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礼拝説教メッセージ音声:任職のための七日という期間(レビ記8:14-36):右クリックで保存
大祭司の任職において必要なもう一つ過程、それは、動物のいけにえである。
最初に捧げられるのは「罪のためのいけにえ」、その次は「全焼のいけにえ」、そして、「任職のいけにえ」と続くが、この順番は、とても意義深い。
私達も、神と人との間に立つ祭司として主に用いられるには、まず「罪の清め」を経なくてはならず、それを経て後は「全焼のいけにえ」、すなわち、思い、意思、感情全てを主に服従させ、全身全霊をもって主に献身する事が必要であり、そうしてこそ、祭司として相応しく整えられるのである。
任職の雄羊の「任職(mil-loo)」という言葉は、成就、聖別、献身とも訳す事が出来る。
「聖」とは、分離を意味する。故に、祭司に「任職」されるとは、俗なるものから聖なるものへと分離され、神へ全き献身する事を意味する。
私達キリスト者は、キリストにあって王族の祭司とされた(1ペテロ2:20)。
という事は、キリスト者は世と分離し、神へ献身する者、もはや世のためでなく、天のため、自分のためでなく、キリストのために生きる者達である。
『彼はまたほかの雄羊、すなわち任職の雄羊を連れてこさせ、アロンとその子たちは、その雄羊の頭に手を置いた。モーセはこれをほふり、その血を取って、アロンの右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指とにつけた。』(レビ記8:22-23)
祭司の任職式で特徴的なのが、血を、右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指とにつける行為だが、「右」は力と権威を象徴し、「耳」は聞き従う器官、「手」は行う部位、「足」は、歩む部位である。
祭司の耳は、手や足よりも重要である。なぜなら、祭司は神の御声を正しく聞き、民の声を正しく聞く必要があるからだ。
『あなたがたはその任職祭の終る日まで七日の間、会見の幕屋の入口から出てはならない。あなたがたの任職は七日を要するからである。』(レビ記8:33)
この七日の期間、任職のための特別なパンと肉を食べなくてはならない。それは特別なものであるため、他の人は食べてはならず、残ったら、火で焼き捨てなければならない。(レビ記8:25-32)
この七日という期間、世俗に戻る事は許されず、幕屋という聖なる場所にとどまり続け、主の庭に住み、主を思い続ける。
そして、思いも意思も感情も、体も、主の御用として用いられるにふさわしく清められる事に集中し、聖なる者とされる事に集中するのだ。
教会に住みたい、という人がいても、その理由が、さみしさを紛らわせたいとか、居ればなんとなく落ち着く気がするとか、あるいは、教会を何か慈善団体の簡易宿泊所のように思っているような人は、たとい何日教会に住んでも、何の変わる所は無い。
しかし、心のうちに、主を思い焦がれる思いがあるのなら、たとい、仕事などの事情で教会に来れない日が何日か続いても、その人は、どこにおいても主を認め、主に愛され、ますます霊的に成長して行く。
大事なことは、幕屋や教会といった「場所」よりも、その人自身の内に、主を慕い求める心、生ける神を喜ぶ心がある事である。
『なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現われます。』(詩篇84:5-7)
礼拝説教メッセージ音声:大祭司の任職式 - 聖別の油そそぎ(レビ記8:1-13):右クリックで保存
レビ記8章は、大祭司の任職式を実際に行った事の記録である。
『「あなたはアロンとその子たち、およびその衣服、注ぎ油、罪祭の雄牛、雄羊二頭、種入れぬパン一かごを取り、また全会衆を会見の幕屋の入口に集めなさい」。
モーセは主が命じられたようにした。そして会衆は会見の幕屋の入口に集まった。そこでモーセは会衆にむかって言った、「これは主があなたがたにせよと命じられたことである」。』(レビ記8:2-5)
この任職式には、イスラエルの全会衆が招集され、立ち会った。これは、神と人との前で公になされるべきものであり、そして、モーセが会衆に「これは主があなたがたにせよと命じられたことである」と宣言したように、これは誰か人間が勝手に考案したものではなく、主がせよと出エジプト記29章にて命じられていた事である。
祭司とは、誰も彼もが好き勝手になれるものではなく、また、努力して勉強すればなれるものでもない。それは、神から任命されるものである。(ヘブル5:1-5)
『モーセはアロンとその子たちを連れてきて、水で彼らを洗い清め、アロンに服を着させ、帯をしめさせ、衣をまとわせ、エポデを着けさせ、エポデの帯をしめさせ、それをもってエポデを身に結いつけ、また胸当を着けさせ、その胸当にウリムとトンミムを入れ、その頭に帽子をかぶらせ、その帽子の前に金の板、すなわち聖なる冠をつけさせた。主がモーセに命じられたとおりである。』(レビ記8:6-9)
祭司にはまず特別な装束を着せられるが、その前に必要な事、それは、水の洗いである。清められないままでは、聖なる装束を身にまとうべきではない。
現代のキリストにあって祭司とされた私達も、洗い清められなくては、祭司の職務に入るべきではない。
私達は、何によって清められるか?
