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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:死からいのちへの名義変更(2コリント5:14−17)
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本日イースターはイエスキリストの復活を祝う日である。
なぜ今日のキリスト者は、そんな2000年前の出来事を祝うのだろうか。現代の私達と、どんな関係があるのだろうか。また、イエスは死と復活によって、私達に何をして下さったのだろうか。

私達は、生まれながらの状態にあっては自分の過ちと罪のために死んでおり、この世を支配する者サタンの支配下において過ちと罪を犯して歩み、神の怒りを受けるべき者だった。(エペソ2:1-3)
神の基準を満たす事は出来ず、むしろ罪の故の債務証書が私達を責め立てていた。
しかし私達の主は、復活の日、私達を訴える罪と言う債務証書を、流された血によって帳消しにし(コロサイ2:14)、努力しても決して届かなかった永遠の命という代金を、ご自分のいのちで払い済みにして下さった。
それは客観的事実であり、真理だが、その事は誰にも彼にも無条件に自動的に適用されるものではない。
その事を信じる事、すなわち「信仰」によって歴史上の人物イエスから、「私の主イエス」とする必要がある。

「信仰とは、望んでいる事がらを"確信"(ὑπόστασις フーポスタシス:実体、権利証書)し、まだ見ていない事実を"確認"(ἔλεγχος エレグコス:証拠、監査明細)する事である。」(ヘブル11:1)
即ち、「信仰とは、望んでいる事柄の権利証書であり、まだ見ていない事実の監査明細である。」
もし、この教会のビルの全所有権は天声教会のものである、という不動産権利証書があって、それを提示して主張するなら、ビル全フロアを教会にもできるし、監査証があるなら誰も文句を言う事はできない。
同様に、信仰があるなら御言葉に示されている莫大な権利の目録は私達のものとなるが、信仰がなければ、神に対して、永遠の命に対して、サタンに対して、何の権利を主張出来ない。
私達の所有はサタンからイエスへと、死からいのちへと名義変更された事を信じ、主張するべきである。

イエスのものに名義変更されたと信じた者には、どのような特典が与えられているだろうか。
「信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」(ヨハネ5:24)
「信じる者は決して渇くことがない。その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(7:38)
「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」(2コリント8:9)
「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」(1ペテロ2:9)
「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(ピリピ4:19)

また、信じる者には、次のような権威が与えられている。
「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ16:18,19)
「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。
手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」(マルコ16:17,18)

聖書は、にわかには信じられないほど絶大な権利が書かれてある証書である。
「すべては、あなたがたのものです。パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。」(1コリント3:21-23)
しかし、信じない者には、この栄えある領域には足一本も踏み入れることが出来ない。
主イエスの流された血によって名義変更され、共に復活した者として、大胆にこの莫大な権利を主張し、行使する皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:救いの置き所(マタイ21:6-11)
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本日4/17は、教会暦では「しゅろの聖日(パームサンデー)」にあたり、次週日曜日 のイースター(復活祭) 前日の土曜日までの1週間を「受難週(Passion Week)」 としている。
「しゅろの聖日」の名前の由来はイエス様がろばに乗ってエルサレムに入城された時、人々は各々の衣服や、しゅろの葉を置いて「ホサナ」と叫びつつ歓迎した事から呼ばれている。(マタイ21:6-11)
この日、群集は諸手を挙げてイエスを歓迎したのだが、その1週間後、彼らはこぞってイエスを「十字架につけろ」と叫び、つばをかけ、十字架を引き摺って歩くイエスを罵った。この落差は一体何だろうか??

