メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ
主日礼拝
神の「非常に良かった」を回復する私たちキリスト者(創世記1:31)
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週報/メッセージ(説教)概要
先週は、「霊的世界史」に残るような記念すべき週だった。2千年前の教会発足以来、初めて、色々の国のキリスト者が、一丸となって、色々の言語で、創世記の天地創造の御言葉暗唱を、完走したからだ。
これまで、ユダヤ人は会堂においてトーラーを暗唱してきたものの、キリスト者が組織的に御言葉暗唱をした事は、ただの一度も無かった。しかし神の子となったキリスト者が、天地創造以来初めて組織的に暗唱を開始し、先週、天地創造の箇所をテフィリンし終えた。天においてどれほど喜びが沸き起こっただろう。
そのような瞬間に、リアルタイムで参加し、日本語の言語でその一端を担えた事は、なんと栄誉な事だろう。
本日、私達はこの幸いを噛み締めつつ、主の「非常に良かった」の法則に、共にあずかりたい。
「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。」(創世記1:31) 神様は人を、ご自身のかたちに創造し、天の下にある全てのもの、植物、全ての生き物を支配するように、と、創造された。そしてついに時至って、最後に人が創造され、その被造物の中に人が組み入れられた時、神は見て、見よ!非常に良い!素晴らしい!と感嘆し、大喜びされた。
しかし現代、この世界を見るに、「非常に良い」とは見えない。自然界は人に脅威をもたらし、今年は特にコロナという疫病や、大雨、ばったの被害に悩まされている国々がある。これはひとえに、彼らが神の言葉をあなどり、意図してそれを破っているからだ。地は、人が神の言葉を破った故に呪われ、人を労苦させるために、わざわざ、茨やあざみを生えさせ、人は一生、額に汗し、労苦しながら糧を得なくてはならない。
罪とは、神の御言葉を違反し、神が建てた創造の秩序を破壊する事である。人が御言葉に逆らったり混ぜものをする時、 神が創られたあらゆる「非常に良し」が、割られてしまい、効力を失ってしまう。人が創造秩序を割ってしまったため、自然界は「非常に良かった」から離れ、呪われてしまい、疫病や洪水などの「茨やあざみ」を産出するようになった。それで被造物は今、うめきつつ、神の子の現れを待ち望んでいる。
呪われてしまった被造物を回復するには、どうしたらいいか? 御言葉に「逆らった」故に、秩序が割られてしまったからには、御言葉に「従順する」事によって、創造当初の「非常に良い」が、帰ってくるのである。
『主の「おきて(トーラー)」は完全であって、魂を「生きかえらせ(シューブ)」』(詩篇19:7a) シューブとは「帰る」という意味で、トーラーは、神の言葉そのものである。完全な神の言葉、「良し」の根源そのものである御言葉は、罪によって割られてしまった、あらゆる人、もの、事から、神の「良し」を帰らせるパワーがある。
私達の中に御言葉をどんどん浸透させて行くと、創造当初の「非常に良し」がどんどん帰って来るのである。
御言葉を暗唱して行く内に、まず魂が回復される。御言葉を1節1節繰り返して宣言し暗唱して行くごとに、罪と肉に埋もれてしまった魂は、神の息を吹き返し、耳が、脳が、心が、霊が、どんどん蘇生して行く。
主の「おきて(トーラー)」は完全であると書いてあった。完全なる主の御言葉が、世界を創造し、そして御言葉であられるキリストによって、全宇宙も、全被造物も、全生物も、存続している。だから、テフィリンする事によって、御言葉であられるキリストが、私達の内に刻み込められ、魂の生き返り(シューブ)が行われ、罪によってぼろぼろになってしまった人生に、神の「非常に良かった」が息吹かれ、再構築されて行くのだ。
事実、テフィリンによって体の癒やしが起き、必要が満たされ、家族の救いが起きた報告がなされている。
一人の罪人が悔い改めて、神に帰る時、天において大きな喜びが沸き起こり(ルカ15:7,10)、神が人を創造した当初の、「見よ!非常に良い!」という感嘆が、湧き起きる。先週、世界において同時に、多くのキリスト者が天地創造箇所を暗唱し、宣言する、という快挙を成し遂げた。天において、どれほど大きな喜びが沸き起こっただろう。天においてばかりでない。被造物の間にも、どれほど喜びが沸き起こっているだろう。
私たちは、御言葉によって神に似せて造られ、「非常によかった」「素晴らしい」と、神様から大喜びされてしまっている一人一人である。そして、御言葉によって、地を支配する者である。
私たちは、主が創造してくださった「非常に良い」を、的確に探り当てる「センサー」をフル活動させ、毎日の生き方の中で大いに感動し、感情表現を宣言しつつ、神と交わりをして行くべきである。
御言葉の中で生き、さらに御言葉を人々に伝え、神の「非常に良かった」を多くの人々に、そして、全被造物へと、もたらして行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
神の似姿として神と交わり、神といのちを共に生きる(創世記1:26-28)
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週報/メッセージ(説教)概要
7月から始まった世界同時テフィリンは、2ヶ月で創世記1章を終えた。ほんの1章を暗唱しただけで、神様はこんなにも被造物を尊く創られたのかという感動と、多くの悟りを得た。テフィリンをすると神様の御思い、意思、感情を感知する感受性が格段に豊かになる。今まで御言葉を1聞いて1理解していたのが、10も20も理解できるようになる。今回も、主は私達をどんなに尊いものとして造られたかを、確認したい。
遠い昔、世界の基がまだ置かれる前から、神様は私たちをキリストの内に選んでおられ、御前で聖く、傷のない者にしようと定めておられた。ただ御心のままに、私たちをご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられ、天にある全ての霊的祝福をもって祝福しておられた(エペソ1:3-12)。そしてついに時が満ち、三にして一であられる神が、思いと意見を一つにして御心を実行に移された。『さあ、人をつくろう。われわれのかたちに、われわれに似せて』(創世記1:26) こうして人は造られ、男と女とに創造された。
