メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ
礼拝説教メッセージ音声:ペンテコステとは(使徒2:1-36)
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ペンテコステとは、イエス様の復活後50日目(ユダヤの祭りでは五旬祭または七週祭という収穫祭)に、イエス様の約束どおり、弟子達に聖霊が目に見えるしるしとして降り、力に満たされた日である。
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」
聖霊充満の動機 - 神の栄光を現すため
彼らが自分とは異なる国々の言葉で語った内容は、「神の大きな御技」である。(使徒2:11)
聖霊充満を求める者は多いが、その動機は自分の栄光や自分の活躍のためではなく、主のためであるべきで、まことの言葉である主イエスキリストをのべ伝えるために言葉の壁を越える徴が与えられたのである。
事実、大いなるしるしに驚いて集まった者達に語ったペテロの説教は、大いなるしるしについてよりも、むしろナザレ人イエスについて、時間を割いて丁寧にメッセージしている。(使徒2:14〜36)
聖霊充満の特徴 - 舌が替えられる
彼は以前、とんちんかんな事言ったり、舌の渇かぬ内に裏切ったりと、舌による過ちをよく犯し、神のことがらを思わず人間のことがらを思っている、と、主からサタン呼ばわりされた事さえあった(マタイ16:23)
生来の舌は「不義の世界」であり、自分を汚す火であり自らも地獄の火によって燃やされる。(ヤコブ3:5,6)
しかし、彼が聖なる炎の舌に触れられ、聖霊に満たされてからは、人間のことではなく主イエスキリストのことをもっぱら伝える者となり、別人と思えるほど大胆な説教者として造り変えられた。
私達はそのままでは汚れた唇の者であり、聖なる神の御前に立てず、神にとって有用ではなく有害である。
イザヤは祭壇からの炭火を唇にあてがわれ、人間のことがらは全て聖なる火によって焼き清めていただいてから、はじめて神に遣わされる者、神の言葉を伝える者となる事が出来るのだ。(イザヤ6:1-8)
ペンテコステの逆現象 - 混乱:神ではなく人間が高くなる事
ペンテコステでは言葉の壁を破る奇跡が現れたが、そもそも言葉の混乱という呪いの原因は、人間がひとつの言葉の元で天まで届く塔を建て、人間が高く上がろうとした事が大元である。(創世記11:1-9)
バベルの町のトップに君臨していたのは、地上で最初の権力者でもあるニムロデ(反逆者という意味)で、「頂が天に届く塔を建て、名を上げよう」(創世記11:4)という性質は、「私は天に昇ろう、いと高き方のようになろう」(イザヤ14:13)という究極の反逆者・サタンの性質である。
ペテロは主から「あなたは神のことがらを思わず人間のことがらを思っている」と、サタン呼ばわりされたが、主イエス様を脇に寄せ、自分を上にあげて主張する動機こそ、サタン由来であり、人間が高く上げられて神のようになる事による事の成果物は、混乱と離散、滅びである事は、歴史が証明する所である。
聖霊に満たされ、主に有用な者となるには
聖霊に満たされるコツは、第一に、主イエスの御名の元に一つになっている事(使徒2:1)であり、ユダのように、自分勝手に一匹狼で行動してイエスの名の集まりから離れる者には、滅びが待っている。
「主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。(使徒2:20,21)
被造物の光は陰り、人の栄光は廃って行くが、まことの光であるイエス様の名を呼ぶ者は、決して闇の中を歩む事は無く、いのちの光を持っている。
主の集まりに集い、聖なる火によって人間のことがらと汚れた唇を焼き清めていただいたなら、初めてイザヤのように「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」と主に申し出る事が出来、そして御言葉を伝えるために、主の導きに従って遣わされて行くのである。
主にとって有用な者となり、御霊に満たされ、力強く遣わされて行く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:神の憐れみの説明責任(ヨナ書3,4章)
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魚の腹から3日目に生還したヨナに再び神から「わたしがお前に語る言葉を告げよ。」という召命があった。
ヨナはすぐに行って「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」と説教をした。(3:4)
ところがニネベの人々は、意外にも、ただその説教によって悔い改め、王から家畜に至るまで断食し、粗布をまとって悪から離れようと努力したため、神は思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。
もしかしたら、ヨナが当初逆らった事によって大いなる事が起こり、そのために船に乗っていたあらゆる種族の人達が主の名ととヨナの名を轟かせ、それによってニネベは大いに恐れ悔い改めたのかもしれない。
外れる預言がある。それは、ただ「滅びる」だけを言う預言で、預言を受けた者がそれで悔い改めた場合だ。
