メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ
タラントのたとえ(マタイ25:14-30)
第一礼拝・礼拝全体音声:右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
「天国は、ある人が旅に出る時、その僕どもを呼んで自分の財産を預けるようなものである。すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。」(マタイ25:14)
「タレント」の意味は、元々、この聖書の「タラント」に由来し、人の才能、能力を表す意味で使われているが、一タラントは6000日分の日当に相当し、日当を6000円としても36,000,000円という大きな額である。
このたとえは、主キリストが再臨されるまでの、一見主が不在であるかのような間に、私達・主の働き人達に預けられたタラント、すなわち「霊の賜物」(?コリ12章)と、「肉の賜物」(生まれながらに与えられた能力や財産など)をいかに扱い、運用するかによって、再臨の時、各々異った報酬を受ける事を示している。
今を生きる私達は預けられたタラントを預け主であるキリストのために生かし運用する事が求められている。
タラントは本来、預かり物であり、私達はそれを、地上で自分を楽しませるためでもなく、人に披露して自慢するためでもなく、主のために、天の本国のために運用する、という、本来の目的を忘れてはならない。
キリスト者の地上生活は、天における生活の準備であり、試験でもある。やがて来る清算の時、主人からの評価ポイントは、任されたタラントでも、増やした額でもない。
世に出て行き、それを用いたか、用いなかったかのみであり、用いた者は恐れなく大胆に御前に出られる。
人は思うかもしれない。もし事業に失敗して、主人の資産を目減りさせてしまっていたら、どうするのか、と。
しかしこの譬えは、用いたか用いないか、という二択しか存在せず、目減りさせた場合の事例が無い以上、御国のための働きをする場合、「損」とか「目減り」といった結果は存在せず、そんな事考えなくて良いのだ。
主は私たちが歩むようにと予め良い行ないを備えておられ、私達はそれに歩むべきである。(エペソ2:10)
タラントの最悪の運用方法は、地中に埋めて、隠す事である。与えられた賜物、与えられている機会を全く用いないままに、キリストの前に出るのは恐ろしい事だと、彼は薄々感づいていたので、言い訳をする。
『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。』 主人はかなりの巨額をこのしもべに預けていたのに、「まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人」呼ばわりするとは、邪推もいい所である。
彼は、何もしない日々の中、他のしもべがタラントを活用してどんどん利益を積んで行くのを横目で見、彼らが利益の中から食費や養育費、レジャーなど豊かに使っているのも横目で見つつ、ねたみと邪推だけを増幅させ、地中に埋めたタラントに一切手を付けないまま、自前の労苦だけで貧しく生活し、タラントを増やすやりがいも、報酬で楽しむ事とも無縁のまま、ただ時間を食いつぶすだけだったのである。
かなりの高額を銀行に預ければ、かなり利子がつくのは容易に考えられるのに、彼はその利子が自分のものにならぬ事を知っていたため、それさえ厭い、地中に埋めるに至ったわけである。
主は、きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方であり(詩篇18:26)、その彼の言ったその言葉どおりに彼をさばかれる。(ルカ19:22) 彼は外の暗闇に追い出され、泣いて歯ぎしりするのだ。
主から任された資産を、ただ自分のために用いるなら、放蕩息子のように、ただ湯水のように浪費してしまうのみである。(ルカ15章) もし今、タラントを活用できていない、タラントを活かすための働きが閉ざされている、と感じるなら、地中に埋めていないか、自己本位に使おうとしていないか、吟味する必要がある。
人は、自分や他人のタラントの額や仕事の内容を気にするが、主は「誰のために」という動機を探られる。
今、働いている動機は、誰のためか?もし自分の満足や栄誉、自分が気持ちよくなる為に働き場を求めているなら、主は道を差し止められ、ご自身に立ち返るのを、待っておられる。
タラントは天からの預かり物で、自分のためにではなく主のために用いるのが本来の目的だ。
多くを任せられる者とは、主人や他人が見ていない時であっても、忠実に仕事を果たす、思慮深いしもべであり(ルカ12:42-44)、人が見ていない時には賛美や祈り、奉仕をしない者は、不忠実な者である。
預かったタラントを主のために、天の財布を増やすために恐れず活用し、御国のビジネスで多くを稼ぎ、主から「良くやった、良い忠実なしもべよ」と喜ばれ、さらに多くを任される皆さんでありますように!
