メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ
主日礼拝
限りない東西南北で信仰の勇士を育てよ(創世記13章)
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週報/メッセージ(説教)概要
今年に入って以来、アブラハムの祝福の法則を学んでいる。それは、創世記12:1-3の通り、以前の罪のなわばりやしきたりから出て、主の御言葉で示された所へ留まる事。そうすれば、7つの祝福を得られる。
アブラハムは御言葉に従い、ひと度、約束の地に入ったものの、目の欲におびき寄せられて、主の約束の地ではない所、主の保護が無いエジプトへと行ってしまい、嘘の生活を続けた挙げ句、妻を奪われたり、散々な目に遭ったが、そこから再び約束の地に戻って、主が示された地に留まり、礼拝の生活を続けた結果、外からの災いは一切起こらなくなり、持ち物もおびただしく増えていった。(創世記13:1-4)
しかし、「内部から」問題が沸き起こった。持ち物があまりに増えすぎて行ったため、アブラハムの使用人と、甥のロトの使用人との間に争いが起こったのである(5-7節)。富や地位は、それを得て傲慢になるか、それとも、謙虚さを貫き通すかという信仰のリトマス試験紙となる。ロトは本来、目上のアブラハムの使用人との間で争いが起きたなら、率先して戒めなければならないのにそれをせず、敢えて争わせておいたのだ。
もし、富や地位を得たら、そのような傲慢が出てくるような人とは、一緒にいてはならない。このような人が、集いの中にいる間、その集いには、祝福が来ないからだ。なぜならそういう人は、主の祝福を受けると、それを利用してさらに罪を犯し、聖なる交わりに争いを引き起こして汚して、主の顔にドロを塗るからである。
アブラハムは、ロトと穏便に別れるために、場所を移り住む事において優先権をロトに与えた。私達は主の約束に留まっているなら、相手に優先権を与えたとしても、不安になる必要は無い。むしろ御言葉に自分を降ろし、御言葉の思考で、まだ見ぬ将来を見るべきだ。目の欲に従っていく人は、欲におびき寄せられ、自分の頭でいいなと思っている世界を見積もり、主の約束の地とはかけ離れた方を選んで行く。
ロトは結局、神に対して甚だ罪深いソドムへ向かって離れて行った。信仰によってではなく、欲によって物事を計る人は、どんなに良い条件を得ても、後には何も残らない。宝くじで一等を当てた人の多くは、数年で散財してしまう統計結果もあるのだ。しかし、聖なる交わりには、「ロトの類」が離れたとたん、祝福が来る。
『ロトがアブラムに別れた後に、主はアブラムに言われた、「目をあげてあなたのいる所から北、南、東、西を見わたしなさい。』(14節) この時、主は初めて「目を上げなさい」と言われた。ロトと別れた事によって、その東西南北は、一切妨げが無い東西南北となったのだ。私達も主がOKするまでは、自分の目で東西南北を見てはいけない。かつてアブラハムがエジプトに目を向けたように、誤った判断をしてしまうからだ。
しかし、主が「目をあげよ」と許可された東西南北は、もはや、何の妨げも邪魔者もいない東西南北である。
主はそこに、「永久に子孫に与える」と約束し、「子孫を地のちりのように多くし」、「その地を縦横に行き巡りなさい、それをあなたに与える」、と言われた(14-17節)。そこに至るまで、私達も従順を続けるのである。
アブラハムは、ヘブロンにあるマムレのテレビンの木の傍らに住み、そこで祭壇を築いて留まった(18節)。
そこにおいて、彼は、自分の家で生まれ育った信仰の勇士318人を訓練し、礼拝を欠かさない生活を続けた結果、前回見た、あの強力な王達に、大勝利するまでに至ったのである。
私達も、ロトのたぐいとは離れ、一切の邪魔する者がいない東西南北のまぼろしを主から得て、そこで、信仰の318人を、すなわち、栄光のテフィリン世代を育てるべきである。私たちの戦争は、世の王との戦争というよりむしろ、いかに御言葉のまぼろしをキープできるか、という戦争なのだ。主が与えて下さるまぼろしを信じ、何が起ころうともそれをキープし続け、行動するなら、一切の妨げが無い東西南北が与えられる。
そこで信仰の勇士、栄光のテフィリン世代を養い、礼拝し続けるなら、どんな世の王達にも勝利できるのだ。
今の世の中、御言葉に敵対する勢力が集結して、強大な権力や資金によって世論を支配し、嘘も強引にまかり通し、盤石の体制を整えようとしている。これは、バベルの塔の名残であるが、私達はテフィリンに よって、御言葉の塔を建てるのだ。バベルの塔は神の言葉によって崩され、バベルの塔が立った地・シヌアルの王は、前回見た通り、アブラハムの勢力318人によって討ち滅ぼされ、囚われ人は分捕り返された。 今、主は、共にコラボレーションして、信仰の次世代を育てる人を探しておられる。このグループの中で、目に見えるものによってでなく、主が見させてくださるまぼろしによって歩み、この世の王達に打ち勝つ、信仰のテフィリン世代を育て上げて行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
主からのまぼろしを得て語れ(創世記14章)
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週報/メッセージ(説教)概要
アブラハムが神様に導かれ、カナンに定住した頃、カナンの5人の王達は、バビロン地方の王達に反抗して、戦争が起きた。バビロン地方の4人の王達が攻めて来て、行く所々で連勝し、南端の紅海の港町エル・パランまでも制圧した。そして、カナンの5人の王の財産を全部奪い、多くの捕虜を連れて悠々と引き返して行った。その囚われ人の中に、アブラハムの甥のロトもいた。一見、災いにも見える中に、主の意図がある。主はアブラハムに、「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う、あなたの名は、大いなる者となる」と言った、祝福の実体を披露するために、敢えて、この事を許されたのだ。
『一人の逃亡者がヘブル人アブラムの所に来て、その事を告げた。アブラムはエモリ人マムレの樫の木の所に住んでいた。マムレはエシュコルとアネルの親類で、彼らはアブラムと盟約を結んでいた。』(13節)
ここに初めて「ヘブル人」という言葉が出てくる。ヘブル人とは「川(境界)を超えて渡ってきた者」の意味、すなわち、古い生き方を捨て、境界を超え、主にある新しい生き方に入って来た者達である。私達もアブラハムにならって、古い罪のしきたりと縄張りを出て、水のバプテスマを経て、主に示された所に留まり、礼拝を捧げつつ生活して行くなら、力強くなり、どんどん周囲から尊ばれる存在へ、壮大な者へとなって行く。
