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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

主を主としているか?(1サムエル4章)
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「イスラエルびとは出てペリシテびとと戦おうとして、エベネゼルのほとりに陣をしき、ペリシテびとはアペクに陣をしいた。ペリシテびとはイスラエルびとにむかって陣備えをしたが、戦うに及んで、イスラエルびとはペリシテびとの前に敗れ、ペリシテびとは戦場において、おおよそ四千人を殺した。」(1サムエル4:1-2)
この時、彼らは異国の神々にも仕え(7:4)、心から主に従っておらず、戦いに出る大義も名分も無かった。
イスラエルが勝利するのは、神を主としている時であり、主が「行け」と命じられた時、信じて行けば、必ず勝てた。ギデオンの時は13万5千人に300人で勝利したし、ヨナタンの時は、戦車3万、歩兵は数え切れない程であっても、信仰ある二人が立ち向かって、勝利へと導いた。(1サム13-14章)
しかし、イスラエルが不信仰の時は、いかに大軍で戦いに行っても、負ける事は確定している。
出エジプトの民が不信仰によって、荒野で40年さ迷う事が確定してしまった時、民の一部は、主が命じられていないのに戦いに行こうとし、モーセは「主があなたたちのうちにおられないのだから、上って行ってはいけない・・・主に背いたから、主はあなたたちと共におられない。」(民14:41-43)と言ったのに、聞かずに出て行き、惨敗して多くの犠牲を出してしまった。

『イスラエルの長老たちは言った。「なぜ主は今日、我々がペリシテ軍によって打ち負かされるままにされたのか。主の契約の箱をシロから我々のもとに運んで来よう。そうすれば、主が我々のただ中に来て、敵の手から救ってくださるだろう。』(1サムエル4:3) 彼らは、敗北の原因が自分たちの側にあるとはつゆ思わず、我々が欲しい勝利を得るために、主の契約の箱を我々の側に運んで来れば勝利するだろう、と考えた。
つまり、我々が神に従おう、というのではなく、神が我々に従ってもらおう、という心である。
そのような心で望んだ結果、イスラエルは三万人が倒れる大打撃に遭い、契約の箱は奪われ、時の祭司エリ息子、ホフニとピネハスは死んだ。
祭司が、戒めるべき人達を戒めず、神である主より人を重んじ、主が受け取るべき聖徒の捧げものを横領し続け、主から2度も警告が与えられて久しいのに、改めなかったからである。(1サム2:27-36、3:11-14)
教会の熟練牧師が全て奪われ、自分たちの信仰の置き所も奪われてしまったような出来事で、その時、彼らには絶望のように見えたが、実はこの時、イスラエルにとっては悔い改めるチャンスの時であった。
「卑しめられたのはわたしのために良い事でした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました」(詩119:71)

あなたは人生の諸々の戦いにおいて、勝ち、負け、どちらにあるだろうか?神の民と一緒にいるから勝てる、というものではなく、口先で神を担ぎだしているから勝てるというものでもない。
契約の箱を持って行けば安易に勝てるというものではないし、十字架を持って悪霊の館に行けば悪霊が安易に逃げるというものでもない。大切なのは、契約の板 に書かれてある内容を守り行なっているかどうかであり、日々、十字架を負って自分には死に、キリストに生きて頂いているか。それが重要である。
どなたを「主」に据えているか。勝利はそこにかかっている。
「主」。つまり自分の人生の主人公、自分の主人、持ち主。あなたが服従しようとしている主は、誰だろうか。
「主」を「自分」に据えているなら、自分の限界以上の事は出来ず、自分より強いものには勝てない。
サライは、約束が中々成就されないという信仰の試練の時、主に聞く事をせず、焦って、身勝手な解決方法を考案し、世の解決法に従って行動した結果、自分よりも、若さにおいて、美しさにおいて、女として子を宿す力において、ハガルよりも劣っている自分が浮き彫りにされ、見下げられ、惨めになった。(創16章)
「主」を「自分」に据え、世の価値基準で肉の判断で生きるなら、主の助けは自分の側には無く、そればかりか、世の価値基準から嘲られ、肉的に強い者に負け、見下げられてしまうのである。
しかし、いと高き神のもとに身を寄せて隠れ、全能の神の陰に宿る人には、主はいかなる災いや罠、言葉からも救い出し、飛び交う矢も、暗黒を歩く病魔も恐れる事は無く、たとい傍らに千の人、右手に万の人が倒れようとも、災いがふりかかる事は無い。(詩篇91編)主は御使いに命じて運ばせ、足が石に当たらないよう、どこにおいても守らせ、また、獅子と毒蛇を踏みにじらせ、獅子の子と大蛇をも、踏み行かせて下さる。
主イエスを信頼して進み、あらゆる領域で守られ、サタンを踏み砕き、主とともに勝利の凱旋へと連なる皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

間に合う今の内に(ルカ16:19-31)
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人は、やがて死ぬ。その日は分からず、生きて自由に判断し、行動できる時間は、量り定められている。
人生は、選択と行動の積み重ねで構成されており、どう積み重ねたかかによって、永遠が査定され、パラダイスという慰めの所に行くか、ハデスという苦しみの所に行くか、二つに一つである。
ラザロも金持ちも、アブラハムを知っていた。彼ら二人はアブラハムの子孫で、遠いながらも兄弟の関係であった。実は、私達も、信仰によってアブラハムの子孫であり、彼らと同じ立場にある。

