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メッセージ - 申命記カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:モーセが示した十戒の第五〜第七戒(申命記5:16-18):右クリックで保存

十戒の第四戒までは神と人との関わりについての戒めであったが、第五戒からは、人と人との関わりについての戒めとなる。
その人間関係における第一の戒めは、以下である。
『あなたの神、主が命じられたように、あなたの父と母とを敬え。あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く命を保ち、さいわいを得ることのできるためである。』(申命記5:16)

この世のあらゆる関係は、権威構造によって成り立っているが、立てられている権威に服さないと、権威構造で成り立つ世界・全てに敵対してしまう事になる。
例えば、罪を犯した指名手配犯は、警察や人の目から逃げるようにして生きなくてはならず、心落ち着かず、国や世間からの恩恵にも預かれないが、それと同じように、神の権威に服さない人は、神からの恩恵に預かれないまま、神の処罰を恐れて生きなくてはならず、平安も無く生きなくてはならない。
しかし主イエス様は、そんな私達の身代わりとして罪の処罰を受けて下さった。
私達は彼を信じる事によって、神との和解をいただき、神からの恩恵にも預かって生きるようになったばかりでなく、神の国の市民としての特権をも得るようになったのだ。

父と母、それは、最も身近で根本的な「権威」である。
その最も身近な権威である父母に服すなら、目に見えない神との正しい関係も容易に構築しやすい。
しかし、最も身近な権威である父母にさえ服す事が出来ないなら、ましてや、この世の社会や、目に見えない神に服す事は、いかに難しいだろうか。
だから、父母という、目に見える、最も身近な権威に服す事が、人間関係における第一優先あり、それは「長く命を保ち、さいわいを得ることのできる」祝福の約束を伴ったものである。

ただし権威には順序がある。
『子たる者よ。「主にあって」両親に従いなさい。これは正しいことである。「あなたの父と母とを敬え」。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている、「そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう」。』(エペソ6:1-3)
ここで忘れてはならない事は、「主にあって」両親に従う事である。
主を度外視した世の権威への服従は、たといその相手が両親であっても、過ちの元である。

十戒の第1〜第4に示されていた通り、権威の第一は、両親よりも、主である。
「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。」(マタイ10:37)
このように、主に反する事以外であれば、父母は敬い服従すべきものである。それによって幸福になり、地上で長く生きる事ができるからだ。

第六戒は『あなたは殺してはならない。』(申命記5:17)である。

聖書には、人がいかに尊い存在であるのかが、書いてある。
『神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。』(創世記1:26-28)

人は、神の息吹が吹き込まれた「神の似姿」であり、本来、全ての生き物を治めるものとして創造され、生んで増えて地に満ちる祝福された存在である。
人が神に不従順して罪と死を導入し、神の怒りを受けるべき存在となっても、なお、神はひとり子を賜ったほどに世を愛し、御子を人の身代わりとして差し出したほどに、人は神に愛され、神から大切にされた存在である。
それほどまでに尊ばれた人のいのちを奪う事は、どれほどに神を冒涜する事だろう。

第七戒は『あなたは姦淫してはならない。』(申命記5:18)である。

姦淫とは、妻や夫など、唯一愛すべき相手がいるにもかかわらず、それ以外の者と愛の関係を結ぶ事である。
なぜそれがいけないのか。
姦淫は、性的な罪であり、性的な事柄とは、いのちを生み出し家庭を築き上げて行く事柄であり、父あるいは母たる人が、姦淫を犯すなら、その家庭は崩壊してしまうからである。

主は人を、創造のはじめから男と女とに創られた。
『そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、/わたしの肉の肉。男から取ったものだから、/これを女と名づけよう」。それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。』(創世記2:23)
ここには「ふたりは一体である」と書かれてある。
ソロモンには妻と妾があわせて千人いたが、神は、ご自分のかたちに人を創造され、男と女とに創造されたのは、千対一ではなく、一対一なのだ。
アブラハムにもヤコブにもダビデも妻は複数いたが、いずれの妻も、子供も、それによって災いが起きて不幸になっている。
主の御心は、夫と妻との関係は「一対一」で、排他的なものである。

以上の三つの戒めには、従うべき権威と、自分がおるべき立場、保つべき立ち位置が示されている。
それは創造の秩序であり、主が立てられた権威を守ることが、人間にとって最も幸せへの近道なのである。

礼拝説教メッセージ音声:モーセが示した十戒の第三と第四(申命記5:11-15):右クリックで保存

十戒で三番目に重要な事は、主の御名をみだりに唱えてはならない、という事である。
『あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。主はその名をみだりに唱える者を罰しないではおかないであろう。』(申命記5:11)

主の御名を乱発すると同時に、不誠実な行いも乱発して、主を貶めている人は確かにいるが、主はそのような者に言われる。
『お前はわたしの掟を片端から唱え/わたしの契約を口にする。どういうつもりか。お前はわたしの諭しを憎み/わたしの言葉を捨てて顧みないではないか。盗人と見ればこれにくみし/姦淫を行う者の仲間になる。悪事は口に親しみ/欺きが舌を御している。座しては兄弟をそしり/同じ母の子を中傷する。
お前はこのようなことをしている。わたしが黙していると思うのか。わたしをお前に似たものと見なすのか。罪状をお前の目の前に並べて/わたしはお前を責める。神を忘れる者よ、わきまえよ。さもなくば、わたしはお前を裂く。お前を救える者はいない。告白をいけにえとしてささげる人は/わたしを栄光に輝かすであろう。道を正す人に/わたしは神の救いを示そう。」』(詩篇50:16-23)