アブラハムが、あの勢いづいているバビロンの4人の王に、わずか318人で戦いを仕掛けるなど、とんでもなく無茶な事だった。それなのに、同盟を結んだマムレ達は、どういう訳か、アブラハムの呼びかけに応じ、一緒に戦いに出た。なぜそんな無茶な戦いに参戦したのか?その理由は、彼らは、アブラハムには確かに背後に神がついておられ、神が彼を祝福している様を見て、「彼ならやってのけるかもしれない」「あの悪辣で手がつけられない王達に、もしかしたら勝利して、9人の王のてっぺんに立つかもしれない」「自分も一緒に戦いに出るなら、その恩恵にあずかれるかも知れない」、というまぼろしが見えたのだ。
実際、アブラハムは見事に勝利し、彼らは、戦利品を勝ち取る恩恵に預かった。アブラハムは、ソドムの王からの汚れた富は、くつひも一本も取らなかったが、マムレ達は、自由に取らせたのだ。(24節)
主が私達に見せて下さるまぼろしの内容は、世の人が見れば、滅茶苦茶かもしれない。しかし私達は、アブラハムの子孫として「この人と一緒なら、何だって大丈夫!」という存在となれるよう、求めるべきである。
そして、同じビジョンを一緒に見て繰り出して行けるような、右に左に立って一緒に戦う友を求めるべきだ。
そのためには、日々、主が示された約束の地にしっかりとどまり、礼拝し、主から与えられる恵みを日々数え、記録する事を、習慣化しておくべきである。主が与えて下さったまぼろし、すなわち、御言葉の約束から目を離さず、それを書き記し、昼も夜も口ずさみ、それが成る、と信じて、日々歩むのだ。日々、主がして下さった小さな恵みを書き記し、それを数えて行くなら、「主は確かである」という信頼が、遥かに強固なものとなり、主が見せて下さるまぼろしは、腹の奥底から湧き上がる自信となって、周囲に伝染し、周囲を動かして行くようになる。そうすると、「主は今度何を起こしてくださるのだろう、主はこの問題を、どう解決して下さるのだろう」と、主に限りなく期待できるようになり、周りを主のまぼろしへと巻き込む先駆者となれる。
世の人は、現実的な事実を、計算機ではじいて、一番有利なものに飛びつくが、私達はそうではなく、主が示して下さる、いのちにみなぎった、わくわくするようなまぼろしを見て、それを生き生きと語るべきだ。
もし相手が、主が示して下さるまぼろしに、同意しないのであれば、ああ、この人はわたしと組めない人だ、と分かる。主は「この人と組みなさい」と定められた人を、脱落させるような事は、なさらないお方だからだ。
アブラハムは見事勝利した後、二人の王が出迎えて来た。一方はサレム(平和)の王、いと高き神の祭司、メルキゼデクで、他方は、不品行と汚れの町ソドムの王である。私達も、信仰によって進み出て勝利した時、二人の王が現れる。その時、汚れた王は、汚れた富を手にするよう誘って来るが、そのような者の誘導に引っかかってはならない。後で恩着せがましく主張する機会を作ってしまい、主の栄光ではなくなるからだ。
私達はむしろ、勝利した時こそ、本当に御前にへりくだらなければならないお方・イエス様にひれ伏し、十分の一を捧げ、罪深い王から提示された富は、くつひも同然に見做し、きよく自分を保つのだ。
主が「とどまれ」と言われた地にしっかり留まり、礼拝を続けていくなら、主は、壮大な者として下さる。
そこで、与えられた御言葉の約束のまぼろしを日々仰ぎ見て、右に、左に、そのまぼろしに同意する同盟者を得て、時代の勝利者となっていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
祝福の秘訣:御言葉どおりに留まるだけ(創世記12章)
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週報/メッセージ(説教)概要
アブラハムは私達全て信仰者の父で、彼が主と共に歩んだ道や、受けた祝福は、私達にとても密接に関係する。私達の祝福の基本は、創世記12:1-3にある通り、以前の罪深い縄張りやしきたりを離れ、神様が示された御言葉のしきたりと、御言葉の縄張りの中へと入って行く事だった。再び12章から恵みを得たい。
4節: アブラハムが神様に呼び出されて、古いなわばりとしきたりから出て来た時、甥のロトもついて来た。
アブラハムは、主の言葉に従って出たのに対し、ロトは、主にではなくアブラハムという「人」について来た。
ここに「天と地の差」がある。ロトは別れるまで一貫して自分の目に良い所へ行き、主の言葉に従った記述は無い。そのような者はやがて「アブラハムの群れ」から離れ、離れたとたん、群れには大きな祝福が来る。
5節: アブラハムは、父の家を出てから、カナンの地に入るまで、たった1節しか費やしていない。なぜアブラハムは1節で入れたのに、彼の父テラや、出エジプトした民の多くは、カナンに入ないまま死んだのか。
その理由はシンプルである。アブラハムは「神様から言われた」と「行動した」の間に、何も挟まなかったのに対し、出エジプトの民は、御言葉に対し「でも」や「だって」を挟み、テラは自分の好む所に留まったのだ。
私達が学ぶべきは、御言葉に対しては私情や意見は挟まず、思考停止してすぐ実行する事こそ、速やかな祝福の秘訣でり、実行するのを思い煩った分、利子がついて、祝福を受けるのを長引かせてしまう。
6-8節: アブラハムは元々、行き先は分からなかったが、カナンまで来た時、主は初めて相続地を明らかにした。アブラハムはそこに祭壇を築き、礼拝を捧げた。私達も、留まるべき地が明らかにされたなら、そこに留まり、礼拝する生活を続けるなら、どんどん祝福され、国々の王さえ打ち破るまでになって行く。
しかしアブラハムは、「ここが相続地だ」と分かった時、もう行き先が見えない旅をしなくていいのだ、と余裕が出て、余計な事をしてしまう(9節)。私達も一段落ついて、余裕が出た時こそ気をつけなくてはならない。
10節: アブラハムは「主が与える」と言われた場所から離れて行ってしまう。すると、ききんという悪い状況が、すなわち、主からの「戻れ」というサインが起きた。しかしアブラハムは戻らず、エジプトへ下って行った。
エジプトに近づくにつれ、今までおぼろげだった不安が、具体化してくる。私たちは、霊において不安な事は、やってはならない。彼は御心の逆を、すなわち、うそで生活を乗り切ろうと、具体的に御心に反する事をし始めた。心配で頭がもたげると、御心とは真逆の、愛、喜び、平安とは、真逆の実を結んでしまう。
