メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ
まことの夫へと納まる(ルツ記4章(13-17))
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ルツは「あなたの神はわたしの神」という信仰告白によって神の恵みを拾う者になり、神の民に加えられ、また、信仰の先輩であるナオミに言われた通りに従順に実行して、ボアズの所に行った。
彼女はボアズに「あなたは誰か」と訊ねられた時、自分とボアズの関係を告白し、あなたの衣で自分を覆って下さいと願った。その御言葉への従順をボアズは賞賛し、ルツを迎え入れるための手続きへと入った。
「わたしの娘よ、成り行きがはっきりするまでじっとしていなさい。あの人は、今日中に決着がつかなければ、落ち着かないでしょう。」(3:18) 私達も、信仰の先輩たちの言う通り主の所に行き、自分が主のはしためである事を告白し、主の救いの衣の内に入らせて下さるよう願うなら、主はそれを喜び、主の方が心配して全ての算段を整えて下さり、私達が納まるべき所に納めるまで、働いて下さる。
私達の責任は信仰告白とその実践であり、後は皆、主が為して下さるのをじっと待っていれば良い。
ボアズは早速、正式にエリメレクの畑を買戻してルツをめとる為、ボアズよりも近い親類の者と、町の長老10人を呼び寄せ、座ってもらった。(4:1-2) 日本語聖書では丁寧な言葉で親類に呼びかけているように訳されているが、原文は、ボアズのほうが目上の立場としてこの親類に呼びかけており、また町の長老を10人も呼び寄せる所を見ると、ボアズはかなりの有力者で、また年長者であった(3:10)と見る事ができる。
かの親類は、資産はあったが、ルツをめとる事は拒んだ。なぜなら、そうしたら最初に生まれてくる息子は自分のものとはならず、ルツの亡夫マフロンの名を継がせなくてはならないからである。(申命記25:5-10)
栄光の家系を受け継ぐ者は、血肉を頼みとし、物質的・肉的な相続を優先させる者ではなく、信仰によって身寄りのない人を養い、御言葉を実践する者である。(1コリ15:45-50)
肉にある者は結局、自分の身を捨ててまで妻を愛しつくす事はできないし、養えるだけの甲斐性もないが、真のボアズであるイエス様は、自身を捨て私達を愛し、買い取って下さり、完全に養う事ができる。
こうしてボアズは、神と人との前で祝福されつつ、正式にルツをめとり、主はルツに男の子を授けて下さる。
律法によると本来、この子の名はマフロンとなるはずだが、女たちはなぜか「オベデ」と呼んだ。(4:17)
ルツの亡夫「マフロン」の名には「大きな欠点」「病弱」という意味があるが(ちなみにオルパの夫キルヨンは「浪費する」「消え失せる」の意味)、「オベデ」という名には「仕える」「僕」という意味がある。
ルツの以前の夫は病弱で、欠点があり、ルツを養いきれずに死んでしまったが、彼女は信仰によって、まことの夫・ボアス(名の意:「彼に内住する力」)へと嫁ぎ、買い戻され、完全に養われるようになった。
私達も以前、律法という不完全な夫に縛られていたが、キリストにあって古い自分に対して死に、また私たちも律法に対して死んだ結果、欠点や弱さから解放され、新しい霊に「仕える者」とされた。(ロマ7:1-6)
女たちは次のように言って喜んだ。「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。・・・その子はあなたの魂を生き返らせる者となり、老後の支えとなるでしょう。あなたを愛する嫁、七人の息子にもまさるあの嫁がその子を産んだのですから。」(4:14-15)
この子はナオミにとって、家を絶やさぬ者となり、老後に背負う者となった。
同じように、ひとりのみどりごが私達のために生まれた。その方こそ私達の主イエス様であり、彼は私達の主権者、ワンダフル・カウンセラーであり、力ある神、平和の君(イザヤ9:6)、 老後にも背負う者である。
『あなたはもはや「捨てられた者」と言われず、あなたの地はもはや「荒れた者」と言われず、あなたは「わが喜びは彼女にある」ととなえられ、あなたの地は「配偶ある者」ととなえられる。主はあなたを喜ばれ、あなたの地は配偶を得るからである。 若い者が処女をめとるように/あなたの子らはあなたをめとり、花婿が花嫁を喜ぶように/あなたの神はあなたを喜ばれる。』(イザヤ62:4-5 口語訳)
ここの「あなたの子らはあなたをめとり」の「子」の原意は、子孫や氏、国などの広い意味を持ち、「めとる」の原意は「主人になる」という意味である。
ルツの子オベデはナオミの老後を養う者となって子孫にダビデやイエスキリストが出たように、私達も信仰によってキリストを宿し、信仰によって生んだ霊的な子孫たちは後に私達を養い、そして私達ともども、キリストの花嫁、すなわち、神の教会(エクレシア:召し出された者達)として完成されて行くのである。
落穂拾い(ルツ記2章(1-3))
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ルツは信仰告白によって、ナオミに希望と喜びをもたらし、ひいてはイスラエル全体に祝福をもたらす器となったが、ベツレヘムに着いた時の彼女は、頼るべき男手も、財産も一切無い、異国出身の未亡人であり、ただ傷心に沈んでいる、無力なナオミが一緒にいるだけだった。
その時ルツは自分には何も出来ないと思っただろうし、一体何から行えば良いかも分からなかっただろう。