それは、御言葉の水の洗いでもって、である。
『夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。』(エペソ5:25-27)
私達は、御言葉に従順する事によって、清められる。たとい御言葉に記されている事が自分の望む事でなくても、それに服従する事によって、清められるのだ。
それでこそ、神から聖なる装束を着せられ、聖なる務めに相応しくなる事が出来る。
『モーセはまた注ぎ油を取り、幕屋とそのうちのすべての物に油を注いでこれを聖別し、かつ、それを七たび祭壇に注ぎ、祭壇とそのもろもろの器、洗盤とその台に油を注いでこれを聖別し、また注ぎ油をアロンの頭に注ぎ、彼に油を注いでこれを聖別した。モーセはまたアロンの子たちを連れてきて、服を彼らに着させ、帯を彼らにしめさせ、頭巾を頭に巻かせた。主がモーセに命じられたとおりである。』(レビ記8:10-13)
水で清められ、聖なる装束が着せられると、次は、聖別のための油が注がれる。
「聖」とは元々、「分離」とか「分かたれる」事を意味し、この、聖別の油が注がれる事によって、汚れた者から清い者へ、世俗から聖へと、分離するのである。
油は、聖書ではよく「聖霊」を意味する事で用いられる。
『あなたがたのうちには、キリストからいただいた油がとどまっているので、だれにも教えてもらう必要はない。この油が、すべてのことをあなたがたに教える。それはまことであって、偽りではないから、その油が教えたように、あなたがたは彼のうちにとどまっていなさい。』(1ヨハネ2:26-27)
もし私達の内に、聖霊の油が留まっているなら、何が神に喜ばれ、何が喜ばれないのか、全て、キリストの基準に適する事を、聖霊によって教えられる。
そうして全ての事について知り、ますます聖化される事を心から求め、望むようになって行き、ますます世とは「分離」した者となっていく。
一体どうしたら、この聖霊の油が与えられるか。
それは、「キリストにとどまっている事」である。
『そこで、子たちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、彼が現れる時に、確信を持ち、その来臨に際して、みまえに恥じいることがないためである。彼の義なるかたであることがわかれば、義を行う者はみな彼から生れたものであることを、知るであろう。』(同28-29節)
大祭司であり、油注がれた方であるキリストに留まっているなら、かしらなるキリストから、聖霊の油がどんどん滴ってくる。
そして、キリストの御体なる教会に繋がっているなら、しあわせで楽しい交わりの内で、キリストからの油にますます浸され、とこしえのいのちの祝福の内に、どんどん潤って行くのだ。
『見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。』(詩篇133篇)
礼拝説教メッセージ音声:天の大宴会を予表する「酬恩祭」(レビ記7:22-38):右クリックで保存
全て動物の脂肪は、食べてはならない。(レビ記7:23-25)なぜなら、脂肪は、主の御前に焼き尽くし、煙にして捧げるべき「神の食物」(レビ記21:6)だからである。
また、血を食べてはならない(レビ記7:26)、という命令は、ノアの時代から既に告げられている。
血はいのちそのもので(創世記9:4-6)、それを犯してはならないからだ。
現代、いのちを粗末に扱ったり、いのちの領域を犯しているが故に、多くの呪いを招いている。
『イスラエルの人々に言いなさい、酬恩祭の犠牲を主にささげる者は、その酬恩祭の犠牲のうちから、その供え物を主に携えてこなければならない。』(レビ記7:29)
この、酬恩祭(和解のいけにえ)の内、胸の部分は、アロンとその子たちのものとし(31節)、右のももの部分は、いけにえを主に捧げる務めをした祭司の受ける分となる。(33節)
そして、前回見た通り、それ以外の部分の肉は、いけにえを捧げたその人が、その日の内に、あるいは、翌日の内に食べるものである。
このように、和解のいけにえは、同じ一つの動物から、神と、祭司と、民が、分けあって食べるものである。
家族や親しい友人が、同じ一つの食卓から、同じ食物を食べるように、一つの食事を分けあって食べる事は、親密な、楽しい交わりであり、そしてそれは、やがて天の御国における大宴会の、前味わいである。
『万軍の主はこの山で、すべての民のために肥えたものをもって祝宴を設け、久しくたくわえたぶどう酒をもって祝宴を設けられる。すなわち髄の多い肥えたものと、よく澄んだ長くたくわえたぶどう酒をもって祝宴を設けられる。また主はこの山で、すべての民のかぶっている顔おおいと、すべての国のおおっているおおい物とを破られる。主はとこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐい、その民のはずかしめを全地の上から除かれる。これは主の語られたことである。
