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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声 言葉の力と用い方(創世記3章) :右クリックで保存

※ 途中の写真は、音声メッセージ中に話題に上った、ナゾの液体です。

神様ははじめに、天と地すべてをことば(ロゴス)によって生じさせた。(ヨハネ1:1)
世に向かってことばを投げ、光や陸地、生き物など、色々なものを生え出でさせた。
神のことばは種、世の全ては畑のようなもので、神はあらゆる良い言葉を蒔き、世は良き実を結ばせて来た。

言葉には力がある
言葉は唇から出る音声や文字に限らず、音楽でも、人の動作でも、物の配列でも、立派な言葉である。
私達の周りは、環境も、人間関係も、人生経験も、全て言葉によって成り立っていると言って過言ではない。
良い人、良い物でも、言葉によって印象が大いに汚らわしく歪曲されうるし、悪い人、悪い物でも、言葉によって印象が大いに清らかに歪曲されうる。
中睦まじい恋人であっても、何か一つの言動によって生理的嫌悪を覚え二度と見たくない程になるのは大いにあり得るし、ある人が意図を持って石ころを並べ、それを見た別の人が感動し涙する事も在りうる。

ことばの恐いところ−エデンの園における失敗
エバは食べてはならぬと命じられていたものを食べてしまい、人類に罪と死を招いてしまった。
なぜ食べたら必ず死ぬと言われていた木の実を、取って食べてしまったのか。
それはエバが、サタンの意図を持った言葉に聞き入り、元々エバの内に宿っていた主のことばが掻き乱され、その結果、自分の中に新しく生じてた「異質のいのち」の衝動に突き動かされてしまったからである。
「ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。」(2コリント11:3)

悪しき言葉に勝つには
この戦いは、能力の問題ではなく、誰のことばを信仰に混ぜ込み、何を思い巡らすか、という問題である。
私達の戦いは血肉のものではなく、御言葉の剣によって、闇の世界の支配者や、天にいる悪の諸霊を相手にするのである。(エペソ6:12)
主はサタンの誘惑を、全て御言葉で撥ねつけた。
そのように、エバもサタンの言葉が来た時、単に御言葉(ロゴス)をそのまま語れば良かったのだ。
そのためには「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。」(コロサイ3:16)
御言葉の剣で撥ねつけるタイミングはいつか?それはサタンの言葉が来た、その時である。
エバのようにサタンの言葉を思い巡らしたりして「異質のいのち」という苦い根を生じさせてはならない。
私達という種袋の中を満たすべきは、御言葉であり、いつでも御言葉を取り出して振り蒔くべきである。

言葉の用い方
「舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。」(ヤコブ3:6)
私達は語る唇に、よくよく気をつけなければならない。誰かの噂や悪口を言いふらす事は、偽りの印象を振り蒔き、滅びの実に栄養を与える事である。
「口数が多ければ罪は避けえない。唇を制すれば成功する。神に従う人の舌は精選された銀。神に逆らう者の心は無に等しい。神に従う人の唇は多くの人を養う。無知な者は意志が弱くて死ぬ。」(箴言10:19)
神の子なら神の子らしく、信仰の篭った御言葉である「いのち」を振り蒔き、いのちを刈り取るべきである。
神は世に向かって「なれ」と言って、その通り成った。
私達は神の子であるので、信仰を持って「なれ」と命じる事ができる。
御言葉をたっぷり蓄え、至る所、あらゆる機会で御言葉の種を蒔き、その唇の実であるいのちをたっぷり刈り取る皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

 

礼拝説教メッセージ音声 御心とは(ヨハネ6:26-35) :右クリックで保存

受験や就職、結婚など、人生の節目節目でクリスチャンは御心を仰ぐ。
今、自分が最も気になっているこの事は、はたして成功するだろうか失敗するだろうか、あの道を進むべきか、それともこの道にするべきか、一体何が御心なのだろうか、と。
一体、御心とは何だろうか。

目先の事について、何が御心であるのか分からない時は、何であれ、ベストを尽すべきである。
例えパンを川に流すような事であっても後に見出すかもしれないし、風向きを気にすれば種は蒔けない。
「妊婦の胎内で霊や骨組がどの様になるのかも分からないのに、すべてのことを成し遂げられる神の業が分かるわけはない。朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか、それとも両方なのか、分からないのだから。」(コヘレト(伝道者)11:1-6)
御心を探るとは、口を開けてじっと木の下で待っている事ではなく、積極的に求め行動するべきものである。

主が求める御心については、御言葉に明快に書いてある。
実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。(1テサロニケ4:3)
「聖なる者となる」とはἁγιασμός(ハギーアスモス)、清める、不純物を除く、という意味がある。

