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メッセージ - 主日礼拝カテゴリのエントリ

主日礼拝

夕の安息ではじまる一日の法則(創世記1:9-13)

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週報/メッセージ(説教)概要

 7月より、コーエンでテフィリンを学んだ世界中の有志達による世界同時テフィリンが始まった。先週は、創世記1:14まで進んだ。今回もテフィリンによって掘り起こされた素晴らしい宝を、共に分かち合いたい。
 
 今回の箇所、創造の第三日目である創世記1:9-13には、主の「良し(トーブ)」宣言が、二つある。一つは、人が住める「かわいた所」を、水の中から分離された時。二つ目は、人や動物が食べる様々な果樹や草を創られた時。住む所と、食べるもの。これらに主が「トーブ」と宣言された所に、主の価値観が見える。
 主が次々と世のものを創造し、整えて行った理由は、「神の子・人間のため」、であった。だから主は、私達が安心して住めるかわいた所、つまり「安息の地」を整えた時、トーブを宣言されたのだ。主は次に、そのかわいた地に、人や全ての生き物達が、食べるようにと、色々な種類の、おいしくて、滋養強壮がある果物や草を生じさせ、私達や生き物達が、それを食べ、喜び、主を称える将来を見て、トーブと宣言された。
 私達は主に感謝しつつ、主が生えさせて下さった日用の糧を喜んでいただくべきであり、また豊かに実を実らせるように、管理するべきである。次のように書いてあるからである。『主なる神は人を連れて行って「エデンの園(喜びの園)」に「置き(ヌーハ:安息させる、住まわせる)」、これを「耕させ(アーバド:従順し働く、聞き従う)」、これを「守らせ(シャマール:囲いを設けて守る、境界の中で養う)」られた。』(創世記2:15) 
 この言葉の順番から、私達の生活や仕事を、いかなるスタンスで送るべきか、主の優先順位を知る事が出来る。私達はまず、主が置かれた喜びの園で、まず安息して住まう事。そして、主の御声に聞き従って、主が生えさせて下さる実りを、より豊かに結ばせるよう、管理し、家族や子供が、主の喜びと平安の中で守られるよう、囲いを設ける事である。主は「ジェホバ・シャローム」、平和の君である。出エジプト記のように、過酷な支配者の怒号の下で、世の王のために、奴隷仕事をするのは、神の民のあり方ではない。もしそのような状況に置かれているとするなら、「出エジプトをさせてください」と叫び求めるべきである。
 私達が、まず、安息する事。それこそ、主の御旨である。安息が無いなら、それは、平和の主の御言葉から離れているからであり、また平安の実が結べられていないのは、御霊に従って歩んでいないからである。
 
 『夕があり、朝があった。第三日。』(創世記1:13) 聖書的には、「夕(日没)」が、一日の初まりである。
夕、すなわち夜は、安息して休むなら、神が創造された本来のあり方へ、回復する法則が働く。被造物は昼に活動し、また成長する。代わりに、諸々を磨り減らしたり、壊したり、バランスを崩してしまったりするが、夜、休んでいる間、主が組み込まれた”知識”へと戻る方向へと、修復する方向性で働く。詩篇19:2に、『この日は言葉をかの日に伝え、この夜は知識をかの夜につげる。』と書いてある通りである。
 つまり全被造物は、それぞれが創られた目的を果たすために、神のことば(知識)が、プログラミングされ、それぞれに主が付与された、本来あるべき姿を、「知識」として、形状記憶合金のように記憶しており、夜という時間は、「知識をかの夜につげる」べき時間帯、主の本質へ戻る、安息するべき時間なのだ。
 神の法則・聖書を知らない人達は、仕事をはじめる朝が一日の初めだと思って、自分のコンディションを、神がプログラミングして下さった本来の状態へと戻さないまま、労苦の多い仕事に入り、疲れ、そして夜、その疲れを紛らわせるために、創造の本質から外れた娯楽で発散し、それで眠りについて一日を終わらせている。そうしてどんどん、神の本質から外れ、自らの体と心、魂のバランスを壊して行ってしまっている。
 
 「闇」の時期は、未解決が残っている時期、改善しなくてはならない状態である。その時、闇の上を御翼で覆っておられる神の御翼の下で安息し、じっくりと本質へ回復し、やがて主が、曙の光となって立ち昇って、闇の中に光を宣言し、きよさと汚れの混在した「混沌」に、「分離」を宣言し、秩序を導入する。
それが、「夕があり、朝があった」というサイクルで、第一日、第二日、第三日と、日を紡いで行き、それを幾度となく繰りかえして後、最後に、「はなはだ良い」という完全へと至り、神と人との、究極な安息へと至る。
 神はそれまで、闇を光で照らし、分離し、秩序をもたらす働きを、ずっと続けておられる。私達は、一日のはじめ、すなわち夕は、主の御翼の下で安息し、主が組み込まれた機能を回復し、全快して、そして光がのぼった朝、主の光に照らされながら、主の働きを為し、成長し、そうして夕があり、朝がある。そのような日々を繰り返し、完全へと至っていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝

天国の鍵を正しく運用し、ハデスの門を封じるには(マタイ16:15-19)

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週報/メッセージ(説教)概要

 今の時代は、創世記1:2のような混沌の闇に覆われている状況だ。しかし、闇に対して「光があれ」と仰せられた主は、混沌の世界に光と秩序をもたらし、人が住むのに良い世界を整えて行かれた。私達も同じように、神の言葉を暗唱し、混沌としたこの世に対し、御言葉を宣言し、積極的に神のわざを導入していくべきである。それをする事が許されている人とは、イエス様こそ神の御子メシヤである、と告白する人である。
 
