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礼拝説教メッセージ音声:大贖罪日の準備(レビ記16:1-10):右クリックで保存
レビ記16章は、年に一度の大贖罪日(ヨム・キプール)に、祭司が為す務めについて記されている。
この事を教えるにあたり、真っ先に主が思い起こさせた事は、あの恐ろしい事件、主の御前から火が出て、アロンの二人の子を焼き尽くした出来事だった。
『アロンのふたりの子が、主の前に近づいて死んだ後、主はモーセに言われた、「あなたの兄弟アロンに告げて、彼が時をわかたず、垂幕の内なる聖所に入り、箱の上なる贖罪所の前に行かぬようにさせなさい。彼が死を免れるためである。なぜなら、わたしは雲の中にあって贖罪所の上に現れるからである。』(レビ記16:1-2)
人は、いたづらに聖なる主の御前に出てはならず、必ず、主が提示された方法に従うべき事を教えている。
主の栄光が現れる。
それは素晴らしき事である。
主の臨在、それはキリスト者であるなら、誰でも求めるものであろう。
しかし、主の御前に出る時、人間の側の「勝手」は一切通用しない。
主の側が示された作法に、100%従うべきである。
そうでないと、主の栄光は逆にその人自身を滅ぼしてしまうものとなってしまう事は、レビ記10章で既に見ているし、民数記の至る所でも記されている通りである。
『アロンが聖所に、はいるには、次のようにしなければならない。すなわち雄の子牛を罪祭のために取り、雄羊を燔祭のために取り、聖なる亜麻布の服を着、亜麻布のももひきをその身にまとい、亜麻布の帯をしめ、亜麻布の帽子をかぶらなければならない。これらは聖なる衣服である。彼は水に身をすすいで、これを着なければならない。』(レビ記16:3-4)
大贖罪日において、まず真っ先に為すべきは、イスラエル全体の贖いを執り行う大祭司自身の、罪の贖いである。
そのために、雄の子牛を罪祭として取り、雄羊を燔祭のために取る。
人間の祭司は、弱さがあり、罪を犯すし、不完全である。キリストこそ、罪なく完全な大祭司である。
『このように、聖にして、悪も汚れもなく、罪人とは区別され、かつ、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとってふさわしいかたである。彼は、ほかの大祭司のように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために、日々、いけにえをささげる必要はない。なぜなら、自分をささげて、一度だけ、それをされたからである。律法は、弱さを身に負う人間を立てて大祭司とするが、律法の後にきた誓いの御言は、永遠に全うされた御子を立てて、大祭司としたのである。』(ヘブル7:26-28)
そして、次に準備するのが、イスラエルの人々のための贖いとなる雄やぎ二頭、これを罪祭のために取り、雄羊一頭、これを燔祭のために取る。
二頭のやぎに関しては、特別な捧げ方をする。
『アロンはまた二頭のやぎを取り、それを会見の幕屋の入口で主の前に立たせ、その二頭のやぎのために、くじを引かなければならない。すなわち一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためである。そしてアロンは主のためのくじに当ったやぎをささげて、これを罪祭としなければならない。』(レビ記16:7-8)
アザゼルとは、アザール(完全に除去する)の変化形で、KJVではスケープゴートと訳されており、人々の罪を一身に負い、人々の身代わりとなって荒野を遠く追いやられる山羊である。
大贖罪日、それはイスラエル全体の罪を贖い、神の御前に「罪なき」とされる日であるが、人類全体の罪を取り除く、まことのいけにえは、イエスキリストである。
神様が規定したこれらの行為の背後には、いつも、キリストがいる事を忘れてはならない。
『しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。
もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。』(ヘブル9:11-14)
礼拝説教メッセージ音声:女性の過多月経(長血)についての教え(レビ記15:25-33):右クリックで保存
『女にもし、その不浄の時のほかに、多くの日にわたって血の流出があるか、あるいはその不浄の時を越して流出があれば、その汚れの流出の日の間は、すべてその不浄の時と同じように、その女は汚れた者である。その流出の日の間に、その女の寝た床は、すべてその女の不浄の時の床と同じようになる。すべてその女のすわった物は、不浄の汚れのように汚れるであろう。』(レビ記15:25-26)
ここは、いわゆる不正出血、過多月経(長血)などの場合についての教えである。
月経は、女性の体が子供を産む準備をしているために起こるものであり、子供を産むためには、当然、精子(ギリシア語ではスペルマ:種、子孫の意味もある)が必要である。
女性は精子(スペルマ)が無ければ、どうあがいても子供を身篭れないように、私達も、キリストというまことのスペルマが無ければ、永遠のいのちは生じない。
『約束は、アブラハムと彼の子孫(スペルマ)とに対してなされたのである。それは、多数をさして「子孫(スペルマ)たちとに」と言わずに、ひとりをさして「あなたの子孫(スペルマ)とに」と言っている。これは、キリストのことである。』(ガラテヤ3:16)
また、みことばの種(スペルマ)が、私達という土地に蒔かれなければ、いのちの実を結ぶ事は出来ない。
