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礼拝説教メッセージ音声:らい病 - ツァラアト(レビ記13:1-8):右クリックで保存
口語訳や、新改訳第二版で「らい病」と訳されている言葉は、新共同訳では「重い皮膚」、新改訳第三版では、そのままヘブライ語読みの「ツァラアト」と訳されており、レビ記13章は、この「ツァラアト」についてのおしえである。
なぜこんなに訳のバリエーションがあるのか。
それは、日本語で「らい病」と言う時、「ハンセン氏病」という一つの病を意味しているが、聖書に出てくるこのヘブライ語「ツァラアト」は、もっと広範な意味を含み(湿疹、かびなど、ユダヤ教口伝「ミシュナー」では最大72種類もある)、日本語の「らい病」という言葉では収まりきれないためであり、そしてまた、「らい病」という言葉には、その病にまつわる人の受けてきた差別と苦しみを彷彿させるものがあるためである。
ツァラアトというヘブライ語には「崩壊する」「打ちくだく」の意味があり、レビ記以外の箇所でこの言葉が出てくる時は、大体、神の御手によって打たれる事を意味している。
その一例が、ウジヤ王(2歴代誌26章)である。
ウジヤ王は、最初の内は主を恐れる良い王で、祝福され、強くなったが、彼は強くなるにつれて高ぶり、その身を滅ぼすような事をした。
『彼はその神、主にむかって罪を犯し、主の宮にはいって香の祭壇の上に香をたこうとした。その時、祭司アザリヤは主の祭司である勇士八十人を率いて、彼のあとに従ってはいり、ウジヤ王を引き止めて言った、「ウジヤよ、主に香をたくことはあなたのなすべきことではなく、ただアロンの子孫で、香をたくために清められた祭司たちのすることです。すぐ聖所から出なさい。あなたは罪を犯しました。あなたは主なる神から栄えを得ることはできません」。
するとウジヤは怒りを発し、香炉を手にとって香をたこうとしたが、彼が祭司に向かって怒りを発している間に、らい病がその額に起った。時に彼は主の宮で祭司たちの前、香の祭壇のかたわらにいた。祭司の長アザリヤおよびすべての祭司たちが彼を見ると、彼の額にらい病が生じていたので、急いで彼をそこから追い出した。彼自身もまた主に撃たれたことを知って、急いで出て行った。ウジヤ王は、死ぬ日までらい病人であった。彼はらい病人であったので、離れ殿に住んだ。主の宮から断たれたからである。』(2歴代誌26:17-21)
「ツァラアト」は、私達の肉の奥底に住んでいる、死に至る病、すなわち、「内住の罪」をよく表している。
この病は、伝染するものであり、それに犯されている事が発覚した場合は、人々から離れる事が定まっている。
この病は、皮膚の奥底に潜伏し、表面化しない事も多い。
そのため、祭司が一見してそれと判断できない場合は、七日という期間、その人を世間から隔離して様子見する。(レビ記13:1-8)
ウジヤ王の場合、「高ぶり」という罪が、ある時までは隠れていて、ある時に表面化したが、同じように、私達の罪も、ある時まで表面化せずに潜伏する事がある。
普段は巧妙に隠れ、何か自分の気に入らない事があるととたんに噴出するような、表面化しない罪を隠し持つ人は、本来、祭司から「汚れている」と宣言され、神の民から隔離せねばならないのだ。
私達が、この霊的なツァラアトに罹っていると自覚した時、誰か、人のところや、集団の中に行くべきでない。むしろ人から自らを隔離するべきである。
なぜなら、それは伝染性の汚れであり、行った相手に、その汚れた思いをべっとり付着させ、汚れを集団の中へと拡大感染させてしまうからだ。
私達を、この霊的なツァラアトから清め救って下さるお方は、唯一、大祭司なるイエスキリストのみである。
『ひとりのらい病人がイエスのところにきて、ひれ伏して言った、「主よ、みこころでしたら(if You are willing)、きよめていただけるのですが」。イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「そうしてあげよう(I am willing)、きよくなれ」と言われた。すると、らい病は直ちにきよめられた。』(マタイ8:2-3)
私達は自ら、この霊的病から清めていただく意志をイエス様に表明し、取り除いていただくよう、願う必要がある。その意志があるなら、主は、喜んで(willing)その罪をきよめ、癒して下さるのだ。
礼拝説教メッセージ音声:女性の出産の汚れときよめ(レビ記12:1-8):右クリックで保存
レビ記12章は、出産に関する規定である。
『「イスラエルの人々に言いなさい、『女がもし身ごもって男の子を産めば、七日のあいだ汚れる。すなわち、月のさわりの日かずほど汚れるであろう。八日目にはその子の前の皮に割礼を施さなければならない。その女はなお、血の清めに三十三日を経なければならない。その清めの日の満ちるまでは、聖なる物に触れてはならない。また聖なる所にはいってはならない。』(レビ記12:2-4)
男の子を出産すると、七日間その女性は汚れ、さらに三十三日、きよめのために家に留まり、その間、聖なる所に入ってはならない。
そして女の子を出産するなら、その汚れときよめの期間は、男の子の場合の2倍となる。
新しいいのちが誕生する「おめでた」なのに、一体なぜ「汚れ」からの「きよめ」が必要なのか。
創世のはじめ、神は全生物に対し、産んで、増えて、地に満ちていくよう、祝福の命令を下された。
アダムとエバに罪が無かった頃、出産は、命を増え広がらせる、尊くすばらしき事であったはずだが、女が蛇に欺かれ、全人類に罪を導入してしまった時、「良き事」であったはずの出産は、罪を生み出し、罪を地にはびこらせる「悪しき事」へと変容してしま、ノアの時代に至っては、悪が甚だはびこり、神を悲しませるまでになった。