12-13節: 彼は不安に駆られ、妻のゆえに自分は殺される、と、起きてもいない事を「起きる」と思い込み、さらに彼は、妻との関係を、公には「兄妹関係」とする事で、エジプト人から好待遇を受けられるだろう、と、確信犯的な皮算用もしている。主のスタンダードから離れて、「労苦」という主からのサインが来たなら、速やかに主の御言葉と、主の定められた地に戻るべきである。私達は、労苦してはならない。もし労苦が重なっても、主の言葉に戻らずに、人を恐れ続けると、アブラハムでさえ、このような狂気に走ってしまうのだ。
14-16節: それまでアブラハムの心の中にだけあった心配が、そっくりそのまま実現してしまった。信仰とは、思っていた物事の実体化なのだ。妻は、パロの宮廷へと連れて行かれ、パロの妾にされてしまった。
その見返りに、アブラハムは、多くの家畜の群れや、男女の奴隷を所有するようになった。アブラハムは、それらに満ちた天幕、そして、妻がいない天幕を見て、もう二度と会えないかもしれない妻を思い、主の前に、どううめいて呼ばわっただろうか。主は、聖なるうめきを、聞いて下さる。主は直接、動いて下さった。
17-20節 : 主は、パロの家に災いを起こされた。パロは、災いの原因は、明確に、アブラハムの妻の故だ、と知った。それでパロは、アブラハムを呼び出し、彼を、彼の妻と、彼のすべての所有物とともに送り出した。
失敗を仕出かしたのは、アブラハムだったのに、災いに遭ったのはパロで、賠償をしたのも、パロだった。
アブラハムは、エジプトから多くを分捕ったような形で出てきた。しかし、もらって良いものと、いけないものがある。忌まわしい所からのもの、特に、忌まわしい思考を持った人間は、もらってはならない。アブラハムは、エジプトの女奴隷ハガルをもらってしまった故に、後々、大変な事になってしまう。彼女はいつでもエジプトをなつかしみ、エジプト流の考えをアブラハムの家の中に導入し、エジプト化された世界を形成した。
アブラハムは、その後、ソドムや王達の富を辞退した。そう、私達は、世のものを欲しがるのではなく、むしろ、清さを保ちつつ、主が留まれ、と言われた所に、留まり続けるべきである。そうするなら、9人の王の富さえ、くつひも程度にしか見えない程、気持ちにおいても、実体においても、富んだ者になるのだ。
アブラハムの歩んだ成功と祝福の道に歩み、失敗した道には足を踏み入れない皆さんでありますように!
主日礼拝
神様から報酬をいただくには?その報酬とは?(創世記15:1-6)
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アブラハムは、主に示された地に留まった事によって大いに富まされたため、彼には、9人の王達に勝利して得た分捕り品など、くつひも程度にも見えなかった程、主にあって満ち足り富んでいた事を、前回見た。
私達もアブラハムに習い、出るべき所(罪の性質)を出て、主が示された留まるべき所に留まり、主を礼拝するなら、主にあって富まされた者となる。さらにその後、主はアブラハムに現れて言った。『アブラムよ恐れてはならない、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報い(報酬)は、甚だ大きい。』(創世記15:1)
主は、甚だ大きい報酬を与えて下さる、と言われたが、私達はそれを、どうやって受け取れるのだろうか。
アブラハムは、信じて戦いに出た結果、勝利と祝福の言葉をいただいた。つまり主から報酬を受けるには、神様が提示された御言葉を「信じ」、信じた通りに「行う」事によってであり、その支払いは、神様の言葉が「実体化」される事によってである。彼に一番最初に与えられた御言葉は、「Aをしなさい、するなら、Bを与える」、というもので、Aとは、本土、親戚、父の家を離れる事、そうするなら、大いなる国民とし(B1)、祝福し(B2)、名を大いなるものとし(B3)、名は祝福となり(B4)、あなたを祝福する者をわたしは祝福し(B5)、あなたを呪う者をわたしは呪う(B6)、全ての民族は、あなたによって祝福される(B7)というものだ。(12:1-3)
この約束を聞いたアブラハムは、期待し、信じ、実行した結果、実際にBの祝福が、全部実体化した。
アブラハムは、なぜ信仰の父となったか。なぜ、イエス・キリストの系図はアブラハムから始まるのか。彼は、神様から提示された言葉を信じ、信仰の行いをした結果、その報酬として、御言葉の実体化や、必要の満たしを得、祝福を得た「最初の人」であり、続く系図の人々も、今の信仰者も、皆、そのような人々だからだ。
しかし私達は、御言葉の約束を頂いても、心にモヤモヤがあったり、信じ切れなかったりする事がある。
その時は、遠慮なく、主に申し上げるべきである。アブラハムも当初、そうだった。アブラハムにはまだ、肝心の子が与えられていなかった(2節)。主は、莫大な富や勝利はいくらでも与える事ができる、と、前回の戦争で実体験したが、その莫大な祝福と信仰とを受け継がせるための、肝心の、子が与えられていない。
主が生きて働いておられる事は、十分経験済みなのに、一番肝心の「子」だけが、与えられていないのだ。
私達も、そういう時がある。御言葉の約束は与えられていて、実際に祝福され、主が生きて働かれている事は十分経験済みなのに、肝心の、求めている「それ」だけ与えられていない、という事が。
主はその時、アブラハムを外に連れ出して、言った。『「天を仰いで、星を数える事ができるなら、数えてみなさい」。また彼に言われた、「あなたの子孫はあのようになるでしょう」。アブラムは主を「信じた(アーマン)」。主はこれを彼の義と認められた。』(5-6節) アーメンとは信じ、同意し、それと一体化する事である。
神様から報酬を受け取るためには、与えられた御言葉を「信じ」、その通りに「行う」事によって、だった。
彼は以前、あなたの子孫を地のちりのように多く増し加える、という約束を聞いただけで、ウキウキし、生まれ故郷を飛び出したのに、約束が中々実現しないと、主の約束へのときめきとドキドキが無くなっていた。
主は、そんな彼でも、信じてアーメンできるように、天を仰いで星を数えなさい、と言われた。それは彼が信じて、義と認定するためだった。私達も、信じ切れなかったり、モヤモヤする時、主に遠慮なく申し上げるなら、主は、こんな私達でも、信じられるように、天を仰がせ、私達の見るべき「星」を見させて下さる。
この、罪と不正に満ちた暗闇の中、キラキラと輝きながら、御言葉によって支配し、治める、信仰のテフィリン世代を。もし、私達にも見させて下さい、と願うなら、信じられるように、その星空を見させて下さるのだ。
ときめきをもって御言葉を受け取り、期待し、楽しみつつ行うなら、主は、喜んで報酬を与えて下さるが、もし、聞いて、ぼんやり「有り難い」とは思っても、何も手足を動かさないままでいるなら、報酬は何も無い。
聞いた御言葉を信じ、期待し、楽しみつつ実行してこそ、御言葉の実体化という喜びの報酬を得るのだ!