ラザロは「食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた」。という事は、ラザロは金持ちから直接食べ物を頂くどころか、こぼれ落ちるものさえ、頂く事が出来ていなかったようである。
兄弟姉妹が飢えているなら食べ物を、裸であるなら着る物を与えることが律法では命じられている。
金持ちは、贅沢品の衣服を着、毎日贅沢に遊び暮らす財力があったのに、また、犬さえ彼のおできをなめて慰めをかけていたというのに、金持ちはラザロに食べ物を与えず、食べ物をこぼす事さえなかった。
「やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。」(22節) 金持ちは葬儀も豪勢だったろうが、葬儀で行き先は変えられない。
何によって行き先が決まるのだろうか? 金持ちが必ずハデスに行く訳ではない。事実アブラハムは非常に富んでいる。アブラハムの側に行くことが出来る条件、それは信仰である。
アブラハムは「子よ、思い出してみなさい」と言った。アブラハムの願いは、子が全て自分の側に来る事であるが、それは私の願いでもある。これを読む者皆が、信仰の父・アブラハムの側に行くように願っている。
ハデスに行ってしまった子や家族、知り合いに対しては、いかにアブラハムといえど、肉親といえど、牧師といえど、そしてイエス様といえど、何も為す術は無い。間に合うべき時にそれぞれが為すのみである。
金持ちに関しては、生前ラザロに対して何もしないまま査定の時間が切れ、間に合わなかった。

金持ちは、生きている兄弟達にラザロを遣わし、こんな苦しみの場所に来ることがないよう、よく言い聞かせて下さい、とお願いをしたが、アブラハムの応えは、「彼らにはモーセと預言者がいる」だった。
今、皆さんもモーセと預言者、すなわち、聖書を持っている。皆さんも、御言葉に聞き従うべきである。
御言葉にどう対処し、どこへ行き着くかは、皆さん自身にかかっている。金持ちは自分の考えを「死んでも」降ろさず、自分のよかれを主張し、御言葉に無いことをお願いしては、ことごとく突っぱねられた。
彼の最初の願いは、ラザロの指で舌を冷やすように、であったが、実に興味深い願いをするものだ。
ハデスと舌は、実に関係が深く、人は、舌の用いようによって、火に投げ込まれる事もある。(ヤコブ3章)
この金持ち、舌が達者なようで、アブラハムに「いいえ」と言ったり、口先三寸で何か言いくるめようとした。
生前、彼より弱い立場だったラザロを利用しようと計り、舌を駆使した所で、永遠の査定が覆る訳はない。
ラザロは、金持ちにとって無力だったかもしれない。現代を生きる皆さんにとって、イエス様は無力に見えるかもしれないが、しかし死人の中から蘇えられた、この御方をどう扱うか、今、判断が委ねられている。

金持ちにとって、ラザロが彼の面前に現れた時、彼がパラダイスへ行く事の出来る、最後のチャンスだった。
しかし彼はラザロを軽んじ、律法と預言者を軽んじ、自分の欲望を選択し続け、時間が来てしまった。
今、皆さんの目の前に、ラザロはいるだろうか? 気分いかんで賛美しなかったり、御言葉を「そうじゃなくて」と退けたり、あくまで自分の良かれを手放さないなら、皆さんのラザロは、放って置かれているのだ。
今、皆さんは生きて、ここで礼拝を捧げているが、やがて、パラダイスかハデスに行く時間が来る。
ハデスに行ってしまった時、はるか上に生前共に礼拝を捧げたあの兄弟この姉妹を見て後悔する者が一人もいないようにと、私は願い、祈っているし、アブラハムも、肉親も、そして、主イエス様も、祈っている。
皆さんの自由意思は、肉親も、牧師も、イエスキリストといえども、侵す事は出来ないが、私は勧める。
どうか、自分の良かれを捨て、皆さんのラザロを捨て置く事なく 御言葉へ従順する事を選択して、パラダイスへと向かう皆さんでありますように。
パラダイスに行った時、礼拝を捧げていたあの時間が本当に幸いだったな、本当に御言葉の通りだったな、と、良い思い出を懐かしみつつ、共に思い返す私達でありますように。イエス様の名前によって祈ります!

