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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:向きを変えて出発せよ(申命記1:6-8)
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先週の昼の会合で、当教会は、これから礼拝を日本語のみにして行こう、という方向性となった。

主にあって進んで行く先は、分からなくとも、祝福がある
信仰生活をして行くならば、慣れ親しんだ所にいつまでも留まるという事はなく、主が道を示してくださるなら、いつでもその地へと導かれつつ進んで行くべきだ。
行く先は見えないかもしれないが、主が行くように言われたその先に待っているのは、必ず祝福である。
「主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記12:1-3)

自分の願いではなく御心が成るように
その上で取るべき心構えは、自分の願いではなく御心を選択する(ルカ22:42)という事だ。
今回、天声教会の開拓当初から霊的にも物理的にも骨折っていただいた鄭先生や聖徒達が、主の御心を最優先するという英断をしてくださったからには、その姿勢を全ての聖徒達が模範とすべきである。
教会の前進においては、誰かがすたれ、誰かが栄える、という事は全く無い。
バプテスマのヨハネは、人々をキリストへと導くミニストリーを展開したが、キリストが現われ、キリストが盛んになった時、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」と言った。(ヨハネ3:26-30)
すたれるべきは誰や彼ではなく、私達全員である。主イエス様だけが栄えるべきなのだ。

キリストにあって一つとなれ
今まで慣れ親しんできた形式から離れるため、当然、不便を被る方もおられる。
そうであるからには、私達聖徒達は今まで以上に一つとなり、愛をもって互いに助け合って行く必要がある。
「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。」(ヨハネ13:14)
言葉が違う者同士集まってはいても、私達は主にあってひとつであり、同じ天国民であるから(ピリピ3:20)同じ思いとなり、愛を結びの帯として心を一つにキリストの喜びを満たしていくべきである。(ピリピ2:1-2)
「あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。
そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。 ・・・ そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。」(コロサイ3:9-11,14)

「天声教会」とは
そして、私達が中心とするお方は、まことの大牧者なる主、イエスキリストだ。
この群れが集うのは、同じ言葉の元ではなく、誰々さんや誰々先生の下に集うのでもなく、同じ主であるキリスト・イエスの名の元に、である。
天声教会という名は、天からの声すなわちモーセでもエリヤでもなく、あの師でもこの先生でもない、ただイエスキリストの御声に聞き従う教会を目指すものとして、名付けられた。(マタイ17:4,5)
主が明らかに方向性を示して下さっているのであれば、迷わず、確信をもってその道を進めば良い。
そういうわけで私達は、人間的な心地よさに留まり続けるのではなく、主が示して下さる方向へと足を踏み出し、愛を持って互いに仕え合い、大牧者なるキリストの声を聞きつつ歩んでいくのみである。
主が示される先には必ず祝福が待っているのだから、大胆に進み行き、祝福を勝ち取って行く皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:宇宙を動かす人間の選択(ローマ8:18-23)
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「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。」(ローマ8:19)
つまり被造物は、イエス様を信じる者達の現れを切に待ち望み、罪ある人達の支配から解放されて神の子たちの支配に入る事により、アダム以来の呪いから解放される事を、切望している。

そもそも被造物が滅びの束縛に入り、虚無に服してしまったのは、人が神の御声に従わなかった故である。
「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、/地はあなたのためにのろわれ、/あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、/あなたは野の草を食べるであろう。」(創世記3:17,18)
地が呪われてしまったのは、人間が原因であり、人間が神の御声に従わなかった故だ。
しかも、人間が苦しんで汗して食を得るために、いばらやあざみといった雑草が わざわざ生じるのだ。
そして、被造物全体は、神の子達、すなわちイエス様に罪贖われた人達の現れを待ち望んでいるという。
一体、私達人間とはどれだけ、被造物にとって、そして全宇宙にとって、重要なキーマンなのだろうか。

「神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」」。(創世記1:26)
人は本来、神のかたちに造られ、神と共に、神の子として全被造物を支配するようにと、造られているのだ。
それなのに現在、自然界は人間に敵対するかのように地震や津波によってその業を破壊し、人が労苦から逃れるための業は、放射能やオイル、化学物質などによって逆に人間自身に災いとして跳ね返っている。
もし人が、あくまで創造者の御声に従わず、本来的でない支配を自然界に対して続けるのなら、自然界はますます地震や放射能という”いばらやあざみ”を生じさせ、人々を苦しめるであろう。

被造物は何も好きこのんで人を苦しめるのではない。あくまで人が本来の姿から離れ、罪の業を続けるから、うめいているのであり、むしろ、被造物は神の子たちの現れとその正しい支配を待ち望んでいるのだ。
では、被造物が滅びの束縛から解放され、人の本来あるべき姿「神の子」に戻るにはどうすればよいか?
「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」(ローマ8:14)
すなわち神の霊によって歩む者こそ、神の子であり、神の子とされた者には、被造物から来る呪いは届かず、むしろ、被造物に望まれる者、歓迎される者となり、土地はエデンの園のように茨ではなくあらゆる良き産物を生らせるのである。全てが与えられる者とは、神の国とその義とをまず第一に求める者である。
また、子とされたからには相続人でもあり、世の始まる以前から用意された、あらゆる良き物を、キリストと共に相続する権利まで与えられている。