そんな彼女が、祝福の器へと変えられた第一歩は、落ち穂拾いであった。
イスラエルはルツにとって見知らぬ土地であり、外国人の彼女が、人様の畑に行って落ち穂を拾い集めるなど、どれほど勇気が要っただろう。人からいじめられて当然の行為(2:22)であるが、それでも、ただ膝をかがめて、憐れみにすがるしかない。そんな事は、よほど心砕かれていないと出来るものではない。
困った状況に陥った時、「自分は大丈夫だ」「人の憐れみなどいらない」などとやせ我慢をしてしまうと、そのプライドが更に自分を苦しめ、最後にはどうにもならない所へと、追い詰められてしまう。
神の恵みを頂くには、まず、そのような「誇り高さ」や「自尊心」は、打ち砕かれていなくてはならない。
どうすれば落穂(恵み)を拾う事ができるか? それは、膝をついて、低くかがむ事から始まる。
傷心のナオミと共に引きこもって、自分の境遇を嘆いたり、過去を思い巡らして自己憐憫に陥っていて何もしなかったりすると、落穂はどんどん鳥についばまれてしまうし、落穂を眺めつつプライドのために膝を屈める事をしないと、恵みのチャンスはどんどん逃げて行き、家族はどんどんお腹を空かせて行く。
主は憐れみ深い。どんなにそしりを受けても、口をちりにつけて主の救いを黙って求めるなら、主はいつまでも見放してはおられず、豊かな恵みによって憐れんでくださる。(哀歌3:22-32)
ルツは思い切って、刈り入れをしている一つの畑に飛び込んだが、「そこはたまたまエリメレクの一族のボアズが所有する畑地であった。」(2:3)
エリメレクはナオミの夫で、ルツはそれとは知らずに飛び込んだのだが、それは単なる偶然ではない。
ルツがこの畑に飛び込んだのも、ダビデがゴリアテに致命傷を負わせる石を放ったのも、一人の兵が悪王アハブに致命傷を負わせる矢を放ったのも、それら全ては「たまたま」であったが、主は導きによって、人や環境、状況を支配して御心を行い、信仰を持って第一歩を踏み出す者に、恵みを与えて下さる。
しかし、畑に飛び込まない者、石を投げない者、弓矢を引かない者には、何も下さらない。
ルツはプライドを捨て、信仰により落穂拾いへと身を投じ、そうして将来の夫・ボアズの保護下へと導かれたように、私達も、誇り高ぶる心を捨て、主の前に膝をかがめ身を低くする事によって、まことの夫であるキリストの保護下へと導かれるのだ。
ボアズは、ルツの精一杯の信仰告白を既にすっかり聞いており(2:11)、ルツが落穂を拾う事をじゃましないように若者たちにきつく命じた(同9節)ように、私達の主も、私達の小さな精一杯の信仰告白をしっかりと聞いて下さり、私達が恵みを拾うことを邪魔しないよう全ての物事にきつく命じてくださる。
ボアズはルツに、パン切れと酢に浸して食るよう、ねんごろに誘い、十分な量の煎り麦を与えてくれたように、私達の主も、キリストのからだを共に食しなさいと親しく語りかけ、家族を養う程の食料を与えて下さる。
ボアズはルツが束の間でも穂を拾うことを赦し、しかもわざと穂を抜き落とすよう僕達に命じ、叱ったり恥ずかしい思いをさせないよう命じたように、私達の主も、大胆に恵みの座に近づいて、折にかなった助けを存分に得る事を許され(ヘブル4:15-16)、恵みをわざと落とし、恥ずかしい思いをさせないよう命じて下さる。
『 「お前は誰だ」とボアズが言うとルツは答えた。「わたしは、あなたのはしためルツです。どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です。』(3:9新共同訳)
この告白はボアズを喜ばせ祝福させたように、私達も主になりふり構わず、体当たりで主に迫るべきである。
私たちの居場所は、キリストの衣の内側であり、キリストの脇腹の中である。
そこから迷い出る事なく、贖いの衣の内に包まれ、愛の内に育まれ、家族ともども養っていただく皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
大麦の刈り入れの頃(ルツ記1章(1-7))
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ナオミはユダヤのベツレヘムで夫・息子二人とで幸せに暮らしていた。しかしある時、飢饉のためにパンが無くなり、家族と相談の上、モアブに移住する事にした。 パンのあるモアブに来た当初は「来て良かったね」と語り合っていたかもしれないが、結論から言えば、全ての災いの始まりであった。
ユダヤ人にとって、「神の約束の地」を捨てて外国に行く事は、神ご自身を捨て、神の民たるアイデンティティを捨てるに等しい事であり、神の賜った叱責から逃げる事は、さらなる災いをその身に招く事になる。
しばらく忍耐すれば飢饉は去ったのに、この一家は困難から逃げ出したいばかりに、安易な解決方法に飛びついて選択を誤り、 神の約束を信じて忍耐する事を捨て、取り返しのつかない事になってしまった。
困難から逃れるために、自分で編み出した脱出方法に頼るよりも、主に信頼して忍耐し、主が解決して下さるのをじっと待つ方事の方が、確実な救いへと至るのだ。(詩篇37篇)
主の民から遠く離れ、モアブの野で淋しく取り残されてしまったナオミに、神がご自分の民を顧み、食べ物をお与えになった、という、風の便りが届いた。この風の便りはナオミの心に、神の国である自分の故郷を思い起こさせ、「わたしのもとに帰っておいで」という、主の優しい語りかけとして響いたに違いない。
私達も、このような神様からの語りかけを聞いていないだろうか?聞きつつも、離れていないだろうか?