ホサナ という言葉は、現代キリスト教では神を褒め称える礼典的な響きを持つ言葉となっているが、元々はヘブライ語で「ホシア・ナ」、これは「おお!救って下さい」という意味である。
群集の叫びの動機は、褒め称えるというより「救って下さい」のニュアンスが濃かったかもしれない。
人々はそれぞれの身勝手なメシヤ像を思い描き、ローマの支配から力強く救ってくれる者、パンをいつでも提供してくれる者、病気や悪霊を追い出してくれる者、といった幻想を、イエスに抱いていた。

人とは身勝手なもので、奇跡によってパンを増やしてくれると期待していたメシヤがパンをくれず、「わたしがまことのパンです」と言い出すと、皆去って行った。
清純派で売っていたアイドルが実は不純だったとスクープされるや、ファンが手の平を返し、こき下ろすように、力でローマを屈服してくれると期待していたメシヤが、だらしなくパリサイ人に乱暴され、ローマ兵に引きずり回されているのを見ると、群集は手の平返して、乱暴する側に回るのだ。
このように人々は、力強い救世主を求めるものの、その力が自分の願いを満たす方向性とは関係が無く、自分に罪があると示されたり、悔い改めを要求されると知ると、そのようなメシヤなぞいらない、となるのだ。

イエスの十字架の道は、人々の期待に応える道ではない。
人を愛する事と、人の期待に応える事は別物だし、人を救う事と人の期待に応える事もイコールではない。
人の期待に応える事、人の歓心を買う事で「支持者が増えた」「集会が盛り上がった」といった幻想を抱き、気がついたら御心とは全然違う方向へと振り回されて行った、というような過ちを、教会はしがちである。
十字架の道とは、自分の握り締めている期待、握り締めている自我を、十字架に磔にし、主の期待、主の御心に委ねる道だ。
自分の思い・意思・感情をホサナ(救いたまえ)と思う者は、それを失うが、主イエスのために自分の思い・意思・感情を失う者は、それを得るのである。(マタイ10:38、16:25)
主はゲツセマネで「私の思いではなく御心が成りますように」と祈られた。私たちもそれに習うべきである。
救いの源は、どこに置けば良いのか。黙示録に登場する、しゅろの葉を持った聖徒達からヒントを得たい。

「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、/小羊とのものである。」(黙示7:10)
救いとは、自分由来の何かを救う事ではなく、「私達の神と子羊を救いとする」事だ。
長老達は自分達の栄光の印である冠を御座の前に投げ出し、天使達も「賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、世々限りなくわたしたちの神にありますように」と栄光を捧げ尽して、アーメンと平伏した。
この聖徒達の告白、長老達の態度、天使達の賛美こそ私たちが見習うべき姿勢である。
「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」(黙示7:14)
人々は好き勝手な「ホサナ(おお救いたまえ)」を叫び、「いちじくの葉」の進化形である好き勝手な衣服をイエスの敷物にしたが、私たちが纏うべきは、子羊の血で洗った白い衣である。
それがまことの「しゅろの日」であり、私たちが主を迎えるべき姿勢である。

子羊の血によって白くした衣を纏い、勝利のしゅろの葉を持って、イエスを迎える皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:生きている者と死んだ者の狭間で いのちのために執り成せ(民数記17:6-15新共同訳。口語訳・新改訳は16:41-50)

第一礼拝(日本語)礼拝音声:右クリックで保存
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放射能について最悪の事態に備える事や、食料やガソリンの備蓄など、生物的な命を保つための警鐘は確かに大切だが、それだけに始終し、いたずらに不安を煽ったまま終わってしまうクリスチャン論客は多い。
そして肝心の、霊的な命を保つための警鐘や、平安を保つための御言葉を流すキリスト者は実に少ない。
今、全ての聖徒達に喚起したい事は、持ち場を離れず、立つべき所に踏み留まり、戦う事である。
「持ち場」とは地域的な場所の事ではなく、霊的なポジション、すなわち、祭司として執り成し祈る立ち位置の事であり、「戦う」とはサタンと呪われた被造物に対し、信仰の篭った御言葉の剣を差し出す事である。

「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」(ルカ21:34-36)
私達は選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民である。(1ペテロ2:9)
霊的深酒に陥って、王族の祭司としての義務を忘れたり、貧しい者のために執り成す事を止めていないだろうか?王たる者には、酒を飲むことは相応しくない。
深酒は、没落した者、苦い思いを抱く者が、貧乏や労苦を忘れるためにする事であり(箴言31:4-7)そのように酔っ払っている者の所に、ある日ドアが突然バンと開き主が乗り込んで来て、深く眠りこんでいたり、主にあるしもべ仲間を打ち叩いている所を見られるなら、主から厳しく追求されるのではなかろうか。