では、かんじんの、神の霊に導かれて歩むには、どうしたら良いか?それは、霊に従って歩むか、それとも肉に従って歩むかという二者択一の場面で、常に肉を「否み」霊に従って歩む事を「選び」続ける事である。
肉とは罪を犯す事に何の苦労もいらず、むしろ罪を犯すのが仕事であるが、客観的な事実として、私達の罪の体はイエス様と共に十字架につけられ無力化されている。(ロマ6:6)
私達は罪に対しては死んだ者、神に対しては生きている者である、という、その客観的事実を、自由意志によって「仕分け」する事は、私達の側の責任であり(ローマ6章11節)、私達のこの肉体という器を、罪に捧げるか、それとも義に捧げるか、という責任は、私達の側にある。(12節)

もし霊に従って歩む事を、自由意志によって選択しているなら、いのちの御霊の法則の支配下に入っており、坂道を自転車で下るがごとくラクに御霊の実を結び、主に喜ばれる道を歩む事が出来るようになる。
御霊によって歩むなら、土地は祝福の良き産物を生じ、また相続人として、あらゆる良き物を受け継ぐ。
しかし、肉によって歩む時、土地はいばらとあざみを生じさせ、その行き着く先は死である。
「私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。」(申命記30:19)
結局そういう事なら、より良く生きるためには御霊によって歩む道を選択し、神の子になるしか無いのだ。

礼拝説教メッセージ音声:姦淫の現場で捕らえられた女(ヨハネ8:1−11)
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「朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。」(ヨハネ8:2) 宮とは主が礼拝される所、人々が主の御言葉を聞く聖なる所である。
主がそこで御言葉を人々に語っておられる最中、挑戦的な表情の宗教者たちが、絶望的な表情の女性を引き摺って来て、目立つよう真ん中に立たせ、御言葉の聖なる場を、物々しい空気に塗り替えてしまった。
その女性は、姦淫の現場で捕らえられたため、裸同然のような状態で引き摺って来られたのかもしれない。
イエス様はこの様子を見ると顔を伏せ、口で語るのを止めて、地面にものを書かれた。
宗教者達はイエスに詰め寄って、「モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」と言ったが、イエス様は何も言わず、地面に指で書いておられた。
もし「律法の通り石で打て」と言うなら、「それならあなたがいつも言っている恵みと憐れみはどうなるのだ」と訴える材料になり、もし「赦せ」と言うなら、律法を破る事を勧めたかどで、これまた訴える材料にもなる。

皆さんは、万引きなど罪の現場を取り押さえられている所を見た事はあるだろうか。
捕らえる者は怒鳴ったり制圧などしながら捕縛し、連行し、人々が何事かと集まって好奇の眼差しを向ける。
最近では、珍奇な場面に遭遇した事をネットで実況するためか、携帯のカメラを向ける者も多くいる。
このような場面に「見る」側として置かれた時、人々はあれこれと解説したり評論したり、あたかも自分はその罪とは全く関係無いかのように振る舞い、そして、あたかもショーを見ているかのように楽しむのである。

宗教者達が姦淫の現場を都合よく押さえられたからには、裏で相当の準備があった筈で、最初に集まってアイデアを絞り出し、準備のためにそれらしい所へ出向いて片っ端からドアに耳をつけて盗み聞きしたか、あるいは、姦淫した男がその場に引き摺り出されていない所を見ると(律法ではこのケースは男女両方を連れてきて石打にしなくてはならない)、その男は彼らの仲間で、女をわざと陥れた事も十分考えられる。
告発者がなぜ正しく見えるか。それは告発されている者の罪に焦点が行くからで、サタンも同じく告発する。
しかし、人を陥れ告発するための裏の手配は、相当醜く汚いもので、汚い女一人の命でイエス様を陥れられるなんて安いなどと思う宗教者達も、その状況を見て楽しむ群衆も、人間の実状は相当罪に汚れている。

宗教者達は、俯いて書いておられるイエス様に、勝ち誇ったようにしつこく問い続け、群集達もますますざわつく中、イエス様は静かに立って、人々をじっと見た。その場は静かになり、イエス様の声だけが響いた。
「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
場は凍りつき、長く生きた者から一人一人、何も言わずに出て行き、野次っていた群集も、宗教者達も皆、すごすごと出て行き、そこには、地面に書いておられるイエス様と、女だけが残された。
イエス様は、聖なる宮を汚い見世物場に塗り替えてしまった宗教者達や、同調して騒ぎ立てた群衆を糾弾する事は無く、また姦淫の女を罪定めする事も無く、静かに、人々の罪を指摘し、そして、覆って下さった。