信じて宣言した御言葉は、主が責任を取って下さる。宣言した御言葉が真実であると示すために、主はしるしや奇跡をもって答え、今、彼が言った言葉は本当だよ、と保証して下さる。信じて宣言するのは、私達の分。それを実行して下さるのは、神様の分なのだ。イサクも、ヤコブも、そのように生きたので、彼らを見ていた人々は、確かに彼らには神がおられる、と、恐れた。御言葉を聞いたなら、信じ、実践し、そして主から大いなる報酬をいただく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
主に示された地に留まる事が、どれほどの祝福か(創世記12:1-3)
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年末から新年にかけてのニューイヤーズ・イブ礼拝で、年明け早々に語られた御言葉が、本日の、アブラハムの祝福だった。アブラハムが祝福を受けた理由は、彼は神様の言葉に従って、それまで住み慣れた本土・親戚・父の家という古いなわばりやしきたりから離れ、神様が示された、神の国のなわばりとしきたりへと入り込み、そこに留まる事によってだった。実際的な祝福を得る秘訣は、これである。
新年が明けて四週目に入った今日、この祝福の秘訣を、今一度、確認したい。
アブラハムは、それまで”神様抜き”で生きて来た、本土・親戚・父の家から、神様の命令に従って「出た」。
そして、神様が示された地に行って「留まった」。祝福を受けるための法則は、シンプルに言えば「出る事」と「留まる事」である。すなわち、詩篇1:1に示されている通り、悪者のはかりごとに歩ま「ず」、罪人の道に立た「ず」、あざける者の座に着か「ず」、という「3つの”ず”」の物事から離れ、詩篇1:2にある通り、主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ事に「留まる」。そうすれば、水路のそばに植わった木のように、時が来れば実を実らせ、その葉は枯れず、何をしても栄えるという祝福が、私達のものとなる。
出るべき所を出て、そこに戻らない。また、留まるべき所に留まってそこを出ない。たったこれだけだ。
人は何かと「留まりなさい」と言われても、じっとしれおられず、そこを出て、何かをしたい衝動に駆られるもので、アブラハムも、そうだった。彼は、主から留まるよう示された地を出て、エジプトに行ってひどい目に遭ったが、そこから戻って主を礼拝し、留まるべき所に留まった。その結果、どうなったか。アブラハムも、一緒にいた甥のロトも、非常に富んで、多くのものを得、その地に一緒に住む事ができないまでになった。
何をしたから?それはただ、礼拝して、留まっただけ、である!ただそれだけで、二人は一緒に居れない程、豊かになり、彼らのしもべ同士で争いが起きるまでになったため、別れる事になった。
ロトは、ソドムという、主の前に甚だ悪い者達が住んでいる所を、「主の園のよう、また、エジプトの地のよう」と評価した。主の基準によってでなく、自分の目に「よし」という基準に従って行くなら、ソドムさえ、主の園と同価に見てしまうのが、肉に従って歩む人の特徴である。このような価値観を持った者は、信仰者と共に祝福は相続できない。そのような者と別れた途端、怒涛のように祝福が入ってくる。(創世記13:14以降)
その後、メソポタミア地方の4つの王とその軍勢が、カナン地方の5つの王とその軍勢に戦いを挑んで、打ち破り、彼らはソドム・ゴモラ等の財産や食料を全部、奪って行った。ロトはその時、ソドムに住んでいたので、ロトとその財産も奪われて行った。アブラハムはそれを聞くと、彼の家で生まれたしもべ318人を引き連れて立ち向かい、なんとその4人の王達を打ち破って、ロトも、5人の王達の財産をも、全部取り戻した。
普通、勝利に勝利を重ねて勢いづいている4人王達に、318人の手勢で立ち向かうなど、無謀の極みだが、彼は主が示された「留まるべき所」に留まった結果、大いに祝福され、これら、合計9人の王と、その軍勢の頂点に君臨する力を、頂いたのである。しかし彼は、王達の上に君臨するなど、一切興味を示さなかった。彼はなぜ、莫大な資産や財産を得たのに、我がものにしないどころか、一切興味が無かったのか。
彼はソドムの王に、「あなたの持ち物は、靴紐一本さえもらわない」と言った。つまり彼は、主の御言葉で示された地に「留まった」事によって得た祝福に比べれば、ソドムや、他の王たち全部をひっくるめた持ち物や財産など、「くつひも」程度にも見えないほど、主にあって満ち足りて、富んで、満足していたのだ。
そもそも、その王達は、暴力や奸計を用いて、のし上がり、人から分捕り、人を泣かせて、所有を増やしたものである。そんな「3つの”ず”」にまみれたものは、靴紐一本でも、自分のものとしてはならない。
彼は、ただ主が示された「留まるべき所」に留まっただけで、これほどまでに祝福して下さった神様に、信頼していたからこそ、躊躇なく、人からは無謀と見える戦いを挑む事が出来たし、また、勝利した後も、ソドムの資産や財産や、9つの王国の上に君臨する権利など、躊躇なく破棄したのだ。むしろ彼は、メルキゼデク、すなわち、イエス様からいただくパンとぶどう酒をこそいただき、彼に十分の一を捧げ、礼拝した。
アブラハムのように、主の言葉に信頼して、出るべき所をきっちり出て、留まるべき所にきっちり留まり、それによって、大いなる国民とされ、その名が大いなるものとなり、祝福する者を主が祝福してくださり、呪う者を主が呪って下さる、そのような皆さんとなりますように!イエス様のお名前によって祝福します!