また、主イエス様が5千人以上にパンを与える奇跡を行った後、イエスを追いかけて来た群集が「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と聞いた時、彼は答えて言われた。
「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」(ヨハネ6:29,30)

また主は、「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」(ヨハネ6:39,40)と言われた。
人が「神の業を行うにはどうすれば良いか」と聞く時はきっと、大いなる事、難しそうな事を考えるかもしれないが、答えは実にシンプルで、「神がお遣わしになった者を信じること」である。

以上の事から、主の御心とは「私達が聖なる者となる事」で、そのためには、「神がお遣わしになった者を信じること」、その結果、信じる者が皆永遠の命を得、終りの日に復活する事が、御心である。
そういうわけで、人生の節目節目において進路を仰ぐ際、どちらがより聖なる者となれる道か、どちらがより清められる道か、どちらがより不純物を除かれる道か、どちらが主の栄光となり、人がよりいのちを得る道であるか、という基準で見れば、御心に添った道が見えてくる。

しかし神様抜きで生きてきた人は、御心の道が示されると、その道は損をするような気がするものである。
聖なる道や清い道、不純物がより除かれる道というのは分かるのだけれど、イコール、損したり貧乏になったり、不名誉になったりすると思うもので、だから、自分で考え出した道を神様に示し「この通り進ませて下さい」という祈りをしては、答えられずに失敗を繰り返すクリスチャンは多い。
主に委ね切れず、自分が時折茶々を入れるような、中途半端なクリスチャンは、苦労が尽きないものである。

御心どおり行っていれば、実は良い事づくしなのだ。我々は、損な人生から脱出するべきである。
「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。」(イザヤ55:8-13)

しかし主の御言葉は、天からの雨が必ず地を潤して物を生えさせ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与えるように、決して空振りする事は無く、私達は喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。

例えパンを水の上に投げるような事であっても、後の日にそれを見出す。
(コヘレト11.1)

私達には何が最善か分からないが、全てをご存知であるお方に、委ねていれば良い。(詩篇139:2-18)

私達が座るのも立つのも知り、遠くから私達の計らいを悟っておられ、暗闇に隠れた所も、私達が胎児であった時さえも、見つめておられた主に、一切を明け渡して、ラクになる皆さんでありますように!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

礼拝説教メッセージ音声 安息に入るには(ルカ14:1-6) :右クリックで保存

ファリサイ派の人達が見ていた事(ルカ14:1-6)
ある安息日、イエス様がファリサイ派の家に入った時、人々は彼をじっと見ていた(ルカ14:1)
彼らは、そこにいる水腫を患っている人を癒すか、癒さないかを注視し、病人さえイエス様を訴えるネタとして用いようとし、その病人に対する憐れみの心は、全くなかった。
パリサイ人たちは、働いてはならないという事に固執し、歩くのは何歩以上は良く何歩以上はダメ、といった細かい決まり事を制定し、いのちを救う、救わないではなく「する」「しない」を強烈にこだわっている。

そこで、安息日の主であるイエス様は言われる。
「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか?命を救うことか、殺すことか?」(マルコ3:4)
主が求めるのは、あわれみであっていけにえではないし、善悪の行いではなく、いのちを救う事である。

安息日とは?
安息日の制定は、十戒の第4戒においてである。(出エジプト20:8−11)
主が真っ先に言われているのは「安息日を心に留め、これを聖別せよ」である。
つまり、主の創造の仕事が完成した事を祝い、その時の主の満足を満足し、主の安息を共に安息するべきであって、「働かない」「動かない」といった2次的な事に心奪われるのは、本末転倒である。
創造のみわざが完成した次第は、創世記2:1−3 に書かれてある。
ご自分の仕事が終り、全ての創造のみわざが完成し、休まれた日が、安息日である。
私達も、仕事が終わった後は、休んで安息し、あれやこれやと仕事をする事はしない。

完成された被造物を壊すもの
ところが、完全だった創造の御技はサタンによって破壊され、アダムの過ちにより罪と死が入ってしまった。
完全な美しい調和が保たれていた世界は混沌となってしまったのは、神様以外の者が介入したからだ。
安息日とはああだこうだ、御言葉とはああだこうだ、と言って、御技も御言葉もさも不完全であるかのような、さも自分達が主の御言葉を完成させるかのような振る舞いは、創造のみわざを壊す事である。

壊された被造物を贖う主
水腫の人は、その病によって、本来あるべきはずの完全さが破壊され、長らく安息できなかった。
ファリサイ人のネタにされている事に甘んじ、何も言わず、ただ主の御前に出て行った。
そんな彼に、主は御技をなす事によって、彼がそれまで心底欲していた安息が復活させられたのである。
病によって破壊された体は癒されなくてはならなず、不完全な状態は完全にされなくてはならない。
破壊された状態から回復するには、どうすれば良いのか。
「イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。」(使徒3:16)
完全な状態に復帰されるには、安息日のマスターである主、イエス様を信じ、御前に出て行く事である。