イエス様は指で何を書いたのだろうか? それは分からないが、神様が自らの指で書いた聖書の箇所は3つあり、一つ目は石の板に十戒を書き(出20章)、二つ目はベルシャツァル宮殿の壁に「メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン」と書き(ダニエル5章)、そして三つ目が、この場面である。
一つ目の場面では人の守るべき神の基準が石の板に記され、二つ目の場面では、人の行いが神の基準に数えられ(メネ)、量りにかけられ(テケル)、そして足りないとして裁かれ、分けられ(パルシン)てしまった。
三つ目のこの場面で、主は何を書いたのか分からないが、「わたしもあなたを罪に定めない。」と言われた。

もし私達が神の指によって書かれた内容によって量られるなら、罪々が数えられ、目方は絶対に足りない。
しかし主イエス様は、尊い血の代価で私達の死を、いのちで買い取って下さった。
「婦人よ、あなたの罪ばかりでなく、石を投げようとした人達、そして人類全体の罪を、わたしが引き受けます。わたしが命を差し出し、血の代価で人類全体の不足分を買い取ります」と言っているのではなかろうか。
「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
主が払ってくださった尊いいのちを、尊い血潮を、私達は敢えて罪を犯す事によって軽んじてはならない。

礼拝説教メッセージ音声:密かな主との交わり(ヨハネ7:1-18)
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イエス様の兄弟達は、イエス様が公に有名になろうとしているのだと勘違いしていて、仮庵祭というユダヤの祭りが近づいた時、祭りの時にユダヤに登って行って、公に自分のわざを行うよう勧めた。(ヨハネ7章)
兄弟としては、長男が有名になれば鼻が高い、という思いもあったかもしれないが、イエス様の目的は有名になる事ではなく、イエス様が私達の主となる事である。
だからイエス様は彼らに、「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつでも来ている」と答えられた。(6節)
「わたしの時(カイロス:相応しい時機、頃合)」とは、イエス様の支配の時、すなわち、十字架で死なれ、葬られ、3日目に復活し、天に上られ、天の王座で支配される時である。
イエス様は、カナの婚礼の場でマリヤにも「わたしの時はまだ来ていない」と言われたが、それはマリヤがイエス様を主としてではなく、子として、自分よりも下として見ていたからで、イエス様を救い主としていない限り、主の働かれる時は来ておらず、イエス様が働ける余地も、全く無い。人が、自分の思い、意思、感情が主体となっているなら、人の時がいつでも有効になっているため、主の時は、その人にとって、無効である。

世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。(7節)
イエス様は、世の行っている業は「悪い」と証する。すなわちイエス様の言われる所は、世には罪があり、呪いの元にあり、いずれは滅びに至る、というもので、そこから唯一救い出せるのが主イエス様である。
しかし世の人はそんな事は聞きたくなく、人々は教師を換え、好き勝手な教えに飛びつき、互いに空想話に逸れて行って真実から目を背けるようになる。(2テモテ4:3)
この時のイエス様の兄弟達のように、世に属し、世に迎合している人を、世は憎む事はない。
しかしイエス様について行く者は、イエス様と共に世のものではなくなるため、世はその人を憎む。
「あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。」(8節) イエス様は、あなたたち自分達を称えあうような「人の祭り」には、どうぞ好きに登っていきなさい、しかしわたしはそんな祭りには登って行きません、と言っている。

しかし、兄弟たちが祭りに上って行った時、イエスご自身も内密に上って行かれた。(10節) 
祭りの前半の3日半は、イエス様が公には姿を見せず、人々は宗教者を恐れ、イエス様についてひそひそ話しており、イエス様に関する評価は2分していて、ある者は良い人だ、ある者は惑わしている、と言う。
このように、イエス様が表立っていない期間、人々はイエス様について、第3者的に良し悪し意見をなすが、そこにはイエス様はおられない。

しかし7日の祭りの半ばを過ぎると、イエス様は宮に登り、公然と教えられる。
イエス様の言葉は、自身から出る事ではなく、神様から出るものであり(16節)、神の御心を行おうと願う者は、その教えがどこから出ているのかが分かる。(17節)
「自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。」(18節)結局、人が自分の栄光、人間の栄光を主体として求めるなら、主は働かれる事は無い。しかし、主の栄光を求める者は真実であり、不義は無い。

7の半分(3日半、3年半)という数字は聖書に良く登場する。その期間は艱難がある(黙11:2、ダニ7:25)が、主に親しい者達は、密かな所で主と会い、匿われ、養われる。(黙12:6,14)
「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」(ヨハネ14:20)
世には見えない、密やかな主との交わりに入り、その守りに預かる皆さんでありますように。