立派な子「バルテマイ」になるには?(マルコ10:46-52)
第一礼拝・礼拝全体音声:右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
イエス様が弟子たちや大ぜいの群衆と共にエリコから出かけられたとき、テマイの子、バルテマイ(意味:立派な子)という目の見えない人が、道ばた(highway side)にすわって、物乞いをしていた。(マルコ10:46)
多くの人達が彼を見下ろし、彼の傍を過ぎて行った。人々にどんな目で見られたのかは彼には見えない。
ある人は近づいて、彼に幾らかを施し、ある人は馬車で砂埃を巻き上げながら、目もくれずに行った。
成人した彼を養ってくれる家族は、きっといなかったのだろう。自分のみじめな姿を晒すのが嫌だからと言って、人通りのない裏路地にいては、物乞い稼業は成り立たない。大通りに出て、人が通る音を聞く度に、明瞭に声に出して憐れみを求め、落としてくれる恵みでその日の糧を得る、という日々を送っていた。
彼は、目が見えない事によって、世の事柄の多くの点において、周りの人達に比べて遅れを取っていた。
周りに比べて多くを経験出来ず、多くの楽しみも、知らずにいた。人はそれを不条理と呼び、何のためにそうなったのか、誰のせいで、と議論する。イエス様の弟子達でさえ、そう議論した。(ヨハネ9:2)
しかし主イエス様は、誰のせい、とは言われない。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(同3節)と言われる。
イエス様の辞書には、誰々と比べて、などという文字は一切無いし(ヨハネ21:22)、世の楽しみを味わったかどうか、など、救いには一切関係無い。それどころかむしろ、それらは救いを得る上で邪魔にさえなる。
多くを経験できれば良い、多くの楽しみを知れば良い、というものではない。バルテマイは、多くを知らないが故に、多くの人が見過ごしがちな、そして、真に人間に必要な事を、はっきり知っており、求めていた。
すなわち、ダビデの子孫から救い主が現れる事、そして、ナザレのイエスと言われるお方が、その証拠としての奇跡を行なっており、その御方なら自分を救うことが、きっとおできになる、と、信じていた事である。
ある日彼は、通りがいつもと違う興奮に包まれ、何か喜ばしげな雰囲気であるのを、感じ取った。
何事かと人に聞くと、そのナザレのイエスがお通りだ、と言うではないか!そこで彼は声を張り上げた。
「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください!」
バルテマイが助けを求めて叫んだのは、ダビデの子イエス様に、である。決して、イエス様に群がった群衆に、ではない。
ところがキリスト教会では、なんと多くの人達が、イエス様に助けを求めるのではなく、イエス様を求めに来た「人間たち」に、助けを求めているだろうか。
バルテマイがもしイエス様からではなく、イエス様をネタとして群がった群衆から、恵みを得ていたのであれば、そんな得た物は、すぐに無くなってしまう。
同じように私達も、教会のいわゆる「優しい人達」を当てにし、彼らから助けを得ようとして、イエス様に助けを求めないとしたら、バルテマイが得たような根本解決など、決してあり得ない。
多くの人達は、イエス様を、ナザレの田舎出身の一有名人のように呼ぶ。しかしバルテマイは、イエス様を自分を救って下さるお方だと信じ、来たるべきダビデの子孫、救い主として呼んだ。
大勢の人々は、彼を黙らせようと、たしなめた。私達も救いに近づこうとする時、イエス様を呼ぼうと、声高に叫べば叫ぶ程、世は、周りは、邪魔をする。しかし、そのような時は私達も、バルテマイのように、イエス様を呼ぶ事を、止めてはならない。イエスこそ来たるべきメシヤであると、叫ぶ事を止めてはならない。
イエス様は「ダビデの子よ、私を憐れんで下さい」と叫ぶ声に耳を傾け、足を止め、その人を呼ばれる。
バルテマイは、イエス様が自分のことを呼んでいる、と分かると、上着を脱ぎ捨てた。
その上着は、それまで彼の人生の色々な場面で、寒さや日差し、砂埃から守ってきた大切なものであろう。
しかし同時に、彼の汗や垢、砂埃まみれで、ダビデの子イエスの御前に出るには、相応しくないものである。
私達も、救い主の御前に出る時、自分の汗や垢、ホコリにまみれた大切なものを、脱ぎ捨てるべきである。
たといそれが、どんなに大切であろうとも、主の御前に、自分の汗や涙の成果物は、一切無意味である。
むしろ私達に大切なものは、イエス様から着せていただく贖いの衣である。
彼は自分の足で、手探りで、イエス様にいると思われる方へと、一歩一歩進んで行った。そして何歩か行った時、声があった。「わたしに何をしてほしいのか。」
イエス様は、私達が何を求めているのか、当然ご存知である。しかし私達は、イエス様のほうへと自分の足で手探りでも行き、何をしてほしいのかを、自分の口で告白し、自分の意志を明確に伝えるべきなのだ。
彼は「ラボニ(私の先生)、見えるようになる事です」と答えた。主は、誰の主でもなく、私の主である。
そう告白した彼に、イエス様は「行きなさい、あなたの信仰があなたを救った」と答えられた。
そして彼は見えるようになった。見えるようになったら彼は、イエス様の行かれる所に、ついて行った。
彼には以前の生き方も、以前の上着も必要なく、イエス様との新しい人生が始まった。(2コリント5:17)
私達もイエス様に癒され、神の御技をこの身に受けたのなら、イエス様にどこまでもついて行くべきである。
信仰の競争(ヘブル12:1-2)
第一礼拝・礼拝全体音声:右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
<私達は競技者であり、目標がある>
オリンピックの選手達はメダルを勝ち取る事を目指しているが、私達キリスト者は、何を目指すべきだろうか。
キリスト者の目標は、神によって定められており、それは、御子キリストに似た者へと造り変えられて行く事である。そのためにこそ主は、万事を変えて益とし、私達を最善へと導いて下さるのだ。(ローマ8:28-29)
万事を変えて益として下さる、という御言葉を、何か、神様はやがて自分の願い通りにさせて下さるものだと、勘違いしている人は多いが、主は「ワタシ」の身勝手な願望を成就させるための道具ではない。
私達の益とは?最善とは?それは、御子と同じ姿になっていく事であり、私達が大人になってキリストの満ち満ちた身丈にまで達し、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達する事だ。(エペソ4:11-15)
<競技者であるからには競技するフィールドがあり、観客もいる>
「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」(ヘブル12:1-2)
皆さんは知っていただろうか?私達もキリストにあって競技者であり、そんな私達を見守る観客がいる事を。
私達がオリンピック観戦して、自国の競技者を応援するように、神の国でも、信仰の先人達が、地上というフィールドで競技している「私達」を固唾を飲んで見守り、応援し、自国のために賞を取る事を願っている。
