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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

喜びの胎動(ルカ1:39-45)
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『天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。』(ルカ1:28-29)
マリアはヨセフという素敵な男性と婚約中で、貧しいながらも、ささやかな幸せが約束されていたにもかかわらず、ある日いきなり、男を知らない身であるのに身篭って、永遠の王を生む、と告げられたのだ。
彼女は、救い主の母という、古今東西の女性達がうらやむ唯一の栄誉を得たが、人の実際は、そのような天からの偉大なおとずれに戸惑い、もしそうなったらと、目先のあれこれを、心配してしまうものである。
人は、自分の頭で想像し易い、ささやかな幸せを求めるもので、途方も無く偉大な身分を得るなど思ってもおらず、日常を生きる私達が、ある日突然そのような途方も無く偉大な身分を得る、と提示されたなら、逆に困ったり、逆に迷惑に思ってしまうものかもしれない。

私達はあまりに小さい存在であるため、途方もない祝福を、逆に迷惑に思ってしまう事があるが、主が私達に用意しておられる祝福は、途方もないもの、にわかには信じ切れない次元のものである。
その栄誉を勝ち得るには、マリヤのように、主によって語られたことは必ず実現すると信じ、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と告白する事である。
地上におけるマリヤの歩みは、平凡な幸せからは遠く、むしろ心を刺し貫かれる事が多かったに違い無いが、御使いにさえ「おめでとう恵まれた方」と言われた程、天においても地においても、優れた恵みを得た。
それは私達も同様で、地上の歩みとしては、普通の人が望むささやかな幸せからは、離れているように見えても、永遠の観点から見れば、永遠に感謝して余りあるいのちの道を、生かして下さるのである。

もしマリヤが、自分の身に起きた事を真っ先に報告する相手として、神殿にいるパリサイ派を選んでいたなら、間違いなく、メシヤを生まずして、冒涜と姦淫の罪によって石打に処される所だっただろう。
愛するヨセフからも拒絶され、捨てられる事も、十分考えられる程、自分にとってリスクのある事である。
しかし主は、彼女にとって途方もないこの事を、真っ先に打ち明ける相手を、きちんと備えておられた。
マリヤ同様、御使いの導きによって奇跡的に身篭り、もう6ヶ月になっていた、親類のエリザベトである。
マリヤは急いでエリサベトの所へ行ったが、エリサベトがマリヤの身に起きた事を悟ったのは、マリヤからの何時間もの相談でも、情に訴える説得によるのでもなく、マリアの挨拶を耳にした、その瞬間だった。
胎内の子が喜び踊り、聖霊に満たされ、このはるか年下の親類が「わたしの主の母」と悟ったのだ。
そして、彼女自身の口から、マリヤは女の中で祝福された者である事、また、その胎の実は祝福されており、しかも「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」と、まだ一言も話してもいないのに、あたかも全てを見透かしたかのように、聖霊による喜びの胎動で悟ったのだ。(ルカ1:39-45)
そしてマリヤは、心から一点の曇りもかき消され、喜びに溢れた賛美の歌を、主に向かって歌った。
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。。。」(ルカ1:47-55)

主は、信じられないような偉大な祝福と栄誉を、私達信じる者に用意されており、そして、その祝福を受け止められるように、聖霊によって分かち合う兄弟姉妹も備えておられる。その常識では考えられないスケールの祝福は、一部の信じる者だけが密かに知って喜び、分かち合う事が出来れば、十分である。
パウロは、私達が知恵と啓示との霊を与えられ、神を深く知ることができるように、心の目が開かれるように祈り、そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせて下さるように、また、私達信じる者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるようにとも、祈っている。(エペソ1:17-19)
主が成して下さった偉大な事を、私達の内に宿られた方の、喜びの胎動によって共に喜び、密かに分かち合い、ほくそ笑む皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

法則に乗る(ヨシュア7章10-13節)
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町は既にイルミネーションが輝き、クリスマス(Christmas=キリストのミサ)の到来を待ち望んでいるが、教会暦では、本日より待降節、すなわち、キリストの誕生を覚える週に入った。
キリストの誕生がなぜ喜ばしいかというと、彼は私達の罪を清め、死からいのちへと救って下さるお方だからだ。しかし、私達の罪が清められ、救いに入るには、このお方こそ救い主であると信じる事が必要で、そうでない人には、彼は喜ばしいお方というより、恐るべきお方、永遠の死とさばきをもたらすお方である。
それは聖書の御言葉に書いてある通りで、御言葉は、世のあらゆる法則以上の法則であり、御言葉を守る者には、必ず祝福が、おろそかにする者には、必ず呪いが、書かれてある通りの事が、必ず起きる。
本日は2週ぶりにヨシュア記に戻り、祝福と呪いの結果は、いかに御言葉の法則通りかを、見ていきたい。

