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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

唇という火の用心方法(ヤコブ3:1-12、マタイ12:33-37)
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一度焼いてしまったものは元に戻す事が出来ないように、一度唇から出た言葉は、戻す事ができない。
火は、何百年もかけて育まれてきた森を焼きつくし、何十年も働いてローンを払ってきた大切な家も、一瞬で失ってしまう怖さがある。同じように、唇から出てくることばも、何十年かけて築き上げた信用や地位、友情、大切な家庭を、一瞬にして破壊してしまう事がある。
そうして一瞬で焼き尽くしてしまったものを、再び元通りにするには、膨大な時間と労力が必要である。
舌で過ちを犯さないようにするには、一体どうすればよいか。
舌を制御する事は誰にも出来ないとヤコブ3:8 に書いてある。一体、唇を制御する方法はあるのだろうか。

主イエスは言われた。「人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。」(マタイ12:34)
口から出る言葉の源は「心」であり、心は、日ごろ何を思いめぐらしているかによって決まる。
常日頃、人の噂や恋愛沙汰などのゴシップばかり思い巡らし、そういう話ばかりしているなら、世の全てがゴシップという土台の上で回っているかのように見えてしまうし、常日頃、あらゆる事を儲かるか損するかで考えているなら、お金にはならない尊い事、たとえば、主婦業や子育てさえ、無駄と見なしてしまう。
拒否される事をいつも恐れている人は、自身の非を戒められても「ああ拒否された、拒否された」と過度に傷つき、戒めを正しく受け入れられず同じ過ちをいつも繰り返してしまうし、性的な事をいつも思い巡らしている人は、異性と接する時、妄想が絡み付いて健全に接する事が出来ない。
人格形成において重要なのは、一週間の168時間の内、主日に礼拝で捧げる2時間よりも、むしろ、その背後にある膨大な166時間を、何に捧げ、何を思い巡らし、何を話して過ごしているかである。

対策方法は、実にシンプルである。
「善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。」(マタイ12:35) 
と書かれてある通り、心の倉の悪いものを、良いものへと、入れ替えて行けば良いわけである。
自分のしている事が思うように行かない時や、神や人から受け入れられないのであれば、主の前に出て、その出所元が、良い物からなのか、悪いものからなのか、御言葉に照らして吟味する必要がある。
もし主の前に正しいのであれば、神と人の前に堂々と顔を上げていられるはずだが、正しくないなら、罪は戸口で慕い求めている。その都度、それを支配せねばならない。(創世記4:6-7)
家に居る時、職場にいる時、つぶやいたり人を誹謗中傷する思いなどに気づいたら、都度、キリストにあってとりこにし、捨て去り、御言葉に服従するのであれば、倉の中はどんどん良いものに入れ替えられていく。
さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させるのであれば、あらゆる心の不従順は罰せられていくのである。(2コリント10:4-6)

蔵の中を入れ替えるのは、常日頃の短調作業であり、時間と根気が必要であるが、そうやって努力して過ごす一年と、だらけて何も努力しない一年とは、人生の大きな違いとなる。
コロサイ3:15-17には、心の倉を良いものへ入れ替えて行く上での、非常に有効な対策法で満ちている。
まず、「キリストの平和が心を支配するように」する。誰かから口汚い事を言われても、キリストの血をふりかけ、キリストにある永遠の平和の土台に立つのである。また、「いつも感謝」する事によって、主が為してくださる良き事をいつも探す、という、良き思考パタンを身に付けて行くのである。
そして最も大切なのは、「キリストの言葉を豊かに住まわせ」る事。御言葉以上に良いものはこの世に無い。
自分一人では自信がない方のために、聖徒の交わりがある。消防団が「火の用心」と拍子木を鳴らすように、聖徒の交わりで「知恵を尽くして互いに教え、諭し合い」、互いに、唇の火の用心をし合うのである。
「詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。」いつも賛美を口ずさんでいるなら喜びがある。特に賛美は、悲しみの時や誘惑の時、非常に有効である。
そうして、「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝」する皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

エルサレム - キリストの花嫁(詩篇24:7-9)
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The Holy Cityという賛美には、3つのエルサレムが登場するが、それらエルサレムの有様は、私達の有様を、如実に表している。
はじめに登場するエルサレムは、古き日々のエルサレムで、町の中には栄光に満ちた神殿があった。
神を敬う人々は、都上りの歌を口ずさみ、喜びと期待に胸をふくらませつつ神殿に上って礼拝を捧げ、子供たちの純粋な賛美を、御使いたちが天でそれに応答し、共に賛美するような、そのような良き時代。
神と人とが共に住み、素晴らしい関係を保ちつつ、豊かな繁栄を享受している、平和なエルサレムである。
それは、主が初めから望まれた関係であり、人の最善とは、御言葉を守り、神を礼拝しつつ生きる事である。