その日、人は言う、「見よ、これはわれわれの神である。わたしたちは彼を待ち望んだ。彼はわたしたちを救われる。これは主である。わたしたちは彼を待ち望んだ。わたしたちはその救を喜び楽しもう」と。』(イザヤ25:6-9)
父なる神は、御子イエス・キリストを、和解のいけにえとしてほふり、共にこの食卓に与からせようと、私達を招いておられる事を、王子の結婚の披露宴を設けた王のたとえ(マタイ22:1-14)から知ることができる。
神は、破格とも言えるほどのそのような待遇によって、私達を招待しておられるのに、多くの人々は、それを軽んじ、ある者は畑に行き、別の者は商売に出て行き、ほかの者たちは、主のしもべたちをつかまえて、恥をかかせ、殺してしまう、というような事をしてしまうのだ。
そのような者達は、やがて滅ぼされてしまう。
『そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。』(マタイ22:8-10)
今や、この天の王国の大宴会には、良い人も、悪い人でも、あまねく招かれており、その招待に応じる人は、だれでも、宴会場に入る特権があるのだ。
しかし、礼服を身に着けていない者は、宴会場に入っても外の暗闇に追い出され、泣いて歯ぎしりする事となってしまう。
当時、王が披露宴に人を誘う時は、礼服も一緒に贈ったため、礼服を持っていないのは有り得ない。それ故、礼服なしに宴会に来たという事は、王がせっかく贈った服を敢えて拒否し、敢えて、自前の服を着て来た事になる。
礼服とはキリストご自身である。
「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」(ガラテヤ3:26,27)
キリストを拒否して、宴会に与ろうとしても、外の暗闇に追い出されてしまうのだ。
このように、酬恩祭は、天の御国の大宴会を予表する。
それは、罪赦された事、神と和解した事、刑罰から救われた事を、喜ぶ宴会であり、神と大祭司キリストと私達が親しく楽しく共に同じ食卓に与る宴会である。
私達は既に、宴会への招きを受け、キリストという礼服の支給を受けており、それを身に着けて宴会に行くかは、各人次第だ。
神の支給された贖いの衣であられる、イエスキリストを身に着け、神の宴会に参加し、大いに楽しみ、赦された喜びをかみしめつつ、キリストの裂かれた体を共に味わう皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:酬恩祭(和解のいけにえ)を共に食べる時は(レビ記7:11-21):右クリックで保存
和解のいけにえ(酬恩祭)の「和解(シェラミーム)」ということばは、平和な、調和ある、安全な、と訳すことが出来る。
この祭りは、神様との和解を喜び、あふれる感謝の祭りであり、神と民と、祭司とが「交わり」を持てる祭りである.
『主にささぐべき酬恩祭の犠牲のおきては次のとおりである。もしこれを感謝のためにささげるのであれば、油を混ぜた種入れぬ菓子と、油を塗った種入れぬ煎餅と、よく混ぜた麦粉に油を混ぜて作った菓子とを、感謝の犠牲に合わせてささげなければならない。また種を入れたパンの菓子をその感謝のための酬恩祭の犠牲に合わせ、供え物としてささげなければならない。』(レビ記7:11-13)
この祭りで捧げるものは、種入れぬ菓子(cakes)、種入れぬせんべい(ウェハース)、そして、種を入れたパンの菓子で、祭司はその中から一つづつを取り分として受け取る。
シンプルで飾り気のあまり無かった燔祭や素祭に対し、酬恩祭の捧げものは、楽しげなものである。
酬恩祭の捧げものには、三種の目的がある。
すなわち、「感謝」、「誓願」、「自発」であり、それぞれには、それぞれ食べて良い期間がある。
もし「感謝」のために捧げたものであるなら、捧げる人がその日のうちにその肉を食べなければならず、それが「誓願」あるいは「自発」の供え物であるなら、明くる日でも、食べることができる。
ただし、その肉の残りは、三日目には火で焼き捨てなければならない。(レビ記7:15-17)
もし、食べて良い期間を過ぎているのに食べるのであれば、その捧げものは受け入れられず、供え物と見なされず、かえって汚れた物となり、咎を負わなければならない。
このように、酬恩祭のいけにえは、食べて良い期限があるが、それぞれの内容には、意味がある。
感謝のためのいけにえは、その日のうちに食べるものであるが、もし私達が「主に感謝すべき事」を示されたのなら、その「感謝」は先延ばししたりせず、その日の内に為すべきである。
また、現代の私達の「交わり」にも、それが出来る期限がある。
たまに、礼拝が終わったと同時に帰ってしまう人や、交わりの時間になると突然何かの仕事をし出したりして、交わりに参加しない人もいるが、「交わるべき時」には、しっかり交わっておくべきである。