肉の命は血の中にある(レビ記17:11)、とある通り、女性が、血を排出すべきでない時に排出し続ける事は、霊的には、いのちを無駄に流し続けているようなもので、御言葉の「種」を受けず、まことのスペルマなるキリストを受け入れもしない状態では、いたずらにいのちを流し出すのみである。
女性が受精した時、血のいのちは、胎内に宿った新しいいのちに流れ込むようになって、決して無駄にはならないように、人が、キリストというまことのスペルマを受けた時、いのちを無駄に垂れ流すという事は無くなり、キリストのいのちが、その人の内ですくすくと育って行く事となるのだ。
世界という器は、キリストというまことのスペルマが来なければ、この世界に、いのちは無い。
しかしある時、人間のスペルマ無しに、一方的な神の力添えによって身ごもった女性がいた。それが、乙女マリヤである。
彼女は、人のスペルマによってではなく、いと高き方から力が流れてきて、聖霊によって身ごもったのだ。
私達の救いも、人でによるのではなく上から与えられ、聖霊によって「イエスは主です」と告白する事によって、救われるのである。
『その女の流出がやんで、清くなるならば、自分のために、なお七日を数えなければならない。そして後、清くなるであろう。その女は八日目に山ばと二羽、または家ばとのひな二羽を自分のために取り、それを会見の幕屋の入口におる祭司のもとに携えて行かなければならない。』(レビ記15:28-29)
鳩は聖霊を意味する。
いのちを不正に流し出す汚れからきよめられた時、聖霊によって歩む決心をするのである。
新約聖書にも、長血を患う女が登場する。
彼女は12年もそのジレンマにあり、律法上は汚れたものとして苦しんで来たが、多くの医者にかかっても何の助けにもならず、その持ち物をみな費してしまっても、なんのかいもないばかりか、かえってますます悪くなる一方であった。(マルコ5:26)
人間の医学も、お金も、罪に対し、汚れに対し、何の力も持たない。それらに頼っても、逆にますます悪くなる一方で、ただ、いのちと、お金と、時間、若さを費やすのみである。
彼女が唯一救われたのは、まことのスペルマなるイエス様を信じ、信仰をもって触ったからである。
罪と汚れからの救いは、ただイエスキリストのみである。
キリストを信じる信仰を持って、彼に手を延ばすなら、誰でも救われる。
『イエスはその女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」。』(5:34)
イエス様に信仰をもって手を伸ばし、罪と汚れから、病から癒していただき、健やかに、安心して行く皆さんでありますように!
礼拝説教メッセージ音声:性器からの流出物(レビ記15:1-15):右クリックで保存
レビ記15章は、性器からの流出物がある場合についての教えである。
『だれでもその肉に流出があれば、その流出は汚れである。』(レビ記15:2)
ここの「だれでも」の原語「イシュ」は、英語で言う所の「man」、「男」をあらわすと同時に、女性も含めた「人」全般を意味する。
「肉(バサー)」には、「体」や「肌」の意味もあるが、特に男性器をあらわす言葉でもあり、例えば、主がアブラハムに「包皮の"肉"を切り捨てなければならない」という割礼の命令を与えられた時にも用いられている言葉である。
また、「流出」という言葉は、原語では、ひっきりなしに流れ出る、という意味があるため、今回の箇所は、特に、性病などによって男性器からの不自然な漏出が常にある場合、と見る事ができる。
その流出が停止している時でも、その人は汚れた状態であり(3節)、その人が寝た床も、座ったものも、乗った鞍も、その下にあったものは、全て、汚れたものであるとされる。
また、それに触れたり、運んだりする人も、水を浴びなければならず、その人も夕方まで汚れた者とされる。
『流出ある者の肉に触れる者は衣服を洗い、水に身をすすがなければならない。彼は夕まで汚れるであろう。流出ある者のつばきが、清い者にかかったならば、その人は衣服を洗い、水に身をすすがなければならない。彼は夕まで汚れるであろう。』(レビ記15:7-8)
流出がある人の、その部位に触れた場合や、その人のつばきがかかった場合など、そう滅多に起きないであろう場合について、わざわざ指示している点は、興味深い。
また、彼の下になった物は汚れ、それに触れる人も、夕方まで汚れる、とさる。
さらには、流出ある人が、水で手を洗わずに人に触れる場合もその人は汚れ、流出ある人が触れた土の器は、砕かなければならないほどに、この汚れについての指示は、徹底している。(同10-12節)
創世のはじめ、神は「生」も「性」も祝福され、それらは良きものであったが、アダム以来、人類には罪がはびこるようになってしまい、「生」も、「性」も、主の前に汚れたものとなってしまった。
事実、神を知らない異教徒は、性的に乱れやすく、性行為から感染する泌尿器系の病にかかりやすかった。
性器に由来する汚れは、徹底して清めなければならないのは、イスラエルの民がそのような汚れに染まらないように、という、予防的な意味も、もちろんあっただろう。
「肉」の奥底からひっきりなしに流れ出てくるもの、それは、新約においても、汚れているとされている。
『わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。
そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。わたしの内に、すなわち、わたしの”肉”の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。』(ローマ7:15-18)
パウロが言うように、肉の内には善は宿っておらず、そこから絶え間なく流れ出てくるものは、罪であり、人を汚すものである。
肉からの噴出物、すなわち、肉由来のものは、「汚れている」とされ、良いものは何一つ無い。