ナオミは神の国に帰るまでに10年かかってしまい、その間、夫に先立たれ、息子にも先立たれてしまった。
大切なものを全て失い、ついに、自分の拠り所は主の元にしかないのだ、とナオミに分かったのだ。
放蕩息子は、父の所には有り余るほどパンがあるのに自分はここで飢え死にしそうだ、と我に返ったが、
自分がいかに神から離れ、神の望まれる形から離れてしまったかを、見つめ直す所から、回復は始まる。
「オルパはやがて、しゅうとめに別れの口づけをしたが、ルツはすがりついて離れなかった。」(14節)
オルパは、自分がナオミと一緒にいる事がナオミにとって苦しみとなる(13節)事を聞いて、ナオミの元を去ったのは、大人としての「思いやり」だったのかもしれないが、帰っていったのは偶像の神の元であった。
それに対しルツは、「あなたの民はわたしの民/あなたの神はわたしの神」と言って、まことの神を自分の神とする「信仰告白」をし、ナオミについて行こうとしたのだ。
いつまでも真に有益なのは、大人の対応でも人間的な思いやりでもなく、信仰・希望・愛である。
ルツにとって、ナオミについて行く事には、何のメリットもないが、ナオミにとっても、ルツは重荷だったかもしれないし、ユダヤでは特に役に立ちそうもない異邦の娘だったかもしれないが、それでも互いが互いにとって、いつも一緒にいる、かけがえのない家族なのだ。「愛は自分の利益を求めない」(1コリント13:5)。
ナオミにとっては10年ぶりの帰郷であったが、それは懐かしさよりも惨めさに満たされたものだった。
かつての知人たちは、口々に「ナオミさんではありませんか」と声をかけ、色々聞いて来たが、彼女にはそれが苦痛で耐えられず、「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。出て行くときは、満たされていたわたしを/主はうつろにして帰らせたのです。」(21,22節)と、自己卑下に満ちた言葉を返さざるを得なかった。
人々との交流が苦痛で仕方ない時こそ、真剣に神に向き合い、神に近づく事の出来るチャンスである。
家族やパンという「快さ」は、いつ「マラ」になってもおかしくはない。神は、ご自身以外のものによって快くなろうとする「ナオミ」は、「マラ」にされ、決して無くならず、色褪せる事のない「ナオミ」へと導かれる。
彼女のうつろな帰国は、そこへ導くための祝福へのステップであり、その鍵は、ルツの存在である。
ルツは、祝福の器となって、ナオミに希望と喜びをもたらすようになり、そればかりでなく、彼女はイスラエル全体に祝福をもたらす器となった。ルツの曾孫にダビデが生まれ、イエスキリストが生まれたのだ。
新約を生きる私達は、マラでもナオミでもなく、ルツである。なぜなら、ただ信仰によってイエスを宿すチャンスが、皆に一様に与えられているのだから。
大麦の刈り入れの頃、それは過越祭の直後、ちょうど今くらいのシーズンに始まり、神はちょうど豊作の年の、落穂の拾える時期、ベツレヘム(パンの家)へと、ベストのタイミングと場所へと、導いて下さる。
ルツとして信仰告白し、家族に、国全体に、祝福をもたらす皆さんでありますように!
復活の主を巡る人間模様(ルカ24:1-12)
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イエス様は十字架上で、ヨハネやマリヤ達の目の前で、はっきりと死んだ。動かなくなり、槍で突かれ、血と水が流れた。十字架から降ろされ、没薬とアロエを混ぜ合わせたものと共に亜麻布で巻かれ、葬られた。
一見、イエス様の完全な敗北であり、祭司長や律法学者達は勝ち誇って、弟子達は絶望し恐れ隠れた。
ところが、主があらかじめ言っていた通り、主はきっちりと三日目に復活された。
復活の主に真っ先に対面できたのは、ゴルゴダの道を泣きながらついて行くしか出来なかった女達だった。
11弟子達は、イエス様が逮捕され、十字架につけられ死んだという現象面だけを見て絶望し、閉じ篭った。
しかし彼女達が内密に、親しく主と合間見えたのは、主が無力に十字架を負って歩んでいる時も、葬られた時でも、いつでも「主を慕って」いたためである。
この終わりの時代においても守られ、イエス様と真っ先に対面できる人は、ただ泣いてついて行く事しかできないほど力が弱くても、いつもイエス様を慕い、イエス様の名を否まない人である。(黙示録3:8-10)
彼女達が墓に行ったのは、復活を見るためではなく、油を塗りに行くためで、道々、あの墓を塞ぐ大きな石をどう対処するかを心配していた(マルコ16:3)が、その心配は実にちっぽけで、全く無用だった。
行ってみると、墓の番をしていた兵士達は死人のようになっており(マタイ28:4)、主の使いによって封印は破られ、大きな石は脇へころがされており、そもそも、イエス様は復活して、もうそこにはいなかったのだ。
石が転がされたのは、彼女達の小さな心配を取る為ではなく、復活のいのちの大いなる力を示す為である。
女達は御使いに言われた事を伝えるために走って行った時、途中でイエス様に出会って「おはよう」と声をかけられた。(マタイ28:9) 復活の主のただずまいは、劇的なものではなく、あまりにも普通、主だと中々気付かずにいた者もいた程で、私達も、主を慕う心が無いと、復活の主に中々気付かないかもしれない。
弟子達はユダヤ人を恐れ、一つ所に集まっていたが、女達の報告を聞いても、たわごとと思われ、信じなかった。(ルカ24:11) 主が三日後に復活する事は聞いていたが、イエス様があまりにもはっきりと死んだため、誰もそれを思い起こさなかったし、主と会ったと聞いた時さえ、信じられなかったのである。
人は、絶望的な出来事を目で見、陥っている状況に頭がいっぱいになる時、主が「こうなる」と約束して下さった事を、忘れがちになり、その約束の兆候を聞いた時さえ、信じられないものである。
しかし、復活の主は、二人でも三人でも主の名の下に集まる所におられ、また、イエス様のご性質について話し合われている所にご自身を現して下さり(ルカ24:15,36)、ご自身について書かれてある御言葉を、心を開いて解き明かして下さる。(ルカ24:27,45-47)