ヨナは、ニネベが自分の預言によって悔い改めた事、主が恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方である事を、なんと、不服に思って、死んだほうがましだ、命を取って下さいとまで言った。
ヨナはニネベが滅びるのを期待して、遠くに仮小屋を作り、何が起きるか眺めていたが、神はヨナの命を取るのではなく、彼を自身の怒りから救うため、一本のとうごまの木に命じて彼の日陰になるように生えさせた。
ヨナはそれを非常に喜んだが、神は翌日、虫に命じてとうごまの木を枯れさせ、神はさらに焼けつくような東風に吹きつけるよう命じ、太陽もヨナの頭上に照りつけたので、ヨナは怒り、死ぬことを願った。
神はヨナに、おまえが労することも育てることも無く一夜にして生じ滅びたとうごまの木を惜しむなら、どうしてわたしは十二万人以上の右も左も分からぬ人と家畜のいるニネベを惜しまずにいられるだろう、と諭した。
なぜヨナが、これほどまでニネベが悔い改めて救われるのを嫌がったのかには、理由がある。
ヨナはヤロブアム2世の時代(B.C.793〜753年)に北イスラエル王国で活躍したと思われる(第二列王14:25)が、その時代のニネベとは、イスラエルに敵対する不道徳で強力な国・アッシリヤ帝国の首都であり、もしニネベのために助けるなら、母国イスラエルに滅びを招く手伝いをする事である。
ヤロブアム2世は悪い王だったにもかかわらず、ヨナに与えられた預言どおりイスラエルは領土回復した。
なぜ神は悪い王を助けたのかというと、その時のイスラエルの苦しみが非常に激しい事を憐れまれ、イスラエルが助かるための猶予を与えられた(第二列王14:23-27)からだが、イスラエルは悔い改めず、遂に30年後のB.C.723年に北イスラエル王国はアッシリヤによって滅ぼされてしまった。
もしあの時ヨナが遣わされて説教さえしていなければ、アッシリヤはそのまま神の怒りによって滅び、ひいてはイスラエルが滅びずに済んだであろうに、と思うだろうか?そんな事は無い!
神は「恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いを下そうとしても思い直される方」だ。(4:2)
悔い改めない選びの民ではなく、悔い改める異邦の民のほうを神は助け、選びの民がどうしても悔い改めないのなら、悔い改めた異邦の民を用いてでも、裁きを遂行しなくてはならない義なるお方だ。
ニネベがいかに堕落し邪悪であっても、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と無数の家畜を憐れまれたのなら、神は、選びの民イスラエルをどれほど愛され、悔い改める事をどれほど望んでおられただろう。
ヨナはうめいたが、愛と憐れみに満ちた神は、もっと葛藤し、さらにうめいておられたのではなかろうか。
その神は、1億2千万の右も左もわきまえぬ日本人や無数の家畜達を、どうして憐れまない事があるだろう。
我々は日本という国を愛するにしても嫌でたまらないとしても、御言葉を伝え、悔い改めを促すべきである。
あの邪悪な町ニネベが、単純な説教によって悔い改めたように、日本も意外に悔い改めるかも分からない。
もし嫌だからといって憐れみのチャンスを伝える事から逃げるなら、嵐に遭い、魚が口を開けて待っている。
国が滅びるのを期待して、遠くに仮小屋を作って眺めているなら、神はその者のとうごまを枯らし、焼けつく東風と太陽を送られ、死ぬほどの怒りに、のたうち回る事になる。
ヘブライ語の名「ヨナ」には鳩という意味があり、鳩といえばノアに裁きの終了と平和を伝えた鳥である。
主の平和を告げ知らせる使者として用いられる皆さんでありますように。イエスの名によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:破れ口に立つ者(ヨナ書1,2章)
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ニネベは邪悪な町で、その悪が神の御許に達したために滅びの危機が訪れた。
日本も滅びの危機に瀕しているが、偶然の連続によって、大規模爆発や放射能拡散から守られている。
神様は邪悪な町ニネベさえも憐れまれたように、日本も憐れまれ、ニネベに対して御言葉を伝える者・ヨナを整えたように、日本にも取り成す者、御言葉を伝える者を整え、導いておられるのだ。
ヨナは他の預言者に比べると、神様への文句と痛い目に満ちた出来の悪い預言者のように見えるが、為された事だけ着目すると、船に同乗した者全員をまことの神に立ち返らせ、巨大な魚に飲まれ3日3晩海の中にいたのに生還し、歩いて3日もかかる大きな町ニネベを悔い改めへと導くなど、多くの実績を残した。
私達もできの悪い預言者のようかもしれないが、神は憐れみ深く、私達を整え、失敗さえも用い下さる。
ヨナは主の命令を受けた時、まず逃げた。人々に埋もれ、船に乗り込み、主の示しとは逆方向へと向った。
その船が沈みそうになった時、他の皆は自分の神に祈ったり荷物を捨てて働いているというのに、彼はぐっすり眠り込み、まことの神の預言者のくせに、異教の民の船長から「寝てないで神に祈れ」と叱られた。
人々は彼に詰め寄って、「さあ、話してくれ。この災難が我々にふりかかったのは、誰のせいか。あなたは何の仕事で行くのか。どこから来たのか。国はどこで、どの民族の出身なのか」と言った。(ヨナ1:8)
神は災いを通じ、強制的に私達に思い出させる。私達は何の仕事をしている者か。どこの民族出身なのか。
私達の仕事は神の祭司であり、天の国籍を持つ者、神の民族出身である。