『 肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。』(ガラテヤ5:19-21)
このように、「肉」を源とする者の座に、自らも座るなら、汚れているとされ、その者の口から出たもの(つばき)に触れる者も、汚れる。
肉から汚れを噴出している者が、清められるためには、御子イエスの御言葉の水で洗われ、新しく生まれ変わり、御霊に満たされる以外に無い。
『肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。
しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。』(ローマ8:6-9)
肉にあって歩む者の結ぶ実は、罪であり、死である。それは、神を喜ばせない。
しかし、御霊にあって歩む者の結ぶ実は、あらゆる良きもので満たされており、神の御前に有用である。
『御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。』(ガラテヤ5:22-24)
肉からの噴出を病む者が清められるには、七という完全数を経て、衣服を水で洗い、すすいで清くされる。
『八日目に、山ばと二羽、または家ばとのひな二羽を取って、会見の幕屋の入口に行き、主の前に出て、それを祭司に渡さなければならない。祭司はその一つを罪祭とし、他の一つを燔祭としてささげなければならない。こうして祭司はその人のため、その流出のために主の前に、あがないをするであろう。』(レビ記15:14)
ここで鳩が使われているのは興味深い。
鳩は御霊を意味する。
肉にあって歩むのを止め、御霊によって新しく歩みをはじめる。そうするならば、清くされるのである。
家に現れたツァラアト - 教会の汚れの対処(レビ記14:33-57)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » レビ記
- 執筆 :
- pastor 2013-5-25 17:32
礼拝説教メッセージ音声:家に現れたツァラアト - 教会の汚れの対処(レビ記14:33-57):右クリックで保存
今回は、家にツァラアトが発生した場合の教えである。
『「あなたがたに所有として与えるカナンの地に、あなたがたがはいる時、その所有の地において、家にわたしがらい病の患部を生じさせることがあれば、その家の持ち主はきて、祭司に告げ、『患部のようなものが、わたしの家にあります』と言わなければならない。』(レビ記14:34-35)
ここに「家にわたしがらい病の患部を生じさせることがあれば」とあるが、つまり、神が、その家に汚れがある事を示し、対処が必要である事を、明示されるのである。
家に現れたツァラアトへの対処は、他の場合と比べて、寛大である。
他の場合なら、症状が現れて、七日間の様子見の後、患部が広がっていたなら、「汚れている」宣言され、衣類や革製品なら、その時点で焼き捨てられる事が確定する。
しかし家の場合はそうではなく、その部分の石を取り除き、他の石でそこを埋め、家の内側を削らせて、漆喰を塗り直させる。
家全体が取り壊しになるのは、上記の事をしても、なお、再びツァラアト現れた場合である。
では、この「家」は、霊的には何を意味するだろうか。
『神の家というのは、生ける神の教会のことであって、それは真理の柱、真理の基礎なのである。』(1テモテ3:15)
『もしわたしたちが、望みの確信と誇とを最後までしっかりと持ち続けるなら、わたしたちは神の家なのである。』(ヘブル3:6)
上記の御言葉の通り、神の家とは教会であり、そして教会(エクレシア)とは「召しだされた者達」、つまり、キリストにあって召しだされた”私達”である。
私達は、キリストのからだであり、おのおのが各器官であるとコリント書に記されている通り、教会が神の家であり、私達は、その構成要素である。
つまり、家に現れるツァラアトは、霊的に、教会に罪をはびこらせる「人」として解釈する事が出来る。
そのような人への対処について、イエス様は次のように言っている。
『もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。それは、ふたりまたは三人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるためである。もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい。』(マタイ18:15-17)
「人」に対する対処は、ツァラアトを取り除くような機械的なものではなく、まずその人を諭し、それでも聞かなければさらに二人、三人と証人を増やして行き、教会の言う事も聞かなければ、その人を異邦人や取税人同様に扱う、すなわち、神の共同体からは切り離されたものと見なす。
それが、主が定めた教会における対処方法であるが、それをしなかったケースが、第一コリントの手紙に記されている。
『現に聞くところによると、あなたがたの間に不品行な者があり、しかもその不品行は、異邦人の間にもないほどのもので、ある人がその父の妻と一緒に住んでいるということである。それだのに、なお、あなたがたは高ぶっている。むしろ、そんな行いをしている者が、あなたがたの中から除かれねばならないことを思って、悲しむべきではないか。
しかし、わたし自身としては、からだは離れていても、霊では一緒にいて、その場にいる者のように、そんな行いをした者を、すでにさばいてしまっている。すなわち、主イエスの名によって、あなたがたもわたしの霊も共に、わたしたちの主イエスの権威のもとに集まって、彼の肉が滅ぼされても、その霊が主のさばきの日に救われるように、彼をサタンに引き渡してしまったのである。』(1コリント5:1-5)