一方、祭司長達は兵士達の報告を受けた時、彼らに金を握らせ、うその噂を流させた。(マタイ28:11-15)
祭司長達は、兵士たちに御使いが現れ、イエスがよみがえって墓が空になった事を、信じたようである。
なぜなら、もし信じていないとしたら、弟子達が女達の言う事をたわごととしたように、兵士の言う事などたわごととした筈なのに、わざわざ金を渡し、口裏をあわせ、公にならぬように協議したからである。
弟子たちが信じないで、祭司長達の方が信じたというのも不思議だが、彼らもうすうす、イエスがメシヤである事に気付いていて、それを知った上でイエスを十字架につけ、預言通り甦っても、隠そうとしたのである。
イエスの敵は相集い、協議し、金と権力でいのちを押し潰そうとするが、闇は光に勝てないように、復活のいのちは、サタンや人がいくらもみけそうとしても、決して押しとどめられず、必ず生え出でてくるものである。
第一の人・アダムから脈々と続く人類の子孫は、呪いの内にあり、罪と死に支配されているが、主はそんな人の有様を救うため、ご自身を身代わりとして死に明け渡し、三日目によみがえり、死に対して勝利された。
イエスの復活のいのちは大波のように押し寄せ、圧倒的に死を飲み込み、いのちで溢れさせるのである。
(1コリント15:54-57) その復活の主を祝うイースターのこの時、死も、呪いも、病も、貧しさも、あらゆる問題も、全て復活の主のいのちで飲み込む皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
十字架の前の人間模様(ルカ23:13-27)
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本日は棕櫚の主日で、イエス様が十字架に架けられるためにエルサレム入城をしたのを覚える日である。
群集はロバに乗って通られるイエス様の行く道に、棕櫚の葉を切って敷いたり、自分の服を脱いで敷いたりして、「ホサナ」(ああ救い給え)と叫びつつイエス様を迎えたが、群集はイエスがどういうお方かを知らず(マタイ21:1-11)、 一週間もしない内に今度はイエスを「十字架につけろ」と叫ぶ側へと一転した。
十字架へと向かうイエスを中心に、色々な人物が登場し、色々な人間模様が展開されるが、私達は彼らを歴史上の人物として第3者的にどうこう批評するのではなく、私達はキリストの一体「何」で、キリストの十字架に関わる登場人物の内の、誰に該当するかを、意識するべきである。
「ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。」(ルカ23:24-25)
ポンテオ・ピラトは使徒信条でマリヤに次いで出る程、キリスト者にとって重要な人物である。主が苦しみを受けられたのは祭司長や律法学者、ローマ兵の元であり、ピラトはむしろイエスさまを3度もかばっていて一見良い人物にも見えるのに、なぜ使徒信条では「ポンテオ・ピラトの元で苦しみを受け」なのか。
祭司長や律法学者達など、イエス様を最初から否定し、否定して終わるような者達には、主は目も留めておられないが、主に目を向けようとする者達にこそ主は目を留められ、特別に扱われるのだ。
ポンテオ・ピラトは、総督として、イエス様を十字架につける権限もあれば、十字架から守る権限もあった。
実はキリスト者は、ポンテオ・ピラトと実によく似た立場にあり、人間(自分も含め)の意見を突っぱねてイエス様を解放する選択を取るか、それとも、人(自分も含め)の意見に妥協してイエス様を拘束し、内にいる暴動と人殺しのバラバを解き放つか、という権限が、いつでもある。
それ故、あなたも人の意見に妥協してイエス様を退ける時、主は「あなたの元で苦しみを受け」られるのだ。
ヘロデ・アンティパスはイエスを見ると、非常に喜んだ。それは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。(ルカ23:6-12)
しかし彼は興味本位で色々と質問するだけで、それに対してイエス様は、一言も言わず黙っていた。
イエス様を単に興味本位で質問し、派手に飾り立てたり茶化したりして見て、イエス様から何も反応が無いと、なぶりものにして送り返すような者達に対しては、イエス様は始終、何の反応もされないのだ。
イエス様はピラトの前で多くの鞭を打たれ、多量の出血をしていた為、十字架を最後まで運びきる事が出来なかったため、たまたま通りかかったクレネ人シモンが徴用され、イエス様の十字架を運ぶ事になった。
彼はたまたまその場に居合わせ、血まみれで十字架を運ぶイエス様を野次馬のように見ていただけだったかもしれず、そこを突然徴用された為、とんだとばっちりをもらったと思ったかもしれない。
しかし、かの死刑囚はどうも邪悪ではなさそうで、しかも、大勢の女達が泣きながら彼に従っていた。
彼女達は「お前達もイエスの仲間か」と捕らえられさえされない程、数に入らぬ、取るに足らぬ存在だった。
恐らく女性達は「本当は私達があなたの役割を果たしたかった」「でも、力が無いので出来なかった。」「助けてくれて本当にありがとう」と、シモンに声をかけただろう。
彼はアレキサンデルとルポスの父で(マルコ15:21)、そのルポスがローマ16:13の人と同一人物であるとしたら、彼は後のキリスト者の集まりで「主にあって選ばれた者」として有名人物となったのだろう。
クレネ人シモンはある日偶然、ぼろぼろのイエス様と出会い、半ば暴力的に一緒に十字架を背負う助けをし、女性達はただ泣いてついて行くしか出来なかったが、そうする事で主と共に十字架を背負ったのだ。
クレネ人シモンはやがて十字架を肩から下ろす時が来て、そして主は大勢の人の身代わりとして十字架にかかる。それはイエス様しか出来ないが、シモンや女性達のように、私達も主と共に負える十字架がある。
私達は十字架の主を前に、祭司長達に扇動された人々にも、祭司長にも、ペテロにも、イスカリオテ・ユダにも、ポンテオ・ピラトにも、ヘロデにも、クレネ人シモンにも、名も無き女性達にも、なり得る。
自分を捨て、自分の十字架を負い、その上で主について行く皆さんでありますように!
