メッセージ - マタイによる福音書カテゴリのエントリ
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イエス様の弟子たる者の特典(マタイ10:16-33):右クリックで保存
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福音宣教の際の注意事項(マタイ10:5-15):右クリックで保存
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イエスの弟子達(マタイ10:1-4):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
収穫は多いが働き手が少ない(マタイ9:35-38):右クリックで保存
【概要】
イエス様の宣教と憐れみの心、そして働き手の必要性について
【聖書箇所】
マタイによる福音書9章35-38節
第1コリント12章27-30節
【励ましの言葉】
神の国の働き手として、私たち一人一人が与えられた賜物を用いて奉仕することの大切さ
【勧めの言葉】
羊飼いのいない羊のような人々を憐れむ心を持ち、収穫の主に働き手を送ってくださるよう祈ること
【***詳細***】
今日恵みをいただく御言葉は、マタイによる福音書の9章35節から38節までです。
「それからイエスは、すべての町や村をめぐって、会堂で教え、御国の福音を述べ伝え、あらゆる病気、あらゆる患いを治された。また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。そのとき、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。』」
まことにこの世の中は、患いに満ち、頼るべき指導者もなく、またガイドとするべきガイドラインもなく、人々はそれらを知らず、弱り果て、迷い出て、羊飼いのない羊のように、それぞれが滅びへと向かっています。主はあなたこそが、まことの羊飼い。この世は働き手を必要としています。神の国の働き手を必要としています。
イエス様は、この福音書の時、人の体をとってこの世に来られ、そして人の体をもって福音の伝道師、宣教をされました。イエス様は、何か人間でないような、大きな御使いのような霊的な存在として、一人のままに、しるしと不思議をもって、圧倒的な権威をもって現れたのではなく、一人の人として、そして人として宣教し伝道されました。それほど人であることを大事にされたのです。
なぜなら宣教の業は、見つからないとか大きな超自然的な霊的な存在として、そういうような形で広められるのではなく、神様は人間の宣教の愚かさを通して人々に救いの福音を告げ知らせることを人に委ねられたからです。
神の国の福音は、人間の唇を通して伝えられるものです。それはもうずっと、2000年前からずっと、今日に至るまでずっとそうなのです。何か圧倒的なパワーでもって人々を屈服させるようなことは主はなさらず、人間の唇を通してイエス様を信じなさいと。そういうことを通して、主は宣教を人間に託されたのです。そしてイエス様はその先駆けとして私たちにその模範を示してくださいました。
イエス様はこのわずか3年半の間に本当に多くの人々の心を変え、影響を及ぼしました。イエス様は人間の体、私たちと同じ人間の体を持っているのですが、それでも多くの奇跡を行いました。信じる者はその世に力が与えられるのです。
イエス・キリストを信じる人はイエス様がこの地上において行われたのと同じ業を行うことができます。でもあいにく、この世に働き人が少ないですね。そのようなことができる働き人がいないというのがこの世の中の実情です。
イエス様はこの地上において働かれたとき、「すべての町や村をめぐって、会堂で教え、御国の福音を述べ伝え、あらゆる病気、あらゆる患いを治された。」それは何もイエス様自身が大活躍したいからとか、有名人になりたいからというわけではなく、むしろ憐れみの心を持っていたからです。
36節を見ますと、「かわいそうに思われた」とあります。腹わたがちぎれるような思いという直訳です。イエス様が人の倒れている様を見るとき、腹わたがちぎれるような思いに駆られるのです。そして何とかしてあげたい、助けてあげたいという心になるのです。
この時、群衆はどのようなありさまであったでしょうか。イエス様がご覧になると、「羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている」とあります。これは霊的なことを指しています。世の中は、霊的な面において本当に羊飼いのない羊のようなありさまになっているのです。
羊飼いがいない羊はどうなるでしょうか。導き手がいない羊はどこに行くべきかを知りません。それぞれが好き勝手な方向に行こうとするのですが、羊はあいにく方向音痴で目も視力も弱く、10メートル先も見えないほどの弱視です。それで羊たちはどのようにしていいのかさっぱりわからない。迷子になる。傷を受けます。そしてある羊たちは狼に襲われて食いちぎられたりすることにもなってしまいます。
そのような羊飼いのない羊のような有様、それが当時のイスラエルの霊的な状況だったわけです。群衆を見て羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らを、イエス様はかわいそうに思われました。
今の時代もそうですね。当時もパリサイ人とか律法学者とか、民の指導者たちは確かにおりました。民の指導者たち、確かにいたのですが、でも群衆は羊飼いのいない羊のように言われ果てていたのです。要するにパリサイ人や律法学者たちは、導き手にはなることはできなかったのです。
今現在も似たような状況ではないでしょうか。世の中のクリスチャンと言われている人たち、御言葉を知らない、何年も教会に通っているのに、聖書のこの箇所を初めて見ましたという人を本当によく見かけます。弱り果てていて、本当に指導者を知らない、患いを身に負っている、どこに行くべきか道を知らない、道を示してくれる羊飼いがいない、緑の牧場へと、憩いの水のほとりへと導いてくれる羊飼いがいない、そういう状況です。