信仰によって安息に入る
創造のみわざは完成されたが、サタンによって、人の罪にって台無しにされてしまった。
それを主イエスが十字架の死によって罪を罰し、死から蘇った事によって、死と病と貧しさに勝利し、彼を信じる信仰によって、台無しの状態から完全な状態へと復活し、そして安息できる。それが福音である。
安息日の休みは、神の民に残されている。なぜなら、神の安息にあずかった者は、自分のわざを終え休み、神の用意された安息に入るからである。(ヘブル4:9、10)
この神様の安息への招待状を、信仰によって受け取り、みわざの完成にただ入る皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

礼拝説教メッセージ音声:

第一礼拝全体(日本語) メッセージ:バビロンの終りの時(ダニエル5章):右クリックで保存

第三礼拝メッセージ説教(日本語・韓国語)バビロンの終りの時(ダニエル5章):右クリックで保存


週報/メッセージ(説教)概要

ベルシャツァルがバビロン最後の王だった。
王は宴会を開き、宴もたけなわの時、聖なる神殿にあった金銀の器を用いて、妾たちと酒を飲もうとした。
本来、聖なる場所にあって聖なる事に用いられるべき器が、悪い王とその取り巻きの娯楽のために使われ、さらに彼らは金や銀、鉄など、色々な材料で作られている神々を褒め称えた。(ダニエル5:1-4)

この聖なる器は、今の終りの時代においては、私達キリスト者になぞらえる事ができる。
黙示録17章において、バビロンを象徴する大淫婦が登場し、彼女は獣にまたがり、杯に聖徒達の血を注いで酔いしれる情景が出てくる。
バビロンにおける神々は、金や銀など黙示録18:11-13 における様々な商品が取引されて築き上げられる富であり、やり取りされる商品には人間さえも含まれているが、いずれ大淫婦は滅ぼされ、取り巻きの商人達も富を失って泣く日が来る。

ダニエルの時代、聖なる器物がはずかしめを受けているその時、超自然的な指が現れ、堕落した世にあって、まことの神に忠実に仕えたダニエルにしか読むことの出来ない字が記された。(ダニエル5:5-9)
その字の中の「メネ」は数えるという意味で、「テケル」は量りにかけられるという意味である。
私達は人生の歩みを数えられ、神様に量られたいのちの時間を生かされている。
いのちの量りが満ちた時、神様の目方に足りるか足りないかを、査定される。
ベルシャツァル王は量られた結果、足りないと見なされ、パルシン、すなわち王国は分裂し引き裂かれてしまい、彼はその夜のうちに殺されてしまい、同じ日にダニエルには偉大な位が与えられた。

今の時代は、有形無形の様々なものが売り買いの道具としてやり取りされ、人の労働時間は切り売りされ、一部の金持ち達は、恋愛も忠誠心も全て金で買えると思っているような、人間が商品として扱われている時代である。
ノアの洪水やカナンの聖絶も、バビロンの滅亡も、人間の高慢がこのように、極みに達した時に来た。
邪悪な者が、聖なる者を蹂躙する期間は、いつまでも続かず、時が量られている。

「メネ、メネ・・・」は、高慢な者や時代の王だけに来る言葉ではなく、全ての人達に、あてはまる事である。
もし私達が数えられ、量られたら、絶対に足りず、裁きの座において裂かれるしか無い。
しかし、イエス様が我々の代わりに、罪人に数えられ(メネ)、邪悪な者に銀で量られ(テケル)、十字架上で裂かれ(パルシン)て下さったから、その裂かれた肉体を食べた私達は、まことの命を得る事ができた。
私達は元々、命の木から分離していたが、イエス様の裂かれた肉体を通していのちの木を得る事ができた。
主の内にいる私達は、決していのちの木から分離される事は無く、裁かれる事もない。
しかし、信じない神に逆らう悪の大盤振る舞いの人達には、メネ、メネは、そのままの言葉であり、王は、その通りの死を遂げた。

私達は、ベルシャツァル王になり得るし、王の取り巻き商人にもなり得るし、ダニエルにもなり得る。
裁きの日は思いがけない時に来て、主イエスの名を持っていない者は、裁きにあう。
主にある者でも、いつまでも主は来ないと思って、聖徒達を打ち叩いたり、酒を飲んだりして、どんちゃん騒ぎをしているようなら、思いがけない時に主は来られ、そのような者達を厳しく罰する。(ルカ12:42-46)
終りのしるしが現れている今、私達は常に目を覚まし、私達の身代わりにメネ、テケル、パルシンされて下さったキリストにしっかり留まるべきである。
主が戸口に近づいている事をますます意識して、ダニエルのように忠実に日々を過ごし、かの時には栄光を受け、バビロン王の滅びを見る皆さんでありますように、イエスの名によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