神が何を望んでおられるのか知りつつ敢えて無視し、人の中に紛れ込み、祈る事を止めていないだろうか。
まことの神の言葉を伝える者なのに眠っていないだろうか。
ヨナは人々から問いただされ、自分は「海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ」と告白し、人々は聞いて非常に恐れ「なんでそんな事をしたのか」と言った。
私達も神から与えられた役割をおろそかにしていると、乗る船は嵐に遭い、荷物は捨てる羽目に遭い、ヨナのように海に投げられ、魚に飲み込まれ、それを見ていた周りの者達は畏れて神に立ち返るのだ。
人々はヨナを恐れ、特別扱いし、何とか救おうとしたが、ヨナは自分を海に投げ込むように言った。
主から過ちを指摘されたなら、人々に荒海の中を岸まで漕いで生かしてもらう事を願うのではなく、御心から離れている自分の自我を十字架の死へと明け渡す宣言をし、3日目の復活に委ねるべきである。
ヨナが海に投げ込まれた時、風は止んで海は大凪になったが、主が見腕を動かされたのはそればかりでなく 巨大な魚、とうごまの木、虫、東風をも動かしてまでヨナを整え、同時に御心を遂げられた。
ヨナ書を読むと、神様とヨナの一対一の対話のように読み進められるが、ヨナの周りの者の視点に立って読んでみると、ヨナを中心に彼の周りの世界が、彼の言動によって振り回されている事が分かる。
私達は神の僕である故に、神は、自然界を振り回すほどに、厳粛に私達を特別扱いしておられるのだ。
もし私達が整えられ、執り成して祈るとしたら、主はどれほど御心を動かすだろうか。
ヨナは人々から捨てられ、海に投げ込まれ、魚に飲み込まれ、山々の根元まで下った。
その絶望のどん底、助かる見込みの無い静寂の暗闇から、ヨナは主に祈り、主と一対一で深く交わった。
どんなに御旨から逸れて堕落し、底の底まで下っても、主はそこにおられ、祈りを聞いて下さる。
初めから平伏して御声に従っていれば、こんな大事にはならなかったはずだが、そういう者は、自分の好き勝手を捨てる「十字架の経験」と、全能者の前にいのちを横たえる「3日3晩の死」を通される。
その向こうには復活が待っており、余計なものは削ぎ落とされ、主の働きが出来るよう整えられるのである。
ヨナはそうしてニネベを救うための使者として整えられていった。
日本は今、憐れみが注がれており、この国のために執り成し、忠実に御心を行う者を主は望んでおられる。
主がニネベへの40日のカウントダウンを開始されたのは、ヨナが十分整えられてからである。
主は日本を執り成す為に破れ口に立つ者(エゼ22:24-31)が整えられる日を、一日も早く待っておられる。
文句と苦難だらけのヨナをも整えら用いられた主が、皆さんをも整え、この国のために執り成し、御言葉を伝え、いのちを救うために、大いに用いられますように。
礼拝説教メッセージ音声:イエスの名によって(使徒3:1-10)
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我々は祈る時、「イエス様のお名前によって祈ります。アーメン」と締めくくる。
なぜか。それは、イエス様の名前によらない祈りは、日本銀行券と書いていない万札は使えないように、権威の裏づけが無いからだ。
万札という紙が価値を持つのは、日本銀行という権威ある機関が、これには価値がありますよ、というハンコを押しているからで、それが無ければ、ただのキレイな模様が書いてある紙切れに過ぎない。
和紙にどんな綺麗な模様や偉大な人物像を描いて、精巧なすかしを入れて、千万円とか壱億万円とか、桁を大きくしてみせても、日本銀行のハンコがなければ「ニセ札」であり、そんなものを使えば逮捕されるのと同様、祈りに「イエス様の名前」が無ければ、どんなに一晩中祈っても、体を傷つけても、夕暮れまで踊っても、そんなものは「ニセ祈り」であり、神の御前に差し出せば、罰を免れない。(1列王記18:21-40)
教会に何年通っても、イエスの名によって祈るのを忘れてしまう人がいるが、それには理由がある。
それは、イエス様の名前がホンモノで、この世でも来る世でも力があり、真に人を救うものであるのだが、そのホンモノを妬んで反逆した奴・サタンがいて、そいつらがホンモノを隠そうと、常に見張っているからだ。
ただの紙であるはずの札束も、手に入れるために裏切ったり、殺したりするのは、そこに価値があるからだ。
ホンモノであるイエス様の名は、どれほど妬まれるものだろう。
ホンモノを隠す奴が頭に入り込んでくるのは、つけ込まれる土壌があるからで、不平不満や怒り、つぶやきは奴らが付け入る格好の土壌となる。
このイエスの名に、いかに力があるか。使徒3:1-10を見てみたい。
ペテロとヨハネが神殿の門に入ろうとすると、生まれつき足が利かない物乞いに施しを求められた。
彼は40歳を越えており、施しは頂いていても門の向こう側に入って礼拝する事は許されていなかった。
二人はその人をじっと見た所、二人はきっと感じ取ったのであろう。その人が切実に礼拝する事を求めており、イエスを知っており、イエスは癒して下さるお方であると信じている事を、恐らく感じ取ったのだろう。
ペトロは「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と言って手を取って彼を立ち上がらせると、自分の足で立ち上がった。
イエスこそ救ってくださるお方だと信じる者には、仰々しい祈り文句も多くのパフォーマンスもいらず、イエスの名によって瞬時に束縛から解放されるのである。