礼拝説教メッセージ音声:祈りの家の喜びの祝い(イザヤ56章、マタイ21:12-17)
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イザヤ56章によると、祈りの家の喜びの祝いに連なる事が許される者とは安息日を守る者で(2,4,6節)国籍や立場は関係無く、宦官であっても息子・娘達に勝る分け前と名が与えられ、絶えることの無い永遠の名が与えられ、異邦人であっても聖なる山に連なり、いけにえ(祈り)は受け入れられ、祈りの家で楽しむ。

祈りの家に行く事の楽しさ、喜ばしさの味を占めた者は、たとい仕事が忙しくても、疲れても、集まってくる。
祈り会に出ると一日の疲れが吹っ飛ぶし、皆と遅くまで交わって教会のベンチで寝るなら、柔らかいベッドで寝るよりも爽やかにリフレッシュされる。そのため最近、金曜祈祷会で泊まる人が増えている。
兄弟姉妹が一つになって共に住む所には、主が真ん中におられ、とこしえの祝福を命じておられるからだ。

主は散らされた者達を集める神であり(8節)、なんと、野や林の獣にも食べに来いと命じておられる。(9節)
そこには見張り人がいる(9-12節)が、盲目でおしの犬で、夢を見て眠りを貪り、貪欲で、足る事を知らない。
彼らは悟らない牧者で、自分勝手な道・自分の利得に向かい、自前のぶどう酒を持参し、酒を勧め合う。
祈りの家を見張るはずの牧者達が、このように利得を貪り、霊的に眠っているなら、主はどうされるか。

「イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」(マタイ21:13)
主がそのように強制力を行使してまでして怒ったのは、主が聖と定めた「祈りの家」で、人間による売り買いをはびこらせ、しかも祈りに来る人達の、尊いささげものを、自らのために搾取したからだ。
主が忌み嫌われる事は、主が聖だと定めた事を、私たちも聖とするべきなのにそうしないで、人間的な汚い欲望や教えを混ぜ込み、不純なものにしてしまう事だ。
パリサイ人たちは安息日を聖とする代わりに、働いてはならない事を強調して不自然なまでの規則で埋め尽くし、アブラハムの娘が解放される事から阻んだように(ルカ13:16)、人を救いから阻んだ。
主は、聖徒達の尊い祈りや捧げもの、聖徒達の御言葉を守ろうとする気持ちを利用して逆手に取ったり、それを搾取して私腹を肥やす者がいたら、その両替台や腰掛は倒され、その者達は追い出される。
祈りの家を見張るはずの牧者達が、不純な有様でいると、主はそのようにされるのである。

主が人の薄汚い欲望の座や両替代を引き倒した後、主の元に集って来たのは、目の見えない人や足の不自由な人達で、主は彼らを受け入れ、癒して下さった。
主が受け入れるいけにえは、砕かれたたましい、砕かれた、悔いた心である。(詩篇51:17)
主は低くへりくだった者を受け入れ、癒して下さるのだ。
また、そこにいた子供達は「ダビデの子にホサナ」と叫んでいたが、それを聞いた祭司長、律法学者達は怒った。それは、子供が賛美を口にするなど不敬だ、おこがましい、というのである。
しかし主は、小さくなった者達の賛美をこそ、受け入れてくださるお方だ。

「イエスは彼らを後に残し、都を出て、ベタニヤに行き、そこに泊まられた。」(17節)
ベタニヤには「歌の家」「病む者の家」あるいは「貧困の家」というヘブライ語の意味がある。
祈りの家を不純なものとしてしまった無能な牧者たちが悔い改めず、むしろ主に怒りを燃やすようなら、主は放って置かれ、そこを出てベタニヤ、即ち小さき者の歌う家、病む者の家、貧困な者の家へと宿られる。

主が宿られるその時、荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。(イザヤ35章)
足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れる。
そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれ、汚れた者はそこを通れない。
楽しみと喜びがついて来、嘆きと悲しみとは逃げ去る。
へりくだった者となって主を宿し、このイザヤ35章の祝福にあずかる皆さんでありますように。

礼拝説教メッセージ音声:もはや人の祭りは終わり (ヨハネ2章1−11節)
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聖書はアダムとエバの結婚に始まって、キリストと教会の結婚に終わるように、結婚は偉大な奥義である。
キリストは十字架の血潮(ぶどう酒)を手付金として御父に支払い、私達をめとって下さった。
私達教会が彼とひとつになる事こそが福音の目的であるため、キリストの十字架抜きの福音はありえない。
それなのに、昨今のキリスト教会の中では、十字架抜きの繁栄の法則が語られ、神は愛だから地獄は無いと言う牧師も現れ、さらにカトリックでは、どの宗教も行き着く先は同じ神である、と公言してしまった。
ニューエイジの主張は、魚座の時代(キリストの支配)は終わって水瓶座の時代(アクエリアス・エイジ)に入り、この黄金時代には宗教体制を全て統合し、かつ不知と惑いの心を解放する時代だと、標榜している。
(あいにく、魚座や水瓶座といった星座も、全宇宙さえも創ったのは、ロゴスなる主イエスキリストだが。)
このように、キリスト抜きに人間が高められる様こそ「人の祭り」の行き着く所であり、こういった動きが活発になって以来、その反動としての災いも活発になっているのは、予め御言葉に示されていた通りである。
私達はこれにNOと宣言し、十字架につけられたイエス・キリストこそ主であると明確に宣言するべきである。