神は人を、ご自身のかたちとし、またご自身に似せて創造され、地の全ての生き物を支配するようにと造られた(26節)。さらに、人を祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」(28節) 私達は、他のどんな被造物とも違い、神ご自身の似姿としての権威、力、尊厳を帯びた、尊い尊いご性質と、そして、神ご自身の美しい品性が、与えられた。
そして特別な使命として、地を従え、全ての生き物を支配する任務が与えられられ、さらには、私たちを、神ご自身との愛の交わりの内に、価値観を共にし、喜びの体験を共に分かち合うものとしてくださった。
あたかも夫婦が共に生活し、共に同じものを見、共に感動し、いのちの喜びを共に分かち合うかのように、イエス様は、私たちが創られる前から、共にいのちの喜びを分かち合う相手として、定めておられたのだ。
神様は、私たちに託された地の全てのもの、全ての生き物を、神様の愛と品性と尊厳をもって、イエス様にあって見守り、支配するようにと願っておられるだけでなく、全被造物もまた、切実な思いでそれを願っている。私たちのような神の子が現れ、支配する事を。今、人は罪を犯し、神から離れてしまっている故に、被造物はうめき、産みの苦しみをしつつ滅びの束縛から解放される事を待ち望んでいる。(ローマ8:19-22)
だから私たちは、イエス様がするように、造られしものの幸福のために、大切に支配し治めるべきである。
現代、家庭内暴力(DV) が問題になっているが、暴力的な力による支配は、イエス様の愛の支配の真逆である。イエス様の愛(アガペー)は、相手を大切にする無私の愛であり、その統治は、愛の思いやりに満ちた統治である。もし今、私たちが、暴力的な支配や、わいろを取る等の不正や、神が配分されたものを、ごっそり我が物とするような支配が、はびこっているのを見るとしたなら、それはイエス様の名によって、足の下に踏みつけ、征服し、支配権を分捕り返さなくてはならない。神は次の命令をしておられるからだ。
『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ(カーバシュ)。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ(ラーダー)。』(28節) カーバシュも、ラーダーも、それぞれ「踏む」「征服する」「支配する」の意味があるが、私たちは暴力で踏みにじるやり方ではなく、イエス様のように、死はいのちによって飲み込み、愛で覆い、愛で征服するのである。一体、そのような支配は、どうしたら出来るのだろう。
それは御言葉を暗唱する事で、体得できるものである。なぜなら御言葉は、神の意図そのものだから。
御言葉なる神と直接交わり、その意図を知り、実感し、そうこうしている内に、神の聖なる感覚が、自動的に流れ込んで来る。創世記を共にテフィリンして来た方は、その感覚が流れ込んできた事を実感したはずだ。
御言葉が刻み込まれていくと、創造の当初、主が人に備えてくださった統治する権威と力は、自然と身につく。その仕方も、仕草も。私たちは「統治する」というと、何か力んで意気込んでしまいがちだが、そうなる必要は、一切無い。テフィリンしていれば自然に、イエス様のように安息して、余裕で統治するのだ。
創世記1章をテフィリンしたら、神様の意図をこんなにも実感できたのだから、さらに他の箇所もすれば、どれほど、増し加えられるだろう。テフィリンは、生活実践型、生活密着型の福音を、いとも単純に得られる手段である。人を創ったパワーのある御言葉が、人を造り変えるのだ。テフィリンによって、ますます神様の御思いを知り、正しい統治者となっていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
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三位一体の神が、人を尊く創られた物語(創世記1:26)
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週報/メッセージ(説教)概要
『神(エロヒーム)は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。』(創世記1:26a) 7月から始まった世界同時テフィリンは、天地創造の佳境に入り、いよいよ、人を創って祝福する段に入った。今回、私たち人間は、どんなに神様から尊いものとして造られたか、この節から確認したい。
神様はご自身を、「われわれ」と、複数形で表現された。神をあらわす語エロヒーム אֱלֹהִיםは、エロアーאֱלוֹהַּ(崇高なるお方)」の複数形で、「崇高なる方々」とも訳せる。唯一であられるはずの神は、なぜ複数形で表現されたのか…。聖書の最初、創世記1:1の原文は「べレシート・バラー・エロヒーム(はじめに、創造した、崇高なる方々が)」であるが、ここは複数形名詞・エロヒームに対し、単数形動詞のバラー(創造する)が当てられており、これは文法ミスとも思える(例えばThey is GODと書くような)尋常でない表現である。
ユダヤ人の至宝であり、全人類の真理である聖書が、最初から文法ミスを犯しているのだろうか?いや、人がどう見ようと感じようと、ヘブライ語聖書は、一点一画で、真理そのものを正確に表現しているのだ。
神は、本質としては一でありながら、人格(パーソン)は、三であられる。これをすなわち三位一体という。
その三の人格(本来は「位格」)の第一は「父」、全てを企画設計するお方であり、第二は「子」、御父が企画設計した事を、実行するお方、そして第三は「聖霊」、御子が実行された事を助け、保全・保護される。
そして父、御子、御霊が、天地創造の場面で唯一、志を一つにして言われた事は、「さあ人を造ろう」であった。それも、「われわれの形として、われわれに似せて」。神は人を、実に、特別な存在として創られた。
神は、特に心して造られた人間に、どのような役割・どのような目的を与えられたか。『彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配(ラーダー )するように。』(創世記1:26b)
「ラーダー」の原意は、「踏み固める」、そこから「征服する」「支配する」の意味となる。つまり人は、本来、悪しき者や、御心にかなわない事がはびこる時、それを踏みにじり、征服し、全被造物が健全に安息を保つよう、正しく統治するための支配権が、委任されている。私たちはこの事を、しかと心に留めるべきである。
私達は、罪人の支配に押されているべきではないし、世の隅でひっそり清貧に生きている場合でもない。