当時はイエス様の名前を使ったら逮捕されてしまうご時世で、ペテロ達はイエス様の名前を使ったかどで逮捕され、祭司長や議員達、法律家などの偉い人達に尋問されたが、ペテロは聖霊に満たされて言った。
「この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。
この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。
ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒4:10-12)
40年足が不自由だった人が癒されたのも、ペテロ達が大胆に告白できたのも、イエス様の名前による。
私達は世の中で色々なものを土台とし、救いを求めるが、唯一土台となり得て救われるのはイエス様のみ。
その土台石は捨てられたが、このお方以外に救われるべき名は、他には無い。
「あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。」(コロサイ3:17)
主は私達に、イエス様の名前によって「祈ります」「求めます」「祝福します」「悪い者は出け」と、イエス様から与えられた御名の権威を大胆に行使する事を望んでおられる。
なぜなら、この世は主に贖われた者達が支配するよう創られているからである。(創1:28,ロマ8:19-22)
主から与えられた大いなる御名の権威を大胆に行使し、分捕り、立ち取る皆さんでありますように。
礼拝説教メッセージ音声:鶏の鳴く時(ルカ22:31-34)
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「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは「立ち直ったら(エピストレフォー:向き直る、転向する)」、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:31,32)
人が力を込めて言う言葉は、自身の弱さの前に何の保証も無く、死の覚悟も、サタンの前には無力である。
しかし大祭司なるイエス様は、私達が裏切る前から、いや、私達が「あなたを裏切りません」と力を込めて言う以前から、既に、私達が裏切った後も信仰が無くならないよう、あらかじめ取り成して祈っておられた。
するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。
イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」(ルカ22:33,34)
イエス様のために牢に入ったり死んだりする程に、ついて行くなら、イエス様に認められるのだろうか?
結局、12弟子の全てがイエス様を裏切ったのだが、その中で唯一、死して主にお詫び申した者がいた。
日本人の価値観では彼を潔い、立派だと思うかもしれない。しかし、滅びに下ったのは彼一人だけ、他の生き恥を晒した11人は、後に聖霊を受け、主のために大胆に造り変えられた。
滅んだ一人と、造り変えられた11人との違いは、主イエス様の集まりを止めたか、止めなかったかである。
人間的な美学に勝手に従って一匹狼で行動し、イエス様の名の下から離れる事は、滅びに至る道である。
例え生き恥を晒しても、主の名の集まりから決して離れない者こそ、聖霊によって造り変えられる者である。
信仰生活は、イエス様のために死ぬ覚悟を決める所から始まるのではなく、私達がまだ罪人であった時から既に私達を愛し、私達の罪のために死んで下さったイエス様の愛に気付く所から始まるのであり(1ヨハネ4:10)、自分には主に従い尽くす愛も力も信仰も無い、と、徹底的に示されるような最も暗闇の時、すなわち「鶏の鳴く時」が原点である。
イエス様は復活の後、ペテロ達が一晩中漁をしても魚一匹さえ取れない日の明け方に現われ、たった一言のアドバイスによって、人の経験や知識を遥かに越える結果を示し、生活に必要なものを溢れるばかりに与えただけでなく、暖かい炭火を熾してパンと魚を焼き、香ばしいかおりを漂わせつつ待っておられた。
主はこのように、お腹を満たし、肉的な必要を満たし、心をほぐして下さる。(ヨハネ21章)
イエス様はペテロに3度「あなたは私を愛しているか?」と聞いたが、ペテロは「あなたは私に完全な愛は無い事を知っておられます」と、イエス様に「知っていただく」しか無かった。
信仰が若ければ若い程、情熱と血気によって自分のやりたい事をし、自分の望む所へ行くが、人はイエス様に従い尽す事が出来ない事を思い知る「鶏の鳴く時」が来る。
そこを通った者は、自分のわざを終えて安息し(ヘブル4:10)、信仰が成熟すればするほど、自分は単に両手を広げるだけで、あとは主の導かれるまま、聖霊にうながされるままになって行くのである。
その数ヶ月後、ペテロは再びイエスの名のために大勢の前で尋問される時が来たが、その時彼は大胆にイエスを告白し、それを聞いた権力者達は何も答える事ができなかった。(使徒4:5-14)
この力の源は聖霊に満たされていたからであり(使徒4:8)、聖霊に満たされるコツは、主の集まりから離れない事である。
無学な普通の人である事は何の問題も無く、イエスと一緒にいた者(使徒4:13)である事が大切である。
全てを知っておられる主の前に、まな板の上の鯉となって全てを明け渡し、そして、新しいいのちを息吹いていただく「復活」に入ったなら、ペテロのように大胆に証できるのである。
