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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

口を塵につけよ(哀歌3章22−39節)
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哀歌は、エルサレムがバビロンによって滅ぼされたのを目撃したエレミヤが歌った、聖書の中で最も悲しみに溢れている歌で、陥落後のエルサレムの、とても悲惨な状況が記されている。
人は、悲しみに共感する。乳飲み子が衰え果て、母の懐で息絶えようとしている様には、心を動かされる。
しかし、どうしたらそういう結果となってしまったのか、という所を、おろそかにしてはならない。
「エルサレムは罪に罪を重ね笑いものになった。・・・衣の裾には汚れが付いている。彼女は行く末を心に留めなかったのだ。」(哀歌1:8,9)
エルサレムはこうなる事を、十分避けられた。それも、どうしたらこうなるのかは、既に何世紀も前からモーセによって示されていた(申命記4:25-31)し、主は、早くからしきりに使者を遣わし、民が立ち返るよう呼びかけてきたが、民は彼らを笑いものにし、侮った(2歴代36:15,16)ため、そのようになってしまったのだ。

私達は災いに遭った時、自分に起こった災いばかりに目を留め、こんな災いに遭うのは不当だと主張し、自分は選ばれ民だと高慢に振る舞いつつ、それでも罪は依然として持ち続けながら生きてしまいがちだ。
私達が懲らしめを受けるならば、それは幸いな事だ。 なぜなら、神は私達を子として扱っておられ、それによって訓練された私達は、主の聖さにあずかり、平安な義の実を結ぶからである。(ヘブ12:5-11)
もし私達が罪を犯しても何の罰も受けずに来るなら、高慢になり、兄弟姉妹を傷つけ、自分が迷惑をかけている事も分からないまま罪に罪を重ねる、という事になってしまう。
だから、懲らしめのくびきを負わされるのは良い事で、それによって、へりくだる事、そして従順を学ぶのだ。

「軛を負わされたなら黙して、独り座っているがよい。塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。
打つ者に頬を向けよ十分に懲らしめを味わえ。主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。」
(哀歌3:28-30)
主から懲らしめを受けた時、怒りたいかもしれない。不当だ、と叫びたいかもしれない。
しかし、そのような時は、不平不満を言うより、むしろ口を塵につけて、黙って懲らしめを受けるほうが良い。
「生きている人間は、なぜつぶやくのか。自分自身の罪のためにか。」(哀3:39) 
もしつぶやきが出るなら高慢になっており、自分の罪をまだ認めていない証拠である。
人は元々、ちりである。高慢になっているのであれば、口をちりにつけ、ちりを味わい、ちりの成り立ち、すなわち人間の成り立ちを、そして、ちりである自分自身の成り立ちを、じっくり味わい、思い起こす時である。
御言葉の前に、身も心も低くしているなら、主はいつまでも捨て置かれはしない。

哀歌5章は民の祈りとなっており、1-14節は自分の身に降りかかった災いを申し述べているが、15-17節で、それは自分達の側に非があったから、と認めている。
「ああ、私たちにわざわいあれ。私たちが罪を犯したからです。私たちの心が病んでいるのはこのためです。私たちの目が暗くなったのもこのためです。」(哀5:16,17)
もし、心が病んでいるなら、また、世界が暗くなっているなら、まず自分の口からつぶやきを除き、黙ってちりに口をつけ、自分の成り立ち、人の成り立ちをじっくり味わう所から始めるのである。
「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:17) ダビデは自分の罪を認め、神に憐れみを求めたからサウルのように滅ぼされなかった。
「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。」(哀3:22)
戦争によって滅んでしまった民族は幾多にものぼるが、イスラエルが何度も滅亡の危機から守られたのは、彼らは主に選ばれた民であり、その民への憐れみは尽きないからだ。それは、私達も同様である。
捕囚から70年が満ちた時、主が憐みを示して下さったように、私達にも、憐れみが示される時が必ず来る。

「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ・・・私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」(ホセア6:1-3)

滅ぼされる世界の中から(ヨシュア6章22-25節)
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ヨシュア記を読み進める上で、外す事のできない人物が、遊女ラハブである。
彼女は旧約聖書で登場するのはヨシュア記だけだが、新約では1章から登場し、彼女から王族の子孫が生まれ、さらにはイエスキリストが生まれる。
実に重要な人物であるが、そしてまた、現代の私達にも似通った面がある。