「女の産みの苦しみを大いに増す」(創世記3:16)、これは、夫に対して、そして全人類に対して、罪を運ぶ通路として用いられてしまった事の、ペナルティとして、女に与えられたものだった。
女性は、いのちを産み、育てるという役割が与えられている故、「母性」という特別な愛情が与えられた。
それ故、ことさらに清めに立つ必要があるのだ。
神は、女性の全員に、別のいのちへ罪を運んでしまうような、エバのような用いられ方は、もはやして欲しくないと願っておられる。
そういうわけで、出産した女性は、七日プラス三十三日の、計四十日(女児の場合は八十日)という期間が定められ、その閉じこもっている期間、エバ由来の犯しやすい罪と弱さについて、汚れときよめについて、そして、母としてこれからいのちをしっかり繋いで行くべき事を、新しく生まれたいのちとじっくり向き合いながら、思いめぐらし、考えるべきなのだ。
「汚れ」と「きよめ」のおしえを、きちんと受け止める女性にとっては、この閉じこもっている期間は、いのちに向き合う良き学びの時であり、同時に、産後の肥立ちが良くなって、再び新しいいのちを生み出す土台を体に造る安息の期間なのだ。
四十日。それはノアの時代に大雨が降り続いたのと同じ期間である。
洪水の間、増え続けてしまった悪しきいのち達は洗い流され、ノア家族の他、神に呼び出された多くのいのち達は、方舟の中にじっとして、閉じこもっていた。
同じように、女性も40という間、じっと閉じこもり、悪しき呪われるべきいのちを洗い流し、神の御手によって守られた新しきいのちを後の世に送り出す、準備期間とするのだ。
「八日目にはその子の前の皮に割礼を施さなければならない。」(レビ記12:3)
割礼は、古い肉を切り捨て、新しいいのちに生きる者へと造り替えられた事を覚える儀式である。
罪に生きてはならぬ事、人類に罪と死をもたらしたエバのように生きる事には、ことさら気をつけ、家族全体のいのちを育む事を培うのである。
いのちを産む事、子を育てる事、そして、性的な事には、ことさら「汚れ」が入りやすい。
それ故、それらの事には特に「きよめ」の意識を持たなくてはならない。
夫婦の営みや、出産の度にそれらを学んでいるユダヤ人女性は、いのちと性に関する概念がとてもしっかりしており、そのため、ユダヤ民族は諸々の歴史的な困難にもかかわらず、栄え、増え広がって行ったが、そうした学びの一切無い異教徒達は、それだけ罪と汚れに陥りやすく、滅びを身に招きやすいのだ。
レビ記12章は、人間的な視点で考えるなら、あまりいい気はしないかもしれない。
しかし、主がそのように定めている以上、人間は、善し悪し判断する事を止めるべきであり、主がそのように定められた事に思いを巡らせ、背後にある重要な意味を汲み取ろうとするのが、御言葉に対する正しい対応である。
礼拝説教メッセージ音声:主が聖であられるように、聖となれ(レビ記11:39-47):右クリックで保存
『あなたがたの食べる獣が死んだ時、その死体に触れる者は夕まで汚れる。その死体を食べる者は、その衣服を洗わなければならない。夕まで汚れる。その死体を運ぶ者も、その衣服を洗わなければならない。夕まで汚れる。』(レビ記11:39)
食べること。それは、その対象と一体化となる行為であるが、食用の家畜などの「きよい」動物であっても、病死したり、獣に殺される等した場合、その死体を食べたり、触れたりする人は「汚れる」とされている。
それと同じように、主にあって「きよい」とされたキリスト者であっても、世の汚れに再び戻って「死んだ」ものとなるなら、その人は「汚れた」者となる。
他のキリスト者が、その人と接触し続け、その汚れた人の死んだ行いを取り込むなら、その人も同様に、汚れた者となるのである。
『すべて地にはう這うものは忌むべきものである。これを食べてはならない。すべて腹ばい行くもの、四つ足で歩くもの、あるいは多くの足をもつもの、すなわち、すべて地にはう這うものは、あなたがたはこれを食べてはならない。それらは忌むべきものだからである。あなたがたはすべて這うものによって、あなたがたの身を忌むべきものとしてはならない。また、これをもって身を汚し、あるいはこれによって汚されてはならない。』(レビ記11:41-42)
地面を這って動く生き物は、忌むべきもの(「汚れ」よりも強い表現)である事を、再度確認している。
地を這いつくばって行き巡る性質は、サタンの性質である。
『主なる神はへびに言われた、/「おまえは、この事を、したので、/すべての家畜、野のすべての獣のうち、/最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、/一生、ちりを食べるであろう。わたしは恨みをおく、/おまえと女とのあいだに、/おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、/おまえは彼のかかとを砕くであろう」。』(創世記3:14-15)
サタンは最も呪われたものとして、腹ばいで這い、ちりを食べる事が定められた。
ちり。それは人間の構成要素である。
地を這いつくばっては、食いものとするべき「人」を探して行き巡り、人々を食いものにしたり、されたりしつつ、汚れを増し加えて行くのが、サタンの子孫の性質である。
そのような「這うもの」に接触しつづけ、その汚れた行いを取り込むなら、地面を這いつくばるような、呪われた生き方となり、やがては頭を砕かれてしまう運命である。