ヨシュア記の戦いは、単に神の民を勝利させて、彼らを気持ち良くさせたり富をもたらす為の戦いではない。
この地方の悪が満ちたため(創15:16)、滅ぼされるべき者を滅ぼすための、神の代理戦争である。
それ故、人間同士が自分の利益を求めて争う世の戦争とは本質的に違い、神の法則に立つ者は、例え滅びの町の娼婦であっても救われ、法則に立たない者は、例え神の民の戦士でも、滅ぼされるのである。

城壁の町エリコに大勝利し、征服できたのは、主が戦って下さったからだが、彼らは早速傲慢になった。
エリコ攻略の前は、人々の口から余計な言葉を発する事を禁じて従順し、御言葉の法則に乗ったが、今回、エリコに比べればアイは取るに足りないから、全力投球する事は無い、2,3千人行けば良いだろう、と言って、約3千人が戦いに行ったが、結果36人が打たれ、イスラエルは敗走してしまった。(ヨシュア7:2-4)
アイの住人は約1万2千人、それに対し自軍の兵は3千人で十分、と言うのだから、イスラエルの中にはよほど傲慢な霊的雰囲気が流れていた事、主に伺い信仰によって前進する事を忘れていた事が分かる。
人はうわべの人数や規模の大小を見るが、主は、小さな事でも忠実に従い通す心を求めておられる。
我々はあれだけの困難に勝った、あんな大きな事をした、と言っておごり、御言葉や、たとえ小さな礼拝さえないがしろにするのなら、主は沈黙し、たとい彼らが、のこのこ負け戦に出て行っても、放っておかれる。

ヨシュアはただ一回の負け戦によって心がしなえてしまったが、主は2回「立ちなさい」と命じた。
主が望んでおられるのは、何十時間もの後悔や祈りなどではなく、立ち上がって、自分の中にある主の忌み嫌われるものを示していただき、しっかりとそれと向き合い、きっちり取り除く事である。
「滅ぼし尽くすべきものを持つ者がこうして、指摘されたなら、その人は財産もろとも火で焼き尽くされねばならない。彼は主の契約を破り、イスラエルにおいては愚かなことをしたからである。」(15節)
人はこれを、厳しいと思う。しかし私達は、自分の中の「滅ぼされるべきもの」、すなわち罪を、それだけ厳しく対処しなくてはならない。厳しく対処しなくてはならない、と言っても、成すべき事はいたってシンプルで、自分の罪を認め、罪から救って下さり最善へと導いて下さるイエス様に、全てを明け渡す事である。

滅びに導いた当事者であるアカンは、罪を示す”くじ”の当選範囲が、自分に向かって段々狭められて来るのが、気が気でなかったろう。しかしそれでも、彼は最後の最後まで名乗り出て悔い改める事をせず(16-18節)、最後にくじが当たって罪が暴かれ、結局彼は持ち物を焼かれ、家族は石打ちにされた。
彼は、主に捧げられるべき金や銀(6:18,19)を、滅ぼすべきシヌアル(バベルの地)の上着と共に、自分の物として天幕に隠し、銀を埋めていた。主に捧げるべきものを自分のものとし、滅ぼすべきものも同じく自分の懐に囲うなら、自分に属する全てが滅ぼされてしまうというのは、象徴的な事である。

御言葉は世のあらゆる法則以上の法則で、それを守る者には、必ず祝福が、おろそかにする者には、必ず呪いが来る以上、私達は、傲慢になったり、不従順にならないよう、気をつけるべきである。
御言葉にしっかり留まり、しっかり従順となって、主の民として多くの勝利と祝福を勝ち取る皆さんでありますように!

主に捧げられる良き実となるために(ルカ3:16-17)
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「ヨハネはみなに答えて言った。私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。 また手に箕を持って脱穀場をことごとくきよめ、麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」(ルカ3:16-17)

バプテスマを授けていたヨハネは、自分よりも、自分の後に来られるお方こそが重要であると強調した。
パウロも同様の事を1コリント1:10-18で述べており、バプテスマを授けた人や、知者や指導者などの人間が重要なのではなく、十字架につけられたキリストこそ、私達が拠り所とするお方である、と言っている。
このお方は、私達に聖霊と火とのバプテスマを授け、また、もみがらと実とをふるい分けられる。

本日捧げられた野菜や木の実、種などの収穫物は、見ての通り、美しく麗しく良いものである。
見た目が鮮やかで、香りもかぐわしく、祭壇に並んでいるのを見ると、幸せな気持ちになってくる。
これらのものは、全て天の写しであり、地上の物は影にすぎない。
天の倉に納められる、真の「良い実」とは、御国の子達である私達であるが、しかし、この世という「畑」には、悪魔が蒔いた毒麦も同時に育っていると書かれてある。(マタイ13:36-43)
しかし世の終りの時、つまずきを与える者や不法を行なう者達はみな、御国から取り集められ火の燃える炉に投げ込まれ、正しい者達は天の御国で太陽のように輝く。

