メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ
癒される資質(ヨハネ5:1-13)
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ベテスダの池のほとりに、大勢の病人や体の不自由な人、やせ衰えた人が伏せっていた。(ヨハ5:1-9)
主の使いがときどき池に降りて来て水を動かすことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。(異本訳<5:3b-4>)
いつ御使いが降りて来て水が動くとも分からず、また、動かされたあとで最初に入った者しか癒されないという、限定的な状況でしか癒しは起こらないため、そこにいる病人達にも、厳しい競争原理が働いていた。
現代社会も、このベテスダのほとりに似た状況で、人々は厳しい競争の中を、あえぐように走り抜き、人を押しのけてでも幸いを得ようと、虎視眈々とベテスダの池が動く時を見張っている。
「ベテスダ」とは「恵みの家」という意味で、彼らは御使いが水を動かして病が癒されるという「恵み」を狙っていたが、現代を生きる人々は、どんな「恵み」に入ろうとして、狙っているだろうか。
少しでも良い学校や企業に入る事だろうか。少しでも年収の高い旦那を得る事だろうか。
しかし、そうしたものを得るには、非常に倍率が高く、各々違った「ベテスダ」からいつまでも抜け出せず、ただ長い間、特に何をしたという成果も無いまま、いたずらに時間を過ごしてきた人は、大勢いる。
御使いや力ある者、企業や権力などが立てた「恵みの家」から、癒しや必要の満たし等を求めても、それを得られる者は、競争に勝った少数の力ある者だけで、頂く恵みも永続するものでは無く不完全である。
ところが、そうした「ベテスダ」の競争に参加せずとも、救われる方法がある。その鍵は、イエス様である。
ベテスダの池のほとりに、38年もの間、病に伏せった状態で、そこから抜け出せない人がいた。
人にとって、38年という病の日々は、絶望的に長く、生活も、価値観も、凝り固まってしまったかもしれない。
そんな彼のところにイエス様は行って、彼を見、言葉をかけた。「よくなりたいか。」
彼は「はい」と答えるような希望も、思いも、気力も、とうの昔に失せており、ただ自分に何々してくれる人がいない事、誰もが我先にと行ってしまう「嘆き」を、久しぶりに声をかけてくれた方に訴える他できなかった。
イエス様はそれに対し、同情の言葉を返す事をせず、手を延べて癒す事もせず、ただ「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」という言葉を投げただけだった。
38年も床を担いで歩いた事の無い者にかける言葉とは到底思えないし、随分冷たい対応のように見えるが、とにかく彼は、つべこべ言う事無く、ただイエス様に言われた通り、癒され、床を担いで歩きだした。
他に大勢病人がいる中、この人だけを癒されたのは、彼には癒される資質があったからである。
イエス様は、誰も彼も自動的に癒すお方ではない。たとえイエス様を知っていても、イエス様を信じない者や、イエス様のお言葉の通り実行しない者には、御業を働かせられないし、癒せない。(マルコ6:1-6)
彼は、自分に声をかけた人がイエス様とは知らなかったのに、癒された。 癒される資質とは、イエス様を知っているか知っていないかは関係無く、ただ、イエス様が言われた言葉の通りに、実行する事である。
イエス様の言われた通り行う者に働くパワーは、人間の何十年という時間や価値観よりはるかに強く、どんな頑固な病気も、凝り固まった固定概念や価値観も、打ち破って余りあるのだ!
イエス様は安息日の主であり、ユダヤ人の祭りにおいて本来、祭られる本尊であるべきお方のはずだが、人の祭りと化してしまったユダヤ人の祭りや、神の安息を忘れてしまった形骸的な安息日は無視し、どこへ行かれたかというと、人々から忘れ去られ、あらゆる競争に負け続け、全ての希望も失ってしまったような人を、わざわざ訪問し、声をかけ、救いのチャンスを与えて下さった。
彼を信じる者は救われ、信仰を持って行動するなら癒しが与えられ、汚れは聖められ、死から命へと移る。
皆さんはどんな床に、どれくらいいただろうか。どんな「ベテスダ」で競争に揉まれ、何を得て来ただろうか。
イエス様の「起きて床を取って歩け。」という言葉どおり行い、凝り固まってしまった価値観や、凝り固まってしまった体を癒していただく皆さんであますように。イエス様の名前によって祝福します!