私達が立つのは、私達の力や意地ではなく、私達のためにとりなし祈っておられるお方と共に十字架につけられ、共に死に、共に復活し、新しいいのちを息吹かれる故である。
主の憐れみと慈しみの中に育まれ、何度倒れても、イエスの名の下に立ち直る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって、祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:誰を夫とするか(ヨハネ4:3-42)
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ある女がサマリヤという町に住んでいた。
彼女は、自分の事をずっと変わらず愛し、いつでも守ってくれる男性と結婚さえすれば、自分の内側にある渇きを癒す事ができる、と、ささやかな夢を見つつ結婚した。
しかし結婚生活は彼女が夢見ていたようなものではなく、渇きはますますひどくなり、離婚する事となった。
すぐに別の男と結婚する事が出来たが、これまたうまく行かず、離婚する事となってしまった。
同じようにまた別の男と結婚し、うまく行かず離婚し、そうして5回も結婚と離婚を繰り返したものの、どの男も彼女のささやかな夢を満たす事は無く、6人目の男と同棲を始めた所であった。
人は、外見や自分の好みという計りによって物事を判断するなら、必ず失敗するものであり、また類は友を呼ぶもので、自分が失敗したのと似た境遇の者同士が惹かれ合ってしまう。
彼女は決して人前で堂々とできるような年月を過ごして来なかったため、人が出歩かないような昼の熱い時間を選んで、井戸まで行って水を汲み、汗しながら同棲相手のために運ぶ仕事が日課となってしまった。
人は、ささやかな夢を見る。「自分の事をずっと変わらず愛し、いつでも守ってくれる」者の存在を。
しかし、そんなささやかな夢さえ叶えてくれる人間は、実は地上にはいない。
人間関係とは都合が悪くなればすぐ壊れてしまうもので、そのはかない人間関係がひしめく世界の狭間で、ある者はそれを知らず奔放に出て行き取り返しの無い傷を負い、ある者は関係が壊れる事を恐れながら細々と生き、ある者は早々と諦め、関係を自分に有利な方向に利用し、騙し続けながら生きていく。
そもそも人の命には限りがあるため、ずっと愛し守る事は出来ないし、体はひとつしか無いため、四六時中いつでも付きっ切りで傍にいる事も不可能である。
サマリヤの女は期待する事に疲れ切り、心にますます渇きを覚えつつ日々を送っていた。
そんなある日、一人の男が彼女を待っていた。 毎日汗を流して往復していた、あの井戸の傍で。
その男こそ、今も生きておられる私達の救い主、イエスキリストである。
彼は、永遠の命へと至る水がわき出る「生ける水」を与えると言われたが、彼女は、もう井戸に汲みに来なくて良いように、すなわち、暑い思いや恥ずかしい思いをしないために、その水を求めた。(13-15節)
イエスの提供する水は、私達が罪の故に蒔いた実である苦々しい炎熱を、ほんの少し和らげるような程度のものではなく、炎熱の原因である罪を抜本から除き去り、愚かな判断の実である失敗さえも最善へと塗り替え、永遠のいのちへと導いて下さるお方である。
主イエスにある者は、男も女も皆等しく、イエスの「花嫁」であり、イエスは私達の夫である。(黙示録21章)
サマリヤの女は、7番目のまことの夫であるイエスを得、どんな人も叶える事の出来なかった彼女の夢を叶えられ、内側にあったどうしようもない空白を、テトリスのように気持ちよく合致して、渇きも消された。
以前の愚かな失敗も、むしろイエスを証するネタとして栄光の道具へと塗り替えられた。(28-30,39-42節)
私たちにも、彼によってしか潤されることの無い渇きがある。家庭や日常の職場、学校といった、私達の井戸のそばでイエスは待っておられ、そして、彼に潤して頂く事を、イエスは望んでおられる。
イエスを主とする者は、もはや不足は無くなり、再建して下さる主に愛され、喜びとされる者である。
「あなたは再び「捨てられた女」と呼ばれることなく/あなたの土地は再び「荒廃」と呼ばれることはない。あなたは「望まれるもの」と呼ばれ/あなたの土地は「夫を持つもの」と呼ばれる。主があなたを望まれ/あなたの土地は夫を得るからである。
若者がおとめをめとるように/あなたを再建される方があなたをめとり/花婿が花嫁を喜びとするように/あなたの神はあなたを喜びとされる。」(イザヤ62:4,5)
渇きが癒され、得るべきものを得、収まるべき所に収まったサマリヤの女のように、愛され、育まれ、建て直され、満たされる皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:神の立てた権威に逆らう者(民数記16章)
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現代のキリスト教界では、人々に取り入ろうと福音に混ぜ物をし、救いに通じる道はいろいろあるとか、どんな宗教でも信仰深く生活してれば神に通じる等、御言葉とは違う風潮を流すようになり、全ての宗教を一つにまとめようとする時代の流れを感じる。
主イエスは明確に、御言葉に付け加える者があれば、神は書いてある災いをその者に加えられ、また、取り去る者があれば、その者が受ける分を取り除かれる(黙示録22:18)と言われている。