しかし、純真な子供が汚れと堕落に身を染めていくように、エルサレムは、やがて背信の都となってしまう。
主イエスは叫ばれた。 「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。」(マタイ23:37-38)
イエス様がろばに乗ってエルサレムに入城された時、都は、大人も子供も、こぞって「ホザナ(ああ救い給え)」と叫び、自分の服や、しゅろの枝を敷き、イエスをダビデの子とし、歓迎した。しかし、その一週間後、都の外のさびしい丘で、全地を覆う暗闇の中、イエス様をはりつける十字架が立ってしまう事になる。

都の人々は、ポンテオ・ピラトの裁判の前で、イエスを王として望まず「十字架につけろ」と叫び、罪の無いこの御方を排除する判定を下し、代わりに、暴動と人殺しの男・バラバを開放した。
彼らは、自分が王でいたいがために、まことの王を十字架に定め、殺してしまったのだ。それ故、この都は後に軍隊に囲まれ、破壊され、栄華を誇った聖なる神殿も、土台石ひとつ残らず崩され、西壁の一部を残すのみとなり、今ではそこは、ユダヤ人たちが神殿の崩壊を嘆き悲しむ場所「嘆きの壁」となっている。

再び場面は変わり、新しい天と地が開け、聖なる都、新しいエルサレムが、静かな海のほとりに建っている。
この新しい聖なる都は、夫のために飾られた花嫁のように整えられ、神の御元から下ってくる。(黙21:1-2)
この都は、誰のために、花嫁のように飾られたのか。この都は、誰のために整えられたのか。それは、一度都の外で殺されたが、よみがえり、いつまでも生きておられる真の王、イエスキリストのためである。
この新しいエルサレムこそ、キリストの花嫁、すなわち教会(エペソ6:22-24)であり、教会とは建物ではなく私達、すなわち、キリストを信じ、世から神の元へ「召しだされた者たち」である。
「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」(エペソ5:26-27)

その都には、もはや神殿は無い。神であられる主と、小羊とが都の神殿であり、人は神の臨在の内に、いつまでも住む。都には太陽も月もいらない。なぜなら、神の栄光が都を照らし、小羊が都の灯だからである。
もはや夜は無いため、都の門は一日中決して閉じることがない。全ての人々が、栄光と誉を携えて来るが、全て汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない。(黙示録21:22-27)
まことの王・イエスを一度拒否した都は、一度滅ぼされたが、この、人々から捨てられた主・イエスを王とした者達には、神の子とされる特権が与えられ、全てが新しくされ、神に整えられ、聖なる都とされる。

全ての人々には、二通りの道が示されている。まことの王を強情に拒み、永遠の火の中に閉じ込められるか。それとも、まことの王を受け入れて、新しいエルサレムとなって花婿なるキリストと共に永遠に生きるか。
エルサレムの都は、花嫁であり、王なるキリストは花婿である。都の中に王が入って来る時、門を大きく広げ、王を歓迎して迎えるように、私達花嫁は心を大きく広げ、花婿を喜び迎えるのである。(詩24:7-10)
心の戸を広げ、救い主であり、王の王であり、花婿であるイエスを喜んで受け入れ、とこしえに、その真の夫と共に生きる皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

主の山に登る時は(創世記22章)
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神様に何かを捧げようとする時、考えても頑張っても、捧げるべきものに自信が無くなって行く事がある。
それは神様を敬う人、最善のものを捧げようとする人であるならあるほど経験する事であるが、そういう時は自分でやりくりしたり頑張ったりする事を止め、主の前に身を横たえ、全てを委ねた時、主が示しを与える。
主はアブラハムに主が示された山モリヤに行き、自分の愛する子イサクを捧げるよう命じられた。(創22章)
彼が主の言葉に口答えしたり、つぶやいたりした記録は一切無く、ただ言われた通り、翌朝早く準備を整え、その場所へ行き、イサクを縛り、ほふろうとして刀を取った。主は、恐らく慌てて、止めるように命じた。
「アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。」(創世記22:13-14)
私達も、3日の従順を経て主の山に登り、主の祭壇に身を横たえ、御言葉の剣の前に服すなら、主は私達を3日目に死から救い出し、捧げるべき良き物さえも、主が備えて下さるのだ。

皆さんが主の山に登る時、すなわち礼拝に来る時、何を期待して行くだろうか?主に出会う事だろうか?主が「備え」て下さる何かを、頂く事だろうか? 主の山での礼拝においては、優先すべき順序がある。
まず、私達の側が、主の御前に自らを横たえ、御言葉の前に自らを下ろすなら、主が備えて下さるのだ。
「何よりもまず神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらの物はみな加えて与えられる。」(マタ6:33)
主が備えて下さるものは欲しいの、でも主の山に登らない者、登っても御言葉の前に身を置かない者、食べ物や着る物ばかりを求め、神の国と義を求めない者は、何も与えられず、それら全てに逃げられてしまう。