 イエス様はシモン・ペテロに言われた。『わたしは、あなたに天国の鍵(複数形)を授けよう。そして、あなたが地上で繋ぐ事は、天でも繋がれ、あなたが地上で解く事は天でも解かれるであろう」。』(マタイ16:19)
 これは何も、シモンペテロ一人の特権ではない。2人また3人でもイエス様の名の元に集まるエクレシア(教会)に与えられた特権であり、また、天国の鍵束とは、共に心を合わせ祈る事である。(マタイ18:18-20)
 この特権が与えられたきっかけは、イエス様への次の信仰告白である。『「あなたこそ、生ける神の子キリストです。」すると、イエスは彼にむかって言われた、バルヨナ(ヨナの子)・シモン、あなたは幸いである。あなたにこの事を表したのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロ(ペトロス)である。そして、わたしはこの岩(ペトラ)の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力(門)もそれに打ち勝つことはない。』(17節) イエス様がシモン・ペテロにつけた名前「ペトロス」は「一つの岩」、それも、別の場所へ転がりかねない、不安定な岩である。それに対し、「教会をその上に建てる」と言われた「岩(ペトラ)」は、岩の塊、岩山、岩盤、安定して動かない耐久性のある大きな岩である。
 人から生まれた人間は、一人では、ペトロスのように弱い。いつどこに転がって行ってしまうか分からない。
実際ペテロは、十字架を前に転んでしまった。しかし私達は、イエス様を生ける神の御子キリストであると宣言し、教会に繋がるなら、決して揺るがされないペトラの上に立て上げられていく。それが、教会である。
 教会の土台石であられるキリストは、荒野の民に40年間付き添って、ずっと御霊の飲み物を提供し続けた「御霊の岩」であり(1コリント10:4)、また、人が築き上げて来た文明や帝国郡を粉々に砕いた、「人手によらずに切り出された一つの大きな岩」である(ダニエル2章)。それは、神の民には潤いをもたらす養いの岩であり、同時に、サタンや神に敵対する者達の、あらゆる文明や知恵、軍事力を粉々に砕く岩でもある。
 
 「イエスこそ生ける神の御子キリストである」という、信仰告白の土台に立った「教会」が、共に集い、御言葉を暗唱し、信じ、宣言し実行するなら、それが天国の鍵束を運用する事である。その鍵は、ハデス(死の世界)の門より強力である。コロナウイルスに対しては詩篇91篇という鍵を用いて、死の病の門を閉じ、主のおしえを喜びとし口ずさむ愛する聖徒には、詩篇1篇という鍵を用    いて、天の祝福の門を開くのである。
いかに死をもたらすハデスが、私達に対して口を開こうとも、それらは、生ける神の御子キリストを信じ告白する群れが、状況に応じた御言葉宣言によって、封じる事が出来るのである! それは御言葉に内在した強大な力、すなわち、天地を創造し、光と闇を切り分け、海と大空を切り分けたあの力が、働き出すからだ。
 
 私達は、この素晴らしい特権の取り扱いに、充分注意しなくてはならない。あくまでイエス様こそ主であり、神の国のことを第一にするべきだ。ペテロは、あの素晴らしい信仰告白をした直後、イエス様から「サタンよ、引きさがれ」と言われてしまった(23節)。それは、イエス様が受けるべき受難と死、復活を話しはじめられた時、ペテロはイエス様をわきへ引き寄せ、叱り(エピティマオー)、「そんな事は決してあなたにあってはなりません」と言ったからだ。主はその時、ペテロに『(あなたは)わたしの邪魔をする(スカンダロン:罪へ誘惑する)者だ。あなたは神のことを思わないで、「人のこと(複数形)」を思っている。』(23節) と言われた。
 今、この世が混沌無秩序になってしまっている理由は、神から離れた人間の好き勝手が野放しで、まかり通っているからであり、私達までもが、与えられた特権を乱用して、サタンの手助けをしてはならない。
 この混沌の闇となってしまっている世界を、秩序ある世界へと戻すために、私達・教会は、神の言葉を正しく暗唱し、宣言し、実行するべきである。そうするなら、開いていたハデスの門は閉じ、またあらゆる敵の企みは打ち破られ、闇に光をともし、混沌に秩序をもたらす者として、用いられる。御言葉を正しく宣言し、神の秩序をこの世に回復して行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 

主日礼拝

混沌の世を秩序立てる「カーラー」宣言(創世記1:1-8)

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週報/メッセージ(説教)概要

 テフィリンを学んだ世界中のコーエングループによる、世界同時テフィリンが、7/1、創世記1:1から始まり、今8節まで進んだ。テフィリンすると、そのわずかな節に隠されている莫大な奥義と恵みに感動し、隠されていた宝を発見したような喜びを体験する。今回、世界同時テフィリンの箇所から恵みを分かち合いたい。
 
 今の時代は、混沌として掴み所がなく、創世記1:2のように闇に覆われているような状況だ。特に2020年に入って以来、それが一層濃くなっているかのように見えるが、その状況にあっても、上では、神の霊が動いている。神は、闇に対しては光を宣言し、光と闇とを切り分け、そして世に秩序をもたらして行かれた。
イエス様を信じ神の子とされた私達は、神の子として、積極的に神のわざに参加し、実践していくべきだ。
 神は光を昼と名付け、闇を夜と名付けた。また、大空が水の真っただ中にあるようにと宣言し、上の水と下の水とに切り分け、大空を「天」と名付けた。このように、神は混沌に秩序をもたらす度に「名をつけた」が、「名づける」のヘブライ語「カーラーקָרָא」には、命名する、呼ぶ、告げְる、声に出して宣言する、暗唱する、定義づける、等の意味がある。すなわち、神が創造したものに、機能や使命、意味を付与する宣言である。
 天も地も、光も闇も、全被造物は全て神の意図通りに存在し、それぞれに与えられた使命を遂行する事によって、神の栄光を表している。そして人という存在は、他の被造物と比べると、とても特殊な存在である。
 
 人は唯一、神の似姿として、自由意思をもった存在として創造された。神の言葉に「従わない」自由さえ、与えられている。人にもカーラー宣言ができるが、正しくカーラー宣言ができる人とは、神と共に歩み、神に従順している人である。創世記2章において、まだ罪を犯していないアダムには、それが正しく出来た。
彼は、神が連れて来られた動物に名前をつけ(カーラー)、最後に、助け手として送られた女に名をつけた。
 人は、神から御言葉が与えられ、その神の言葉を暗唱し、その通りに宣言し、信じ、実行する時、神の言葉に内在している莫大な力が働き出す。人には元々、しるしや奇跡を行う力は、無い。人は元々、神を離れては、何もする事はできない。人に与えられている機能とは、神から与えられた自由意志を用いて、神の言葉に従順し、宣言し、神の意図したわざを実行する事で、そのように作られたものは、他にはいない。
 モーセは多くのしるしや奇跡を行ったかのように見えるが、モーセには元々、しるしや奇跡を行う「機能」は、無い。彼は神から言われた言葉をそのまま暗唱し、それをそのままエジプトとパロへと持って行き、そのまま宣言しただけだ。そうしたら、しるしや奇跡が起きた。しかし、神からの言葉を正しく暗唱せず、正しく宣言しなかった時、逆にパロをつけあがらせ、さらに過酷な苦役をもたらしてしまった。(出エジプト記5:3)
 今、この世が混沌無秩序になってしまっている理由は、神から離れた人間の好き勝手なカーラー宣言が、野放しでまかり通ってしまっているからであり、初代教会のような奇跡やしるしが起きない理由は、御言葉をそのまま暗唱して正しく伝える事があまりに乏しいため、世の”パロ”をつけ上がらせてしまっているのだ。
 