教会とは、何でもかんでも愛して赦して受け入れて・・・という集団ではない。
主が忌み嫌われる事を、平然とし続けているような者を同居させたまま、自分も健全に保っていける、と思っているとしたら、それはパウロが言っているように「高ぶっている」のだ。
そのように罪をはびこらせて平然としている者は、あえてサタンに引き渡し、その人が終わりの日に救われる事に賭ける勇気も、必要である。
もちろん、信徒をサタンに引き渡したい牧会者など、一人もいないし、パウロも怒りに任せて「サタンに引き渡す」などと言ったのではない。
パウロは愛の故に「主の日に彼の霊が救われるため」そうしたのであり、大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらにあの手紙を書いた、と、後に記している。(2コリント2:4)
パウロは、得るか失うかの賭けに出た結果、後に「得た」ようである。(2コリント2:5-11 http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=745&cid=16 )
いずれにせよ、教会に罪を持ち込み、はびこらせ、注意しても聞かないようであるなら、たとい痛みを覚えようとも、交わりから断つ、というのは、旧約にも新約にも記されている聖書のスタンダードである。
その事をしない教会は、どんどん汚れが進行し、ついには、ツァラアトが再発する家のように、ばらばらにされてしまう。
何でもかんでも愛して赦して受け入れて・・・という雰囲気が、キリスト教界ではびこっている昨今、この事はよく肝に銘じるべきである。
礼拝説教メッセージ音声:ツァラアトからのきよめの儀式(レビ記14:10-32):右クリックで保存
ツァラアトからきよめられる人が、七日間のきよめの期間を終え八日目に捧げる捧げものは、罪過のためのいけにえ(愆祭)、罪のためのいけにえ(罪祭)、全焼のいけにえ(燔祭)、穀物の捧げもの(素祭)である。
多くの種類のいけにえが必要であるが、貧しくてそれらが手に入らない人でもそれが出来るための配慮が、21節以降31節に記されている。
ツァラアトからの回復の上で、真っ先に捧げられるいけにえが、罪過のためのいけにえ(愆祭)である事は、意義深い。
罪のためのいけにえ(罪祭)は、神とその人自身との間の罪の問題を解消するものであったが、罪過のためのいけにえ(愆祭)は、神と人との間のみならず、誰か、迷惑をかけた相手への賠償の意味合いもあった。
イエス様も、『祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。』(マタイ5:23-24)と言っている。
きよめられて神の共同体に再び入る上では、まず、兄弟姉妹との軋轢を解消するというステップを真っ先に踏まなくてはならない。
『そして祭司はその愆祭の血を取り、これを清められる者の右の耳たぶと、右の手の親指と、右の足の親指とにつけなければならない。』(レビ記14:14)
興味深い事に、血潮を右の耳たぶと、右の手の親指と、右の足の親指とにつけるのは、祭司が任職される時と同じである。(レビ記8:23-24)
清められる者も「耳」に血潮を塗り、これからは、主の御声と、人々の声を、正しく聞き分けていくように清め、「手」のわざも、「足」での歩みも、全て、きよい働きをするよう一新するのだ。
『そして祭司は右の指を左の手のひらにある油に浸し、その指をもって、その油を七たび主の前に注がなければならない。祭司は手のひらにある油の残りを、清められる者の右の耳たぶと、右の手の親指と、右の足の親指とに、さきにつけた愆祭の血の上につけなければならない。そして祭司は手のひらになお残っている油を、清められる者の頭につけ、主の前で、その人のためにあがないをしなければならない。』(レビ記14:16-18)
さらに今度は、右の耳たぶと、右の手の親指と、右の足の親指とに、油が塗られ、祭司のように、頭にも油が塗られる。
善きサマリア人のたとえでも、サマリヤ人は傷を受けた人にぶどう酒を注ぎ、オリーブ油を塗ったが、主も、私達を血潮(ぶどう酒)できよめ、聖霊の油を塗り、新しい歩みを歩ませ、聖霊の導きによって、全ての事において導きを与えて下さるのだ。
『あなたがたのうちには、キリストからいただいた油(原意:塗り油)がとどまっているので、だれにも教えてもらう必要はない。この油が、すべてのことをあなたがたに教える。それはまことであって、偽りではないから、その油が教えたように、あなたがたは彼のうちにとどまっていなさい。』(1ヨハネ2:27)
そして続いて、罪のためのいけにえと(罪祭)、全焼のいけにえ(燔祭)と、穀物の捧げ物(素祭)が捧げられ、贖いが完了する。(レビ記14:19-20)
ここまで見ていくと、ひと度、ツァラアトにかかって、そこから癒され、清くされた人は、生涯一度もツァラアトにかからなかった人に比べ、遥かに豊かな体験をする事が分かる。
ツァラアトにかかった人は、衣服を裂き、「けがれている」と叫んで、孤立しなくてはならなかった。
その時はその人にとって辛い事であったが、人々から離れ、じっくりと自分の汚れを味わい、主と一対一となって交わり、そうして癒された後には、このように、祭司のごとく、血塗られ、油塗られ、全焼のいけにえを捧げて、再献身をするのだ。
これは実に、キリストにある私達の有様を表している。
私達も元々、罪という霊的ツァラアトに犯され、神の民からは切り離された者だったが、キリストの犠牲によって、罪赦され、血潮によって清められ、聖霊の油が塗られ、王族の祭司のような扱いを受けた。
そして、自らの全てを全焼のいけにえとして捧げ、主に従って新しいいのちを生きていくのである。