求めなさい(ルカ11:9-13)
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皆さんは、何をしに教会へ来ているだろうか? 私はかつて、教会という場所にとりあえず来て、会衆席の後ろに入り込んで、適当に話を聞いて、賛美を口パクして、適当に聖書を読んでいれば、きっと何かご利益があって、そいういう生活を何年か続けていれば、天国に行けるのかなあ、と、おぼろげに思っていた。
もし神がいるならどうして自分はこんな目に遭うのか?と思う事はあっても、教会の人脈を断つのはデメリットしか無いので、付かず離れずの生活をずるずると十数年送ったが、特に何かを得たという物は無かった。

ある時、教会にシンガポールの社会人宣教チームが、泊まりがけで来た。彼らも普通の社会人で、自分の尊い有給休暇や財産を投げ打って、伝道するための片言の日本語も勉強して、わざわざ日本に来たのだ。
当時私は、彼らのお人好しすぎる行動に、一体何のメリットがあるのか、と、理解できなかった。
彼らのモチベーションは一体どこから出てくるのだろう。もしかしたら、実は、神様は魅力的で、実は聖書は宝に満ちていて、彼らを良い行いへと突き動かした原動力が秘められているのでは、と思うようになった。
その時以来、私は祈るようになった。「神様、本当にいるなら、私にも現れて下さい。私にも、彼らが見たあなたの良さを見せ、御言葉の中に隠れた宝を私にも見せ、良い行いができる力を与えて下さい。」
そう祈るようになって以来、否が応でも、神様は生きて働いておられる、と認めざるを得ない事が次々と起こり、主は良いお方で、麗しく、涙が出るような感覚のうちに迫って来られるお方だと、知るようになった。

『祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。』(ヨハネ7:37-38)  皆さんは日々の生活に、渇きを覚えているだろうか?
当時、私は渇きを覚えていたので、イエス様の名前を呼んで「私にもその水を下さい!」と呼びかけた。
イエス様は、昔いて今はいないような、偉人賢人の類ではなく、確かに生きておられ、実際に私の呼びかけに答えられ、信じて求めると、本当に私の腹の底から、潤いに満ちた喜びと平安が湧き出て来た!
「求めよ、そうすれば与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門を叩け、そうすればあけてもらえるであろう・・・天の父は求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか。」(ルカ 11:9-13)
御言葉は、世の始まる以前から存在する法則であり、御言葉をその通り信じて行えば、その通りになる。
そして、信じた者には聖霊が与えられ、聖霊は私達の腹の奥底から生ける水が川となって流れ出るように自分を潤し、周りを潤す。そしてそれは、求める者には惜しみなく与えられるのだ。

もちろん、ひとたび主と出会えば、求める事を止めて良い、というものではないし、いきなり信仰の達人になれるわけでもない。手足を使っていなかったら筋肉が弱くなってやせ細ってしまうように、信仰も、御言葉への従順も、使っていなかったら弱いままである。
皆さんの信仰や、御言葉を信頼する「霊の筋力」は、入院患者のように虚弱になっていないだろうか?
信仰も、御言葉への従順も、筋肉のように使う必要があり、使っていく内にどんどん強くなって行く。

私も最初は御言葉を疑っていたが、恐る恐る従順して行く内に、祝福は本当に注がれるのだと徐々に分かって行き、今もまだまだステップアップ中ではあるものの、以前よりも、はるかに祝福を享受した経験を積んで来たし、そして御言葉に裏切られた事は、一度も無かった。
決して渇くことのない水を飲んで喜びに溢れてしまったから、また、イエス様が私のために命を投げ出すほどの愛で愛してくださったと分かったから、この御方を伝えずにはいられなくなり、今に至っている。
「あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる。――主の御告げ。」(エレミヤ29:12-13a)
心を尽くして主を求め、主を見出し、この御方に決して変わることの無い安息を得る皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

聖霊降誕日(ペンテコステ)礼拝「炎の舌によって」(使徒2:1-4)
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聖霊が臨む時、力を受け、全世界に対し、主イエスの力強い証人となる。(使徒1:8)
主のその言葉どおり、五旬節の日、聖徒達がひとつ所に集まっていると、激しい風の響きが起こり、炎のような分かれた「舌」が一人ひとりに留まり、聖霊に満たされ、聖霊に促されるまま、異なる「舌」で話しだした。
ペンテコステにおける聖霊充満の、最も特徴的なしるしとは、「舌が変えられる事」である。
もし、聖霊に満たされている、と自認している人が、相変わらず自分由来の知恵や知識を語り、キリストにではなく自分に栄光を帰そうという動機で話しているとしたら、聖霊に満たされているとは言えない。
既に何度も語っている通り、聖霊はイエスキリストを栄光化する霊であり、聖霊充満の目的はイエスを大胆に証しし宣べ伝えるためである。聖霊に満たされるなら、以前は自分由来のものしか語れなかった者が、聖霊に促されるまま自分の知りえない「神の大きなみわざ」(使徒2:11)を語るようになり出すのである。

神の大きなみわざを語るには、まず、くちびるが聖なる炎によって、清められなくてはならない。
ペテロは聖霊に満たされる前、唇でよく過ちを犯した。変貌山では、自分でも良く分からない言葉を口走った(マルコ9:6)し、イエス様に「生ける神の子キリスト」と素晴らしい告白した直後、言葉で間違いを犯して「下がれ、サタン」と叱られ(マタイ16:23)、また、十字架の日、たとい一緒に死ぬ事になるとしても主を知らないなどとは決して言わない、と言っておきながら、その夜が明ける前に、三度も「主を知らない」と言った。
そんなペテロでさえ、聖なる炎の舌によって清められ、大胆にキリストを証するようになった。
また、預言者イザヤも、祭壇からの炭火を唇にあてがわれ、人間のことがらは全て聖なる火によって焼き清めていただいて、はじめて神に遣わされる者、神の言葉を伝える者となった。(イザヤ6:1-8)
人は、主の栄光に触れられると、いかに自分が汚れており、その汚れの源は「唇」である事が分かる。
いかに御前に相応しくないか示され絶望するが、主は祭壇で燃える炭火を唇に触れさせ、聖めて下さる。