御言葉をたくさん口にする人が主に愛される訳ではない。
サタンでさえ御言葉を引用し、主イエスを誘惑しようとした。
御言葉を口にする人が主に愛されるのではない。御言葉を心に留め、それを行う人こそ、主に愛されるのであって、守る気も無いのに、みだりに御言葉を連発したり、恐れ気もなく主の御名をみだりに連発する者を、主は罰せずにはおかない。

そして第四戒は、安息日の遵守である。
『安息日を守ってこれを聖とし、あなたの神、主があなたに命じられたようにせよ。六日のあいだ働いて、あなたのすべてのわざをしなければならない。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたも、あなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、牛、ろば、もろもろの家畜も、あなたの門のうちにおる他国の人も同じである。こうしてあなたのしもべ、はしためを、あなたと同じように休ませなければならない。』(申命記5:12-14)

ここ、申命記の第四戒の記述は、出エジプト記での記述と、若干違う。
出エジプト記では、以下のように続いた。
「六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。」(出エジプト記20:8-11)
すなわち、主が六日かかって創世した後、第七の日に安息されたから、この第七の日を聖として覚えよ、というのが出エジプト記での趣旨である。

それに対し、申命記では、モーセはイスラエルがかつてエジプトで奴隷であった事を思い起こさせ、他国人や固持、寡婦などの弱者に「安息」を与えさせる事に重点を置いる。
実際、出エジプト記では単に「家畜」と記されている所が、申命記では「牛、ろば、もろもろの家畜」とされ、「こうしてあなたのしもべ、はしためを、あなたと同じように休ませなければならない。」と、家畜も男奴隷も女奴隷もひとしく主の安息に預からせるように命じている。

『あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。』(申命記5:15)
このように、モーセは弱者を休ませるために安息を守らせる事を、特に強調している。
実際、申命記の他の箇所でも、モーセがイスラエルがかつてエジプトで奴隷だった事を思い起こさせている場面が多い。(15:15, 16:12,24:18-22)

人は、権力を持ちはじめると、従業員や奴隷を休まずフル稼働で働かせて利益をむさぼる罪に陥りやすい。
実際、ネヘミヤの時代、イスラエルはバビロンから帰って来たばかりだというのに、早速同国人を奴隷にこき使って主の戒めに反する事をし出した。
安息の主は、人が安息する事を大切にされた。
それ故、私達はしっかり安息を守り、七日ごと安息の主を覚え、礼拝を守るべきである。

礼拝説教メッセージ音声:モーセが示した十戒の第一と第二(申命記5:5b-10):右クリックで保存

イスラエルが守るべき「おきて」のうち、モーセが真っ先に提示したものは、主がシナイ山で与えて下さった十戒だった。
出エジプト記20章に記されている十戒は、主が直接語られた内容であるが、この申命記に記されている内容は、モーセが民にメッセージしたもので、内容的には同じであるものの、表現は同じではない。
モーセが、特にここを強調したい、という点があったからであろうと思われる。

『わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。』(申命記5:6)
神は真っ先に、イスラエルに何をして下さったかを、明らかにしている。
それはまず、奴隷の家・エジプトからの開放である。
皆さんにとって、主はどういう御方だろうか。主は、皆さんに、何をして下さっただろうか。それをすぐに表明出来るだろうか。
主は私達を、世の奴隷から、サタンの奴隷から、罪の奴隷から、そして、死の奴隷から開放して下さり、永遠のいのちへと、主イエス・キリストの愛の支配へと導き入れて下さった主である。

十戒の第一戒、主が真っ先に命じた最も重要な戒めは、「あなたはわたしのほかに何ものをも神としてはならない。」(申命記5:7)である。
日本では「神(カミ)」と呼ばれるものが多くあり、あちらのカミ、こちらのカミと、カミが取り替え可能なような感覚のある日本人には、理解しずらいかもしれない。
しかし、天地を創造し、私達を創り、変わらぬ愛で私達を愛して下さる「神」、私達がおそれ敬うべき「神」は、ただ一つであり、その私達の「主」という座に、神以外の別物を入れてはならない。

『あなたは自分のために刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水の中にあるものの、どのような形をも造ってはならない。それを拝んではならない。またそれに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものには、父の罪を子に報いて三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には恵みを施して千代に至るであろう。』(申命記5:8-10)
十戒の第二戒、二番目に重要な事は、偶像礼拝の禁止である。

日本は偶像礼拝をしている家庭が多く、周りも皆当たり前のようにそれをしていて、その中で育っていると、自分達が実は呪いと災いの中にあった事に気づかないものである。
少し前までは、日本は世界で一番働く民族だと言われていたが、いくら働いても働いても、知恵を働かせても、そうしてお金をたくさん得ても、幸せになれない人が多い、その大きな原因が、神意外のものを神とする「偶像崇拝」にある事は間違いないだろう。
偶像礼拝とは、神社仏閣にある像を拝む事に留まらず、まことの神以外の何かをより大事にし優先させる事を意味する。
例えば、自分の望む何かを、自分のものに出来ないなら、神様なんか信じない、と言う時は、その自分の望む何かが「神」となっており、偶像礼拝である。