そうでないと、せっかく「霊的ごちそう」が用意されているのに、それをみすみす放っておいてしまうようなものである。
主が良くして下さった事を共に感謝し、主の素晴らしさを共に喜び、共に食卓を囲む。その「交わり」の一時は、とても楽しく喜ばしい、「霊的ごちそう」の一時である。
また、汚れを受けた人は、酬恩祭のいけにえを食べてはならない、とされている。
『その肉がもし汚れた物に触れるならば、それを食べることなく、火で焼き捨てなければならない。犠牲の肉はすべて清い者がこれを食べることができる。もし人がその身に汚れがあるのに、主にささげた酬恩祭の犠牲の肉を食べるならば、その人は民のうちから断たれるであろう。また人がもしすべて汚れたもの、すなわち人の汚れ、あるいは汚れた獣、あるいは汚れた這うものに触れながら、主にささげた酬恩祭の犠牲の肉を食べるならば、その人は民のうちから断たれるであろう』」。』(レビ記7:19-21)
現代でも、自ら良からぬ事を思いめぐらし、聖徒の交わり全体にその「汚れ」を撒き散らして、交わりを台無しにしてしまうような「汚れた人」がいる。
例えば、交わりの時間になると、狙い済ましたかのように、どうでも良い物事を押し付けたり、その場の全員を強烈に世的な話題に引きこもうとしたり、あるいは、大きな音をかき立てたり(皿をがちゃがちゃしたり、楽器を演奏するボリュームを大きくしたり、風邪を引いていないのに大げさに咳をしたり)などして、交わりの会話を台無しにしてしまう人もいるが、そのような「汚れ」の要素がある時は、全体の交わりには参加しないほうが良い。
むしろ、主の御前に一人で出て、イエスの血潮で自らの汚れを清めていただくか、あるいは、二人また三人による、親密な「御言葉」の水の洗いの中で、心の汚れを清めていただくべきである。
礼拝説教メッセージ音声:祭司が受ける分(レビ記7:1-10):右クリックで保存
愆祭(罪過のためのいけにえ)は、罪祭と同様、祭司の食物とされる部分があり、それは「最も聖なるもの」とされる。
『祭司たちのうちのすべての男子は、これを食べることができる。これは聖なる所で食べなければならない。これはいと聖なる物である。罪祭も愆祭も、そのおきては一つであって、異なるところはない。これは、あがないをなす祭司に帰する。』(レビ記7:6-7)
祭司は、一般人が捧げたいけにえの中から、受け取る分がある。
燔祭、すなわち全焼のいけにえは、まず皮が剥がれ、解体され、全て焼かれるものである事を1章で学んだが、その皮は焼かれず、祭司が受ける分として残された。(レビ記7:8)
キリストも、燔祭のいけにえのように、十字架という祭壇に捧げられる前、ローマ兵達によって身ぐるみ剥がされ、下着はくじでひかれ、衣は全て奪い取られた。(詩篇22:16-18)
私達も、罪ある邪悪な者達であったが、キリストの贖いの衣が与えられ、キリストを着る事によって、キリストと一つとされ、約束の相続人とされた。(ガラテヤ3:27-29)
素祭についても、祭司の食物とされる分がある。(レビ記7:9-10)
このように、主の宮で働く祭司には、捧げ物の中から受け取るべき分があるが、それは、新約においても同じである。
パウロはこう言っている。
『あなたがたは、宮仕えをしている人たちは宮から下がる物を食べ、祭壇に奉仕している人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかることを、知らないのか。それと同様に、主は、福音を宣べ伝えている者たちが福音によって生活すべきことを、定められたのである。』(1コリント9:13-14)
確かに、主のために宣教したり牧会したりするフルタイムの献身者は、聖徒達の献金によって生活する権利は与えられている。
しかし、献身者は、金銭を得る事を当てにして働くのではなく、「キリストの福音のために」働くのである。(1コリント9:12)
パウロは、「献金によって生活する権利」が、福音の妨げとならぬよう、また、自らの手でしっかり働くべきである事を身を持って示すために、その権利を手放し、自らの手で働きながら福音の働きをした。
『もしわたしたちが、あなたがたのために霊のものをまいたのなら、肉のものをあなたがたから刈りとるのは、行き過ぎだろうか。もしほかの人々が、あなたがたに対するこの権利にあずかっているとすれば、わたしたちはなおさらのことではないか。しかしわたしたちは、この権利を利用せず、かえってキリストの福音の妨げにならないようにと、すべてのことを忍んでいる。』(1コリント9:11-12)
パウロはむしろ、聖なるプライドの故に、自らその権利を投げうった。
『しかしわたしは、これらの権利を一つも利用しなかった。また、自分がそうしてもらいたいから、このように書くのではない。そうされるよりは、死ぬ方がましである。わたしのこの誇は、何者にも奪い去られてはならないのだ。』(1コリント9:15)