昨今のキリスト教世界では、主の栄光より人の栄光を追求し、主の御言葉よりも人間の教えを優先し、主の御心より人の良かれと思った事を成就させるといった、人間主体の「人の祭り」がはびこっている。
カナの婚礼(ヨハネ2:1-11)のように、イエス様がおられるというのにイエス様の名は単に飾りとなって、人の好き勝手などんちゃん騒ぎという「ぶどう酒」はもはやネタが尽き、カラカラに渇いている状況である。
「祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」(ヨハネ7:37)

イエス様を主と認めず、彼の力を単に利用しようとする者には、たとえ母であっても、主ははっきり拒絶する。
「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの「時」はまだ来ていません。」(ヨハネ2:4)
「女の方(ギュナイ)」のギリシャ語の呼格は大人の女性への尊敬をこめた呼びかけで、ローマ皇帝アウグストがエジプトの女王クレオパトラを呼ぶのに用いた尊称でもある。
「私よりあなたが偉いとし、自分の力で何とかしようとしているなら、あなたの方で何とかするが良かろう。」
イエスを主としない者には主の「時」は来ず、人が勝手に用意したぶどう酒が尽きようとも、主は動かれない。

人の祭りがはびこっている現代において、我々が取るべきスタンスは何だろうか。
マリヤは人々の前で自分を下ろし「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」』(5節)と言った。
「イエス様、あなたがあれをして、これをして下さい」では、主は何も起こされない。
「主よ、仰せ下さい。何でもします」という姿勢こそ私達が取るべきである!
そうしてこそ主が働かれる余地が生まれ、福音書に書かれてあるあらゆる良きわざを主が為して下さり、そして、人の祭りの運営に長けた世話役には、とうてい信じられない事が起きる。(ヨハネ2:9-10)

その良いぶどう酒の作成方法は、主が「水がめに水を満たしなさい」と言われた時に水を満たし、「今汲みなさい」と言われた時に汲む事。主が命じられる事は、その時意味不明に見えるかもしれない。
しかし、それでも主の命じられる通りに行うなら、人にはとうてい用意する事の出来ない、最良のぶどう酒を主が提供して下さり、そして人の支配する不完全な祭りは終わり、主が支配する完全な祭りに入るのだ。

6つの水がめは人を表し(創世記1:31・エレミヤ18:3)、水は私達を洗い清める御言葉(エペソ5:26)を表す。
私達が主の言葉に従順し、私達という器に御言葉の水が満ちる時、水はぶどう酒へと変わり、私達は最上のぶどう酒を味わい、喜びに満たされる。
ぶどう酒はイエスの流された血潮であり、それによって私達の罪は赦され、病人は癒され、束縛されている人は解放され、貧しい者は富む者へ変えられ、死のとげは抜かれ、呪いは祝福へと変えられるのである。
こんな極上のぶどう酒は見た事が無い、なぜ今まで取っておいたのか、と人が言うようなぶどう酒を、主が整えて下さる、その宴会の手伝いをする皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:約束の地に入れる者2 (民数記14章)
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カデシュ・バルネアは「神聖な砂漠を放浪する」という意味があり、神の子とされる者なら誰しもカデシュ・バルネアを経験し、速やかに抜けて約束の地に入る者もいれば、ずっと抜け出せないまま屍を晒す者もいる。
もし神を信じた今のほうが、そうでなかった時より苦しみに溢れているとするならば、それは、信じると言いつつも実は信じ切っておらず、出エジプトの民のようにどっちつかずのまま砂漠をさ迷っているからだ。
この砂漠から抜け出せる者と、抜け出せない者の違いを、民数記14章から学びたい。

斥候の知らせを聞いた民は、カレブの「必ず占領できる」という言葉に耳を貸さず、悪く言いふらす者達の言葉を受け入れ、夜通し泣き明かし「死んだほうがましだ」「妻子はさらわれてしまう」「エジプトに帰った方が私達に良い」と叫び、ついには「一人のかしらを立ててエジプトに帰ろう」とまで言い出した。(民14:1-4)
カデシュ・バルネアとは、目の前の現実に「自分の資力」で対抗しようとするなら、絶望しかない状況である。
このままでは妻も子供も養えず、一家離散だ。だから神ではなくエジプトに頼っていた生活に戻ろう、というのが、人間の考えうるケチなベストである。このカデシュ・バルネアを速やかに抜け出すコツは、目の前にそびえる現実に対抗する基を、「自分」ではなく「自分と共におられる全能なるお方」へと換える事である。