まことの神である主を知り、そのすばらしい御業を体験しておきながら、自分の欲望におびき寄せられ、偶像礼拝に戻ってしまう人の樣子が、エゼキエル書に記されている。

『時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、目をあげて北の方をのぞめ」。そこでわたしが目をあげて北の方をのぞむと、見よ、祭壇の門の北にあたって、その入口に、このねたみの偶像があった。彼はまたわたしに言われた、「人の子よ、あなたは彼らのしていること、すなわちイスラエルの家がここでしている大いなる憎むべきことを見るか。これはわたしを聖所から遠ざけるものである。しかしあなたは、さらに大いなる憎むべきことを見るだろう」。』(エゼキエル書8:5)

ここでは、主を礼拝すべき神殿の出入り口に、主のねたみを引き起こさせる偶像が置かれてあった。
今、キリストにあって、私達が神殿であり(1コリント3:16-17)、私達の心の出入り口に、神のねたみを引き起こさせるものが置かれてある事を、主は忌み嫌われる。

『そして彼はわたしを庭の門に行かせた。わたしが見ると、見よ、壁に一つの穴があった。彼はわたしに言われた、「人の子よ、壁に穴をあけよ」。そこでわたしが壁に穴をあけると、見よ、一つの戸があった。彼はわたしに言われた、「はいって、彼らがここでなす所の悪しき憎むべきことを見よ」。
そこでわたしがはいって見ると、もろもろの這うものと、憎むべき獣の形、およびイスラエルの家のもろもろの偶像が、まわりの壁に描いてあった。またイスラエルの家の長老七十人が、その前に立っていた。シャパンの子ヤザニヤも、彼らの中に立っていた。おのおの手に香炉を持ち、そしてその香の煙が雲のようにのぼった。』(エゼキエル書8:7-11)

ここでは、イスラエルの指導者達が、隠れた暗い所で、主の忌み嫌われるあらゆるものに香を焚いて礼拝している様が、露わにされている。
表向きはきれいでも、内側があらゆる汚れて満ちている状態、表面を白く塗った墓のような状態である時、私達も時に、そのように陥ってしまう事があるが、主は何もかもお見通しである。
『時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、イスラエルの家の長老たちが暗い所で行う事、すなわちおのおのその偶像の室で行う事を見るか。彼らは言う、『主はわれわれを見られない。主はこの地を捨てられた』と」。』(エゼキエル書8:12)
このように、主は自分達を見ない、と隠れた所で思う事は、主が無力である事の告白であり、主への冒涜である。

『そして彼はわたしを連れて主の家の北の門の入口に行った。見よ、そこに女たちがすわって、タンムズのために泣いていた。』(エゼキエル書8:14)
ここでは女が偶像の神のために泣いている。
自分の好む事のために泣くことはしても、主のためには心動かされず泣きもしない事は、霊的な姦淫である。

『彼はまたわたしを連れて、主の家の内庭にはいった。見よ、主の宮の入口に、廊と祭壇との間に二十五人ばかりの人が、主の宮にその背中を向け、顔を東に向け、東に向かって太陽を拝んでいた。』(エゼキエル書8:16)
太陽は恩恵をもたらすものであるが、それを創られた主には背をそむけ、自分に恩恵をもたらすものに拝する事も、主の忌み嫌われる偶像礼拝である。

十戒の中で一番最初に示された、最も重要な戒めは、次のものであった。「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」
主を憤らせるのではなく、妬ませるのではなく、主を第一とし、主に愛される私達でありますように!

礼拝説教メッセージ音声:聞き、学び、守って行え(申命記4:41-5:5a):右クリックで保存

申命記4章までの所で、モーセは、イスラエルが荒野で放浪してきた年月の労苦と災いを思い起こさせ、今後そのようにならぬよう、こんこんと教えて来た。
荒野の放浪に陥らないコツは、御言葉に聞き従い、守り、行っていくべき事だった。
そして5章以降で、モーセは、イスラエルが守るべき「おきて」と「定め」を、具体的に教え始める。

『さてモーセはイスラエルのすべての人を召し寄せて言った、「イスラエルよ、きょう、わたしがあなたがたの耳に語る定めと、おきてを聞き、これを学び、これを守って行え。』(申命記5:1)

モーセはこの命令を、再び、「聞きなさい」で始めている。
「信仰は、聞くことから始まり、聞くことは主の御言葉による」(ローマ10:17) と言われているように、御言葉に聞く事は、聖書の中で重要な命令である。

イスラエルが約束の地へと行くのに、本来なら、わずか11日で行ける道のりを、38年もかかってしまったのは、実に、御言葉に聞き従わず、自分の好き勝手にしたい、という思いによって、主が与えて下さった約束を上塗りしてしまったためだ。

サムエルも、サウル王に言っている。
「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、/燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、/聞くことは雄羊の脂肪にまさる。そむくことは占いの罪に等しく、/強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。あなたが主のことばを捨てたので、/主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた。」(1サムエル15:22-23)

また、聞くだけでなく、聞いた御言葉を「行う事」も忘れてはならない。
主の兄弟ヤコブは言っている。
『そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。』(ヤコブ1:22-25)
聞いた御言葉を聞いただけでは、何も起きない。しかし、それを信仰によって守り行うなら、その行いによって祝福されるのだ。