献身者を目指す人の中には、厳しい社会で揉まれるのが嫌だから、比較的「優しい」人達が集うキリスト教業界の中から糧を得、ぬくぬくしようと、逃避的な動機で目指す人も中にはいるが、世の働きという「小さな事」さえまともに出来ない人は、神の国の働きという「大きな事」を担うべきではない。
主の働きは、一般社会での働きよりも、より大きな信仰が必要であり、より多くの忍耐と服従が求められるし、世の事業における責任よりも、永遠のいのちに携わる責任のほうが大きいからだ。
祭司が受ける分、献身者が受ける分は確かに与えられているが、それを当てにするのではなく、「キリストの福音のために」働く事が第一目的である事を忘れてはならない。
罪祭(罪のためのいけにえ)に関する祭司のつとめ(レビ記6:24-30)
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- 執筆 :
- pastor 2013-4-25 22:14
礼拝説教メッセージ音声:罪祭(罪のためのいけにえ)に関する祭司のつとめ(レビ記6:24-30):右クリックで保存
『「アロンとその子たちに言いなさい、『罪祭のおきては次のとおりである。罪祭は燔祭をほふる場所で、主の前にほふらなければならない。これはいと聖なる物である。罪のためにこれをささげる祭司が、これを食べなければならない。すなわち会見の幕屋の庭の聖なる所で、これを食べなければならない。』(レビ記6:25-26)
ここでは、罪祭として捧げられた肉は、祭司が食べて良い、と言われているが、中には食べてはならないものもある。
すなわち、その血を会見の幕屋に携えて行き、聖所で贖いに用いた罪祭は、食べてはならない。(30節)
聖所へ血を携えて行って、贖いをするいけにえといえば、祭司や、イスラエルの会衆全体の罪のために捧げられた、雄牛である。(4:3-21)
それは、食べることが出来ないが、一般人や民の長のための罪祭は、聖所へ血が持ち込まれないため、食べることが出来る。
いや、むしろ、食べなくてはならない、と言われている。
『モーセは罪祭のやぎを、ていねいに捜したが、見よ、それがすでに焼かれていたので、彼は残っているアロンの子エレアザルとイタマルとにむかい、怒って言った、「あなたがたは、なぜ罪祭のものを聖なる所で食べなかったのか。これはいと聖なる物であって、あなたがたが会衆の罪を負って、彼らのために主の前にあがないをするため、あなたがたに賜わった物である。見よ、その血は聖所の中に携え入れなかった。その肉はわたしが命じたように、あなたがたは必ずそれを聖なる所で食べるべきであった」。』(レビ記10:16-18)
それにしても、人々の罪を負って「罪」とされた動物を、食べていいものなのだろうか。
食べる事によって、罪をその身に負う事にならないのだろうか。
それにまた、罪祭の肉は「最も聖なるもの」と言われているが、一体なぜ、罪とされた動物の肉が、最も聖なるものなのだろう。
それは、私達の主、イエスキリストを見る時、合点がいく。
『神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。』(2コリント5:21)
罪祭の犠牲とされる動物は、元々、罪がないのに、罪を犯した人間が手を置くことによって、罪として一体化される。
同じようにキリストも、元々、罪を知らないお方であったのに、私達の身代わりとなるため、「罪」そのものとされた。
私達は、その罪とされたキリストの肉を食べ、血を飲む事によって、罪を処罰されたキリストと一体化とされ、罪なき者、聖なる者とされるのだ。
『すべてその肉に触れる者は聖となるであろう。』(レビ記6:27)
普通なら、汚れた者の衣に触れる時、そのものは汚れ、また、聖なる肉を運んでいる人の衣が何かに触れても、それは聖なるものとはならない。(ハガイ2:12)
しかし、私達の罪を除くために、罪祭とならって下さったイエス様は、例外である。
12年間長血を患った女は、律法上は汚れていたが、彼女が信仰を持ちつつイエス様の衣に触れた結果、彼女はきよくせられた。
私達の主、イエス様に、信仰をもって触れるのであれば、私達も清くせられるのである。
『すべてその肉に触れる者は聖となるであろう。もしその血が衣服にかかったならば、そのかかったものは聖なる所で洗わなければならない。またそれを煮た土の器は砕かなければならない。もし青銅の器で煮たのであれば、それはみがいて、水で洗わなければならない。』(レビ記6:27-28)
罪の事や聖なる事に用いられた器は、そのまま、他の事に用いられてはならず、土の器は砕かれ、青銅の器はよく洗われなくてはならない。
また、罪祭のいけにえには、食べて良い「期間」があり、罪祭で流される血も、罪を贖う「有効期間」があるのだ。
過越の子羊は、祭りの日の、日の入りから日の出までの間に食さねばならず、朝になった時、それは火で焼かれなくてはならない。(出エジプト記12:10)