 人が神の言葉を信じ、暗唱し、宣言した時、御言葉に内在した強大な力、すなわち、天地を創造し、光と闇を切り分け、海と大空を切り分けた、あの力が、働き出す。これが、神と人とのコラボレーションである。
 神がコラボレーションして、全被造物を動かす事ができるのは、唯一、人間だけだ。私達に与えられた分は、神の言葉を暗唱し、信じ、宣言する事である。そうするなら、御言葉に含まれている機能を、全部、主が行ってくださる。だから私達は、知るべきである。御言葉を信じて宣言することがどれほど凄いことかを。
 悪魔サタンは、人に与えられたこの莫大な特権を使わせないために、神の言葉を正しく宣言させないように、という点に、一番注力する。エバはまんまとそれに引っかかってしまい、結果、サタンをつけあがらせ、世は混沌状態となってしまった。これに対抗するには、正しく御言葉を暗唱しなくてはならない。初期の頃のモーセのように”パロ”を、すなわち、世の力を恐れて御言葉をぐらつかせ、つけあがらせてはならない。
 
 この混沌の闇となってしまっている世界を秩序ある世界へと戻すには、私達・神の子達が、正しく神の言葉を暗唱し、宣言し、実行する事による。そうするなら、闇の中に光をともし、混沌に秩序をもたらし、死の海の中の真っただ中に、大空を入れた、あの神の莫大なパワーが働き、神のパーフェクト、ビューティフル、グッドが、実体化される。御言葉を正しく宣言し、神の秩序をこの世に回復して行く皆さんでありますように!
 

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神から計り与えられた、誠実を養うべき時(創世記40章)

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週報/メッセージ(説教)概要

 
 主は、この不正と災いに満ちた時代に、御手をのべて介入したい、と願っておられるが、出来ないでいる。
今まで主は「人という器」を用いて、時代に介入されて来たが、現代、主は介入したくても、器がいないから、それができない。主から大いに用いて頂く器となるためにどうすればいいか。引き続きヨセフから学びたい。
 
 ヨセフは正直である故、また潔白を貫いた故に、ポテファルの妻から濡れ衣を着せられ、牢屋に入れられてしまった。世の人は、これを「正直者は馬鹿を見る」と言うかもしれないが、そういう価値観の人は、神から大きく用いられる器ではない。主は、きよい器をこそ用いられるからである。ヨセフは、与えられた仕事は、奴隷仕事であっても、監獄であっても、誠実に行ったため、やる事なす事全て祝福された。その事で得た特権や信頼、金銀を、彼は、脱獄や暴動といった自分勝手な方向には用いず、むしろ、与えられている小さな持ち場で、誠実に住み、そこの権威に忠実に従う、という方向に用いた。それで神は、彼を後にエジプト一国という、「大きな持ち場」を任せ、そしてイスラエルの全家族を救い養うという大役が任せられた。
  『さて獄屋につながれたエジプト王の給仕役と料理役の二人は一夜の内にそれぞれ意味のある夢を見た。』(5節) それまでヨセフは、牢屋という狭い世界にいたため、主が与えた夢を解き明かす賜物を発揮する機会は、ほぼ無かった。狭い世界に閉じ込められている故に、与えられている霊的な賜物が発揮できずにいる事を、人はもどかしく思うかもしれないが、主は、誠実を養う人のために、時を計っておられる。
 
 『彼らは言った、「わたしたちは夢を見ましたが、解いてくれる者がいません」。ヨセフは彼らに言った、「解くことは神によるのではありませんか。どうぞ、わたしに話してください」。』(8節) ヨセフは、自分に与えられた賜物は、神からのものであり、それを用いるのは、神の栄光を現すためだ、と公言していた。
 献酌官長が夢の内容を語った時、ヨセフはその夢を見事に解き明かした。すなわち彼は、三日目に開放され、元の地位に戻る、と。そこでヨセフは献酌官長にお願いする。ここから出た暁には、パロに自分の事を話して、ここから出られるように計らってほしい、と。『わたしは、実はヘブル人の地からさらわれてきた者です。またここでもわたしは地下の獄屋に入れられるような事はしなかったのです」。』(14-15節) 
ヨセフは「兄のせいで」とか、「ポティファルの妻のせいで」などと、人のした悪は言わず、ただ「わたしはここに入れられるような事はしなかった」とだけ言った。地を相続するのは、平和な人なのである。(マタイ5:5)
 また、調理官長も、自分の夢をヨセフに語った。その夢の解き明かしは、調理館長には災いの内容だったが、それでもヨセフは、神から与えられた事をそのまま正直に伝えた。私達も、神から与えられた事は正しく伝えなくてはならない。たとえ災いだとわかっていても。彼がこの時、正直に伝えたからこそ、彼には確かに神の力が宿っている、と、パロに伝えられたのだ。世の中が、いかに「正直者はばかを見る」と評価しても、神の国は「正直な人は地に住みつき、潔白な人は地に生き残る。」(箴言2:21)のだ。
 