イエス様はそれを見てどう思われるでしょうか。心引き裂かれる思いがあるのです。彼らをかわいそうに思われる、腹わたがちぎれるような思いで彼らをかわいそうに思われるのです。
ではイエス様はどうされるでしょうか。イエス様ご自身が、天使のような大きな栄光の姿をとって、しるしを示して、大勢の目の前で、大いなることをされたでしょうか。そうではありません。むしろ、イエス様はこう言われるのです。「収穫は多いが、働き手が少ない」と。
なんと、イエス様ご自身、一人で、イエス様の神格たるパワーを持ってすれば、何も人に頼らずとも、完全に、効率的に伝道とか、宣教ができるでしょうが、でも、イエス様はなんと、働き手が欲しいと言われるのです。収穫を得るには、働き手が必要だと言われるのです。
神様は、人間の手に、宣教の業を委ねられたのです。収穫は多い、しかし働き手が少ない。「だから収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」と言われます。
イエス様は深く深く憐れまれるお方です。人々が傷ついている様、本当にどこに行っていいのかわからない。御言葉には書いてあるのだけど、この御言葉は何を意味しているのか。一体御言葉とどのように向き合えばよいのか。それを示してくれる指導者、働き手が少ない。だからそのような働き手が起こされるように、あなた方も祈りなさいと言われます。
実際、弟子たちも働き手になるべきなのです。イエス様はこのことを言われた後に、10章の始めのところでイエスは12弟子を任命されます。そしてこの12弟子に汚れた霊や悪霊を追い出す、病気を癒す、あらゆる患いを治す権威をお与えになられました。ですから弟子となる人たち、彼らはイエス・キリストから権威を授けられたものでなくてはならないのです。
そのような神の国の働き手が、起こされるようにと、イエス様はそのように祈りなさいと言われます。収穫は多いのですが、しかし働き手が少ない。本当に羊飼いのように導き手となる人がこの世界は必要ですが、でも正しく導く人たちは少ない。むしろ羊飼いのいない羊のように倒れて、食い物にされて、傷ついて、お腹をすかせて、もう霊的に渇いて渇いて、霊的にお腹をすかせてすかせて身動きも取れないような倒れている羊たちがこの世界には多いのです。
彼らのために働き手が与えられますようにと祈るべきです。彼らを正しく養うために、私たちも本当に御言葉を手に取って、御言葉を伝える働き人として整えてくださいと祈るべきです。
キリストは教会に、いろいろな奉仕者を任命されました。キリストの体、それが教会です。そして教会はキリストの体の各部分によって成り立っております。すなわち皆さん一人一人です。皆さん一人一人にそれぞれ違った賜物が与えられております。
第1コリント12章27-30節にこうあります。
「あなたがたはキリストのからだであって、一人一人はその部分です。神は教会に、第一に使徒、第二に預言者、第三に教師を立てられました。次に奇跡を行う者、次に癒しの賜物を持つ者、助ける者、管理する者、異言を語る者などを置かれました。みなが使徒でしょうか。みなが預言者でしょうか。みなが教師でしょうか。みなが奇跡を行う者でしょうか。みなが癒しの賜物を持っているでしょうか。みなが異言を語るでしょうか。みなが解き明かすでしょうか。」
教会の中に、いろいろな人がいます。そしてそれぞれ賜物を与えられており、賜物は違います。皆が皆奇跡を行うわけではありませんし、皆が皆、預言するものでもありません。一人一人に与えられている賜物があり、そしてそれぞれの役割を果たして、教会全体の機能、教会とはすなわちキリストの体、キリストの機能を皆さん一人一人が果たしていくというところが教会なのです。
働き人か、それとも生徒か。働き人と生徒はどう違うのですかと聞かれたことがありますが、基本的に一緒です。生徒であるならば、働き人であるべきです。なぜなら、ただ教会にいて、ただ恵みをいただくだけ、癒しをいただくだけ、それで神の国の働きは何もしない。これは生きた信仰ではありません。ですから、生徒イコール働き人であるべきです。
私たちは「教会からのサービスを受けるだけのもの」「あなたたちが教会にお菓子を持ってきて、私は食べるもの」「あなた方が教会を掃除する、私は好き放題、散らかし放題していいもの」そういうことではないのです。皆さん一人一人がキリストの体の一部分として、キリストのために仕えるものであるべきなのです。
そして、教会全体は、神の言葉を伝道します。宣教します。御言葉を語り継ぎます。御言葉を語るという、また知恵や啓示の賜物が与えられていない人は、しっかりと教会の中で養いをいただき、そして何かしら主のために役に立つことをするべきです。
サービス。礼拝のこと英語でサービスと言いますね。サービスを受ける側は一体どなたですか。神様です。皆様サービスを捧げる側です。神様に仕える側です。ですから教会すなわちキリストの体の一人一人は働き人であるべきです。そして私たちはさらに、収穫の主に、働き手がさらに与えられるようにと祈り求めるべきです。
人によっては災いとなるイエス様の奇跡(マタイ9:27-34)
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- 執筆 :
- pastor 2014-6-14 7:48
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人によっては災いとなるイエス様の奇跡(マタイ9:27-34):右クリックで保存
信仰によって癒された娘と蘇らせてもらった娘(マタイ9:18-26)
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- 執筆 :
- pastor 2014-6-7 2:22
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信仰によって癒された娘と蘇らせてもらった娘(マタイ9:18-26):右クリックで保存
古い着物に新しい服、古い革袋に新しいぶどう酒(マタイ9:16-17)
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- 執筆 :
- pastor 2014-5-31 4:58