第一礼拝・礼拝全体音声「追うべきでしょうか?(1サムエル30:1-8)」(韓国語通訳あり):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声「悪霊からの解放(マルコ5章)」:右クリックで保存
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※ 本日の第2礼拝メッセージは、主の導きにより、サムエル記ではなくマルコ書から与えられました。
「ダビデとその兵が町に戻ってみると、町は焼け落ち、妻や息子、娘たちは連れ去られていた。ダビデも彼と共にいた兵士も、声をあげて泣き、ついには泣く力もなくなった。」(1サムエル30:3-4)
弱肉強食の世で生き残るために奔走する中、些細なきっかけで、突然家族や財産を失う、という事がある。
ダビデと六百人の部下達は、サウル王を恐れて異邦の地に逃れ、異邦の王アキシュの信頼とステータスを得るために、騙し合いと奪い合い・殺し合いの日々を連ねている中、ダビデ達が出かけている、わずか三日の間に、アマレクの略奪隊に襲われ、大切な家族も、積み立てて来た財産も、全て奪われて行ったのだ。
ダビデ達は泣き疲れるほど泣いた末、部下達は、ダビデを石で撃ち殺そうと言い出した。
ダビデはそれまで、昼夜襲ってくる危険とプレッシャーに耐えつつ部下達を守り養って来たのに、不可抗力の災いがたまたま起きると、部下達は、ミスリードしたダビデは死んでお詫びしろ、となってしまったのだ。
そもそも、ダビデがイスラエルを離れ、異邦の地で自活する道を選んだのも、また、異邦の王の信頼とステータスを得ようと奔走したのも、恐れに支配され、主に頼らずに自分の心に頼ったためだった。(27:1)
私達も、信仰によらず行動し、神の領域から離れて自分の良し悪し判断に頼る時、このような絶望の極地へと陥ってしまう事はあるが、そんな時、どうすれば良いか。
ダビデは、彼の神、主によって力を奮い起こし、そして祭司の所へ行って、主に伺った。(30:6-7)
「この略奪隊を追跡すべきでしょうか。追いつけるでしょうか。」
ダビデは、非常に控えめに、勇気を振り絞って問いかけをしたのに対し、主は「追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる。」と、明確に、しかも問うた以上の答えを示して下さった。
ダビデ達は追跡を始め、ちょうど案内してくれるエジプト人と主が出会わせて下さったおかげで、最短ルートで、しかも攻めるには最善な時に到着し、しかも自分たちの持ち物や妻子達は無事で一切傷がなく、分捕られた分をはるかに超えて、非常に多くを逆に分捕る事ができた。
この勝利と分捕りは、明らかに主に導かれての事であるが、部下の中には「われわれが」分捕った物を、一緒に行けなかった者達に分けてやるわけにはいかない、と言う者も出てきたが、ダビデは「主が」私達に賜った物を、そのようにしてはならない、と言った。(30:21-25)
私たちは主にあって奮い立ち、導かれるなら、必ず祝福が待っている。しかし、祝福された時こそ、なお気をつけて、我々の力で為したなどと奢らず、全ては主が守り勝利させてくださる事を、忘れぬべきである。
ダビデは、戦いに行った者も行けなかった者も、共に同じく分け合うようにし、イスラエルの掟として定めた。
教会はキリストの体であり、皆の益となるために、それぞれ違った賜物が与えられている。(1コリ12:4-13)
だから、教会というキリストの共同体においては、主が与えて下さった祝福は、皆で分かち合うべきであり、誰か一人だけが豊かになり、誰か一人だけ仲間はずれにされる、という状況は、改善しなくてはならない。
皆さんは人生において、どんなものを略奪されて来ただろうか。
サタンが支配する世から、欲深く世渡り上手な人間から、騙され、搾取され、分捕られて来ただろうか。
「あの略奪隊を追うべきでしょうか。追いつけるでしょうか。」
私は世の中で10数年働いて後、献身するよう促されたが、ムリだと思いつつも、燃やされるものがあった。
弱肉強食の世で立ち働き、確かに多くを分捕られたが、そんな事より、この日本という国が、霊的な略奪隊によって、好き放題に分捕られている現状に、また、何もして来れなかった自分が、悔しかった。
そこで2009年8月1日未明、この礼拝堂で暗闇の中、何度も「追いつけるでしょうか。本当にこの道で良いのでしょうか?」と問うていたが、主の声など一切無く、ただ静けさと沈黙の中、この御言葉と、それに対する熱い涙だけがあり、それで私は信仰を持ってこの道を進み、霊的分捕りをするために、追う事にした。
キリストを信じてから略奪されたなら、主にあって奮い立ち、きっちりと主に伺い立て、取り戻すべきである。信仰を持って奮い立ち、行って多くを分捕り返す皆さんでありますように。イエスの名によって祝福します!