 果たしてヨセフの解き明かしの通りの事が、二人の身に起きた。しかし献酌官長は、ヨセフから頼まれていた事を、すっかり忘れてしまった。あれだけ生々しく、他方の首が飛んで、自分は助かった、というのに。神は物事を成し遂げるために、人の心からすっかり忘れさせたり、また思い出させたりできる方である。
もしこの時、献酌官長がヨセフの願いを忘れておらず、実行し、ヨセフが釈放されていたら、彼はきっと、あの問題だらけの父や兄達の所に帰って、全てを父に正直に伝え、一悶着を起こして、問題だらけの家で一生、羊飼いとして過ごしていたかもしれない。しかし、それは御心ではない。しっかり神の家族の問題が解決され、清められ、より優れた仕事をし、より優れた民族、王国へとなって行く事が、主のご計画なのだ。
そのためにヨセフは、まだまだ、彼が望まない監獄に、居続けなくてはならなかった。そのような時期がある。
 私達も今、目の前の現実において、牢獄のような狭い世界で、つまらないと見られる事を任されていたり、賜物を発揮できないような状況にあるとしたら、与えられている目の前の仕事を、主にあって誠実に為すべき時である。小さな事に忠実であり続けるなら、さらに大きなことが任されるからである。(ルカ19:17)
 目の前が牢獄であっても、主はきよらかに透き通った天から見ておられ、時を計って、栄光に満ちた未来を用意しておられる。主がおられる天の雰囲気、天の清らかさ、天のすがすがしさをいつも忘れず、どんなに悪の状況でも、そのきよさを失わない皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝

世と人の汚れから自由になろう(創世記39章)

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週報/メッセージ(説教)概要

 主はヨセフを当時の一流国・エジプトの総理大臣とし、世界的な飢饉から多くの命を救い、そして、神の民イスラエルの「一家」を「民族」へと成長させるために、素晴らしく肥えた地・ゴシェンの地を受け継がせた。
私達も彼のように、御言葉で養育した栄光の次世代に、素晴らしい相続財産を受け継がせ、この時代の多くの人々を永遠の救いへと導く、「栄光のリーダー」となる術を、引き続きヨセフの箇所から身につけたい。
 
 『ヨセフは連れられてエジプトに下ったが、パロの役人で侍衛長…ポテパルは、彼を…買い取った。 主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり、その主人エジプト人の家におった。その主人は主が彼と共におられる事と、主が彼の手のする事を全て栄えさせられるのを見た。』(創世記39:1-3)
 ヨセフは何をしても栄え、仕えた主人を富ませた。そうなるための答えは詩篇1篇に書いてある。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かない。そして主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ事である。その人は水路のそばに植わった木のように、時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても、栄える。ヨセフはその通りの人だった。
彼は兄達の悪事には一切加担せず、いつもそのまま父に告げていた。彼はエジプトで一人になった時も、彼が見た悪事は、全て「父なる神」へそのまま告げ、むしろいつも主を思い、主が喜ばれる事を選んでいた。
 ヨセフは、奴隷として売られる、という理不尽な目に遭ったのに、不平不満を言った記述が一切無い。
どんな災いに見える状況に陥っても、人の悪を思わず、むしろ、この状況は神が与えたものとして、受け入れ、地に住み、誠実を養っていた(詩篇37:1-6)。そんなヨセフに、若い男子には抵抗し難い誘惑が訪れる。
 
 『これらの事の後、主人の妻はヨセフに目をつけて言った、「わたしと寝なさい」…彼女は毎日ヨセフに言い寄ったけれども、ヨセフは聞きいれず、彼女と寝なかった。また共にいなかった。』(7-10節) 罪には「楽しみ」があり、その快楽には抵抗し難い魅力がある。私達の「肉」は、それに強烈に引き寄せられてしまう。
 性的な誘惑に限らず、酒やギャンブル、ドラッグなど、はまってしまうと滅びに至る事は分かっていても、その魅力やその快楽を敢えて断絶せず、ちょっと味わっては、滅びの一線は超えない「ギリギリ」を楽しもう、とする人がいるが、そういう人は100%、それに飲み込まれ、身を滅ぼす事になるだろう。
 最も力強い男・サムソンは、デリラという美女を手放さず、彼女とのギリギリの駆け引きを楽しんでいる内に、ついに致命的な秘密を明かしてしまった。ダビデさえ、性的な罪の最初の誘惑を拒否せず、一線を超えてしまったために、その後、ずるずると殺人の罪さえ犯すはめになってしまった。
  こうした誘惑への、唯一の対処方法は、ヨセフがしたように、「逃げる」事である。誘惑に見入ってはならない。それが服をつかんで来たら、服を脱ぎ捨てて、逃げるべきである。これは性的な罪や、ドラッグなど、明らかに悪いと分かっているものには限らない。スマホやインターネットなど、正しく用いれば有益なものであっても、それがあなたをつかんで、堕落へと誘い込んで来るなら、服を捨ててでも、逃げるべきだ。
 ヨセフはなぜ「逃げる」という賢い選択ができたか。人の悪や、理不尽な状況を見ると、怒りや妬み、破壊的な思いが沸き起こって、それを思い巡らしたり、あれこれ言ったり、何か行動したい、という強力な「粘着力」がある。しかし彼は、そうした汚れを、ぺたぺたと付着させない、思い巡らせない、すぐ忘れる、「すべすべした心」だった。「ストレスフリー」という言葉があるが、ヨセフの性質は「汚れフリー」なのだ。人からの理不尽な対応や、不条理な世の有様に、心を付着させたり、思い巡らしたりせず、いつも自由だった。
 そうなる秘訣は、人が仕掛けてくる理不尽や、世に不条理な事が起きた時、それを思い巡らさず、1秒でも早く、父なる神へ「スルーパス」し、彼自身の中に1秒も長く留め置かなかったのだろう。むしろ、彼がいつも心に留め置いたのは、神が見させて下さった夢だった
 
 私達も彼の性質を目指すべきである。ヨセフのように、人のした悪や、理不尽な状況に一切捕われない、汚れをぺたぺたつけない、すべすべした心を。心が汚れに飲み込まれそうになった時、1秒でも早く、父なる神へ「スルーパス」するのだ。イエス様も言われた。心のきよい者(単一な者)はさいわいだ、その人は神を見るから(マタイ5:8)、と。天にはいつでも、主イエス様がおられる。その、主がおられる天の雰囲気、天の清らかさ、天のすがすがしさを醸し出し、どんな悪の状況でもそれを失わない皆さんでありますように!
 