聖霊を受けると、光が当てられ、明らかにされる事が3つある。
「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」(ヨハ16:8)
まず「罪について」。人は罪と聞くと普通、盗むとか姦淫を犯すとか、悪い事を想像するが、罪の根本とはイエス様を信じない事である。(同9節)
次に「義について」。義と言えば普通、何か正しい事だと想像するが、義とは、主が御父の元に行く事によって得られる(同10節)。なぜなら、人には元々、神の御前に義とされる要素は一切なく、ただ、主が人の身代わりとなって十字架につけられ、御父の元に行った事によってのみ、義が提供されたのである。
そして「裁きについて」であるが、裁きの本質とは、この世を支配する者、即ちサタンがさばかれた事である。
人は元々、神の似姿として罪無き存在として創られたが、サタンの惑わしによって罪と死が入ってしまった。
その神の似姿を汚したサタンこそ、裁かれるべきものであり、人が裁かれる事は、神の本意では無いのだ。
聖霊が与えられると、ますますそれらが明らかになって行く。キリストを信じない事こそ罪であるとますます分かり、義は自分由来でなく御元に上られた主から来るものであるとますます分かるようになり、人を裁く事は主の御旨ではなく、サタンこそ真の敵であり、真に憎むべき存在であると、ますます分かるようになる。
そして、御霊はキリストの栄光を現し、また、キリストのものを受けて、私達に知らせる。(同14-15節)

私達も聖霊に満たされるよう、求め、探し、叩き続けるべきである。(ルカ11:9-13)
弟子たちは、主の言葉どおりエルサレムを離れず、一つ所に集まって、祈りつつ約束を待ち続け、時が満ちた時、炎のような分かれた舌がそれぞれに留まり、約束通り聖霊に満たされ、力に満たされた。
私達も弟子たちのように、神の都から離れず、聖徒達と共に集まり、熱心に祈って聖霊を求めるべきである。
聖霊の炎によって人間由来の罪が焼き尽くされ、唇が聖められ、罪と義とさばきについてますます理解が与えられ、また、聖霊の力に満ち溢れて力強くキリストを証しする者となる。
主イエスの名によって、悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、手で蛇をつかみ、毒を受けても決して害を受けず、病人に手を置いて癒す事によって、イエス様に栄光を大いに捧げる皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
人は草のよう(イザヤ40:3-11):右クリックで保存

人は草や花のようにはかなく、福音の前に人はどんなに栄えても、人間的な上下は平らにされる。
私達が頼りとするべきは唯一、主イエスキリストのみである。

テモテを育てた母たち(2テモテ1:5-7)
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信仰と愛情によって子供を育てる母の存在は、実に偉大である。
ルツの義理の母ナオミは、夫に連れられて行った異国においても、嫁たちを信仰へと導き、ルツを立派な信仰者へと育て上げてボアズの元に嫁がせた。また、ボアズの母ラハブも、偏見の目に晒されたであろう環境の中にあっても、息子ボアズをしっかりとした信仰へと導き、御言葉を敬う信仰者へと育て上げた。
聖書には他にも偉大な母達がいるが、今回は、偉大な働き人テモテを育てた母親達を見ていきたい。

テモテは、パウロが出会った当初から見初められ、パウロから委ねられた重要なミッションを遂行し、パウロが投獄されると、彼の代わりに各地を宣教し、諸地方の教会を励まして回り、また、数々のパウロ書簡の共同差出人となったほどの、重要な働き人だった。
彼がそのような強力な働き人へと育った背後に、この信仰篤き母・ユニケや、祖母・ロイスの存在があった。
彼女たちが住み、テモテが育った場所は、ルステラという町で、パウロが最初にここを訪れた時、彼はユダヤの会堂ではなく、どこか公の場で宣教していたため、恐らくそこにはユダヤの会堂は無かったのだろう。
その代わり、町の門の所にはゼウス神殿があり(使徒14:13)、その神殿には常にゼウスの祭司が仕えているという、現代日本のように異教的な空気に満ちた環境であった。
パウロがルステラで伝道している時、生まれつき足のきかない足なえが、信仰によって癒されたが、それを見た群衆は、パウロ達を神々にしてしまい、祭司は彼らに、いけにえを捧げようとさえした。(使徒14:8-18)
その直後、群衆はユダヤ人の扇動によって、いとも簡単に心を翻し、今度はパウロを石打にしてしまった。
このように、彼の育った環境は、異教的で、節操が無く、あちらこちらへとなびき易い人達に囲まれていた。