そういうわけだから、私達も、まとわりつく一切の罪の重荷を捨てて、忍耐して走り続けるべきである。
何を目指して走り続けるのか?それは、信仰の創始者であり、完成者であるイエスを目指して。
<この競技にはルールがある>
私達キリスト者は皆、キリストに選びだされ、召しだされた競技者であるからには、ルールを守らなくては、栄冠を受けられない。(2テモテ2:1-8)
競争選手は、スタートの合図と共に、一斉にゴールを目指して走り出すものだが、フライングを繰り返したり、合図が出されたのに走り出さず遊んだりしていたら、失格になってしまう。
同じように、神の国の競技者も、主の合図にフライングをしたり、御言葉のルールを無視して身勝手にしているなら、やがてイエローカードが出され、それをも無視して身勝手を続けるなら、失格者となってしまう。
<私達の競技の内容>
私達のこの人生は、イエスキリストを目指し、障害物を乗り越えつつチェックポイントを通過して行く障害物競争のようなもので、よりキリストの似姿に近づいた者が、より優れた栄冠を勝ち取る事が出来る。
人生という競技において、より高いスコアを出すコツは、イエスから目をそらさず、イエスを目指して走り続ける事に限る。それだから敵陣営であるサタンは、いかにそこから目を離させるか、という事にやっきになる。
障害物競争には数々のハードルがあるが、信仰の障害物競争で立ちはだかるのは、諸々の誘惑である。
ある人は金銭的誘惑というハードルに目を奪われて足止めを喰らい、ある人は性的誘惑というハードルに目を奪われて足止めを喰らって、アドバンテージを逃してしまう。
あるいは、場外の敵陣営から罵声を浴びせられて、気を挫かれたり、悲しんだりして、足が止まってしまう。
あるいは、周りの選手にどんどん先おこされ、取り残されていく自分自身を見て、心萎えてしまう事もある。
忘れてはならない。目を向けるべきは、ハードルではなく、周りではなく、自分でもなく、イエス様だ。
イエス様に目を留めつつ走っているなら、最短コースでチェックポイントを次々に通過できるが、イエス様から目を反らして、世の雑事や心配事にじっと目を凝らし、留まり続けているなら、次に進む事は出来ない。
<私達を待ち受けている栄冠>
「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。」(2テモテ4:7-8)
私達を信仰の選手として召しだして下さった主を喜ばせるために、しっかりとルールを守り、イエス様から目を離させようとする障害物には目をくれず、イエス様だけを見続けて走りぬく皆さんでありますように。
競技を終えるかの日には、雲のように取り巻く証人達の歓声を受けつつ、天に凱旋し、「よくやった、良い忠実な僕よ」と主に褒められ、決して朽ちることのない栄光の冠を、主から頂く皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!
全能者の御翼の陰に(創世記1:1-5)
第一礼拝・礼拝全体音声:右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてを”おおって”いた。」(創世記1:2)
この「おおう」あるいは「抱く」という言葉のヘブル語「ラゥカフ」は、親鳥が卵の上を覆ったり、鷲が雛の上を舞いかけたりする事を意味する。
全ての人もまた、創世記のこの情景に、当てはめる事が出来る。
神は私達人間を、神の似姿として創造されたが、アダムの罪によってむなしくなり、暗闇となってしまった。
しかし主は、めん鳥が卵を温めて孵化の時をじっと待ち、暖かく見守るように、私達が霊において孵化し、御翼の陰を慕い求め、そこに留まるようになる事を、じっと見守り、待っておられるのだ。
私達は主の御霊から離れる事は出来ず、天の高みに登っても、地の深みに下り、よみに床を設けたとしても、主はそこにおられる。主にとって闇は暗くなく、闇の中にいる私達をじっと見つめ、ご自身の名を呼んで御翼の陰へと救いを求めて来るのを、ずっと待っておられる。(詩篇139:7-12)
主は、全ての人がそのように、御翼の陰に宿る事を望んでおられるが、人がそれを好まないなら、そこから離れて、身勝手に行きたい所へと行ってしまう事も出来る。
主はそのような者を嘆息して嘆かれるが、その者は見捨てられ、荒れ果ててしまうのだ。(マタイ23:37-38)
しかし、いと高き全能の神に救いを求め、その陰に宿る人には、以下の守りと祝福がある。(詩篇91篇)
「神はその人に仕掛けられた罠から、陥れる言葉から、救い出してくださる。
神は羽をもってその人を覆い、翼の下にかばってくださる。神の真理がその人の盾となり、夜の恐怖も、昼に飛び来る矢も、恐れることはない。暗黒の中を行く疫病も、真昼に襲う病魔も。
全能者の陰に救いを求めて来る、その人の傍らに、たとい一千の人が、その右にたとえ一万の人が倒れる時すら、その人を災いが襲うことはなく、それを眺めるのみ。神に逆らう者の受ける報いを見ているのみ。
その人が主を避けどころとし、いと高き神を宿るところとするなら、災難もふりかかることがなく、その天幕には疫病も触れることがない。主は御使いに命じて、その人の道のどこにおいても守らせてくださる。
御使いは、その人をその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る。
その人は、獅子と毒蛇を踏みにじり、獅子の子と大蛇を踏んで行く。」
この守りの言葉は、決して空虚な大風呂敷ではない。
ベトナム戦争で聖書を携えていたある米兵は、銃弾を浴びたものの、聖書が弾丸を止め、しかも、その銃弾が止まった場所は、まさしく詩篇91篇のこの箇所で、主が確かに守って下さると教えて下さった。
また、イギリスのウイットルゼイ大佐は、第2次世界大戦で、この詩篇91篇を部下全員に暗誦させ、毎日祈らせたところ、5年間、一人の死者も出さなかった。
主の守りは、信じる者に実際に現実に起こる、確かな盾であり、守りである。
混沌と闇に覆われた地に「光よあれ」という御言葉を送り、光と闇とを分離された主は、全能者の翼の陰に身を寄せる者には、義の太陽として輝き登り、その翼には癒しがある。その者は牛舎の子牛のように外に出てはね回り、悪者どもは踏みつけられ灰になる。(マラキ4:2-3)
ボアズは全能者を頼りとして来たルツに言った。「どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。」(ルツ2:12)
ルツはボアズに言った。「わたしは、あなたのはしためルツです。どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です。」(同3:9)
私達もルツのように言うべきである。「あなたは私を絶やさぬ責任のある方です。」「その翼を広げて、この者を覆って下さい」と。
全能者なる主の御翼の陰に身を寄せて隠れ、あらゆる災いから守られ、主の懐で養われ、安全に防御されているという平安の内を歩む皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!
