メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ
祝福されたら、どうするか?(申命記26章)
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『あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊が殖え、銀や金が増し、財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。』(申命記8:12-14)
私たちは、食べて満足する事や立派な家が建つ事、持ち物が増え、財産が増す事は大好きで、是非そうなるようにと、良く祈る。しかし、そのような祝福を受け、幸いを受けた後、主とどのように関わっていくか、という事こそ、今から心がけ、しっかりと頭の中でシュミレーションしておくべきである。
私達が幸いを得た時、どのようにすべきか。それは、申命記26章に詳しく書かれてある。
私達が祝福され、幸いを受けたなら、まず、主が指定された場所へ行って感謝し、礼拝するようにと、定められている。すなわち、任務に就いている祭司の所へ行き、自分が幸いになった事を主に報告し(同3節)、祭司はそれを主の御前に捧げる(4節)。
そこで私達は次のように告白する。自分はかつて、いかに取るに足りぬ者であり、いかに弱く人々から苦しめられていたかを(5-7節)。そして、主に向かって叫んだ時、主がいかに力強い御手でそこから救い出し、主がいかに良き地を与えて下さったのかを。(8-9節)
そうして、主が与えて下さった祝福の初物を捧げ、礼拝し(10節)、主が与えて下さった恵みを、レビ人すなわち主の働き人と、在留異国人すなわち私達の内にいる身寄りのない人と共に喜ぶのである。(11節)
祝福を受け幸いを得たら、それで終わりではない。主が命じられた事を、守り行い続ける事こそ大事である。
レビ人や在留異国人、孤児とやもめには、土地や仕事などの分け前が主から与えられていないため、それら分け前が与えられている聖徒は、彼らに祝福の分け前を与え、満足させる義務が与えられており、それを守る聖徒には、主が全ての手のわざを祝福して下さる事を約束しておられる。(申命記14:28-29)
そうしてそれらの義務を果たした後、主に「私は主の御声に聞き従い、すべて命じられた通りに行いました」と、主に報告するなら、次のように祈る事ができる。
「天にあるあなたの聖なる住まいから見下ろして、あなたの民イスラエルを祝福し、あなたが先祖に誓われたとおりに、わたしたちに授けられた地、乳と蜜の流れる土地を祝福してください。」(申命記26:12-15)
私達は何かと、乳と蜜の流れる地に「入る事」や「居る事」を求めるが、それよりも、私達自身が主の御声に聞き従い、祝福の子であり続ける事のほうが、はるかに大事である。
もし私達が御声に背き続けて「呪いの子」となってしまうなら、たとい私達のいる場所が乳と蜜の流れる地であっても、それは私達に対して「呪いの地」となってしまう。
現にイスラエルの民は、乳と蜜の流れる地にいながら驕り高ぶり、主を忘れ、幾度にも渡る預言者による警告に耳を傾けなかった結果、その「乳と蜜の流れる地」に居ながらにして、病や剣、ききん等で屍をさらし、ついにはその地から吐き出されてしまった。
主が私達の祈りに答えて下さり、私達が望む高いポジションに登りつめ、収入が多くなり、安住の地を得た時こそ、注意して主の御声に聞き従い、祝福の子であり続けるようにと、つとめるべきである。
傲慢になり、そのようにして下さった主を忘れてしまうなら、かつてのイスラエルの民のように、それら祝福は奪われ、以前よりさらに悪い状態になってしまうのだ。
神が定めた律法を守り行うなら、祝福して下さる、と神は約束して下さったが、人は律法を全て守り行う事が出来ない。しかし、律法を成就して下さったお方であるイエス様を主とし、主と一つとなる事は出来る。
すなわち、自分が自分の主人である事を降り、自分の人生のハンドルさばきをイエス様に委ね、イエス様を自分の主人とし、イエス様の御声に聞き従うと明言するなら、主は次のように明言される。
『あなたに約束したとおり、あなたは主の宝の民であり、あなたが主のすべての命令を守るなら、主は、賛美と名声と栄光とを与えて、あなたを主が造られたすべての国々の上に高くあげる。そして、約束のとおり、あなたは、あなたの神、主の聖なる民となる。』(申命記26:16-19)
良くなったら、どうするか?(ルカ17:11-19)
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イエス様がエルサレムに向かう途上のある村で、10人のらい病人が遠くに立ち、イエス様に叫んだ。「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」(ルカ17:13)
この病に罹ると、神経は麻痺し痛みや熱さなど感じないため、怪我しても正常な対応ができない事が多い。
らい病は律法では汚れているとされ、出歩ける所も制限され、家族にも会えず、隔離されて生きるしか無い。
当時は治療法の無い病として恐れられていたが、私達も霊的に、この病に罹っているようなものである。
私達は、罪という癒しようの無い病によって汚れ、霊の感覚が麻痺しているため、嘘をついたり、人を傷つけたりして、自分自身をどんどん罪のとげで刺しても、全く気付かず、やがて死に至ってしまう。
彼らはイスラエルの民から隔離されなくてはならなかったように、私達も、以前は救いから遠く離れ、空中に権威を持つ支配者・サタンに縛られ、肉欲の望むままを行い、滅びるべき者達だった。(エペソ2:1-8)
しかし、憐れみ豊かな神は、私達を愛して下さったその大きな愛の故に、罪の中に死んでいた私達をキリストと共に生かし、共に天の所に座らせて下さる恵みの道、救いの道を、私達に与えて下さった。
らい病人達がイエス様に「あわれんでください」と遠くから叫んだように、救いから遠い私達もイエス様に「あわれんでください」と叫ぶなら、救いの道は開かれるのだ。それはイスラエル人も異邦人にも、違いは無い。
イエス様は、彼らに手を置いて祈るなどはせず「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。
祭司の所に行って体を見せるのは、本来体が治癒を見せてからだが、まだ兆候も無いのに、そう指示した。
