしたら御霊が与えられるのか。どうしたら聖霊に満たされるのか。それは、意思決定の問題である。
「あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。」(ローマ6:12) さて、この御言葉から、私達の死ぬべきからだを罪の支配に委ねて、情欲に従わせるか、従わせないかは、誰に責任があるだろうか?当然、私達の側にある。
「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(ガラテヤ5:16)この御言葉からも、御霊によって歩む事は、私達の側の責任である事が明白である。
御霊に従って歩むには、多少の努力が必要である。
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。・・・とすればなおのこと、天の父が、求める人達に、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ11:9-13)
ただ口を開けて待っていれば、自動的に御霊が注がれる、と思ったら、間違いである。
求め、探し、叩く事は、骨折れる事だが、自分の肉のやりたい事を降ろし、主の故に骨折り、昼夜となく主に祈り求める聖徒に、主は聖霊を与えて下さらない事はない。
肉体や精神を鍛錬して御霊の実を結ばせようとする「がんばり」は、お門違いである。御霊抜きにして、いくら頑張っても、ムダである。なぜなら、肉は神に服従できず、反抗する、と書いてあるからである。
肉のがんばりを捨て、御霊によって歩む事を選択し、聖霊が与えられるよう、求め、探し、叩く事である。
御霊に従って歩むキリスト者は、ガラテヤ5章22〜23節にある御霊の実を結んでいく。
生活は喜びに溢れ、不安ではなく平安に満たされ、自分を制し、寛容さや親切さに満ちた柔和な人となり、悪意ではなく善意によって物事を判断し、誠実な人として人々から尊敬され、好かれ、もっとこの人と付き合いたいと思われるようになって行く。人を愛し、人々はその愛に感化され、愛が広がるようになっていく。
御霊に導かれるなら、神の子供であり(ローマ8:14)、もはや奴隷ではなく「子」とする霊を受けたのだ。
「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」(ローマ8:17)
神の子にふさわしいたしなみを身につけ、聖なる品性を纏い、御霊の実を豊かに結ばせる、豊かな人生を生きていく皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
どちらの霊を受けるか(エペソ2:1-7)
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霊には色々な種類がある。聖書に出てくる霊でも、おくびょうの霊、奴隷の霊、おしとつんぼの霊、病の霊、占いの霊など、色々あるが、それら悪しき霊はサタンをかしらとし、空中に勢力の座を置く「この世の霊」であり、人に入ってはその人に様々な悪しき事を行わせ、災いへと導き、滅びへと向かわせる。
それに対し、神の元から遣わされた霊すなわち「聖霊」があり、その霊はイエス・キリストを告白する。
聖霊を宿し聖霊に導かれて歩む人は、愛、喜び、平安など、様々な良き実を人生において結ぶ。
主を知らずに生きている生来の人は、元々、世の霊に縛られて生きてきた。
彼らは罪の中にあって、この世の流れ(時代、流行)に従い、空中の権威を持つ支配者に従って歩んでいたが、憐れみ豊かな神は、その大きな愛の故に、罪過の中に死んでいた私たちをキリストとともに生かし、キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所に座らせて下さった。(エペソ2:1-7)
空中、そこには、雑菌のごとく「この世の霊」が漂っており、それらの霊には感情的・意識的な色合いがあって、類似した色合いの人に宿ろうとする。
たとえば、嫉妬深い人には嫉妬の霊が、病んでいる人には病の霊が付着しやすい。
宿主である人は、色合いの似た霊を引き寄せ、その霊はさらに類似した霊を呼び寄せ、そうしてたくさんの霊を抱えてしまう人もいる。(マルコ5:1-20、マタイ12:43-45)
それらの霊に羅患しないコツは、風邪の予防と同じで、御言葉の水でうがいをし、イエス様の血によって消毒・殺菌し、イエス様の愛で心暖かくし、世から何か汚れを受けた、と思ったなら、すぐに真の医者であるイエス様の所に行く事であり、イエス様の元に行くなら、いかに多くの悪霊につかれていても、治癒される。
健やかな体なら多少の風邪菌は何とも無いように、イエス様の健全な教えによって、いつも健全さを保っているなら、空中の諸霊も恐れるに足りない。
イエス様を主としている事、それは全ての面における健やかさと祝福の道である。
イエス様とサタンは、対等ではなく、権威的上下関係にあり、イエス様は最も上、サタンは遥か下である。
この世の霊は、決してイエス様には勝てず、聖霊に支配される人には、悪しき者は触れる事ができない。
私達が救われるのはイエスを「主」とする信仰により、それはいわば、自由意思による「主人転換」である。
私達の中の王座には、一人の主人しか座る事ができない。生来の人は、その王座に「自分」を据え、自分が人生のハンドルを握って生きていたが、その人達はこの世の霊に縛られ、滅びへと向かっている。
しかし、その王座にイエス様に座っていただき、イエス様に人生のハンドルさばきを委ねるなら、すなわち、イエス様を「主」とするなら、もはやサタンも悪霊も、その人に何もできない。サタンの支配からイエス様の支配へ、滅びから救いへ、死からいのちへと転換される。貧しさから豊かさへ、病から健やかさへ、嘆きから喜びへ、呪いから祝福へと、人生のあらゆるものが、良きものへと、造り替えられるのである。
主は、人の自由意思を尊重されるお方で、たとえ主にある救いの道が示されたとしても、それを拒否し、不従順に歩む、という事も出来る。しかし、そのような歩みをした人は、前の状態より、もっと悪くなってしまう。
サウル王は不従順を続けた結果、聖霊が取り上げられ、悪い霊にさい悩まされた。それでもなお頑なに不従順を続け、自分を王とし続けた結果、とても悲惨な最後を遂げてしまった。
神の目に見えない本性が示され、神の永遠の力と神性が、示されていながら、その神を知ろうとも、あがめようとも、感謝しようともしないなら、神は彼らをその心の欲望のままに汚れへと引き渡し、むなしい思いに、暗い心へと引き渡されてしまうのだ。(ローマ1:20-32)
しかし、イエス様を慕い、御言葉に従順し、さらに御元に近づこうとする意思のある人には、聖霊が与えられ、その人は御霊によって導かれ、いつも潤い、決して渇く事が無い。
『イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。』(ヨハネ7:37-39)