現在、原発の危機や、戦争や地震、薬の利かない病など、四方八方に死の危機がある。
一つ確かな事は、人間、死ぬ時は死ぬ。
生物的な命のための備えをしたなら、あとは右往左往せず、霊的いのちの働きのために走り抜きたい。
しかしながら、起こるべき全ての災いから逃れ、人の子の前に立つ事の出来る者は、確かにいる!
それは「いつも目を覚まして祈っている」者(ルカ21:36)、主の言葉を忍耐して守り、イエス様の名を知らないとは言わない者である。(黙示録3:8-12)
「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」(ローマ14:8)

私達が今為すべき務めは、アロンのように死者と生者との間に立ち、執り成す事である。
神の民イスラエルが、神の立てた指導者モーセとアロンに逆らって集結し、不平を言った時、主の怒りが出て、宿営の端から疫病が流行りだした。(民数記17:6-15新共同訳。口語訳・新改訳は16:41-50)
その不平の内容は、自分勝手な礼拝を捧げようとしたコラの仲間達を「主の民」とし、その「主の民」が滅ぼされた事を不服とするものだった。
疫病が出たのは、言ってみれば民の手前勝手な罪の故、自業自得かもしれないが、アロンはどうしたか。
「アロンは、モーセが命じたように、火皿を取って集会の真中に走って行ったが、見よ、神罰はすでに民のうちに始まっていた。そこで彼は香をたいて、民の贖いをした。彼が死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ったとき、神罰はやんだ。」
我々王族の祭司は、アロンと同じように、滅んでいく人々の中へ走って行き、死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ち、祈りの香を炊き、賛美の煙を登らせ、取り成しの祈りを捧げるべきである。
彼らは主から「あなたがたはこの会衆から立ち去れ。」と言われた時、その言葉どおり立ち去らず、主にひれ伏し、この頑なな民と共に滅びてしまう危険を顧みず、走って行き、祭司としての贖いのわざを為した。

私達も、生きるにしても、死ぬにしても、いのちを救うために執り成すという、祭司のわざを為していきたい。
アロンのように、神と人との間に、生と死の狭間に立ち、命のために祈る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

第一礼拝(日本語)礼拝音声:救いは何処に?(詩篇18篇):右クリックで保存
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今回の地震によって、世の人は色々な準備をしている。
CNNmoney.comによると、doomsday(最後の審判の日、この世の終わり)に備えるための地下シェルターを売っている米国企業の売上高が、20%から1,000%にまで伸びたという。
20万ドルから2千万ドルもする地下シェルターを買える者は買いあさり、買えない者は安全と思われている所に逃げ、逃れるつてもお金も無い者は、命を長らえるために物を買い込んで備えている。
あるいはこの終末的状況から目を逸らし、自らの欲にますます耽る者、絶望して何もしない者もいる。

大地が揺るがされ大水が襲い、害為す物質が撒かれた時、各人が最も拠り所とする対象が明らかになり、信仰が試された。
世の人はシェルターを買おう、飛行機に乗って逃げよう、水や食料を買い置いておこう、など、自らの富や知恵、力によって自分を救おうとしているが、結局何に頼ればいのちを伸ばせるのか、誰も知る由が無い。
人間には生まれる予定日はあっても、死ぬ予定日は誰も知る者はいない。
死ぬ時は皆死ぬ。それは、命の日数は、主が数えておられるから。
そして信じても信じなくても、地獄と天国はあり、どちらに行くかは、生きている時の選択にかかっている。

「主は私の岩、砦、逃れ場、私の神、大岩、避けどころ わたしの盾、救いの角、砦の塔。」(詩篇18:3)
主こそ私達の助けであり、この世から来る世まで通じて、唯一安心して頼れるお方である。
人生の大川を越える時も揺るがされることは無く、いのちに溢れ、敵の前でさえ宴会を設けて下さる。