第一礼拝音声:いのちを選べ(ヨハネ13:21-30) :右クリックで保存
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『一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」』(マタイ26:21)イエス様は全ての人の思いをご存知であり、時にそれを喜び、時にそれを悲しみ、時には激情に駆られて、叫ぶ。(ヨハネ13:21)
弟子達はこれを聞いた時「きっとあいつだ」とは誰も言わず「主よ、まさか私のことでは」と言って悲しんだ。
イエスを裏切ろうとしていたユダが「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」このイエス様の応えは厳密に訳すと、「君がそう言うなら、そうかもしれない。」つまり、裏切り者であるかの白黒判断はイエス様がするのではなく、ユダに投げ返し、ユダに判断を委ねている。
実はこれ以前に、ユダの心にイエス様を裏切ろうとする思いを、予めサタンが入れていた。(ヨハ13:2)
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものであり(エペソ6:12)、その戦いが展開される領域は、思い(はかりごと)である。
皆さんも誰かに対して、あるいは過ぎ去った事に関して、どうしようもなく苦々しい思いが沸き起こり、その思いの中の状況と一人で対話したり、空想の中でその憎たらしい奴を叩きのめしたり、詮索しても仕方の無い過去を、堂々巡りに思い巡らしたりして、眠れぬ夜を過ごした事は無いだろうか。
そのような時はほぼ、サタンが自らの汚れた思いを吹き込んでいると見て間違い無い。ユダは「イエスに仕えてメリットはあったか?」「あの時のイエスの行動はお前をばかにしているぞ」など、サタンが吹き込んだ思いと対話し、それを思い巡らせ、熟成させ、イエス様を裏切ろうとする決心を固めて行ってしまった。
サタンが私達に、悪しき思いを吹き込む時、それと会話せず、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ(2コリ10:5)、戸口で待ち伏せている罪に支配されるのではなく、支配せねばならない。(創4:7)
弟子達はイエス様を「主」と呼び、ユダは「先生」と呼んだが、これは弟子とユダの違いを端的に表している。
イエス様が主であるなら、主の思いが自分の思いと異なる場合、主に従うが、福音を何か自分から着脱可能な「教え」とし、イエス様を「先生」としている者は、いざという時、ユダのようにイエス様を捨ててしまう。
イエス様が主従関係の「主」であり、私達が「従」であるなら、主がその人を牧し、導き、守って下さる。
イエス様はユダの所に歩いて行き、浸したパン切れを渡したが、実に不思議な事に、弟子達はそれを見て、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、「貧しい人に何か施すように」とイエスが言われたのだと思っていた。言葉と所作の前後関係からして、ユダが裏切り者だと示しているのは明白であるはずなのに、弟子たちはなぜ分からなかったのか。
パン切れを浸して渡すという行為は、特別な親しみを示す行為であり(ルツ2:14)、イエス様の所作は、裏切り者を示す行為だとは到底思えない程、優雅な品性に満ち、ユダへの愛情が込められていたのである。
ユダはパンを受け取った時、イエス様は全てをご存知で、今悔い改めても遅くはないと気付くべきだった。
しかしユダは逆に、それまで思いの中でサタンと対話し、熟成して来たイエス様への渦巻く思いを、取り返しのつかない爆発へと発展させる事を、許してしまった。
イエス様はそんなユダに「しようとする事を今すぐしなさい」と言い、ここでもユダの自由意志に委ねた。
主は、人の自由意志を束縛するお方ではなく、アダムやカイン、ユダの「裏切る自由意志」さえ尊重した。
神は人を、神の似姿として創られた以上、その自由意志を尊重し、そして人が誤った選択をし、死と罪へと落ち込んでしまったのに対しても、一人子の命を捨ててまで救い出す程、人を愛し尽くしているのである。
人は神さえ犯せない自由意志があるが、蒔いた種は必ず刈り取らねばならない事も覚えておくべきである。
自由意志を使って、イエス様の下に立ち返る事ができるし、ユダのように立ち帰らない自由もある。
「私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。」(申命記30:19)