彼女は、弱肉強食のカナン地方の中で、エリコという堅固な都市に住んでいるという点では、周囲より若干先んじていたかもしれないが、決して裕福な家に生まれた訳ではなかった。
先祖代々、補強して来た城壁の中に立て込まれた家に住み、来る日も来る日も、欲望に駆られた好きでもない男達に身売りし、いくばくかの報酬を得ては、家族に持ち帰る、という日々を送っていた。
「将来、遊女になりたい」などと希望する子供などいないし、家族が遊女になって欲しいと思う者もいない。
それでもなぜ彼女は身売りをしなければならなかったか。それは、生きて行かなくてはならなかったからだ。
彼女の仕えて来たカナンの神々は、過酷な要求をするだけで、そんな彼女の生活や生き様を改善してくれるような良さも、力も、全く無かった。
現代の日本も、多くの人達が、色々な形で身売りをしている。
一日に十何時間も、好きでもない欲望にまみれた者達の中で働き、いくばくかの報酬を得、家族に持ち帰る。いや、搾取され尽くして、家を持つどころか、結婚もできないワーキングプアが年々増えている。
日本には、数多くの神々がいるが、その何一つ、生活や生き様を改善してくれるような良さも、力も無い。

ラハブは変わりたくても変わらぬ日々を送る中、力ある唯一の神と、その民の噂を聞き、思いを馳せていた。
その民は力ある神に守られ、神から与えられた律法を有し、その律法は道徳的に優れ、弱者に優しく、そしてその民は最近、川向こうの二人の王を滅ぼし、祝福と力に満たされているというのだ。
自分も、できれば家族も、もうすぐ滅ぼされるこの世界や、過酷な要求ばかりする神々から救い出されたい。
そんなある日、彼女の元に、二人の男が来た。
彼らは今まで出会ったどんな男とも違って分別と秩序があり、彼らこそ、あの民の斥候であると直感した。
主は御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのだ。(1歴16:9)

世界の滅びが近づいている、と、ぼんやり認知し、その滅びから救われたい、と思う者は多い。
しかし救われるには、救って下さる主はイエスであるという信仰告白と、決断と、そして、行動が必要である。
ラハブは、神とこの民が必ずエリコを滅ぼすと判断し、身の危険を冒しても斥候の二人をかくまい、「あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられる」と信仰告白をし、そして、彼女の肉親や連なるすべての者たちの命を、死から救ってください、と、懇願した。(ヨシュア2:9-13)
そして彼女に、救いの条件、すなわち赤いしるしの内にいなさい、という条件が示された。
「家の戸口から外へ出る者があれば、その血はその者自身のこうべに帰する。」(2:19)とある通り、救われる方法を聞いても、その日その時、赤い印の内にいなければ、それで滅んでも、その者自身の責任である。

世の終りの時、7人の御使いが7つのラッパを吹き鳴らす度に災いが降り、第7の御使いがラッパを吹き鳴らす時、人類が積み上げてきた全ての営みは、私達の主・キリストのものとなるのだ。(黙示11:15)
最後のラッパが鳴り渡る時、この世のものは火によって終わり、新しい天地が現れ、築いてきた城壁に頼ってきた者達はその城壁に押しつぶされ、木や草、藁で立てられた家は焼かれ、金銀の器だけが後に残る。
エリコのラハブに似たような日々から、そして、定められている世の滅びから、救われたいだろうか?
救われる方法はただひとつ、力ある神の子イエスキリストこそ主であると信仰によって告白し、決断し、実際にそのように行動することである。
主イエス様が流された血潮の赤いしるしの下に留まって滅びを免れ、新しい天地へといのちを移し、そうしてキリストのいのちを生み出し、栄光の家系へと加えられる皆さんでありますように!

命じられた通りに(ヨシュア6章)
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主の軍の将から伝授された攻略方法は、この位置に弓隊を、そこに伏兵を配置しなさい、などではない。
戦士達は皆、町の周りを1度回り、六日同じ事をせよ、そして7人の祭司が7つの雄羊の角笛を持って契約の箱の前を行き、7日目には7度町を回り、角笛を吹き鳴らしなさい、という事だった。(ヨシュア6:2-5)
この情景を想像するなら、非情に奇妙な光景である。
イスラエルの軍勢がわざわざエリコに来たのは、黙って行進をする為ではなかったはずだし、エリコの兵士達も、戦いを想定したために城門を堅く閉ざしているはずである。
それなのに、イスラエルが最初に町を囲んでした事といえば、単に城の周りを黙々と行進し、特別な服を着た祭司達が契約の箱を持って角笛を吹き鳴らしているだけである。

神様の祝福の約束は、はたして本当に成るのか、と、不安になるかもしれない。
しかし、御言葉として言われた事は、頭では理解できなくとも、その通りに為すべきである。
モーセがいなくなった時民は40日待つべきだったし、サウルもサムエルが戻ってくるまで待つべきだった。
主が命じられた事が、たとえ理解できなくても、黙ってその通り行った結果、らい病人は癒され、見えない者の目は開かれ、カナの婚礼の僕たちが汲んだ水は、ぶどう酒へと変えられたのだ。

ヨシュアは民に、定められた時までは言葉を発してはならない、と命じた。(ヨシュア6:10)
民に黙っているように命じたのは、唇で罪を犯させないためであり、誰かが「こんな事何の意味があるのか」と、いらぬ呟きを始めると、それが伝染してゆき、荒野で滅んだ民と同じ道を辿ってしまうからだ。
もし、神様の命じられる事を、人の常識に照らすなら、あれこれとつぶやきたいかもしない。
しかし私達は、「口の結ぶ実によって腹を満たし、その唇による収穫に満たされる」(箴言18:20)とある通り、そういう思いがあったとしても、唇という境界線を越えず、淡々と命じられた通り行う事は、大事である。