アブラハムがイサクを捧げたこのモリヤ山は、後の時代、エルサレム神殿となった場所である。(2歴代3:1)
そこはエブス人オルナンの打ち場で、ダビデが人口を数える事で主に罪を犯し、その災いとして、御使が3日間、抜き身の剣を差し伸べ、イスラエルの民を打っていた場所だった。(1歴21章,2サム24章)
数を数える事そのものは罪ではない。民数記では神がモーセに「民を数えよ」と言われたし、アブラハムにも「星を数えることができるなら、数えてみよ」と言われた。いずれも、神の恵みを悟らせるためである。
神が与えた祝福であるのに、ダビデは自分の欲のため、自分が誇るため、勝手に数えたから、罪とされた。
ネブカデネザル王も、バビロンの栄華を「私がしたのだ」と驕り高ぶった時、地位を落とされた。(ダニ4章)
神の恵みを忘れ、祝福を自分のおかげとし、自分の誇りとするために数える時、主は災いをもたらす。
イスカリオテのユダは、聖徒の捧げ物を値積もり、自分で打算する事を最後まで続け、滅びに至った。
ベオルの子バラムは、イスラエルを呪うよう雇われた時、御心は「行くな」だったのに、不義の報酬が並べられるとそれを愛し、行こうとしたので、御使いが抜き身の剣を持って彼に立ちふさがった。(民数記22章)
肉欲に魅せられ、数え、我が物にしようと、主の御言葉を超えて行く者には、主は剣を持って立ちはだかる。
ダビデはヨアブの制止にもかかわらず、強引に数えたため、主の使いがエブス人オルナンの打ち場に現れ、抜き身の剣がイスラエルに及んだ。

オルナンは滅ぼされるべきエブス人で、主の使いが自分の打ち場に現れているのに、全く恐れず、小麦を粉々に砕くため打穀していた。彼には全てを捧げる心の用意があったから恐れが無かったのかもしれない。
礼拝とは主の前に自らを砕く事で、主に喜ばれる捧げ物とは、砕かれた魂、悔いた心である。(詩篇51:17)
主は、モリヤの山、すなわちエブス人オルナンの打ち場に祭壇を築くよう、ダビデに指示された。
ダビデはそこへ登って行った時、オルナンはひれ伏して全て差し上げると言ったが、ダビデは、自分の財布を痛めずに礼拝を捧げたくない、と、相当の代価で買取り、礼拝を捧げ、そこを神殿の場所と定めた。
主はこの山で、アブラハムに御言葉の前に砕かれる事を迫り、ダビデにも迫った。私達も、主の山に登る時、御言葉の前に自分を砕き、御言葉に切り分けて頂くのである。
御言葉の前に身を横たえ、砕かれ、3日の後に主からいのちをいただき、新しいいのちにおいて、主から豊かに備えられ、祝福される皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

主を主としているか?(1サムエル4章)
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「イスラエルびとは出てペリシテびとと戦おうとして、エベネゼルのほとりに陣をしき、ペリシテびとはアペクに陣をしいた。ペリシテびとはイスラエルびとにむかって陣備えをしたが、戦うに及んで、イスラエルびとはペリシテびとの前に敗れ、ペリシテびとは戦場において、おおよそ四千人を殺した。」(1サムエル4:1-2)
この時、彼らは異国の神々にも仕え(7:4)、心から主に従っておらず、戦いに出る大義も名分も無かった。
イスラエルが勝利するのは、神を主としている時であり、主が「行け」と命じられた時、信じて行けば、必ず勝てた。ギデオンの時は13万5千人に300人で勝利したし、ヨナタンの時は、戦車3万、歩兵は数え切れない程であっても、信仰ある二人が立ち向かって、勝利へと導いた。(1サム13-14章)
しかし、イスラエルが不信仰の時は、いかに大軍で戦いに行っても、負ける事は確定している。
出エジプトの民が不信仰によって、荒野で40年さ迷う事が確定してしまった時、民の一部は、主が命じられていないのに戦いに行こうとし、モーセは「主があなたたちのうちにおられないのだから、上って行ってはいけない・・・主に背いたから、主はあなたたちと共におられない。」(民14:41-43)と言ったのに、聞かずに出て行き、惨敗して多くの犠牲を出してしまった。

『イスラエルの長老たちは言った。「なぜ主は今日、我々がペリシテ軍によって打ち負かされるままにされたのか。主の契約の箱をシロから我々のもとに運んで来よう。そうすれば、主が我々のただ中に来て、敵の手から救ってくださるだろう。』(1サムエル4:3) 彼らは、敗北の原因が自分たちの側にあるとはつゆ思わず、我々が欲しい勝利を得るために、主の契約の箱を我々の側に運んで来れば勝利するだろう、と考えた。
つまり、我々が神に従おう、というのではなく、神が我々に従ってもらおう、という心である。
そのような心で望んだ結果、イスラエルは三万人が倒れる大打撃に遭い、契約の箱は奪われ、時の祭司エリ息子、ホフニとピネハスは死んだ。
祭司が、戒めるべき人達を戒めず、神である主より人を重んじ、主が受け取るべき聖徒の捧げものを横領し続け、主から2度も警告が与えられて久しいのに、改めなかったからである。(1サム2:27-36、3:11-14)
教会の熟練牧師が全て奪われ、自分たちの信仰の置き所も奪われてしまったような出来事で、その時、彼らには絶望のように見えたが、実はこの時、イスラエルにとっては悔い改めるチャンスの時であった。
「卑しめられたのはわたしのために良い事でした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました」(詩119:71)