もし祭司から「きよめられた」という宣言が出たら、らい病人としての隔離生活は終わり、家族の元に戻ってイスラエルの民としての生活が出来、それまでしたくても出来なかったあの事この事も出来るようになる。
彼らはまだ癒しの兆候も無い内にイエス様の言葉を信じ、言われた通り実行したら、その最中に癒された。
しかし、自分を癒して下さったお方の所へ引き返し、感謝をささげたのは、たった一人だけだった。
主は「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか」と言われ、悲しまれた。(ルカ17:17-18)
神を知らぬ人でも、大抵祈る。私を幸いにして下さい、病を癒して下さい、富ませて下さい、と。
しかし、自分が癒された後、富んだ後、自分をそのように幸いにして下さったお方に、何を感謝し、そのお方とどのように関わって生きて行くのか、という事が、すっぽりと抜けている人の何と多い事だろう。
癒された9人は、イエス様の所へ戻って神をほめたたえる事なく、祭司の所で清められた事のお墨付きをもらったら、それぞれ自分の好きな所へ行き、やりたかったあの事この事をしに、さっさと出かけてしまった。
主は、願い事を何でも叶えてくれる都合の良い四次元ポケットではないし、祈りは、癒しや富、幸いを引き出すためのキャッシュカードでもない。主は人格ある御方であり、祈りはその御方との麗しい交わりなのだ。
主が嘆き悲しみから開放し、病を追い出し、貧しさから解放して下さったのなら、すぐに感謝するために戻り、以前、悲しみや病、貧しさのあった隙間を、主への賛美や御言葉、奉仕で埋めなくてはならない。
癒されても感謝する気が無いなら、むしろ癒されない方が良いし、奇跡を見ても信じる気が無いなら、奇跡など起こらないほうが良い。なぜなら、癒されても、奇跡を見ても、なお主への方向転換(悔い改め)が無いまま、依然として罪を犯し続けるなら、前よりも、もっと悪い状態になってしまうからだ。
悪霊が出て行った時、そこを空き家の状態にしておくと、それは悪霊の好む飾り付け(コスメオー)となり、次に悪霊が帰って来た時、さらにたちの悪い悪霊を七つを連れ込み、前よりもっと悪くなってしまう。しるしや奇跡を見ても悔い改めず、主の元に来ない者は、そのようになってしまうのだ。(マタイ12:38-45)
主イエス様に癒され、良くしてもらったのなら、主の元に戻って感謝を捧げ、主の元に留まるべきである。
私達が「この事が解決したらあの事この事をしたい」という、主・不在の願望を持っている内は、解決は先延ばしになる可能性が大きい。なぜなら、自己中な動機を持っている限り、逆に災いになってしまうからだ。
天国とは、単に快適で気持ちの良いお花畑ではなく、神と共に住み、神と永遠に関わりを持つ所である。
全能であり完全な愛で愛して下さるお方・イエス様と、関わり続ける事。これこそ私達にとって全てである。
主に癒された後、幸いが与えられた後、富が与えられた後、主とどのように関わって行くつもりだろうか?
願いが聞かれ幸いになった暁にはしっかり感謝し、主といつまでも関わり続ける皆さんでありますように!
安息に入るために(ヘブル4:1-11)
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どういう人が安息に入れるか。それは、聞いた御言葉に自分の信仰を結びつけ、御言葉に従う人である。
「彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。 ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。」(ヘブル4:2-3)
御言葉に聞く事、聞いた御言葉を信じる事、それがどれほど大切であるかは、強調してし過ぎる事は無い。
主の御言葉が語られる時、私達の取るべき唯一の姿勢は、それに聞き、従順し、服従する事。
御言葉を聞いても心背ける者、不従順な者は、決して安息に入れず、そこに例外は無い。
そしてまた、御言葉に聞き従う事は、どんな尊い捧げ物よりも主に喜ばれる行為である。
『サムエルは言った、/「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、/燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、/聞くことは雄羊の脂肪にまさる。』(1サムエル15:22)
この御言葉の通り、どんなくちびるの果実も、どんな多額の献金も、どんなに身を粉にして働く奉仕も、御言葉に聞き従う事が無いなら、主はそんな捧げ物を忌み嫌われる。
サウル王が退けられてしまったのは、彼が物欲におびき寄せられ、「こんな高価な良いものを滅ぼすのは惜しい、主に捧げるという口実でこれらを残すなら、主もきっと許して下さるだろう」などと、自分の都合の良いように、御言葉に身勝手な解釈を混ぜ込んだからである。
『そむくことは占いの罪に等しく、/強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。あなたが主のことばを捨てたので、/主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」。』(1サムエル15:23)
主は、混ぜ物つきの捧げ物や奉仕を、忌み嫌われる。実に、主の御言葉よりも、自分の好むことを優先させる事は占いの罪であり、強情に御言葉を跳ね除けるのは、偶像崇拝の罪である。
主の御心から離れた所で、いかに預言をし、悪霊を追い出し、奇跡を行ったとしても、かの日、主から『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ。』と言われてしまう。(マタイ7:21-23)
ここの「不法(anomia)」とは、法に則らない事、法を超過する事、法を乱暴に扱う事である。
大いなる奇跡を沢山経験すれば良いものではないし、偉大な指導者に導かれれば良いものでもない。
偉大な指導者・モーセに率いられ、多くの徴や奇跡を見、体験し、奇跡を食べ、飲んだ、かの60万以上の民のうち、安息の地に入れたのは、わずか二人だったのは何故なのか。そこに思いを馳せるべきである。
安息に入れず荒野に屍を晒したのは、不信仰のためであり、従おうとしなかったからだ。(ヘブル3:15-19)
結局大切なのは、法に則る事、すなわち、御言葉に聞き従い、御心に歩む事である。