雄羊の角笛とは、神の小羊キリストの栄光を賛美する道具であり、また、警告を与える道具である。
もし私達が、神のみわざを行いたいのであれば、また、神の祝福に入りたいのであれば、まず、私達の唇は閉じ、自分の思いは脇に置き、神様が命じられた賛美と警告だけを、発し続けるのみである。
それも、1日だけでなく2日、3日も同じように、そして、定められた時までそれを実行するのである。
人々の目から見れば、こんな事でいいのだろうか、もう何も起きず5日経った、6日も経ったじゃないか、と、言いたくなるかもしれないし、敵も、なんだ、あいつらはただラッパを吹いて行進するだけで、何もしないじゃないか、と、侮るかもしれない。

勝利を目前としている時、神様から命じられたけれどもその意味が分からず、先行きの見えない現実と、している事の意味を見出せない淡々さが、嫌になるかもしれないが、神様が命じられた事は、「6日間それをせよ、そして7日目には7度それをし、祭司達は角笛を吹き鳴らせ」であって、それ以上でも以下でもない。
は命じられた通り、7日目だけは7度回った。すなわち、最後の日には、賛美と警告を、7度、行った。
この時、エリコの住人が代々建て、頼りとして来た城壁は、あっさり崩れ、町はあっさり陥落した。
皆さんの目の前に、城壁は立っているだろうか?信仰を持って従い通すなら、その城壁は崩れ落ちるのだ。

世の終りの時にも、ヨシュア記6章に似た事が起こる。
7人の御使いが7つのラッパを吹き鳴らす度に災いが降り、第7の御使いがラッパを吹き鳴らす時、人々が代々築き上げてきた全ての営みも、世の国々全ても、私達の主・キリストのものとなるのだ。(黙示11:15)
この終わりの時代、警告のラッパが吹き鳴らされる頻度が、特に頻繁になって来ている。
私達の口には、主に対するつぶやきは登らせず、信仰をもって御言葉の通り淡々と為し、世に対しては賛美と警告を発し続け、大いなる勝利と分捕りをする、そのような皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

「主の抜き身の剣(ヨシュア5:13-15)」
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ヨシュア達には、これから勝利と大きな祝福が約束されているけれども、今、彼らの目の前にそびえ立っているのは、どう攻略して良いか見当もつかない城壁と、硬く閉ざされた城門である。
ヨシュアはそれに向かい、どのようにすれば良いか、まだ何の考えもなかった時、ふと目を上げて見ると、前方に、抜き身の剣を手にした一人の男が、こちらに向かって立っていた。
ヨシュアは問いかけた。「あなたは味方か、それとも敵か?」。すると彼は答えた。「いや。わたしは主の軍の将軍である。今、着いたところだ。」
ヨシュアは地にひれ伏して拝し、彼に、「わが主は、この僕に何をお言いつけになるのですか」と言うと、主の軍の将軍は応えた。「あなたの足から履物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」

巨大な壁と相対する時、その壁をどうにかする事に頭がいっぱいとなり、何者も「自分の味方か、それとも敵か」に選別し、等級づけし、主の軍の将さえ自分の損得の秤にかけてしまう事もある。
しかし、主は人の自分主体の質問には「いや」と応える。そして、ご自分の聖なる立場をお示しになる。
それが示された時、ヨシュアは、実に正しい態度を取った。
まず地にひれ伏して拝し、「わが主は」「この僕に」と言って主従関係を明確にし、「何をお言いつけになるのですか」と言って、自分はただ主の前に聞く立場、命じられる立場である事を告白した。

すると主の軍の将は、「あなたの足から履物を脱げ。」と命じる。
私達は世の様々なほこりや汚れを踏んで来たため、私達の履物には、そうした穢れがついている。
自分にとって敵か味方かという概念を捨て、主をただ聖なるお方として拝し、そして、世のしがらみや汚れという履物を脱ぎ捨て、世から受けた穢れを主の御前に持ち込まないなら、主は私達を聖なる所へと誘い、置かれている祝福を勝ち取る方法を、そして、立ちはだかっている城壁を攻略する方法を、教えてくださるのである。「私は、神の聖所にはいり、ついに、彼らの最後を悟った。」(詩篇73:17)

みことばの剣は、世と神の国の間を切り分け、死と命の間を切り分け、肉と霊、たましいと霊を切り分ける。
主の軍の将から授けられた軍事作戦は、およそ世の将校が考え出すものとはかけ離れ、軍事作戦と言うにはあまりにナンセンスな内容だった。(ヨシュア6:1-5)
しかし、だからこそ人間的な力(肉)に頼るか、それとも御言葉に頼るかが試されているのである。
そしてヨシュア達は、御言葉の通り忠実に実行し、大勝利を収めた。
主の剣は、バプテスマを経て主の死に継ぎ合わされた人達にとっては、勝利の剣であり、御言葉に従う事はすなわち勝利の法則に従う事である。