ともし火の油を絶やすなかれ(マタイ25:1-13)
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私達は世に対してはキリストの光を届ける者だが、キリストを迎えるためにも、ともし火を灯す必要がある。
天の御国は、ともしびを持って花婿を出迎える十人の娘に譬える事が出来る。(マタイ25:1-13)
当時の結婚のしきたりとして、花婿が花嫁をむかえる日、花嫁の友人の女たちは花嫁の家で待機して花婿をともしぴを持って出迎えることになっており、そして、花婿が花嫁を引き取った時、行列をともなって結婚式と披露宴に入る事になっていた。
この譬えの中の娘達は、まことの花婿であるキリストに迎え入れられる私達・キリスト者を指している。
「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(詩篇119:105)とある通り、ともし火は御言葉をあらわし、キリストの花嫁となる必要最低条件は、まず、御言葉を持っている事である。
そのうちの五人は愚かで五人は賢く、 愚かな娘達はともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。
賢い花嫁達は、心から花婿を愛し「主人」としていたため、主人が都合によって迎えに来てくれる時が遅くなったとしても、その心備えが出来ていたため、当然のように油の用意をしていたが、愚かな花嫁達は自分を「主人」とし、きっとこの時間になったら花婿が迎えに来てくれるだろうと、花婿の行動を身勝手な思い込みに限定してしまっていたため、花婿が遅れるという「想定外」への対処など、思いもしていなかった。
そして、花婿が迎えに来るはずの時は遅れ、夜は更けた。
今の時代はまさに夜が更け、闇が支配しているような時代であり、キリストは本当に来られるのだろうか、と疑いたくなるかもしれないが、まさしくこの時、信仰が試されており、キリストは曙の光のように確かに訪れて下さると信じて、いつキリストが来られても良いように、御言葉の灯火と共に油も準備しているべきである。
油とは聖霊を意味し、御言葉を光として灯すには、人の知恵や解釈ではなく聖霊による導きが必要である。
聖霊が与えられるためには、主に求め続け、探し続け、叩き続けるなら、与えられる。(ルカ11:5-13)
そして、自分の願う事を降ろし、主の御心の通りになるよう祈るのであれば、油はどんどん滴って行く。
イエス様は油絞りという場所、ゲツセマネで、「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」と祈られ、その従順な祈りが聞き入れられ、油注がれたお方、キリストとなられた。
このように私達は、主に求め続け、自分の願いを降ろし、御心に従う事によって、油を貯めて行くのである。
私達という「器」は、常に聖霊の油に、また、キリストに注がれ滴り落ちる油によって満ちているべきである。
花婿が迎えに来る時は、誰も知らず、思いがけない日の思わぬ時間に来られる。(マタイ24:50, 25:13)
だから主は、再三にわたって、目を覚ましていなさいと注意されたのであり、いよいよ花婿が迎えに来た時、普段からの花婿への思いや、自分が迎え入れられる心備えのあるなしで、天地ほどの差がついてしまう。
愚かな娘たちは、賢い娘たちに「油を少し私たちに分けてください」と言うが、主に迎え入れられるために貯めて来た油は、その人自身が、地上で御言葉に従順に歩んできた尊い記憶のようなもので、とうてい誰かに分けてしまえるようなものではない。
「店」は正確には「物々交換する人」で、普段から御言葉に従順してではなく、売買や取引などで油を得ようとしている内に、花婿が迎えに来てしまい、賢い娘達は迎え入れられ、戸は閉じられてしまうのだ。
普段からキリスト任せではなく人任せの信仰をしている人も、「ちょうだい」と言う声についつい応えて与えてしまう人も、要注意である。人に与えるべき物・与えてはならぬものの判別は、必要である。
この夜の時代、寝ても覚めても愛する主を思い、心から彼を求めるなら、夜回りに助けられ、やがて愛する人を見出し、奥の間における親密な交わりに入る(雅歌3:1-4)。
しかし、愛する方が入ってこようとして戸を叩いても、自分を優先させているような者は、やがて愛する方に背を向けられ、手遅れとなっり、探しても打ち叩かれてしまうような時が来てしまう。(雅歌5:2-8)
主に求め続け、自分の願いを降ろし、御心に従う事によって、聖霊の油にいつも満たされ続ける皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!
光を放て(イザヤ60:1-3)
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「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。」(イザヤ60:1)
今は暗闇に覆われているような時代であるが、主は私達の上に光をともして下さり、光の子として下さった。
そして私達には光を放つよう命じられており、しかも国々は私達の光の内に歩み、王達は私達の輝きに照らされて歩むというのだ。暗闇の世に光を照らし出す者となるためには、どうすれば良いだろうか。
まず忘れてはならないのは、主イエス・キリストこそ、まことの光であり、全ての人を照らし出す光の源である。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(2コリ3:18)
つまり私達はまず、まことの光なるキリストからたっぷりと照らされる必要があり、照らされた主の栄光の光を、鏡のように反映させる事によって、世に光を届けるのである。
鏡が光をよく反映させるには、でこぼこな面は平らにされ、磨かれる必要がある。だから荒野で叫ぶ者は「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。」と叫んだのだ。(イザヤ40:3-5)
イエス様は「ともし火をともして、それを穴蔵(kruptos:秘めた所)の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。」(ルカ11:33)と言われた。
火をつけたろうそくを、秘密の場所に隠したり、升で覆うといった、そんな無駄で危険な事をする者など、はたしているのだろうか。 霊的にそういう事をする者が、実際いるのだ。
升は器であり、器とは人(2コリ4:7、2テモテ2:20)であるが、光なるイエス様が来られたというのに、その光を自分の心の奥底に隠したままだったり、自分という器がしゃしゃり出て、このいのちの灯を覆ってしまう、という事が、大いにあるから、主は注意されたのである。