「立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」(イザヤ30:15)
これは、何もせず静かにしていよ、という事ではなく、「立ち帰って」という所が重要である。
立ち返るとは、自分の考え、自分の業でやってきた方向性を180度転換し、神様の業、神様の御心に委ねる方向転換であり、そうして静かに信頼するなら力を得るのだ。

「「そうしてはいられない、馬に乗って逃げよう」と。それゆえ、お前たちは逃げなければならない。また「速い馬に乗ろう」と言ったゆえに/あなたたちを追う者は速いであろう。」(イザヤ30:16)
地下シェルターを買い飛行機で逃げても、主に計り与えられた命の日は、延ばす事も縮める事も出来ない。
しかし少なくとも、主に信頼する者は、世の何者も提供できない、人知を超えた神の平安が、心と考えとをキリスト・イエスによって守られる。(ピリピ4:7)

「一人の威嚇によって、千人はもろともに逃れ、五人の威嚇によってお前たちは逃れる。」 (イザヤ30:17)
中国浙江慈渓市の男性は、日本からの放射能を恐れるあまり、ヨウ素入りの塩を食べ過ぎて亡くなられた。
主に信頼せず、恐れに捕らわれ右往左往するなら、たとい安全な地にいたとしても、死の危険にあるのだ。

今の時代、真偽の入り混じった様々な情報が飛び交い、何を信じれば良いのか分からないし、どの情報が正しくどの情報が違うと判断する能力は、我々には無いかもしれない。
しかし世の終わりにはそのようになる事が、予め主によって示されており、主が真っ先に気をつけるべき事として言われたのは「人に惑わされないように気をつけなさい」(マタイ24:3-4)である。
何が最善であるかを知っておられるお方はイエスであり、決して変わる事の無い真理が、御言葉である。

世の終わりまで守られる者とは、主の言葉を忍耐して守り、イエス様の名を知らないとは言わない者である。
この時代、主の御言葉をよくよく注意して留まり、全世界にきているこの試練の時、守られる皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:真の隣人(ルカ10:25-37)
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「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。」(ルカ10:30)

この度、日本列島は、非常に強悪な追いはぎに襲われた。
ある者はこの災いを見て、聖書のあの箇所の成就だ、終末が近づいた、と、短絡的に聖書や神様の話をしたり、この国が普段から悪い事している罰だ、安全管理をきちんとしていないからこんな事になった等、あれこれ言うだけで何の助けもせず、放射能の穢れを受けたくないからと、安全な所へ逃げてしまう。。。
祭司やレビ人は律法を体現する者達で、穢れを受けてしまうと務めができない為、相当穢れには敏感であるが、律法は「善か悪か、聖か罪か」の区別を示すだけで、いのちを与える事はできない。
故に彼らは罪人や傷を負った者に、あれこれ言ったり分析はしても、実際的には何の助けも出来ないのだ。

律法の専門家は、「何をしたら永遠のいのちを受け継ぐ事ができるでしょうか」と主イエス様に問うた。
永遠のいのちを受け継ぐには、全てを尽くして神である主を愛する事、そして隣人を愛する事である。(27)
彼は再びイエスに問うた。「では、隣人とは、一体誰か??」

「あるサマリア人の旅人が彼のところにやって来たが、彼のあり様を見て断腸の想いに駆られた。」(33節)
この、断腸の思いに駆られて実際の助けをしたサマリアの旅人だけが、追いはぎに襲われた者の隣人となった。サマリヤの旅人が隣人である事は分かったが、彼は具体的にどのような者か。
彼はまず、オリーブ油(聖霊)と葡萄酒(イエスの血)を、彼の傷に注いだ。
その傷に包帯(裸を覆う毛皮)を施してやり、また彼を自分の家畜(ろば:イエスの乗り物)に乗せて、宿屋(安全な場所:教会)に連れて行って、その介抱をした。
そして翌日、デナリオン(贖いの代価)2枚を取り出して宿屋の主人に渡し、介抱に必要な費用を払い(教会への必要の満たし)、出費がかさんだらさらに支払う約束までしてくれた。
このやり方、このご性質、見覚えはないだろうか? 明らかに、私達の主イエス様である!
永遠の命を得るには、全てを尽くして神を愛する事、そして、この真の隣人なるイエス様を愛する事である。