しかし、主を軽んじ、自分の肉欲や目に見える所を頼みとする者には、災いの剣となる。
かつて、ベオルの子バラムは、イスラエルを呪うよう雇われた時、主の御心は「行ってはならない」だったのに、それでも不義の報酬を愛し、行こうとしたところ、御使いが抜き身の剣を持って彼を殺そうと待ち構えた。
しかし、ろばが人間の声でものを言い、彼の気違いざたをはばんだ。(2ペテロ2:15-16、民数記22章)
また、ダビデが王国の人口や兵力を知りたいと思った時、ヨアブが「なぜイスラエルに対し罪過ある者となられるのですか」と言う制止にもかかわらず、強引に数えた所、災いが下され、7万人が疫病に倒れた。
この時も、主の使いが抜き身の剣を持って立ち、エルサレムに剣を差し伸べていた。(1歴代21:16)
このように、主の御声があるにもかかわらず、不義の報酬を愛したり、神様からの祝福を、あたかも我が物のように数えたりすると、主の剣は、災いとなって差し伸べられてしまうのである。
バラムはイスラエルの人々の前につまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた(黙示2:14)結果、剣で倒され(ヨシュア13:22)、ダビデはすぐに悔い改めた結果、御使いが剣を持って立った場所は神殿となった。
今立っている地をわきまえ、自己中心的な判断を捨て、主を聖なるお方とする皆さんでありますように!

「約束の地を取得する段階(ヨシュア4,5章)」

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ヨシュア達が約束の地に入って行く過程は、信仰によって自己を降ろす段階的な過程である。

記念の石を建てる(ヨシュア記4章)

第1の月の10日、民は祭司の担ぐ契約の箱を先頭にヨルダン川へ足を踏み入れ、信仰の第一関門を通った。
川を通るのはバプテスマによる死を意味し、そこを通った者は古い自分に死んだ者とされた。
民が皆ヨルダン川を渡りきった時、主は、部族ごとに一人づつ選び出し、祭司がいる川の真ん中に戻って、記念碑を建てるため石を一つずつ取って来なさいと命じた。
記念碑は、民が全部渡り切ってからでなければ立てる意味が無い。サウル王のように勝手に先走って立ててはならない。(1サム15:12)
いつ川が激流に戻るか分からない中、祭司達と12部族の代表達は、いのちを主に預け、信仰によって川の中に戻り、石を持ってきて、こうして神様と民とのコラボレーションである記念碑が完成した。
この記念の石は、自分達は主の御手によってこの川の底を渡り、この地に入ってきた事を、子孫にいつまでも覚えさせるためである。
部族長達が記念の石を建てたように、現代の私達も、主の御技の記念を建て、周囲の人々や、子供達に、主の御技を伝えるべきである。イエス様が私をどのように救って下さったか、という証は、永遠に残る記念の石であり、敵に対しては脅威のしるしでもある。

割礼を施す(ヨシュア5:1-9)


いよいよ川を渡った後、主から真っ先に示された事は、この民に割礼を施すように、という事である。
それは、荒野にいる間生まれた民は誰も割礼を受けていなかったからであるが、私達が受けるべき割礼は、肉体の一部を切り取るのではなく、自分の高ぶりや強情さを、御言葉という鋭い両刃の剣(ヘブル4:12)によって、取り除く事である。「文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。(ロマ2:29)」
こうして心に割礼を受けた者は、人間的な誉れは一切無くなり、ただ神の誉れに与るのみとなる。
「主はヨシュアに言われた。「今日、わたしはあなたたちから、エジプトでの恥辱を取り除いた(ガラ)。」そのために、その場所の名はギルガルと呼ばれ、今日に至っている。」(ヨシュア5:9)
荒野で滅びる原因となった、心頑なさや不信仰という「エジプトの恥辱」を私達も取り除かなくてはならない。

過越祭を祝う(ヨシュア5:10-12)


ヨルダン川を渡ってから4日後の14日、彼らは過越祭を祝った。
過越祭で屠られる犠牲の小羊は、屠られて十字架上で血を流すイエスキリストを表し、その子羊の血の印の内側で、種を入れないパンと焼いた子羊を食す祭りであり、血の徴のある者達は、身分の上下や国籍を問わず、災いは及ばなかったが、子羊の血を塗っていない家は長男が死に絶えた。
救いと滅びの重要な分かれ道は、小羊の血であり、今私達にとって小羊の血とは、イエスの血である。
イエスを主とし、イエスの血が塗られた私達は、イエスと共に十字架で死んだ者とされ、自分に対しては徹底的に死に、キリストに対しては生きた者、滅びから救いへと入れられた者となったのである。

マナが止む
 

過越のいけにえをささげた翌日彼らはその地の産物、「種を入れないパン」と炒り麦を食べ、その翌日からマナが降るのが止まった。食料が毎日天から降ってきたのが、ある日突然止んだのだから、信仰と自分の手で働く事が必要だが、今までのように、受け身で食物を受けるのではなく、主に信頼しつつ、自らの手でも働いて、収穫して食べるという一日一日が主とのコラボレーションの生活に完全に入ったわけである。
主に信頼し従うなら、地は天からの雨で潤い、様々な良き実を実らせ、それらを楽しむ事が出来る。
信仰によって主のために働き、あらゆる良き実を楽しむ皆さんでありますように!