あなたは甘いりんごのよう(雅歌2:1-7)
第一礼拝・礼拝全体音声:右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
雅歌は聖書の他の書とは明らかに違う。 読んでいて恥ずかしくなるほど男女の愛の悦びが生き生きと表現され、近寄りがたい崇高さも、規律的な厳しさ、難しさも、一切無い。
この書は、ユダヤでは30歳以下の者が読む事を禁じられた。 男女の愛の悦びは、成熟して結婚の契を交わした男女のみに相応しいように、キリストとの関係も成熟さを増せば増すほどに、宗教的な束縛感から開放され、自由になり、悦びに満ち、あたかも新婚夫婦のような悦びの関係に入ってくる。
キリストと弟子達は、はじめは師弟関係(ヨハネ13:14)だったのが、主が命じる事を行なう内に、友の関係となり(同15:14)、十字架の後には兄弟関係(同20:17)となり、やがては、キリストのからだなる教会に接合され、成熟する事によって、花婿と花嫁の関係となっていくのだ。(黙示録21,22章)
地上のものは全て天の写し、影であり、新婚の甘い日々もまた、我々がやがて天で味わう事の影である。
「私の愛する方が若者たちの間におられるのは、林の木の中のりんごの木のようです。私はその陰にすわりたいと切に望みました。その実は私の口に甘いのです。」(雅歌2:3)
恋心の乙女は、意中の男性以外が雑木に見えるように、私達も成熟すればする程、巷の神々や権威ある者達、世の富や宝は、全てどうでも良く見えて来て、唯一頼りとしたいと思うのは、キリストのみとなっていく。
主の羊は、真の羊飼いである主の声を聞き分ける。 彼らは、いと高き全能なる神の元に身を寄せ(詩篇91)たいと心底願い、その陰に宿り、御口から出てくる御言葉を甘いりんごのように慕い求めるのである。
「あの方は私を酒宴の席に伴われました。私の上に翻るあの方の旗じるしは愛でした。」(雅歌2:4)
主は私達に、敵の面前で酒宴をもうけ、頭に香油を注いで下さり、盃を溢れさせて下さる。(詩篇23:5)
敵の面前で、私達は「主ご自身」という旗で覆われ、私達の上ではためくその旗印は、愛である。
「干しぶどうの菓子で私を力づけりんごで私を元気づけてください。私は愛に病んでいるのです。」(雅2:5)
干しぶどうもりんごも、他の箇所では、喜びを表している。(2サムエル6:19、イザヤ16:7-10、ヨエル1:12)
男女の愛には喜びと潤いがあるように信仰生活にも喜びと潤いが必要であり、それを主に求めるのである。
「ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださるとよいのに。」(雅歌2:6)
女性にとって、好きな男性の左腕の中に腕枕され、右腕で抱かれている一時は、至福の時ではなかろうか。
それは、女性は男性のあばら骨から取られたからであり、女性の居場所は元々男性の懐だったからである。
男女が並んで歩く時、男性が右側で女性が左側である事が多いのは、男性が利き腕を自由に動かしてリードし、女性は利き腕で男性を離さず、男性にリードされて行く姿が、自然だからである。
ベタニヤのマリアは、イエスの足元というりんごの木の下で、イエスの口からこぼれてくる御言葉という甘いりんごを、いつも慕い求めていた。その場所その時が、何よりの至福の場所、至福の時だったからである。
その心でイエスを慕い求め、イエスの御思いを理解したからこそ、他の弟子達が誰も出来なかった葬りの準備を、唯一、彼女だけがその時を悟り、その準備が出来たのである。
イエスと深い交わりをして御心を知る、という事が無いなら、たとえ神のために良かれと思って何かをしたとしても、それは自分の思いに過ぎず、弟子達のようにとんちんかんな、あさっての事をしてしまうものである。
マリヤは、マルタや弟子達から色々の否定的な言葉を浴びせられてもイエスご自身が直接保護して下さったように、イエスの御翼の陰に宿る私達を、主ご自身が直接的に保護し、敵を𠮟り飛ばして下さるのである。
「エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿をさして、あなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」(雅歌2:7)
かもしかや野の雌鹿は、繊細な動物である。自分を無理矢理恋心へと持ち込むと、すぐヘンな男に引っかかってしまうように、主に対する愛も、無理やり駆り立てようとせず、自然に湧き起こるのを待てば良い。
シャロンの花であるイエスを、甘いりんごのように慕い求め、マリヤのように、主の足元が慕わしくて仕方がなくなるまでに、繊細な主への愛を、自然な形で、大切に育み育てていく皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!