私達は、聞いた御言葉を、3歩歩いたら忘れてしまうような、霊的鳥頭になってはいけない。
そうならないためにこそ、私達は聖徒の交わりを保ち、互いが互いを清く保ち続けるために、御言葉によって、互いに教え、戒め遭うべきである。

『キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい。』(コロサイ3:16-17)

シモン・ペテロは主を裏切ったが、主の交わりから離れなかった故に、立ち直った。
しかし、交わりから離れてしまったイスカリオテのユダは、自分勝手な美意識に殉じて、滅んでしまった。
いかに失敗しても、いかに恥ずかしくても、主にある兄弟姉妹の交わりから決して離れず、互いに教え、訓戒し、霊的に磨き合いつつ、ますます整えられていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:主の命令を守る事の報い(申命記4:32-40):右クリックで保存

モーセは、神がいかに大いなることをして下さったか思い起こさせている。
神は火の中から語られ、大きなしるしと不思議を、イスラエルの面前でなされた。
『試みにあなたの前に過ぎ去った日について問え。神が地上に人を造られた日からこのかた、天のこの端から、かの端までに、かつてこのように大いなる事があったであろうか。このようなことを聞いたことがあったであろうか。火の中から語られる神の声をあなたが聞いたように、聞いてなお生きていた民がかつてあったであろうか。』(申命記4:32-33)

ただ、私達にとって大切な事は、大いなる「体験」をした事よりも、その体験を通して主が語られた御言葉の内容である。
主がイスラエルに大いなる事をして下さった理由は、主こそ神であって、ほかに神のないことをイスラエルに、そして多くの国々に知らせるためであった。
『あるいはまた、あなたがたの神、主がエジプトにおいて、あなたがたの目の前に、あなたがたのためにもろもろの事をなされたように、試みと、しるしと、不思議と、戦いと、強い手と、伸ばした腕と、大いなる恐るべき事とをもって臨み、一つの国民を他の国民のうちから引き出して、自分の民とされた神が、かつてあったであろうか。あなたにこの事を示したのは、主こそ神であって、ほかに神のないことを知らせるためであった。』(申命記4:34)

多くの国々がある中、神がイスラエルを特別に扱われ、大きな力によってエジプトの虐げから救い出されたのは、神の気まぐれではない。
先祖アブラハムの信仰のゆえにである。
アブラハムは、主の言われたことばを信じ、それで彼は、義と認められたが、同じように、現代を生きる私達も、「信じる事」によって救われ、そして神はご自身を信じる人々を、特別扱いして下さるのだ。

『あなたを訓練するために、主は天からその声を聞かせ、地上では、またその大いなる火を示された。あなたはその言葉が火の中から出るのを聞いた。主はあなたの先祖たちを愛されたので、その後の子孫を選び、大いなる力をもって、みずからあなたをエジプトから導き出し、あなたよりも大きく、かつ強いもろもろの国民を、あなたの前から追い払い、あなたをその地に導き入れて、これを嗣業としてあなたに与えようとされること、今日見るとおりである。』(申命記4:36)
現代を生きる私達も、主イエスを救い主として信じるなら、主がかつてイスラエルにして下さったように、私達を愛され、訓練し、大いなる力によって虐げる者から救い出し、奴隷状態となっている所から導き出し、自分達よりも大きく強い敵を追い払い、さらに良い地へと導き入れて、そこを受け継がせて下さるのだ。

『それゆえ、あなたは、きょう知って、心にとめなければならない。上は天、下は地において、主こそ神にいまし、ほかに神のないことを。あなたは、きょう、わたしが命じる主の定めと命令とを守らなければならない。そうすれば、あなたとあなたの後の子孫はさいわいを得、あなたの神、主が永久にあなたに賜わる地において、長く命を保つことができるであろう」。』(申命記4:39-40)
主が「聞きなさい」「定めと命令を守らなければならない」と言われたのは、無意味に私達を束縛したり窮屈な支配を強いたりするためではない。
かえって、私達がしあわせになり、長く生きるためである。

人は「**しなさい」「守り行いなさい」という命令を、堅苦しい教えだと思うかもしれない。
確かに、誰か人間がそのように言う時には窮屈さを覚えるかもしれないが、主がそのように命じられる時には、必ず意味があり、祝福の約束が伴っている。
もし私達が、主の御言葉を昼も夜も思い、記されている事をことごとく守り行い、右にも左にもそれずに歩むなら、行く所行く所どこおいても勝利し、私達の道は栄えるのである。(ヨシュア記1:7-8)

礼拝説教メッセージ音声:祝福の地が呪いの地となってしまう条件(申命記4:20-31):右クリックで保存

『主はあなたがたを取って、鉄の炉すなわちエジプトから導き出し、自分の所有の民とされた。きょう、見るとおりである。ところで主はあなたがたのゆえに、わたしを怒り、わたしがヨルダンを渡って行くことができないことと、あなたの神、主が嗣業としてあなたに賜わる良い地にはいることができないこととを誓われた。わたしはこの地で死ぬ。ヨルダンを渡って行くことはできない。しかしあなたがたは渡って行って、あの良い地を獲るであろう。』(申命記4:20-22)