かつてエジプトから約束の地に向かう途中にも、神の立てた指導者に逆らった者がいた。(民数記16章)
イツハルの子コラは幕屋の奉仕を受け持つレビ族であったが、その地位を不服としていた。
また、エリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンは、イスラエルの長子ルベンの子孫だったため、会衆の上に立っていたレビ族のモーセとアロンが面白くなかった。
彼らは会衆の上に立つ名士250人を仲間につけ、モーセに立ち向かった。
逆らう者の特徴としては、裏で動き回り、耳障りの良い言葉で有名人や権威ある者達を仲間につけ、神が立てた権威であるモーセと、神によって油注がれた大祭司アロンに反抗して立つ事である。
彼らの言い分は「あなたがたは分を越えている」「全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられる」(3節)であるが、現代でも似た言葉を良く聞く。
キリストだけが救いに至るなどと言うのは傲慢である、キリストだけが救い主などとは分を超えている、人間皆残らず尊い者であって、神の性質を備えている、救いは色々あるべきだ、等など。
しかし御言葉が示す所は、神が立てた救い主とはイエスキリストであり、唯一彼を通してのみ救いに至る事が出来る。この福音には決して付け足してはならず、差し引いてもならない。
彼らは一見、全民衆の公平な権利を主張しているため民衆の耳に良く、主だった者達250人が支持しているため見た目も正しく見え、それらをバックに集団心理を操作するだけの威力も十分にあった。(19節)
民衆にはコラ達に分があったように見えたかもしれないが、主の栄光が現れた時、神はモーセとアロンに「あなたがたはこの会衆から離れよ。わたしはこの者どもをたちどころに絶滅してしまう」(16:21)と言った。
私達はこのような反逆に対して、どのように対応すれば良いだろう。モーセの姿勢から学びたい。
まず、絶対的な権威者である主の前にひれ伏す事(4節,22節)であって、弁論や群集心理操作ではない。
権威にひれ伏す姿勢は一見弱く見えるが、これこそ主の御前には最も尊く、敵が最も嫌う姿勢である。
第2に、その権威者なる主に執り成す事である。執り成すのは、主に逆らう者達が救われるためではなく、会衆全体が巻き添えを食らって滅ぼされないようにするためである。(22節)
そして、反逆する者達から離れるように警告する事である。
主と主の立てられた権威に逆らったコラ達には、地が口を開いて彼らと彼らに属する者たちとを飲みこみ、彼らは生きながらよみに下るという、恐ろしい最後が訪れた。(32,33節)
それによってコラ達こそ神に反逆した者であり、モーセとアロンこそ神の御心に叶う者だと民衆は知った。
今、神の立てられた唯一の指導者であり大祭司であるイエスキリストに反抗し、民衆を真理から引き離そうと耳障りの良い言葉で惑わす者達には、断じて同調すべきではなく、むしろひれ伏し、取り成し、彼らから離れるよう注意を促し、彼らが普通でない死に方をすると宣言するべきである。
モーセとアロンの側に立っているか、コラの側に立っているかよくよく注意し、真実の側に立って祈り、はびこってきた偽預言者の偽りを暴いて光へと導く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:死からいのちへの名義変更(2コリント5:14−17)
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本日イースターはイエスキリストの復活を祝う日である。
なぜ今日のキリスト者は、そんな2000年前の出来事を祝うのだろうか。現代の私達と、どんな関係があるのだろうか。また、イエスは死と復活によって、私達に何をして下さったのだろうか。
私達は、生まれながらの状態にあっては自分の過ちと罪のために死んでおり、この世を支配する者サタンの支配下において過ちと罪を犯して歩み、神の怒りを受けるべき者だった。(エペソ2:1-3)
神の基準を満たす事は出来ず、むしろ罪の故の債務証書が私達を責め立てていた。
しかし私達の主は、復活の日、私達を訴える罪と言う債務証書を、流された血によって帳消しにし(コロサイ2:14)、努力しても決して届かなかった永遠の命という代金を、ご自分のいのちで払い済みにして下さった。
それは客観的事実であり、真理だが、その事は誰にも彼にも無条件に自動的に適用されるものではない。
その事を信じる事、すなわち「信仰」によって歴史上の人物イエスから、「私の主イエス」とする必要がある。
「信仰とは、望んでいる事がらを"確信"(ὑπόστασις フーポスタシス:実体、権利証書)し、まだ見ていない事実を"確認"(ἔλεγχος エレグコス:証拠、監査明細)する事である。」(ヘブル11:1)
即ち、「信仰とは、望んでいる事柄の権利証書であり、まだ見ていない事実の監査明細である。」
もし、この教会のビルの全所有権は天声教会のものである、という不動産権利証書があって、それを提示して主張するなら、ビル全フロアを教会にもできるし、監査証があるなら誰も文句を言う事はできない。
同様に、信仰があるなら御言葉に示されている莫大な権利の目録は私達のものとなるが、信仰がなければ、神に対して、永遠の命に対して、サタンに対して、何の権利を主張出来ない。
私達の所有はサタンからイエスへと、死からいのちへと名義変更された事を信じ、主張するべきである。