世をキリストにあって正しく支配し、罪や汚れが起こった時は、しっかり足の下で踏み、征服すべきである。
この正しい統治とは、キリストの権威の下に服してこそ、可能である。私たちは与えられている分を超えて、自分が神のようになろうとしてはならない。聖書の中で、三位一体の神が一丸して人間に反対されたケースは、善悪を知った人間が、いのちの木にまで手を伸ばす危険があった時、また、バベルの塔を築いて名をあげようとした時であった(創世記3:22, 11:7)。いずれも、罪ある人間が神のようになろうとした時である。
神が三位一体として全力で人をバックアップする時とは、宣教のため全世界へ人を遣わされる時である(イザヤ6:8、マタイ28:19)。神はそれ程、救いの働きを尊ばれた。父・御子・御霊が、公に人前に現れたのは、イエス様が水のバプテスマを受けられた時で(マルコ3:16-17)、イエス様こそ、全人類の救いの中心、福音の働きの中心である、と、全力で強調された。父・御子・御霊は、様々な賜物や奉仕、働きの根源であり(1コリント12:4-6)、そしてバプテスマも、祝祷も、父・子・聖霊の御名による(マタイ28:19,2コリント13:13)。
このように三位一体の神は、イエス様こそ生ける神の御子キリストであると強調され、また救いの働きを全力で助け、働き人を支え、救いのわざ、神の国の仕事に参加する事を、全面的にバックアップされる。
遠い昔、天地万物は、父なる神が設計し、御子キリストにあって創られた。三にして一であられる神は、心と思いを意思を一つにし、「さあ、人をつくろう。われわれのかたちに、われわれに似せて」と言われ、人が創られる前から人を愛し、人を喜び、人のために次々とこの世を構築して行き、そしていよいよ最終段階に入った時、全てのものを治めるように、と、神に似たものとして、人を創られた。人が男と女として創られ、彼らが全被造物の中におさまった時、神は、はなはだ喜び、とても良い!と評価された。
サタンが人をそそのかし、罪と死の奴隷にしてしまった時、神は早速、救いのご計画を発動し、御子イエスキリストご自身が、自ら犠牲となって救いのわざを達成された。そして聖霊は、弱い私たちを助け、私たちが神の子として御国を受け継ぐまで、助けておられる。そんなにも人は、神から尊ばれた存在なのだ。この本質を理解し、その本質の中に生きる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
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アブラハムの「思い切りの良さ」を身に着けよう(創世記12:1-15:1)
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アブラハムは、全ての信仰者の父である。彼の素晴らしさは、何と言っても、主の言葉を即、実行に移す「思い切りのよさ」である。普通の人が聞けば、「えっ」と思えるほど、大胆に行動してしまう。最愛の子イサクを全焼のいけにえとして捧げなさい、と言われた時などは、その翌朝、早速その場所に出かけた程だ。
今回、彼の御言葉に対する思い切りの良さと、それによって受けた祝福の法則から、恵みをいただきたい。
彼は75歳の時、主から「父の家を離れよ」と言われた時、彼はつべこべ言わず、すぐ離れ(12:4)、次の節では、もう約束の地カナンに入ってしまった。実に思い切りが良いが、彼はそこから、主から許容された範囲外へと行ってしまった(9節)。そこではききんに遭い、その不足を満たすために、さらに主が示した地から遠くエジプトへと降ってしまった。そこに神を恐れる文化は無く、みんな弱肉強食の価値観で生きていた。
彼は恐れ、媚びて、悪知恵を働かせ、彼の美しい妻サラを、妹だと言う事によって良い待遇を受けられるだろうと思案し、実行した。結果、サラはパロに召し入れられ、その代わり彼は多くの家畜や資産、男女の奴隷を得た。神は彼を責めるのではなく、パロを責め、サラは返って来た。パロは彼を恐れたので、エジプトの財はそのまま持たせ、彼は、神が指定された地に戻る事が出来た。これは、神の一方的な恵みである。
私達・神の民が栄える方法は、結局、主が行けと言われた所に行き、主が留まれと言われた場所に留まる事である。そうするなら主が雨を降らせ、百倍を実らせ、敵を恐れさせ、自動的に栄えさせてくださるのだ。
13章でも、彼の思い切りの良さが発揮される。アブラムと甥のロトは互いに持ち物が増え、それぞれの羊飼いの間で争いが起きるようになった。しかし彼は気前よく、目下のロトに、先に、行きたい所を選ばせる。
クリスチャンは何かと、和解・共存しようとしがちだが、「ソドムを良い所」と判断して行ってしまうような者と、同じ財産を共有してはならない。たとえ肉親でも、霊性が違う人、種類が違う人には、気前よく与えてでもして、離れるべきなのだ。事実、ロトと別れたとたん、主からの祝福の言葉が怒涛のように来た。この地の東西南北を永久に与える、子孫を地のちりのようにならせる、その地を縦横に歩き回りなさい、と(13:14-17)。
14章では、現イラク周辺の4人の王が、現イスラエル周辺の5人の王達に戦いを挑んで勝った記事が記されているが、その時、ソドムに住んでいたロトが捕らえられてしまった。アブラムは、思い切りが良い事に、それを聞いた時、彼の家で生まれた僕たち318人を引き連れて行き、次の節では打ち破っており、さらに次の節では、もう取り返している(14:14-16)。普通、こんな破竹の勢いの強力な王達に、わずかな手勢で戦いを仕掛けるなど、無謀の極みだが、彼は、主の約束を、握りしめていたのである。主は必ず自分に子孫を下さる、自分を祝福する者を主は祝福し、呪う者を呪ってくださる、という聖なる計算をしたのだ。
実際、主は彼を祝福し、勝利させた。彼は9人の王の上に君臨できたはずであるが、そんな事は一切興味を示さず、靴紐一本ももらわない、と言った。なんという気前の良さだろう。主が勝利を与えて下さったとはいえ、そんな財産を、彼は得てはならなかったのだ。その王達は今まで、人から分捕り、人を泣かせて所有したものである。そんなものは靴紐一本でももらったら、悪いものがつきまとってしまう。私達は確かに世において王であっても、イエス様のように、大切に、いつくしみ深く、楽しく、統治し支配するべきである。
アブラムはむしろ、サレム(平和)の王、メルキゼデク(義の王)から、パンとぶどう酒を受け、祝福を受けた。
このメルキゼデクこそ、イエス様であり(ヘブル5-7章)、アブラムは、メルキゼデクに十分の一を捧げた。