なぜ主イエス様は、罪に穢れ見下されている民「サマリヤ人」として来られたのか?
私達は例えサマリヤ人のように罪穢れ見下されていても、イエス様のご性質を帯びる事ができるという事だ。
まことの隣人・イエス様に「隣人としてのもてなし」をして頂いた者は、心から彼を愛し、彼を愛した者はサマリヤ人のようにイエス様のご性質を帯び、心から隣人を愛する事が出来るようになるのである。
そうなると、祭司やレビ人のように避けて通って行きたい気持ちをいちいち押し殺したり、雀の涙ほどの愛をいちいち振り絞らなくとも、追いはぎに襲われて身動き出来ない者を見てしまえば、主イエス様のように腸のちぎれる思いとなって、穢れも厭わず駆け出してしまうのである。

地震という追いはぎによって親兄弟、財産、ふるさとまで奪われ、傷を負ってしまった全ての日本人の、真の隣人となれるのは、主イエスだけであり、彼のみが追いはぎの親分「サタン」に勝利したお方である。
私達はそのままでは、隣人になる事は出来ず、祭司やレビ人のようにあれこれ言うだけである。
しかしイエス様に聖霊と血によって傷を洗われ、罪が覆われ、主の乗り物に乗せられ、教会で介抱され、贖いの代金を支払われるなら、私達も真に傷ついた者の隣人となる事が出来るようになる。
そして信じて主の権威を帯びた者は、へびをつかみ、毒を受けても決して害を受けず、病人に手を置けば癒される、という保障がある。(マルコ16:18)そうして真に日本のために、良い働きができるのである。

イエス様にあって整えられ、地震という追いはぎに遭った人の隣人となり、主イエス様を日本の至る所で表現する皆さんでありますように。
まことの隣人・イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:日本のプリム祭となるように(エステル記、1テモテ2:1-8)

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今年は本日3/20がプリムの日、すなわちユダヤ民族が滅亡の危機から開放されたお祝いの日である。

エステルは捕囚先ペルシヤに住む、姿形の美しい従順な女性であり、ペルシャ王アハシュエロスに従順でなかったかつての王妃ワシュティに代わって王妃となった。(エステル2:17)
ある日、ユダヤ人に絶滅の危機が訪れる。
エステルのいとこモルデカイが、ハマンにひざまずかなかったため彼の怒りを買い、モルデカイだけでは飽き足らずユダヤ民族全員をも滅ぼそうという企てに王の印が押され、法として定められてしまった。
そのユダヤ人が殺されるべく日はハマンが「プル」と呼ばれるくじによって決め、その日がプリムの日である。
モルデカイが頑固なまでにハマンにひざまずかなかったのは、ハマンがキシュの子サウルの敵であったアマレク人の王アガグの子孫であったから、と思われている。
しかし結果、思いもよらない悪い事態に発展してしまい、ユダヤ人の間に大きな嘆きが起こった。

モルデカイは同胞達にリンチされてもおかしくない状況である。
ユダヤ人達は、言ってみれば自分を危機に陥れたようなモルデカイを糾弾する事はせず、また、高貴で安全な立場にいる王妃エステルの提案を怒って蹴る事もせず、ただモルデカイの提案に従い、3日間の断食をする事にした。
神はユダヤ人たちの祈りを聞いてくださり、その日はユダヤ人にとっての滅びの日とはならず、逆に彼らの敵を滅ぼす日となり、彼らにとって誉高き日となり、プリム祭の起源となった次第である。