あなたは人生の諸々の戦いにおいて、勝ち、負け、どちらにあるだろうか?神の民と一緒にいるから勝てる、というものではなく、口先で神を担ぎだしているから勝てるというものでもない。
契約の箱を持って行けば安易に勝てるというものではないし、十字架を持って悪霊の館に行けば悪霊が安易に逃げるというものでもない。大切なのは、契約の板 に書かれてある内容を守り行なっているかどうかであり、日々、十字架を負って自分には死に、キリストに生きて頂いているか。それが重要である。
どなたを「主」に据えているか。勝利はそこにかかっている。
「主」。つまり自分の人生の主人公、自分の主人、持ち主。あなたが服従しようとしている主は、誰だろうか。
「主」を「自分」に据えているなら、自分の限界以上の事は出来ず、自分より強いものには勝てない。
サライは、約束が中々成就されないという信仰の試練の時、主に聞く事をせず、焦って、身勝手な解決方法を考案し、世の解決法に従って行動した結果、自分よりも、若さにおいて、美しさにおいて、女として子を宿す力において、ハガルよりも劣っている自分が浮き彫りにされ、見下げられ、惨めになった。(創16章)
「主」を「自分」に据え、世の価値基準で肉の判断で生きるなら、主の助けは自分の側には無く、そればかりか、世の価値基準から嘲られ、肉的に強い者に負け、見下げられてしまうのである。
しかし、いと高き神のもとに身を寄せて隠れ、全能の神の陰に宿る人には、主はいかなる災いや罠、言葉からも救い出し、飛び交う矢も、暗黒を歩く病魔も恐れる事は無く、たとい傍らに千の人、右手に万の人が倒れようとも、災いがふりかかる事は無い。(詩篇91編)主は御使いに命じて運ばせ、足が石に当たらないよう、どこにおいても守らせ、また、獅子と毒蛇を踏みにじらせ、獅子の子と大蛇をも、踏み行かせて下さる。
主イエスを信頼して進み、あらゆる領域で守られ、サタンを踏み砕き、主とともに勝利の凱旋へと連なる皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

間に合う今の内に(ルカ16:19-31)
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人は、やがて死ぬ。その日は分からず、生きて自由に判断し、行動できる時間は、量り定められている。
人生は、選択と行動の積み重ねで構成されており、どう積み重ねたかかによって、永遠が査定され、パラダイスという慰めの所に行くか、ハデスという苦しみの所に行くか、二つに一つである。
ラザロも金持ちも、アブラハムを知っていた。彼ら二人はアブラハムの子孫で、遠いながらも兄弟の関係であった。実は、私達も、信仰によってアブラハムの子孫であり、彼らと同じ立場にある。

ラザロは「食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた」。という事は、ラザロは金持ちから直接食べ物を頂くどころか、こぼれ落ちるものさえ、頂く事が出来ていなかったようである。
兄弟姉妹が飢えているなら食べ物を、裸であるなら着る物を与えることが律法では命じられている。
金持ちは、贅沢品の衣服を着、毎日贅沢に遊び暮らす財力があったのに、また、犬さえ彼のおできをなめて慰めをかけていたというのに、金持ちはラザロに食べ物を与えず、食べ物をこぼす事さえなかった。
「やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。」(22節) 金持ちは葬儀も豪勢だったろうが、葬儀で行き先は変えられない。
何によって行き先が決まるのだろうか? 金持ちが必ずハデスに行く訳ではない。事実アブラハムは非常に富んでいる。アブラハムの側に行くことが出来る条件、それは信仰である。
アブラハムは「子よ、思い出してみなさい」と言った。アブラハムの願いは、子が全て自分の側に来る事であるが、それは私の願いでもある。これを読む者皆が、信仰の父・アブラハムの側に行くように願っている。
ハデスに行ってしまった子や家族、知り合いに対しては、いかにアブラハムといえど、肉親といえど、牧師といえど、そしてイエス様といえど、何も為す術は無い。間に合うべき時にそれぞれが為すのみである。
金持ちに関しては、生前ラザロに対して何もしないまま査定の時間が切れ、間に合わなかった。