イエスのものに名義変更されたと信じた者には、どのような特典が与えられているだろうか。
「信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」(ヨハネ5:24)
「信じる者は決して渇くことがない。その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(7:38)
「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」(2コリント8:9)
「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」(1ペテロ2:9)
「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(ピリピ4:19)
また、信じる者には、次のような権威が与えられている。
「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ16:18,19)
「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。
手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」(マルコ16:17,18)
聖書は、にわかには信じられないほど絶大な権利が書かれてある証書である。
「すべては、あなたがたのものです。パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。」(1コリント3:21-23)
しかし、信じない者には、この栄えある領域には足一本も踏み入れることが出来ない。
主イエスの流された血によって名義変更され、共に復活した者として、大胆にこの莫大な権利を主張し、行使する皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:救いの置き所(マタイ21:6-11)
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本日4/17は、教会暦では「しゅろの聖日(パームサンデー)」にあたり、次週日曜日 のイースター(復活祭) 前日の土曜日までの1週間を「受難週(Passion Week)」 としている。
「しゅろの聖日」の名前の由来はイエス様がろばに乗ってエルサレムに入城された時、人々は各々の衣服や、しゅろの葉を置いて「ホサナ」と叫びつつ歓迎した事から呼ばれている。(マタイ21:6-11)
この日、群集は諸手を挙げてイエスを歓迎したのだが、その1週間後、彼らはこぞってイエスを「十字架につけろ」と叫び、つばをかけ、十字架を引き摺って歩くイエスを罵った。この落差は一体何だろうか??
ホサナ という言葉は、現代キリスト教では神を褒め称える礼典的な響きを持つ言葉となっているが、元々はヘブライ語で「ホシア・ナ」、これは「おお!救って下さい」という意味である。
群集の叫びの動機は、褒め称えるというより「救って下さい」のニュアンスが濃かったかもしれない。
人々はそれぞれの身勝手なメシヤ像を思い描き、ローマの支配から力強く救ってくれる者、パンをいつでも提供してくれる者、病気や悪霊を追い出してくれる者、といった幻想を、イエスに抱いていた。
人とは身勝手なもので、奇跡によってパンを増やしてくれると期待していたメシヤがパンをくれず、「わたしがまことのパンです」と言い出すと、皆去って行った。
清純派で売っていたアイドルが実は不純だったとスクープされるや、ファンが手の平を返し、こき下ろすように、力でローマを屈服してくれると期待していたメシヤが、だらしなくパリサイ人に乱暴され、ローマ兵に引きずり回されているのを見ると、群集は手の平返して、乱暴する側に回るのだ。
このように人々は、力強い救世主を求めるものの、その力が自分の願いを満たす方向性とは関係が無く、自分に罪があると示されたり、悔い改めを要求されると知ると、そのようなメシヤなぞいらない、となるのだ。
イエスの十字架の道は、人々の期待に応える道ではない。
人を愛する事と、人の期待に応える事は別物だし、人を救う事と人の期待に応える事もイコールではない。
人の期待に応える事、人の歓心を買う事で「支持者が増えた」「集会が盛り上がった」といった幻想を抱き、気がついたら御心とは全然違う方向へと振り回されて行った、というような過ちを、教会はしがちである。
十字架の道とは、自分の握り締めている期待、握り締めている自我を、十字架に磔にし、主の期待、主の御心に委ねる道だ。
自分の思い・意思・感情をホサナ(救いたまえ)と思う者は、それを失うが、主イエスのために自分の思い・意思・感情を失う者は、それを得るのである。(マタイ10:38、16:25)
主はゲツセマネで「私の思いではなく御心が成りますように」と祈られた。私たちもそれに習うべきである。
救いの源は、どこに置けば良いのか。黙示録に登場する、しゅろの葉を持った聖徒達からヒントを得たい。
「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、/小羊とのものである。」(黙示7:10)
救いとは、自分由来の何かを救う事ではなく、「私達の神と子羊を救いとする」事だ。
長老達は自分達の栄光の印である冠を御座の前に投げ出し、天使達も「賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、世々限りなくわたしたちの神にありますように」と栄光を捧げ尽して、アーメンと平伏した。