そのような時にモーセとアロンが真っ先にした事は、民と向き合う事ではなく、全能なる「お方」にひれ伏す事であり(5節)、ヨシュアとカレブは民を説得し、全能なる「お方」が自分達と共におられ、このお方に従うよう勧めた(9節)
しかしそれに対し、全会衆はモーセ達やヨシュア達を石で撃ち殺そう、という判断を下してしまった。
彼らを民が石で打とうとした、まさにその時、主の栄光が会見の幕屋から全イスラエルに現れ(10節)、主は、「この民を滅ぼし、あなたを大いなる強い国民にしよう」と言った。それでもモーセは神に執り成した。

13節から19節まで続くモーセの執り成しに、「あなた」という言葉が10回も出て来る事は、注目に値する。
民にも少しはいい所があるでしょう、とか、民がかわいそうだ、ではない。「あなた」の栄誉のため、「あなた」の約束の故に、民を滅ぼさないで下さい、と言っているのだ。
私達は何かと自分や他人の事を挙げて祈りがちだが、自分や他人の問題は脇に置き、まず主の前にひれ伏して、主の栄誉・主の御言葉を第一にして祈る、その祈りこそが、聞かれる祈りである。

主は確かにモーセの執り成しを聞かれ、滅ぼす事を思い留めて下さった。しかしそれは、民が選択した事の責任を見過ごす事でも、取った行動に対する実を自ら刈り取る事から逃れる事でも無い。
主が生きており、栄光が全地に満ちている以上、自分の蒔いた種は必ず自分で刈り取る事になり、主の栄光と徴を見つつ、なお御声に聞き従わない者は、約束の地に入れないと宣告された。(民14:21-23)

宣告された時に悔い改めれば、まだ赦されたかもしれない。しかし民が荒野で死ぬ事が決定的となってしまったのは、民が主の栄光を見、その戒めを聞きながらも、なお「つぶやいた」からだった。(27節)
主は幾度も栄光を見せ、戒めたのに、それでなおもつぶやくなら、自らがつぶやいた通りになってしまう。
信じ切れず恐れ退いて右往左往し、信仰の一歩を踏み出せないでいるキリスト者ほど惨めな存在はない。
キリスト者は、信じて前進すればこそ約束された良き地に入り、豊かな祝福と命を楽しむ事ができるのだ。

以上学んできた事の結論として、約束の地に入れない者とは、全能なる主を信ぜず、信仰者の勧めに耳を貸さず、主に戒められても、なおつぶやく者である。
それに対し、約束の地に入れる者とは、救いの源は自分ではなく主とし、信じて前進する者である。
「私達は、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。」(ヘブル10:37-39)
今、皆さんには信じなさい、と勧めます。信仰によって前進し、約束の地に入り、豊かな祝福といのちを楽しむ皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:約束の地に入れる者 (民数記13章)
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主が私達に用意して下さった約束の良き相続地を、私達が得るための法則は実はシンプルだが、そのシンプルな事を人はいかにややこしく難しく考えてしまうか。
出エジプトの民が約束の地に入れず荒野で40年さ迷う事が決定的となってしまった事件から見てみたい。

「見よ。あなたの神、主は、この地をあなたの手に渡されている。上れ。占領せよ。あなたの父祖の神、主があなたに告げられたとおりに。恐れてはならない。おののいてはならない。」(申命記1:21)
この言葉の通りそのまま攻め上っていれば、神様が約束された良き地をすぐにでも自分のものとしたはずだったが、民は余計な要望をしてしまい(22節)まず斥候を遣わして探らせて欲しいと、モーセに進言した。
モーセにとってその進言は良いと見えた(23節)し、ヨシュアやカレブも行き巡って見た時、こんなにすばらしく良い土地が与えられるのかと心躍ったが、荒野で屍を晒す事になる民には、そうではなかった。
彼らは立ちはだかっている城壁や強そうな先住民、それに比べた自分自身を見たのだ。(民数記13:31)
「そこで我々が見たのは、ネフィリムなのだ。アナク人はネフィリムの出なのだ。我々は、自分がいなごのように小さく見えたし、彼らの目にもそう見えたにちがいない。」(民数記13:33新共同訳)

荒野で屍を晒してしまう第一の兆候として、まず、立ちはだかっているものを、過大に大きく見る事だ。
ネフィリムとは大昔の名高い英雄たち(創世記6:4)だが、御言葉によると、ノアの洪水で全滅した筈である。
全滅したはずのネフィリムを何故見たというのか? それは彼らの見たアナク人という背の高い現住民を勝手にネフィリム人とし、民も御言葉や約束ではなく彼らの恐怖の産物「脳内ネフィリム」に伝染されたからだ。
荒野で屍を晒してしまう二つ目の兆候として、自分を「いなご」のように卑しく見積もる事だ。
自分達は神がことさらに目を留め多くの奇跡によって救い出した民、地を相続するという約束が与えられたアブラハムの子孫であるにもかかわらず、自らを「いなご」と呼んでいる。
キリストのいのちの代価がつけられた私達をそのように卑下する事は罪である。
私達も信仰によるアブラハムの子孫として、約束されたあらゆる良き祝福を信仰をもって受けるべきである。