過越の子羊は、それ以外の期間に食べてはならないものであり、過越の日没から日の出までの間に、子羊の血が塗られた扉の外にいた者は、それにあずかってはならない。
なぜなら、過越の「夜」という期間はエジプトに対しては災いが下っており、イスラエルは守られており、その間に過越の子羊は食さねばならぬものであるからだ。
その期間が終わって朝になった時には、もう、イスラエルの民は約束の地へと出立し、エジプト人は、死の悲しみの中、エジプトに留まる他に無いのだ。
同じように、裁きの日が来た時、あらかじめ与えられている恵みの期間に、血潮のしるしの内側に入らなかった者は、死と滅びの中に留まり続け、恵みの期間にイエスの血潮によって清められ、滅びを免れた者達は、天の御国へと入れられるのである。
恵の時、救いの時には「期間」がある。
『私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。』(2コリント6:1-2)
その恵みの期間に、主イエスを信じる者は、救いへと入れられるのである。
礼拝説教メッセージ音声:素祭(穀物の捧げもの)に関する祭司のつとめ(レビ記6:14-23):右クリックで保存
今回の箇所は、素祭、すなわち、穀物の捧げものについて「アロンとその子たち」に命じている事である。
素祭の麦粉のうち、一握りを、油と乳香を共に取って「記念の分」とし、祭壇の上で焼いて香ばしいかおりとして主にささげなくてはならない。(レビ記6:15)
この、一握りの「記念の分」は、真っ先に焼き尽くされ、主の御前に香ばしいかおりとして捧げられるが、同じように、キリストも、私達の初穂として、長兄として、父なる神に捧げられ、その香ばしいかおりの故に、父なる神は、完全になだめられた。
素祭の残りの部分は、祭司の食物となる。
『これは種を入れて焼いてはならない。わたしはこれをわたしの火祭のうちから彼らの分として与える。これは罪祭および愆祭と同様に、いと聖なるものである。アロンの子たちのうち、すべての男子はこれを食べることができる。これは主にささげる火祭のうちから、あなたがたが代々永久に受けるように定められた分である。すべてこれに触れるものは聖となるであろう』」。』(レビ記6:17-18)
キリストは、素祭の記念の部分として、香ばしいかおりとして全て捧げられたが、それに続く私達は、父なる神の御心を行い、その御業を成し遂げる事によって、大祭司なるキリストの食物を整えるのだ。
『イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。』(ヨハネ4:34)
私達も、キリストにあって、祭司とされた。
祭司は、聖なる場所で種入れぬパンによって、特権的に養われたように、私達も、種を入れぬパン、すなわち「人間のおしえ」というパン種が一切入っていない、純粋な御言葉のパンによってのみ、特権的に養われるべきである。
『「アロンとその子たちが、アロンの油注がれる日に、主にささぐべき供え物は次のとおりである。すなわち麦粉十分の一エパを、絶えずささげる素祭とし、半ばは朝に、半ばは夕にささげなければならない。それは油をよく混ぜて平鍋で焼き、それを携えてきて、細かく砕いた素祭とし、香ばしいかおりとして、主にささげなければならない。』(レビ記6:20-21)
元々、素祭は、もみ殻がついたままではなく、殻が抜かれ、露わとなった実はさらに砕かれた状態で幕屋へ持ち込まれるのだが、アロンとその子たち自身が捧げるこの素祭は、そこからさらに油を混ぜられ、よく練り込まれ、フライパンで焼かれ、さらにまた細かく砕かれ、そして最後には、焼き尽くされる。
これは、まさしく徹底的に砕かれたキリストをあらわしており、また、主に捧げ尽くしたいというい献身者を表している。
真に油注がれた方、キリストは、油絞りの場、ゲツセマネの園で祈られた。
『「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」。』(マルコ14:36)
キリストはゲツセマネで「わたしの思いではなく御心のままに」という祈りによって油塗りこまれ、ピラトの庭で砕かれ、ゴルゴダの丘の十字架上でも、徹底的に砕かれ、身も心も焼き尽くされる経験をされた。
私達も、主にあって献身者であろうとすればするほど、全く砕かれっぱなしとなる。
余分な殻は抜かれ、粉々に砕かれ、さらに油混ぜられ、平鍋の上で焼かれ、さらにまた砕かれていき、最後には、焼き尽くされる。
そうして行くうちに、自らのわざをさらに止め、さらに主に身を委ねて行くようになるため、ますます楽に、ますます甘く、麗しく、ますます栄光に富んだ経験となっていくのだ。
礼拝説教メッセージ音声:燔祭(全焼のいけにえ)に関する祭司のつとめ(レビ記6:8-13):右クリックで保存