『わたしはあなたがたの神、主であるから、あなたがたはおのれを聖別し、聖なる者とならなければならない。わたしは聖なる者である。地にはう這うものによって、あなたがたの身を汚してはならない。わたしはあなたがたの神となるため、あなたがたをエジプトの国から導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない。』(レビ記11:44)
エジプト、それは呪われたハムの子孫の末裔の国、地を這いつくばって互いに食い合う性質で満ちていた。
その国で奴隷状態になっていたイスラエルを、聖なる主は救い出して下さり、聖なる民として、召し出して下さった。
同じように私たちも、かつては世にあって、罪の中に死んでいた者であり、暗闇の支配者の奴隷として歩んでいた。しかし、あわれみ豊かな神は私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいた私たちをキリストとともに生かし、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださった。私たちが救われたのは、ただ恵みによるのである。(エペソ2:1-6)
それ故、キリストにあって聖とされた私達も、サタンの性質を「忌む」ものとし、自らを世の汚れから分離させ、主へと近づかねばならない。
主は、自らをきよめて近づこうとする者に、近づいてくださるのだ。
『神に従いなさい。そして、悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。罪人どもよ、手をきよめよ。二心の者どもよ、心を清くせよ。』(ヤコブ4:7-8)
礼拝説教メッセージ音声:汚れを受けた場合の対処(レビ記11:24-38):右クリックで保存
『あなたがたは次の場合に汚れたものとなる。すなわち、すべてこれらのものの死体に触れる者は夕まで汚れる。』(レビ記11:24)
レビ記では「汚れ」や「死体」に触れれば、「洗わなければならず」、「夕方まで汚れる」という指示が、度々出てくるが、「汚れ」という望ましくない状態に陥ったなら、定められた手順をきちんと踏んで対処し、努めて脱却すべきである事を、主は教えている。
汚れを受けたなら「日が沈む前に」「その日の内に」対処しなくてはならない。対処せずに日をまたぐと、汚れた状態をそままずっと持ち越してしまう事になる。
私達も以前は汚れた者としてサタンに支配され、罪と罪過の内に死んだ者、「汚れた者」であった。
しかし、憐れみ豊かな神の、私達を愛するその大きな愛によって、救いの手が差し伸べられ、キリスト・イエスを信じる信仰によって救われ、神にあって生きたもの、「きよい者」とされた。(エペソ2:1-6)
しかし、もし私達が再び、世のならわしへと入って行き、罪の内へと入るなら、汚れた者となり、神の御前に、死んだ者となってしまうのだ。
『サルデスにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『神の七つの霊と七つの星とを持つかたが、次のように言われる。わたしはあなたのわざを知っている。すなわち、あなたは、生きているというのは名だけで、実は「死んでいる。」・・・しかし、サルデスにはその「衣」を汚さない人が、数人いる。彼らは白い「衣」を着て、わたしと共に歩みを続けるであろう。彼らは、それにふさわしい者である。』(黙示録3:1-4)
世俗の人達の、罪の行いに関わったり、触れたりして、その衣を汚したなら、対処が必要である。
レビ記では、衣を水で洗わなければならない、とあるが、私達の罪に汚れた衣を清めるものは、何だろうか。
それはまず、イエスの血である。
『もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられた「キリストの血」は、なおさら、わたしたちの「良心」をきよめて「死んだわざを取り除き」、生ける神に仕える者としないであろうか。』(ヘブル9:13-14)
まず、イエスの血潮によって、汚れた良心を清められ、死んだわざが取り除かれ、生ける神に仕えるものとされる。
そして、罪を洗い清める「水」は、御言葉である。
『キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。』(エペソ5:26-27)
私達が世から汚れを受けたなら、イエスの血潮によって汚された良心を清め、御言葉の水によってすすぎ、汚れや偽りという「しみ」を除くのである。
「その人は夕方まで汚れる」とある通り、御言葉の水で洗えば、すぐに気持ちが晴れるかといえば、そうではないかもしれない。
思いも晴れ晴れするまでに、ある程度の時間がかかるかもしれないが、続けてイエスの血で上塗りし、御言葉の水ですすぎ続けるのである。
『またそれらのものが死んで、それが落ちかかった物はすべて汚れる。木の器であれ、衣服であれ、皮であれ、袋であれ、およそ「仕事に使う器」はそれを水に入れなければならない。それは夕まで汚れているが、そののち清くなる。』(レビ記11:32)
私達は世に出て仕事をする時、世から汚れを受ける事を免れないが、汚れを受けた都度、御言葉の水の中に入れるのである。
『またそれらのものが、土の器の中に落ちたならば、その中にあるものは皆汚れる。あなたがたはその器をこわさなければならない。』(レビ記11:33)
土の器は、染みこむものである。
もし罪がその身に染み込んでしまったら、粉々に割るくらいの思い切りで、その罪から離れたほうが良いのだ。
『またすべてその中にある食物で、水分のあるものは汚れる。またすべてそのような器の中にある飲み物も皆汚れる。またそれらのものの死体が落ちかかったならば、その物はすべて汚れる。天火であれ、かまどであれ、それをこわさなければならない。これらは汚れたもので、あなたがたに汚れたものとなる。』(レビ記11:34-35)