キリストにつながる私達こそ、良き実を結ぶ者達であり、結んだ良き実は主の倉への奉納物となる。
また同時に、私達自身が、主に捧げられる、生きた供え物として捧げられなくてはならない。
「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ロマ12:1)
主の倉へ入れられる有用な供え物となるには、私達の肉という、余分な殻は、脱穀されなくてはならない。
例えば栗は、イガがついたままでは、当然口には入らない。まず、とげとげしたイガを取り、煮詰められ、種の堅い殻も、渋い皮も剥ぎ落とされて、やっと食用になる。
そのように私達も、主の御前にとげとげした外側も、内にある堅い部分も、内にある渋い部分も、全て除かれ、焼き尽くされなくては、主の入用にはならない。

ヨシュア記においても、まず割礼を施して余計な部分を取り除き、過越の小羊を祝った時、マナが降るのが止み、その時から、地の産物を豊かに得る事が出来るようになり、そしてそこから、勝利につぐ勝利の生活へと転じた。(ヨシュア5:1-12)
過越祭でほふられる小羊は、まことの小羊キリストをあらわし、その裂かれた肉を共に食す事は聖餐のパンを予表し、流された血潮のしるしは、十字架の血である杯を予表している。
土地の収穫を得るには、自分の手で働く事が必要で、それは、今までのように受け身で食物を受けるのではなく、主に信頼しつつ自らの手で働き収穫するという、一日一日が主とのコラボレーションの生活である。

これからは、分捕られてきた物を主と共に分捕り返し、世に対して、サタンに対して勝利を重ねる時である。
もちろん主を心の王座から引きずり降ろし、逆らってしまったら、敗北に転じてしまう事を忘れてはならない。
「ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。」(ヨシュア1:7,8)
日々、御言葉を宣言して実行し、勝利に勝利を重ねる皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

口を塵につけよ(哀歌3章22−39節)
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哀歌は、エルサレムがバビロンによって滅ぼされたのを目撃したエレミヤが歌った、聖書の中で最も悲しみに溢れている歌で、陥落後のエルサレムの、とても悲惨な状況が記されている。
人は、悲しみに共感する。乳飲み子が衰え果て、母の懐で息絶えようとしている様には、心を動かされる。
しかし、どうしたらそういう結果となってしまったのか、という所を、おろそかにしてはならない。
「エルサレムは罪に罪を重ね笑いものになった。・・・衣の裾には汚れが付いている。彼女は行く末を心に留めなかったのだ。」(哀歌1:8,9)
エルサレムはこうなる事を、十分避けられた。それも、どうしたらこうなるのかは、既に何世紀も前からモーセによって示されていた(申命記4:25-31)し、主は、早くからしきりに使者を遣わし、民が立ち返るよう呼びかけてきたが、民は彼らを笑いものにし、侮った(2歴代36:15,16)ため、そのようになってしまったのだ。

私達は災いに遭った時、自分に起こった災いばかりに目を留め、こんな災いに遭うのは不当だと主張し、自分は選ばれ民だと高慢に振る舞いつつ、それでも罪は依然として持ち続けながら生きてしまいがちだ。
私達が懲らしめを受けるならば、それは幸いな事だ。 なぜなら、神は私達を子として扱っておられ、それによって訓練された私達は、主の聖さにあずかり、平安な義の実を結ぶからである。(ヘブ12:5-11)
もし私達が罪を犯しても何の罰も受けずに来るなら、高慢になり、兄弟姉妹を傷つけ、自分が迷惑をかけている事も分からないまま罪に罪を重ねる、という事になってしまう。
だから、懲らしめのくびきを負わされるのは良い事で、それによって、へりくだる事、そして従順を学ぶのだ。

「軛を負わされたなら黙して、独り座っているがよい。塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。
打つ者に頬を向けよ十分に懲らしめを味わえ。主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。」
(哀歌3:28-30)
主から懲らしめを受けた時、怒りたいかもしれない。不当だ、と叫びたいかもしれない。
しかし、そのような時は、不平不満を言うより、むしろ口を塵につけて、黙って懲らしめを受けるほうが良い。
「生きている人間は、なぜつぶやくのか。自分自身の罪のためにか。」(哀3:39) 
もしつぶやきが出るなら高慢になっており、自分の罪をまだ認めていない証拠である。
人は元々、ちりである。高慢になっているのであれば、口をちりにつけ、ちりを味わい、ちりの成り立ち、すなわち人間の成り立ちを、そして、ちりである自分自身の成り立ちを、じっくり味わい、思い起こす時である。
御言葉の前に、身も心も低くしているなら、主はいつまでも捨て置かれはしない。

哀歌5章は民の祈りとなっており、1-14節は自分の身に降りかかった災いを申し述べているが、15-17節で、それは自分達の側に非があったから、と認めている。
「ああ、私たちにわざわいあれ。私たちが罪を犯したからです。私たちの心が病んでいるのはこのためです。私たちの目が暗くなったのもこのためです。」(哀5:16,17)
もし、心が病んでいるなら、また、世界が暗くなっているなら、まず自分の口からつぶやきを除き、黙ってちりに口をつけ、自分の成り立ち、人の成り立ちをじっくり味わう所から始めるのである。
「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:17) ダビデは自分の罪を認め、神に憐れみを求めたからサウルのように滅ぼされなかった。
「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。」(哀3:22)
戦争によって滅んでしまった民族は幾多にものぼるが、イスラエルが何度も滅亡の危機から守られたのは、彼らは主に選ばれた民であり、その民への憐れみは尽きないからだ。それは、私達も同様である。
捕囚から70年が満ちた時、主が憐みを示して下さったように、私達にも、憐れみが示される時が必ず来る。