主は無限なるお方であり、私達の小さい頭に収まりきるお方ではない為、私達という器で覆ってはならない。
このお方が存分に光輝き、光を求めて入ってくる全ての人に見えるよう、燭台に置くべきなのであり、教会こそ、キリストの光を輝かせる燭台である。(黙示録1:20)
私達は、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主イエスキリストだけを、宣べ伝えるのである。(2コリ4:5-7)
私達は土の器に過ぎないが、「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えて下さった。
この並外れて偉大な力は、当然神からのものであって、私達から出たものでない事は明らかである。
私達という器で制限してしまうと、主も、御業を制限されてしまって、働く事はできない。
主が郷里で存分な働きが出来なかったのは、郷里の人達は、なまじ人間として30年を過ごされたイエスを知っており、そのイメージに彼を閉じ込めてしまったため、彼を救い主として受け入れられなかったのだ。
「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」(マルコ16:16-18)
これらは信じる者に与えられるしるしであって、信じない者には与えられない。
結局、私達が人に出来る最善は、人を、まことの光なる主イエスキリストへと導く事である。
人が主の元に導かれる時、主はその人の内で光となり、苦しみの闇はなくなり、はずかしめを受けていた人は栄光を受ける。
闇の中を歩んでいる者を大きな光で照らし、死の陰の地に住んでいる者達を、暖かい愛の光によって、照らして下さるのである。(イザヤ9:2)
このまことの光を届ける者として、世の光となって輝き渡る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
光よ。あれ。(創世記1:1-5)
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神は世の全てを6日に渡って創造し、第7日に創造のみわざを完成し、休まれた。
「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。」(創世記1:31)
はじめに神が創造したものは全て美しく調和し、全てが完全で、はなはだ良いものだった。
しかし今の世を見るに、その美しく調和の取れたはなはだ良い世界とは、一体どこにあるのか。むしろ、闇に覆われて形無く、混沌である、という表現のほうが、しっくり来るのではないか、と思うかもしれない。
そうなってしまった理由はただ一つ。人が神の命令から離れ、自分勝手な選択をしてしまった結果である。
憐れみ深い神は、そんな世を絶ち滅ぼしてしまうのではなく、呪われてしまった世界と、罪と死に支配されてしまった人間とを、再び回復するために、御子イエスキリストのいのちを通して買い戻す方法を取られた。
それが聖書の全体像である。
世は、初めからおられた「ことば」なるキリストによって造られ、この方によらずに出来たものは、一つもない。
世にまだ光が無く、闇に覆われていた時、神は、めんどりが雛を羽で覆うようにして、混沌の上を覆っておられたように、主は、混沌の闇にうずくまって一人泣いているような私達をご覧になり、愛の御翼で覆い、その陰で守っておられたのだ。
そしてこの方はいのちであり、このいのちは人の光であり、闇はこれに打ち勝たなかった。(ヨハネ1章)
その全ての人を照らす、まことの光なるキリストは、罪と死の闇に閉ざされてしまった人にまことの光をもたらし、混沌となってしまった人に秩序をもたらし、いのちを創造されたあの御業を再び働かせて下さるのだ。
我々はその主を、主日すなわち日曜日に祝うが、なぜユダヤ人のように安息日にではなく主日に祝うのか。
まず、律法が与えられたイスラエルの民には、安息日を覚えてこれを聖とせよ、と命じられたが、彼らは本当の安息に入ったのではなく、来るべき真の安息を世に現すためにと、安息日を守るよう指示されたのだ。
「もしヨシュアが彼らに安息を与えたとするのなら、神は後になって他の日について語られることはなかったでしょう。それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。」(ヘブル4:8)
つまり真の安息は、イエスを信じて神の民となった我々に、新創造である我々に、残されているのである。
主日、すなわち週の初めの日、第1日は、神が「光よ。あれ。」と言葉を発せられ、光が世に来た日である。
そしてまことの光なる主イエスは、主日に甦られ、主日に弟子達に顕現され(ヨハネ20:19-29)、初代教会の聖徒達も主日に集まっていた(使徒20:7)から、我々もそれに習い、主日にイエスを覚えて、祝っている。
神は、第7日すなわち安息日に創造の御業を休まれたが、アダムは創造の御業を台無しにしてしまった。
そこで神は、第二のアダム、すなわち全ての人を照らすまことの光なるキリストを遣わし、罪と死の闇に閉ざされてしまった人にまことの光をもたらし、混沌となってしまった人に、秩序をもたらして下さった。
だから、新しい創造へと造り変えて下さった、まことの光なる主が来られたこの日を、我々は祝うのである。
キリストこそ真の安息へと導いてくださる安息日の主であるが、その安息に入るにはどうすれば良いか。
「信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。」(ヘブル4:3)つまり、「信じる」事である。
アダムの失敗である自分の主張をキリストの元に降ろし、御言葉なるキリストを信じて、服従する事。
荒野を40年さ迷った民が、安息に入れなかったのは、福音を説き聞かされても従おうとしなかったからであり、みことばを聞いた人たちが、信仰によって混ぜる事をしなかったからである。(ヘブル3:13-4:2)
神の安息に入った者は、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休む。(4:10)
キリストは十字架上で「完了した」と言い、頭を垂れて主に霊を明け渡され、そして安息日が始まったように、私達も、生来の人間的なわざは十字架に明け渡し、信仰によって安息に入る。
そしてキリストが主日に甦られたように、私たちも共に甦り、新創造であるいのちにあずかるのである。
御言葉なるキリストを信じ、神の安息へと入る皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!