ここは、食料として口に入るものを入れる器や、食料をるくる「かまど」についてであるが、世の罪や汚れが、家の中、ことに台所にまで入り込んだら、かまどを割るくらいに、徹底的に取り除いたほうが良いのだ。
特に口に入るもの、食卓の中に汚れが入り込んでしまうなら、それほど徹底して対処しなくてはならない。
『ただし、泉、あるいは水の集まった水たまりは汚れない。しかし、その死体に触れる者は汚れる。』(レビ記11:36)
イエスこそ、まことの命の泉である。
12年長血を患った女は、律法上は汚れていたが、信仰をもって命の泉なるイエス様の衣に触れた時、汚れは清められた。
『それらのものの死体が、まく種の上に落ちても、それは汚れない。ただし、種の上に水がかかっていて、その上にそれらのものの死体が、落ちるならば、それはあなたがたに汚れたものとなる。』(レビ記11:37-38)
「種」は御言葉そのものであり、御言葉に汚れが落ちた所で、なんともないが、人の心に御言葉の種が蒔かれ、水がまかれ、根が出た状態で、その蒔かれた御言葉の上に汚れが落ちるとするなら、対処しなくてはならない。
私達は汚れを受けた場合、イエスの血によって汚された良心を清め、御言葉の水によってすすぎ、汚れや偽りという「しみ」を除くのだ。
礼拝説教メッセージ音声:きよい性質とは(レビ記11:13-23):右クリックで保存
今回は、主が定められた、食べて良い「きよい生き物」「きよくない生き物」の性質について、詳しく見て行きたい。
神はどのような性質をきよい、どのような性質をきよくないとされたのか。
まず、ひずめ、ひれ、うろこを持つ性質、後ろ足で跳躍する性質、それらを持つ動物を「きよい」とされた。
これらの性質に共通する事は、「地面(あるいは海底)に、直接、接しない」事である。
サタンの性質は、「一生腹ばいで歩き、ちりを食べる」(創世記3:14)、あるいは、「地を行き巡り、そこを歩き回る」(ヨブ2:2)ものである。
すなわち、きよい性質とは、地とは直接的に接しない、地に属さない性質である。
「地につくもの」は肉に属するもの、悪魔的なものであると、ヤコブ書3章で記されている。
そして、「上」に属する人、「地」とは距離を置く清い人の性質は、平和、寛容、温順であり、あわれみと良い実とに満ち、かたより見ず、偽りがないものである。(ヤコブ3:14-18)
また、「反芻」する動物はきよい動物、そうでない動物は、きよくない、とされた。
羊や牛などは、草をよく噛んで、胃で一部を消化し、それを再び口に戻してまたよく噛みしめ、また消化する、という事を繰り返すが、ここから、「反芻」する事が、主に喜ばれる性質である事を見る。
私達も、御言葉をよく噛んで咀嚼し、よく消化するなら、主に喜ばれる。
しかし、何でもかんでもそのまま鵜呑みにして消化不良になってしまう「豚」のような性質は、主に嫌われてしまう。
また、レビ記11章にて神がきよいとされた動物は、ほぼ、草食動物である事を見る。
実は、神が全被造物を創造されたはじめ、全ての動物は、皆、草食であった。
『神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。そのようになった。神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。』(創世記1:29-31)
主の創世の当初は、どの生き物も、互いを害したり、食ったりする事などしない、「はなはだ良い」時代であった。
しかし、人間が堕落して早速、人は兄弟姉妹を傷つけたり殺したりするようになり、動物たちもいつしか、他の動物をとらえ、血を流し、捕食するようになってしまった。
鉤爪や牙で傷つけ、血を流し、他を食い物にしたりする性質は、神の性質ではなくサタンの性質、「汚れた」性質である。
創世の当初、全被造物は人によって正しく平和に支配されていたのに、人に罪が入って以来、全被造物は、呪いの下に束縛されてうめき(ローマ8章)、ノアの時代以降、全ての動物は、人間を恐れるようになってしまった。(創世記9:1-6)
しかし後に、預言者イザヤは、次のような平和な様を、幻で示されている。
『おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、ししは牛のようにわらを食い、乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。
彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである。その日、エッサイの根が立って、もろもろの民の旗となり、もろもろの国びとはこれに尋ね求め、その置かれる所に栄光がある。』(イザヤ11:6-10)
この、創世当初のような平和な世界の鍵、それは、エッサイの根、すなわち、イエス・キリストによる統治である。
イエスキリストにより、全地が主を知る知識が海の水のように満ちあふれ、主の栄光があらわれるところには、もはや、互いに害する者も、食い物にし合う者もなくなるのだ。
私達キリスト者の中にも、以前は、ライオンやコブラ、ハゲタカのような性質の者達もいたかもしれない。
しかし皆、エッサイの子・イエスキリストによって、そうした肉食の性質、サタンの性質はすっかり抜き取られ、きよく平和な性質へと造り変えられるのだ。
礼拝説教メッセージ音声:私たち異邦人と律法との関わり(レビ記11:1-12):右クリックで保存
11章以降は、聖なるものと俗なるものの区別、きよいものと汚れたものの区別が示されており、いかに自らを清く保って主の民として歩むかというガイドラインが示されている。