その後、主は言われた。「わたしがあなたの盾、そしてあなたへの飛び抜けて素晴らしい報酬である」と(15:1原意)。 主の祝福とは、莫大な富や栄誉などをもらうという次元ではない。主ご自身こそ私たちの莫大な報いであり、それは、世のいかなる栄光や富にはるかに勝る報酬である。主ご自身こそ、私達キリストを信じる信仰者の群れ(エクレシア:教会)が受ける「相続」なのだ。(エペソ1:20-23、1コリント3:22-23)
アブラムの祝福の源は、主の言葉を即実行に移す「思い切りの良さ」と、主の言葉を握りしめた故の平安から来る「気前の良さ」であった。また、彼の失敗は、主の言葉の範囲を超え、世を見て、恐れ、媚びた事だった。世の富や栄光より、主イエス様ご自身を慕い求め、御言葉を即、実行に移す「思い切りのよさ」を身につけ、地上において栄えていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
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時代を祈りで支配し栄える者となれ(ダニエル1章)
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週報/メッセージ(説教)概要
今年は、歴史的な一年である事は間違いない。中国武漢でのコロナに始まり、世界がコロナで弱っている最中、中国共産党は世界各国へ様々な侵略を始めたが、その直後、中国は洪水や台風、ばった、雷、雹などの災いが次々降りかかり、普段は絶対、聖書や神について言及しない日本のメディアさえ、出エジプトの記事を引用したり、神の罰と書くようになった。神は、表現しておられる。「わたしはある」と。生きておられる神が、「神はいない」と暴挙を働く者をどのようにあしらい、また、神を信じ、畏れ敬い、神の御旨を行おうとする人に、神はどのように報われるのか。本日、時代に働かれる神のわざを読み解く目を養いたい。
今、世界が今一番求めているものは、コロナに効くワクチンだろう。通常、開発から実用化までに何年もかかるが、アメリカはトランプ大統領によるワープ・スピード作戦が功を奏し、今、早くも治験の最終段階へと入って、3万人を対象に検証しており、これがパスされたなら、即時、大量生産に入る体制に入っている。
もし米国が真っ先にワクチンを世に出せば、トランプ政権のアメリカは大いに栄誉を受けるだろう。一方、コロナを拡散させただけでなく各地へ侵略をしている中国共産党は、世界中から叩かれ排除されるだろう。
聖書で一貫して語られている事は、神を信じ、神の御心どおり生きる人には、栄誉が与えられるが、神を無いものとして暴虐を働く者は、呪われ、あざけりと衰退が待っている事である。私たちは、祈るべきである。
トランプ大統領は、以前は世の罪と欲望に貪欲な人ではあったが、神を敬うようになり、彼の背後では、保守派のクリスチャン達が、祈りにおいて、実質において、強力にバックアップしている。
彼に似た聖書の人物といえば、バビロンの王・ネブカデネザル王かもしれない。ネブカデネザルは当時、世界を制覇し、エルサレム神殿の宝物を奪い、多くのユダヤ人をバビロンへと連行したが、それは当時、ユダヤ人が、主に忌み嫌われる事をし続けた故に、主がそれらを彼に渡されたからだ。(ダニエル1:2 )
神が、汚れた者達に満ちたエルサレム神殿から、バビロンの宝物庫という最も安全な場所に移したのだ。
ネブカデネザル王は、その後、好き勝手な振る舞いをする。自分の夢が解き明かせない知識人達を虐殺しようとしたり、偶像を建てて無理やり拝ませたりしたが、イスラエルの神・主を敬うダニエルと、その3人の友人達を通して働かれる神を恐れるようになり、神である主を拝むように、と、全世界にお触れを出した。
当時、ユダヤ人は一切、神を伝えず、神の栄光を広めるより、むしろ、貶める事ばかりしていたが、ネブカデネザル王は、そんなユダヤ人がしなかった事、神の栄光を全世界に知らせる事に、大いに用いられた。
そしてネブカデネザル王を裏で支配したのが、ダニエルと3人の友人である。『この四人の者には、神は知識を与え、全ての文学と知恵にさとい者とされた。ダニエルはまた全ての幻と夢とを理解した。』(17節)
ダニエルは結局、バビロン、メド・ペルシャの3つの帝国で、重要な地位を務め上げ、栄えた。(20-21節)
それは、彼自身、自らを清く保った故、神が用いたからである。どれ程清く保ったか。それは、彼を訴えようとする者達が、彼についてあら捜ししても、訴えるべき口実や怠慢は、一切、見出だせなかった程である。
神は、きよい器をこそ用いられる。人でさえ、汚物がついた皿やコップは用いない。たとえ、黄金で造られていようとも、汚物がついているなら、主は黄金の器よりも、清い土の器のほうをこそ用いる。
結局、時代を動かし、当時の大勢の人々に神の栄光をあらわしたのは、ダニエルであった。
現代も、同じである。トランプ大統領が今なおその働きで成功しているのは、その背後で多くのクリスチャンの祈りがあり、それが彼を支えているからだ。天声でも、彼が大統領になる前から、祈りを積んでいた。
私たちも、祈るべきである。世界情勢のために、またアメリカで開発しているワクチンが速やかに完成し、神を敬う民に軍配が上がり、コロナであえいでいる全世界が慰められるように。また、共産主義が世界から根絶され、イスラムの暴挙も根こそぎ取り除かれるように。これら全てを通して、神があがめられるように。
ネブカデネザルを裏で動かしたのは、忠実な神のしもべ達、きよい器たちであったように、主は、主の御言葉をいつも思い巡らすテフィリン世代を、時代の支配者の上に立てられる。私たちもダニエルのようになり、この時代の忠実な主のしもべとして、霊において、祈りにおいて、裏で世界を統治していく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
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神の「良し(トーブ)」とは(創世記1:25)
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先月より、世界のテフィリンチームと共に同じ創世記1章をテフィリンしているが、同じ御言葉を何百回と反芻していると、この31節の、ほんの数分で読めてしまう箇所から、深い知識や奥義を、大きな喜びや深い慰めを、生きるための秘訣などの宝を、次から次へと掘り起こしている。本日も創世記から恵みを得たい。