すばらしい喜びの知らせ(ルカ2:10-11)
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もしもイエス様が生まれていなかったとしたら、私達に助け主・聖霊は与えられず、罪の赦しも、からだのよみがえりも、とこしえのいのちへ望みも無い、絶望の世界である。
ある牧師が夢を見た。その世界は、なんと、イエス様が生まれていない世界だった。
聖書を開くと旧約聖書しか無く、書斎の本からイエス様に関するあらゆる記述が消えており、救いは選びの民のみで異邦人は汚れた民、神殿に入って神を礼拝する事は、異邦人は赦されなかった。
戸惑いつつ書物を調べているその時、ドアを叩く音があった。開けてみると、貧しい身なりの子が泣きながら「死にかかっているお母さんのために祈って下さい」と訴えていた。
牧師はその子の家に行き、病にうなされているお母さんを前に、聖書を開いてみた。
しかし病の癒しの保障となるお方は世に来ておらず、誰の名によって祈って良いのか分からなかった。
母親は死を前に、今まで犯して来た過ちや罪を思い返して恐れていた。
牧師は聖書を探してみたが、罪の身代わりとなって下さった方がいないので、何の根拠ある言葉が思い浮かばず、また、聖霊による示しも無いため、死の恐れの中にある親子を前に、ただ一緒に泣いたり、人間の知恵によって励ましをするしか無かった。
そして、その母親は亡くなった。
その牧師は、彼女のためにお葬式をする事になったものの、罪の赦しやからだのよみがえり、永遠のいのちの希望の言葉は見当たらないので、ただ「土から生まれた者は土に帰る」という伝道者の御言葉を語り、その子と一緒に泣きながら埋葬するしかなかった。
牧師は、救い主抜きの自分があまりにも無力であり、そしてあまりにも希望の無い世界に、打ちひしがれた。
病や呪い、罪や死、滅びに対して無力である世界に、絶望して泣いていた、その時、その悪夢から醒めた。
牧師は聖書を手に取って見た。目に飛び込んで来た聖句には、次のように書かれてあった。
「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:11)
キリストの誕生は、どれほど嬉しく、人類全体にとって素晴らしい出来事だろう。
恐れるな、と私達に語りかけられた御使いの言葉は、何と力強く、慰めに満ちている事だろう。
イエス様が生まれてくださったからこそ、私達には病の癒しを祈る根拠があるのだ。(使徒3:16)
イエス様が、私達の罪のために身代わりとなり、罪を処罰して下さったからこそ、その名を信じる者は決して罪に定められる事が無く、罪と死の原理から解放されるのだ。(ローマ8:1-3)
彼が永遠のいのちへの道を開いてくださったからこそ、例え死の間際であろうと、平安と希望、喜びに満たされるのである。(1コリント15:20-22)
そればかりでなく、キリストは全ての支配、全ての権威や勢力を滅ぼし、全ての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっており、そして最後の敵である死が滅ぼされる。(1コリント15:23-26)
キリストに連なる聖徒達は、キリストと共に永遠に生き、永遠に支配する事になる。(2テモテ2:11-13)
イエス様は「わたしはある」と言われた。(ヨハネ8:24、28、58、11:25‐27、18:5)
私達は百年ほどで土に還る存在だが、主こそ、とこしえからとこしえまで、在りて在られるお方である。
「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」(黙22:13)
この終わりの時代、不正を行う者はますます不正を行うが、私達聖徒は、いよいよ主の流された血で自分の行いという着物を洗い、主に在って聖なる者とされ、いのちの木へ至る権利を勝ち取るべきである。
主イエス様が私達のために与えられた事を感謝し、このお方が投げ出して下さったいのちを軽んじる事無く、その特権を十分に知り、活用し、勝利と祝福を勝ち取る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
主の道を整えよ(ルカ1:57-66)
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ヨハネは父ザカリヤや母エリザベツにだけでなく、多くの人にとって喜びとなる、と予め預言されていた。
その喜びとは、単に子がいない一老夫婦を神が慈しみ、子が与えられる、という事に留まらない。
それは人類が久しく待望した、人類全体に注がれる神からの慈しみであり、喜びである。
生まれて来るヨハネは、人々を主の元に立ち返らせ、主に先立って進み、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する者となるのだ。(ルカ1:16,17)
さて、ザカリヤに喜びの知らせが告げられた時、彼は御使いの言葉を信じず、口が利けなくされてしまう。
マリヤとザカリヤの御使いに最初に答えた言葉は、見比べてみると似ている気がするが、心は大いに違う。