礼拝説教メッセージ音声:祭司の担ぐ契約の箱を目指して(ヨシュア3章)
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ヨシュア達が約束の地に入って行く過程から私達が学ぶ事は、信仰によって自己を降ろす事である。
「あなたたちは、あなたたちの神、主の契約の箱をレビ人の祭司たちが担ぐのを見たなら、今いる所をたって、その後に続け。契約の箱との間には約二千アンマの距離をとり、それ以上近寄ってはならない。そうすれば、これまで一度も通ったことのない道であるが、あなたたちの行くべき道は分かる。」(ヨシュア3:4)

今まで一度も通った事の無い道を進む際、慣れ親しんだ経験に頼れず、一歩一歩が信仰の歩みとなる。
それまで昼は雲の柱、夜は火の柱が民を導いてたが、もはやそれらの導きではなく、ただ祭司たちが担ぐ契約の箱が、先だって進んで行くのを目印にして、歩んでいく事になる。
この契約の箱とは、神様の契約のしるしであり、中に入っているのは、御言葉である。
現代、私達が導かれていくべき目印となるのは、火や雲といったしるしではなく、御言葉であり、イエス様を通して与えられた新しい契約は今、私達の心の板に書き記されている。(エレミヤ31:33)
信仰の歩みとは、信仰の創始者また完成者なるイエスから目を離さないで、このお方が先立って進む道を、私達もついて行く事である。
主が「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束した通り、あなたがたに与えている。」(ヨシュア1:3) と約束しておられるのだから、恐れず、どこにでも足を踏み入れて行けば良いのだ。

そこでまず手始めに足を踏み入れるべき所は、ヨルダン川である。
その時期は過越祭直前の3〜4月、大麦が熟する時期の「ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれ」(15節)、ヘルモン山からの雪解け水で、一年の中で水かさが最も増す時期だ。
そんな冷たい水が溢れている川に入って行くのは危険極まりない、というのが人の考えだ。
しかし、主は「入れ」と言う。ここに信仰が試される。
別に敵が追ってくる訳でもないし、ヨルダン川のこちら側にも、そこそこの良い土地があるのに、なぜ、危険を冒してまで、私たちは向こう岸へ行かなくてはならないのだろうか?
神様に召しだされた民には、神様が「行け」と言われた時、二つの道以外には無い。
すなわち、祝福か、呪いか。行って祝福を勝ち取るか、それとも留まって荒野をさ迷った末に屍を晒すか。
信じ切れず恐れ退いて右往左往し、信仰の一歩を踏み出せないでいるキリスト者ほど惨めな存在は無い。
手を伸ばせばおいしいごちそうをいくらでも食べられるのに、億劫がって空腹のまま眺めているような者だ。

祭司が進んだのは、目の前の川の流れがせき止められたからではなく、川がまだたっぷりと水を湛えて流れている時だ。しかし、祭司達が足を進めて行き、足が水に浸ると、川は堰き止められたのだ。
私達は様々な見込みを計算するが、御言葉の裏付けがあるなら、信じて進むのみである。
そうすれば、主が川を堰き止め、障害の山は、主が海に移して下さるのである。
信仰とは、川に何万個の土嚢を投げ込む事でも、山と海との間をスコップ持って何万往復するのでもない。
からし種ほどの信仰があれば、それを握って進むだけ。あとは主が為して下さるのだ。

私もこの教会で牧会をする直前、水を湛えたヨルダン川を、一歩一歩進んでいるような感覚だった。
すぐ足元は流れの強い水を湛えた川で、それでも勇気を絞って一歩踏み出し、足を降ろした。
足を降ろした場所は乾いて安全で、流れに足を取られたり溺れる事は無かった。その繰り返し。
底の見えない深淵の向こうに足を踏み出すかのような恐怖を覚えた事もあったが、それでも守られる事を信じて一歩踏み出す都度、そこは安全で、進めば進むほど祝福が増し加わった。
結局私は、御言葉が途切れる事無く奉仕は守られ、野たれ死ぬ事無く必要も満たされ、今に至っている。
ヨルダン渡河は、イスラエルの民が何十年前のあの時出来なかった、信仰のリベンジをするチャンスだ。
皆さんが主からの召しにより、信仰によって進む道は、これまで一度も通ったことのない道かもしれない。
しかし、進むうちに、行くべき道は主が示してくださる。
今、信仰を持って一歩を踏み出し、ヨルダンを渡る皆さんでありますように!