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閉塞感を聖霊の力(ダイナマイト)で爆破せよ(使徒1:3-8)
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この新年、祝福が実体化する年とするために、古い罪のなわばりやしきたりを離れ、神様のなわばりと、しきたりへと入って行く事が示された。私達は「3つの”ず”」から離れ、テフィリンする事によって、ますますその実体を得ていくものだが、今、このコロナの時代を見るに、世が最も必要としている「実体」とは何だろう。
今、漠然とした恐怖や不安があり、色々な事が制限され、漫然とした閉塞感がある。こんな時代だからこそ、生きて働かれる救い主イエス・キリストの、いのちと希望が必要だ。それを示すためには、しるしや奇跡という、実体を伴った、爆発的な聖霊のわざが必要である。それが為されるなら、多くの魂を刈り取るチャンスである。それを成すために、私達はどうすべきだろうか。使徒の時代の出来事から学びたい。
『エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。』(4節)
今、コロナの故に、外を出歩く事は制限され、安心できる場所に留まるべきではあるが、何もできないわけではない。弟子たちは、聖霊が注がれるまで何をしていたか。彼らは、いつも神を褒め称え(テヒラー)、また、共に心を合わせて祈り(テフィラー)に専念していた、と書いてある。(ルカ24:49-53、使徒1:13)
祈り(テフィラー)は本来、御言葉の暗唱を祈りに乗せる事で、それを反復すると「テフィリン」となる。
ユダヤ人は今も、そうしている。こうして御言葉を思い巡らし続けていると、やがて非常な喜びが沸き起こる。
御言葉に基づいた確信は、表情へと、立ち居振る舞いへと表れて行く。いつも思い巡らしている言葉が、顔の筋肉を動かし、表情をつくり、態度に現れ、それが定着し、顔立ちや言動パターンが、そして、人生パターンが出来上がっていく。もし主の言葉を昼も夜も思い巡らし、その健全な言葉を豊かに自分の内に染み込ませているなら、その人の平安と健全さは、決して揺るがされない。腹の奥底からの確信となるからだ。
世から来る、イエス様とは何の関係もない言葉を蓄え、思い巡らしているなら、人相や顔立ちが悪くなっていく。せっかくエステに通っていても、もし内に蓄える言葉が悪いなら、人相の悪さは、治りようが無い。
今、コロナの時代、多くの人は、漫然とした不安や心配、閉塞感で、表情が曇っている。そんな中、世の人は、溌剌(はつらつ)とした希望に輝いた表情の人へと、引き寄せられていく。聖霊の油塗りによって、元気はつらつとなり、顔立ちもつややかに、美しく、力やエネルギーにみなぎる皆さんでありますように!
イエス・キリストの御名によるしるし・奇跡は、世界中で例があるが、御言葉の無いしるし奇跡は、花火のように、単発で終わってしまう。使徒時代のように、「御言葉の土台」ありきの聖霊のわざを成して行くべきだ。
御言葉による祈りとテフィリンを繰り返して行くと、その感動と喜びが確信となり、アーメンとなり、貯まりに溜まって、デュナミス(力)となる。それが見える世界で実体化し、しるし、奇跡となって神をあかしするのだ。
『聖霊があなたがたに降る時、あなたがたは力(デュナミス)を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となる』(8節) 聖霊が降った時に受ける「力(デュナミス)」は、ダイナマイトの語源となった言葉である。つまり私達が聖霊を受ける時、私達は、爆弾を抱えた者となる。
それは、悪魔のわざを爆破する爆弾であり、あらゆる罪と暗闇のわざを破壊するダイナマイトであり、いのちを爆発的に増え広がらせる力あるものだ。消極的な人の「消極」は爆破され、人生破綻してしまった人の「破綻」は爆破される。今、コロナのゆえに、色々な事が制限されているが、この、漫然とした閉塞感、世の漫然とした絶望感を、聖霊を受けて、聖霊のデュナミスで爆破して行く皆さんになりますように!
私達が、聖霊によるしるし・奇跡を求める理由は、ひとえに、イエス・キリストを証するためであり、死をいのちへと飲み込み、絶望を大いなる希望へ変え、人々がそれを見て、イエス様を信じるようにするためだ。
聖霊は、きよい霊である。きよい者は、神を見る。私達はもはや、単なる「信徒」である事を離れ、弟子に、すなわち、主の言葉どおり動き、主の喜びとなる事を求め、積極的に御言葉を蓄え、思いを、行動を自分から清くし、聖霊が働かれる土台をつくるべきだ。主の命令は、全世界に出ていき、弟子をつくる事だった。
まず「わたし自身」が主の弟子となり、それぞれ行くべきユダヤ、サマリヤ、そして地の果てへと、主から遣わされ、遣わされて行った先でイエス様の証人として、成さなければならないわざがある。主イエスの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、蛇をもつかみ、毒を受けても決して害を受けず、病人に手を置いて癒し、イエス様に栄光を大いに捧げる皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
主日礼拝
私達が獲得しようとしている地はどういう所か(申命記11:10-12)
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週報/メッセージ(説教)概要
アブラハムは、本土・親戚・父の家という「縄張りやしきたり」を離れ、主が示された地に入ったため、祝福の実体を、大いに受けた。私達もこの2021年、罪深い、以前の縄張りやしきたりを離れ、神様が示された御言葉のしきたりと、御言葉の縄張りの中へと入って行き、実際的・具体的にアシェルの祝福の実体を得る年として、御言葉が与えられた。本日は特に、アブラハムとその子孫である私達に約束された「土地」「住む所」は、具体的にどういう所かを見ていきたい。
『あなたがたが行って取ろうとする地は、あなたがたが出てきたエジプトの地のようではない。あそこでは、青物畑でするように、あなたがたは種をまき、足でそれに水を注いだ。しかし、あなたがたが渡って行って取る地は、山と谷の多い地で、天から降る雨で潤っている。その地は、あなたの神、主が顧みられる(ダーラシュ:求める、探す、要求する)所で、年の始めから年の終りまで、あなたの神、主の目が常にその上にある。』(申命記11:10-12)
これが、主がアブラハムの子孫に与えようと400年以上も前から目を注ぎ続け、準備しておられた地である。主がいつも目を留めておられる、このような地を受け継ぐ今年でありますように!