ここではエステルやモルデカイにスポットライトが当たりがちだが、怒ったりせず清い手を挙げて祈ったユダヤ人一人一人こそ重要であり、祈りに応えた神こそが主人公である。
それと同様、今日本において救援活動している特定の働き人だけが重要なのではなく、聖徒達一人一人が手を挙げて祈って神に求める事も重要である。

今、日本のメディアでは様々な怒号が飛び交い、国中の論客達は、やれトップ対処が間違っていた、何であの時ああしなかったのか等と叫んでいる。
そんな中で聖徒達が為すべきは、1テモテ2:1-8に集約される。
1節「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげ、王たちやすべての高官のためにもささげ」るなら、平和で尊厳に満ちた、品位ある生活が御言葉によって約束されている。
クリスチャンの中においても、社会情勢や上に立てられた権威に否定的意見があるが、それこそ善悪判断の路線であり、いのちから遠ざかる路線である。
復旧活動に当たっている働き人達の献身的・命がけの働きのお陰で、現在、状況は良くなりつつある。
このユダヤにおけるプリムの日も、日本におけるプリムの日として祝えるよう、私達も祈りたい。

今、実際的な助けを必要としている人達に、一刻も早く助けが備えられるように。
上に立てられている権威に良き知恵が与えられ、正しい判断によって混乱なく指示を出しますように。
今、被災地で救助活動しておられる働き人達の手が守られ、滞りなく進められますように。
分子の陽子・電子・中性子に至るまで、全宇宙の運行を全て支配し管理しておられる主・イエスの名によって、原発や地下プレートが、この国の人々に害する事を禁じます。
今、人を脅かしているあらゆる自然の活動に対し、地の深みから山々の頂に至る全地を統べ治めておられる主イエスの名によって、これ以上この国に害を及ぼす事を、禁じます。
人々を害為そうとしている邪悪な人的・霊的な存在には、自ら掘った墓穴に入るよう呪います。

陽子・電子・中性子から全宇宙の運行に至るまで、全て支配し管理しておられる、主イエスの名によって、日本を祝福します。アーメン。

第1礼拝音声(林パスター):執り成す者(創世記18:16-38):右クリックで保存

第1礼拝メッセージ概要

ソドムとゴモラの町は実に暴虐に満ち、多くの人達の叫びが天に届いていた。
そのため神の使い達は、実際にその通りか確認した上で滅ぼすつもりでいたが、その事を「アブラハムに隠す必要があろうか」と言って、ご自身が為そうとしておられる事をアブラハムに隠さず打ち明けた。
アブラハムは御使い達を相手に、ソドムとゴモラに執り成し、6度も交渉し、例え10人しか救われるべき義人がいないとしても、町を滅ぼされない事を約束させるに漕ぎ着けた。

日本もバブルが弾けて以来、特に若者達の叫び声が天に上がっている。
先般起きた地震という災害は、確かにこの国に対する警告の意味もあるだろう。
しかし私達聖徒達は、この状況をただ指を咥えている訳にはいかないし、「災いだ、罰だ、終末だ」とニュースキャスター的に叫ぶだけではならない。
皆一人一人がアブラハムのように、神の祭司として、聖なる国民として、神に、この国の悲惨な状況を、取り成しを訴えるべきである。
私達の主は「人間どもは汚らわしい。だからから滅ぼせ」という短絡的な神ではなく、聖徒達にまず聞き、その上で聖徒達の執り成す祈りに耳を傾けて下さるお方である。

アブラハムの訴えにもかかわらず、その町で唯一善良だったロトの家族だけが、滅びから免れるよう御使いの手引きで導かれたが、それ以外の人達は、実に邪悪だったため、結局滅ぼされる事となってしまった。

それでもアブラハムは最初、恐る恐る50人を訴え、そ次に45人、40人、、、最後に10人となるまで交渉し、神様は取り成しに応えて下さった。
神様は、そいうお方である!