『アロンとその子たちに命じて言いなさい』(レビ記6:9)
1-5章までは、イスラエルの一般人が適用すべき、捧げものに関する規定だったが、今回の箇所からは、「アロンとその子たち」すなわち祭司たちが適用すべき命令となり、イスラエルの民から受け取った各種の捧げものを、どのように扱うべきかが、書かれてある。
『燔祭のおきては次のとおりである。燔祭は祭壇の炉の上に、朝まで夜もすがらあるようにし、そこに祭壇の火を燃え続かせなければならない。・・・祭壇の上の火は、そこに燃え続かせ、それを消してはならない。祭司は朝ごとに、たきぎをその上に燃やし、燔祭をその上に並べ、また酬恩祭の脂肪をその上で焼かなければならない。火は絶えず祭壇の上に燃え続かせ、これを消してはならない。』(レビ記6:9-13)
まず、燔祭(全焼のいけにえ)については、祭壇の上に朝まであるようにし、祭壇の火を常に燃え続けさせなければならない。
燔祭は、イスラエルの民の自由意思による捧げものだったが、それとは別に、朝ごと夕ごとに捧げられる全焼のいけにえがあり、それは以前、出エジプト記で命じられていた通りである。
『あなたが祭壇の上にささぐべき物は次のとおりである。すなわち当歳の小羊二頭を毎日絶やすことなくささげなければならない。その一頭の小羊は朝にこれをささげ、他の一頭の小羊は夕にこれをささげなければならない。一頭の小羊には、つぶして取った油一ヒンの四分の一をまぜた麦粉十分の一エパを添え、また灌祭として、ぶどう酒一ヒンの四分の一を添えなければならない。
他の一頭の小羊は夕にこれをささげ、朝の素祭および灌祭と同じものをこれに添えてささげ、香ばしいかおりのために主にささげる火祭としなければならない。これはあなたがたが代々会見の幕屋の入口で、主の前に絶やすことなく、ささぐべき燔祭である。わたしはその所であなたに会い、あなたと語るであろう。』(出エジプト記29:38-42)
たとい、全焼のいけにえを捧げる人が、一人もいない日であったとしても、祭司は、日夜、全焼のいけにえを捧げなくてはならない。
そして、主の御前に絶えず捧げているのであれば、主は私達に会い、私達と語られるのである。
なぜなら、現代においては、私達・キリスト者こそ、祭司だからである。
『しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている。』(1ペテロ2:9-10)
祭司は、地上での土地の相続が無い代わりに、主ご自身が相続であり、主の宮で仕え、主への供え物を受け取れるなど、世俗の人に比べれば特権的ではあるが、しかし同時に、それなりの責任と、日々務めるべき任務がある事を忘れてはならない。
燔祭、すなわち主に対する全身全霊の捧げもの、それは祭司が、日々怠りなく主に捧げるべきものであり、たとい、周りに一人も主に自らを捧げる人がいないとしても、祭司とされた私達は、日々、自らを主に捧げるべきなのだ。
現在の私達も、キリストの十字架という祭壇の上に、日々、身も心もささげ、自分の意思を降ろしてキリストに服従させ、そうして日々主に仕えるのであれば、私達はますます聖なる器として用いられるようになり、私達が執り成す人々も、祝福されるのである。
礼拝説教メッセージ音声:愆祭 - 罪過のためのいけにえ(レビ記5:14-6:7):右クリックで保存
レビ記5章14節から6章7節までの箇所は、愆祭(けんさい)、すなわち、罪過のためのいけにえについての規定が記されている。
この愆祭(アーシャーム、英:trespass offering 罪過のいけにえ)は、罪祭(カッタース、英:sin offering 罪のためのいけにえ)と同じように、罪を犯した時に捧げなくてはならないいけにえであり、罪祭と愆祭のおしえは一つである(レビ記7:7)
罪祭に比べ特徴的な事は、愆祭には損害賠償の性質がある事、また、通常のいけにえにプラスして、さらに、五分の一を加える事である。
『「もし人が不正をなし、あやまって主の聖なる物について罪を犯したときは、その償いとして、あなたの値積りにしたがい、聖所のシケルで、銀数シケルに当る雄羊の全きものを、群れのうちから取り、それを主に携えてきて、愆祭としなければならない。そしてその聖なる物について犯した罪のために償いをし、またその五分の一をこれに加えて、祭司に渡さなければならない。こうして祭司がその愆祭の雄羊をもって、彼のためにあがないをするならば、彼はゆるされるであろう。』(レビ記5:15-16)
ここでは、主に対して、罪だと知らずに犯した犯した不実に対する償いが規定されており、その場合、傷のない雄羊を捧げ、また、「聖なる物について犯した罪のために償い」として、その五分の一を加え、主に賠償しなくてはならない。
そうするならば、その人は赦される。
6章1-7節では、罪だと知りながらに罪を犯した場合が記されている。