出エジプトの民が荒野で滅んだのは、律法の何か一つを違反したからではなく、神の定めた指導者モーセに従おうとしなかったからだったが、そのモーセは、後の時代には自分と同じようなひとりの預言者が現れるから、彼に聞け、と言った。(申命記18:15) その「彼」こそ、主イエスキリストである。
「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)
私達が聞き従うべき「御言葉」とは、365の「するな」と248の「せよ」から成る律法の全てではなく、全律法が指し示すお方、すなわち、「ことば」そのものなるイエスキリストである。(ガラテヤ2:16)
律法を全て成就して下さった方・イエス様に聞き従い、歩調を合わせて共に歩むなら、全ての「あれやこれをしなければ」という心配や重荷は降ろされ、たましいに安らぎが来る。(マタイ11:28-30)
そして安息に入った者は、自分のわざを終えて、休む。(ヘブル4:10)
自分の能力、自分の持ち物、そうした自分の何かに頼りの源を置く生き方が、十字架の死に渡され、これからは、キリストに生きて頂き、キリストに勝利して頂き、私達はそのお方と共に歩んで行く生き方が始まる。
これこそ、安息の生き方である。
「あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。」(ヘブル3:13) この安息に入るように努め、かたくなになって荒野で滅ぶような人が 誰一人出ないよう、日々励まし合い、勧めあって、信仰生活を歩んでいく皆さんでありますように!
タラントのたとえ(マタイ25:14-30)
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「天国は、ある人が旅に出る時、その僕どもを呼んで自分の財産を預けるようなものである。すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。」(マタイ25:14)
「タレント」の意味は、元々、この聖書の「タラント」に由来し、人の才能、能力を表す意味で使われているが、一タラントは6000日分の日当に相当し、日当を6000円としても36,000,000円という大きな額である。
このたとえは、主キリストが再臨されるまでの、一見主が不在であるかのような間に、私達・主の働き人達に預けられたタラント、すなわち「霊の賜物」(?コリ12章)と、「肉の賜物」(生まれながらに与えられた能力や財産など)をいかに扱い、運用するかによって、再臨の時、各々異った報酬を受ける事を示している。
今を生きる私達は預けられたタラントを預け主であるキリストのために生かし運用する事が求められている。
タラントは本来、預かり物であり、私達はそれを、地上で自分を楽しませるためでもなく、人に披露して自慢するためでもなく、主のために、天の本国のために運用する、という、本来の目的を忘れてはならない。
キリスト者の地上生活は、天における生活の準備であり、試験でもある。やがて来る清算の時、主人からの評価ポイントは、任されたタラントでも、増やした額でもない。
世に出て行き、それを用いたか、用いなかったかのみであり、用いた者は恐れなく大胆に御前に出られる。
人は思うかもしれない。もし事業に失敗して、主人の資産を目減りさせてしまっていたら、どうするのか、と。
しかしこの譬えは、用いたか用いないか、という二択しか存在せず、目減りさせた場合の事例が無い以上、御国のための働きをする場合、「損」とか「目減り」といった結果は存在せず、そんな事考えなくて良いのだ。
主は私たちが歩むようにと予め良い行ないを備えておられ、私達はそれに歩むべきである。(エペソ2:10)
タラントの最悪の運用方法は、地中に埋めて、隠す事である。与えられた賜物、与えられている機会を全く用いないままに、キリストの前に出るのは恐ろしい事だと、彼は薄々感づいていたので、言い訳をする。
『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。』 主人はかなりの巨額をこのしもべに預けていたのに、「まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人」呼ばわりするとは、邪推もいい所である。
彼は、何もしない日々の中、他のしもべがタラントを活用してどんどん利益を積んで行くのを横目で見、彼らが利益の中から食費や養育費、レジャーなど豊かに使っているのも横目で見つつ、ねたみと邪推だけを増幅させ、地中に埋めたタラントに一切手を付けないまま、自前の労苦だけで貧しく生活し、タラントを増やすやりがいも、報酬で楽しむ事とも無縁のまま、ただ時間を食いつぶすだけだったのである。
かなりの高額を銀行に預ければ、かなり利子がつくのは容易に考えられるのに、彼はその利子が自分のものにならぬ事を知っていたため、それさえ厭い、地中に埋めるに至ったわけである。
主は、きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方であり(詩篇18:26)、その彼の言ったその言葉どおりに彼をさばかれる。(ルカ19:22) 彼は外の暗闇に追い出され、泣いて歯ぎしりするのだ。
主から任された資産を、ただ自分のために用いるなら、放蕩息子のように、ただ湯水のように浪費してしまうのみである。(ルカ15章) もし今、タラントを活用できていない、タラントを活かすための働きが閉ざされている、と感じるなら、地中に埋めていないか、自己本位に使おうとしていないか、吟味する必要がある。
人は、自分や他人のタラントの額や仕事の内容を気にするが、主は「誰のために」という動機を探られる。
今、働いている動機は、誰のためか?もし自分の満足や栄誉、自分が気持ちよくなる為に働き場を求めているなら、主は道を差し止められ、ご自身に立ち返るのを、待っておられる。
タラントは天からの預かり物で、自分のためにではなく主のために用いるのが本来の目的だ。
多くを任せられる者とは、主人や他人が見ていない時であっても、忠実に仕事を果たす、思慮深いしもべであり(ルカ12:42-44)、人が見ていない時には賛美や祈り、奉仕をしない者は、不忠実な者である。
預かったタラントを主のために、天の財布を増やすために恐れず活用し、御国のビジネスで多くを稼ぎ、主から「良くやった、良い忠実なしもべよ」と喜ばれ、さらに多くを任される皆さんでありますように!