金持ちは、生きている兄弟達にラザロを遣わし、こんな苦しみの場所に来ることがないよう、よく言い聞かせて下さい、とお願いをしたが、アブラハムの応えは、「彼らにはモーセと預言者がいる」だった。
今、皆さんもモーセと預言者、すなわち、聖書を持っている。皆さんも、御言葉に聞き従うべきである。
御言葉にどう対処し、どこへ行き着くかは、皆さん自身にかかっている。金持ちは自分の考えを「死んでも」降ろさず、自分のよかれを主張し、御言葉に無いことをお願いしては、ことごとく突っぱねられた。
彼の最初の願いは、ラザロの指で舌を冷やすように、であったが、実に興味深い願いをするものだ。
ハデスと舌は、実に関係が深く、人は、舌の用いようによって、火に投げ込まれる事もある。(ヤコブ3章)
この金持ち、舌が達者なようで、アブラハムに「いいえ」と言ったり、口先三寸で何か言いくるめようとした。
生前、彼より弱い立場だったラザロを利用しようと計り、舌を駆使した所で、永遠の査定が覆る訳はない。
ラザロは、金持ちにとって無力だったかもしれない。現代を生きる皆さんにとって、イエス様は無力に見えるかもしれないが、しかし死人の中から蘇えられた、この御方をどう扱うか、今、判断が委ねられている。

金持ちにとって、ラザロが彼の面前に現れた時、彼がパラダイスへ行く事の出来る、最後のチャンスだった。
しかし彼はラザロを軽んじ、律法と預言者を軽んじ、自分の欲望を選択し続け、時間が来てしまった。
今、皆さんの目の前に、ラザロはいるだろうか? 気分いかんで賛美しなかったり、御言葉を「そうじゃなくて」と退けたり、あくまで自分の良かれを手放さないなら、皆さんのラザロは、放って置かれているのだ。
今、皆さんは生きて、ここで礼拝を捧げているが、やがて、パラダイスかハデスに行く時間が来る。
ハデスに行ってしまった時、はるか上に生前共に礼拝を捧げたあの兄弟この姉妹を見て後悔する者が一人もいないようにと、私は願い、祈っているし、アブラハムも、肉親も、そして、主イエス様も、祈っている。
皆さんの自由意思は、肉親も、牧師も、イエスキリストといえども、侵す事は出来ないが、私は勧める。
どうか、自分の良かれを捨て、皆さんのラザロを捨て置く事なく 御言葉へ従順する事を選択して、パラダイスへと向かう皆さんでありますように。
パラダイスに行った時、礼拝を捧げていたあの時間が本当に幸いだったな、本当に御言葉の通りだったな、と、良い思い出を懐かしみつつ、共に思い返す私達でありますように。イエス様の名前によって祈ります!

求めなさい(ルカ11:9-13)
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皆さんは、何をしに教会へ来ているだろうか? 私はかつて、教会という場所にとりあえず来て、会衆席の後ろに入り込んで、適当に話を聞いて、賛美を口パクして、適当に聖書を読んでいれば、きっと何かご利益があって、そいういう生活を何年か続けていれば、天国に行けるのかなあ、と、おぼろげに思っていた。
もし神がいるならどうして自分はこんな目に遭うのか?と思う事はあっても、教会の人脈を断つのはデメリットしか無いので、付かず離れずの生活をずるずると十数年送ったが、特に何かを得たという物は無かった。

ある時、教会にシンガポールの社会人宣教チームが、泊まりがけで来た。彼らも普通の社会人で、自分の尊い有給休暇や財産を投げ打って、伝道するための片言の日本語も勉強して、わざわざ日本に来たのだ。
当時私は、彼らのお人好しすぎる行動に、一体何のメリットがあるのか、と、理解できなかった。
彼らのモチベーションは一体どこから出てくるのだろう。もしかしたら、実は、神様は魅力的で、実は聖書は宝に満ちていて、彼らを良い行いへと突き動かした原動力が秘められているのでは、と思うようになった。
その時以来、私は祈るようになった。「神様、本当にいるなら、私にも現れて下さい。私にも、彼らが見たあなたの良さを見せ、御言葉の中に隠れた宝を私にも見せ、良い行いができる力を与えて下さい。」
そう祈るようになって以来、否が応でも、神様は生きて働いておられる、と認めざるを得ない事が次々と起こり、主は良いお方で、麗しく、涙が出るような感覚のうちに迫って来られるお方だと、知るようになった。

『祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。』(ヨハネ7:37-38)  皆さんは日々の生活に、渇きを覚えているだろうか?
当時、私は渇きを覚えていたので、イエス様の名前を呼んで「私にもその水を下さい!」と呼びかけた。
イエス様は、昔いて今はいないような、偉人賢人の類ではなく、確かに生きておられ、実際に私の呼びかけに答えられ、信じて求めると、本当に私の腹の底から、潤いに満ちた喜びと平安が湧き出て来た!
「求めよ、そうすれば与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門を叩け、そうすればあけてもらえるであろう・・・天の父は求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか。」(ルカ 11:9-13)
御言葉は、世の始まる以前から存在する法則であり、御言葉をその通り信じて行えば、その通りになる。
そして、信じた者には聖霊が与えられ、聖霊は私達の腹の奥底から生ける水が川となって流れ出るように自分を潤し、周りを潤す。そしてそれは、求める者には惜しみなく与えられるのだ。