『神は地の獣を種類にしたがい、家畜を種類にしたがい、また地に這うすべての物を種類にしたがって造られた。神は見て、良し(トーブ)とされた。』(創世記1:25) 神は、動物や木や草を、鳥や魚を、種類にしたがって創造された。「種類にしたがって」の言葉が、この節で3回、1章全体で10回も繰り返されている。
神がそれらを「良し」としている所から、神の価値観が知れる。神は、多様性を「良し」とされているのだ。
神は、一人ひとりを、固有の存在として創造された。AはAとして、BはBとして。決して、AもBもCもひっくるめてZになれ、とは言わない。それは「種類にしたがって」に反する。それなのに、いかに人は、自分と他人を比べて、自分はだめだと評価したり、神が造られていない別のキャラクターを演じて、疲弊してしまったりしているだろうか。動物や鳥、魚は、しない。あの鳥みたいに美しくなりたいとか、あの獣みたいにうまくできるようになりたい、それに比べて自分はだめだ、などと思って、絶望したり、自殺したりは・・・。
神は、種類にしたがって、様々な個性をもった海の魚、空の鳥、野の獣、家畜、地をはう全てのものに対し、「生めよ、増えよ」と、祝福を宣言された。色々な種類が、それぞれ与えられた個性の本領を発揮し、その全体が、神の栄光をほめたたえる。それが、神の「良し」である。実際、ユダヤ人は、競争教育はしない。
むしろ、それぞれ神から与えられた得意分野を探し、見つけ、それを育成し、関係性を大切にしながら育って行く。彼らの教育法は、御言葉中心であり、小学からずっとクラス替えはせず、互いに同じ御言葉を学び、あるいは同じ学科を学び、それを議論し、口論し、そうして互いが、それぞれの分野でエキスパートに、リーダーとなって行こうという、リーダーシップを養う教育法である。これをハブルタ(友達)教育という。
神の「良し(トーブ)」とは何だろう。私達は、トーブを、パーフェクト、ビューティフル、グッドとして習ったが、一体、誰にとってのパーフェクト、ビューティフル、グッドなのだろうか。創世記から分かる事は、トーブとは、神が「あれ」と言われた通りのまま、また、神が名を付け、神が使命を付与した、そのまま、が、トーブである。
すなわち、神が私達を創造して下さったそのままを、神が付与された意図をそのままを生きる事である。
トーブは、誰か人間基準の「良し」では、決して、ない。怠け者にとっては、怠ける事が良しであるし、共産党にとっては、神が無い事、人民は意見や知識を持たず「見ざる、言わざる、聞かざる」なのが良しである。
神のよしではなく、人間の良しに従って行くと、必ず、死に通じる。他と比べて優れているとか、劣っているとか、良いとか悪いとか、そういった神から離れた善悪判断こそ、死をもたらす概念である。神は言われた。善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ、と。
私達は、他人の目から見る”良かれ”から解放され、神のトーブへと入って行くべきである。また、自分の目の”良かれ”からも解放され、サタンからの、御言葉に反する方向へと仕向けるささやきに、勝利するべきである。サタンがエバをそそのかした時、『女が見ると、その木はまことに食べるのに「良く(トーブ)」、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった』(創世記3:6)ので、彼女は食べてしまった。
「神が創られた通り」「神の意図どおり」。それが真のトーブであり、エデンをキープする道、祝福の道である。
私達は神のトーブを知り、その道を歩むべきである。私達は、分からないかもしれない。はたして今、自分の道が、神のトーブに沿っているだろうか。どうしたら、神のトーブを知り、そうある事ができるだろうか・・・。
それは、とてもシンプルである。「御言葉どおり」がトーブである、という事は、御言葉を暗唱し、昼も夜も口ずさみ、御言葉の通り歩む事。すなわち、テフィリンする事である。御言葉を暗唱すれば、神の基準を知り、神のトーブは何で、今、自分がどのような地点を歩んでいるのかが分かるようになる。そして日々の選択において、どちらが神の目に良いのかが分かるようになる。そればかりではない。神のトーブに反するものが、自動的に嫌いになり、神のトーブに則したものが、自動的に好きになるようになって行く。
今、私達も教会も、神のトーブを見いだし、伝えていかなくてはならない。神様の御心であるトーブな生き方を正しく教え、多くの人々を養い、栄光の次世代を産み出していく皆さんでありますように!
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まことの光をどんどん灯して行くテフィリン世代(創世記1:14)
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週報/メッセージ(説教)概要
今、私達は、世界のテフィリンチームと共に同じ創世記1章をテフィリンしている。同じ御言葉を何度も口ずさんでいると、今まで気づかなかった天地創造の真理に光が照らされ、自分には関係ないと思っていた内容が、実は今の自分にとても密接に関わっていたのだと気づいたりする。本日も恵みを分かち合いたい。
『神は仰せられた。「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。』(創世記1:14) 神は創造の第四日、昼と夜とを具体的に仕分けるために、また、時や時期を定義的に仕分けるため、大空に光る物、すなわち、太陽や月、星々を、すなわち、光を放つ「発光体」を置かれた。これら発光体がつくられた理由は、4つある。
その第一は「しるし(オート:象徴、証拠、記念)」のため、第二は「季節(モーエド:約束された時、場所での、約束された出会いや集会、すなわち「祭り」)」のため、第三は「日(ヨーム:日の出から日没まで、暑くなる期間、一定の期間)」のため、第四は「年(シャーネー:歳、公転周期、周回する期間)」のためである。
それでは、これら発光体が示す「しるし」は、誰が受け取るものだろうか。また、約束された時に、神と約束の出会いをする「祭り」は、誰が行うものだろうか。それは、人間である。つまり神は、当時まだ創られていない人間を念頭に置いて、これらを創られたのだ。人や地球よりも、遥かに巨大な太陽や星々は、なんと、人が神との約束された出会いを、すなわち祭りをできるように、また、時期を示すために、造られたのだ。
大人は赤ちゃんのために、赤ちゃんがすっぽり入るベビーベッドを用意するが、神のスケールは天文学的に大きく、私達が生存し、また神と出会い、神を知り、神を喜べるために、壮大な宇宙を創られたのだ!