礼拝説教メッセージ音声:ツァラアトからの立ち直り:全てが新たにされる(レビ記14:1-9):右クリックで保存
レビ記14章は、ツァラアトが癒されて、汚れた状態から清められた状態へと変えられる際の教えが記されている。
ツァラアトが癒えたら、そのまま人の交わりに復帰できるわけではなく、必ず祭司に見せ、「きよい」と宣言され、所定の手続きを経る必要がある。
ある人のツァラアトが癒えた場合、聖なる所で奉仕をしている祭司は、宿営の外の、人々から隔離されているその人の所へと出向き、きよめの儀式を行いに行く。
まことの大祭司イエス様も、聖なる御住まいであられる天から降りてこられ、罪で汚れた私達をきよめるために、私達に近づいて下さった。
『祭司は宿営の外に出て行って、その人を見、もしらい病の患部がいえているならば、祭司は命じてその清められる者のために、生きている清い小鳥二羽と、香柏の木と、緋の糸と、ヒソプとを取ってこさせ、
祭司はまた命じて、その小鳥の一羽を、流れ水を盛った土の器の上で殺させ、そして生きている小鳥を、香柏の木と、緋の糸と、ヒソプと共に取って、これをかの流れ水を盛った土の器の上で殺した小鳥の血に、その生きている小鳥と共に浸し、これをらい病から清められる者に七たび注いで、その人を清い者とし、その生きている小鳥は野に放たなければならない。』(レビ記14:3-7)
この儀式では、生き物としては、小鳥二匹が用いられる。
その内の一羽は、湧き水を入れた土の器の上で殺され、血は、その器の中に滴り落ちる。
私達は土の器であり、イエス・キリストは私達を清めるために、十字架という木の上で、血潮を流された。
『わたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。』(2コリント4:7)
故に、この器の上でほふられる小鳥は、イエス・キリストの犠牲を、香柏の木は十字架を暗示する。
そして、緋色(血の色)の糸は、犠牲のために流される血潮を、そして、滅びを免れ守られるを意味する。
遊女ラハブは、イスラエルの斥候から教えられた通り、緋色のひもを窓の所に結びつけ、その家を滅びから免れさせた。(ヨシュア記2章)
また、出エジプトの民は皆、主に命じられた通りに、扉の鴨居と門柱に血潮のしるしを付け、滅ぼす者が過ぎ越すしるしとした。
ヒソプは、血潮によるきよめを意味する。
ヒソプは過越祭の時、鴨居と門柱に血潮のしるしを付けるのに用いられたし、また、ダビデも罪を犯した時、次の詩篇を詠んだ。
『ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう。わたしに喜びと楽しみとを満たし、あなたが砕いた骨を喜ばせてください。み顔をわたしの罪から隠し、わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。』(詩篇51:7-9)
その血潮に浸され、生き残って、野に放たれる小鳥は、水と血潮の中をくぐって滅びを免れ、生かされ、自由にされた私達を意味し、また、十字架の死を通して復活し、天に昇られた、イエス・キリストをも暗示する。
『清められる者はその衣服を洗い、毛をことごとくそり落し、水に身をすすいで清くなり、その後、宿営にはいることができる。ただし七日の間はその天幕の外にいなければならない。そして七日目に毛をことごとくそらなければならい。頭の毛も、ひげも、まゆも、ことごとくそらなければならない。彼はその衣服を洗い、水に身をすすいで清くなるであろう。』(レビ記14:8)
髪も、ひげも、眉毛も剃った人は、実に特徴的である。
その人は誰の目にも明らかに、古いものは過ぎ去って、全てが新しくなった。
ツァラアトから清くされる事は、実に、イエス・キリストの十字架上での犠牲、血潮によるきよめ、滅びからの免れ、復活、古いものが過ぎ去り全てが新しくされる事を、暗示しているのだ。
礼拝説教メッセージ音声:身に着けるものに現れるツァラアト(レビ記13:47-59):右クリックで保存
『また衣服にらい病の患部が生じた時は、それが羊毛の衣服であれ、亜麻の衣服であれ、あるいは亜麻または羊毛の縦糸であれ、横糸であれ、あるいは皮であれ、皮で作ったどのような物であれ、もしその衣服あるいは皮、あるいは縦糸、あるいは横糸、あるいは皮で作ったどのような物であれ、その患部が青みをおびているか、あるいは赤みをおびているならば、これはらい病の患部である。これを祭司に見せなければならない。』(レビ記13:47-49)
今回は、衣服や織物、編物、革製品など、人がまとったり、敷いたりするものにツァラアトが現れた場合の指示である。
これらのものに現れたツァラアトの判定と、それに対する対処は、人体に現れた場合よりも厳しい。
ツァラアトの疑いがある場合は、七日間隔離し、患部が広がっていたなら、悪性のらい病(fretting leprosy)として汚れたものと宣言し、焼き捨てるが、広がっていなかったなら洗わせ、さらに七日間隔離して様子を見る。
七日前に比べ、変わっていないようであったら「汚れたもの」と宣言し、焼き捨てるが、それが以前よりも症状が薄れていたなら、その部分をちぎり取ってから、元の用に用いる事ができる。
しかし、もしそれが再発するなら、火に投げ込んで焼き捨てる。
焼き捨てる事から免れるケースは、洗った後に患部が消える場合で、その場合は洗った後にきよいと宣言され、再び元の用に用いる事ができる。
衣類や革製品など、着たり脱いだりするものは、聖書の他の箇所では「救い」や「行い」を意味する。(イザヤ59:3-6, 黙示録19:6-8, コロサイ3:8-11)
人は、キリストにあって救われたなら、古いものは脱ぎ捨て、新しい人を「着た」ものとされる。
『なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。』(1コリント15:53-55)
結局、生まれつきの人間は、修復不能の古びた服のようで、直しても直しても次から次へとツァラアトのような「汚れ」が湧いて出て来るようなものであり、「救い」とは、そのような汚れの泉のような古いいのち(肉)を全く脱ぎ、焼き捨て、新しいいのちが着せられるものある。
古い衣、すなわち生まれつきのこの体は、着れば着る程、古びていくが、キリストにある「新しい人」はその逆で、着れば着る程、日々、新しくされていくものである。
『しかし今は、これらいっさいのことを捨て、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまいなさい。互にうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、造り主のかたちに従って(日々)新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである。』(コロサイ3:8-11)
そして、キリストにあって新しくされた人は、人生において正しい行いを紡いで行き、その事によって、天にて着せられる花嫁衣裳を織り成して行くのである。
『「ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる。わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意をしたからである。彼女は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである」。』(黙示録19:6-9)
しかし、ひと度救われて後、救われる以前の悪い行い(たとえば、飲酒や汚れた遊興など)に再び染まってしまうなら、衣服に現れたツァラアトのように、せっかく清くされた衣装を汚すものであり、それは時間を経るごとに広がって行き、放っておくなら、全体が火に投げ込まれてしまう「汚れたもの」になってしまいかねない。
以前の悪い行いに少しでも戻りそうなら、速やかに、その部分を御言葉の水で洗い流し、その部分を切り取って火に投げ込むくらいの覚悟で望んだほうが良いのである。
『兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない。あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。』(ヘブル3:12-14)
礼拝説教メッセージ音声:頭、ひげ、はげ頭のツァラアト(レビ記13:29-46):右クリックで保存
今回は、頭または、あご(ひげ)の部分にツァラアトが生じた場合の指示である。
疑いのある症状が現れた場合、七日間隔離して様子を見、それが広がっていないなら、そこで「きよい」と宣言されるのが通例だったが、頭、またはあご(ひげ)の部分に患部が生じた場合は、その部分の毛を剃り落として、さらに、もう七日間隔離する。
この部位に関しては、他の部位の場合より倍の慎重さをもって扱われる。それはどういうことか。
それは、「頭」や「ひげ」という部位は、男性にとっても、女性にとっても、その人自身の栄光をあらわす場所だからである。
ダビデは、ひげを半分剃られてしまって非常に恥じている使者達を配慮し、ひげが伸びるまでの間、町にこもっているよう指示した。(2サムエル10:1-5)
また、髪が長い事は、女性にとっては栄光、男性にとっては恥である事が、第一コリント11章に記されている。
『人がもしその頭から毛が抜け落ちても、それがはげならば清い。』(レビ記13:40)
男性の「はげ」は、普通に起こりうる現象だが、それをあざけりの対象として見る価値観は、昔のイスラエルにもあったようである。
『彼(エリシャ)はそこからベテルへ上ったが、上って行く途中、小さい子供らが町から出てきて彼をあざけり、彼にむかって「はげ頭よ、のぼれ。はげ頭よ、のぼれ」と言ったので、彼はふり返って彼らを見、主の名をもって彼らをのろった。すると林の中から二頭の雌ぐまが出てきて、その子供らのうち四十二人を裂いた。』(2列王記2:23-24)
はげ頭をあざけった報いとして、四十二人の子供が熊に襲われる。
それを「やりすぎ」と思うかもしれないが、男性の「頭」、ことに、神の預言者の、栄光の現れである「頭」を蔑む事が、いかに恐ろしい罰を招くか、伺い知る事ができる。
『祭司はこれを見なければならない。もしそのはげ頭または、はげ額の患部の腫が白く赤みをおびて、身の皮にらい病があらわれているならば、その人はらい病に冒された者であって、汚れた者である。祭司はその人を確かに汚れた者としなければならない。患部が頭にあるからである。』(レビ13:43-44)
ここで「確かに汚れた者(utterly unclean)」という、特有の強い表現がなされる理由は、患部が「頭」にあるから、である。
このように、「頭」や「ひげ」という、人の栄光をあらわす部位については、他よりも、二倍の慎重さ、二倍の期間をもって、取り扱われなくてはならない。
そして、そこにツァラアトが発覚した場合、「確かに汚れた者(utterly unclean)」という強い表現であらわされるのだ。
ウジヤ王の場合、祭司たちの面前で、ひたいにツァラアトが現れたが、いかに彼の傲慢さが神の御心を損ねたかが分かる。(2歴代誌26章)
現代、キリストのからだである教会においても、同じ価値観を適用できる。
かしらと見られる人、主だった人達の罪や汚れは、二倍の注意をもって対処しなければならない。
『よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。聖書に「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」また、「働き手が報酬を受けることは当然である。」と言われているからです。長老に対する訴えは、ふたりか三人の証人がなければ、受理してはいけません。』(1テモテ5:17-19)
そして、ツァラアトがあらわれて「汚れている」と宣言された人は、自ら、次のように振舞う事が命じられている。
『患部のあるらい病人は、その衣服を裂き、その頭を現し、その口ひげをおおって『汚れた者、汚れた者』と呼ばわらなければならない。その患部が身にある日の間は汚れた者としなければならない。その人は汚れた者であるから、離れて住まなければならない。すなわち、そのすまいは宿営の外でなければならない。』(レビ記13:45-46)
これは、その人にとって辛い事かもしれない。しかし、祭司に「汚れている」と宣言された者は、神のコミュニティに、自らの汚れを振りまいてはならない。
同様に、教会はキリストのからだである事をわきまえ、自分一人の汚れやエゴ、あるいは身勝手な人権思想によって、自分の汚れを、キリストのからだに持ち込んではならない。
ツァラアトにかかった人は、一人になって、悔い改めて主に立ち返るべきである。
神である主こそ、全ての罪汚れから、病から、清めて下さるお方であり、その事を信じて主に向かい、主の御言葉どおり行う人は、主の栄光を見る。
預言者エリシャの時、イスラエルにはツァラアトを患っている人はたくさんいたが、その誰もきよめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめらた。ナアマンは、預言者に言われた事を、曲がりなりにも、実行したからである。
イエス様の時代、10人のツァラアト患者は全員清められたが、彼らはイエス様に助けを求め、まだ癒されていない時に、あたかも「癒された」人が取るかのような行動を、イエス様の言葉を信じて行ったからである。
主イエスキリストこそ、ツァラアトからも、霊的なあらゆる汚れからも、清めてくださるお方である。
私達は、あらゆる思い込みや先入観を捨て、人々に頼るのではなく、このお方に向かって、助けを求めるべきである。
礼拝説教メッセージ音声:腫物とやけどからのツァラアト(レビ記13:18-28):右クリックで保存
『また身の皮に腫物があったが、直って、その腫物の場所に白い腫、または赤みをおびた白い光る所があれば、これを祭司に見せなければならない。』(レビ記13:18-19)
腫物は、傷を正しく対処しなかったり、体に溜まった老廃物を洗い流さなかったり、あるいは、不摂生を続けたりすると、出来やすいものである。
どんなにささいな傷であっても、そこに細菌が入ってしまうと、化膿して腫物となってしまい、それがさらに悪化して、ツァラアトとなっていく事もある。
同じように、私たちも、誰かから受けた心の傷、あるいは自ら湧き上がった悪しき思い、自らの不摂生の結果など、それを思い巡らし、心の中で汚れた膿を増幅させてしまうと、それを根城に、霊的な雑菌を繁殖させてしまう。
さらに悪化すると、人々に汚れを振りまく「霊的ツァラアト」にまで発展してしまい、文字通り「腫れ物を触るように」扱われ、隔離されてしまう。
ツァラアトの疑いがある場合、祭司は、さらに七日間隔離し、それが広がっていないかどうか確認し、七日前よりもさらに広がっているなら、その者を「汚れている」と宣言するが、同じように、私たちも、どんな些細な事であっても、良くない思いを思い巡らし、増幅させてしまうなら、汚れている、と宣言されてしまうのだ。
『しかし、その光る所がもしその所にとどまって広がらなければ、それは腫物の跡である。祭司はその人を清い者としなければならない。』(レビ記13:23)
それが広がっていないのであれば、それはただの腫物の跡であり、きよい、と宣言される。
腫物そのものは、誰にでも出来るものであり、それだけでは「汚れ」とはされない。
しかし、それを自らいじり回しているなら、汚染が広がり、「汚れた者」と判定され、人々から隔離されてしまうのだ。
『また身の皮にやけどがあって、そのやけどの生きた肉がもし赤みをおびた白、または、ただ白くて光る所となるならば、祭司はこれを見なければならない。そしてもし、その光る所にある毛が白く変って、そこが皮よりも深く見えるならば、これはやけどに生じたらい病である。祭司はその人を汚れた者としなければならない。これはらい病の患部だからである。』(レビ記13:24-25)
やけどは、火や熱などによって皮膚が損傷するものであるが、それが悪化してツァラアトとなっていくケースもある。
私たちの心も、火傷を負ってしまう事があるが、その原因は何か。
聖書の他の箇所で「火」というと、ねたみや、怒りを火として表現する他、唇から出てくる悪しき言葉も、火として表現される。
『舌は小さな器官ではあるが、よく大言壮語する。見よ、ごく小さな火でも、非常に大きな森を燃やすではないか。舌は火である。不義の世界である。舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。』(ヤコブ3:5-6)
あるいは、御言葉の光に頼らず、自家製の「ともしび」を灯して行こうとする者は、自らその身を焦がし、苦しみの内に倒れてしまう。(イザヤ50:10-11)
そのように、自身の身勝手により、火傷を負う事もある。
やけどを負ってしまうと、壊れた組織から細菌が入り、ツァラアト化する可能性が高くなる。
同じように、誰かからの怒りやねたみ、口撃によって火傷を負ってしまった場合、あるいは、主への不従順、不信頼によって自ら火傷を負ってしまった場合、それを速やかに取り扱わないなら、そこから霊的な細菌が入り込み、霊的ツァラアトに発展してしまう場合もある。