イスラエルの民がこれから入ろうとしている土地は「良い地」であると言われているが、その土地は、そこに入る人なら誰でも100%良きものばかりをもたらすかというと、そうではない。
その地が、良き事をその人にもたらすかどうかは、その人に依りけりである。
主の御教えに従順する人に対しては、そこはとことん「良い地」となりえるが、逆に、その地がとことん災いばかりもたらすようになってしまう可能性もあり、モーセはその条件を以下に述べている。

『あなたがたは慎み、あなたがたの神、主があなたがたと結ばれた契約を忘れて、あなたの神、主が禁じられたどんな形の刻んだ像をも造ってはならない。あなたの神、主は焼きつくす火、ねたむ神である。』(申命記4:23-24)
主は、偶像を忌み嫌われる。
そして主は、自らを「焼きつくす火(英語:コンシューミング・ファイアー)」であると言われた。

最近、ビジネス用語でコンシューマーという言葉を良く耳にする。
コンシューマーとは「お客様」「消費者」であり、サービス業は、コンシューマーを主体としたビジネス展開こそ成功に欠かせないが、あるクリスチャンは、教会をサービス提供者か何かのように思い、自分達をコンシューマのように思い違いしているが、真逆である。
キリスト者にとって、主こそコンシューマーであり、私達は主にサービス(礼拝)を捧げる側である。

だから、コンシューマである主との契約をないがしろにして、契約違反するならば、主は「妬む神」となってその人を焼きつくしてしまう。
主は、妬む神である。
妬む、という事は、深く熱い愛情によって愛しておられる、という事だ。
相手を愛していれば、愛している程、相手が浮気したならその時の修羅場の度合いが酷くなるが、同じように、私達の神・主も、私達をねたむ程に愛しておられるのである。

『あなたがたが子を生み、孫を得、長くその地におるうちに、道を誤って、すべて何かの形に刻んだ像を造り、あなたの神、主の目の前に悪をなして、その憤りを引き起すことがあれば、わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対してあかしとする。あなたがたはヨルダンを渡って行って獲る地から、たちまち全滅するであろう。あなたがたはその所で長く命を保つことができず、全く滅ぼされるであろう。』(申命記4:25)

偶像崇拝、それは「良き地」がたちまち「滅びの地」に早変わりしてしまう条件である。
主に対し不従順であったり、主の怒りを引き起こす事を、敢えて行い続ける者は、どんなに祝福の地のただ中にいても、そこを滅びの地としてしまうのだ。
それは現代の教会においても同じである。
実際、アナニヤとサッピラは、聖霊を欺いた故に、教会のただ中で滅ぼされた。

『主はあなたがたを国々に散らされるであろう。そして主があなたがたを追いやられる国民のうちに、あなたがたの残る者の数は少ないであろう。』(申命記4:27)
実際、イスラエルの歴史の中で、イスラエルが不従順と偶像崇拝の罪を犯し続けた故に、アッシリヤやバビロンに攻撃され、異国に散らされ、モーセの時代には六十万もいたイスラエル人は、エズラの時代には四万人ほどしか戻ってこなかった。

しかし、たとい人が不従順を犯したとしても、主は人を滅ぼしつくすという事はしない。
『その所であなたがたは人が手で作った、見ることも、聞くことも、食べることも、かぐこともない木や石の神々に仕えるであろう。しかし、その所からあなたの神、主を求め、もし心をつくし、精神をつくして、主を求めるならば、あなたは主に会うであろう。』(申命記4:28-29)

イスラエルの民は、捕囚先で、人が手で作った見ることも聞くことも出来ない味気のない偶像に仕え、そこで思い知った。
主に対して不従順である事がいかに罪深いか。
そして、偶像がいかに味気なく、主がいかに麗しく良きお方であるかを。

私達も、主を捨てて世俗に下る時、同じような体験をする。
主の支配から抜け出して来て、人間の作った味気ない決まり事を強要され、不公平で不完全なシステムに仕える時、人間の罪深さ、不完全さ、そして、一部の特権階級だけが甘い汁を吸うような、自己中心的な有り様に、嫌気がさしてくるのだ。
そして、つくづく思い知るのである。
世に仕えるよりも、主に仕えていた方が良かった、と。

『後の日になって、あなたがなやみにあい、これらのすべての事が、あなたに臨むとき、もしあなたの神、主に立ち帰ってその声に聞きしたがうならば、あなたの神、主はいつくしみの深い神であるから、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、またあなたの先祖に誓った契約を忘れられないであろう。』(申命記4:30-31)
主は、慈しみ深い。
私達を愛しておられる。そして、愛しておられるからこそ、時に厳しく懲らしめる事もある。
しかし主は、放蕩息子の帰りを待ちわびるように、離れている聖徒が主のもとに戻るのを、今か今かと待ち望み、そして帰ってきた時には、大きな喜びをもって迎えて下さるのである。(ルカ15章)

礼拝説教メッセージ音声:見えるものによらず、御言葉によって(申命記4:9-19):右クリックで保存

モーセは、民がホレブで見た事を思い起こさせている。
イスラエルの民は、そこで大いなる光景を見た。
『あなたがホレブにおいて、あなたの神、主の前に立った日に、主はわたしに言われた、「民をわたしのもとに集めよ。わたしは彼らにわたしの言葉を聞かせ、地上に生きながらえる間、彼らにわたしを恐れることを学ばせ、またその子供を教えることのできるようにさせよう。」そこであなたがたは近づいて、山のふもとに立ったが、山は火で焼けて、その炎は中天に達し、暗黒と雲と濃い雲とがあった。』(申命記4:10-11)