有益な集まりと有害な集まり(1コリント11:17-22)
第一礼拝・礼拝全体音声:右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
「あなたがたの集まりが利益にならないで、かえって損失になっているからである。」(1コリント11:17)
兄弟姉妹は、単に集まれば良い、というものではない。「有害な集まり」というものが、確かに存在する。
良い集まりは、人をいのちで満たし、力強くするが、有害な集まりは、人を不安に導き、焦らせ、疲れさせる。
良い交わりと有害な交わりはどうやって見分ければいいか?それは、ガラテヤ5:19-23の、肉の行いのリストと、御霊の実のリストを見比べて、どちらの実を結んでいるかを見れば良い。
その集まりによって、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制が満ちるなら、その交わりを続けるべきである。しかし、その集まりによって、不品行や汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものが増し加わるなら、止めた方が良い。
コリントの集まりが損失になっている理由は、肉の結果である分裂分派がある事だとパウロは言っているが、同時に、本当に残るべき者が明らかにされるためには、分派もやむを得ない、とも言っている。(19-20節)
人が教会から去っていく理由は色々あるが、もし、教会が正しく御言葉を伝え、霊的に問題無いのに、自分の意見や欲する事が通らない、というので教会を去っていくのなら、その人はそのまま去らせれば良い。
なぜなら、教会は、自分の欲望を満足させる場ではなく、主が満足されるべき所だからである。
また、教会の働き人は、人に仕えて人を満足させる、単なる「優しい人達」ではない。
教会の働き人とは、主イエスのために働き、仕える人達である。もちろん主は、人に仕えるように命じておられるが、主を差し置いて、人に優先的に仕えるのは、本末転倒である。
人の満足を求めるあまり、人の拒否や離別を恐れるあまり、御言葉を希釈したり、曲げたりしてはならない。
「そこで、あなたがたが一緒に集まるとき、主の晩餐を守ることができないでいる。というのは、食事の際、各自が自分の晩餐をかってに先に食べるので、飢えている人があるかと思えば、酔っている人がある始末である。」(1コリント11:20-21)
原語の位置から、パウロは極めて強い調子で「そんな飲食は、決して主の晩餐では無い!」と憤慨している。
教会の中で、真に助けるべき弱い人や貧しい人を軽んじ、辱めたりして、躓きを与える者たちがいたのだ。
富んだ者も貧しい者も、共に主にあって一つの食卓に与るようにと、整えられた聖なる主の愛餐を、俗悪なおしゃべりしたり、酔ったり、感謝も無くつまんだりして、貶めてしまった事を、彼は激しく憤った。
「神の教会」は、食べたり飲んだり、寝たり、おしゃべりしたりといった、社交サロン的な、使い勝手の良い施設のような場所だと思ったら、大間違いである。
神の教会は、聖なる主イエスの御体であり、聖なる主に礼拝を捧げ、共に主と一つとなる、聖なる所である。
間違った幻想を教会に求めて来て、物質的・霊的にも食い散らかす者を、主は忌み嫌われる。
パウロはここで、自分の食欲を満たそうと我先に飲み食いする者を叱責したが、それは何も、飲み食いの事だけでなく、聖徒の尊い思いやりや、きよい良心を食い散らかしたり、礼拝の時間を食い散らかしたりして、真にそれらを求めている人たちに、それらが行き渡らないよう食い散らかしてしまう者達も、含まれる。
「神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのか。」(22節) 神の教会とは、キリストの御体である。
「主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招く。あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためである。」(29-30節)
人が良い方向へと変わるのは、教会が支援する食料やお金、良心的な思いやり等ではない。
御言葉を聞いて悔い改める事によってのみ、人は良い方向へ変わるのであり、悔い改めの無い人達に、食料やお金をいくら与えても、それは益にならず、害になるだけである。
私達の集まりの中心は、主イエスであり、主イエスの御体を覚えて、全ての事を行うべきである。(24,25節)
主イエスを覚え、真に必要を覚えている人に支援し、共にひとつの食卓に与り、ひとつ主の御体に与って、ますます純粋で聖なる者とされていく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
アイドル(偶像)を捨てよ(出エジプト20:2-6)
第一礼拝・礼拝全体音声:右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。 あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。 」(出エジプト20:2-3)
十戒における最初の、最も重要な戒めは、まことの神以外のものを神としてはならない事である。
主イエスは私達を、世というエジプトから救い出し、罪と死の奴隷状態から導き出し、自由にして下さった。
その大切なお方に、身も心も思いも捧げるべき時間に、別の事を考えたりしてはいないだろうか。
仕事の事を思い巡らしたり、テレビドラマの続きに思いを馳せたり、この礼拝が終わったらあの事この事をしようと、自分の好む趣味の事を思ったり、あるいは、あの人やこの人の事が気になったり。
もし礼拝すべき時に、この御方以外のものに思いを占められてしまうとしたら、その礼拝は主に喜ばれない。