立派な子「バルテマイ」になるには?(マルコ10:46-52)
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イエス様が弟子たちや大ぜいの群衆と共にエリコから出かけられたとき、テマイの子、バルテマイ(意味:立派な子)という目の見えない人が、道ばた(highway side)にすわって、物乞いをしていた。(マルコ10:46)
多くの人達が彼を見下ろし、彼の傍を過ぎて行った。人々にどんな目で見られたのかは彼には見えない。
ある人は近づいて、彼に幾らかを施し、ある人は馬車で砂埃を巻き上げながら、目もくれずに行った。
成人した彼を養ってくれる家族は、きっといなかったのだろう。自分のみじめな姿を晒すのが嫌だからと言って、人通りのない裏路地にいては、物乞い稼業は成り立たない。大通りに出て、人が通る音を聞く度に、明瞭に声に出して憐れみを求め、落としてくれる恵みでその日の糧を得る、という日々を送っていた。
彼は、目が見えない事によって、世の事柄の多くの点において、周りの人達に比べて遅れを取っていた。
周りに比べて多くを経験出来ず、多くの楽しみも、知らずにいた。人はそれを不条理と呼び、何のためにそうなったのか、誰のせいで、と議論する。イエス様の弟子達でさえ、そう議論した。(ヨハネ9:2)
しかし主イエス様は、誰のせい、とは言われない。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(同3節)と言われる。
イエス様の辞書には、誰々と比べて、などという文字は一切無いし(ヨハネ21:22)、世の楽しみを味わったかどうか、など、救いには一切関係無い。それどころかむしろ、それらは救いを得る上で邪魔にさえなる。
多くを経験できれば良い、多くの楽しみを知れば良い、というものではない。バルテマイは、多くを知らないが故に、多くの人が見過ごしがちな、そして、真に人間に必要な事を、はっきり知っており、求めていた。
すなわち、ダビデの子孫から救い主が現れる事、そして、ナザレのイエスと言われるお方が、その証拠としての奇跡を行なっており、その御方なら自分を救うことが、きっとおできになる、と、信じていた事である。
ある日彼は、通りがいつもと違う興奮に包まれ、何か喜ばしげな雰囲気であるのを、感じ取った。
何事かと人に聞くと、そのナザレのイエスがお通りだ、と言うではないか!そこで彼は声を張り上げた。
「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください!」
バルテマイが助けを求めて叫んだのは、ダビデの子イエス様に、である。決して、イエス様に群がった群衆に、ではない。
ところがキリスト教会では、なんと多くの人達が、イエス様に助けを求めるのではなく、イエス様を求めに来た「人間たち」に、助けを求めているだろうか。
バルテマイがもしイエス様からではなく、イエス様をネタとして群がった群衆から、恵みを得ていたのであれば、そんな得た物は、すぐに無くなってしまう。
同じように私達も、教会のいわゆる「優しい人達」を当てにし、彼らから助けを得ようとして、イエス様に助けを求めないとしたら、バルテマイが得たような根本解決など、決してあり得ない。
多くの人達は、イエス様を、ナザレの田舎出身の一有名人のように呼ぶ。しかしバルテマイは、イエス様を自分を救って下さるお方だと信じ、来たるべきダビデの子孫、救い主として呼んだ。
大勢の人々は、彼を黙らせようと、たしなめた。私達も救いに近づこうとする時、イエス様を呼ぼうと、声高に叫べば叫ぶ程、世は、周りは、邪魔をする。しかし、そのような時は私達も、バルテマイのように、イエス様を呼ぶ事を、止めてはならない。イエスこそ来たるべきメシヤであると、叫ぶ事を止めてはならない。
イエス様は「ダビデの子よ、私を憐れんで下さい」と叫ぶ声に耳を傾け、足を止め、その人を呼ばれる。
バルテマイは、イエス様が自分のことを呼んでいる、と分かると、上着を脱ぎ捨てた。
その上着は、それまで彼の人生の色々な場面で、寒さや日差し、砂埃から守ってきた大切なものであろう。
しかし同時に、彼の汗や垢、砂埃まみれで、ダビデの子イエスの御前に出るには、相応しくないものである。
私達も、救い主の御前に出る時、自分の汗や垢、ホコリにまみれた大切なものを、脱ぎ捨てるべきである。
たといそれが、どんなに大切であろうとも、主の御前に、自分の汗や涙の成果物は、一切無意味である。
むしろ私達に大切なものは、イエス様から着せていただく贖いの衣である。
彼は自分の足で、手探りで、イエス様にいると思われる方へと、一歩一歩進んで行った。そして何歩か行った時、声があった。「わたしに何をしてほしいのか。」
イエス様は、私達が何を求めているのか、当然ご存知である。しかし私達は、イエス様のほうへと自分の足で手探りでも行き、何をしてほしいのかを、自分の口で告白し、自分の意志を明確に伝えるべきなのだ。
彼は「ラボニ(私の先生)、見えるようになる事です」と答えた。主は、誰の主でもなく、私の主である。