もちろん、ひとたび主と出会えば、求める事を止めて良い、というものではないし、いきなり信仰の達人になれるわけでもない。手足を使っていなかったら筋肉が弱くなってやせ細ってしまうように、信仰も、御言葉への従順も、使っていなかったら弱いままである。
皆さんの信仰や、御言葉を信頼する「霊の筋力」は、入院患者のように虚弱になっていないだろうか?
信仰も、御言葉への従順も、筋肉のように使う必要があり、使っていく内にどんどん強くなって行く。

私も最初は御言葉を疑っていたが、恐る恐る従順して行く内に、祝福は本当に注がれるのだと徐々に分かって行き、今もまだまだステップアップ中ではあるものの、以前よりも、はるかに祝福を享受した経験を積んで来たし、そして御言葉に裏切られた事は、一度も無かった。
決して渇くことのない水を飲んで喜びに溢れてしまったから、また、イエス様が私のために命を投げ出すほどの愛で愛してくださったと分かったから、この御方を伝えずにはいられなくなり、今に至っている。
「あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる。――主の御告げ。」(エレミヤ29:12-13a)
心を尽くして主を求め、主を見出し、この御方に決して変わることの無い安息を得る皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

聖霊降誕日(ペンテコステ)礼拝「炎の舌によって」(使徒2:1-4)
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聖霊が臨む時、力を受け、全世界に対し、主イエスの力強い証人となる。(使徒1:8)
主のその言葉どおり、五旬節の日、聖徒達がひとつ所に集まっていると、激しい風の響きが起こり、炎のような分かれた「舌」が一人ひとりに留まり、聖霊に満たされ、聖霊に促されるまま、異なる「舌」で話しだした。
ペンテコステにおける聖霊充満の、最も特徴的なしるしとは、「舌が変えられる事」である。
もし、聖霊に満たされている、と自認している人が、相変わらず自分由来の知恵や知識を語り、キリストにではなく自分に栄光を帰そうという動機で話しているとしたら、聖霊に満たされているとは言えない。
既に何度も語っている通り、聖霊はイエスキリストを栄光化する霊であり、聖霊充満の目的はイエスを大胆に証しし宣べ伝えるためである。聖霊に満たされるなら、以前は自分由来のものしか語れなかった者が、聖霊に促されるまま自分の知りえない「神の大きなみわざ」(使徒2:11)を語るようになり出すのである。

神の大きなみわざを語るには、まず、くちびるが聖なる炎によって、清められなくてはならない。
ペテロは聖霊に満たされる前、唇でよく過ちを犯した。変貌山では、自分でも良く分からない言葉を口走った(マルコ9:6)し、イエス様に「生ける神の子キリスト」と素晴らしい告白した直後、言葉で間違いを犯して「下がれ、サタン」と叱られ(マタイ16:23)、また、十字架の日、たとい一緒に死ぬ事になるとしても主を知らないなどとは決して言わない、と言っておきながら、その夜が明ける前に、三度も「主を知らない」と言った。
そんなペテロでさえ、聖なる炎の舌によって清められ、大胆にキリストを証するようになった。
また、預言者イザヤも、祭壇からの炭火を唇にあてがわれ、人間のことがらは全て聖なる火によって焼き清めていただいて、はじめて神に遣わされる者、神の言葉を伝える者となった。(イザヤ6:1-8)
人は、主の栄光に触れられると、いかに自分が汚れており、その汚れの源は「唇」である事が分かる。
いかに御前に相応しくないか示され絶望するが、主は祭壇で燃える炭火を唇に触れさせ、聖めて下さる。

聖霊を受けると、光が当てられ、明らかにされる事が3つある。
「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」(ヨハ16:8)
まず「罪について」。人は罪と聞くと普通、盗むとか姦淫を犯すとか、悪い事を想像するが、罪の根本とはイエス様を信じない事である。(同9節)
次に「義について」。義と言えば普通、何か正しい事だと想像するが、義とは、主が御父の元に行く事によって得られる(同10節)。なぜなら、人には元々、神の御前に義とされる要素は一切なく、ただ、主が人の身代わりとなって十字架につけられ、御父の元に行った事によってのみ、義が提供されたのである。
そして「裁きについて」であるが、裁きの本質とは、この世を支配する者、即ちサタンがさばかれた事である。
人は元々、神の似姿として罪無き存在として創られたが、サタンの惑わしによって罪と死が入ってしまった。
その神の似姿を汚したサタンこそ、裁かれるべきものであり、人が裁かれる事は、神の本意では無いのだ。
聖霊が与えられると、ますますそれらが明らかになって行く。キリストを信じない事こそ罪であるとますます分かり、義は自分由来でなく御元に上られた主から来るものであるとますます分かるようになり、人を裁く事は主の御旨ではなく、サタンこそ真の敵であり、真に憎むべき存在であると、ますます分かるようになる。
そして、御霊はキリストの栄光を現し、また、キリストのものを受けて、私達に知らせる。(同14-15節)