マリヤは、処女である自分が身篭るという、絶対有り得ない事、むしろ状況的に絶対起こって欲しくない事を密かに告げられ「どうして起こり得ましょう」と言ったのに対し、ザカリヤは公の祭司という立場にあり、老夫婦に子が生まれるという、滅多に起こらない、むしろ望ましい、彼自身が長年祈り求めて来た事が、やっと叶えられる、というお告げに、「何によって」「わたしは」「知ることができるか」と、神の聖所で要求したのだ。
それで彼の口は利けなくされ、御使いの言葉が成就するまで、人に話す事が出来なくなったのだ。
御言葉に従順できない人にとっての最善は、口をつぐむ事。それは周囲にとっても益である。
思い描いていた幻想が、主によって打ち砕かれた時は、哀歌に書いてある通り、黙っているのが良い。
ザカリヤが口が利けるようになったのは、公に「その名はヨハネ」と書いた時だった。
人々がそうだったように、ザカリヤ自身も、待ち望んでいた赤子に自分の名前をつけたかっただろう。
しかし彼も、エリサベトも、人々や自分の望みを押し切って、主に言われた通りの名前を二人で公に示したとたん、ザカリヤの口が利けるようになり、そして真っ先に彼の口から出たのは、神への賛美だった。
懲らしめの最中は口をつぐみ、自分を降ろして従順を学び、神と人との前で、御言葉の通りに行う時、主の素晴らしさをさらに知り、賛美の口は開け、それも、真っ先に賛美したい程に、心が整えられるのだ。
ヨハネという名前には、「神は恵み深い」「神の賜物」という意味がある。
神は、ザカリヤに好きな名前をつけて良い、とは言わず、わざわざ人も不思議がる「ヨハネ」という名前を指定したのは、このヨハネという人物を通じ、神が贈られた最高の賜物、すなわちイエス様へと、人々を導くためではなかろうか。ヨハネという名が有名になるにつれ、神の賜物であり、神の恵み深さの現われである、イエスキリストへ向かうようにと、人々の心は整えられて行ったのである。
ヨハネが女から生まれた人間の中で最も偉大だと、主から呼ばれたのは、なぜか。
それまでの律法や預言者は、メシヤを断片的に示して来たのに対し、ヨハネはメシヤの現れに備えて人々を整え、イエスこそメシアであると直接的に示し、最終的に人々をイエスへと導いたからではなかろうか。
律法と預言者はヨハネまでであり、聖書全体の主人公は、このイエスだ。
天における人の偉大さの尺度は、大きな事をする事ではなく、いかに人や自分をイエスへと導くか、である。
『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』(ルカ3:5)
主をお迎えするには、まず自分自身が整えられなくてはならなず、心に高ぶりや卑屈さなどのでこぼこがあったまま、主をお迎えしようにも、ザカリヤのように口を塞がれてしまう。
母エリサベツは、マリヤの胎で受胎して間もないイエス様でさえ「主」と呼ぶ程、既に整えられていた。
バプテスマのヨハネは、そうして生まれる前から整えられ、母の胎にいる時に、主との出会いを喜んだのだ。
このアドベントの時、心の中にある山や谷は埋められ、でこぼこ道は平らにされ、そうして整えられて主を待ち望む皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!
喜びの胎動(ルカ1:39-45)
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『天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。』(ルカ1:28-29)
マリアはヨセフという素敵な男性と婚約中で、貧しいながらも、ささやかな幸せが約束されていたにもかかわらず、ある日いきなり、男を知らない身であるのに身篭って、永遠の王を生む、と告げられたのだ。
彼女は、救い主の母という、古今東西の女性達がうらやむ唯一の栄誉を得たが、人の実際は、そのような天からの偉大なおとずれに戸惑い、もしそうなったらと、目先のあれこれを、心配してしまうものである。
人は、自分の頭で想像し易い、ささやかな幸せを求めるもので、途方も無く偉大な身分を得るなど思ってもおらず、日常を生きる私達が、ある日突然そのような途方も無く偉大な身分を得る、と提示されたなら、逆に困ったり、逆に迷惑に思ってしまうものかもしれない。
私達はあまりに小さい存在であるため、途方もない祝福を、逆に迷惑に思ってしまう事があるが、主が私達に用意しておられる祝福は、途方もないもの、にわかには信じ切れない次元のものである。
その栄誉を勝ち得るには、マリヤのように、主によって語られたことは必ず実現すると信じ、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と告白する事である。
地上におけるマリヤの歩みは、平凡な幸せからは遠く、むしろ心を刺し貫かれる事が多かったに違い無いが、御使いにさえ「おめでとう恵まれた方」と言われた程、天においても地においても、優れた恵みを得た。
それは私達も同様で、地上の歩みとしては、普通の人が望むささやかな幸せからは、離れているように見えても、永遠の観点から見れば、永遠に感謝して余りあるいのちの道を、生かして下さるのである。
もしマリヤが、自分の身に起きた事を真っ先に報告する相手として、神殿にいるパリサイ派を選んでいたなら、間違いなく、メシヤを生まずして、冒涜と姦淫の罪によって石打に処される所だっただろう。