そう告白した彼に、イエス様は「行きなさい、あなたの信仰があなたを救った」と答えられた。
そして彼は見えるようになった。見えるようになったら彼は、イエス様の行かれる所に、ついて行った。
彼には以前の生き方も、以前の上着も必要なく、イエス様との新しい人生が始まった。(2コリント5:17)
私達もイエス様に癒され、神の御技をこの身に受けたのなら、イエス様にどこまでもついて行くべきである。
信仰の競争(ヘブル12:1-2)
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<私達は競技者であり、目標がある>
オリンピックの選手達はメダルを勝ち取る事を目指しているが、私達キリスト者は、何を目指すべきだろうか。
キリスト者の目標は、神によって定められており、それは、御子キリストに似た者へと造り変えられて行く事である。そのためにこそ主は、万事を変えて益とし、私達を最善へと導いて下さるのだ。(ローマ8:28-29)
万事を変えて益として下さる、という御言葉を、何か、神様はやがて自分の願い通りにさせて下さるものだと、勘違いしている人は多いが、主は「ワタシ」の身勝手な願望を成就させるための道具ではない。
私達の益とは?最善とは?それは、御子と同じ姿になっていく事であり、私達が大人になってキリストの満ち満ちた身丈にまで達し、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達する事だ。(エペソ4:11-15)
<競技者であるからには競技するフィールドがあり、観客もいる>
「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」(ヘブル12:1-2)
皆さんは知っていただろうか?私達もキリストにあって競技者であり、そんな私達を見守る観客がいる事を。
私達がオリンピック観戦して、自国の競技者を応援するように、神の国でも、信仰の先人達が、地上というフィールドで競技している「私達」を固唾を飲んで見守り、応援し、自国のために賞を取る事を願っている。
そういうわけだから、私達も、まとわりつく一切の罪の重荷を捨てて、忍耐して走り続けるべきである。
何を目指して走り続けるのか?それは、信仰の創始者であり、完成者であるイエスを目指して。
<この競技にはルールがある>
私達キリスト者は皆、キリストに選びだされ、召しだされた競技者であるからには、ルールを守らなくては、栄冠を受けられない。(2テモテ2:1-8)
競争選手は、スタートの合図と共に、一斉にゴールを目指して走り出すものだが、フライングを繰り返したり、合図が出されたのに走り出さず遊んだりしていたら、失格になってしまう。
同じように、神の国の競技者も、主の合図にフライングをしたり、御言葉のルールを無視して身勝手にしているなら、やがてイエローカードが出され、それをも無視して身勝手を続けるなら、失格者となってしまう。
<私達の競技の内容>
私達のこの人生は、イエスキリストを目指し、障害物を乗り越えつつチェックポイントを通過して行く障害物競争のようなもので、よりキリストの似姿に近づいた者が、より優れた栄冠を勝ち取る事が出来る。
人生という競技において、より高いスコアを出すコツは、イエスから目をそらさず、イエスを目指して走り続ける事に限る。それだから敵陣営であるサタンは、いかにそこから目を離させるか、という事にやっきになる。
障害物競争には数々のハードルがあるが、信仰の障害物競争で立ちはだかるのは、諸々の誘惑である。
ある人は金銭的誘惑というハードルに目を奪われて足止めを喰らい、ある人は性的誘惑というハードルに目を奪われて足止めを喰らって、アドバンテージを逃してしまう。
あるいは、場外の敵陣営から罵声を浴びせられて、気を挫かれたり、悲しんだりして、足が止まってしまう。
あるいは、周りの選手にどんどん先おこされ、取り残されていく自分自身を見て、心萎えてしまう事もある。
忘れてはならない。目を向けるべきは、ハードルではなく、周りではなく、自分でもなく、イエス様だ。
イエス様に目を留めつつ走っているなら、最短コースでチェックポイントを次々に通過できるが、イエス様から目を反らして、世の雑事や心配事にじっと目を凝らし、留まり続けているなら、次に進む事は出来ない。
<私達を待ち受けている栄冠>
「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。」(2テモテ4:7-8)
私達を信仰の選手として召しだして下さった主を喜ばせるために、しっかりとルールを守り、イエス様から目を離させようとする障害物には目をくれず、イエス様だけを見続けて走りぬく皆さんでありますように。
競技を終えるかの日には、雲のように取り巻く証人達の歓声を受けつつ、天に凱旋し、「よくやった、良い忠実な僕よ」と主に褒められ、決して朽ちることのない栄光の冠を、主から頂く皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!