今は恵みの時、救いの時。ユダのように、自分の思いを取ってイエスを売るのではなく、自分をイエスに明け渡し、いのちを得る事を選ぶ皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
300デナリを捧げるか、銀30枚を取るか(ヨハネ12:1-8)
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イエス様は、苦難を受けられるかの過越祭の6日前、ベタニヤにて晩餐にあずかった。
食卓にはイエス様に甦らせて頂いたラザロも共に着座し、マルタは喜びをもって給仕していた。
マルタはかつて、色々な事を気遣う事に頭が一杯で、主の足元で御言葉を聞き入っているマリヤも働くよう主に指示したが、ラザロを甦らせて頂き、イエスこそ命の君であると知ったため、自分に与えられている賜物をいかんなく発揮し、喜びをもって主に捧げていた。
「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。」(ヨハネ12:3)
彼女はいつも主の足元に座って、じっと見言葉に聞き入っていたため、他の弟子達は気付かなかった主の心の機微を察知し、6日前という、早すぎず遅すぎないベストな時期に、主の葬りの用意を実行した。
彼女はその時、大切な物を惜しげなく主の御前で割り、主が働き歩んできた「足」に塗り、女の冠である髪でぬぐったからこそ、香ばしい香りがいっぱい広がり、永遠に残る記念として語り継がれるようになった。
信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについての御言葉による(ローマ10:17)とある通り、私達も主の御足元で御言葉を聞き入っているなら、そのタイミングでしか出来ない事を見分ける事ができ、その時、自分の大切なものを主の御前に割って捧げつくし、自分の冠を、主の「足ぬぐい」にさえ喜んで差し出すなら、主の喜ばれる香りが溢れ満ち、それは永遠に語り継がれる記念として、御前に残るのである。
私達は主のために、どんな「香油」を割れるだろうか。また、どんな「髪」で、主の御足を拭えるだろうか。
さて、この高貴な香り漂う麗しい調和を破って、しゃしゃり出る者があった。イスカリオテ・ユダである。
「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がそう言ったのは、貧しい人の事を心にかけていたのではなく、聖徒の捧げ物を自分のものとして、好きにしたいからである。
マリヤにとっては値段はどうでも良く、イエス様がもうじき葬られる事を悟り、止むに止まれぬ思いで捧げただけなのに、ユダは主の御思いを量るどころか、主ではなく人を見て、「私だったら300デナリをこうする」と言って、自分の定める礼拝形式を押し付けたり、その通りにしない者は間違っている、と裁いたりした。
彼の特徴は、聖徒の礼拝や交わりを分析し、値定めし、口出しする事である。そのような者は、要注意だ。
また、麗しい調和をぶち壊して、人々の注目を自分に向けさせ、アピールし、栄光も横取りしたりする。
このような者はイエス様が好きなのではなく、イエス様にひっついて大活躍している自分が好きなのであり、イエス様が自分の思い通りに動かないとなると、銀貨30枚で売り飛ばしさえする。
私達はさまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ(2コリ10:5)、欲望や一時の感情という「銀貨三十枚」と引き換えに、イエス様を見積もって売りたい性質、裏切りたいようなユダの性質を、取り扱わなくてはならない。
あの人の捧げ物は間違っていると陰口を叩いたり、兄弟姉妹の麗しい交わりを、自分の気に食わないと言ってぶち壊したりする時、高貴な香り漂う場は一転して汚れた欲望の臭いニオイに満ちてしまうからだ。
イエス様は、ユダの下心も、あさましい動機も、当然知っていたが、その事は一切触れず、平和で麗しい交わりを掻き乱さないように、それとなくユダに諭した。「わたしはいつも一緒にいるわでではない」(8節)
それが私達も習うべきイエス様の品性であり、ユダに対処する時の模範である。
私達はいつまでも地上で生き長らえている保障はなく、いつまでも赦してもらえる、という保障は無い。
私達はマリヤのように、捧げるべき時機にいつでも300デナリを捧げる準備は出来ているだろうか。
それとも、いつでもイエス様を売って、自分の好き勝手という銀30枚を得たい心を、野放しにするだろうか。
今しか出来ない悔い改めも、今しか出来ない礼拝も、先延ばしするのではなく、今、為すべきである!