愛するヨセフからも拒絶され、捨てられる事も、十分考えられる程、自分にとってリスクのある事である。
しかし主は、彼女にとって途方もないこの事を、真っ先に打ち明ける相手を、きちんと備えておられた。
マリヤ同様、御使いの導きによって奇跡的に身篭り、もう6ヶ月になっていた、親類のエリザベトである。
マリヤは急いでエリサベトの所へ行ったが、エリサベトがマリヤの身に起きた事を悟ったのは、マリヤからの何時間もの相談でも、情に訴える説得によるのでもなく、マリアの挨拶を耳にした、その瞬間だった。
胎内の子が喜び踊り、聖霊に満たされ、このはるか年下の親類が「わたしの主の母」と悟ったのだ。
そして、彼女自身の口から、マリヤは女の中で祝福された者である事、また、その胎の実は祝福されており、しかも「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」と、まだ一言も話してもいないのに、あたかも全てを見透かしたかのように、聖霊による喜びの胎動で悟ったのだ。(ルカ1:39-45)
そしてマリヤは、心から一点の曇りもかき消され、喜びに溢れた賛美の歌を、主に向かって歌った。
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。。。」(ルカ1:47-55)
主は、信じられないような偉大な祝福と栄誉を、私達信じる者に用意されており、そして、その祝福を受け止められるように、聖霊によって分かち合う兄弟姉妹も備えておられる。その常識では考えられないスケールの祝福は、一部の信じる者だけが密かに知って喜び、分かち合う事が出来れば、十分である。
パウロは、私達が知恵と啓示との霊を与えられ、神を深く知ることができるように、心の目が開かれるように祈り、そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせて下さるように、また、私達信じる者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるようにとも、祈っている。(エペソ1:17-19)
主が成して下さった偉大な事を、私達の内に宿られた方の、喜びの胎動によって共に喜び、密かに分かち合い、ほくそ笑む皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!
法則に乗る(ヨシュア7章10-13節)
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町は既にイルミネーションが輝き、クリスマス(Christmas=キリストのミサ)の到来を待ち望んでいるが、教会暦では、本日より待降節、すなわち、キリストの誕生を覚える週に入った。
キリストの誕生がなぜ喜ばしいかというと、彼は私達の罪を清め、死からいのちへと救って下さるお方だからだ。しかし、私達の罪が清められ、救いに入るには、このお方こそ救い主であると信じる事が必要で、そうでない人には、彼は喜ばしいお方というより、恐るべきお方、永遠の死とさばきをもたらすお方である。
それは聖書の御言葉に書いてある通りで、御言葉は、世のあらゆる法則以上の法則であり、御言葉を守る者には、必ず祝福が、おろそかにする者には、必ず呪いが、書かれてある通りの事が、必ず起きる。
本日は2週ぶりにヨシュア記に戻り、祝福と呪いの結果は、いかに御言葉の法則通りかを、見ていきたい。
ヨシュア記の戦いは、単に神の民を勝利させて、彼らを気持ち良くさせたり富をもたらす為の戦いではない。
この地方の悪が満ちたため(創15:16)、滅ぼされるべき者を滅ぼすための、神の代理戦争である。
それ故、人間同士が自分の利益を求めて争う世の戦争とは本質的に違い、神の法則に立つ者は、例え滅びの町の娼婦であっても救われ、法則に立たない者は、例え神の民の戦士でも、滅ぼされるのである。
城壁の町エリコに大勝利し、征服できたのは、主が戦って下さったからだが、彼らは早速傲慢になった。
エリコ攻略の前は、人々の口から余計な言葉を発する事を禁じて従順し、御言葉の法則に乗ったが、今回、エリコに比べればアイは取るに足りないから、全力投球する事は無い、2,3千人行けば良いだろう、と言って、約3千人が戦いに行ったが、結果36人が打たれ、イスラエルは敗走してしまった。(ヨシュア7:2-4)
アイの住人は約1万2千人、それに対し自軍の兵は3千人で十分、と言うのだから、イスラエルの中にはよほど傲慢な霊的雰囲気が流れていた事、主に伺い信仰によって前進する事を忘れていた事が分かる。
人はうわべの人数や規模の大小を見るが、主は、小さな事でも忠実に従い通す心を求めておられる。
我々はあれだけの困難に勝った、あんな大きな事をした、と言っておごり、御言葉や、たとえ小さな礼拝さえないがしろにするのなら、主は沈黙し、たとい彼らが、のこのこ負け戦に出て行っても、放っておかれる。
ヨシュアはただ一回の負け戦によって心がしなえてしまったが、主は2回「立ちなさい」と命じた。
主が望んでおられるのは、何十時間もの後悔や祈りなどではなく、立ち上がって、自分の中にある主の忌み嫌われるものを示していただき、しっかりとそれと向き合い、きっちり取り除く事である。