モーセは、あのホレブで見たことを忘れるな、その事を子や孫に教えよ、と言っている。(申命記4:9)
あの時、火が山の上にあって、炎は中天に達し、山全体は黒雲に包まれて震え動き、雷鳴と角笛の響きが高く鳴り響く中で、主は降りて来られたのだが、その大いなる現象の中で、モーセが最も強調している事は、主はその中に見える形では見い出せなかった事だ。
「主は火の中から、あなたがたに語られたが、あなたがたは言葉の声を聞いたけれども、声ばかりで、なんの形も見なかった。」(12節)

後の時代の預言者エリヤも、同じ場所で、同じ体験をしている。(1列王記19:11-13)
イスラエルの民と、エリヤの二者が共通して体験した事は、主は大いなる現象を起こされたものの、主を見る事は出来なかった事、そして、主が御声をもって語られた、その内容のほうが、現象よりも重要である事だ。

『主はその契約を述べて、それを行うように、あなたがたに命じられた。それはすなわち十誡であって、主はそれを二枚の石の板に書きしるされた。その時、主はわたしに命じて、あなたがたに定めと、おきてとを教えさせられた。あなたがたが渡って行って自分のものとする地で、行わせるためであった。』(申命記4:13-14)
人々は何かと、主から石版をもらったとか、大いなる現象を見て体験したとか、そういった事を誇りやすい。
しかし大切なのは、その石板に記されている中身であり、その内容を、自分達の生活ステージのただ中で実行する事である。
いかに牧師が奇跡を行ったり感動的なメッセージをしたとしても、集っていた人達が、その与えられた御言葉を自分の生活の場に持ち帰り、それを守り行わないとしたら、何の益も無いのだ。

『それゆえ、あなたがたはみずから深く慎まなければならない。ホレブで主が火の中からあなたがたに語られた日に、あなたがたはなんの形も見なかった。』(申命記4:15)
主はここで再度、主について「なんの形も見なかった」と繰り返している。
私達も、目に見えるものにではなく、目で見えない御言葉にこそ、目を留めるべきなのだ。
『わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。』(2コリント4:18)

そして主は、神といわれるものに関して、目に見える像を作る事を禁じている。(申命記4:16-19)
すなわち、自然界で目に見えるものは何でも、それが男であれ女であれ、動物であれ、天体であり、自分のためにそうした像を作って、それを拝んだりする事を禁じている。
『あなたはまた目を上げて天を望み、日、月、星すなわちすべて天の万象を見、誘惑されてそれを拝み、それに仕えてはならない。それらのものは、あなたの神、主が全天下の万民に分けられたものである。』(申命記4:16-19)

昔の人は、地球が全ての中心で、太陽や月、星々は地球の周りを回っていると思っていたが、実のところ、それら星々のほうが、地球よりもはるかに大きかったのだ。
宇宙は、私達の目(地球から観測できる光)の届く範囲だけでも、137億光年もの広さがあり、そのさらに先はもっともっと広大な宇宙が広がっていると言われている。

その広大な宇宙に点在している星々も、太陽も月も、なんと、「それらのものは、あなたの神、主が全天下の万民に分けられたものである。」
あの宇宙に浮かぶ巨大な星々は、このちっぽけな地球に住む万民に分け与えられたものなのだ!その事は、人の想像できる範囲を、遥かに超えている。
それ程に、主は、人の小さな頭では収まりきらないお方なのだ。
だから私達は、神に似せて何物も偶像(イメージ)を作ってはならない。
それはあまりにも愚かな事だ。

礼拝説教メッセージ音声:主の言葉に対して取るべき姿勢(申命記4:1-8):右クリックで保存

『イスラエルよ、いま、わたしがあなたがたに教える定めと、おきてとを「聞いて」、これを「行い」なさい。そうすれば、あなたがたは生きることができ、あなたがたの先祖の神、主が賜わる地にはいって、それを自分のものとすることができよう。』(申命記4:1)

主の御言葉を「聞いて」「行う」事、これはキリスト者がいつでも保つべき重要な姿勢である。
みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようである。(ヤコブ1:23)
御言葉を聞いて行うなら、その人は、その行いによって祝福され、主が与えて下さる「良き地」で長く生き、生涯、良きもので満たされるのだ。
『完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。』(ヤコブ1:25) と、記されている通りである。

また、御言葉の権威に対し、人がつけ加えたり、減らしたりしてはならない。
『わたしがあなたがたに命じる言葉に付け加えてはならない。また減らしてはならない。わたしが命じるあなたがたの神、主の命令を守ることのできるためである。』(申命記4:2)

黙示録にも、同じことが記されている。
『この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。』(黙示録22:18-19)
御言葉を聞いたなら、それをそのままいただく事、それが、御言葉に対する正しい対応である。
しかしパリサイ人は、純粋な御言葉に多くの人間的解釈という「混ぜ物」を加えた事によって、自分自身だけでなく、多くの人々も、がんじがらめにして神の国から遠ざけてしまった。

御言葉は、主の息吹(霊)が込められており、主のご性質そのものが現れている。
そして御言葉は、世が滅んでも決して滅びる事なく、永遠に残る、決して変わらぬ真実である。
それを人間ごときが、自分の好き勝手によって加えたり減らしたりはできない。
もし、人が「御言葉を超える真理を編み出した」と思っても、その人はやがて消えていくだけである。