マリヤのように主に香ばしい捧げ物をする皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
的を射た歩み(ルツ2:1-16)
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本日は震災からちょうど一年目、日本の至る所で追悼式が行われるが、私たちは今日、何をもとにして歩むべきか。
私たちは、的を射た歩みをすべきである。
罪(ハマルティア)とは「的外れ」という意味であり、的を外した歩みは、余計な労働に掻き回される上、何も有益なものを残さない。
的を射た歩みとは、決して動かされる事の無い岩、すなわちキリストを土台として人生を建てあげていく歩みであり、このお方を除いた歩みは、砂の上に建てた楼閣にすぎない。
神への不従順とその報いである災いが満ちている世にあっても、しっかりと力をつけていき、栄えた男がいる。
「ナオミの夫エリメレクの一族には一人の有力な親戚がいて、その名をボアズといった。」(ルツ2:1)
当時のイスラエルは、律法に従順するのではなく、めいめいが自分の目に正しいと見える事を行っており、イスラエルが神から離れる度に、神は外敵を用いてイスラエルを懲らしめ、それでイスラエルは神に立ち返り、神は憐れんでさばきつかさを用いてイスラエルを救い、そうして束の間の平和が訪れ、しかし、後の代になると再び神から離れ、神は再び外敵を用いて懲らしめ・・・というサイクルが、当時続いていた。
そんな災いの中でも着実に有力者になって行き、後には王族の家系を生み出した男が、ボアズである。
彼の父はユダ族のサルモン、母はかつてカナンの城塞都市エリコで遊女をしていた、あのラハブである。
サルモン(名の意:平和を好む)はヨシュアがエリコを探らせた二人の斥候の一人ではないか、という説もあるが、どのような馴れ初めで結ばれたにしろ、あの異邦人や不品行に厳しいイスラエルの中で、妻ラハブや息子ボアズを養う時、世間からの理不尽な偏見や妨害もあったであろう事は、容易に予想できる。
しかも、当時イスラエルは不従順の故、外敵の攻撃やききんによって、不安定な生活を強いられていた。
そのような災い多き世情、そのような家庭事情の中であっても、着実に力を伸ばして行けた秘訣は、一体何だろう。ボアズの言動から、その秘訣を探っていきたい。
『ボアズがベツレヘムからやって来て、農夫たちに、「主があなたたちと共におられますように」と言うと、彼らも、「主があなたを祝福してくださいますように」と言った。』(ルツ2:4)
この短い一節から、彼は身内との挨拶に「主が共におられるように」という祈りと、「主が祝福して下さるように」という祝福を、日常的に交わしていた事が伺える。祝福の挨拶を交わす事は、有力者の第一歩である。
ボアズはルツに、よその畑に落ち穂を拾いに行かず、この畑で拾うよう勧め、また、ルツが落穂を拾うのを若い者が邪魔をしないようきつく命じ、喉が渇いたら汲んである水を自由に飲むよう、勧めた(2:8-9)
当時、落穂拾いをする人は、いじめられるのが常だった(2:22)が、ボアズは主の方法をよく心得ていた。
申命記24:19によると、穀物の束を畑に置き忘れたら、取りに戻らぬように、なぜなら、それは在留異国人ややもめのものであるから、そのようにするのであれば、主は祝福して下さる、と書いてある。
神は在留異国人ややもめを憐れみ、養ってくださるが、しかしボアズは、束を「わざと」落とすよう指示して(2:16)神の憐れみの業を自分のわざとし、神の思いを自分の思いとした。
有力者の行動パタンは、弱い者を憐れみ、神のご性質をよく知り、神の働きを、自分の働きとする事である。
ルツの信仰を導いた義母ナオミは、全能者が自分をひどい目に合わせたから自分をマラ(苦しむ)と呼ぶよう人々に言ったが、ボアズは主を「報いて下さるお方」「翼の下でかくまって下さるお方」と認めていた。
『どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。』(2:12)
ボアズの生きた世情、生まれた家庭環境を鑑みるに、彼は神に対し、ひねくれて育つ要素は十分あったが、彼はあくまで、主に対するポジティブな見方を変えなかった。それもまた、有力者の思考パタンである。
またボアズは、自分のはやる思いに走らず、目上の人への礼儀を重んじ、世の中のルールに従順した。
ルツにせまられた時も、自分よりも近い買戻しの権利のある親類を置いて自分勝手には出来ないと告げたし(3:12-13)、その翌日、当の親類を10人の長老と共に呼び集め、彼らの前で正式に買い戻しの手続きを行い、ルツを公にめとり、結果、ボアズは長老達から、ナオミは女達から、公に祝福された。(4:11-15)
ボアズのように、主に対してポジティブな信仰を持って、祝福の挨拶を交し合い、主の御思いを自分の思いとし、自分のはやる思いに走らず、主にある兄弟姉妹や目上の人への礼節を重んじて、この災い多い世情においても、有力者となって栄える皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
らくだが針の穴を通るには(マタイ19:16-26)
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『さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」』(マタイ19:17)
永遠のいのちを手に入れるにはどんな事を、という質問に対して、イエス様は「善い方」をお答えになった。
これは、質問への答になっていないようで、実は、真に答えである。
私達はこの青年のように、とかく「善いこと」を模索するが、大切なのは「お方」である。
彼は「善いこと」をさらに追求した結果、イエス様から到底出来ないような事を示された。
「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。(21節)
イエスは彼が去っていくのを見て言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(23-24節)
金持ちになったら、自動的に天の国に入れなくなる、という訳ではないし、イエス様は金持ちが嫌いという訳でもない。「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」とあるように(マルコ10:21)、イエス様は、この金持ちの青年を慈しまれ(loved him)、救われて欲しいと願っておられた。
それにしても一体、自分の積み立ててきた財産を一切投げ出して、貧しい人に施せる者など、どれほどいるだろうか? 一体、らくだが針の穴を通る方法は、あるのだろうか?
誰もが認める金持ち悪人だったのに、財を投げ打って施すまでに変えられたザアカイから、ヒントを見たい。
ザアカイは取税人の頭で金持ちだった。(ルカ19:1-10)当時の取税人は、忌むべき支配国ローマ帝国のために、しかも、取り立てるべき税額を水増しして取り立てていたため、売国奴同然に嫌われていた。
そんなザアカイだったが、彼は群集に邪魔され、それでも、木に登ってでも、イエス様を見たいと思った。
するとイエス様は「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」と言われた。
ザアカイは喜んでイエス様を自分の所に迎え入れ、そして、財産の半分は貧しい人に施し、だまし取った物は4倍にして返す、と言う程に、彼の人格も人生も、わずかの間に変えられた。
イエス様の一言「あなたの所に宿りたい」という言葉に応じただけで、らくだが針の穴を、通ったのである!