この聖徒達の告白、長老達の態度、天使達の賛美こそ私たちが見習うべき姿勢である。
「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」(黙示7:14)
人々は好き勝手な「ホサナ(おお救いたまえ)」を叫び、「いちじくの葉」の進化形である好き勝手な衣服をイエスの敷物にしたが、私たちが纏うべきは、子羊の血で洗った白い衣である。
それがまことの「しゅろの日」であり、私たちが主を迎えるべき姿勢である。
子羊の血によって白くした衣を纏い、勝利のしゅろの葉を持って、イエスを迎える皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
生きている者と死んだ者の狭間で いのちのために執り成せ(民数記17:6-15新共同訳。口語訳・新改訳は16:41-50)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 主日礼拝
- 執筆 :
- pastor 2011-4-10 17:31
礼拝説教メッセージ音声:生きている者と死んだ者の狭間で いのちのために執り成せ(民数記17:6-15新共同訳。口語訳・新改訳は16:41-50)
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放射能について最悪の事態に備える事や、食料やガソリンの備蓄など、生物的な命を保つための警鐘は確かに大切だが、それだけに始終し、いたずらに不安を煽ったまま終わってしまうクリスチャン論客は多い。
そして肝心の、霊的な命を保つための警鐘や、平安を保つための御言葉を流すキリスト者は実に少ない。
今、全ての聖徒達に喚起したい事は、持ち場を離れず、立つべき所に踏み留まり、戦う事である。
「持ち場」とは地域的な場所の事ではなく、霊的なポジション、すなわち、祭司として執り成し祈る立ち位置の事であり、「戦う」とはサタンと呪われた被造物に対し、信仰の篭った御言葉の剣を差し出す事である。
「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」(ルカ21:34-36)
私達は選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民である。(1ペテロ2:9)
霊的深酒に陥って、王族の祭司としての義務を忘れたり、貧しい者のために執り成す事を止めていないだろうか?王たる者には、酒を飲むことは相応しくない。
深酒は、没落した者、苦い思いを抱く者が、貧乏や労苦を忘れるためにする事であり(箴言31:4-7)そのように酔っ払っている者の所に、ある日ドアが突然バンと開き主が乗り込んで来て、深く眠りこんでいたり、主にあるしもべ仲間を打ち叩いている所を見られるなら、主から厳しく追求されるのではなかろうか。
現在、原発の危機や、戦争や地震、薬の利かない病など、四方八方に死の危機がある。
一つ確かな事は、人間、死ぬ時は死ぬ。
生物的な命のための備えをしたなら、あとは右往左往せず、霊的いのちの働きのために走り抜きたい。
しかしながら、起こるべき全ての災いから逃れ、人の子の前に立つ事の出来る者は、確かにいる!
それは「いつも目を覚まして祈っている」者(ルカ21:36)、主の言葉を忍耐して守り、イエス様の名を知らないとは言わない者である。(黙示録3:8-12)
「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」(ローマ14:8)
私達が今為すべき務めは、アロンのように死者と生者との間に立ち、執り成す事である。
神の民イスラエルが、神の立てた指導者モーセとアロンに逆らって集結し、不平を言った時、主の怒りが出て、宿営の端から疫病が流行りだした。(民数記17:6-15新共同訳。口語訳・新改訳は16:41-50)
その不平の内容は、自分勝手な礼拝を捧げようとしたコラの仲間達を「主の民」とし、その「主の民」が滅ぼされた事を不服とするものだった。
疫病が出たのは、言ってみれば民の手前勝手な罪の故、自業自得かもしれないが、アロンはどうしたか。
「アロンは、モーセが命じたように、火皿を取って集会の真中に走って行ったが、見よ、神罰はすでに民のうちに始まっていた。そこで彼は香をたいて、民の贖いをした。彼が死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ったとき、神罰はやんだ。」
我々王族の祭司は、アロンと同じように、滅んでいく人々の中へ走って行き、死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ち、祈りの香を炊き、賛美の煙を登らせ、取り成しの祈りを捧げるべきである。
彼らは主から「あなたがたはこの会衆から立ち去れ。」と言われた時、その言葉どおり立ち去らず、主にひれ伏し、この頑なな民と共に滅びてしまう危険を顧みず、走って行き、祭司としての贖いのわざを為した。
私達も、生きるにしても、死ぬにしても、いのちを救うために執り成すという、祭司のわざを為していきたい。
アロンのように、神と人との間に、生と死の狭間に立ち、命のために祈る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