創世のはじめ、地は、沸き上がってくる泉によって全地が潤っていた(創世記2:16)。エデンの園は、人が自分の力で開墾したり、除草や害虫駆除したり等、労苦する所ではなく、主がふんだんに実らせて下さった喜びの園を「守り(シャマール)」「仕える(アバァド)」所である。(同2:15)
しかし御言葉に背き、善悪を知って、神のようになった人間は、エデンから追い出され、額に汗し、次から次へと生え出るいばらやあぜみと格闘しながら地を耕し、労して食を得るようになった。
しかし、主が神の子達に、すなわち、詩篇1篇の「3つの”ず”」を離れ、昼も夜も御言葉を口ずさむテフィラーが相続する地は、年中、主の目が注がれていて、天の雨で潤っており、神の子達はそこで主に仕え、主ご自身が豊かに実らせて下さるものを「守る(シャマール)」のである。
そこはエジプトのようではない、と言われた。こき使われて労苦する所ではなく、主が潤し、ふんだんに実らせて下さった実りを、全被造物の益となるために、正しく管理する仕事場である。
イスラエルの民は、主が用意されたその地へ向かう途中、何度か、エジプトをなつかしんだが、いかに、エジプトがナイルで潤っているとはいえ、所詮、額に汗し、自分の手足で働き、労して食を得る生き方の範疇を出られない地である。私達はそんな、エジプトの流の生き方(しきたり)から、離れなくてはならない。この生き方パターンは、エデンの外側で、自分の善悪判断で生きる生き方であり、私達はそうした「本土・親戚・父の家」から離れ、主が常にその目を注がれ、いつも主が面倒を見ておられる地に入り、そこで、御言葉に留まり、正しく生きるべきである。
エジプト流の生き方を注意深く見極め、離れ、祝福のパターンに入る皆さんでありますように!
今、世界は、エデン園の良き世界とはかけ離れていて、額に汗を流し、労苦し、食を得なくてはならない、どころか、額に汗したくても、食を得たくても、できないような時代になりつつある。
このような時代だからこそ、私達はますます、古い生き方の本土・親戚・父の家を離れ、神様の言葉のしきたり、神様のガードがある縄張りに留まり続けるべきである。すなわち、詩篇1篇の「3つの”ず”」から離れ、主の教えを喜びとし、御言葉を昼も夜も口ずさむテフィラーとなるのだ。
ユダヤ人が暗唱している律法(トーラー)は、約束の地に入る直前で、終わってしまっている。
しかし私達は、イエシュア、すなわち、まことのヨシュアであられるイエス様に従っていくなら、その地に入る事ができる。旧新約の御言葉を守り行い、イエスのあかしを保ち、その地に入って、祝福の実体の中で生きる今年でありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
誰もがうらやむ祝福に入るためには(申命記33:24-25)
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新年おめでとうございます!アブラハムは世の縄張りとしきたりを離れ、神の国の縄張りとしきたりに留まって祝福の実体を受けました。私達もイエス様にあって、その祝福の実体を得る年でありますように!
アブラハムが祝福を受けた理由は、彼が神様の言葉に従い、それまで住み慣れた本土、親戚、父の家の「なわばり」や「しきたり」から離れ、神様が示された、神の国のなわばりとしきたりへと入り、そこに留まる事によってだった。私達は本年最初の主日、その祝福に入るには、どうしたら良いか。その秘訣を得たい。
祝福には大きく分けて、2種類ある。まずは「バラク」という、主が共におられる事を祭司が宣言する「主と共なる祝福」(創世記12:3、民数記6:24)で、2つ目は「エシェル」、これは生活の現場における実際的な豊かさや健康、経済、地位などが増し加わる事の「幸せ」であり、多くの人は、このエシェルを求めている。
イスラエル12部族の一人アシェルは、ヤコブの妾・レアの女奴隷・ジルパが、ヤコブに二番目に産んだ男の子で、エシェルの子音が変化し、アシェル(幸せという意味)という名前になった。(創世記30:13)
モーセは死ぬ直前、このアシェルが、子らの中で最も祝福されている、と祝福した(申命記33:24-25)。
アシェルはどのような祝福の実体を受けたか。それは以下の実体である。
1,「その兄弟たちに愛され」、すなわち、彼に会うと、その兄弟たちも幸せになり、彼が来ると、色々と事がうまく進む。だから、彼が幸せになっても、誰も妬まず、むしろ、彼が幸せになったら皆も一緒に喜ぶのだ。彼がいる職場やプロジェクト、グループは、彼がそこにいるゆえに、皆が祝福を受けるのだ。
皆さんが、そこに属している、というだけで、そのグループ全体が、祝福を受ける「源」となりますように!
2,「その足を、油の中に浸すようになれ。」 油は繁栄(申命記8:8)、喜び(エレミヤ31:12)のしるしであり、油が欠乏する事は、悲哀を意味する(黙示録6:6)。油が足に浸されるまでの祝福は、どれほどの祝福だろうか。また油は、富や物質的な豊かさも意味する。アブラハムが足の裏で踏んだベエル・シェバの北と南は油を産出する所となり、油田が多く、またアシェル族の地・カルメル山の北の平野も、石油を産出する。
皆さんが縦横に歩いて、足の裏で踏んだ所が、ことごとく油が溢れ、したたる所となりますように!