 

礼拝音声:愛で満たす主(ヨハネ21章)
週報/メッセージ(説教)概要

イエス様は、5つのパンと2匹の魚によって彼を慕ってきた5千人以上の腹を満たしたように、圧倒的な御技でもって主を慕う者を養い、働き人も養って下さった御力がある事を先週見た。
主はそればかりでなく、たとえ彼を慕う者が間違いを犯し、裏切ったとしても、悔い改めて立ち帰るなら赦し、愛による万全のサポートをもって癒し、霊肉魂の全面において満たして下さるお方である。
今日はそのような主のご性質を見ていきたい。

イエス様が十字架に架けられ、死んで、3日目に甦った後、弟子達は主から与えられていた働きから離れ、以前の生活に戻ろうとした事があった。(ヨハネ21章)
元漁師だった弟子達が主の弟子となった原点は、主の言葉どおりに深みに漕ぎ出して網を下ろし、その結果、船が沈みそうになるほど大漁に捕れた経験と、
「私について来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」(マタイ4:19)という招きの言葉である。
弟子達は主の圧倒的な御技を見、自分が罪深い人間であり、とてもこの聖なるお方に近づくには相応しくないにもかかわらず、人間をとる漁師として任命して下さった、主の懐の深すぎる愛に打ちのめされたから、イエスと共に働くようになったのである。

主は十字架に至るまで忠実であり、決して見捨てるが無く、愛に富んでおられた。
それなのに、弟子達は主を見捨てて逃げ、裏切り、ペテロはイエスを「知らない」と3度言った。
主は3日目に甦えり、弟子達に現れたものの、いつも弟子達と共にいるという訳ではなく、聖霊が力ある形で現れていなかったため、弟子達はなんとなく以前の職業に戻ろうとしていたのである。
そこで彼らはある晩、一晩中漁をしたのだが、魚は全く捕れなかった。
夜明け頃、「右側に網を下ろしなさい」と言う者があり、弟子達がその言葉どおりにすると、舟に引き上げられないほど大漁に魚が取れ、その時、弟子達はその者が主だと気付いた。
主は陸に上がろうとする弟子達のために、炭火をおこし、その上に魚とパンをのせて用意されていた。
イエスはパンを取って弟子達に与え、魚も同じようにされた。
「私がイエスだ」「魚を取るのではなく人間を取る漁師になれ」と、言葉で言えば話が早いのに、そうはせず、偉大なご性質を静かに示し、早朝のささやかな食卓を整え、優しいく繊細なご性質を示された。

ペテロは、主を知らないと3度言った手前、心にわだかまりがあったままであったが、主はそれを面と向かって責める事はなさらず「わたしを"完全に愛し尽して"(アガパオー)いるか?」と聞かれた。
ペテロは自分の愛がいかに危うく、いいかげんであるか嫌というほど知っていたため
「私があなたを親っている事をあなたは知っています」と答えるしか無かった。
主は同じ事を2度言われ、ペテロも同じ答えを2度したが、3度目に主は「わたしを親っているか?」と、ペテロの不完全な愛のレベルに降りて来られた。
主は3度目にそのように聞いて来られたので、彼の思いやり、彼の愛の深さにいたたまれなくなり、ただ「あなたは何もかもご存知です」と答えるしか無かった。

私達に出来る事は、私達の弱さ、愛の無さを、ただ主に知って頂く事だけである。
主は、私達が完全な愛を持っていない事は知っていて下さり、いつでも満たして余らせる事が出来る事を無言で示され、弱さに泣く私達を繊細な愛で溶かし、満たした上で、働きのために送り出して下さるのだ。

全てを満たして余らせて下さる主から、愛と慰めをいただき、潤され、愛で溢れ、その溢れた愛を持って世の中に出て行き、主の愛を伝える皆さんでありますように、イエスの名によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

 

礼拝音声:満たし余らせる主(マルコ6:30-44)
週報/メッセージ(説教)概要

主は、より頼む者の必要を満たし、たとえ艱難の時代にあっても助けてくださる。
「地上に住む人々を試すため全世界に来ようとしている試練の時に、わたしもあなたを守ろう。」(黙3:10)
この約束を私達のものとするため、御言葉を忍耐して守り、イエス様の名を「知っている」と言うべきである。
以上が主から最近重ねて示されているテーマだが、今日はその裏づけとして、わずか5つのパンと2匹の魚で5千人以上を満たした主の奇跡を見てみたい。