主は何のために、イスラエルに定めとおきてとを与えられたか。
それは、イスラエルの民が、その生活ステージのただ中で、「守って」「行う」ためである。
『しかし、あなたがたの神、主につき従ったあなたがたは皆、きょう、生きながらえている。わたしはわたしの神、主が命じられたとおりに、定めと、おきてとを、あなたがたに教える。あなたがたがはいって、自分のものとする地において、そのように行うためである。あなたがたは、これを「守」って「行」わなければならない。これは、もろもろの民にあなたがたの知恵、また知識を示す事である。彼らは、このもろもろの定めを聞いて、『この大いなる国民は、まことに知恵あり、知識ある民である』と言うであろう。』(申命記4:4-6)

この、御言葉を「守る」事と「行う」事、これもキリスト者がいつも目を留めておくべき重要なキーワードである。
もし私達が、御言葉を守り、行うなら、主が力強き御手でもって働かれ、それを見た周囲の人々は驚き、主の栄光は大いに広がるのである。

『われわれの神、主は、われわれが呼び求める時、つねにわれわれに近くおられる。いずれの大いなる国民に、このように近くおる神があるであろうか。また、いずれの大いなる国民に、きょう、わたしがあなたがたの前に立てるこのすべての律法のような正しい定めと、おきてとがあるであろうか。』(申命記4:7-8)
主は、インマヌエルなるお方、すなわち、共におられる神。
私達が寝ている時も、起きている時も、家にいる時も、仕事場にいても、また、若い時も、年老いた時でも、主は、主を恐れ敬う聖徒といつも共におられる神である。
白髪頭になっても、主は私達をおぶって運んで下さる。(イザヤ46:4)
この主にあって、私達はまさに特権階級である。

地上においても、永遠においても、主にあって幸いと祝福を得ていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:断られてしまったモーセの願い(申命記3:23-29):右クリックで保存

モーセは、荒野放浪の最後の年に犯してしまったあのメリバでの過ちの故に、約束の地には入れないと宣告されていた。(民数記20章)
あれだけの実績を残したモーセが、なぜ、ただ一度の失敗の故に、約束の地に入れなくなってしまったのか。

それは、荒野で40年もイスラエルと共に歩んできた「岩なるキリスト」に、尊敬と信頼をもって「語りかけ」、水を出していただくべきだった所を、民を怒る怒りに身を任せ、御言葉を無視し、岩なるキリストを二度「打って」しまったからだ。
「打つ」のヘブル語「ナーカー」には、他にも「罰する」「殺す」などの意味がある。十字架上で一度打たれ罰されたキリストを、二度も打つような事は、いかにモーセのような実績を残した人と言えども、許されないのだ。
(詳細: http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=1649&cid=35

彼らが約束の地に近づくにつれ、主は次々と輝かしい勝利をイスラエルに与えて下さっている様を見たモーセは、ああ、やっぱり自分も約束の地に入りたい、と思ったのだろう。
彼は「どうぞ、わたしにヨルダンを渡って行かせ、その向こう側の良い地、あの良い山地、およびレバノンを見ることのできるようにしてください。」とお願いしてみたが、主の返事は、とてもつれなかった。

『おまえはもはや足りている。この事については、重ねてわたしに言ってはならない。おまえはピスガの頂に登り、目をあげて西、北、南、東を望み見よ。おまえはこのヨルダンを渡ることができないからである。しかし、おまえはヨシュアに命じ、彼を励まし、彼を強くせよ。彼はこの民に先立って渡って行き、彼らにおまえの見る地を継がせるであろう。』(申命記3:26-28)

私はかつて、この箇所を読んだ時、すごい切なさを覚えた。
それは、長い間ある事を主に願い求めて来たのに、主からは何の返事も無く、また与えられる兆候も無く、ただ延々と断られ続けているかのように感じていた時だった。
イスラエルを約束の地に入れようと、長い年月、多くの苦労をしながら、主のために働いて来たあのモーセが願ったのに、主がすげなく断ってしまう様を見て、やるせない気持ちになったものだが、後になって思い返すと、あの時の私は、モーセと自分を連ねるなど、全くもっておこがましく自分勝手な状態だった事に気づいた。

モーセの場合は、主が示された約束の地に入れなくて切ない思いをしている、というのに、あの時の私は、全く逆だった。
つまり私は、神の国の事よりも、世の幸いや栄えを求めていて、それが与えられないからと悲しんでいたのだ。

私はずっと主にあって世から守られ、神の国の中で主と共にいたというのに、そんな素晴らしい状態に気づかず、むしろ、世のスタンダードに従って生きようとし、世間的に「幸せ」とされている事が満たされるほうを、願い求めていたのだ。
それまで、自分はまっとうなクリスチャンとして歩み、主が約束された国を望み見て歩むヨシュアとカレブの側の生活をしていた、と、思っていたら、実は全く逆で、むしろ世(エジプト)をなつかしみ、荒野でマナしか無い事を「みじめだ」と言って嘆いている、あの、荒野で滅ぼされてしまったイスラエル人のパターンに陥っていたのだ。