私達も聖霊に満たされるよう、求め、探し、叩き続けるべきである。(ルカ11:9-13)
弟子たちは、主の言葉どおりエルサレムを離れず、一つ所に集まって、祈りつつ約束を待ち続け、時が満ちた時、炎のような分かれた舌がそれぞれに留まり、約束通り聖霊に満たされ、力に満たされた。
私達も弟子たちのように、神の都から離れず、聖徒達と共に集まり、熱心に祈って聖霊を求めるべきである。
聖霊の炎によって人間由来の罪が焼き尽くされ、唇が聖められ、罪と義とさばきについてますます理解が与えられ、また、聖霊の力に満ち溢れて力強くキリストを証しする者となる。
主イエスの名によって、悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、手で蛇をつかみ、毒を受けても決して害を受けず、病人に手を置いて癒す事によって、イエス様に栄光を大いに捧げる皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
人は草のよう(イザヤ40:3-11):右クリックで保存

人は草や花のようにはかなく、福音の前に人はどんなに栄えても、人間的な上下は平らにされる。
私達が頼りとするべきは唯一、主イエスキリストのみである。

テモテを育てた母たち(2テモテ1:5-7)
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信仰と愛情によって子供を育てる母の存在は、実に偉大である。
ルツの義理の母ナオミは、夫に連れられて行った異国においても、嫁たちを信仰へと導き、ルツを立派な信仰者へと育て上げてボアズの元に嫁がせた。また、ボアズの母ラハブも、偏見の目に晒されたであろう環境の中にあっても、息子ボアズをしっかりとした信仰へと導き、御言葉を敬う信仰者へと育て上げた。
聖書には他にも偉大な母達がいるが、今回は、偉大な働き人テモテを育てた母親達を見ていきたい。

テモテは、パウロが出会った当初から見初められ、パウロから委ねられた重要なミッションを遂行し、パウロが投獄されると、彼の代わりに各地を宣教し、諸地方の教会を励まして回り、また、数々のパウロ書簡の共同差出人となったほどの、重要な働き人だった。
彼がそのような強力な働き人へと育った背後に、この信仰篤き母・ユニケや、祖母・ロイスの存在があった。
彼女たちが住み、テモテが育った場所は、ルステラという町で、パウロが最初にここを訪れた時、彼はユダヤの会堂ではなく、どこか公の場で宣教していたため、恐らくそこにはユダヤの会堂は無かったのだろう。
その代わり、町の門の所にはゼウス神殿があり(使徒14:13)、その神殿には常にゼウスの祭司が仕えているという、現代日本のように異教的な空気に満ちた環境であった。
パウロがルステラで伝道している時、生まれつき足のきかない足なえが、信仰によって癒されたが、それを見た群衆は、パウロ達を神々にしてしまい、祭司は彼らに、いけにえを捧げようとさえした。(使徒14:8-18)
その直後、群衆はユダヤ人の扇動によって、いとも簡単に心を翻し、今度はパウロを石打にしてしまった。
このように、彼の育った環境は、異教的で、節操が無く、あちらこちらへとなびき易い人達に囲まれていた。

テモテの父親はギリシア人であるが、名前が記されていない為、恐らく彼は信じるに至らなかったのだろう。
テモテは当初、割礼を受けていなかったが、もしかしたら父はユニケの願いを許さなかったのかもしれない。
そのように、節操なく異教的な環境の中、また、父親が不信仰であっても、偉大な働き人・テモテは、立派に育った。何によってか。それは母の祈りと、御言葉の教育によって、そして、御霊の助けを得てである。
現代日本を生きる私達も、いかに異教的な雰囲気の中にあろうと、いかに信仰の無い家族が共に住んでいようとも、祈りと御言葉によって聖めれば、主のために有用な働き人を育て上げる事が出来るのである。
私達には不可能に思える事でも、御霊の助けを得れば不可能な事は無く、辛く過酷に思える環境にあっても、御霊に導かれるなら、さほど大変とも思わずに、主の働きをやってのけてしまえるものである。

テモテは、ユニケやロイスの元で成長したが、やがて、彼女らの元から出て、神の働きへと出る時が来る。
母はいつまでも子と共にいる事は出来ないが、聖霊はいつも私達と共におられ、主の働きを為す事を助けて下さり、また、父なる神様の御前に、深いうめきによって、私達を取り成して下さるのだ。(ローマ8:26)
ツロ・フェニキアの女は、自分の娘のためにイエス様に願い続け、子犬呼ばわりされてもなお「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」と告白し、主から娘の癒しをいただいた。(マルコ7:24-30) 母の愛はこのように、子のためになら命を投げ出しても助けようとするが、御霊はなお深く、私達を救わんとしてうめき、取り成し、助けて下さるのだ。

パウロはテモテに、この力ある御霊を奮い立たせ、いつも御霊に頼るよう勧めた。
「わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。」(2テモテ1:6-7)
たとえ肉の母はいなくても、実の母以上に私達を愛し、深いうめきによって執り成して下さる御霊は、いつも共におり、例え私達は臆病にならざるを得ないような状況に置かれたとしても、力を与え、愛を与え、何を為すべきか・為さぬべきかの思慮分別をも、聖霊は与えて下さる。
私達は特に、信仰を育ててくれた霊的な母を敬うべきである。そして皆さん自身も、ロイスやユニケのように、霊的ないのちを生み、偉大な働き人を育てるようになりますように!イエス様の名前によって祝福します!