聖書で示された最も基本的な「祭り」には、七日ごとに訪れる安息日が、新月ごとに来る新月祭がある。
また、初穂の祭りや、七週の祭り、仮庵祭などは、収穫と密接に関係しており、実りを備えて下さった神に感謝し、喜びの交わりを神と共にするようにと、主はその日時を知らせるために、天の発光体を創造された。
人は、太陽や月、星の運行を見て時期をはかり、また、季節季節によって実る果物や穀物の種類に従って、種まきや刈り入れをし、季節ごとに実った食物を喜び、神に感謝し、神と交わるように、定められている。
これらの発光体は、光そのものではなく、光を放つものである。光そのものは、第一日目に創造された。
イエス様こそ、天地に存在する全てのものを、真理で照らす「真理の光」そのもので(ヨハネ1:9)、全ての人のいのちを育む「いのちの光」である。イエス様は、私達の本来のあり方を照らし、イエス様に照らされた人は、どんどん輝きを増し、本来的に神が備えて下さった役割へ回帰し、意義ある人生へと導かれていく。
今、私達は、神の言葉を暗唱するテフィリンをしているが、御言葉を1節また1節と暗唱できるようになっていく内に、御言葉なるキリストが、つまり真の光であられるキリストが、どんどん私達の中に「在れ」「在れ」と、その存在が増して行き、神を知る知識も、世についての理解も、ますます増し加わって、天地創造の神のパワーと知恵が蓄えられて行く。そうして闇が光へ、不毛の地が、色々な果樹を実らせる所へ、いのちの無かった所にいのちが満ちていく。
創世記1章は、いわば「仕分け」の章である。神が「**あれ」と、ことばを宣言する度に、茫漠として何も無かった所が、次々と仕分けられ、ものが生じ、神による名付けがなされ、意味付けがなされ、使命が与えられ、それが完成した時、「良し(トーヴ)」と宣言し、そして夕があり、朝があった。 私達も、ことばによって区切って行くのだ。茫漠として何もない状態であるなら、言葉の宣言によって、神の秩序を取り戻すのだ。
エバが、蛇の誘惑によって惑わされてしまったように、私達は悪い人間の「闇があれ」「茫漠があれ」の言葉に汚されてはならない。むしろ私達は、良き交わりに入り、神のことばにいつも馴染んでいるべきである。
私達がテフィリンし、御言葉が1節つづ入って行くと、茫漠とした闇に、神の言葉が、神の光が、神の秩序が、ひとつ、またひとつ、と「有る」ようになって行き、御言葉の光が、ぽっと灯って行く。そして、神が言葉で仕分けたように、私達も御言葉によって人生を、状況を仕分け、支配して行けるようになっていくのだ。
テフィリンは、神の「在れ」を具体的に行うものである。テフィリンによって、意味の無かった者が意味ある者へ戻り、茫漠とした人生が、いのちが満ち、そうして光を放つ者、発光体となっていき、夜をつかさどり、昼をつかさどり、そして、太陽のように輝く者となっていく(マタイ13:43)。神のことばをどんどん摂り入れ、ますます輝き渡っていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
夕の安息ではじまる一日の法則(創世記1:9-13)
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週報/メッセージ(説教)概要
7月より、コーエンでテフィリンを学んだ世界中の有志達による世界同時テフィリンが始まった。先週は、創世記1:14まで進んだ。今回もテフィリンによって掘り起こされた素晴らしい宝を、共に分かち合いたい。
今回の箇所、創造の第三日目である創世記1:9-13には、主の「良し(トーブ)」宣言が、二つある。一つは、人が住める「かわいた所」を、水の中から分離された時。二つ目は、人や動物が食べる様々な果樹や草を創られた時。住む所と、食べるもの。これらに主が「トーブ」と宣言された所に、主の価値観が見える。
主が次々と世のものを創造し、整えて行った理由は、「神の子・人間のため」、であった。だから主は、私達が安心して住めるかわいた所、つまり「安息の地」を整えた時、トーブを宣言されたのだ。主は次に、そのかわいた地に、人や全ての生き物達が、食べるようにと、色々な種類の、おいしくて、滋養強壮がある果物や草を生じさせ、私達や生き物達が、それを食べ、喜び、主を称える将来を見て、トーブと宣言された。
私達は主に感謝しつつ、主が生えさせて下さった日用の糧を喜んでいただくべきであり、また豊かに実を実らせるように、管理するべきである。次のように書いてあるからである。『主なる神は人を連れて行って「エデンの園(喜びの園)」に「置き(ヌーハ:安息させる、住まわせる)」、これを「耕させ(アーバド:従順し働く、聞き従う)」、これを「守らせ(シャマール:囲いを設けて守る、境界の中で養う)」られた。』(創世記2:15)
この言葉の順番から、私達の生活や仕事を、いかなるスタンスで送るべきか、主の優先順位を知る事が出来る。私達はまず、主が置かれた喜びの園で、まず安息して住まう事。そして、主の御声に聞き従って、主が生えさせて下さる実りを、より豊かに結ばせるよう、管理し、家族や子供が、主の喜びと平安の中で守られるよう、囲いを設ける事である。主は「ジェホバ・シャローム」、平和の君である。出エジプト記のように、過酷な支配者の怒号の下で、世の王のために、奴隷仕事をするのは、神の民のあり方ではない。もしそのような状況に置かれているとするなら、「出エジプトをさせてください」と叫び求めるべきである。
私達が、まず、安息する事。それこそ、主の御旨である。安息が無いなら、それは、平和の主の御言葉から離れているからであり、また平安の実が結べられていないのは、御霊に従って歩んでいないからである。
『夕があり、朝があった。第三日。』(創世記1:13) 聖書的には、「夕(日没)」が、一日の初まりである。
夕、すなわち夜は、安息して休むなら、神が創造された本来のあり方へ、回復する法則が働く。被造物は昼に活動し、また成長する。代わりに、諸々を磨り減らしたり、壊したり、バランスを崩してしまったりするが、夜、休んでいる間、主が組み込まれた”知識”へと戻る方向へと、修復する方向性で働く。詩篇19:2に、『この日は言葉をかの日に伝え、この夜は知識をかの夜につげる。』と書いてある通りである。