「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ・・・私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」(ホセア6:1-3)

滅ぼされる世界の中から(ヨシュア6章22-25節)
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ヨシュア記を読み進める上で、外す事のできない人物が、遊女ラハブである。
彼女は旧約聖書で登場するのはヨシュア記だけだが、新約では1章から登場し、彼女から王族の子孫が生まれ、さらにはイエスキリストが生まれる。
実に重要な人物であるが、そしてまた、現代の私達にも似通った面がある。

彼女は、弱肉強食のカナン地方の中で、エリコという堅固な都市に住んでいるという点では、周囲より若干先んじていたかもしれないが、決して裕福な家に生まれた訳ではなかった。
先祖代々、補強して来た城壁の中に立て込まれた家に住み、来る日も来る日も、欲望に駆られた好きでもない男達に身売りし、いくばくかの報酬を得ては、家族に持ち帰る、という日々を送っていた。
「将来、遊女になりたい」などと希望する子供などいないし、家族が遊女になって欲しいと思う者もいない。
それでもなぜ彼女は身売りをしなければならなかったか。それは、生きて行かなくてはならなかったからだ。
彼女の仕えて来たカナンの神々は、過酷な要求をするだけで、そんな彼女の生活や生き様を改善してくれるような良さも、力も、全く無かった。
現代の日本も、多くの人達が、色々な形で身売りをしている。
一日に十何時間も、好きでもない欲望にまみれた者達の中で働き、いくばくかの報酬を得、家族に持ち帰る。いや、搾取され尽くして、家を持つどころか、結婚もできないワーキングプアが年々増えている。
日本には、数多くの神々がいるが、その何一つ、生活や生き様を改善してくれるような良さも、力も無い。

ラハブは変わりたくても変わらぬ日々を送る中、力ある唯一の神と、その民の噂を聞き、思いを馳せていた。
その民は力ある神に守られ、神から与えられた律法を有し、その律法は道徳的に優れ、弱者に優しく、そしてその民は最近、川向こうの二人の王を滅ぼし、祝福と力に満たされているというのだ。
自分も、できれば家族も、もうすぐ滅ぼされるこの世界や、過酷な要求ばかりする神々から救い出されたい。
そんなある日、彼女の元に、二人の男が来た。
彼らは今まで出会ったどんな男とも違って分別と秩序があり、彼らこそ、あの民の斥候であると直感した。
主は御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのだ。(1歴16:9)

世界の滅びが近づいている、と、ぼんやり認知し、その滅びから救われたい、と思う者は多い。
しかし救われるには、救って下さる主はイエスであるという信仰告白と、決断と、そして、行動が必要である。
ラハブは、神とこの民が必ずエリコを滅ぼすと判断し、身の危険を冒しても斥候の二人をかくまい、「あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられる」と信仰告白をし、そして、彼女の肉親や連なるすべての者たちの命を、死から救ってください、と、懇願した。(ヨシュア2:9-13)
そして彼女に、救いの条件、すなわち赤いしるしの内にいなさい、という条件が示された。
「家の戸口から外へ出る者があれば、その血はその者自身のこうべに帰する。」(2:19)とある通り、救われる方法を聞いても、その日その時、赤い印の内にいなければ、それで滅んでも、その者自身の責任である。

世の終りの時、7人の御使いが7つのラッパを吹き鳴らす度に災いが降り、第7の御使いがラッパを吹き鳴らす時、人類が積み上げてきた全ての営みは、私達の主・キリストのものとなるのだ。(黙示11:15)
最後のラッパが鳴り渡る時、この世のものは火によって終わり、新しい天地が現れ、築いてきた城壁に頼ってきた者達はその城壁に押しつぶされ、木や草、藁で立てられた家は焼かれ、金銀の器だけが後に残る。
エリコのラハブに似たような日々から、そして、定められている世の滅びから、救われたいだろうか?
救われる方法はただひとつ、力ある神の子イエスキリストこそ主であると信仰によって告白し、決断し、実際にそのように行動することである。
主イエス様が流された血潮の赤いしるしの下に留まって滅びを免れ、新しい天地へといのちを移し、そうしてキリストのいのちを生み出し、栄光の家系へと加えられる皆さんでありますように!