3,「あなたのかんぬきが、鉄と青銅であり、あなたの力が、あなたの生きるかぎり続くように。」
すなわち、主がアシェルの囲いとなり、サタンや泥棒など、災いをもたらす者が、立ち入らないよう、守っていて下さるのである。そのような神の力、神の奇跡が、生きている限り、続く、という祝福である!
皆さんがいる場所の境界が、鉄と青銅であり、あらゆる害悪が入り込む事がない所となりますように!
この、アシェルに与えられた祝福にあずかりたいだろうか?あずるための方法と条件は、詩篇1篇にある。
『幸いなことよ(アシュレイ・ハ・イシュ)。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。』(詩篇1:1) この最初の言葉アシュレイは、エシェルの間投詞(感嘆詞)である。
アシェルにあずかる人の第一の条件がここにある。それはすなわち、3つの「ず」で、悪者のはかりごとに歩ま「ず」、罪人の道に立た「ず」、あざける者の座に着か「ず」。アブラハムが、世のなわばりとしきたりを離れたのと同じように、私達も3つの「ず」によって世のなわばりとしきたりを離れ、第一条件をクリアするのだ。
アブラハムは次に、神の国のなわばりとしきたりに留まる事によって祝福を受けたが、私達は詩篇1:2によってそれを適用するのだ。「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」
神の言葉を昼も夜も口ずさむ。これはまさにテフィリンそのものであり、それがアシェルの第二条件である。
「御言葉の口ずさみ」という、霊的な鉄と青銅のかんぬきを、周囲に敷き、そして神の国のなわばり・しきたりの中へ入り込み、そこに留まるのだ。これによって、世のあらゆる悪どい者や、害毒は、入り込めなくなる。
そして、この地上において豊かに栄える約束が、3節にある。『その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。』(3節)
このコロナの困難な時代にあっても、実を結び、その葉は枯れず、何をしても栄える!それが、アシェルの祝福にあずかった人の特権である。この時代、皆さんがいるグループやプロジェクト、クラスが、何もかもうまくいくようになりますように!また「油の祝福」、すなわち、繁栄と喜びが溢れ流れ、足に浸るまでになり、また、サタンや泥棒が一切寄り付かず、主が鉄と青銅のかんぬきとなって下さいますように!
このアシェルの祝福に豊かにあずかる今年でありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
ヤコブより、離散している兄弟姉妹へ(ヤコブ1:1-5)
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今年最後の主日となった。色々な困難のあったこの年の最後の主日、主は、ヤコブ書を示して下さった。
ヤコブ書は、イエス様の弟・ヤコブが書き、彼は自らを「主イエスのしもべ」と告白して初代教会を力づけた。
ヤコブが手紙を書いた時、どういう時代だったか。教会は迫害の時代へ突入し、キリスト者が互いに集まる事も困難となった。2020年末、多くの教会はコロナの故に交わりが分断され問題になっているが、当時の聖徒達は、密告されたり、集っている所を強襲されたり、コロシアムへ連行され公開処刑されてしまう恐怖もあった。ヤコブはそんな恐怖の中にある離散中のキリスト者達へ、手紙を書いて勇気づけた。『神と主イエス・キリストとの僕ヤコブから、離散している(ディアスポラ)十二部族の人々へ、あいさつを送る。』(1:1)
「離散している十二部族」とはイスラエル十二部族の事ではなく、暗に、散り散りの憂き目に遭っている主イエスにある兄弟姉妹の事であろう。つまり、現代、散り散りになっている私達にも、宛てられた手紙である。
信仰義認の救いを強調したマルチン・ルターは、このヤコブ書を「藁の書」と呼び、聖書正典から外そうとした。それはこの書が、信仰よりも「行い」による救いを強調したからだ。しかし私たちは知るべきである。
ヤコブ書は、イエス様を知らない人を「信仰による救い」へと導くような初心者の書ではなく、信じた故に困難の渦中に遭ってしまった練達の信仰者達を、励まし、行いによって救いを得る術を記した書である、と。
ヤコブは言う。『あなた方が、色々な試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしい事と思いなさい。』
なぜ試練が非常に喜ばしいのか?『信仰が試される事によって、忍耐が生み出されるからである。だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい。』(2-4節)
つまり、試練によって生じた忍耐を、完全に働かせるなら、何一つ欠けた所のない、完全な、成長を遂げた人となり、その人は、世が仕掛けてくるどんな困難にも負けない確固とした盤石さと、『神を愛する者達に約束されたいのちの冠を受ける』(12節)事が約束されているのだ!なんと力強く慰めに満ちた言葉だろう。
『あなたがたの内、知恵に不足している者があれば、その人は、咎めもせずに惜しみなく全ての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。』(5節) 今、難題があるだろうか。問題を解決する知恵が、無いだろうか?求めるのだ!願い求めるなら、全ての人に、惜しみなく、与えられる!
死は、いのちに飲み込まれる! 暗闇は、光の前に消え去る! 嘘・偽りは、真理の前に消え去る!