テモテの父親はギリシア人であるが、名前が記されていない為、恐らく彼は信じるに至らなかったのだろう。
テモテは当初、割礼を受けていなかったが、もしかしたら父はユニケの願いを許さなかったのかもしれない。
そのように、節操なく異教的な環境の中、また、父親が不信仰であっても、偉大な働き人・テモテは、立派に育った。何によってか。それは母の祈りと、御言葉の教育によって、そして、御霊の助けを得てである。
現代日本を生きる私達も、いかに異教的な雰囲気の中にあろうと、いかに信仰の無い家族が共に住んでいようとも、祈りと御言葉によって聖めれば、主のために有用な働き人を育て上げる事が出来るのである。
私達には不可能に思える事でも、御霊の助けを得れば不可能な事は無く、辛く過酷に思える環境にあっても、御霊に導かれるなら、さほど大変とも思わずに、主の働きをやってのけてしまえるものである。

テモテは、ユニケやロイスの元で成長したが、やがて、彼女らの元から出て、神の働きへと出る時が来る。
母はいつまでも子と共にいる事は出来ないが、聖霊はいつも私達と共におられ、主の働きを為す事を助けて下さり、また、父なる神様の御前に、深いうめきによって、私達を取り成して下さるのだ。(ローマ8:26)
ツロ・フェニキアの女は、自分の娘のためにイエス様に願い続け、子犬呼ばわりされてもなお「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」と告白し、主から娘の癒しをいただいた。(マルコ7:24-30) 母の愛はこのように、子のためになら命を投げ出しても助けようとするが、御霊はなお深く、私達を救わんとしてうめき、取り成し、助けて下さるのだ。

パウロはテモテに、この力ある御霊を奮い立たせ、いつも御霊に頼るよう勧めた。
「わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。」(2テモテ1:6-7)
たとえ肉の母はいなくても、実の母以上に私達を愛し、深いうめきによって執り成して下さる御霊は、いつも共におり、例え私達は臆病にならざるを得ないような状況に置かれたとしても、力を与え、愛を与え、何を為すべきか・為さぬべきかの思慮分別をも、聖霊は与えて下さる。
私達は特に、信仰を育ててくれた霊的な母を敬うべきである。そして皆さん自身も、ロイスやユニケのように、霊的ないのちを生み、偉大な働き人を育てるようになりますように!イエス様の名前によって祝福します!

荒野の査定と永遠の報酬(ヘブル3:13−19)
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「ヘブル 4:3 信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。」
神の安息に入るには、どうすれば良いか。それは実にシンプルで、信じる事である。
安息に入った者は自分のわざ、自分のやりくりを終えて、神の為された創造のわざの内に、ただ安息する。
(ヘブル4:10)しかし、安息の地に入れず落伍して行く者もいる。それは、つぶやく者、不信仰の者である。

モーセの時代、出エジプトした群集全体は、安息の地へと導いて下さるという神様の約束を信じ、進んで行ったが、その民は、ヨシュアとカレブの二人を除いて全員、約束の地に入る事が出来なかった。
彼らは主のすばらしい御業を体験し、逆らう者に対する裁きの恐ろしさも、まじまじと見ながら、それでも自分の思い通りに行かないと、不平不満を言い、つぶやいたからだ。
「民に加わっていた雑多な他国人は飢えと渇きを訴え、イスラエルの人々も再び泣き言を言った。「誰か肉を食べさせてくれないものか。エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない。今では私達の唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで何もない。」(民11:4-6)
この不平をつぶやいたのは、途中、多く入り混じった雑多な外国人で、神の民は、彼らにつられてしまった。
人数が多ければ良いというものではない。不純な者達が雑多に入り混じってしまうと、彼らは余計な事を言って、余計な怒りやいらぬ欲望を駆り立たせ、本来ならつまづかないような者をも、躓かせてしまう。
しかし神は、彼らを決して神の国の祝福にあずからせる事はせず、荒野で篩い分け、ふるい落とし下さる。

彼らが貪欲に駆られ、「食べたい」と 豚のようにうるさく呟いたのは、薬味が強いもの、肉欲をそそるもので、それを食べた事のある大人はその味を思い出し、味を知らない子供達にはエジプトをあこがれさせ、神が日々下さるマナが、あたかもつまらないものであるかのように仕向けた。
豚が真珠を踏むように、神様の尊い憐れみを踏みにじり、兄弟姉妹の心を挫いても何とも思わず、彼らの善意にいつまでもブラブラぶら下っているような者は、死骸として晒されたまま荒れ野に置いて行かれる。
主は、彼らの汚い貪欲にもかかわらず、望みどおり、おびただしい程の肉を、飽きる程送ってくださった。
しかし、この貪欲な者達は、切望した肉を取って口まで持って行きはしたが、食べる事は出来なかった。
肉がまだ歯の間にあって、かみ切られないうちに、主は彼らを激しい疫病で打たれたからだ。(民11:33)
このように、神の恵みを忘れさせ、肉に駆られてつぶやく者は、望んだ物を手にしても食べられない。
主が約束して下さった祝福を軽んじる者も同様、祝福を見ても、食べる事は出来ない。(2列王7:16-20)
彼らはどんどん落伍して行くが、神の民は、減る事はない。