命じられた通りに(ヨシュア6章)
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主の軍の将から伝授された攻略方法は、この位置に弓隊を、そこに伏兵を配置しなさい、などではない。
戦士達は皆、町の周りを1度回り、六日同じ事をせよ、そして7人の祭司が7つの雄羊の角笛を持って契約の箱の前を行き、7日目には7度町を回り、角笛を吹き鳴らしなさい、という事だった。(ヨシュア6:2-5)
この情景を想像するなら、非情に奇妙な光景である。
イスラエルの軍勢がわざわざエリコに来たのは、黙って行進をする為ではなかったはずだし、エリコの兵士達も、戦いを想定したために城門を堅く閉ざしているはずである。
それなのに、イスラエルが最初に町を囲んでした事といえば、単に城の周りを黙々と行進し、特別な服を着た祭司達が契約の箱を持って角笛を吹き鳴らしているだけである。

神様の祝福の約束は、はたして本当に成るのか、と、不安になるかもしれない。
しかし、御言葉として言われた事は、頭では理解できなくとも、その通りに為すべきである。
モーセがいなくなった時民は40日待つべきだったし、サウルもサムエルが戻ってくるまで待つべきだった。
主が命じられた事が、たとえ理解できなくても、黙ってその通り行った結果、らい病人は癒され、見えない者の目は開かれ、カナの婚礼の僕たちが汲んだ水は、ぶどう酒へと変えられたのだ。

ヨシュアは民に、定められた時までは言葉を発してはならない、と命じた。(ヨシュア6:10)
民に黙っているように命じたのは、唇で罪を犯させないためであり、誰かが「こんな事何の意味があるのか」と、いらぬ呟きを始めると、それが伝染してゆき、荒野で滅んだ民と同じ道を辿ってしまうからだ。
もし、神様の命じられる事を、人の常識に照らすなら、あれこれとつぶやきたいかもしない。
しかし私達は、「口の結ぶ実によって腹を満たし、その唇による収穫に満たされる」(箴言18:20)とある通り、そういう思いがあったとしても、唇という境界線を越えず、淡々と命じられた通り行う事は、大事である。

雄羊の角笛とは、神の小羊キリストの栄光を賛美する道具であり、また、警告を与える道具である。
もし私達が、神のみわざを行いたいのであれば、また、神の祝福に入りたいのであれば、まず、私達の唇は閉じ、自分の思いは脇に置き、神様が命じられた賛美と警告だけを、発し続けるのみである。
それも、1日だけでなく2日、3日も同じように、そして、定められた時までそれを実行するのである。
人々の目から見れば、こんな事でいいのだろうか、もう何も起きず5日経った、6日も経ったじゃないか、と、言いたくなるかもしれないし、敵も、なんだ、あいつらはただラッパを吹いて行進するだけで、何もしないじゃないか、と、侮るかもしれない。

勝利を目前としている時、神様から命じられたけれどもその意味が分からず、先行きの見えない現実と、している事の意味を見出せない淡々さが、嫌になるかもしれないが、神様が命じられた事は、「6日間それをせよ、そして7日目には7度それをし、祭司達は角笛を吹き鳴らせ」であって、それ以上でも以下でもない。
は命じられた通り、7日目だけは7度回った。すなわち、最後の日には、賛美と警告を、7度、行った。
この時、エリコの住人が代々建て、頼りとして来た城壁は、あっさり崩れ、町はあっさり陥落した。
皆さんの目の前に、城壁は立っているだろうか?信仰を持って従い通すなら、その城壁は崩れ落ちるのだ。

世の終りの時にも、ヨシュア記6章に似た事が起こる。
7人の御使いが7つのラッパを吹き鳴らす度に災いが降り、第7の御使いがラッパを吹き鳴らす時、人々が代々築き上げてきた全ての営みも、世の国々全ても、私達の主・キリストのものとなるのだ。(黙示11:15)
この終わりの時代、警告のラッパが吹き鳴らされる頻度が、特に頻繁になって来ている。
私達の口には、主に対するつぶやきは登らせず、信仰をもって御言葉の通り淡々と為し、世に対しては賛美と警告を発し続け、大いなる勝利と分捕りをする、そのような皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

「主の抜き身の剣(ヨシュア5:13-15)」
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ヨシュア達には、これから勝利と大きな祝福が約束されているけれども、今、彼らの目の前にそびえ立っているのは、どう攻略して良いか見当もつかない城壁と、硬く閉ざされた城門である。
ヨシュアはそれに向かい、どのようにすれば良いか、まだ何の考えもなかった時、ふと目を上げて見ると、前方に、抜き身の剣を手にした一人の男が、こちらに向かって立っていた。
ヨシュアは問いかけた。「あなたは味方か、それとも敵か?」。すると彼は答えた。「いや。わたしは主の軍の将軍である。今、着いたところだ。」
ヨシュアは地にひれ伏して拝し、彼に、「わが主は、この僕に何をお言いつけになるのですか」と言うと、主の軍の将軍は応えた。「あなたの足から履物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」