礼拝説教メッセージ音声:強くあれ雄々しくあれ(ヨシュア1:1-9)
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ヨシュアと言えば「強く雄々しく」だが、主が3度も仰せられているので彼には恐れがあったのかもしれない。
彼はモーセの従者として40年、彼の傍で生きてきたため、彼の偉大さも、民の頑なさも十分承知している。
そのモーセが死に、これからは自分が直接神様から示しを頂きつつ、そしてこの60万以上の民を直接導いていかなくてはならないのだから、どれほどのプレッシャーだっただろう。
そんな彼が、雄々しくなれる裏づけの言葉が、「あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(ヨシュア1:5)である。

私達にも、強く雄々しくなれる裏づけの言葉がある。
「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:18-20)
私達の主、イエス様に与えられている一切の権威とは文字通り、一切の権威であり、その強さは、会社の上司や家主、総理大臣どころではなく、全宇宙の諸元素一粒一粒に至るまで支配しておられる権威だ。
その主イエス様が私達に命じられている事は、あらゆる国の人々の所に行って弟子とする事、そして、イエス様の御言葉を守り行うよう彼らに教える事で、ヨシュアに言われている事と同じである。
主に命じられた通り、人々を弟子としバプテスマを授け、御言葉を守るよう教えるなら、万軍の主が私達の味方となられ、終りの時代の最終章に至るまで、いつもともにおられるのだ。どうして恐れる事があるだろう。

「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。」(ヨシュア1:3) ここで神の民が為すべきは、そう信じてその土地に実際に足を踏み入れて行き「ここは私達のもの!」と、所有権を主張すれば良いだけ。神様はそこまで、全てをお膳立てしておられたのだ。
それなのに人々は40年前「あそこには強い人たちがいるから」「私達は弱いから」と言って実行しなかった。
私達はそうあってはならない。
キリストは十字架上で、病や呪い、貧しさをその身に負い、処罰し、死を滅ぼして勝利して下さった。
私達に不利な債務証書は十字架に釘づけられ、無効にされ、キリストにあって全ての支配と権威の武装は解除し晒し物とされた(コロサイ2)。私達はどんな事の中にあっても圧倒的な勝利者だ。(ローマ8:37)
万軍の主が全てにおいて勝利し、お膳立てして下さったのに、私達はどうしてそれを疎かにできるだろう。
ただ主が勝利して下さった勝利を信じて出て行き「ここは私達のもの!」と宣言して戦利品を分捕るのみだ。

モーセからヨシュアへの引継ぎ内容は、実は少なく、主から与えられた律法を守り行う事、これに尽きる。
私達も勝利を得るためにする事も多くはないし忙しくなる必要も無い。むしろ必要な事は、ただ一つである。
マルタは、イエス様が御言葉を話しておられるのに、しもべ達に指示して忙しくさせ、そのうちイエス様にさえ指示を出し、イエス様の足元でじっと座って御言葉に聞き入っていたマリヤさえ糾弾した。
そんなマルタに主が言われたのは、「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(ルカ10:42)である。
私達が居るべきはイエス様の足元であり、取るべき行動は、御言葉に耳を傾ける事、ただそれだけである。

「この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。」(ヨシュア1:8)
ヨシュア達の世代が目にしたのは、神様の法則を離れて好き勝手にするなら、必ず滅びる、という厳然たる事実だった。私達が繁栄し栄える根拠は何か?それは、御言葉を口ずさみ、守り行う事。これに尽きる。神様が示してくださった法則、イエス様の勝利の行列から離れず、多くを分捕る皆さんでありますように!

礼拝説教メッセージ音声:向きを変えて出発せよ(申命記1:6-8)
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先週の昼の会合で、当教会は、これから礼拝を日本語のみにして行こう、という方向性となった。

主にあって進んで行く先は、分からなくとも、祝福がある
信仰生活をして行くならば、慣れ親しんだ所にいつまでも留まるという事はなく、主が道を示してくださるなら、いつでもその地へと導かれつつ進んで行くべきだ。
行く先は見えないかもしれないが、主が行くように言われたその先に待っているのは、必ず祝福である。
「主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記12:1-3)

自分の願いではなく御心が成るように
その上で取るべき心構えは、自分の願いではなく御心を選択する(ルカ22:42)という事だ。
今回、天声教会の開拓当初から霊的にも物理的にも骨折っていただいた鄭先生や聖徒達が、主の御心を最優先するという英断をしてくださったからには、その姿勢を全ての聖徒達が模範とすべきである。
教会の前進においては、誰かがすたれ、誰かが栄える、という事は全く無い。
バプテスマのヨハネは、人々をキリストへと導くミニストリーを展開したが、キリストが現われ、キリストが盛んになった時、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」と言った。(ヨハネ3:26-30)
すたれるべきは誰や彼ではなく、私達全員である。主イエス様だけが栄えるべきなのだ。