そして、この11章では、食物に関する規定が示されている。
『「イスラエルの人々に言いなさい、『地にあるすべての獣のうち、あなたがたの食べることができる動物は次のとおりである。獣のうち、すべてひずめの分かれたもの、すなわち、ひずめの全く切れたもの、反芻するものは、これを食べることができる。』(レビ記11:2)
『水の中にいるすべてのもののうち、あなたがたの食べることができるものは次のとおりである。すなわち、海でも、川でも、すべて水の中にいるもので、ひれと、うろこのあるものは、これを食べることができる。すべて水に群がるもの、またすべての水の中にいる生き物のうち、すなわち、すべて海、また川にいて、ひれとうろこのないものは、あなたがたに忌むべきものである。これらはあなたがたに忌むべきものであるから、あなたがたはその肉を食べてはならない。』(レビ記11:10-12)
ここを読むと、私達日本人が普通に食べているものの中で、多くのものは、律法上では汚れたもの、食べてはならぬもの、と分かる。
では、私達日本人を含む「全異邦人」は、これらの規定と、どのような関わりがあるのだろうか。
そもそも、律法が特別にイスラエルの民に授けられた意義は、イスラエル民族がまだ一人の人だった頃、すなわち、アブラハムの時代にさかのぼる。
アブラハムがまだ、子供の無い75歳の一老人だった時、はじめて神から召命を受け、その時、子孫が与えられる約束がアブラハムに与えられた。
そして、その子孫を通じて、全人類を祝福へと入る約束が、与えられた。(創世記12:1-3)
つまり、神はアブラハムを特別に選び、彼の子孫、すなわち、イスラエル民族に神の規定を与え、神の基準を示し、神の存在と、神の聖なるご性質、そして、人類の救いの道を、全人類に表明するよう、祭司の民族として特別に定められたのだ。
祭司は自らを清め、世俗と分離する必要があるように(レビ記10:9-11)、祭司たる民族・イスラエルも、神が「汚れている」とされるものは摂ってはならず、そうして神の定めた律法を尊守し、世俗の民と区別する事によって、「祭司の民族」として、全人類を神へと導く務めを為すのだ。
そしてそれは、イエス・キリストのあらわれによって成就し、キリストを信じた者は、いかに「汚れている」とされている民であっても聖霊が与えられ、新しく造り変えられ、きよい、と宣言されるのだ。(使徒10章)
そして、エルサレム使徒会議にて、異邦人には、イスラエルの先祖たちさえ負いきれなかったくびき、すなわち、律法の数々の規定を、負わせない事が決議された。(使徒15章)
律法のもろもろの規定は、私達異邦人には適用されないものではあるものの、律法は、聖なるものと俗なるものの神の基準を知る事が出来、そして、これを守り行う人は、確かに祝福を受ける。
実際、これらを注意深く守り行ったイスラエル民族は、他と比べて伝染病にかかりにくく、平均寿命も長く、学力も社会ステータスも高かった。
ただ、律法を守り行う事によっては、いのちを得る事は出来ない。
結局、律法はあくまでキリストへと導く養育係であり、キリストを信じた事によって、私達も信仰によるアブラハムの子孫とされ、キリストがあらわれた以上、もはや「養育係」の下にいる必要は無いのだ。(ガラテヤ3章)
今や私達にとって、大切なのは、愛によって働く信仰である。
『自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。見よ、このパウロがあなたがたに言う。もし割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに用のないものになろう。割礼を受けようとするすべての人たちに、もう一度言っておく。そういう人たちは、律法の全部を行う義務がある。律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている。
わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。』(ガラテヤ5:1-6)
礼拝説教メッセージ音声:違反しても赦される人の特徴(レビ記10:12-20):右クリックで保存
『モーセはまたアロンおよびその残っている子エレアザルとイタマルとに言った、「あなたがたは主の火祭のうちから素祭の残りを取り、パン種を入れずに、これを祭壇のかたわらで食べなさい。これはいと聖なる物である。』(レビ記10:12)
あの恐ろしい事件の後、モーセは、アロンとその子達に、祭司たちが受けるようにと定められていた分を食べるよう言ったが、彼らはこの時、規定どおり行わなかった。
『モーセは罪祭のやぎを、ていねいに捜したが、見よ、それがすでに焼かれていたので、彼は残っているアロンの子エレアザルとイタマルとにむかい、怒って言った、「あなたがたは、なぜ罪祭のものを聖なる所で食べなかったのか。これはいと聖なる物であって、あなたがたが会衆の罪を負って、彼らのために主の前にあがないをするため、あなたがたに賜わった物である。見よ、その血は聖所の中に携え入れなかった。その肉はわたしが命じたように、あなたがたは必ずそれを聖なる所で食べるべきであった」。』(レビ記10:16-18)
モーセが、エレアザルとイタマルに怒ったのは、彼らが食べるべきだったものは、「いと聖なるもの(most holy)」であり、祭司たちは、これを食べる事によって会衆の罪を負い、主の前にあがないをするものだから、である。
祭司たちは、その動物がほふられる様を見、血が流れる様を見、その上で食べ、味わうべきものなのだ。
罪祭は、キリストの予表である。
何の罪も無い動物が、会衆の罪を背負い、身代わりに命を絶たれたのと同じように、私達も、キリストが十字架上で裂かれた肉を、流された血潮を、しっかりと覚え、尊びつつ、感謝をもって頂かなくてはならないのだ。