全能者の御翼の陰に(創世記1:1-5)
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「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてを”おおって”いた。」(創世記1:2)
この「おおう」あるいは「抱く」という言葉のヘブル語「ラゥカフ」は、親鳥が卵の上を覆ったり、鷲が雛の上を舞いかけたりする事を意味する。
全ての人もまた、創世記のこの情景に、当てはめる事が出来る。
神は私達人間を、神の似姿として創造されたが、アダムの罪によってむなしくなり、暗闇となってしまった。
しかし主は、めん鳥が卵を温めて孵化の時をじっと待ち、暖かく見守るように、私達が霊において孵化し、御翼の陰を慕い求め、そこに留まるようになる事を、じっと見守り、待っておられるのだ。
私達は主の御霊から離れる事は出来ず、天の高みに登っても、地の深みに下り、よみに床を設けたとしても、主はそこにおられる。主にとって闇は暗くなく、闇の中にいる私達をじっと見つめ、ご自身の名を呼んで御翼の陰へと救いを求めて来るのを、ずっと待っておられる。(詩篇139:7-12)
主は、全ての人がそのように、御翼の陰に宿る事を望んでおられるが、人がそれを好まないなら、そこから離れて、身勝手に行きたい所へと行ってしまう事も出来る。
主はそのような者を嘆息して嘆かれるが、その者は見捨てられ、荒れ果ててしまうのだ。(マタイ23:37-38)
しかし、いと高き全能の神に救いを求め、その陰に宿る人には、以下の守りと祝福がある。(詩篇91篇)
「神はその人に仕掛けられた罠から、陥れる言葉から、救い出してくださる。
神は羽をもってその人を覆い、翼の下にかばってくださる。神の真理がその人の盾となり、夜の恐怖も、昼に飛び来る矢も、恐れることはない。暗黒の中を行く疫病も、真昼に襲う病魔も。
全能者の陰に救いを求めて来る、その人の傍らに、たとい一千の人が、その右にたとえ一万の人が倒れる時すら、その人を災いが襲うことはなく、それを眺めるのみ。神に逆らう者の受ける報いを見ているのみ。
その人が主を避けどころとし、いと高き神を宿るところとするなら、災難もふりかかることがなく、その天幕には疫病も触れることがない。主は御使いに命じて、その人の道のどこにおいても守らせてくださる。
御使いは、その人をその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る。
その人は、獅子と毒蛇を踏みにじり、獅子の子と大蛇を踏んで行く。」
この守りの言葉は、決して空虚な大風呂敷ではない。
ベトナム戦争で聖書を携えていたある米兵は、銃弾を浴びたものの、聖書が弾丸を止め、しかも、その銃弾が止まった場所は、まさしく詩篇91篇のこの箇所で、主が確かに守って下さると教えて下さった。
また、イギリスのウイットルゼイ大佐は、第2次世界大戦で、この詩篇91篇を部下全員に暗誦させ、毎日祈らせたところ、5年間、一人の死者も出さなかった。
主の守りは、信じる者に実際に現実に起こる、確かな盾であり、守りである。
混沌と闇に覆われた地に「光よあれ」という御言葉を送り、光と闇とを分離された主は、全能者の翼の陰に身を寄せる者には、義の太陽として輝き登り、その翼には癒しがある。その者は牛舎の子牛のように外に出てはね回り、悪者どもは踏みつけられ灰になる。(マラキ4:2-3)
ボアズは全能者を頼りとして来たルツに言った。「どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。」(ルツ2:12)
ルツはボアズに言った。「わたしは、あなたのはしためルツです。どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です。」(同3:9)
私達もルツのように言うべきである。「あなたは私を絶やさぬ責任のある方です。」「その翼を広げて、この者を覆って下さい」と。
全能者なる主の御翼の陰に身を寄せて隠れ、あらゆる災いから守られ、主の懐で養われ、安全に防御されているという平安の内を歩む皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!
あなたは甘いりんごのよう(雅歌2:1-7)
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雅歌は聖書の他の書とは明らかに違う。 読んでいて恥ずかしくなるほど男女の愛の悦びが生き生きと表現され、近寄りがたい崇高さも、規律的な厳しさ、難しさも、一切無い。
この書は、ユダヤでは30歳以下の者が読む事を禁じられた。 男女の愛の悦びは、成熟して結婚の契を交わした男女のみに相応しいように、キリストとの関係も成熟さを増せば増すほどに、宗教的な束縛感から開放され、自由になり、悦びに満ち、あたかも新婚夫婦のような悦びの関係に入ってくる。
キリストと弟子達は、はじめは師弟関係(ヨハネ13:14)だったのが、主が命じる事を行なう内に、友の関係となり(同15:14)、十字架の後には兄弟関係(同20:17)となり、やがては、キリストのからだなる教会に接合され、成熟する事によって、花婿と花嫁の関係となっていくのだ。(黙示録21,22章)
地上のものは全て天の写し、影であり、新婚の甘い日々もまた、我々がやがて天で味わう事の影である。
「私の愛する方が若者たちの間におられるのは、林の木の中のりんごの木のようです。私はその陰にすわりたいと切に望みました。その実は私の口に甘いのです。」(雅歌2:3)
恋心の乙女は、意中の男性以外が雑木に見えるように、私達も成熟すればする程、巷の神々や権威ある者達、世の富や宝は、全てどうでも良く見えて来て、唯一頼りとしたいと思うのは、キリストのみとなっていく。
主の羊は、真の羊飼いである主の声を聞き分ける。 彼らは、いと高き全能なる神の元に身を寄せ(詩篇91)たいと心底願い、その陰に宿り、御口から出てくる御言葉を甘いりんごのように慕い求めるのである。
「あの方は私を酒宴の席に伴われました。私の上に翻るあの方の旗じるしは愛でした。」(雅歌2:4)
主は私達に、敵の面前で酒宴をもうけ、頭に香油を注いで下さり、盃を溢れさせて下さる。(詩篇23:5)