「滅ぼし尽くすべきものを持つ者がこうして、指摘されたなら、その人は財産もろとも火で焼き尽くされねばならない。彼は主の契約を破り、イスラエルにおいては愚かなことをしたからである。」(15節)
人はこれを、厳しいと思う。しかし私達は、自分の中の「滅ぼされるべきもの」、すなわち罪を、それだけ厳しく対処しなくてはならない。厳しく対処しなくてはならない、と言っても、成すべき事はいたってシンプルで、自分の罪を認め、罪から救って下さり最善へと導いて下さるイエス様に、全てを明け渡す事である。
滅びに導いた当事者であるアカンは、罪を示す”くじ”の当選範囲が、自分に向かって段々狭められて来るのが、気が気でなかったろう。しかしそれでも、彼は最後の最後まで名乗り出て悔い改める事をせず(16-18節)、最後にくじが当たって罪が暴かれ、結局彼は持ち物を焼かれ、家族は石打ちにされた。
彼は、主に捧げられるべき金や銀(6:18,19)を、滅ぼすべきシヌアル(バベルの地)の上着と共に、自分の物として天幕に隠し、銀を埋めていた。主に捧げるべきものを自分のものとし、滅ぼすべきものも同じく自分の懐に囲うなら、自分に属する全てが滅ぼされてしまうというのは、象徴的な事である。
御言葉は世のあらゆる法則以上の法則で、それを守る者には、必ず祝福が、おろそかにする者には、必ず呪いが来る以上、私達は、傲慢になったり、不従順にならないよう、気をつけるべきである。
御言葉にしっかり留まり、しっかり従順となって、主の民として多くの勝利と祝福を勝ち取る皆さんでありますように!
主に捧げられる良き実となるために(ルカ3:16-17)
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「ヨハネはみなに答えて言った。私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。 また手に箕を持って脱穀場をことごとくきよめ、麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」(ルカ3:16-17)
バプテスマを授けていたヨハネは、自分よりも、自分の後に来られるお方こそが重要であると強調した。
パウロも同様の事を1コリント1:10-18で述べており、バプテスマを授けた人や、知者や指導者などの人間が重要なのではなく、十字架につけられたキリストこそ、私達が拠り所とするお方である、と言っている。
このお方は、私達に聖霊と火とのバプテスマを授け、また、もみがらと実とをふるい分けられる。
本日捧げられた野菜や木の実、種などの収穫物は、見ての通り、美しく麗しく良いものである。
見た目が鮮やかで、香りもかぐわしく、祭壇に並んでいるのを見ると、幸せな気持ちになってくる。
これらのものは、全て天の写しであり、地上の物は影にすぎない。
天の倉に納められる、真の「良い実」とは、御国の子達である私達であるが、しかし、この世という「畑」には、悪魔が蒔いた毒麦も同時に育っていると書かれてある。(マタイ13:36-43)
しかし世の終りの時、つまずきを与える者や不法を行なう者達はみな、御国から取り集められ火の燃える炉に投げ込まれ、正しい者達は天の御国で太陽のように輝く。
キリストにつながる私達こそ、良き実を結ぶ者達であり、結んだ良き実は主の倉への奉納物となる。
また同時に、私達自身が、主に捧げられる、生きた供え物として捧げられなくてはならない。
「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ロマ12:1)
主の倉へ入れられる有用な供え物となるには、私達の肉という、余分な殻は、脱穀されなくてはならない。
例えば栗は、イガがついたままでは、当然口には入らない。まず、とげとげしたイガを取り、煮詰められ、種の堅い殻も、渋い皮も剥ぎ落とされて、やっと食用になる。
そのように私達も、主の御前にとげとげした外側も、内にある堅い部分も、内にある渋い部分も、全て除かれ、焼き尽くされなくては、主の入用にはならない。
ヨシュア記においても、まず割礼を施して余計な部分を取り除き、過越の小羊を祝った時、マナが降るのが止み、その時から、地の産物を豊かに得る事が出来るようになり、そしてそこから、勝利につぐ勝利の生活へと転じた。(ヨシュア5:1-12)
過越祭でほふられる小羊は、まことの小羊キリストをあらわし、その裂かれた肉を共に食す事は聖餐のパンを予表し、流された血潮のしるしは、十字架の血である杯を予表している。
土地の収穫を得るには、自分の手で働く事が必要で、それは、今までのように受け身で食物を受けるのではなく、主に信頼しつつ自らの手で働き収穫するという、一日一日が主とのコラボレーションの生活である。
これからは、分捕られてきた物を主と共に分捕り返し、世に対して、サタンに対して勝利を重ねる時である。
もちろん主を心の王座から引きずり降ろし、逆らってしまったら、敗北に転じてしまう事を忘れてはならない。
「ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。」(ヨシュア1:7,8)
日々、御言葉を宣言して実行し、勝利に勝利を重ねる皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