つまり全被造物は、それぞれが創られた目的を果たすために、神のことば(知識)が、プログラミングされ、それぞれに主が付与された、本来あるべき姿を、「知識」として、形状記憶合金のように記憶しており、夜という時間は、「知識をかの夜につげる」べき時間帯、主の本質へ戻る、安息するべき時間なのだ。
神の法則・聖書を知らない人達は、仕事をはじめる朝が一日の初めだと思って、自分のコンディションを、神がプログラミングして下さった本来の状態へと戻さないまま、労苦の多い仕事に入り、疲れ、そして夜、その疲れを紛らわせるために、創造の本質から外れた娯楽で発散し、それで眠りについて一日を終わらせている。そうしてどんどん、神の本質から外れ、自らの体と心、魂のバランスを壊して行ってしまっている。
「闇」の時期は、未解決が残っている時期、改善しなくてはならない状態である。その時、闇の上を御翼で覆っておられる神の御翼の下で安息し、じっくりと本質へ回復し、やがて主が、曙の光となって立ち昇って、闇の中に光を宣言し、きよさと汚れの混在した「混沌」に、「分離」を宣言し、秩序を導入する。
それが、「夕があり、朝があった」というサイクルで、第一日、第二日、第三日と、日を紡いで行き、それを幾度となく繰りかえして後、最後に、「はなはだ良い」という完全へと至り、神と人との、究極な安息へと至る。
神はそれまで、闇を光で照らし、分離し、秩序をもたらす働きを、ずっと続けておられる。私達は、一日のはじめ、すなわち夕は、主の御翼の下で安息し、主が組み込まれた機能を回復し、全快して、そして光がのぼった朝、主の光に照らされながら、主の働きを為し、成長し、そうして夕があり、朝がある。そのような日々を繰り返し、完全へと至っていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
天国の鍵を正しく運用し、ハデスの門を封じるには(マタイ16:15-19)
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週報/メッセージ(説教)概要
今の時代は、創世記1:2のような混沌の闇に覆われている状況だ。しかし、闇に対して「光があれ」と仰せられた主は、混沌の世界に光と秩序をもたらし、人が住むのに良い世界を整えて行かれた。私達も同じように、神の言葉を暗唱し、混沌としたこの世に対し、御言葉を宣言し、積極的に神のわざを導入していくべきである。それをする事が許されている人とは、イエス様こそ神の御子メシヤである、と告白する人である。
イエス様はシモン・ペテロに言われた。『わたしは、あなたに天国の鍵(複数形)を授けよう。そして、あなたが地上で繋ぐ事は、天でも繋がれ、あなたが地上で解く事は天でも解かれるであろう」。』(マタイ16:19)
これは何も、シモンペテロ一人の特権ではない。2人また3人でもイエス様の名の元に集まるエクレシア(教会)に与えられた特権であり、また、天国の鍵束とは、共に心を合わせ祈る事である。(マタイ18:18-20)
この特権が与えられたきっかけは、イエス様への次の信仰告白である。『「あなたこそ、生ける神の子キリストです。」すると、イエスは彼にむかって言われた、バルヨナ(ヨナの子)・シモン、あなたは幸いである。あなたにこの事を表したのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロ(ペトロス)である。そして、わたしはこの岩(ペトラ)の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力(門)もそれに打ち勝つことはない。』(17節) イエス様がシモン・ペテロにつけた名前「ペトロス」は「一つの岩」、それも、別の場所へ転がりかねない、不安定な岩である。それに対し、「教会をその上に建てる」と言われた「岩(ペトラ)」は、岩の塊、岩山、岩盤、安定して動かない耐久性のある大きな岩である。
人から生まれた人間は、一人では、ペトロスのように弱い。いつどこに転がって行ってしまうか分からない。
実際ペテロは、十字架を前に転んでしまった。しかし私達は、イエス様を生ける神の御子キリストであると宣言し、教会に繋がるなら、決して揺るがされないペトラの上に立て上げられていく。それが、教会である。
教会の土台石であられるキリストは、荒野の民に40年間付き添って、ずっと御霊の飲み物を提供し続けた「御霊の岩」であり(1コリント10:4)、また、人が築き上げて来た文明や帝国郡を粉々に砕いた、「人手によらずに切り出された一つの大きな岩」である(ダニエル2章)。それは、神の民には潤いをもたらす養いの岩であり、同時に、サタンや神に敵対する者達の、あらゆる文明や知恵、軍事力を粉々に砕く岩でもある。
「イエスこそ生ける神の御子キリストである」という、信仰告白の土台に立った「教会」が、共に集い、御言葉を暗唱し、信じ、宣言し実行するなら、それが天国の鍵束を運用する事である。その鍵は、ハデス(死の世界)の門より強力である。コロナウイルスに対しては詩篇91篇という鍵を用いて、死の病の門を閉じ、主のおしえを喜びとし口ずさむ愛する聖徒には、詩篇1篇という鍵を用 いて、天の祝福の門を開くのである。
いかに死をもたらすハデスが、私達に対して口を開こうとも、それらは、生ける神の御子キリストを信じ告白する群れが、状況に応じた御言葉宣言によって、封じる事が出来るのである! それは御言葉に内在した強大な力、すなわち、天地を創造し、光と闇を切り分け、海と大空を切り分けたあの力が、働き出すからだ。