弟子達が伝道旅行から帰ってきて、食事する暇も無いほど働き通しだった状況である。
イエス様が「人里離れた所へ行ってしばらく休む」よう指示し、弟子達は船に乗って人里離れた所へ行ったところ、なんと、大勢の群集が徒歩で既に先回りし、湖の向こう側のその場所へ行っていた。
男だけで5千人ほどである。当時は女子供は人数に数えなかったから、1万人以上いたのではなかろうか。
それほどの群集が人里離れた場所に、弁当の用意も忘れて行くのである。主の魅力はどれほどであろう。

イエス様は、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、色々と教えられ、霊的なパンをまず満たした。
日も傾き、弟子達も早く休みたいと思っていた所だったので、人々を解散させて各々で宿なり食事なり探させるよう主に頼むものの、主はなんと「あなたがたが準備しなさい」と、無理を言われる。

尚、ヨハネ福音書6:5-9によると、「ピリポを試みた」とあり、ピリポは現実的に必要な分を計算した。
1デナリを1万円に換算するなら、200デナリは200万円、そこにいるのが1万人だとするなら、一人頭200円、パン菓子2つ分。それでも「足りない」と彼は結論する。
アンデレは群集の中を探していて、少年が持っていたのを見つけたが「何の役にも立たない」と結論する。
考えを絞っても自分達の持ち物ではとうてい足り無いという場面こそ、イエス様の出番である。
私達は何も出来ない、足りないという事を認め、それをイエス様の所に持っていくなら、主は働かれる。
イエス様はそのような無い無いづくしの状況なのに群集を座らせ、食事の体制をするようにし、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。
するとそこにいた群集全員を満たしたばかりでなく、働き人の分も十分に満たすほど、満たされたのである。
少年は「5千人」の中にカウントすらされていなかったし、そのささやかな食料は、人からは見向きもされないようなわずかなものだったかもしれないが、その捧げ物を、主は大いに用いてくださった。
たとえ自分自身がどんなにつまらなく、小さい者であったとしても、イエス様に一旦捧げ、イエス様が祝福して下さったものは、大勢の人々を満足させ、働き人の分まで籠いっぱいにするのである。

働き人は、イエス様が祝福しその手で裂いたパンを携えて、人々の中に出て行くべきである。
そのパンは、物質的なものかもしれないし、物質のものでなく霊的なものかもしれない。
それらは見た目少なく、足りなく、どうしようも無いように見えるかもしれない。
「この期に及んでまだ働かなければならないのか」と言いたい状況かもしれないし、持っている物はとても足りない、無理と思えるかもしれない。
しかし、私達はただ主から渡されたものを届けるだけで良く、後を祝福して下さるのは主である。

人はどうしても、霊を満たすパンよりも、体や生活を満たすパンのほうを心配するものである。
注意すべきはファリサイ派とヘロデのパン種(マルコ8:14-21,マタイ16:5-12)、すなわち、人間の教えによるやりくりや、世に対する妥協であり、私達はこれらよりも御言葉を優先させるべきである。
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)この主の言葉を信頼する時、全ては「加えて」与えられるのである。
全てを満たして余らせて下さる主から全てをいただき、満たされ、溢れさせ、その溢れた分で周囲をも満たす皆さんでありますように、イエスの名によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

 

礼拝音声:あなたの行いを知っている(黙示録3:7-13)
週報/メッセージ(説教)概要

ここ最近、特に示されている事は、神が徹底的に守られるのは、主に拠り頼むしかない者である事である。

昨年最後の主日メッセージにサレプタのやもめの話をしたが、図らずも、同じ日に韓国の鄭先生からいただいたメッセージも全く同じ箇所(1列王記17:8-16)で、主は特にこの箇所を示されている事が分かった。
かの時代、3年半の間全く雨が降らない旱魃の時代となったのは国の指導者の罪の故で、そのお陰で国民全体ばかりでなく周辺の国にさえも災いが及んでいたが、その時代において唯一エリヤが遣わされたのは、シドンの国サレプタのやもめであった。
それは彼女が異邦人であるのに「あなたの神、主は生きておられます。」と告白し、イスラエルの神を認め、敬い、預言者を敬う素養があったからであり、その素養を神が「知って」いたからである。
彼女は一時の自分の腹の満たしよりも、主の言葉を第一として、信仰を行いによって示したからこそ、旱魃の時代に不信仰な者達と共に滅びる事から守られたのである。