主日礼拝

真の自由人・天国人となろう(創世記37章)

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週報/メッセージ(説教)概要

 私達はこの時代、栄光の次世代を御言葉で養い、育て、多くの人々を救いへと導くリーダーとなる事を求めている。ヨセフはエジプトの総理大臣となって多くの人々を救い、イスラエルを「家族」から「国家」へと成長させるシステムを、よく肥えた地・ゴシェンの地においてつくった。まさに私達のお手本と言える人物である。彼の性質はどのようで、どうすれば彼のようになれるか。今回、新たに得た恵みを分かち合いたい。
 
 ヤコブの子・ヨセフは、信仰の優れた父から、特別に愛され、父から直々の信仰教育を受けた。それで彼は、神を第一に考え、悪には一切手を染めず、正直に生きる思考パターンを、幼児期から身につけた。
子供は幼い内から、御言葉教育を、親が直接する事が重要である。幼い時にしっかり御言葉を思考に刻みつけておけば、たとえ、環境が悪い人が集まる所に放り出されても、神中心の思考から離れないからだ。
 ヨセフは、兄達の悪事には一切加担せず、むしろ、その悪事をいつも正直に父に告げていたので、ますます父から愛され、兄達から憎まれるようになった。神はそんなヨセフを、乱れた世を変える救済者、指導者、そして少数だった神の民を国家へと成長させるリーダーとして選び、その将来を、夢によって示された。
 『私達が畑の中で束を結わえていた時、私の束が起きて立つと、あなた方の束が周りにきて、私の束を拝みました…。私はまた夢を見ました。日と月と十一の星とが私を拝みました』(創世記37:6-9) これらの夢は、あまりにリアルで、印象深く、何年も記憶に残った。これは神が見せて下さったと確信したので、兄や父に言わざるを得なかったが、兄達の”ヨセフ嫌い”は決定的なものとなった。ヨセフは確信していた。この夢は必ず成る、と。そしていつも思い巡らしていたので、兄達は彼を「夢見る者」と揶揄するようになった。
 私達もヨセフのように、神を第一にし、世の罪には一切加担せず、むしろ世の指導者の悪事はいつも父なる神に告げているなら、神は、夢をはっきり見させて下さる。世を変える救済者、神の民を養うリーダーとしての夢を。その夢が与えられたなら、それをしっかり握りしめ、いつも思い巡らし、周囲の人に証するのだ。
  ヨセフはそんなある日、父から用事を言いつけられた。兄達が遠く離れ羊を飼っているので、心配だから見に行ってほしい、と。兄達は、いつも悪い事をしては、それをヨセフに告げ口されていたので、彼が近づいて来るのを見ると、「あの夢見る者が来る」「さあ彼を殺して、彼の夢がどうなるか見よう」と言い合った。
しかしヨセフは殺される事を免れ、兄達が知らない間に、別の者にエジプトへ売られてしまっていた。
 ヨセフはこれを機に、何度も理不尽な目に遭ったのに、不平不満を言った記述が一切無い。彼はどんな災いの状況に陥っても、人がした悪を思わず、神から与えられた状況を受け入れ、「誠実」を養っていた。
 どうして彼は、そんな人間離れした考え方なのだろう。それは彼は、人のした悪に心が囚われ縛られるよりも、神が与えて下さった壮大な夢のほうに目を留め、思い巡らすのが好きだったから、ではないだろうか。
 例えば、Aという人が、理不尽で腹立たしい事をした時、Aに腹を立て、Aを思い巡らしている間は、Aの悪に負けている状態、捕縛されている状態である。その「思い巡らし」を止めないなら、その監獄に何年、何十年も、囚われ続けてしまう。神の民である私達は、そんなものに囚われたり支配されるべきではない。
 他人から受けた汚れに囚われ、不満や怒り、そねみ、殺意に燃えている状態では、主は働けない。ヨセフが世界的に用いられたのは、そうした汚れから、自由な人だったからであろう。この粘着性のある腹立たしさや、汚れた情欲を、唯一、打ち破る事が出来る方法は、人のした悪は全部、イエス様の名前によって神に告げ口し、吐き出し、そして神が見せてくださる夢やビジョンにこそ、目を留め続ける事である。
 ヨセフは、人の悪意、仕掛けて来る罪や誘惑、理不尽な仕打ちに、心縛られず、ただ神に心を向け、与えられた役割が、もし奴隷仕事なら奴隷仕事に、監獄の囚人なら監獄の囚人として、最善を尽くし続けた。
 そうして自分の価値を高めて行く事を続けて行った結果、仕えた主人を富ませる者となり、さらには総理大臣とされ、闇にあえぎ旱魃に苦しむ世界を救う者、神の民を大いに養い増え広がらせる者となった。
 ヨセフは、本当に自由だった。これは、怒りや誘惑をむりやり押し込めたりガマンするのではなく、神が与えて下さった夢をいつも握りしめていたから、どんな状況にも、希望を失う事無く、高貴さを失わなかった。
  私達も、世に属する者ではなく、天に属する者だから、この世のどんな状況にもどんな罪にも束縛されない「自由人」になる事を目指すべきである。いつでも主イエス様を思い巡らし、主がおられる天国の雰囲気、天国の美しさ、天国の広大さ、天国の清らかさ、天国のすがすがしさを醸し出し、どんな悪の状況でもそれを失わない皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 

主日礼拝

パウロとテモテから学ぶ真の親子関係の絆(2テモテ1:1-8)

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週報/メッセージ(説教)概要

 本日は父の日、普段から一家を守り養うために働いている父に感謝する日である。私達には肉の父がおり、霊の父もいる。たとえ血の繋がりはなくても、キリストにあって、血の繋がりよりも濃い「真実な父子関係」がある。今回、パウロとテモテの霊的父子関係から、キリストにある親子関係のあり方を見直して行きたい。
 
 パウロは結婚はしておらず、子はいない。しかしテモテを「真実のわが子」(1テモテ1:2)と呼んだ。つまり、福音を伝道されて、信じて、霊において新しく生まれた人にとっては、イエス様を伝えてくれた人こそ霊における真の親であり、また、常日頃から御言葉によって霊的に養っている人こそ、真実の父、また母なのだ。
 霊の親は、夜となく昼となく、霊的に面倒を見ている「真の子供」のため、祈るものである。パウロは日頃、夜昼祈る習慣があり、その祈りの内で、いつもテモテの事を思い起こしていた(2テモテ1:3)。
 『わたしは、あなたの涙を「おぼえ(させられ)ており(現在形受動態)」、あなたに会って喜びで満たされたいと、切に願っている。』(4節) パウロはこの時、聖霊によって、テモテの顔が思い浮かばされたが、その顔は、涙を流していた…。それでパウロは、是非ともテモテに会いたいと思った。けれども今、牢に繋がれており、しかももうすぐ処刑される事が何となく分かる。その状況で、このテモテへの手紙を書くに至った。
 現代は、顔を見たくなったり、声を聞きたくなったら、スマートフォンを取りだせば良いし、また何千キロの距離でも、車や飛行機で、すぐに行く事が出来る。しかし当時は、そう簡単には行かない。切に会いたい時は、ただ相手を思い巡らし、祈る以外には無かった。私達も、霊的息子・娘を養う時、日夜、愛を込めて祈り続けるなら、彼らの状況が、霊によって良くわかる。あ、今この子は泣いている。今この子はうまくやっている、と。世の理論やモノ、方法に手軽に手を伸ばす以前に、よく祈るなら、その子は健全に育つのだ。
 