今、東北地方が大変な状況である。
この時、寒くひもじい、恐怖の中で救出を待っている人のために、余震が続き2次災害や被爆の恐れのある中、救出作業に従事している方のために、一人でも多くがいのちが救われるように祈るべきである。
友人知人がいるならなおさら、そうでなくても、そこにいる人達のために取り成し祈りたい。
 

第2礼拝音声(鄭牧師):勝利をさせて下さる神様(イザヤ3:1-8):右クリックで保存

 

礼拝説教メッセージ音声:

第一礼拝(日本語): 御言葉はそのままに(黙示録22:18,19):右クリックで保存

第二礼拝(韓国語通訳つき)メッセージ:右クリックで保存

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9x9は、81である。
九九は算数の基本中の基本で、小学2年で学び、その時は訳も分からず覚え込ませられるが、大学に行っても、社会に出ても、計算の際には必ず必要になってくる。
当然のごとく、誰も9x9を20とは主張しないし、81以外の例外を証明できた者はいない。
算数や数学の答えは単純明快、世界共通であり、私情を挟む余地が無いものである。

主イエスは、算数という「ことば」を創られたお方であり、主の御言葉の一点一画が落ちるよりは、算数や物理法則を含めた全宇宙の理(ことわり)が滅びる方が、はるかにたやすい。(ルカ16:17)
にもかかわらず、人は御言葉において、「私の9x9は11だ」とか「今日の気分は9x9=1だ」とか、「みんな一人一人、個性的な解釈があって良いんじゃないか」といったような事を、なぜか仕出かす。
9円の商品が9個欲しいなら、きっちり81円出さなくては、お店の人は商品を出さないし、「私の9x9は11だ」と主張しても、商品はもらえない。
それと同様、人の救いの贖い代は値高く、きっちり支払えるのは御子イエスのみである。(詩篇49)

聖書は算数よりも確かな法則で、「こうすればこうなる」の宝庫であり、蓄えれば蓄えるほど生きる上で必要な知恵に満たされ、信じれば信じるほど豊かになる。
収穫物の初物を捧げれば、主はきっちりと、倉に穀物を満たし搾り場に新しい酒を溢れさせてくださる(箴言3:9,10)し、イエスを信じれば、あなたもあなたの家族も救われる(使徒16:31)と書いてある。
倉が満たされないのは、主に捧げていないからであり、あなたもあなたの家族も救われないのは、肝心の「イエスを信じる」事をおろそかにしているからではなかろうか。

「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」(ヨハネ1:4)
御言葉は人を照らす光であり、人がどのような状態であるかを明るみに出す。

人は体重計に乗って、指し示す数字を見て「ひどい」と言う事は出来ない。
その目盛りが重すぎるのならダイエットすべきであり、それが軽すぎるなら、きちんと栄養を取るべきである。
「体重計は私の心を傷つけてばかりいるから、体重計の方が間違っている。」とか、「体重計が今100を示しているけれど、実はこれこれの意味があって、その場合は50と解釈すれば良いのだ」などと余計な解釈を付け足したりしていたら、いつまでも不健康のままである。
人は、そのような解釈による付け足しを、御言葉において、なぜか仕出かす。

御言葉が人を量る時、人の罪の本性を指し示す。それを希釈してはならないし、付け足してもならない。
罪から救い出せるお方はイエスキリストお一人であり、例え罪が緋のように赤くとも雪のように白くされる。
「この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。」(黙示録22:18,19)
エバはサタンにそそのかされた時、善悪の実に「触れてもいけない」と、御言葉に勝手な解釈を付け加えたが、それはパリサイ派の種であり、偽りへ踏み出す第一歩である。
御言葉に対しての正しい対処は、御言葉は足し引きせず、そのままいただく事である。
御言葉は一人一人に対する愛の込められた手紙であり、信仰をもってそのままいただくなら、キリストの香りが春の花の香りのように心と霊、体に充満し、愛と嬉しさによって満たされるのである。

もっとも強力な祈りは、御言葉をそのまま祈る祈りであり、難しい事は考えずいつでもどこでもシンプルに
「イエスよ助けて下さい」と祈るなら、イエス(イエシュア=「神は救い」)は救いを与えて下さる。
御言葉ご自身であるキリストを豊かに住まわせる皆さんでありますように。イエスの名によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