巨大な壁と相対する時、その壁をどうにかする事に頭がいっぱいとなり、何者も「自分の味方か、それとも敵か」に選別し、等級づけし、主の軍の将さえ自分の損得の秤にかけてしまう事もある。
しかし、主は人の自分主体の質問には「いや」と応える。そして、ご自分の聖なる立場をお示しになる。
それが示された時、ヨシュアは、実に正しい態度を取った。
まず地にひれ伏して拝し、「わが主は」「この僕に」と言って主従関係を明確にし、「何をお言いつけになるのですか」と言って、自分はただ主の前に聞く立場、命じられる立場である事を告白した。

すると主の軍の将は、「あなたの足から履物を脱げ。」と命じる。
私達は世の様々なほこりや汚れを踏んで来たため、私達の履物には、そうした穢れがついている。
自分にとって敵か味方かという概念を捨て、主をただ聖なるお方として拝し、そして、世のしがらみや汚れという履物を脱ぎ捨て、世から受けた穢れを主の御前に持ち込まないなら、主は私達を聖なる所へと誘い、置かれている祝福を勝ち取る方法を、そして、立ちはだかっている城壁を攻略する方法を、教えてくださるのである。「私は、神の聖所にはいり、ついに、彼らの最後を悟った。」(詩篇73:17)

みことばの剣は、世と神の国の間を切り分け、死と命の間を切り分け、肉と霊、たましいと霊を切り分ける。
主の軍の将から授けられた軍事作戦は、およそ世の将校が考え出すものとはかけ離れ、軍事作戦と言うにはあまりにナンセンスな内容だった。(ヨシュア6:1-5)
しかし、だからこそ人間的な力(肉)に頼るか、それとも御言葉に頼るかが試されているのである。
そしてヨシュア達は、御言葉の通り忠実に実行し、大勝利を収めた。
主の剣は、バプテスマを経て主の死に継ぎ合わされた人達にとっては、勝利の剣であり、御言葉に従う事はすなわち勝利の法則に従う事である。

しかし、主を軽んじ、自分の肉欲や目に見える所を頼みとする者には、災いの剣となる。
かつて、ベオルの子バラムは、イスラエルを呪うよう雇われた時、主の御心は「行ってはならない」だったのに、それでも不義の報酬を愛し、行こうとしたところ、御使いが抜き身の剣を持って彼を殺そうと待ち構えた。
しかし、ろばが人間の声でものを言い、彼の気違いざたをはばんだ。(2ペテロ2:15-16、民数記22章)
また、ダビデが王国の人口や兵力を知りたいと思った時、ヨアブが「なぜイスラエルに対し罪過ある者となられるのですか」と言う制止にもかかわらず、強引に数えた所、災いが下され、7万人が疫病に倒れた。
この時も、主の使いが抜き身の剣を持って立ち、エルサレムに剣を差し伸べていた。(1歴代21:16)
このように、主の御声があるにもかかわらず、不義の報酬を愛したり、神様からの祝福を、あたかも我が物のように数えたりすると、主の剣は、災いとなって差し伸べられてしまうのである。
バラムはイスラエルの人々の前につまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた(黙示2:14)結果、剣で倒され(ヨシュア13:22)、ダビデはすぐに悔い改めた結果、御使いが剣を持って立った場所は神殿となった。
今立っている地をわきまえ、自己中心的な判断を捨て、主を聖なるお方とする皆さんでありますように!

「約束の地を取得する段階(ヨシュア4,5章)」

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ヨシュア達が約束の地に入って行く過程は、信仰によって自己を降ろす段階的な過程である。

記念の石を建てる(ヨシュア記4章)

第1の月の10日、民は祭司の担ぐ契約の箱を先頭にヨルダン川へ足を踏み入れ、信仰の第一関門を通った。
川を通るのはバプテスマによる死を意味し、そこを通った者は古い自分に死んだ者とされた。
民が皆ヨルダン川を渡りきった時、主は、部族ごとに一人づつ選び出し、祭司がいる川の真ん中に戻って、記念碑を建てるため石を一つずつ取って来なさいと命じた。
記念碑は、民が全部渡り切ってからでなければ立てる意味が無い。サウル王のように勝手に先走って立ててはならない。(1サム15:12)
いつ川が激流に戻るか分からない中、祭司達と12部族の代表達は、いのちを主に預け、信仰によって川の中に戻り、石を持ってきて、こうして神様と民とのコラボレーションである記念碑が完成した。
この記念の石は、自分達は主の御手によってこの川の底を渡り、この地に入ってきた事を、子孫にいつまでも覚えさせるためである。
部族長達が記念の石を建てたように、現代の私達も、主の御技の記念を建て、周囲の人々や、子供達に、主の御技を伝えるべきである。イエス様が私をどのように救って下さったか、という証は、永遠に残る記念の石であり、敵に対しては脅威のしるしでもある。

割礼を施す(ヨシュア5:1-9)