『アロンはモーセに言った、「見よ、きょう、彼らはその罪祭と燔祭とを主の前にささげたが、このような事がわたしに臨んだ。もしわたしが、きょう罪祭のものを食べたとしたら、主はこれを良しとせられたであろうか」。モーセはこれを聞いて良しとした。』(レビ記10:19-20)
モーセは、アロンのこの言葉で、良しとした。
アロンとその子らも、主の言われた事を厳密には守らなかった。なのに、赦された。
ナダブとアビフとは、主に火で焼き滅ぼされてしまった。
一体、滅ぼされた者達と、赦された者達の違いは何だろう。おそらく、次の事によるのではなかろうか。
モーセが怒った対象は、二人の子に、であり、アロンに、ではなかった。つまり、咎めを負っていないアロンが、子達のために、執り成した形になる。
義人による執り成し。それによって滅びを免れたケースは聖書に多い。
また、アロンの言葉からは、自分たちは「分からないで」事を起こしてしまった事を伺う事ができる。
もしかしたら、あまりに恐ろしい出来事の直後で、気が動転していて、命じられた事をつい忘れてしまっていたのかもしれない。とにかく、彼等は故意に命令に逆らったのではなかった事は、確かである。
主は、知らないで犯してしまった罪を、執り成して下さる。イエス様は十字架上で、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と、知らないで犯す恐ろしい罪について、執り成してくださった。(ルカ23:34)
しかし、罪だと指摘され、知りつつも、なお主への捧げものを軽んじた、ホフニとピネハスは、主から下る災いによって、一日にして滅んだ(1サムエル2章)。
また、初代教会において、夫婦で共謀し、意図的に捧げものを偽った夫婦も、たちどころに主に打たれた。(使徒5章)
主は、知らずに犯した罪は憐れんで下さる。しかし、知りつつ意図的に主に逆らう者には、憐れみは無い。
そしてまた、祭司アロンは、自分達の側に非があった事を、認めている。
ダビデも、姦淫と殺人の罪を犯した事を、預言者ナタンに指摘された時、「わたしは罪を犯した」と素直に認めた。
罪を指摘されても、言い訳と自己義を貫き通すような者は、サウル王のように、地位を剥ぎ取られ悲惨な末路を辿る。
罪を指摘されても、開き直って、神に反抗するような者は、カインのように追放され、人々から忌み嫌われ、さすらい人とされてしまうのだ。
罪を正直に告白し、言い表す人に対しては、神は真実で正しいお方であるから、その罪をゆるし、すべての不義から清めて下さる。しかしもし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とする者である。(1ヨハネ1:7-9)
私達も、自分の罪を認め、告白し、悔い改めて赦していただき、そうして、末永く祭司として主に仕える皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:不従順を焼きつくす火(レビ記10:1-11):右クリックで保存
『さてアロンの子ナダブとアビフとは、おのおのその香炉を取って火をこれに入れ、薫香をその上に盛って、異火を主の前にささげた。これは主の命令に反することであったので、主の前から火が出て彼らを焼き滅ぼし、彼らは主の前に死んだ。』(レビ記10:1-2)
前回は、「主がモーセに命じられたとおり」に祭司が行った結果、主が捧げものを受け入れる火が降り、全ての民はそれを見て力づけられたが、今回は、主が命じられなかった事を祭司が行ってしまった結果、その祭司を焼きつくす火が降り、全ての民はそれを見て、主の峻厳なる「聖」を恐れた。
なぜこのような事が起こってしまったのだろうか。
この出来事が起こった直後の9節に、「あなたも、あなたの子たちも会見の幕屋にはいる時には、死ぬことのないように、ぶどう酒と濃い酒を飲んではならない。」と、唐突に「酒」についての命令が出てくるため、もしかすると、彼等は酒を飲み、酔った状態で主に近づいてしまったのかもしれない。
また、16章の1-2節によると、このふたりは、主の栄光が現れる贖罪蓋のある所、すなわち、年に一度大祭司が血を携えてしか入れない至聖所に、むやみに入ったようであり、そこで主の命じられていない異なる火を、身勝手にも捧げてしまったのかもしれない。
酒の故の事件や事故はよくニュースで聞くが、酒を飲むと、あらゆる事において気がゆるくなり、失敗をしてしまいがちである。
こないだの火柱すごかったな、たしか、捧げものには香がなんとかと言ってたぞ、俺たちもやってみよう、皆きっとびっくりするぞ、それで俺たちの格も上がるだろう、などと、酒を飲むと、してはならない領分を犯してしまうものだ。
『まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。』(ガラテヤ6:7-8)
彼らは、自分の考えで、身勝手な流儀で、主が命じられていない事を行い、自分の「肉」にまいて滅びを刈り取ってしまったのだ。
しかし、主をおそれ、主に命じられた事を正しく行う人には、前章でのように、主は栄光の形で現れて下さる。
『その時モーセはアロンに言った、「主は、こう仰せられた。すなわち『わたしは、わたしに近づく者のうちに、わたしの聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現すであろう』」。アロンは黙していた。』(レビ記10:3)
主は、人がどのように行なったとしても、栄光をお受けになられるお方である。
人が主を軽んじ、御言葉を侮るなら、その者がどのような災いに遭うかによって、人々は主の栄光を見る事になる。