 テモテはその時、なぜ涙を流すような状況だったか。彼はその当時、エペソ教会の担任牧師としてパウロから按手を受け、若きリーダーとして頑張っている最中だった。当時、エペソの教会は、異端がはびこる危険性があり、教会の中でも諸々の問題があった。そんな彼に、パウロは的確にアドバイスをする。
 『こういう訳で、あなたに注意したい。わたしの按手によって内に頂いた神の賜物を、再び燃えたたせなさい。というのは、神が私達に下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。』(6-7節)
 
 今、本当に私達も、涙を流したい時代に生きている。コロナがはびこり、諸々の情勢は悪化し、将来の不安がある。若い世代がこれから生きていく将来のため、自分達は何を彼らに備え、残してやれるだろうか…。
 パウロはアドバイスする。全ての肉の親・霊の親に、全て涙を流しながら任に当たっている働き人に、また、リーダー達に。「神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである」と。
 私達に助け主・聖霊が来るなら、イエス様が成したわざをする事ができ、また、それ以上の事ができる!
その助け主は、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊である。聖霊の第一の現れは「力」であるが、ただのイケイケな力ではなく、慎みの霊でもある。その、力と慎みとの中心にあるのが「愛」、これこそ重要である。
 全き愛は、恐れを締め出す。もし恐れているなら、愛が全うされていない状態だ。しかし子供や兄弟姉妹を何とかしてやりたい、という愛が燃え立たされているなら、恐れず、ひるまず、大いなる働きをしていく。
 テモテは思い起こす事が出来た。自分は、パウロから按手を受け、その時にいただいた霊は、力と愛と慎みの霊だ!と。 その後、テモテが素晴らしい牧会をして教会を成長させた事は、エペソ教会の遺跡が物語っている。今は廃墟だが、エペソ教会は、長さ400メートル、馬が内部を通れるほどの建物だった。
 
 肉の親子関係であれ、霊の親子関係であれ、私たちはどれほど、愛をもって父母の役割を果たしているだろう。あるいはどれほど、日頃養いをいただいている父母に感謝しつつ従っているだろう。
 私達もパウロにならい、子のために日夜、祈りに覚えるべきである。また、テモテのように、霊の父母からいただいた御言葉を思い起こし、与えられている御言葉と聖霊によって、力と、愛と、慎みに富んだ働きをしてゆくべきである。私達はますます立派な霊の親となり、また、霊の養いをいただいている霊的な父母を敬い、素晴らしい愛の関係を保っていく皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福します!
 

主日礼拝
時代の支配者・先駆者となって行くために(ヨシュア記1:1-9)
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週報/メッセージ(説教)概要

 世界は、新しい時代に突入している。自動化やAI化が進み、今まであった仕事がどんどんコンピュータに奪われつつあるこの時代、今までの固定概念に安住し続けて、それ以上の事をしないなら、どんどん他人やコンピュータに主導権を奪われ、ただ、与えられた仕事しか出来ない奴隷のような人生になってしまう。
このような時代でも主にあって主導権を勝ち取り、支配者となるため、今回はヨシュア記から恵みを得たい。
 
 ヨシュア記は、今までの偉大な指導者モーセが死んで、まさに新しい時代に突入した時点から始まる。
 『今あなたと、このすべての民とは、共に立って、このヨルダンを渡り、わたしがイスラエルの人々に与える地に行きなさい。』(ヨシュア記1:2) まず、一番先に超えなくてはならない境界は、ヨルダン川である。
それまでは、ヨシュアも、イスラエルの民も、モーセ抜きで主体的に動いた事はなかった。ヨルダンのこちら側には、既に、ある程度の良い領土を勝ち取っていた。わざわざヨルダン川を超えて、父の代が恐れ尻込みして入って行けかった、あのカナンの地へと入っていくには、未知の恐怖や躊躇はあったかもしれない。
 しかし、主が「行って、獲なさい」と言われた領域は、ヨルダン川のこちら側にとどまらず、ヘテ人の全土や大河ユーフラテス、および、日の入る大海に至るまで、という、遥かに広大で、豊潤な地だった。(4節)
 今、私達も同じチャレンジを受けている。今、私達はそこそこ快適な暮らしが与えられているかもしれない。
そこに満足して「何でわざわざ未知の領域へ踏み出さなくてはならないのか?」と思っていないだろうか?
私達は今、聖書に書かれてある全部の、どれくらいを経験しているだろうか?約束された祝福の、どのくらいを勝ち得ただろうか。約束の聖霊をいただいているだろうか。癒しやしるし、奇跡を体験しているだろうか。
イエス様のわざを、どのくらい行っているだろうか?もし得ていないなら、私達も勝ち取って行くべきである。
 主はヨシュアに保証を与えられた。「あなた方が、足の裏で踏む所は皆、わたしがモーセに約束したように、あなた方に与える」(3節) 足の裏で踏む所が自分のものとなる約束は、自分の目や判断で進もうとする、生来の性質と決別し、ただ主の約束に従って歩む事を示した時に与えられる。信仰の父・アブラハムに「足で踏みゆく所はことごとく与える」と約束が与えられたのは、そのようなロトと決別した直後だった。
ヨシュアにこの約束が与えられたのも、神の約束を退けた不従順な世代が、皆、死に絶えた後だった。
 主から言われた通り、彼らがヨルダン川の前まで来た時、契約の箱をかつぐ祭司達が水を湛えている川に、一歩足を踏み入れた時、川は堰き止められ、祭司達は契約の箱をかつぎながら、川底に留まり続けた。
それを見たイスラエルの民は、安心して、せき止められた川を渡る事ができた(3章)。私達も、私達の子供や、信仰の後続達の牽引役になるために、この祭司達にならい、「現代の契約の箱」を担いで行くのだ。
 現代の契約の箱とは、「旧契約聖書」と、「新契約聖書」、この契約の書に書かれてある内容を信じ、行い、その内容を担いだ人生を歩んで行くのだ。契約の箱の中には、?御言葉が記された石の板と、?マナが入った金の壷と、?芽をふいたアロンの杖があった。私達も?御言葉そのものと、?神がいのちを養って下さる約束と、そして、?死からいのちへの復活のしるし・永遠の祭司のしるしを握りしめて行くのである。
それらを担いで進み行くなら、たとえ死の川が横たわっていても、それを踏みつけ、進み行く事が出来る。
 