いよいよ川を渡った後、主から真っ先に示された事は、この民に割礼を施すように、という事である。
それは、荒野にいる間生まれた民は誰も割礼を受けていなかったからであるが、私達が受けるべき割礼は、肉体の一部を切り取るのではなく、自分の高ぶりや強情さを、御言葉という鋭い両刃の剣(ヘブル4:12)によって、取り除く事である。「文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。(ロマ2:29)」
こうして心に割礼を受けた者は、人間的な誉れは一切無くなり、ただ神の誉れに与るのみとなる。
「主はヨシュアに言われた。「今日、わたしはあなたたちから、エジプトでの恥辱を取り除いた(ガラ)。」そのために、その場所の名はギルガルと呼ばれ、今日に至っている。」(ヨシュア5:9)
荒野で滅びる原因となった、心頑なさや不信仰という「エジプトの恥辱」を私達も取り除かなくてはならない。

過越祭を祝う(ヨシュア5:10-12)


ヨルダン川を渡ってから4日後の14日、彼らは過越祭を祝った。
過越祭で屠られる犠牲の小羊は、屠られて十字架上で血を流すイエスキリストを表し、その子羊の血の印の内側で、種を入れないパンと焼いた子羊を食す祭りであり、血の徴のある者達は、身分の上下や国籍を問わず、災いは及ばなかったが、子羊の血を塗っていない家は長男が死に絶えた。
救いと滅びの重要な分かれ道は、小羊の血であり、今私達にとって小羊の血とは、イエスの血である。
イエスを主とし、イエスの血が塗られた私達は、イエスと共に十字架で死んだ者とされ、自分に対しては徹底的に死に、キリストに対しては生きた者、滅びから救いへと入れられた者となったのである。

マナが止む
 

過越のいけにえをささげた翌日彼らはその地の産物、「種を入れないパン」と炒り麦を食べ、その翌日からマナが降るのが止まった。食料が毎日天から降ってきたのが、ある日突然止んだのだから、信仰と自分の手で働く事が必要だが、今までのように、受け身で食物を受けるのではなく、主に信頼しつつ、自らの手でも働いて、収穫して食べるという一日一日が主とのコラボレーションの生活に完全に入ったわけである。
主に信頼し従うなら、地は天からの雨で潤い、様々な良き実を実らせ、それらを楽しむ事が出来る。
信仰によって主のために働き、あらゆる良き実を楽しむ皆さんでありますように!

礼拝説教メッセージ音声:祭司の担ぐ契約の箱を目指して(ヨシュア3章)
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ヨシュア達が約束の地に入って行く過程から私達が学ぶ事は、信仰によって自己を降ろす事である。
「あなたたちは、あなたたちの神、主の契約の箱をレビ人の祭司たちが担ぐのを見たなら、今いる所をたって、その後に続け。契約の箱との間には約二千アンマの距離をとり、それ以上近寄ってはならない。そうすれば、これまで一度も通ったことのない道であるが、あなたたちの行くべき道は分かる。」(ヨシュア3:4)

今まで一度も通った事の無い道を進む際、慣れ親しんだ経験に頼れず、一歩一歩が信仰の歩みとなる。
それまで昼は雲の柱、夜は火の柱が民を導いてたが、もはやそれらの導きではなく、ただ祭司たちが担ぐ契約の箱が、先だって進んで行くのを目印にして、歩んでいく事になる。
この契約の箱とは、神様の契約のしるしであり、中に入っているのは、御言葉である。
現代、私達が導かれていくべき目印となるのは、火や雲といったしるしではなく、御言葉であり、イエス様を通して与えられた新しい契約は今、私達の心の板に書き記されている。(エレミヤ31:33)
信仰の歩みとは、信仰の創始者また完成者なるイエスから目を離さないで、このお方が先立って進む道を、私達もついて行く事である。
主が「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束した通り、あなたがたに与えている。」(ヨシュア1:3) と約束しておられるのだから、恐れず、どこにでも足を踏み入れて行けば良いのだ。

そこでまず手始めに足を踏み入れるべき所は、ヨルダン川である。
その時期は過越祭直前の3〜4月、大麦が熟する時期の「ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれ」(15節)、ヘルモン山からの雪解け水で、一年の中で水かさが最も増す時期だ。
そんな冷たい水が溢れている川に入って行くのは危険極まりない、というのが人の考えだ。
しかし、主は「入れ」と言う。ここに信仰が試される。
別に敵が追ってくる訳でもないし、ヨルダン川のこちら側にも、そこそこの良い土地があるのに、なぜ、危険を冒してまで、私たちは向こう岸へ行かなくてはならないのだろうか?
神様に召しだされた民には、神様が「行け」と言われた時、二つの道以外には無い。
すなわち、祝福か、呪いか。行って祝福を勝ち取るか、それとも留まって荒野をさ迷った末に屍を晒すか。
信じ切れず恐れ退いて右往左往し、信仰の一歩を踏み出せないでいるキリスト者ほど惨めな存在は無い。
手を伸ばせばおいしいごちそうをいくらでも食べられるのに、億劫がって空腹のまま眺めているような者だ。