また、主を敬い、主を信頼する人には、その人が主から助けを得、祝福を受ける事で、主はそれによっても栄光をお受けになる。
『モーセはアロンの叔父ウジエルの子ミシヤエルとエルザパンとを呼び寄せて彼らに言った、「近寄って、あなたがたの兄弟たちを聖所の前から、宿営の外に運び出しなさい」。彼らは近寄って、彼らをその服のまま宿営の外に運び出し、モーセの言ったようにした。』(レビ記10:4-5)
2つの遺体は、服のまま運びだされた。
という事は、主の火によって焼かれたのは、彼らの体だけで、油注がれ聖別された祭司服は、焼けていなかったようである。
主はそこまで、ピンポイントに、災いにあうべき者と、そうでないものとを区別される。
『モーセはまたアロンおよびその子エレアザルとイタマルとに言った、「あなたがたは髪の毛を乱し、また衣服を裂いてはならない。あなたがたが死ぬことのないため、また主の怒りが、すべての会衆に及ぶことのないためである。ただし、あなたがたの兄弟イスラエルの全家は、主が火をもって焼き滅ぼしたもうたことを嘆いてもよい。また、あなたがたは死ぬことのないように、会見の幕屋の入口から外へ出てはならない。あなたがたの上に主の注ぎ油があるからである」。彼らはモーセの言葉のとおりにした。』(レビ記10:6-7)
髪の毛を乱したり、衣服を裂くのは、イスラエルにおける悲しみの表現だが、なんと、アロンにとっての子供達が、また、エレアザルやイタマルにとってはお兄さんが、あれだけ悲惨な死に方をしたというのに、悲しみの表現をしてはならないというのだ。
その理由は、「死なないため」「主の怒りが、すべての会衆に及ぶことのないため」である。祭司がその任職中に、私情に走って、主の御前に誤った事をしてしまうと、その会衆全体に累が及んでしまうのだ。
主の祭司は、そこまで、私情をはさんではならないのだ。
イエス様も、ある弟子が「まず父を葬りに行かせて下さい」と言われた時、「わたしに従ってきなさい。そして、その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」と、厳しい事を言われた。
それ程、人々の上に立ち、神の国のつとめをする人は、人間的な感情や私情は、降ろさねばならないのである。
牧者や教師、賛美リーダーなど、人の上に立って導く立場は、感情や私情で簡単に動いてしまうような人がやってはいけないのだ。
『「あなたも、あなたの子たちも会見の幕屋にはいる時には、死ぬことのないように、ぶどう酒と濃い酒を飲んではならない。これはあなたがたが代々永く守るべき定めとしなければならない。これはあなたがたが聖なるものと俗なるもの、汚れたものと清いものとの区別をすることができるため、また主がモーセによって語られたすべての定めを、イスラエルの人々に教えることができるためである」。』(レビ記10:9-11)
清められた良心を麻痺させ、霊的な感度を鈍らせる様々な「霊的アルコール」がある。
神の国の働きをする人は、世の価値観や、世のもろもろの楽しみに耽り過ぎる事は禁物である。
それらに浸り続けると、聖なるものと俗なるもの、汚れたものと清いものとの判断を、誤らせてしまうからだ。
アルコールを摂取した状態で車を運転する人への罰則は、かなり厳しくなっているが、霊的なつとめをする人は、車の運転よりもはるかに「重要ないのち」をあずかっている故、なおさら、そうしたアルコール類に気をつけるべきである。
王たるものに、酒は相応しくない。(箴言31:4)
むしろ、御霊に満たされて、詩と賛美と霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心から賛美の歌を歌うべきである。(エペソ5:18-19)
礼拝説教メッセージ音声:コンシューマー・サービス(レビ記9:15-14):右クリックで保存
自分自身の贖いを済ませた祭司アロンが、次に為す事は、民のための贖いであり、そのために主から命じられている事は、罪祭、燔祭、酬恩祭、素祭を捧げる事である。
真っ先に罪祭(罪のためのいけにえ)を捧げる所は、祭司の贖いと同じである。
民も、まず罪を取り扱わなくてはならない。
なぜなら、罪は神と人との隔たりとなってしまうからだ。
『見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。ただ、あなたがたの不義が/あなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が/主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。あなたがたの手は血で汚れ、あなたがたの指は不義で汚れ、あなたがたのくちびるは偽りを語り、あなたがたの舌は悪をささやき、ひとりも正義をもって訴え、真実をもって論争する者がない。彼らはむなしきことを頼み、偽りを語り、害悪をはらみ、不義を産む。』(イザヤ59:1-4)
続いて捧げられるのが、燔祭(全焼のいけにえ)である。
燔祭は、自らを捧げる献身を意味し、献身なくば、祝福はいただけない。
「この時代において幾倍もの祝福を受け、来るべき世で永遠のいのちを受ける」者とは、「神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者」であり(ルカ18:29-30) 、食べ物や着る物などがすべて添えて与えられる者とは、「まず神の国と神の義とを求め」た者である。(マタイ6:33)
主から祝福をいただくには、必ず、それなりの「献身」が必要だという事ある。
それに続いて捧げられるのは、素祭(穀物の捧げもの)である。