荒野の査定と永遠の報酬(ヘブル3:13−19)
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「ヘブル 4:3 信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。」
神の安息に入るには、どうすれば良いか。それは実にシンプルで、信じる事である。
安息に入った者は自分のわざ、自分のやりくりを終えて、神の為された創造のわざの内に、ただ安息する。
(ヘブル4:10)しかし、安息の地に入れず落伍して行く者もいる。それは、つぶやく者、不信仰の者である。

モーセの時代、出エジプトした群集全体は、安息の地へと導いて下さるという神様の約束を信じ、進んで行ったが、その民は、ヨシュアとカレブの二人を除いて全員、約束の地に入る事が出来なかった。
彼らは主のすばらしい御業を体験し、逆らう者に対する裁きの恐ろしさも、まじまじと見ながら、それでも自分の思い通りに行かないと、不平不満を言い、つぶやいたからだ。
「民に加わっていた雑多な他国人は飢えと渇きを訴え、イスラエルの人々も再び泣き言を言った。「誰か肉を食べさせてくれないものか。エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない。今では私達の唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで何もない。」(民11:4-6)
この不平をつぶやいたのは、途中、多く入り混じった雑多な外国人で、神の民は、彼らにつられてしまった。
人数が多ければ良いというものではない。不純な者達が雑多に入り混じってしまうと、彼らは余計な事を言って、余計な怒りやいらぬ欲望を駆り立たせ、本来ならつまづかないような者をも、躓かせてしまう。
しかし神は、彼らを決して神の国の祝福にあずからせる事はせず、荒野で篩い分け、ふるい落とし下さる。

彼らが貪欲に駆られ、「食べたい」と 豚のようにうるさく呟いたのは、薬味が強いもの、肉欲をそそるもので、それを食べた事のある大人はその味を思い出し、味を知らない子供達にはエジプトをあこがれさせ、神が日々下さるマナが、あたかもつまらないものであるかのように仕向けた。
豚が真珠を踏むように、神様の尊い憐れみを踏みにじり、兄弟姉妹の心を挫いても何とも思わず、彼らの善意にいつまでもブラブラぶら下っているような者は、死骸として晒されたまま荒れ野に置いて行かれる。
主は、彼らの汚い貪欲にもかかわらず、望みどおり、おびただしい程の肉を、飽きる程送ってくださった。
しかし、この貪欲な者達は、切望した肉を取って口まで持って行きはしたが、食べる事は出来なかった。
肉がまだ歯の間にあって、かみ切られないうちに、主は彼らを激しい疫病で打たれたからだ。(民11:33)
このように、神の恵みを忘れさせ、肉に駆られてつぶやく者は、望んだ物を手にしても食べられない。
主が約束して下さった祝福を軽んじる者も同様、祝福を見ても、食べる事は出来ない。(2列王7:16-20)
彼らはどんどん落伍して行くが、神の民は、減る事はない。

出エジプトして2年目の人口調査では、成人男性は603550人(民1:46)、カナンに入る直前に行われた2回目の人口調査では601730人(民26:51)、その差はわずか、1820人の減少である。
最初の人口調査は、編隊を組んで荒野を旅する便宜のためだったが、2回目の調査は、相続地をくじで割り当てる上で、多い部族には多く、少ない部族には少なく、割り当てる情報収集のためである。
荒野において、ある部族は半分以下に減り、ある部族はほぼ変わらず、ある部族はかなり増えた。
このように、荒野においては、信仰が査定され、誘惑に耐えて信頼し続ける者の子孫は着実に増えて行き、永遠に変わらない約束の相続地も増し加えられるが、そうでない者の子孫や相続は、減らされる。
豚のように不平を鳴らし、兄弟姉妹の信仰や神様の憐れみを踏みにじるような者達は、荒野に死体として置いて行かれ、最初の信仰をしっかりと貫く者は、約束の地に入り、そこで栄え、永遠に名を残すのである。

皆さんは荒野に死骸として置いてけぼりにされる者達だろうか? それとも、安息の地に向かって一歩一歩前進し、やがて安息と栄光を勝ち取る者達だろうか?
皆さんは荒野の時期にしっかり信仰に留まり、子孫を増やし、やがて継ぐ天の王国にて多くの領土を頂けるだろうか? それとも信仰に立つ時間よりも不信仰の時間を多くして、いのちを減らしてしまう者だろうか?
それは、皆さんの信仰次第である。
日々、信仰に歩み、安息の地に入れる皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

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