祭司が進んだのは、目の前の川の流れがせき止められたからではなく、川がまだたっぷりと水を湛えて流れている時だ。しかし、祭司達が足を進めて行き、足が水に浸ると、川は堰き止められたのだ。
私達は様々な見込みを計算するが、御言葉の裏付けがあるなら、信じて進むのみである。
そうすれば、主が川を堰き止め、障害の山は、主が海に移して下さるのである。
信仰とは、川に何万個の土嚢を投げ込む事でも、山と海との間をスコップ持って何万往復するのでもない。
からし種ほどの信仰があれば、それを握って進むだけ。あとは主が為して下さるのだ。

私もこの教会で牧会をする直前、水を湛えたヨルダン川を、一歩一歩進んでいるような感覚だった。
すぐ足元は流れの強い水を湛えた川で、それでも勇気を絞って一歩踏み出し、足を降ろした。
足を降ろした場所は乾いて安全で、流れに足を取られたり溺れる事は無かった。その繰り返し。
底の見えない深淵の向こうに足を踏み出すかのような恐怖を覚えた事もあったが、それでも守られる事を信じて一歩踏み出す都度、そこは安全で、進めば進むほど祝福が増し加わった。
結局私は、御言葉が途切れる事無く奉仕は守られ、野たれ死ぬ事無く必要も満たされ、今に至っている。
ヨルダン渡河は、イスラエルの民が何十年前のあの時出来なかった、信仰のリベンジをするチャンスだ。
皆さんが主からの召しにより、信仰によって進む道は、これまで一度も通ったことのない道かもしれない。
しかし、進むうちに、行くべき道は主が示してくださる。
今、信仰を持って一歩を踏み出し、ヨルダンを渡る皆さんでありますように!

礼拝説教メッセージ音声:強くあれ雄々しくあれ(ヨシュア1:1-9)
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ヨシュアと言えば「強く雄々しく」だが、主が3度も仰せられているので彼には恐れがあったのかもしれない。
彼はモーセの従者として40年、彼の傍で生きてきたため、彼の偉大さも、民の頑なさも十分承知している。
そのモーセが死に、これからは自分が直接神様から示しを頂きつつ、そしてこの60万以上の民を直接導いていかなくてはならないのだから、どれほどのプレッシャーだっただろう。
そんな彼が、雄々しくなれる裏づけの言葉が、「あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(ヨシュア1:5)である。

私達にも、強く雄々しくなれる裏づけの言葉がある。
「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:18-20)
私達の主、イエス様に与えられている一切の権威とは文字通り、一切の権威であり、その強さは、会社の上司や家主、総理大臣どころではなく、全宇宙の諸元素一粒一粒に至るまで支配しておられる権威だ。
その主イエス様が私達に命じられている事は、あらゆる国の人々の所に行って弟子とする事、そして、イエス様の御言葉を守り行うよう彼らに教える事で、ヨシュアに言われている事と同じである。
主に命じられた通り、人々を弟子としバプテスマを授け、御言葉を守るよう教えるなら、万軍の主が私達の味方となられ、終りの時代の最終章に至るまで、いつもともにおられるのだ。どうして恐れる事があるだろう。

「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。」(ヨシュア1:3) ここで神の民が為すべきは、そう信じてその土地に実際に足を踏み入れて行き「ここは私達のもの!」と、所有権を主張すれば良いだけ。神様はそこまで、全てをお膳立てしておられたのだ。
それなのに人々は40年前「あそこには強い人たちがいるから」「私達は弱いから」と言って実行しなかった。
私達はそうあってはならない。
キリストは十字架上で、病や呪い、貧しさをその身に負い、処罰し、死を滅ぼして勝利して下さった。
私達に不利な債務証書は十字架に釘づけられ、無効にされ、キリストにあって全ての支配と権威の武装は解除し晒し物とされた(コロサイ2)。私達はどんな事の中にあっても圧倒的な勝利者だ。(ローマ8:37)
万軍の主が全てにおいて勝利し、お膳立てして下さったのに、私達はどうしてそれを疎かにできるだろう。
ただ主が勝利して下さった勝利を信じて出て行き「ここは私達のもの!」と宣言して戦利品を分捕るのみだ。

モーセからヨシュアへの引継ぎ内容は、実は少なく、主から与えられた律法を守り行う事、これに尽きる。
私達も勝利を得るためにする事も多くはないし忙しくなる必要も無い。むしろ必要な事は、ただ一つである。
マルタは、イエス様が御言葉を話しておられるのに、しもべ達に指示して忙しくさせ、そのうちイエス様にさえ指示を出し、イエス様の足元でじっと座って御言葉に聞き入っていたマリヤさえ糾弾した。
そんなマルタに主が言われたのは、「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(ルカ10:42)である。
私達が居るべきはイエス様の足元であり、取るべき行動は、御言葉に耳を傾ける事、ただそれだけである。

「この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。」(ヨシュア1:8)
ヨシュア達の世代が目にしたのは、神様の法則を離れて好き勝手にするなら、必ず滅びる、という厳然たる事実だった。私達が繁栄し栄える根拠は何か?それは、御言葉を口ずさみ、守り行う事。これに尽きる。神様が示してくださった法則、イエス様の勝利の行列から離れず、多くを分捕る皆さんでありますように!

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