キリストにあって一つとなれ
今まで慣れ親しんできた形式から離れるため、当然、不便を被る方もおられる。
そうであるからには、私達聖徒達は今まで以上に一つとなり、愛をもって互いに助け合って行く必要がある。
「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。」(ヨハネ13:14)
言葉が違う者同士集まってはいても、私達は主にあってひとつであり、同じ天国民であるから(ピリピ3:20)同じ思いとなり、愛を結びの帯として心を一つにキリストの喜びを満たしていくべきである。(ピリピ2:1-2)
「あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。
そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。 ・・・ そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。」(コロサイ3:9-11,14)

「天声教会」とは
そして、私達が中心とするお方は、まことの大牧者なる主、イエスキリストだ。
この群れが集うのは、同じ言葉の元ではなく、誰々さんや誰々先生の下に集うのでもなく、同じ主であるキリスト・イエスの名の元に、である。
天声教会という名は、天からの声すなわちモーセでもエリヤでもなく、あの師でもこの先生でもない、ただイエスキリストの御声に聞き従う教会を目指すものとして、名付けられた。(マタイ17:4,5)
主が明らかに方向性を示して下さっているのであれば、迷わず、確信をもってその道を進めば良い。
そういうわけで私達は、人間的な心地よさに留まり続けるのではなく、主が示して下さる方向へと足を踏み出し、愛を持って互いに仕え合い、大牧者なるキリストの声を聞きつつ歩んでいくのみである。
主が示される先には必ず祝福が待っているのだから、大胆に進み行き、祝福を勝ち取って行く皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:宇宙を動かす人間の選択(ローマ8:18-23)
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「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。」(ローマ8:19)
つまり被造物は、イエス様を信じる者達の現れを切に待ち望み、罪ある人達の支配から解放されて神の子たちの支配に入る事により、アダム以来の呪いから解放される事を、切望している。

そもそも被造物が滅びの束縛に入り、虚無に服してしまったのは、人が神の御声に従わなかった故である。
「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、/地はあなたのためにのろわれ、/あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、/あなたは野の草を食べるであろう。」(創世記3:17,18)
地が呪われてしまったのは、人間が原因であり、人間が神の御声に従わなかった故だ。
しかも、人間が苦しんで汗して食を得るために、いばらやあざみといった雑草が わざわざ生じるのだ。
そして、被造物全体は、神の子達、すなわちイエス様に罪贖われた人達の現れを待ち望んでいるという。
一体、私達人間とはどれだけ、被造物にとって、そして全宇宙にとって、重要なキーマンなのだろうか。

「神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」」。(創世記1:26)
人は本来、神のかたちに造られ、神と共に、神の子として全被造物を支配するようにと、造られているのだ。
それなのに現在、自然界は人間に敵対するかのように地震や津波によってその業を破壊し、人が労苦から逃れるための業は、放射能やオイル、化学物質などによって逆に人間自身に災いとして跳ね返っている。
もし人が、あくまで創造者の御声に従わず、本来的でない支配を自然界に対して続けるのなら、自然界はますます地震や放射能という”いばらやあざみ”を生じさせ、人々を苦しめるであろう。

被造物は何も好きこのんで人を苦しめるのではない。あくまで人が本来の姿から離れ、罪の業を続けるから、うめいているのであり、むしろ、被造物は神の子たちの現れとその正しい支配を待ち望んでいるのだ。
では、被造物が滅びの束縛から解放され、人の本来あるべき姿「神の子」に戻るにはどうすればよいか?
「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」(ローマ8:14)
すなわち神の霊によって歩む者こそ、神の子であり、神の子とされた者には、被造物から来る呪いは届かず、むしろ、被造物に望まれる者、歓迎される者となり、土地はエデンの園のように茨ではなくあらゆる良き産物を生らせるのである。全てが与えられる者とは、神の国とその義とをまず第一に求める者である。
また、子とされたからには相続人でもあり、世の始まる以前から用意された、あらゆる良き物を、キリストと共に相続する権利まで与えられている。

では、かんじんの、神の霊に導かれて歩むには、どうしたら良いか?それは、霊に従って歩むか、それとも肉に従って歩むかという二者択一の場面で、常に肉を「否み」霊に従って歩む事を「選び」続ける事である。
肉とは罪を犯す事に何の苦労もいらず、むしろ罪を犯すのが仕事であるが、客観的な事実として、私達の罪の体はイエス様と共に十字架につけられ無力化されている。(ロマ6:6)
私達は罪に対しては死んだ者、神に対しては生きている者である、という、その客観的事実を、自由意志によって「仕分け」する事は、私達の側の責任であり(ローマ6章11節)、私達のこの肉体という器を、罪に捧げるか、それとも義に捧げるか、という責任は、私達の側にある。(12節)