後の時代、イエスは大勢の金持ちが沢山金を入れる様子を見ておられた時、唯一目を留めたのは、一人の貧しいやもめであった。彼女が捧げたのは神殿に捧げられる最低金額である2レプタだったが、彼女が乏しい中からすべてを主のために捧げた事をイエスはちゃんと「知って」いて、彼女を評価されたのである。

世界中に訪れる苦難の時、貧しさの中において守られる者達とはどういう者達であろうか。
黙示録2,3章には7つの色々な教会が出てくるが、その中で叱責が無い教会は、スミルナの教会と、フィラデルフィアの教会である。

スミルナの意味はギリシャ語の"myrrh"(=没薬)に派生し、聖書においては苦しみや苦難を意味している。
この教会には苦難や貧しさがある事を主は「知って」いて、しかし本当は豊かである、と言われた。(2:9)
「誰よりも捧げた」と主に評価される者、貧しいようでも天の視点からは「豊か」とされる者とは、2レプタ捧げた女性のように、貧しさの中においても、自分ではなく主を第一とする者である。
また、この教会には苦難だけでなく牢や死も暗示されているが、苦しみはいつまでも続くものではなく、「10日の間」とある通り定められた期間があり、その後には命の冠、すなわち、栄光の復活が約束されている。
その事は、「一度死んだがまた生きた方」(2:8)が約束しているのである。

フィラデルフィアとは兄弟愛という意味である。
ここでもイエスは「わたしはあなたの行いを知っている」(黙示録3:8)とまず呼びかけており、やもめの物質的貧しさと霊的豊かさを主が知っておられたように、忠実に従い通す者を主は「知って」おられるのだ。
この教会も力は弱かったが、力のあるなしは全く関係無い。主の兄弟姉妹の最も小さい者さえも主に対してするように心からする者を、主は愛されるのである。
この教会の前に、誰も閉じる事の出来ない道が開かれたのは「わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないとは言わなかった」からである。
兄弟姉妹に見せかけて実はサタンに属する者達には、足元にひれ伏すようにさせ、主が徹底的に愛しておられる事を彼らに知らせると、約束されている。
「地上に住む人々を試すため全世界に来ようとしている試練の時に、わたしもあなたを守ろう。」
この約束が与えられたのは「忍耐についてのわたしの言葉を守った」からである。(3:10)

主の御名を否まず、自分の事よりも主の言葉を守る者こそ、終わりの時代に守られる者である。
その者達を主は特別に愛されている事を、主ご自身があらゆる手段によって世に示される。
そのようなみなさんでありますように、主イエスの名によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

礼拝:世の罪を取り除くまことの小羊(出エジプト12:1-8)

・第一礼拝音声
・第三礼拝韓国語通訳つき礼拝メッセージ説教音声
・週報/メッセージ(説教)概要


救いのご計画
イスラエルには新年は2つ存在し、第7月「ティシュリの月」から始まる自然の周期の新年(創造の日とされている)と、主が出エジプトの際に定めた第1月「ニサンの月」(出エジプト12:2)がある。
出エジプトの日はユダヤ人にとってとても重要な出来事があり、この日を覚えるために主ご自身が世々に渡って守り行う「過ぎ越しの祭り」を制定された。
かつてユダヤ人はこの出エジプトの日に至るまで、430年もの間エジプトに滞在し、奴隷として不当に搾取され、虐待を受けて来たが、主は彼らを顧み、奴隷の国から救い出そうと心に留められた。
主がエジプトの王ファラオの心を頑なにされたのは、エジプトに10の災いを与え、主の大いなる力と、主はイスラエルを特別に区別される事とを、誰の目にも明らかになるためである。

傷の無い小羊
ユダヤ人がエジプトから出される決定的要因となるエジプトの最後の災いは、エジプト中の男子の初子が全て死に、ヘブル人は一人も災いが下されない、というものである。
滅びる者の側に入るか、滅びない者の側に入るかは、どこに区別があるのだろうか。
キーワードは、傷の無い子羊である。(12:1-8)
小羊はそこの家族全員が救われるために屠られ、血を流し尽し、裂かれ、焼かれ、皆に食べられる。
この小羊はイエスキリストを予表し、ユダヤ人は救われる民を、エジプトは世を意味している。
イエスこそ世の罪を取り除くまことの小羊である。(ヨハネ1:29)

滅びから救われるための手順と預言的意味
1、傷の無い1歳の雄の子羊を選りすぐる。(5節) : 傷の無いキリスト
2、その小羊を夕暮れに屠り、その血を入り口の柱とかもいに塗る。(6,7節) : キリストは過ぎ越しの日に屠られた。その名を信じ、血の印がある者は滅びを免れる。
3、夜に火で焼いて食べる。(8節) : 主が暗闇の十字架上で言われた「わたしは渇く」という言葉(ヨハネ19:28)は、何もかも焼き尽くされた事を象徴した。