では、受けてしまったそれらの傷は、どのように取り扱う必要があるか。
「良きサマリヤ人のたとえ」の中にヒントがある。(ルカ10:30-37)
このたとえには、ある人が旅路で強盗に襲われ、ひどく傷を負わされ、持ち物を奪い去られてしまった人が出てくる。
律法を遂行する祭司やレビ人は、傷を負ったその人を見て見ぬふりをして通り過ぎてしまうが、人間の祭司には限界があり、本質的に、人を救う事は出来ない。
私たちも、世の旅路で、様々な種類の強盗に遭い、身体的・心的・経済的に傷を負わされる事がある。
どんなに有名な先生でも、真にその人を知っているわけではないし、やはり人間であるため、その人自身からの汚れを受けてしまうと、正しく対処できないからだ。
『ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。』(ルカ10:33-35)
このサマリヤ人は、イエス様ご自身である。
イエス様は、世の旅路で強盗に襲われて、傷を負ったような私たちを、気の毒に思い、近寄ってきて、その傷に聖霊の油を塗って下さった。
イエス様の血であるぶどう酒を注いで消毒して下さり、御翼の陰に覆って下さった。
イエス様の乗り物であるロバから降りて、そこに私たちを乗せて下さり、教会に連れて行って下さり、介抱して下さった。
イエス様は、教会に傷を負った人を託される時、その人を介抱するのに必要な銀貨をも置いて行って下さり、足りないならば、さらに必要分を支払って下さる。
私たちが、傷を負った時、人間のだれかの所に行くよりも、直接イエス様の所に行ったほうが良い。
特に、霊的汚れを負ったなら、なおさら、人の所に行ってはならない。人々に自らの汚れを伝染させ、さらなる拒絶に遭うだけだから。
私たちは、霊的な傷を負った時、霊的ツァラアトにかかった時、イエス様の所に、まず行くべきである。
まことの隣人となって下さったイエス様こそ、癒し主であり、私たちのツァラアトを癒し、汚れを除き、全ての霊的不具合を癒して下さるからである。
礼拝説教メッセージ音声:ツァラアトに現れる生肉(レビ記13:9-17):右クリックで保存
『もし人にらい病の患部があるならば、その人を祭司のもとに連れて行かなければならない。祭司がこれを見て、その皮に白い腫があり、その毛も白く変り、かつその腫に生きた生肉が見えるならば、これは古いらい病がその身の皮にあるのであるから、祭司はその人を汚れた者としなければならない。その人は汚れた者であるから、これを留め置くに及ばない。』(レビ記13:9-11)
らい(ツァラアト)の患部に、「生きた生肉」があらわれる場合、それは古くからあるもの、すなわち慢性のものであり、その存在は誰の目にも明らかに「ある」ため、祭司はわざわざ隔離して様子見する事なく「汚れている」と宣言する。
生きた生肉(raw flesh)、これこそ「汚れている」と宣言される原因である。(10,16節)
聖書の中で、肉(flesh)とは、神から切り離された生き方をする人間性、自分の魂(思い・意志・感情)や身体能力だけで生きる有様を意味し(創世記6:3)、そのような「肉」の振る舞いは、神の御前には汚れたものである。
『わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。』(ローマ7:18-20)
肉の性質は、ただ御前に腐敗しており、改善の余地は無く、死、あるのみである。
『もしらい病が広く皮に出て、そのらい病が、その患者の皮を頭から足まで、ことごとくおおい、祭司の見るところすべてに及んでおれば、祭司はこれを見、もしらい病がその身をことごとくおおっておれば、その患者を清い者としなければならない。それはことごとく白く変ったから、彼は清い者である。』(レビ記13:12-13)
ツァラアトの兆候が少しでも広がっていたら、容赦なく「汚れている」と宣言されていたのに、全身、頭から足まで全てがツァラアトに覆われていたなら、逆に「清い」と宣言される・・・。一見不思議に見えるが、それは十字架の福音に合致する。
ツァラアトは、「崩壊する」「打ちくだく」の意味があり、神の御手によって打たれる事を意味していたが、その「打たれたしるし」が全身にあり、「肉」がもはやない状態、すなわち、古き肉の性質が、徹底的に神によって取り扱われた状態なら、祭司によって「きよい」と宣言される。
私達も、神に打たれたしるしである「十字架」を負い、この「肉」の体は、徹底的に主の御手に委ね、死へと明け渡すのであれば、たとい緋のように赤い罪であっても、雪のように白くされ、きよいとされるのである。
『わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。 』(ローマ6:6)
肉、それはアダム以来の神から離れた生き方である。神と人の前から隠そうとするなら、ツァラアトの中から「肉」が見え隠れする人のように、「汚れている」とされる。
しかし、自分の中に「罪」がある事を、神と人との前にはっきり認め、自らの「肉」を、十字架の死へと明け渡すなら、全身白くなり生肉の無くなった人のように「きよい」とされる。
私達の「肉」を殺すのは、御霊である。
『それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。』(ローマ8:12-14)
『こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。』(ローマ8:1-3)
自らの肉を十字架によって処罰し、御霊にあって、きよい生き方を歩んでいく皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!