変えられるコツとは、ザアカイのように、木に登ってでもイエス様を求め、そしてイエス様の「あなたの所に宿りたい」という言葉に応じて、喜んで自分の中にイエス様をお迎えする事である。(黙示録3:20)
青年はイエス様を「善い先生」と呼び、善い事について教えを求めたが、完全な者になるための善い事を教えられたものの、しかしその内容は人には到底不可能な内容で、イエス様を置いて去るしか無かった。
対してザアカイは、イエス様を「先生」ではなく「主よ」と呼び(ルカ19:8)、イエス様を喜んで自分の所に迎え入れた結果、言われてもいないのに、喜んで貧しい人のために財を投げ打ち、喜びの内に救いを得た。
イエス様をどなたと見るかは、大切である。イエス様を「善い先生」と見るなら、人には到底辿り着くことの出来ない高みを見せられ、絶望するしかない。しかしそれでもイエスを主として呼び求め、自分の中に迎え入れるなら、人には到底出来ない事が、ラクに、喜んで出来るように、なるのである。
「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」(マタイ19:26)大切なのは事ではなくお方である。
私達はとかく、砂漠のような世でも、多くを積んで逞しく運んで行く「らくだ」のようになりたがる。
しかし神の国に入る門は狭く、余計なものは門の前に置いて行かなくては、入れない。
イエス様を置きざりにして重荷を背負って砂漠の世を行く者ではなく、自己を置きざりにして砂漠の世をイエス様におぶって行ってもらう皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
父のそばで放蕩した兄息子(ルカ15:25-32)
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放蕩息子の譬えは元々、罪人と一緒にいるイエス様をなじったパリサイ派や律法学者達に対して語られたものであり(ルカ15:1-3)弟息子はイエス様に立ち返った罪人達を、兄息子は彼ら宗教指導者を指している。
弟息子は「罪を犯しました」と告白したが、弟が告白した「罪」とは、具体的に何だろう。
そして、弟息子がしてきたあらゆる事を「しなかった」兄息子には、果たして何の罪も無かったのだろうか?
「罪」のギリシャ語「ハマルティア」は「的外れ」という意味であり、本来あるべき姿から外れている様を意味する。罪とは神に対して背を向ける事であり、神はいつでも向きを変えて帰ってくる事を望んでおられる。
兄にも弟にも共通している事は、二人とも素晴らしい父のそばにいながら、その愛も富も全く味わう事も、楽しむ事をせず、あたかも、父のそばは居心地の悪い所、窮屈な所と感じ、心が離れていたていた事だ。
兄も弟も、父と親子の関係にありながら、本来あるべき父との人格的な交わりも実体も、無かったのである。
兄息子は「私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。」と言っているが、果たしてそうだっただろうか。12節を見ると、兄も身代をの分配を受け取っているのである。
そして「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。」と御父は言っている。
兄息子は、既に受け取った莫大な相続財産を忘れ、御父のそばにいながら、いつでも享受できるはずの恵みの機会をずっと無駄に過ごし、ずっと注がれてきた御父の愛を、いつも放蕩してきたのだ。
兄の「長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。」という言葉から、彼にとって父が喜ぶ事とは、戒めを破らない事であり、そしてそれに喜びは見出せなかった事も分かる。
弟も同じように感じていたため、そんな窮屈な父や兄の所からさっさと出て行きたかったのである。
兄や弟の父に対する誤解はまさしく、宗教指導者達が陥った事であり、そして私達も陥りやすい罠である。
皆さんは、礼拝に出る事、イエス様に仕える事に、喜びを感じるだろうか。窮屈さを感じていないだろうか。
兄も弟も、父がどれほど素晴らしい愛で愛しているか、どれほどの英知で彼らを見守っているか、分からなかったが、弟息子が放蕩し尽くし散々な目に遭って帰ってきた時、その愛が明らかにされた。
弟息子が散財してどうしようもなくなる事を、父は初めから分かっていたし、弟が帰ってきた時、兄息子が父の対応を不服に思うであろう事さえ、全能なる父であるからには、当然分かっていた。
分かっていながら弟を送り出し、あたかも放任主義のように振舞われたのは、これら全てを乗り越えた向こう側で、息子達は真実に御父を知るようになり、心から親子の愛の関係に入る事を、見ていたからである。
全て御父からの祝福は、自分の十字架の向こう側、自己の死を経て復活した領域において、得るのである。
与えられているものの価値が分からず、それへの感謝も無く、思いの中が自分のやりたい事によってパンパンに満ちている時、私達は、与えられた相続財産も、御父の懐にいる事の恵みも、放蕩する以外に無い。
大切な事は、弟息子のように物質的なモノをいただく事ではなく、兄のように嫌々ながら仕える事でもない。
御父とのいのちの交わりこそ大切であり、そして、兄弟姉妹との喜びの交わりを回復するべきである。
「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」(1ヨハネ1:3)
その交わりこそ、自由意志に拠る、何のわだかまりも窮屈さも無い交わりであり、御父が「この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかった」と言って心底喜び、望まれた、命の交わりである。
「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。」(ローマ8:15)
隷属する霊ではなく、子としていただく御霊を受けた者らしく、御父の愛の広さ、高さ、深さを知り、真に自由な交わりを存分に楽しむ皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!