祭司の場合は、罪祭と燔祭のみだったが、祭司には土地の相続が与えられていない。
それ故、一般人は、自分達の相続地から得られた、勤労の実である穀物を捧げるのだ。
そして、最後に捧げられるのが、酬恩祭(和解のいけにえ)である。
酬恩祭は、以前も学んだとおり、神と、祭司と、捧げた人とが、共に同じ食物からいただくごちそうであり、同じテーブルに座って共に宴会をするかのような、神と人との楽しい交わりである。
これを捧げる事によって、神と人との平和が実現する事になる。
そして今や、キリストこそ、まことの和解のいけにえである。
『キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。』(エペソ2:14-16)
以上、これら全てのいけにえを捧げた後、アロンは祝福した。そしてアロンの祝福は神に受け入れられ、神の元から火がくだり、いけにえを受け入れられた。
『モーセとアロンは会見の幕屋に入り、また出てきて民を祝福した。そして主の栄光はすべての民に現れ、主の前から火が出て、祭壇の上の燔祭と脂肪とを焼きつくした。民はみな、これを見て喜びよばわり、そしてひれ伏した。』(レビ記9:23-24)
主は、焼きつくす火である。(ヘブル12:29) 英語の聖書では、コンシューミング・ファイアーである。
最近、ビジネス用語でコンシューマーという言葉を良く耳にする。
コンシューマーとは、お客様、消費者であり、コンシューマーを意識したビジネス展開が重要であるが、神こそ、真に私達のコンシューマーである。
人々の中には、色々な教会の礼拝を物色し、あっちの礼拝(サービス)は甘い、こっちのは辛い、などと、自分をコンシューマーとし、教会をサービス提供者のように思っている人がいるが、そのような人は、自分の立場が分かっていない。
神こそコンシューマーであり、私達はサービス(礼拝)を捧げる側である。
主を敬う心をもって正しく礼拝を捧げるなら、主は炎をもってその礼拝を受け入れて下さるが、身勝手に捧げるならば、主は、その人自身を焼きつくす火として現れる。
その事については、次回見て行きたい。
礼拝説教メッセージ音声:主の栄光の歩みをするために(レビ記9:1-14):右クリックで保存
七日の任職期間を経、神と人との前に正式に大祭司となったアロンが、最初に為さねばならなかった仕事は、自分自身の贖いのために、祭壇でいけにえを捧げる事であった。
『八日目になって、モーセはアロンとその子たち、およびイスラエルの長老たちを呼び寄せ、アロンに言った、「あなたは雄の子牛の全きものを罪祭のために取り、また雄羊の全きものを燔祭のために取って、主の前にささげなさい。』(レビ記9:1-2)
今、キリスト者である私達が、自らの全てを捧げる「祭壇」は、十字架である。
キリストは、十字架の上で、自分の意思を尽く御父の前に降ろし、十字架の上で、完全にご自身を捧げられた。
任職式においては、七という完全数が満ちるまで、日々、祭壇の贖いと、その人自身の贖いとが、毎日なされたが、同じように、私達も、主が量られた期間が満ちる時まで、日々、自分の十字架を負い、その上で主イエスについて行くべきである。
『それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。』(マタイ16:24-25)
『あなたはまたイスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは雄やぎを罪祭のために取り、また一歳の全き子牛と小羊とを燔祭のために取りなさい、また主の前にささげる酬恩祭のために雄牛と雄羊とを取り、また油を混ぜた素祭を取りなさい。主がきょうあなたがたに現れたもうからである』」。』(レビ記9:3-4)
自分自身の贖いが済んだ祭司が、次に為すべきは、民のための贖い、すなわち、民のために罪祭、燔祭、酬恩祭、素祭を捧げる事であった。
これについては次回見て行くが、これらの事を為さねばならない理由は、明確に、次のように言われている。
「これは主があなたがたに、せよと命じられたことである。こうして主の栄光はあなたがたに現れるであろう」(レビ記9:6)
皆さんは、自分の生活の中に、職場に、家庭に、主の栄光を見たいと思うだろうか。主が直々に、生き生きと、皆さんの家庭や職場において、働かれるのを見たいだろうか。
そうであるなら、その主の臨在を呼びこむためのエッセンスが、このレビ記に記されている。
主の栄光が現れるための、第一ステップは、まず、罪祭と燔祭であった。
祭司は、神と人との間に立って執り成し、祈り、いけにえを捧げる者である。私達もキリストにあって祭司とされたからには、真っ先に、自分自身の罪を対処する必要がある。
もし私達の中に罪が手付かずにそのまま残っているとしたら、その罪が、神と私達との間に隔たりとなってしまい、どんな良き犠牲を捧げても、主は受け入れて下さらない。(イザヤ59:1-4)
だから真っ先に、罪を取り扱う必要があるのだ。
罪を対処した後に、捧げるべき捧げものは、全焼のいけにえである。
現在、私達が捧げる「全焼のいけにえ」とは、「私達自身」である。
『兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。』(ローマ12:1)
そのように、まず、私達の罪を、イエスの血潮によって、御言葉の水の洗いによって取り扱い、続いて、私達自身の思いも意思も感情もキリストに服従させ、自分自身を主に捧げるなら、私達の執り成す祈りを、主は聞いて下さり、人々のための贖いも出来るようになり、主の栄光が現れて下さるのだ。
主の栄光の内を歩む事、主が共におられる事、これこそ、私達が「神の民」と呼ばれるゆえんである。