恐怖や不信仰、御言葉と違う事の流布といった「死」がはびこる時、いのちで飲み込まなくてはならない。
「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」(ローマ12:15)とは兄弟愛をもって心から互いに愛し合う勧めであって、不信仰な者と共に信仰を捨てる事でも、臆病者と共に臆病になる事でもない。
不信仰や臆病には決して同調してはならず、カレブのように信仰を表明するのである。
「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」(民数記13:30)
カレブは信仰にしっかりと結び付けられていたから、実にあっさり約束の地を勝ち取った。(ヨシ14:12-15)

ヨシュアやカレブのように不屈で強い信仰が無くても、約束の地に入る方法はある。
それは、彼らのように信仰に結ばれた者に、何も言わずについて行く事である。
モーセの後の指導者、ヨシュアについて行った者達の中にも、もしかしたら恐れた者もいたかもしれない。
それでも不平を言わず、進言もせず、ただヨシュアの言う通りに為し、ついて行っただけで約束の地を得た。

モーセはヨシュアを斥候に遣わす時、ホセアという名だったのをヨシュアとした。(民数記13:16)
ホセアの名の意味は「救い」で、ヨシュア(イエシュア:イエス)の名の意味は「主は彼の救い」である。
モーセが約束の地カナンを探らせるにあたってそのように名を変えさせたのは、「救い」を得る源は主である事を教えるためであり、現代の私達にも、まことのイエシュア、すなわち信仰の創始者また完成者であるイエスに聞き従い、彼について行くようにと勧めるためだったのではなかろうか。
約束の地に入れる者と入れない者の違いは、救いを主に置くか、それとも自分に置くかである。
その法則を知って、救いを自分には置く事を止め、神に置き、恐れずに前進する皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:神の国の宴会 2 (マタイ22:1-14)
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神の国の宴会に与る者について、前回とは別の平行箇所であるイエス様のたとえ話から見ていきたい。
ある王が王子のために婚宴を催し、招いておいた人々に「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」と僕に言わせた。
神の祭り(宴会)においては、既に、最良の家畜は屠られ、天の食卓は整えられてある。
この屠られた最良の家畜とは、屠られた子羊イエス様(黙示録5:6)であり、私達はその流された血潮によって天の大宴会に誘われ、いつでも参加できる特権が与えられている。

しかし人々は無視したり、色々な口実をつけては断り、あるいは僕達を殺してしまった。(マタイ22:6)
前回、神の宴会を断る者達に3パターンあるのを見た(ルカ14:16)が、神は誘っても来ない者達については放っておかれ、そして決して神の食卓には与からせないし、神の僕を殺すような者は滅ぼされる。
しかし神の宴会に参加したら万事OKというわけではなさそうで、宴会場から追い出されてしまう者もいる。
どういう人が追い出され、どういう人が追い出さされないのか。その選別基準は、礼服である。(12節)

宴会には悪人も善人も集まっていた(10節)が、追い出されたのは礼服をつけていない者だった。
という事は、偶像崇拝や盗みを働いていた者が、たまたまその時礼服を身に着けて宴会に参加しても、何のお咎めも無しなのに、品方向性に生きてきた者が、たまたまその時礼服を身に着けずに参加したら、外に追い出されてしまう、という事態も、大いに起こりうる。
一体、礼服とは何だろうか。

この時代、王様が披露宴などに人を誘う時は礼服も一緒に贈ったため、礼服を持っていないというのは有り得ず、礼服なしに宴会に来たのなら、王の贈った服を身に着けるのを敢えて拒否した上で来た事になる。
つまり、王の用意したものを着るなら大丈夫で、自前の服で王の前に出る事はダメなのである。
大祭司ヨシュアは神の前に汚れた服を着ていたが、神様は汚れた服をまず脱がせ、きよい礼服(新共同:晴れ着)を着させた。(ゼカリヤ3章。1-5)
この礼服も大祭司ヨシュアの自前ではない。彼の自前の服は汚れている。その服は神様が支給して下さったもので、その礼服を着る事によってサタンの訴えは無効となり、神の御前に大胆に進み出る事が出来た。

「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」(ガラテヤ3:26,27)
すなわち礼服とはキリストご自身であり、汚れた衣・自前の服とは私達の”正しいわざ”(イザヤ64:6)である。
自分のがんばりによっていくら正しい行いをしてみても、神の御前には汚れた衣を着ているようなものであり、サタンは平気で訴えて来る。しかし、神の支給された礼服、すなわち、イエス様の裂かれた体を着る時、神の目からは私達はキリストと同様に見られ、サタンの訴えの口は封じられるのである。
ヤコブがイサクから祝福を得たのは、ヤコブが兄の晴れ着と動物の毛皮を身に着けたためで、本来祝福を受けるべきでない者が祝福を受けるのは理不尽に見えるが、支給された晴れ着を着、屠られた動物の毛皮を着た者に、祝福が与えられるというのが、神様のやり方である。