もし霊に従って歩む事を、自由意志によって選択しているなら、いのちの御霊の法則の支配下に入っており、坂道を自転車で下るがごとくラクに御霊の実を結び、主に喜ばれる道を歩む事が出来るようになる。
御霊によって歩むなら、土地は祝福の良き産物を生じ、また相続人として、あらゆる良き物を受け継ぐ。
しかし、肉によって歩む時、土地はいばらとあざみを生じさせ、その行き着く先は死である。
「私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。」(申命記30:19)
結局そういう事なら、より良く生きるためには御霊によって歩む道を選択し、神の子になるしか無いのだ。

礼拝説教メッセージ音声:姦淫の現場で捕らえられた女(ヨハネ8:1−11)
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「朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。」(ヨハネ8:2) 宮とは主が礼拝される所、人々が主の御言葉を聞く聖なる所である。
主がそこで御言葉を人々に語っておられる最中、挑戦的な表情の宗教者たちが、絶望的な表情の女性を引き摺って来て、目立つよう真ん中に立たせ、御言葉の聖なる場を、物々しい空気に塗り替えてしまった。
その女性は、姦淫の現場で捕らえられたため、裸同然のような状態で引き摺って来られたのかもしれない。
イエス様はこの様子を見ると顔を伏せ、口で語るのを止めて、地面にものを書かれた。
宗教者達はイエスに詰め寄って、「モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」と言ったが、イエス様は何も言わず、地面に指で書いておられた。
もし「律法の通り石で打て」と言うなら、「それならあなたがいつも言っている恵みと憐れみはどうなるのだ」と訴える材料になり、もし「赦せ」と言うなら、律法を破る事を勧めたかどで、これまた訴える材料にもなる。

皆さんは、万引きなど罪の現場を取り押さえられている所を見た事はあるだろうか。
捕らえる者は怒鳴ったり制圧などしながら捕縛し、連行し、人々が何事かと集まって好奇の眼差しを向ける。
最近では、珍奇な場面に遭遇した事をネットで実況するためか、携帯のカメラを向ける者も多くいる。
このような場面に「見る」側として置かれた時、人々はあれこれと解説したり評論したり、あたかも自分はその罪とは全く関係無いかのように振る舞い、そして、あたかもショーを見ているかのように楽しむのである。

宗教者達が姦淫の現場を都合よく押さえられたからには、裏で相当の準備があった筈で、最初に集まってアイデアを絞り出し、準備のためにそれらしい所へ出向いて片っ端からドアに耳をつけて盗み聞きしたか、あるいは、姦淫した男がその場に引き摺り出されていない所を見ると(律法ではこのケースは男女両方を連れてきて石打にしなくてはならない)、その男は彼らの仲間で、女をわざと陥れた事も十分考えられる。
告発者がなぜ正しく見えるか。それは告発されている者の罪に焦点が行くからで、サタンも同じく告発する。
しかし、人を陥れ告発するための裏の手配は、相当醜く汚いもので、汚い女一人の命でイエス様を陥れられるなんて安いなどと思う宗教者達も、その状況を見て楽しむ群衆も、人間の実状は相当罪に汚れている。

宗教者達は、俯いて書いておられるイエス様に、勝ち誇ったようにしつこく問い続け、群集達もますますざわつく中、イエス様は静かに立って、人々をじっと見た。その場は静かになり、イエス様の声だけが響いた。
「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
場は凍りつき、長く生きた者から一人一人、何も言わずに出て行き、野次っていた群集も、宗教者達も皆、すごすごと出て行き、そこには、地面に書いておられるイエス様と、女だけが残された。
イエス様は、聖なる宮を汚い見世物場に塗り替えてしまった宗教者達や、同調して騒ぎ立てた群衆を糾弾する事は無く、また姦淫の女を罪定めする事も無く、静かに、人々の罪を指摘し、そして、覆って下さった。

イエス様は指で何を書いたのだろうか? それは分からないが、神様が自らの指で書いた聖書の箇所は3つあり、一つ目は石の板に十戒を書き(出20章)、二つ目はベルシャツァル宮殿の壁に「メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン」と書き(ダニエル5章)、そして三つ目が、この場面である。
一つ目の場面では人の守るべき神の基準が石の板に記され、二つ目の場面では、人の行いが神の基準に数えられ(メネ)、量りにかけられ(テケル)、そして足りないとして裁かれ、分けられ(パルシン)てしまった。
三つ目のこの場面で、主は何を書いたのか分からないが、「わたしもあなたを罪に定めない。」と言われた。

もし私達が神の指によって書かれた内容によって量られるなら、罪々が数えられ、目方は絶対に足りない。
しかし主イエス様は、尊い血の代価で私達の死を、いのちで買い取って下さった。
「婦人よ、あなたの罪ばかりでなく、石を投げようとした人達、そして人類全体の罪を、わたしが引き受けます。わたしが命を差し出し、血の代価で人類全体の不足分を買い取ります」と言っているのではなかろうか。
「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
主が払ってくださった尊いいのちを、尊い血潮を、私達は敢えて罪を犯す事によって軽んじてはならない。

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