いかに私達が、少しばかりの力しか無くても、癒やし主であり備え主である主の御名を否まず、真理の御言葉を忍耐し守っているなら、地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時、守られるのだ(黙示録3:8-10)。主は言われる。わたしはすぐに来る。あなたの冠を誰にも奪われないよう、あなたの持っているものをしっかり持っていなさい、勝利を得る者を、神の聖所の柱としよう、と。(同11-12節)
今、私達は試されている。互いに集まる事を、やめたりしないかどうかを。教会をあらわす「エクレシア」のギリシア語の意味は、「集会」「会衆」である。教会の本質が、聖徒が交わりをする所であるからには、教会から「交わり」を取ったら、何の意味も無くなる。書いてある、ある人々のように一緒に集まる事をやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしよう、と。(ヘブル10:25)
この時代、コロナや社会的困難は諸々あるが、そうしたものごときで、交わりを分断してはならない。
むしろSNSや電話がある現在、それらを駆使して、もっと、親密に、聖徒の交わりをするべきである。
教会は、召し出された者達の「群れ」であり、一切のものを一切のものによって満たす方の満ちておられる所、また、天国の鍵が与えられており、ハデスの門も打ち破る力がある所、そして、キリストの花嫁だからだ。
サタンは、ほえたける獅子のように、食い尽くすべき獲物を狙っている。獅子は吠えて、それを怖がって群れから飛び出した一匹に襲いかかる。サタンは、将来の不安を煽ったり、「皆に迷惑をかけてしまうのではないか」「かけてしまったのではないか」といった後ろめたさを、また、兄弟姉妹を疑わせ、詮索させ、あら捜しさせて来る。私たちはむしろ、イエスにあって群れ、イエスの御名によってサタンを踏みつけるべきだ。
困難な時代、迫害の時代になったとしても、イエス様の忍耐の言葉を守り、彼の御名を否まず、勝利を得る者、神の聖所の柱となっていく皆さんでありますように!どうか一人一人がこの時代、主に用いられる器として整えられ、完全な者となっていくこれからでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
高貴な信仰の記録を永遠へと残していこう(マタイ2:13-15)
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アドベント(降誕節)第四週。いつものこの時期は、いよいよクリスマス間近、という雰囲気で盛り上がっている所だが、今年は、今まで経験した事が無いような年となってしまった。コロナ感染数がいよいよ一日三千人を突破し、陽性反応を示す方も身近になりつつある。クリスマス礼拝を行う事は毎年、当たり前に思って、疑った事もなかったが、今、世界的にそれが出来ない状況だ。黙示録の時代は、いつ来てもおかしくはない。だから私達はいつも、「主イエスよ、来て下さい」(黙示録22:20) と求め、心を備えるべきである。
さて、博士達は、赤ちゃんとなって来られたイエス様の所へと星に導かれ、礼拝を捧げて大いに恵まれたが、主から戒めを受け、ヘロデの所には寄らずに帰って行った後、御使いが夢でヨセフに現れ、言った。
『幼な子とその母を連れて、エジプトに逃げなさい。そして、あなたに知らせるまで、そこに留まっていなさい。ヘロデが幼な子を捜し出して、殺そうとしている』(マタイ2:13-15) 主に選ばれて、メシヤの育て親として任命された男女の記録から、多くの苦労の日々と、その中にひときわ香る、高貴な従順が漂ってくる。
もし主からこの使命が与えられていなかったなら、彼らはある程度、平穏無事な信仰者夫婦として人生を全うしていたかもしれないが、特別な使命が与えられた故に、「平穏」とは言えない人生だった。しかしそれは、冒険的で退屈しない、そして絶対的に「無事」な、誰よりも祝福された歩みだった。なぜなら二人とも、権威に対して従順だったからだ。主が与えられた権威に従順である事こそ、絶対的に安定した歩みである。
子を産んだばかりの母親としては、夫にはなるだけ外国に移住したりせず、安定した所で働いて、そして自分は、子供を養う事に専念したい。そんな、将来が思い描けるような、安心感が欲しい所かもしれない。
しかしヨセフはある晩、突然、「御使いからのお告げを受けた」「すぐにエジプトへ逃げよう」、と言い出す。
それでもマリヤは夫に従い、夫は主に従って、夢を見た「夜の内に」、そこを発って、エジプトへ下った。二人とも、驚くべき従順である。この従順こそが、主が彼らを特別に、メシヤの父母として任命した理由である。
従順はいけにえにまさる、と書いてある(1サムエル記15:22)。主が私達に求めておられる事は、私達の「体(ソーマ:思い、意思、感情、霊、肉体)」の全部を、神に受け入れられる、聖い、生きたそなえ物として捧げる事。それこそ霊的な礼拝であると書いてある(ローマ12:1)。今回のこの、日常通りでないクリスマス礼拝。逆に考えるなら、今まで毎年12月に、パターン的にこなそうとしていた事が覆えされ、出来なくされたのだから、今まで見いだせなかった、さらに優れた、霊とまことによる礼拝を捧げるチャンスでもある。
『たとい、わたしは肉体においては離れていても、霊においてはあなたがたと一緒にいて、あなたがたの秩序正しい様子とキリストに対するあなたがたの強固な信仰とを見て、喜んでいる。』(コロサイ2:5)
今、全世界から礼拝する場所や空間がどんどん失われているが、礼拝すべき場所は、あの山でもこの山でもない。父なる神が求めておられるのは、従順を尽くした、霊とまことによる礼拝である。(ヨハネ4:23-24)
今年はコロナゆえに、ある所では、兄弟姉妹の親しい関係が裂かれ、あるいは夫婦関係が、親子関係が、仕事が、会社経営が、子達の学びが、裂かれた。ある人は、疑心暗鬼に駆られ、あの人はコロナではないだろうか、自分がコロナにかかったのは、あの人のせいではなかろうか、コロナにかかってしまった故に家族や同僚を、自分の団体全体を、苦しい目に遭わせてしまった、人生台無しになってしまった、などと思わせて来た、このコロナこそ、またそれを考案した者こそ、本当に呪って踏みつけるべき、悪辣なものである。
今この時、私達は苦しい目にあっているかもしれない。不便かもしれない。しかし信仰の先人達は、迫害や疫病の中でも、主に対して霊とまことを尽くし、主の御言葉にしがみついて行った。
今、私達は、コロナ禍という、今まで経験した事の無い困難の時代に入っている。それは逆に、主に対して信仰の高貴さを示し、霊とまことを尽くした礼拝を捧げるチャンスである。「今まで通り」が出来ないゆえに、ある人は礼拝を止めてしまうかもしれない。ある人は、もっと伸びるかもしれない。まさに試されている。
人間関係や仕事、学業を引き裂く、このサタンの悪あがきであるコロナに対し、私達はどう対処すべきか。
恐怖で、絶望で、疑心暗鬼で、分裂で対処するなら、まさにサタンの思うツボである。私達はむしろ信仰の先人のように、愛で、忍耐で、聖なる趣で、高貴さをもって対応し、私達も、あの栄光の系図、『アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図』(マタイ1:1)に連なり、この時代を、「高貴にふるまった」という記録が、天の書物に書き記されていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