 『あなたはこの民に、わたしが彼らに与えるとその先祖達に誓った地を獲させなければならない』(5-6節) 
私達も、主が約束して下さった地を、子々孫々へと継がせなくてはならない。主が与えると約束して下さった地は、申命記11章に記されている素晴らしい地である。すなわち、そこは自分で種を蒔いたり、自分の力で水をやらなければならない地ではなく、山と谷の地で、天の雨で潤っている。そこは主が求められる地で、年の初めから年の終わりまで、主が絶えずその上に目を留めておられる(申命記11:11-12)。
 そのような素晴らしい地が与えられるのは、御言葉を昼も夜も口ずさむテフィリン世代にのみ、である。
なぜなら申命記の続く13節以降にそのように書いてあるし、またヨシュア記も以下のように続くからである。
 『この律法の書をあなたの口から離す事なく、昼も夜もそれを思い、その内に記されている事を、ことごとく守って行わなければならない。そうするならば、あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう。』(8節)
 この困難な時代、勝利者・支配者の側になるため必要な事は、自分の目や判断で進む生来の性質と決別し、御言葉を昼も夜も口ずさみ、神の約束をしっかり握りしめる「テフィリン世代」となる事だ。世の固定概念に縛られず、大胆に御言葉を実行し、大胆に支配権を獲得し、多くを得ていく皆さんでありますように!
 

 

主日礼拝

助け主が来るなら、私達も癒しの奇跡ができる!(マルコ9:23)

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 ペンテコステ前、マルコの部屋に集った聖徒達は、イエス様が約束して下さった助け主・聖霊がすぐ来る事を期待し、来たなら、自分達もイエス様がしたわざをする事ができる、いや、それ以上の事ができる!と、ありありと思い巡らし、待ち望み続けた結果、実際にペンテコステの日に与えられ、実際にわざを行った。
これは今の私達にも起きる事である。むしろ、今の時代の日本こそ、聖霊によるしるしや奇跡が必要である。
なぜなら、そのわざによって、神を知らなかった人が、神を知るようになり、信じなかった人が信じて、救われるようになるためである。だから今、私達も、あの時代の使徒にならい、イエス様の奇跡をありありと自分のものとするため、聖書を開いて、イエス様がなされた奇跡を一つ一つ確認し、助け主が来るならば、これらは2020年を生きる今のわたしにも起きる!と、信仰を混ぜつつ思い巡らし、自分のものとして行きたい。
 
 福音書でイエス様がなされた奇跡の内、最も多かったのが、癒しの奇跡である。イエス様が行かれた所では大勢の病や、悪霊憑きや、てんかんが、癒された。(マタイ4:23、8:14、マルコ1:29、ルカ4:38、6:17)
らい病を患っている人は、それが清められ(マルコ1:40、ルカ17:11)、皮膚の病は癒された。 (ルカ14:1)
また、手や足が萎えた人など、完全でなかった体が、完全にされた。 (マタイ12:9、マルコ3:1、ルカ6:6)。
また、弟子が勝手に切り落としてしまった耳を癒やし、弟子の不始末の責任を取られた(ルカ 22:50)。
 また主は、御言葉の宣言によって遠隔地の人を癒された。主は、「お言葉さえ頂ければ(たとえ面と面を向かっていなくても)癒やされる」、という百人隊長の信仰通り、彼のしもべを癒され(マタイ8:5、ルカ7:1)、また、王室の役人の息子も、遠隔地から癒しを宣言したちょうどその時、息子は癒やされた。(ヨハネ4:43)
 また、第三者の執り成しを聞き入れて癒やされた事も多々あった。(マタイ14:34、9:1、マルコ6:53)
 主は個人個人に、その癒す相手に応じ、それぞれ個別の対応をされた。主は、ベテスダの池で38年、病で苦しんでいる人を癒し(ヨハネ5:1)、耳が聞こえず舌の回らない人の耳には、指を差し入れ、唾をつけて舌に触れ、「エパタ」と言って耳を開き、舌のもつれを解かれた(マルコ7:32)。また、見えない人の目に唾をつけて癒し、さらに人が木のように見えてしまう目を、はっきり見える目へと癒した (マルコ8:22)
 生まれつきの盲人の目に泥を塗って、シロアムの池で洗うようにと指示し、彼がその通りすると、見えるようになった(ヨハネ9:1)。また、盲人バルティマイの「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」という叫びに応じ、癒して下さった(マタイ20:29、マルコ10:46、ルカ18:35)。このケースのように、主は癒やされた時、「あなたの信仰があなたを救った」と、よく言われた(マタイ9:22、マルコ5:34、ルカ7:50、8:48)。
 また、自分自身の信仰一つで、主から癒しを引き出してしまったケースもあった。十二年間長血を患っていた女は後ろから主の衣の房に触れて癒しを引き出し(マタイ9:18、マルコ5:25、ルカ8:40)、また、ツロ・フェニキヤの女は、主の言葉を掴んだ信仰告白によって、娘の癒しを主から引き出した。(マルコ7:26)
 
 私達も助け主が来て、聖霊に満たされるなら、これら全てのわざを行い、またそれ以上の事をするのだ!
悪霊やてんかんによって悩まされているだろうか?助け主が来るなら、それらをイエスの名によって癒す事ができる! 皮膚の病や、人から「汚れている」と言われる病を持っているだろうか?助け主が来るなら、それらを清められる! 手足など肢体の完全さを失ってしまっているだろうか?それらも癒す事ができる!
 目がはっきり見えないだろうか?人が人として見えず、木が歩いているかのように見えてしまうだろうか?助け主が来るなら、そのような人を癒やす事ができる! 助け主が来るなら、12年来でも38年来の病でも、長年治らなかった病が癒せる! 助け主が来るなら、耳や目が塞がれている人に「エパタ!」と言って開く事ができる! 舌がもつれてうまく言えない舌も、解ける! 弟子が犯した不始末の責任を、癒しによって補償できる!そうして癒しのわざを人々が見るなら、主が確かに生きて働かれる事を知り、衣の房を触れるだけで癒しを引き出したり、あるいはパウロのように、前掛け布をかざすだけで、癒やす事も、起こるだろう。
 