出エジプトして2年目の人口調査では、成人男性は603550人(民1:46)、カナンに入る直前に行われた2回目の人口調査では601730人(民26:51)、その差はわずか、1820人の減少である。
最初の人口調査は、編隊を組んで荒野を旅する便宜のためだったが、2回目の調査は、相続地をくじで割り当てる上で、多い部族には多く、少ない部族には少なく、割り当てる情報収集のためである。
荒野において、ある部族は半分以下に減り、ある部族はほぼ変わらず、ある部族はかなり増えた。
このように、荒野においては、信仰が査定され、誘惑に耐えて信頼し続ける者の子孫は着実に増えて行き、永遠に変わらない約束の相続地も増し加えられるが、そうでない者の子孫や相続は、減らされる。
豚のように不平を鳴らし、兄弟姉妹の信仰や神様の憐れみを踏みにじるような者達は、荒野に死体として置いて行かれ、最初の信仰をしっかりと貫く者は、約束の地に入り、そこで栄え、永遠に名を残すのである。

皆さんは荒野に死骸として置いてけぼりにされる者達だろうか? それとも、安息の地に向かって一歩一歩前進し、やがて安息と栄光を勝ち取る者達だろうか?
皆さんは荒野の時期にしっかり信仰に留まり、子孫を増やし、やがて継ぐ天の王国にて多くの領土を頂けるだろうか? それとも信仰に立つ時間よりも不信仰の時間を多くして、いのちを減らしてしまう者だろうか?
それは、皆さんの信仰次第である。
日々、信仰に歩み、安息の地に入れる皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

まことの夫へと納まる(ルツ記4章(13-17))
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ルツは「あなたの神はわたしの神」という信仰告白によって神の恵みを拾う者になり、神の民に加えられ、また、信仰の先輩であるナオミに言われた通りに従順に実行して、ボアズの所に行った。
彼女はボアズに「あなたは誰か」と訊ねられた時、自分とボアズの関係を告白し、あなたの衣で自分を覆って下さいと願った。その御言葉への従順をボアズは賞賛し、ルツを迎え入れるための手続きへと入った。
「わたしの娘よ、成り行きがはっきりするまでじっとしていなさい。あの人は、今日中に決着がつかなければ、落ち着かないでしょう。」(3:18) 私達も、信仰の先輩たちの言う通り主の所に行き、自分が主のはしためである事を告白し、主の救いの衣の内に入らせて下さるよう願うなら、主はそれを喜び、主の方が心配して全ての算段を整えて下さり、私達が納まるべき所に納めるまで、働いて下さる。
私達の責任は信仰告白とその実践であり、後は皆、主が為して下さるのをじっと待っていれば良い。

ボアズは早速、正式にエリメレクの畑を買戻してルツをめとる為、ボアズよりも近い親類の者と、町の長老10人を呼び寄せ、座ってもらった。(4:1-2) 日本語聖書では丁寧な言葉で親類に呼びかけているように訳されているが、原文は、ボアズのほうが目上の立場としてこの親類に呼びかけており、また町の長老を10人も呼び寄せる所を見ると、ボアズはかなりの有力者で、また年長者であった(3:10)と見る事ができる。
かの親類は、資産はあったが、ルツをめとる事は拒んだ。なぜなら、そうしたら最初に生まれてくる息子は自分のものとはならず、ルツの亡夫マフロンの名を継がせなくてはならないからである。(申命記25:5-10)
栄光の家系を受け継ぐ者は、血肉を頼みとし、物質的・肉的な相続を優先させる者ではなく、信仰によって身寄りのない人を養い、御言葉を実践する者である。(1コリ15:45-50)
肉にある者は結局、自分の身を捨ててまで妻を愛しつくす事はできないし、養えるだけの甲斐性もないが、真のボアズであるイエス様は、自身を捨て私達を愛し、買い取って下さり、完全に養う事ができる。

こうしてボアズは、神と人との前で祝福されつつ、正式にルツをめとり、主はルツに男の子を授けて下さる。
律法によると本来、この子の名はマフロンとなるはずだが、女たちはなぜか「オベデ」と呼んだ。(4:17)
ルツの亡夫「マフロン」の名には「大きな欠点」「病弱」という意味があるが(ちなみにオルパの夫キルヨンは「浪費する」「消え失せる」の意味)、「オベデ」という名には「仕える」「僕」という意味がある。
ルツの以前の夫は病弱で、欠点があり、ルツを養いきれずに死んでしまったが、彼女は信仰によって、まことの夫・ボアス(名の意:「彼に内住する力」)へと嫁ぎ、買い戻され、完全に養われるようになった。
私達も以前、律法という不完全な夫に縛られていたが、キリストにあって古い自分に対して死に、また私たちも律法に対して死んだ結果、欠点や弱さから解放され、新しい霊に「仕える者」とされた。(ロマ7:1-6)