人の成り立ちにおいて重要なのは、一週間168時間の内、主日に礼拝で捧げる2時間よりも、むしろ、その背後にある膨大な166時間を、何に捧げ、何を思い巡らして過ごしているか、である事を先週学んだ。
たとい166時間、ずっと仕事などで身柄を拘束されていても、心に主へと向かう大路があるのなら、涙の谷を過ぎる時も泉の湧く所とし、恵みの雨がそこを祝福で覆う。(詩篇84:5-6)
しかし、心に主への道が無く、思いを世の事にどっぷり浸らせ、身勝手な思いをともしびとして頼って行くなら、涙の谷を過ぎる時も慰めを得ること無く、さらに渇いて、苦しみのうちに伏し倒れる。(イザヤ50:11)
「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。 」(出エジプト20:4)
十戒の第2戒は偶像礼拝の禁止であるが、「偶像」は英語では「アイドル」、「イメージ」と言う。
神よりも、テレビの向こう側のアイドルや、コンピューターグラフィックスを駆使した映像やゲームという人の作ったイメージのほうに心を捧げたり、そのイメージによって支配されたりしてはいないだろうか。
最近のテレビや映画などのイメージの内容は、性に奔放で、権威に反抗し、力づくで奪う事を良しとする、反・聖書的な内容が多いが、御言葉とそれらイメージを並べた時、もし生きる上での価値観を、御言葉よりも、それらイメージのほうを優先して置いているとしたら、偶像礼拝に足を踏み入れている。
当時のイスラエルは、バアル神に魅せられた。父親を倒して権力を奪い、美しく殺戮好きな妻(かつ妹)と共に敵と戦いを重ね、大活躍するバアル神話は、現代の映画やドラマにすれば、受けそうなストーリーである。
戒律は無いから好き勝手に出来るし、力づくで隣人や他国を奪うのも良しとされ、性に奔放で、神殿娼婦と交わる事が礼拝行為とされ、子供が出来る事が不都合であるなら、神に捧げるという名の下に火の中をくぐらせ、抹殺してしまう。そのような偶像礼拝の結果得るものは、妬む神による3,4代に及ぶ呪いである。
かつてのイスラエルは、肉欲や情欲を沸き立たせるストーリーや、肉欲をそそる礼拝に魅せられ、引きこまれ、まことの神から離れてしまったから、申命記28章にある呪いを、ことごとく受けてしまったのだ。
もし、ドラマの内容はすぐに思い出せても、イエス様が成して下さった事を中々思い出せないなら、また、イエス様よりも、アイドルやイメージに捧げたお金や時間、空想の方が多く、そして、中々祝福が与えられていない、という「自覚」があるのであれば、「偶像」は捨て去り、悔い改め、主に立ち返るべきである。
偶像礼拝は、霊的姦淫である。マタイ5:27-30で主は、姦淫に気をつけるべきであると勧めており、もし体の一部が躓かせるなら切って捨ててしまったほうが、体全体でゲヘナに行くよりもましである、と言っている。
もし、中々祝福を受け取れない基、束縛へと導いている偶像があるのなら、それは切り捨てるべきである。
「サムエルはイスラエルの家の全体に対して言った。「あなたたちが心を尽くして主に立ち帰るというなら、あなたたちの中から異教の神々やアシュトレトを取り除き、心を正しく主に向け、ただ主にのみ仕えなさい。そうすれば、主はあなたたちをペリシテ人の手から救い出してくださる。」イスラエルの人々はバアルとアシュトレトを取り除き、ただ主にのみ仕えた。」(1サムエル7:3-4)
全ての偶像を取り除き、ただ主にのみ心を注ぎ出すなら、主が救いの岩(エベンエゼル)となって、束縛から開放し、敵に対する勝利を与え、従順する限り、主の手が守って下さる。
全ての偶像を捨て、主にのみ従順する皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
唇という火の用心方法(ヤコブ3:1-12、マタイ12:33-37)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳あり):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
一度焼いてしまったものは元に戻す事が出来ないように、一度唇から出た言葉は、戻す事ができない。
火は、何百年もかけて育まれてきた森を焼きつくし、何十年も働いてローンを払ってきた大切な家も、一瞬で失ってしまう怖さがある。同じように、唇から出てくることばも、何十年かけて築き上げた信用や地位、友情、大切な家庭を、一瞬にして破壊してしまう事がある。
そうして一瞬で焼き尽くしてしまったものを、再び元通りにするには、膨大な時間と労力が必要である。
舌で過ちを犯さないようにするには、一体どうすればよいか。
舌を制御する事は誰にも出来ないとヤコブ3:8 に書いてある。一体、唇を制御する方法はあるのだろうか。
主イエスは言われた。「人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。」(マタイ12:34)
口から出る言葉の源は「心」であり、心は、日ごろ何を思いめぐらしているかによって決まる。
常日頃、人の噂や恋愛沙汰などのゴシップばかり思い巡らし、そういう話ばかりしているなら、世の全てがゴシップという土台の上で回っているかのように見えてしまうし、常日頃、あらゆる事を儲かるか損するかで考えているなら、お金にはならない尊い事、たとえば、主婦業や子育てさえ、無駄と見なしてしまう。
拒否される事をいつも恐れている人は、自身の非を戒められても「ああ拒否された、拒否された」と過度に傷つき、戒めを正しく受け入れられず同じ過ちをいつも繰り返してしまうし、性的な事をいつも思い巡らしている人は、異性と接する時、妄想が絡み付いて健全に接する事が出来ない。
人格形成において重要なのは、一週間の168時間の内、主日に礼拝で捧げる2時間よりも、むしろ、その背後にある膨大な166時間を、何に捧げ、何を思い巡らし、何を話して過ごしているかである。
対策方法は、実にシンプルである。