 今まで、こう言うのは「おこがましい」、癒しはイエス様の専売特許で、イエス様なら出来ても自分には出来ない、と言って来たのは、私達・信じる者にも与えられていた特権を制限する事だったと反省しなくてはならない。聖書に書いてある内容で、「まさかここまではできないだろう」と思えていた事は、どんどん「聖霊が来るなら自分にもできる!」と塗りつぶして行き、主のわざを実際に行っていく皆さんでありますように!

主日礼拝

期待し望む者に与えられる聖霊(ヨハネ 14:11-21)

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 本日はペンテコステ(聖霊降誕日)。主が弟子達に約束しておられた通り、聖霊が与えられ、その日を境に、彼らはイエスを大胆に証する強力な働き人へと変えられた。今の日本ほど、聖霊によるしるしや奇跡が必要な時代はない。世の人々は、教会が世に媚びて発信する知識や哲学めいた事、エンターテインメントなどでは、釣られない。そうしたものは幾らでも世にあって、そちらのほうが魅力的だからだ。しかしもし、有り得ないような奇跡や癒し、しるしが起きるなら、彼らは、そのわざによって信じるようになる。(ヨハネ14:11)
 奇跡やしるしが起きる理由は、それによって人々が驚き怪しみ(5:20)、神が栄光を受け、また神の子が栄光を受けるためであり(11:4)、神を知らなかった人が知るようになり、信じようとしない人が信じて救われるためである。私達は、この聖霊の働きが実際に起こる!と、どれほど具体的に信じ、期待しているだろう。
 聖霊充満にあずかれる人とは、主から言われた事を思い巡らし、そうなる、と期待し続ける人である。
復活の主が昇天される時、500人以上の人々が集まっていたが、五旬節の日に聖霊充満を体験したのは、たった120人だった。残りの380人は、期待し続けられず、去ってしまったのだ。具体的に期待し、望み続ける事こそ、聖霊を受ける条件である。では、私達がその「期待」の度合いを高めるには、どうしたらいいか。
 
 当時、弟子達は共に集い、共に賛美(テヒラー)し、祈り(テフィラー)に専念していた。当時ユダヤ人の賛美は、詩篇にメロディをつけて歌うというもので、当時の祈りは、聖書の言葉をそのまま暗唱する事だった。
 それを反復するのが、我々がしている「テフィリン」である。主の言葉をじっくり思い巡らし、宣言し続けていくと、矢のように飛んで来る言葉や、感動する言葉、心について離れない言葉が現れる。それをさらに思い巡らし続けて行くと、どんどん清められ、内側に聖なる領域がどんどん広まり、また、罪や肉欲の領域がどんどん縮小されて行く。そうしてどんどん、主のわざを為すのに適した器となって行く。そして、ついに主のタイミングが来た時、聖霊が爆発的に働き、もの事、人、状況に対して、圧倒的な主の御業が遂行される。
 だから私達も、弟子達がしたように、主の言葉を喜びつつ期待するのだ。聖霊が来るなら、主がしていたわざが自分達にもできる、今までイエス様に関心が無かったあの人が、俄然聞くようになる、今まで山のように動かなかった状況が動き、癒されなかった病が癒され、出ていかなかった悪いくせが出ていく、と。
 
 異邦人が集団で聖霊充満するきっかけを作った、百人隊長のコルネリオは、元々、ユダヤ人の信仰を見て、自分もそうなりたいと「期待」し、ユダヤ人のように祈り(御言葉を黙想し)、断食し、施しをしていた。
 彼がペテロを招いた時、家族や多くの友人達も、そこに招き寄せていた(使徒10章)。カイザリヤという娯楽や誘惑が多い町で、ローマの百人隊長が、被支配国の一般人から宗教的な指導をいただく集会…。
人数を集めるのはとても難しそうだが、彼はどうして多くのローマ人を集められたのか。それは、彼はいつも「期待」していた故だ。それで、彼の祈りや施しにはいつも祝福がついて回り、彼がいつも良い方向へ変わっているのを、家族や友人達が見て、彼が信じる神は本当にいるかもしれない、と思われていたのだろう。
 果たして私達は、御言葉に期待して良い方向に変わった姿を、家族や友人から評価されているだろうか。
もし自分が変わらないまま、福音を伝えたり、教えても、聞きはしないだろうし、集会に来てもらえないだろう。
だからまず、御言葉に期待し自分が変わる必要がある。祈りや賛美を「ルーチンワーク」にしてはならない。
祈りと賛美に真心を込め、主のうめきを共に感じ、切に祈るのだ。イエス様、この事は一体どうしたらいいですか?このままではわたしは潰れてしまいます。このままではあの人は滅んでしまいます。このままでは国に将来はありません。ああ主よ!と。偉大な王・ダビデがいつもそのようだった事は、詩篇を読めば分かる。
ルーチンワーク的な礼拝を、主は嫌う。ルーチンワーク化されたパリサイ人の礼拝より、胸を叩いて涙を流した取税人の礼拝のほうを、主は選ばれた。主はうめき、痛み、喜びの余韻を持っている人を求める。
 だから、いつも「神の国の余韻」を持っているべきだ。この余韻を習慣的に持っているなら、町を歩いていて、全く知らない人をぱっと見ても、なんであの人はあんな事するんだろう、主よ!といううめきが出てくる。
 普段からのうめきが無いなら、たとえ御言葉を宣言しても、あるいはその人を前に祈っても、上っ面の祈りしか出てこない。いつも人に対し、時代に国に対し、イエス様、なんとかしてください、とうめきを持つべきだ。
 今、私達は期待しつつ、聖霊を求めるべきである。助け主が来るなら、主のわざを行う事ができる。物事が変わっていく。それをありありと望み、実際に得て、多くの人をイエス様へと導く皆さんでありますように!
 
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