私は今や、主にとても感謝している。
主が私に計画されていた事は、世間一般の人たちが得ている普通の楽しみより遥かにまさる者として召しだされ、人々を永遠のいのちへと導き救うようにと、永遠の栄光をもたらす務めに任じられており、御言葉という、決して変わらぬ愛の法則を伝える栄光にあずかっているのだから。
よくぞ主は、私を世の中に安住する事を留め、自分で思っても見なかった程の栄光と幸いを与えて下さった、と、本当に感謝している。

皆さんも、かつての私のように、神の国の事ではなく、世の栄えや世の楽しみが与えられない事で、切なくなっていないだろうか。
私達が目指し、近づいているのは、世の栄華よりはるかに優れた、天の故郷である。

『また、一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように、不品行な俗悪な者にならないようにしなさい。あなたがたの知っているように、彼はその後、祝福を受け継ごうと願ったけれども、捨てられてしまい、涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかったのである。・・・
しかしあなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者なる神、全うされた義人の霊、新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である。
あなたがたは、語っておられるかたを拒むことがないように、注意しなさい。もし地上で御旨を告げた者を拒んだ人々が、罰をのがれることができなかったなら、天から告げ示すかたを退けるわたしたちは、なおさらそうなるのではないか。』(ヘブル12:16-25)

礼拝説教メッセージ音声:戦いも報酬も共に受ける(申命記3:12-22):右クリックで保存

続いてモーセは、ヨルダン川の東側で既に獲得した土地の分与をする。
『その時われわれは、この地を獲た。そしてわたしはアルノン川のほとりのアロエルから始まる地と、ギレアデの山地の半ばと、その町々とは、ルベンびとと、ガドびととに与えた。わたしはまたギレアデの残りの地と、オグの国であったバシャンの全地とは、マナセの半部族に与えた。すなわちアルゴブの全地方である。(そのバシャンの全地はレパイムの国と唱えられる。』(申命記3:12-13)

民数記32章を見ると、ヨルダン川の東側の領土を下さい、と、モーセに願い出たのは、ルベン族とガド族からだった。
彼らの当初の願いは、「もし、あなたの恵みを得られますなら、どうぞこの地をしもべらの領地にして、われわれにヨルダンを渡らせないでください。」(民数記32:4)という、自己中心的なものだったが、モーセに咎められ、要望を変えた。
すなわち、自分達は相続地を先に受ける代わりに、他の部族が戦いに出る時は、一緒になって、それも、先頭に立って戦い、全部族が相続地を受ける時までは帰らない、と。(民数記32:16-19)

主からの幸いを、ある兄弟姉妹は先に、ある兄弟姉妹は後に与えられる事がある。
その時、先に与えられた兄弟姉妹は、そこに安住し、まだ与えられていない兄弟姉妹をないがしろにしてはならない。
ルベン・ガド族、マナセの半部族は、先に領地が与えられたが、モーセは、イスラエルの全部族が領地を勝ち取る時まで、彼らは共に戦わなくてはならない、と命じた。(申命記3:18-20)

これはキリスト者全員にも言える事である。
他の兄弟姉妹が皆、一致して信仰の戦いをしているのに、自分達が先に幸いを得たからと言って、戦いを降りて安住するのは、神の民のする事ではない。
なぜなら、主にある兄弟姉妹は皆、キリストの体の各器官であり、互いが互いを助け合い、いたわり合い、共に喜び、共に悲しみ、そうしてキリストにある「一つ」を実現するように、召されているからである。
『それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。』(1コリント12:25-27)
だから、もし他の兄弟姉妹より先に幸いを得たとするならば、まだ得ていない兄弟姉妹が得る時まで、一緒になって戦うべきである。

『マナセの子ヤイルは、アルゴブの全地方を取って、ゲシュルびとと、マアカびとの境にまで達し、自分の名にしたがって、バシャンをハボテ・ヤイルと名づけた。この名は今日にまでおよんでいる。)またわたしはマキルにはギレアデを与えた。』(申命記3:14-15)
民数記を見ると、当初、ヨルダン川の東側の領土を下さいとモーセに願い出たのは、ルベン族とガド族だけだったはずだが、途中からマナセの半部族も、それに加わっている。
もしかしたら、ルベン、ガドの申し出が通ったのを見て、「自分も」と進み出たのかもしれない。
しかも、マナセ族は積極的にエモリ人を攻撃し、勝ち得た土地に堂々と自分達の名をつけている。(民数記32:39-42)
このように、ある人が幸いを先取りして与えられたのを見て、信仰を奮い立たせ、積極的に進み出て大胆に勝ち取っていく兄弟姉妹もいるのだ。

またモーセは、次期イスラエルの指導者となるヨシュアに、特別に教えた。
『あなたの目はあなたがたの神、主がこのふたりの王に行われたすべてのことを見た。主はまたあなたが渡って行くもろもろの国にも、同じように行われるであろう。彼らを恐れてはならない。あなたがたの神、主があなたがたのために戦われるからである。』(申命記3:21-22)

ヨシュアは、主が戦われ、主が圧倒的に勝利を与えて下さるのを、モーセの近くでつぶさに見、神が活き活きと働かれるのを体験した。
そしてモーセ亡き後も、主は必ず同じように働かれ、共に戦って下さる、だから、恐れるな、とモーセは力づけた。

私達も、主からいただいた恵みを数えて見ると良い。
人生のあの時もこの時も、主があのように働いて下さった、だから今目の前に起きているこの問題も、必ず主と共に乗り越えて行ける、と、勇気が湧いてくるのだ。

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