女たちは次のように言って喜んだ。「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。・・・その子はあなたの魂を生き返らせる者となり、老後の支えとなるでしょう。あなたを愛する嫁、七人の息子にもまさるあの嫁がその子を産んだのですから。」(4:14-15)
この子はナオミにとって、家を絶やさぬ者となり、老後に背負う者となった。
同じように、ひとりのみどりごが私達のために生まれた。その方こそ私達の主イエス様であり、彼は私達の主権者、ワンダフル・カウンセラーであり、力ある神、平和の君(イザヤ9:6)、 老後にも背負う者である。
『あなたはもはや「捨てられた者」と言われず、あなたの地はもはや「荒れた者」と言われず、あなたは「わが喜びは彼女にある」ととなえられ、あなたの地は「配偶ある者」ととなえられる。主はあなたを喜ばれ、あなたの地は配偶を得るからである。 若い者が処女をめとるように/あなたの子らはあなたをめとり、花婿が花嫁を喜ぶように/あなたの神はあなたを喜ばれる。』(イザヤ62:4-5 口語訳)
ここの「あなたの子らはあなたをめとり」の「子」の原意は、子孫や氏、国などの広い意味を持ち、「めとる」の原意は「主人になる」という意味である。
ルツの子オベデはナオミの老後を養う者となって子孫にダビデやイエスキリストが出たように、私達も信仰によってキリストを宿し、信仰によって生んだ霊的な子孫たちは後に私達を養い、そして私達ともども、キリストの花嫁、すなわち、神の教会(エクレシア:召し出された者達)として完成されて行くのである。

落穂拾い(ルツ記2章(1-3))
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ルツは信仰告白によって、ナオミに希望と喜びをもたらし、ひいてはイスラエル全体に祝福をもたらす器となったが、ベツレヘムに着いた時の彼女は、頼るべき男手も、財産も一切無い、異国出身の未亡人であり、ただ傷心に沈んでいる、無力なナオミが一緒にいるだけだった。
その時ルツは自分には何も出来ないと思っただろうし、一体何から行えば良いかも分からなかっただろう。
そんな彼女が、祝福の器へと変えられた第一歩は、落ち穂拾いであった。

イスラエルはルツにとって見知らぬ土地であり、外国人の彼女が、人様の畑に行って落ち穂を拾い集めるなど、どれほど勇気が要っただろう。人からいじめられて当然の行為(2:22)であるが、それでも、ただ膝をかがめて、憐れみにすがるしかない。そんな事は、よほど心砕かれていないと出来るものではない。
困った状況に陥った時、「自分は大丈夫だ」「人の憐れみなどいらない」などとやせ我慢をしてしまうと、そのプライドが更に自分を苦しめ、最後にはどうにもならない所へと、追い詰められてしまう。
神の恵みを頂くには、まず、そのような「誇り高さ」や「自尊心」は、打ち砕かれていなくてはならない。
どうすれば落穂(恵み)を拾う事ができるか? それは、膝をついて、低くかがむ事から始まる。
傷心のナオミと共に引きこもって、自分の境遇を嘆いたり、過去を思い巡らして自己憐憫に陥っていて何もしなかったりすると、落穂はどんどん鳥についばまれてしまうし、落穂を眺めつつプライドのために膝を屈める事をしないと、恵みのチャンスはどんどん逃げて行き、家族はどんどんお腹を空かせて行く。
主は憐れみ深い。どんなにそしりを受けても、口をちりにつけて主の救いを黙って求めるなら、主はいつまでも見放してはおられず、豊かな恵みによって憐れんでくださる。(哀歌3:22-32)

ルツは思い切って、刈り入れをしている一つの畑に飛び込んだが、「そこはたまたまエリメレクの一族のボアズが所有する畑地であった。」(2:3)
エリメレクはナオミの夫で、ルツはそれとは知らずに飛び込んだのだが、それは単なる偶然ではない。
ルツがこの畑に飛び込んだのも、ダビデがゴリアテに致命傷を負わせる石を放ったのも、一人の兵が悪王アハブに致命傷を負わせる矢を放ったのも、それら全ては「たまたま」であったが、主は導きによって、人や環境、状況を支配して御心を行い、信仰を持って第一歩を踏み出す者に、恵みを与えて下さる。
しかし、畑に飛び込まない者、石を投げない者、弓矢を引かない者には、何も下さらない。

ルツはプライドを捨て、信仰により落穂拾いへと身を投じ、そうして将来の夫・ボアズの保護下へと導かれたように、私達も、誇り高ぶる心を捨て、主の前に膝をかがめ身を低くする事によって、まことの夫であるキリストの保護下へと導かれるのだ。
ボアズは、ルツの精一杯の信仰告白を既にすっかり聞いており(2:11)、ルツが落穂を拾う事をじゃましないように若者たちにきつく命じた(同9節)ように、私達の主も、私達の小さな精一杯の信仰告白をしっかりと聞いて下さり、私達が恵みを拾うことを邪魔しないよう全ての物事にきつく命じてくださる。
ボアズはルツに、パン切れと酢に浸して食るよう、ねんごろに誘い、十分な量の煎り麦を与えてくれたように、私達の主も、キリストのからだを共に食しなさいと親しく語りかけ、家族を養う程の食料を与えて下さる。
ボアズはルツが束の間でも穂を拾うことを赦し、しかもわざと穂を抜き落とすよう僕達に命じ、叱ったり恥ずかしい思いをさせないよう命じたように、私達の主も、大胆に恵みの座に近づいて、折にかなった助けを存分に得る事を許され(ヘブル4:15-16)、恵みをわざと落とし、恥ずかしい思いをさせないよう命じて下さる。