敵の面前で、私達は「主ご自身」という旗で覆われ、私達の上ではためくその旗印は、愛である。
「干しぶどうの菓子で私を力づけりんごで私を元気づけてください。私は愛に病んでいるのです。」(雅2:5)
干しぶどうもりんごも、他の箇所では、喜びを表している。(2サムエル6:19、イザヤ16:7-10、ヨエル1:12)
男女の愛には喜びと潤いがあるように信仰生活にも喜びと潤いが必要であり、それを主に求めるのである。
「ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださるとよいのに。」(雅歌2:6)
女性にとって、好きな男性の左腕の中に腕枕され、右腕で抱かれている一時は、至福の時ではなかろうか。
それは、女性は男性のあばら骨から取られたからであり、女性の居場所は元々男性の懐だったからである。
男女が並んで歩く時、男性が右側で女性が左側である事が多いのは、男性が利き腕を自由に動かしてリードし、女性は利き腕で男性を離さず、男性にリードされて行く姿が、自然だからである。
ベタニヤのマリアは、イエスの足元というりんごの木の下で、イエスの口からこぼれてくる御言葉という甘いりんごを、いつも慕い求めていた。その場所その時が、何よりの至福の場所、至福の時だったからである。
その心でイエスを慕い求め、イエスの御思いを理解したからこそ、他の弟子達が誰も出来なかった葬りの準備を、唯一、彼女だけがその時を悟り、その準備が出来たのである。
イエスと深い交わりをして御心を知る、という事が無いなら、たとえ神のために良かれと思って何かをしたとしても、それは自分の思いに過ぎず、弟子達のようにとんちんかんな、あさっての事をしてしまうものである。
マリヤは、マルタや弟子達から色々の否定的な言葉を浴びせられてもイエスご自身が直接保護して下さったように、イエスの御翼の陰に宿る私達を、主ご自身が直接的に保護し、敵を𠮟り飛ばして下さるのである。
「エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿をさして、あなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」(雅歌2:7)
かもしかや野の雌鹿は、繊細な動物である。自分を無理矢理恋心へと持ち込むと、すぐヘンな男に引っかかってしまうように、主に対する愛も、無理やり駆り立てようとせず、自然に湧き起こるのを待てば良い。
シャロンの花であるイエスを、甘いりんごのように慕い求め、マリヤのように、主の足元が慕わしくて仕方がなくなるまでに、繊細な主への愛を、自然な形で、大切に育み育てていく皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!
有益な集まりと有害な集まり(1コリント11:17-22)
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「あなたがたの集まりが利益にならないで、かえって損失になっているからである。」(1コリント11:17)
兄弟姉妹は、単に集まれば良い、というものではない。「有害な集まり」というものが、確かに存在する。
良い集まりは、人をいのちで満たし、力強くするが、有害な集まりは、人を不安に導き、焦らせ、疲れさせる。
良い交わりと有害な交わりはどうやって見分ければいいか?それは、ガラテヤ5:19-23の、肉の行いのリストと、御霊の実のリストを見比べて、どちらの実を結んでいるかを見れば良い。
その集まりによって、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制が満ちるなら、その交わりを続けるべきである。しかし、その集まりによって、不品行や汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものが増し加わるなら、止めた方が良い。
コリントの集まりが損失になっている理由は、肉の結果である分裂分派がある事だとパウロは言っているが、同時に、本当に残るべき者が明らかにされるためには、分派もやむを得ない、とも言っている。(19-20節)
人が教会から去っていく理由は色々あるが、もし、教会が正しく御言葉を伝え、霊的に問題無いのに、自分の意見や欲する事が通らない、というので教会を去っていくのなら、その人はそのまま去らせれば良い。
なぜなら、教会は、自分の欲望を満足させる場ではなく、主が満足されるべき所だからである。
また、教会の働き人は、人に仕えて人を満足させる、単なる「優しい人達」ではない。
教会の働き人とは、主イエスのために働き、仕える人達である。もちろん主は、人に仕えるように命じておられるが、主を差し置いて、人に優先的に仕えるのは、本末転倒である。
人の満足を求めるあまり、人の拒否や離別を恐れるあまり、御言葉を希釈したり、曲げたりしてはならない。
「そこで、あなたがたが一緒に集まるとき、主の晩餐を守ることができないでいる。というのは、食事の際、各自が自分の晩餐をかってに先に食べるので、飢えている人があるかと思えば、酔っている人がある始末である。」(1コリント11:20-21)
原語の位置から、パウロは極めて強い調子で「そんな飲食は、決して主の晩餐では無い!」と憤慨している。
教会の中で、真に助けるべき弱い人や貧しい人を軽んじ、辱めたりして、躓きを与える者たちがいたのだ。
富んだ者も貧しい者も、共に主にあって一つの食卓に与るようにと、整えられた聖なる主の愛餐を、俗悪なおしゃべりしたり、酔ったり、感謝も無くつまんだりして、貶めてしまった事を、彼は激しく憤った。
「神の教会」は、食べたり飲んだり、寝たり、おしゃべりしたりといった、社交サロン的な、使い勝手の良い施設のような場所だと思ったら、大間違いである。
神の教会は、聖なる主イエスの御体であり、聖なる主に礼拝を捧げ、共に主と一つとなる、聖なる所である。
間違った幻想を教会に求めて来て、物質的・霊的にも食い散らかす者を、主は忌み嫌われる。