手順に従う者とそうでない者
この手順に従った者は、金銀の装飾品や衣類を分捕り(35,36節)、奴隷から開放され、約束の国へ旅立つ事ができたが、従わなかった者は、長男に死なれ、分捕られ、こき使っていた者達には逃げられた。
同様に、イエスを信じた者は、分捕られていた物を正々堂々と分捕り返し、罪の奴隷・死の奴隷から開放され、裁きを免れ、神の国へと旅立つ事ができるが、信じなかった者は、世継ぎは奪われ、分捕って積み上げてきた財産は神の定めた者に明け渡す事となり(コヘレト2:26)、ついには永遠の滅びに至る。

御言葉はそのままに
人は好き勝手に滅びから免れる手順を考えたがるが、主から示された手順を誤ってはならない。
主の言葉をそのまま受け取り実行すればいいものを、自分の事に頭がいっぱいで聞かない人間は、御言葉を自己流の勝手な解釈をしたり付け足しをする事で、傷モノの小羊をささげたり、小羊でない動物を用意したり、戸口に血を塗り忘れたり、戸口から出てしまったり、屠られた小羊を食べなかったりするのである。

私達は
イエス様が命がけで用意して下さった救いを軽んじてはならないし、その手順から離れてはならない。
与えられた御言葉はそのまま実行し、まことの小羊の贖いに預かり、諸々の奴隷から開放され、分捕られていたものは、大いに分捕り返すみなさんでありますように、主イエスの名によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

礼拝音声:預言者と家族を養うには(1列王記17:8-16)
週報/メッセージ(説教)概要

世の中は不況の嵐が吹き荒れており、経済的・社会的状況はますます厳しくなるであろう。
天においても地においても人の間においても、終末のしるしが現れ、明らかに艱難の時代に突入している。
にもかかわらず、私達は行き詰まる事無く守られており、とうの昔に倒れてもおかしくない者が不思議な導きによって守られ、ある者は事業が祝福され、当教会の活動も昨年に比べ遥かに活発に祝福されている。
鄭先生が滞在最後の早天礼拝で、不況の時代に打ち勝つ信仰と題して、エリヤとやもめの話をされたが、この1年、私達はエリヤとやもめのように、粉も油も尽きず、養われてきた。
2010年締めくくりの主日として、この個所からメッセージしたい。

困難な時代になったのは、国の指導者たちの誤った舵取りのせいだと100%言い切れるものではなく、一人一人の選択と行動の集大成であり、それぞれの罪の結果である。
政治が悪くなるのは、選挙権を軽んじて政治に参加しない者達によるのであり、日本人の全体的な品性が欠落して来たのも「これだから日本人は」と日本人自身を貶めている者達の意識の集大成による。
エリヤの時代のイスラエルも同じ状況で、アハブ王はシドン人の王の娘イゼベルを妻に迎え、異教の神バアルに仕えた事によって、イスラエルの進むべき道から外れ、誤った判断と行動をし、そのため「数年の間、露も降りず雨も降らないであろう。」という御言葉が成った。

王の過ちによって、イスラエルだけではなく周辺の国シドンまでも雨が降らず旱魃となり、アハブ王一人のためにあおりを食らっているかのように見えるが、必ずしも彼一人のせいとは言い切れない。
イスラエルの民はどっちつかずによろめいており、エリヤにどちらの神につくかはっきりするように言われても何も答えられない状況だった(1列王記18:21)。
また、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされず、イゼベルを生み出したシドンの国サレプタのやもめの元にだけ遣わされた(ルカ4:25)。
それは、実に、イスラエルの中には預言者を敬う者もその素養がある者も、一人もいなかったからである。
サレプタのやもめはエリヤに声をかけられた時「あなたの神、主は生きておられます。」と言ったのは、イスラエルの神を認め、敬い、預言者を敬う素養があったからであり、その素養に神が目を留めたのである。

神は「一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」と言ったが、果たして彼女はそのような自覚はあっただろうか? 彼女がエリヤに神が言われた通りの事を成したのは、主から与えられた信仰によるのであり、神は私達の内に働いて御心のままに望ませ、行わせておられる。(ピリピ2:13)

最後の食料を「まず私に与えなさい」と言うのは、非常識で過酷な要求であるが、御言葉という根拠がある。
「主が地の面に雨を降らせる日まで壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない。」(17:14)という御言葉に彼女は信仰によって応じたため、彼女だけでなく、預言者も、家族の者も、それによって養われた。
非常識で過酷な要求をする預言者には要注意だが、非常識で過酷な御言葉に従うのは大いにトクである。