『 「お前は誰だ」とボアズが言うとルツは答えた。「わたしは、あなたのはしためルツです。どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です。』(3:9新共同訳)
この告白はボアズを喜ばせ祝福させたように、私達も主になりふり構わず、体当たりで主に迫るべきである。
私たちの居場所は、キリストの衣の内側であり、キリストの脇腹の中である。
そこから迷い出る事なく、贖いの衣の内に包まれ、愛の内に育まれ、家族ともども養っていただく皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

大麦の刈り入れの頃(ルツ記1章(1-7))
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ナオミはユダヤのベツレヘムで夫・息子二人とで幸せに暮らしていた。しかしある時、飢饉のためにパンが無くなり、家族と相談の上、モアブに移住する事にした。 パンのあるモアブに来た当初は「来て良かったね」と語り合っていたかもしれないが、結論から言えば、全ての災いの始まりであった。
ユダヤ人にとって、「神の約束の地」を捨てて外国に行く事は、神ご自身を捨て、神の民たるアイデンティティを捨てるに等しい事であり、神の賜った叱責から逃げる事は、さらなる災いをその身に招く事になる。
しばらく忍耐すれば飢饉は去ったのに、この一家は困難から逃げ出したいばかりに、安易な解決方法に飛びついて選択を誤り、 神の約束を信じて忍耐する事を捨て、取り返しのつかない事になってしまった。
困難から逃れるために、自分で編み出した脱出方法に頼るよりも、主に信頼して忍耐し、主が解決して下さるのをじっと待つ方事の方が、確実な救いへと至るのだ。(詩篇37篇)

主の民から遠く離れ、モアブの野で淋しく取り残されてしまったナオミに、神がご自分の民を顧み、食べ物をお与えになった、という、風の便りが届いた。この風の便りはナオミの心に、神の国である自分の故郷を思い起こさせ、「わたしのもとに帰っておいで」という、主の優しい語りかけとして響いたに違いない。
私達も、このような神様からの語りかけを聞いていないだろうか?聞きつつも、離れていないだろうか?
ナオミは神の国に帰るまでに10年かかってしまい、その間、夫に先立たれ、息子にも先立たれてしまった。
大切なものを全て失い、ついに、自分の拠り所は主の元にしかないのだ、とナオミに分かったのだ。
放蕩息子は、父の所には有り余るほどパンがあるのに自分はここで飢え死にしそうだ、と我に返ったが、
自分がいかに神から離れ、神の望まれる形から離れてしまったかを、見つめ直す所から、回復は始まる。

「オルパはやがて、しゅうとめに別れの口づけをしたが、ルツはすがりついて離れなかった。」(14節)
オルパは、自分がナオミと一緒にいる事がナオミにとって苦しみとなる(13節)事を聞いて、ナオミの元を去ったのは、大人としての「思いやり」だったのかもしれないが、帰っていったのは偶像の神の元であった。
それに対しルツは、「あなたの民はわたしの民/あなたの神はわたしの神」と言って、まことの神を自分の神とする「信仰告白」をし、ナオミについて行こうとしたのだ。
いつまでも真に有益なのは、大人の対応でも人間的な思いやりでもなく、信仰・希望・愛である。
ルツにとって、ナオミについて行く事には、何のメリットもないが、ナオミにとっても、ルツは重荷だったかもしれないし、ユダヤでは特に役に立ちそうもない異邦の娘だったかもしれないが、それでも互いが互いにとって、いつも一緒にいる、かけがえのない家族なのだ。「愛は自分の利益を求めない」(1コリント13:5)。

ナオミにとっては10年ぶりの帰郷であったが、それは懐かしさよりも惨めさに満たされたものだった。
かつての知人たちは、口々に「ナオミさんではありませんか」と声をかけ、色々聞いて来たが、彼女にはそれが苦痛で耐えられず、「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。出て行くときは、満たされていたわたしを/主はうつろにして帰らせたのです。」(21,22節)と、自己卑下に満ちた言葉を返さざるを得なかった。
人々との交流が苦痛で仕方ない時こそ、真剣に神に向き合い、神に近づく事の出来るチャンスである。
家族やパンという「快さ」は、いつ「マラ」になってもおかしくはない。神は、ご自身以外のものによって快くなろうとする「ナオミ」は、「マラ」にされ、決して無くならず、色褪せる事のない「ナオミ」へと導かれる。
彼女のうつろな帰国は、そこへ導くための祝福へのステップであり、その鍵は、ルツの存在である。
ルツは、祝福の器となって、ナオミに希望と喜びをもたらすようになり、そればかりでなく、彼女はイスラエル全体に祝福をもたらす器となった。ルツの曾孫にダビデが生まれ、イエスキリストが生まれたのだ。
新約を生きる私達は、マラでもナオミでもなく、ルツである。なぜなら、ただ信仰によってイエスを宿すチャンスが、皆に一様に与えられているのだから。
大麦の刈り入れの頃、それは過越祭の直後、ちょうど今くらいのシーズンに始まり、神はちょうど豊作の年の、落穂の拾える時期、ベツレヘム(パンの家)へと、ベストのタイミングと場所へと、導いて下さる。
ルツとして信仰告白し、家族に、国全体に、祝福をもたらす皆さんでありますように!

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