礼拝説教メッセージ音声:言葉の種類と力(ヨハネ1:1−14):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要

人は言葉という種を入れる袋のようなもので、どの言葉によって満たすかで人格が決まり、どの種を自分の人生や環境に対して蒔くかによって、どんな実を刈り取るかが決まる。
神は言葉であり、世は言葉によって成り立ったと書かれてある程重要なのに、人はあまりに意識していない。
言葉の大切さを示すためにキリストは肉体という幕屋を張って、直接地上に来られたが、人はその大切な言葉を受け入れなかった程、思いが眩まされていた。(ヨハネ1章)
今日は、その眩まされている原因を突き止め、目のうろこを取って行きたい。

言葉には、3つの種類がある。
すなわち人間から出てくる「人の言葉」、サタンから出てくる「世の言葉」、そして神から出てくる「御言葉」。

「人の言葉」は生まれながらの人間から来る言葉で、喜怒哀楽があり、相手が好きであれば良い感情を込め、嫌いであれば嫌な感情を込めてぶつけるが、保障が無く、永遠の視点から見れば何も生み出さない。
イエス様の代表的な弟子であるヨハネの子シモンは、イエス様に死ぬまでご一緒すると力を込めて言ったが、それを言った夜が明けない内に3度、力を込めてイエスを知らないと言った。
後に「あなたは私を愛しますか」と3度聞かれた時、自分には完全な愛は無いと告白するしか無かった。
人の言葉には保障は無く、永遠の視点から見れば何も生み出さないのである。

「世の言葉」とは何であろうか。それは世代に流行っている風潮、時代の空気から流れてくるぼんやりとしたイメージであり、それは空中の権力を持つ支配者(エペソ2:2)すなわち、サタンから由来する。
この言葉には力があり、不安や絶望といったサタンの悪しき思いが込められている。
人の心がそれに付着すると、いのちから遠ざけられ、死、滅びへと導かれる。
「世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは御父から出ないで世から出るからです。」(1ヨハネ2:16)
その仕向けてくる言葉は、目にはカッコ良く、情欲をそそり、より良く安定した生活へと向かうかのように惹き付けるが、その実、いのちからより遠く遠く離れさせようとして欺く。
マイケル・ジャクソンはそれらを収めたかのように見えたが、逆にそれらに支配され、縛られ、犠牲となった。
クールでワルでセクシーな「良さ」は、本来のいのちから離れた所にあり、追求し過ぎると破滅をもたらす。

愛する妻子を、都心の高層のマンションに住ませ、無菌パックに入った食物や、最先端のデバイスを与え、恥ずかしくないブランドを身につけさせるために、夫婦揃って残業漬けになる生活は、健康的だろうか。
子供や妻に、モノしか与えていなければ、時間が経てば「何もしてくれなかった」という思いしか残らないが、信頼や希望、愛情はいつまでも残り、その思い出は時が経てば経つほど麗しくなっていくものである。

唯一有益な言葉が、「神の言葉」である。
それは一見、魅力的には写らず、地味で、忍耐が必要な事もあるが、力と保障があり、ふんだんに愛が込められ、そこに留まればいのちを豊かに生み出し、無から有を生み出す。
時には痛い事もあるが、その痛みは滅びに至るものではなく、余計な所に力を使わせないためであり、後にはいのちと有益をもたらす。(ヨハネ15章)
雨が降ると必ず地を潤し、実を結ばせ、空しく戻らないように、信仰を持って聞くと必ず良い実を結ばせる。
神様の言葉は、元来備わっているいのちが成長し、元来持っている美しさが豊かになって行く。

神の子なら神の子らしく、信仰の篭った御言葉である「いのち」を振り蒔き、いのちを刈り取るべきである。
神は世に向かって「なれ」と言って、その通り成った。
私達は神の子であるので、信仰を持って「なれ」と命じる事ができる。
御言葉をたっぷり蓄え、至る所、あらゆる機会で御言葉の種を蒔き、その唇の実であるいのちをたっぷり刈り取る皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

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