働き人は、赤貧の者よりも金持ちに、人数の少ない所よりも多い所に、カッコ悪い所よりもカッコイイ所に遣わされたいと思うかもしれないが、主の選びは、主を知らない物持ちでは決して無く、信仰を持つ者である。
例え、持ち物が一握りの粉とわずかな油であっても、自分自身と預言者、家族を養うことができるのである。
この一年、この教会が守られたのは、一人一人が御言葉を聞いて、信じてその通り行ったからであり、預言者など誰か一人特別な者のおかげではない。
家族や預言者を長きに渡って養うコツは、信じて行う事であり、召し出された者達一人一人がその召しに応じて働く事である。
自身と働き人を末永く養う、油も粉も尽きない皆さんでありますように、主イエスの名によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2010

礼拝音声:終わりの時代に勝ち取る栄光(ルカ21:7-19)
週報/メッセージ(説教)概要

「私達は東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(マタイ2:2)


「博士達」(口語訳)は原文は「マゴス」、ペルシャ系祭司で占星術を行っていたと考えられており、イスラエルの神が忌み嫌うはずの者達である。


彼らは、新しく生まれたイスラエルの王を求めて来たが、本来、ユダヤ人こそそれを知っていなければならないはずであるのに、誰も知らなかったばかりか、それを聞いた者達は不安を抱き、王ヘロデにいたっては、拝んで行くかのように見せかけつつ、殺そうとさえ企んだ。


色々と不思議に見えるが、これは当時の時代背景と、ヘロデ大王がどういう人物かを見れば納得が行く。



ヘロデ大王はユダヤ人ではなくエドム人で、巧みな政治手腕によってローマ元老院に取り入り、エルサレム神殿の大改修を行う事でユダヤ人の歓心を買ったが、冷徹で残虐な面もあり、彼の王座を脅かす者は自分の妻であろうと子であろうと処刑し、反対する祭司やレビ人達も多く処刑された。


王の宮殿は、彼に追従し取り入ろうとする者達によって満ち、王にとって利益を出す者が重んじられ、役に立たない者や反対する者は阻害され、権謀術数が渦巻き、誰が敵で誰が味方か分からない疑心暗鬼に満ちた場であった。


王で居たい者にも、それにぶら下がる者達にとっても、新しい王など居てもらっては困るのである。



主が来られる時、人々の心は冷たくなり、非常に生きづらい世の中となり、本来こぞって迎えなくてはならないはずの者達は、生き残るための策略に忙しく、中にはメシヤさえも殺そうと計る者さえ出てくる。


そんな中であっても、導かれる者は確実におり、それは神から最も遠いと思われる人かも分からない。


忌み嫌われるはずの占星術師達は、メシヤを拝むために、はるばる遠い東の国から来た。


イスラエルの嫌う邪悪なニネベの住民はヨナの説教によって悔い改め、南の女王はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来た。


裁きの時、ニネベの住民や南の女王が、そして、東方の占星術師達も、イエスを受け入れない者やイエスを排斥した者達を罪に定めるのである。(マタイ12:42)



エルサレムを出た彼らはベツレヘム(パンの家)へ向かったが、頼りとなるのは再び星だけになってしまった。


しかしなんと、星が先立って進み、幼子のいる場所の上に止まった。


この星が何であったのか、彗星説、変光星説、惑星会合説、超新星説など色々あるが、いずれにせよ、星が少数の人々のために動くというのは、地球が逆回転するよりもスケールの大きな不思議である。


神はそのスケールの大きい不思議を、博士達を幼子のおられる家へと導くために、やってのけたのである。


彼らが、はなはだしく大きな喜びを喜んだ(直訳)のは、彼らが日頃見て研究していた星々さえも支配する偉大な方が、彼ら自身に直接関わり、スケールの大きな助けを彼ら自身に向かって為して下さったから。


主の目から見れば嫌われるかのように見えても、またどんなに邪悪な世代の中にあったとしても、そして、どんな策略が計られたとしても、主を求める者達には、宇宙規模の助けによって導いて下さる。


そのしるしは王宮にいる者たちには見られなかったし、知られもしなかったが、神は、御心に留められた者達に、人知れず大いなる助けを、導きを、示して下さるのである。



「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(マタイ2:11)


彼らは時間と労力、大切な宝物を捧げるだけで、物としては何も得なかったが、宇宙規模の素晴らしい体験をした。礼拝とは良き物をいただく事ではなく、自分の良きものを捧げる事である。


メシヤを求める一人一人が、策略と疑いに満ちた世から脱出し、大いなる不思議によってメシヤの元へと導き出され、まことの礼拝を捧げる事ができますように。

copyright 2010 横浜天声キリスト教会

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