だから、支給された礼服を脱いで、自前の服を再び着て、神の御前に出るなどとは、言語道断である。
私達の「行い」という古い着物なぞは脱いで、神様が用意して下さった礼服すなわちキリストを着てこそ、神の祭りに参加でき、神の用意された最上の料理(キリスト)を味わい、飲み食いする事が出来るのである。
つまり、宴会に参加出来る者、キリスト者とは、人のまわしで相撲を取る者ならぬ、イエス様のまわしで相撲を取る者、虎の威を借りた狐ならぬ、イエス様の衣を借りた狐である。
私達は既に、キリストという礼服の支給を受けており、それを身に着けるかつけないかは、各人次第だ。
神の支給された贖い、イエスキリストを身に着け、神の宴会で大いに楽しみ食事を味わう皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:神の国の宴会(ルカ14:15-24)
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神の国の宴会に与る者は、どういう者か。イエス様は、ある主人の開く盛大な宴会のたとえ話をされた。
宴会が始まる時、招待しておいた客はことごとく何かしら理由をつけて断り(ルカ14:15-24)、主人は怒って、招待したけれど来ない人達は為すがままにさせておき、僕に命じて、町の広場や路地へ行って貧しい人や体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人を家に連れて来させた。
神の国の宴会に与かれる者は、招かれた者ではなく、呼びかけに単純に応じて、宴会場に来る者である。

このたとえの宴会とは、義人の復活の時に行われる神の大宴会(イザヤ25:6-12)の事で、主は、空席が埋まるまでは誰彼関係なく無理にでも連れて来て、宴会場をいっぱいにするよう命じている。(ルカ14:23)
その宴会はどんな人にも広くオープンに開かれていて、主人の僕は誰でも参加するよう無理やりにでも呼びかけるし、どうやら無料で参加できるというのに、なぜか、断る者がいる。
宴会に招かれた人は、なぜ断るのか。それは、宴会を招いた主人より、自分の用事のほうが大事だからだ。

最初に断った者の口実は、畑を買ったので見に行く、だから宴会には参加出来ない、というものだ。
畑は生活の食を得る場所で仕事に相当するが、主を祝うべき日に仕事を優先させるなら実入りは少ない。
別の者が宴会を断った口実は、牛を二頭ずつ五組買ったのでそれを調べに行く、というものだ。
「牛がいなければ飼葉おけはきれいだ。しかし牛の力によって収穫は多くなる。」(箴言14:4)
牛は、トラクターやパソコンのように業務効率化の道具にあたり、仕事の上でそうした投資は当然必要だ。
しかし、神の宴会を後回しにして収穫を多くしようとするのなら、結局は労多くして益少なくなってしまう。

アメリカ開拓時代、人々は先を争って馬を走らせ、新天地へ向かって行ったが、結局多くの土地を得たのは、昼夜休日も無く働いた者ではなく、主日にしっかり安息して礼拝したクリスチャンだった。
主日に礼拝時間を惜しんで働いた者達はことごとく失敗し、ある者は馬がつぶれ、ある者は病気になり、休む間も無く積み上げた財産は、結局クリスチャンが受け継ぐ事となった。
「安息日に歩き回ることをやめ、わたしの聖なる日にしたい事をするのをやめ、安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日と呼び、これを尊び、旅をするのをやめ、したいことをし続けず、取り引きを慎むなら、そのとき、あなたは主を喜びとする。わたしはあなたに地の聖なる高台を支配させ、父祖ヤコブの嗣業を享受させる。」(イザヤ58:13)

3番目に断った者の口実は、結婚したので宴会に参加出来ない、というものである。
妻や夫を喜ばせるのは良い事だが、神の国より妻や夫を優先させるのは、アダムとエバ同様の失敗をする。
「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。」(創世記3:17)
神よりも妻や夫を優先するのは、額に汗し苦しんで働かねばならない呪いの元凶であると覚えて置きたい。

このように、あらかじめ招かれていたのに来ない人々は、宴会で食卓を味わう事は出来なくなってしまう。
大宴会への参加に最も邪魔になるのが、人間のそそり立つ要塞、すなわち、神よりも自分を主とする高慢だが、宴会の日に「主はお前の城壁の砦と塔を砕き/打ち倒して地の塵に伏させる。」(イザヤ25:12)

だから私達は、神の僕から宴会の誘いを頂いた時、何にも優先して、それに参加すべきだ。
そして私達も神の僕となり、至る所に出て行き、天の宴会の空席が埋まるまで、誰彼かまわず宴会の誘い、すなわち、イエスキリストに繋がる招きをするのである。

人の祭りから離れて自分のわざを休め、神の大宴会に参加して安息し、仕事や資産、結婚が何倍にも豊かに祝福される皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

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