「善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。」(マタイ12:35)
と書かれてある通り、心の倉の悪いものを、良いものへと、入れ替えて行けば良いわけである。
自分のしている事が思うように行かない時や、神や人から受け入れられないのであれば、主の前に出て、その出所元が、良い物からなのか、悪いものからなのか、御言葉に照らして吟味する必要がある。
もし主の前に正しいのであれば、神と人の前に堂々と顔を上げていられるはずだが、正しくないなら、罪は戸口で慕い求めている。その都度、それを支配せねばならない。(創世記4:6-7)
家に居る時、職場にいる時、つぶやいたり人を誹謗中傷する思いなどに気づいたら、都度、キリストにあってとりこにし、捨て去り、御言葉に服従するのであれば、倉の中はどんどん良いものに入れ替えられていく。
さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させるのであれば、あらゆる心の不従順は罰せられていくのである。(2コリント10:4-6)
蔵の中を入れ替えるのは、常日頃の短調作業であり、時間と根気が必要であるが、そうやって努力して過ごす一年と、だらけて何も努力しない一年とは、人生の大きな違いとなる。
コロサイ3:15-17には、心の倉を良いものへ入れ替えて行く上での、非常に有効な対策法で満ちている。
まず、「キリストの平和が心を支配するように」する。誰かから口汚い事を言われても、キリストの血をふりかけ、キリストにある永遠の平和の土台に立つのである。また、「いつも感謝」する事によって、主が為してくださる良き事をいつも探す、という、良き思考パタンを身に付けて行くのである。
そして最も大切なのは、「キリストの言葉を豊かに住まわせ」る事。御言葉以上に良いものはこの世に無い。
自分一人では自信がない方のために、聖徒の交わりがある。消防団が「火の用心」と拍子木を鳴らすように、聖徒の交わりで「知恵を尽くして互いに教え、諭し合い」、互いに、唇の火の用心をし合うのである。
「詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。」いつも賛美を口ずさんでいるなら喜びがある。特に賛美は、悲しみの時や誘惑の時、非常に有効である。
そうして、「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝」する皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
エルサレム - キリストの花嫁(詩篇24:7-9)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳あり):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
The Holy Cityという賛美には、3つのエルサレムが登場するが、それらエルサレムの有様は、私達の有様を、如実に表している。
はじめに登場するエルサレムは、古き日々のエルサレムで、町の中には栄光に満ちた神殿があった。
神を敬う人々は、都上りの歌を口ずさみ、喜びと期待に胸をふくらませつつ神殿に上って礼拝を捧げ、子供たちの純粋な賛美を、御使いたちが天でそれに応答し、共に賛美するような、そのような良き時代。
神と人とが共に住み、素晴らしい関係を保ちつつ、豊かな繁栄を享受している、平和なエルサレムである。
それは、主が初めから望まれた関係であり、人の最善とは、御言葉を守り、神を礼拝しつつ生きる事である。
しかし、純真な子供が汚れと堕落に身を染めていくように、エルサレムは、やがて背信の都となってしまう。
主イエスは叫ばれた。 「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。」(マタイ23:37-38)
イエス様がろばに乗ってエルサレムに入城された時、都は、大人も子供も、こぞって「ホザナ(ああ救い給え)」と叫び、自分の服や、しゅろの枝を敷き、イエスをダビデの子とし、歓迎した。しかし、その一週間後、都の外のさびしい丘で、全地を覆う暗闇の中、イエス様をはりつける十字架が立ってしまう事になる。
都の人々は、ポンテオ・ピラトの裁判の前で、イエスを王として望まず「十字架につけろ」と叫び、罪の無いこの御方を排除する判定を下し、代わりに、暴動と人殺しの男・バラバを開放した。
彼らは、自分が王でいたいがために、まことの王を十字架に定め、殺してしまったのだ。それ故、この都は後に軍隊に囲まれ、破壊され、栄華を誇った聖なる神殿も、土台石ひとつ残らず崩され、西壁の一部を残すのみとなり、今ではそこは、ユダヤ人たちが神殿の崩壊を嘆き悲しむ場所「嘆きの壁」となっている。
再び場面は変わり、新しい天と地が開け、聖なる都、新しいエルサレムが、静かな海のほとりに建っている。
この新しい聖なる都は、夫のために飾られた花嫁のように整えられ、神の御元から下ってくる。(黙21:1-2)
この都は、誰のために、花嫁のように飾られたのか。この都は、誰のために整えられたのか。それは、一度都の外で殺されたが、よみがえり、いつまでも生きておられる真の王、イエスキリストのためである。
この新しいエルサレムこそ、キリストの花嫁、すなわち教会(エペソ6:22-24)であり、教会とは建物ではなく私達、すなわち、キリストを信じ、世から神の元へ「召しだされた者たち」である。
「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」(エペソ5:26-27)
その都には、もはや神殿は無い。神であられる主と、小羊とが都の神殿であり、人は神の臨在の内に、いつまでも住む。都には太陽も月もいらない。なぜなら、神の栄光が都を照らし、小羊が都の灯だからである。