パウロはここで、自分の食欲を満たそうと我先に飲み食いする者を叱責したが、それは何も、飲み食いの事だけでなく、聖徒の尊い思いやりや、きよい良心を食い散らかしたり、礼拝の時間を食い散らかしたりして、真にそれらを求めている人たちに、それらが行き渡らないよう食い散らかしてしまう者達も、含まれる。
「神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのか。」(22節) 神の教会とは、キリストの御体である。
「主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招く。あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためである。」(29-30節)
人が良い方向へと変わるのは、教会が支援する食料やお金、良心的な思いやり等ではない。
御言葉を聞いて悔い改める事によってのみ、人は良い方向へ変わるのであり、悔い改めの無い人達に、食料やお金をいくら与えても、それは益にならず、害になるだけである。
私達の集まりの中心は、主イエスであり、主イエスの御体を覚えて、全ての事を行うべきである。(24,25節)
主イエスを覚え、真に必要を覚えている人に支援し、共にひとつの食卓に与り、ひとつ主の御体に与って、ますます純粋で聖なる者とされていく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
アイドル(偶像)を捨てよ(出エジプト20:2-6)
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「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。 あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。 」(出エジプト20:2-3)
十戒における最初の、最も重要な戒めは、まことの神以外のものを神としてはならない事である。
主イエスは私達を、世というエジプトから救い出し、罪と死の奴隷状態から導き出し、自由にして下さった。
その大切なお方に、身も心も思いも捧げるべき時間に、別の事を考えたりしてはいないだろうか。
仕事の事を思い巡らしたり、テレビドラマの続きに思いを馳せたり、この礼拝が終わったらあの事この事をしようと、自分の好む趣味の事を思ったり、あるいは、あの人やこの人の事が気になったり。
もし礼拝すべき時に、この御方以外のものに思いを占められてしまうとしたら、その礼拝は主に喜ばれない。
人の成り立ちにおいて重要なのは、一週間168時間の内、主日に礼拝で捧げる2時間よりも、むしろ、その背後にある膨大な166時間を、何に捧げ、何を思い巡らして過ごしているか、である事を先週学んだ。
たとい166時間、ずっと仕事などで身柄を拘束されていても、心に主へと向かう大路があるのなら、涙の谷を過ぎる時も泉の湧く所とし、恵みの雨がそこを祝福で覆う。(詩篇84:5-6)
しかし、心に主への道が無く、思いを世の事にどっぷり浸らせ、身勝手な思いをともしびとして頼って行くなら、涙の谷を過ぎる時も慰めを得ること無く、さらに渇いて、苦しみのうちに伏し倒れる。(イザヤ50:11)
「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。 」(出エジプト20:4)
十戒の第2戒は偶像礼拝の禁止であるが、「偶像」は英語では「アイドル」、「イメージ」と言う。
神よりも、テレビの向こう側のアイドルや、コンピューターグラフィックスを駆使した映像やゲームという人の作ったイメージのほうに心を捧げたり、そのイメージによって支配されたりしてはいないだろうか。
最近のテレビや映画などのイメージの内容は、性に奔放で、権威に反抗し、力づくで奪う事を良しとする、反・聖書的な内容が多いが、御言葉とそれらイメージを並べた時、もし生きる上での価値観を、御言葉よりも、それらイメージのほうを優先して置いているとしたら、偶像礼拝に足を踏み入れている。
当時のイスラエルは、バアル神に魅せられた。父親を倒して権力を奪い、美しく殺戮好きな妻(かつ妹)と共に敵と戦いを重ね、大活躍するバアル神話は、現代の映画やドラマにすれば、受けそうなストーリーである。
戒律は無いから好き勝手に出来るし、力づくで隣人や他国を奪うのも良しとされ、性に奔放で、神殿娼婦と交わる事が礼拝行為とされ、子供が出来る事が不都合であるなら、神に捧げるという名の下に火の中をくぐらせ、抹殺してしまう。そのような偶像礼拝の結果得るものは、妬む神による3,4代に及ぶ呪いである。
かつてのイスラエルは、肉欲や情欲を沸き立たせるストーリーや、肉欲をそそる礼拝に魅せられ、引きこまれ、まことの神から離れてしまったから、申命記28章にある呪いを、ことごとく受けてしまったのだ。
もし、ドラマの内容はすぐに思い出せても、イエス様が成して下さった事を中々思い出せないなら、また、イエス様よりも、アイドルやイメージに捧げたお金や時間、空想の方が多く、そして、中々祝福が与えられていない、という「自覚」があるのであれば、「偶像」は捨て去り、悔い改め、主に立ち返るべきである。
偶像礼拝は、霊的姦淫である。マタイ5:27-30で主は、姦淫に気をつけるべきであると勧めており、もし体の一部が躓かせるなら切って捨ててしまったほうが、体全体でゲヘナに行くよりもましである、と言っている。
もし、中々祝福を受け取れない基、束縛へと導いている偶像があるのなら、それは切り捨てるべきである。
「サムエルはイスラエルの家の全体に対して言った。「あなたたちが心を尽くして主に立ち帰るというなら、あなたたちの中から異教の神々やアシュトレトを取り除き、心を正しく主に向け、ただ主にのみ仕えなさい。そうすれば、主はあなたたちをペリシテ人の手から救い出してくださる。」イスラエルの人々はバアルとアシュトレトを取り除き、ただ主にのみ仕えた。」(1サムエル7:3-4)
全ての偶像を取り除き、ただ主にのみ心を注ぎ出すなら、主が救いの岩(エベンエゼル)となって、束縛から開放し、敵に対する勝利を与え、従順する限り、主の手が守って下さる。
全ての偶像を捨て、主にのみ従順する皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!