私達は、この素晴らしい特権の取り扱いに、充分注意しなくてはならない。あくまでイエス様こそ主であり、神の国のことを第一にするべきだ。ペテロは、あの素晴らしい信仰告白をした直後、イエス様から「サタンよ、引きさがれ」と言われてしまった(23節)。それは、イエス様が受けるべき受難と死、復活を話しはじめられた時、ペテロはイエス様をわきへ引き寄せ、叱り(エピティマオー)、「そんな事は決してあなたにあってはなりません」と言ったからだ。主はその時、ペテロに『(あなたは)わたしの邪魔をする(スカンダロン:罪へ誘惑する)者だ。あなたは神のことを思わないで、「人のこと(複数形)」を思っている。』(23節) と言われた。
今、この世が混沌無秩序になってしまっている理由は、神から離れた人間の好き勝手が野放しで、まかり通っているからであり、私達までもが、与えられた特権を乱用して、サタンの手助けをしてはならない。
この混沌の闇となってしまっている世界を、秩序ある世界へと戻すために、私達・教会は、神の言葉を正しく暗唱し、宣言し、実行するべきである。そうするなら、開いていたハデスの門は閉じ、またあらゆる敵の企みは打ち破られ、闇に光をともし、混沌に秩序をもたらす者として、用いられる。御言葉を正しく宣言し、神の秩序をこの世に回復して行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
混沌の世を秩序立てる「カーラー」宣言(創世記1:1-8)
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週報/メッセージ(説教)概要
テフィリンを学んだ世界中のコーエングループによる、世界同時テフィリンが、7/1、創世記1:1から始まり、今8節まで進んだ。テフィリンすると、そのわずかな節に隠されている莫大な奥義と恵みに感動し、隠されていた宝を発見したような喜びを体験する。今回、世界同時テフィリンの箇所から恵みを分かち合いたい。
今の時代は、混沌として掴み所がなく、創世記1:2のように闇に覆われているような状況だ。特に2020年に入って以来、それが一層濃くなっているかのように見えるが、その状況にあっても、上では、神の霊が動いている。神は、闇に対しては光を宣言し、光と闇とを切り分け、そして世に秩序をもたらして行かれた。
イエス様を信じ神の子とされた私達は、神の子として、積極的に神のわざに参加し、実践していくべきだ。
神は光を昼と名付け、闇を夜と名付けた。また、大空が水の真っただ中にあるようにと宣言し、上の水と下の水とに切り分け、大空を「天」と名付けた。このように、神は混沌に秩序をもたらす度に「名をつけた」が、「名づける」のヘブライ語「カーラーקָרָא」には、命名する、呼ぶ、告げְる、声に出して宣言する、暗唱する、定義づける、等の意味がある。すなわち、神が創造したものに、機能や使命、意味を付与する宣言である。
天も地も、光も闇も、全被造物は全て神の意図通りに存在し、それぞれに与えられた使命を遂行する事によって、神の栄光を表している。そして人という存在は、他の被造物と比べると、とても特殊な存在である。
人は唯一、神の似姿として、自由意思をもった存在として創造された。神の言葉に「従わない」自由さえ、与えられている。人にもカーラー宣言ができるが、正しくカーラー宣言ができる人とは、神と共に歩み、神に従順している人である。創世記2章において、まだ罪を犯していないアダムには、それが正しく出来た。
彼は、神が連れて来られた動物に名前をつけ(カーラー)、最後に、助け手として送られた女に名をつけた。
人は、神から御言葉が与えられ、その神の言葉を暗唱し、その通りに宣言し、信じ、実行する時、神の言葉に内在している莫大な力が働き出す。人には元々、しるしや奇跡を行う力は、無い。人は元々、神を離れては、何もする事はできない。人に与えられている機能とは、神から与えられた自由意志を用いて、神の言葉に従順し、宣言し、神の意図したわざを実行する事で、そのように作られたものは、他にはいない。
モーセは多くのしるしや奇跡を行ったかのように見えるが、モーセには元々、しるしや奇跡を行う「機能」は、無い。彼は神から言われた言葉をそのまま暗唱し、それをそのままエジプトとパロへと持って行き、そのまま宣言しただけだ。そうしたら、しるしや奇跡が起きた。しかし、神からの言葉を正しく暗唱せず、正しく宣言しなかった時、逆にパロをつけあがらせ、さらに過酷な苦役をもたらしてしまった。(出エジプト記5:3)
今、この世が混沌無秩序になってしまっている理由は、神から離れた人間の好き勝手なカーラー宣言が、野放しでまかり通ってしまっているからであり、初代教会のような奇跡やしるしが起きない理由は、御言葉をそのまま暗唱して正しく伝える事があまりに乏しいため、世の”パロ”をつけ上がらせてしまっているのだ。
人が神の言葉を信じ、暗唱し、宣言した時、御言葉に内在した強大な力、すなわち、天地を創造し、光と闇を切り分け、海と大空を切り分けた、あの力が、働き出す。これが、神と人とのコラボレーションである。
神がコラボレーションして、全被造物を動かす事ができるのは、唯一、人間だけだ。私達に与えられた分は、神の言葉を暗唱し、信じ、宣言する事である。そうするなら、御言葉に含まれている機能を、全部、主が行ってくださる。だから私達は、知るべきである。御言葉を信じて宣言することがどれほど凄いことかを。
悪魔サタンは、人に与えられたこの莫大な特権を使わせないために、神の言葉を正しく宣言させないように、という点に、一番注力する。エバはまんまとそれに引っかかってしまい、結果、サタンをつけあがらせ、世は混沌状態となってしまった。これに対抗するには、正しく御言葉を暗唱しなくてはならない。初期の頃のモーセのように”パロ”を、すなわち、世の力を恐れて御言葉をぐらつかせ、つけあがらせてはならない。
この混沌の闇となってしまっている世界を秩序ある世界へと戻すには、私達・神の子達が、正しく神の言葉を暗唱し、宣言し、実行する事による。そうするなら、闇の中に光をともし、混沌に秩序をもたらし、死の海の中の真っただ中に、大空を入れた、あの神の莫大なパワーが働き、神のパーフェクト、ビューティフル、グッドが、実体化される。御言葉を正しく宣言し、神の秩序をこの世に回復して行く皆さんでありますように!