もはや夜は無いため、都の門は一日中決して閉じることがない。全ての人々が、栄光と誉を携えて来るが、全て汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない。(黙示録21:22-27)
まことの王・イエスを一度拒否した都は、一度滅ぼされたが、この、人々から捨てられた主・イエスを王とした者達には、神の子とされる特権が与えられ、全てが新しくされ、神に整えられ、聖なる都とされる。
全ての人々には、二通りの道が示されている。まことの王を強情に拒み、永遠の火の中に閉じ込められるか。それとも、まことの王を受け入れて、新しいエルサレムとなって花婿なるキリストと共に永遠に生きるか。
エルサレムの都は、花嫁であり、王なるキリストは花婿である。都の中に王が入って来る時、門を大きく広げ、王を歓迎して迎えるように、私達花嫁は心を大きく広げ、花婿を喜び迎えるのである。(詩24:7-10)
心の戸を広げ、救い主であり、王の王であり、花婿であるイエスを喜んで受け入れ、とこしえに、その真の夫と共に生きる皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
主の山に登る時は(創世記22章)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳あり):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
神様に何かを捧げようとする時、考えても頑張っても、捧げるべきものに自信が無くなって行く事がある。
それは神様を敬う人、最善のものを捧げようとする人であるならあるほど経験する事であるが、そういう時は自分でやりくりしたり頑張ったりする事を止め、主の前に身を横たえ、全てを委ねた時、主が示しを与える。
主はアブラハムに主が示された山モリヤに行き、自分の愛する子イサクを捧げるよう命じられた。(創22章)
彼が主の言葉に口答えしたり、つぶやいたりした記録は一切無く、ただ言われた通り、翌朝早く準備を整え、その場所へ行き、イサクを縛り、ほふろうとして刀を取った。主は、恐らく慌てて、止めるように命じた。
「アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。」(創世記22:13-14)
私達も、3日の従順を経て主の山に登り、主の祭壇に身を横たえ、御言葉の剣の前に服すなら、主は私達を3日目に死から救い出し、捧げるべき良き物さえも、主が備えて下さるのだ。
皆さんが主の山に登る時、すなわち礼拝に来る時、何を期待して行くだろうか?主に出会う事だろうか?主が「備え」て下さる何かを、頂く事だろうか? 主の山での礼拝においては、優先すべき順序がある。
まず、私達の側が、主の御前に自らを横たえ、御言葉の前に自らを下ろすなら、主が備えて下さるのだ。
「何よりもまず神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらの物はみな加えて与えられる。」(マタ6:33)
主が備えて下さるものは欲しいの、でも主の山に登らない者、登っても御言葉の前に身を置かない者、食べ物や着る物ばかりを求め、神の国と義を求めない者は、何も与えられず、それら全てに逃げられてしまう。
アブラハムがイサクを捧げたこのモリヤ山は、後の時代、エルサレム神殿となった場所である。(2歴代3:1)
そこはエブス人オルナンの打ち場で、ダビデが人口を数える事で主に罪を犯し、その災いとして、御使が3日間、抜き身の剣を差し伸べ、イスラエルの民を打っていた場所だった。(1歴21章,2サム24章)
数を数える事そのものは罪ではない。民数記では神がモーセに「民を数えよ」と言われたし、アブラハムにも「星を数えることができるなら、数えてみよ」と言われた。いずれも、神の恵みを悟らせるためである。
神が与えた祝福であるのに、ダビデは自分の欲のため、自分が誇るため、勝手に数えたから、罪とされた。
ネブカデネザル王も、バビロンの栄華を「私がしたのだ」と驕り高ぶった時、地位を落とされた。(ダニ4章)
神の恵みを忘れ、祝福を自分のおかげとし、自分の誇りとするために数える時、主は災いをもたらす。
イスカリオテのユダは、聖徒の捧げ物を値積もり、自分で打算する事を最後まで続け、滅びに至った。
ベオルの子バラムは、イスラエルを呪うよう雇われた時、御心は「行くな」だったのに、不義の報酬が並べられるとそれを愛し、行こうとしたので、御使いが抜き身の剣を持って彼に立ちふさがった。(民数記22章)
肉欲に魅せられ、数え、我が物にしようと、主の御言葉を超えて行く者には、主は剣を持って立ちはだかる。
ダビデはヨアブの制止にもかかわらず、強引に数えたため、主の使いがエブス人オルナンの打ち場に現れ、抜き身の剣がイスラエルに及んだ。
オルナンは滅ぼされるべきエブス人で、主の使いが自分の打ち場に現れているのに、全く恐れず、小麦を粉々に砕くため打穀していた。彼には全てを捧げる心の用意があったから恐れが無かったのかもしれない。
礼拝とは主の前に自らを砕く事で、主に喜ばれる捧げ物とは、砕かれた魂、悔いた心である。(詩篇51:17)
主は、モリヤの山、すなわちエブス人オルナンの打ち場に祭壇を築くよう、ダビデに指示された。
ダビデはそこへ登って行った時、オルナンはひれ伏して全て差し上げると言ったが、ダビデは、自分の財布を痛めずに礼拝を捧げたくない、と、相当の代価で買取り、礼拝を捧げ、そこを神殿の場所と定めた。
主はこの山で、アブラハムに御言葉の前に砕かれる事を迫り、ダビデにも迫った。私達も、主の山に登る時、御言葉の前に自分を砕き、御言葉に切り分けて頂くのである。
御言葉の前に身を横たえ、砕かれ、3日の後に主からいのちをいただき、新しいいのちにおいて、主から豊かに備えられ、祝福される皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!