『もし人が罪を犯し、主に対して不正をなしたとき、すなわち預かり物、手にした質草、またはかすめた物について、その隣人を欺き、あるいはその隣人をしえたげ、あるいは落し物を拾い、それについて欺き、偽って誓うなど、すべて人がそれをなして罪となることの一つについて、罪を犯し、とがを得たならば、彼はそのかすめた物、しえたげて取った物、預かった物、拾った落し物、または偽り誓ったすべての物を返さなければならない。
すなわち残りなく償い、更にその五分の一をこれに加え、彼が愆祭をささげる日に、これをその元の持ち主に渡さなければならない。』(レビ記6:2-5)
ここでは「もし人が罪を犯し、主に対して不正をなしたとき、、、」という言葉で始まるが、その具体的な内訳を見ると、主に対しての不正というより、誰か人間に対して意図的に損害を与えているような内容である。
ここから分かることは、悪意をもって人の物をかすめたり、欺いたり、しいたげたりする事は、人に対してというより、主に対する不正だ、という事である。
アナニヤとサッピラの夫婦は、共謀して捧げものの代金を偽ったが、ペテロはそれを「あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」と言った。(使徒5:1-4)
意図的に主のものをかすめる事は、人や教会に損害を与えたようで、実は、主に損害を与える事なのだ。
人のものを意図的にかすめるなどして主に不正をなした場合、そのかすめたものの全部、プラス、その五分の一を、罪過のためのいけにえを捧げる日に返さなくてはならない。
このように、人のものをかすめたり盗んだりするのは、損をする事、さらに財産を減らす事である。
愆祭のいけにえは、いずれも、傷のない雄羊一頭である。これはイエス・キリストをあらわしており、キリストこそ、まことの罪過のいけにえである。
私達は主に対し、莫大な借金を抱えているようなものだったが、主は赦して下さった。(マタイ18:23-35)
だから私達も、赦された者として、キリストにあって互いに赦しあうべきである。
礼拝説教メッセージ音声:必ずしなくてはならない罪の贖い(レビ記5:1-13):右クリックで保存
レビ記5章の1節から13節までは、罪祭の補足規定が記されている。
主は、人が犯す罪については、富んでいる人であっても、貧しい人であっても、徹底的に取り扱うべき事を示している。
羊を買う余裕の無い者に対しては、山鳩二羽あるいは家鳩のひな二羽を捧げるように、それさえ買えない人には、十分の一エパ(2.3リットル)の小麦粉を罪のためのいけにえとして捧げるよう定めている。
1節から4節までの所には、具体的な罪の事例が記されており、例えば、正しく証言しなくてはならない場面において、敢えて「言わない」事によって罪を犯した場合(1節)、また、気づいていても気付いていなくても、死体や人の汚れに触れる事によって、罪を犯した場合(2-3節)、また、軽々しくくちびるを用いて誓った場合(4節)など。
そのように、主から「してはならぬ」と言われている事の一つでもを犯した場合、自分自身の口で、その罪を告白しなくてはならず、それから、やぎでも羊でも、雌一頭を罪祭として捧げる事が命じられている。
人が死体に触れるたびに、あるいは、軽々しく誓いを立てた度に、主の御前に一つのいのちが捧げられ死ななければならないとしたら、いったい人は、一生の間、どれほどの命を身代わりの犠牲にしなくてはならないのだろうか。
それは守れる人はいないのではないかと思えるくらい、罪ある人間には厳しすぎる。
ある人は、解釈する。
この律法を守れる人は、ひとりもいない、だから罪の犠牲は必要なく、その代わりに主は、人が精一杯がんばって、なるべき清く、正しく生きる事を願っておられるのだ、と。
そうではない。人は罪を犯したら、確かに、犠牲の血をもって償いをしなくてはならず、そこには旧約も新約も、ユダヤ人もギリシヤ人も、富めるも貧しきも、変わりはない。
では人は一体、何によって罪から救われるのか。
動物の血によっては、人の罪を取り除くことは出来ず、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められない。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのみである。(ローマ3:20、ヘブル10:1-11)
『しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。』(ローマ3:21-25)
『キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。・・・これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。』(ヘブル10:14,18-19)
今や、私達の罪のために捧げられた、唯一完全なる犠牲、それは、イエス・キリストである。