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メッセージ - 申命記カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:御言葉はあなたの遠くには無く間近にある(申命記30:11-14):右クリックで保存

『わたしが、きょう、あなたに命じるこの戒めは、むずかしいものではなく、また遠いものでもない。』(申命記30:11)
モーセが命じた”戒め”は、「**しなさい」「**してはならない」という単純明快なもので、それは本来、守る・守らないの二つに一つしかないのに、御言葉をそのままいただくという事をしない人、自己主張が大好きな人は、パリサイ人や律法学者のように、単純明快な主の戒めに身勝手な解釈を付け足したり、あるいは差し引いたりして、複雑怪奇なものにしてしまい、神の国に入ろうとしないばかりか、入ろうとしている人の邪魔さえしている。(マタイ23章)
彼らは、「解釈」という隠れ蓑に隠れて、一見、御言葉を守っているかのように見えるが、実は、守っていなかったりするのである。

『パリサイ人とサドカイ人とが近寄ってきて、イエスを試み、天からのしるしを見せてもらいたいと言った。イエスは彼らに言われた、「あなたがたは夕方になると、『空がまっかだから、晴だ』と言い、また明け方には『空が曇ってまっかだから、きょうは荒れだ』と言う。あなたがたは空の模様を見分けることを知りながら、時のしるしを見分けることができないのか。邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう」。そして、イエスは彼らをあとに残して立ち去られた。』(マタイ16:1-4)

主が私達に何を求めておられるのかを知るために、また、神のみわざを見るために、なにも、天からのしるしを求める必要はない。
それらは、空模様の見分け方と同じである。
夕焼けが真っ赤であるなら、明日は晴れると容易に予想できるように、主イエスを信じるなら、あなたもあなたの家族も救われると、容易に予想できるはずだし、空が曇っているなら天気は荒れると予想できるように、与えない者や物惜しみする者には、押入れゆすり入れして与えられる恵みにはあずかれないと、容易に予想できるはずだ。
御言葉を実践する事は、大掛かりな、非日常的な、仰々しいものではなく、空模様の見分けと同じくらいに、日常的・身近なものなのだ。

むしろ、私達が主イエスに期待するべきしるしは、ヨナのしるし、すなわち、死と復活である。
つまり、「自己主張」や「身勝手」は、十字架の死へと渡して、キリストにあるいのちの祝福に息吹かれる事を求めるべきである。

『これは天にあるのではないから、『だれがわれわれのために天に上り、それをわれわれのところへ持ってきて、われわれに聞かせ、行わせるであろうか』と言うに及ばない。またこれは海のかなたにあるのではないから、『だれがわれわれのために海を渡って行き、それをわれわれのところへ携えてきて、われわれに聞かせ、行わせるであろうか』と言うに及ばない。』(申命記30:12-13)

神の御言葉を得るために、何も、海の彼方へと船を乗り出さなくても良いし、ロケットに乗って天に行く必要も無い。
なぜなら、神ご自身が人となって、天を押し曲げて降りて来て下さり、私達の身近に来て、御言葉を示して下さったからだ。
『言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。』(ヨハネ1:14)
肉として私達の間に宿って下さった、御言葉ご自身なるキリスト。
私達はこの御方にあって、神の栄光を見る事が出来るのだ。

『この言葉はあなたに、はなはだ近くあってあなたの口にあり、またあなたの心にあるから、あなたはこれを行うことができる。』(申命記30:14)
今やキリストにあって、神の言葉は石の板にではなく、私達の心に直接刻みつけられる。
『すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない。』(エレミヤ31:33-34)

だから私達は、御声を聞くために、大層な事をしでかす必要な無い。
いつも私達の内に生き、いつも共にいて下さるキリストに聞き、手元にある聖書にたずね、示された御言葉に従って行けば良いのである。

礼拝説教メッセージ音声:いつでも敗者復活のある恵み(申命記30:1-10):右クリックで保存

29章では、御声に聞き従わず、御言葉を守り行わない者達が受ける呪いが、示されていた。
物を手から放したら床に落ちるよに、そのような者が呪いを受けるのは、法則である。
そして同時に、御声に聞き従い御言葉を守り行う人には、幸いな祝福が与えられる事もまた法則である。
幸いな事に、一度不従順によって呪いに陥ってしまった人であっても、悔い改めて立ち返るなら、再び幸いが与えられるというのも、また、法則である。

『わたしがあなたがたの前に述べたこのもろもろの祝福と、のろいの事があなたに臨み、あなたがあなたの神、主に追いやられたもろもろの国民のなかでこの事を心に考えて、あなたもあなたの子供も共にあなたの神、主に立ち帰り、わたしが、きょう、命じるすべてのことにおいて、心をつくし、精神をつくして、主の声に聞き従うならば、あなたの神、主はあなたを再び栄えさせ、あなたをあわれみ、あなたの神、主はあなたを散らされた国々から再び集められるであろう。』(申命記30:1-3)
ひと度罪を犯し主に反逆したら、もう未来永劫赦されない、敗者復活は無し、というものではない。
主は、人がいかに御言葉に反逆しても、立ち返って悔い改めるなら、再び憐れんで下さり、御言葉を守り行う者としての祝福を返してくださるのだ。

『たといあなたが天のはてに追いやられても、あなたの神、主はそこからあなたを集め、そこからあなたを連れ帰られるであろう。あなたの神、主はあなたの先祖が所有した地にあなたを帰らせ、あなたはそれを所有するに至るであろう。主はまたあなたを栄えさせ、数を増して先祖たちよりも多くされるであろう。』(申命記30:4-5)
自分の罪の故に、どんなに遠く最果ての地に追いやられたとしても、また、どんなに時間が経っていたとしても、万軍の主が熱心をもって憐れみを成し遂げて下さる。(イザヤ37:22)
その事は、現在のイスラエルを見れば、主は本当にそうして下さるお方である事が理解できる。

現在存続しているイスラエルは、およそ2000年前、ローマ帝国に攻撃を受け、そこの人々は、世界各地に散り散りにされてしまい、イスラエルという国家は、事実上、消滅したはずなのに、なんと、およそ2000年の時を経て、再びその土地に、イスラエルという国が復活したのだ。
そのような驚くべき国は、未だかつて無かった。
まさに、永遠なる神、万軍の主ががおられ、熱心をもってその事を成し遂げた、としか、言いようが無い。
その事を為して下さった真実な神は、今まさに生きておられ、なんと、この私達に関わって下さり、イエスキリストを信じる信仰を通して、神の民としての幸いと祝福の人生へと導いて下さるとは、なんという幸い、なんという恵みだろうか。

『そしてあなたの神、主はあなたの心とあなたの子孫の心に割礼を施し、あなたをして、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主を愛させ、こうしてあなたに命を得させられるであろう。』(申命記30:6)
割礼とは、ユダヤ人のしるしとして生後8日目に男子の包皮の肉を削ぎ落とす事であるが、そのような肉体的な割礼よりも、むしろ心の割礼のほうが重要であり、それはユダヤ人だけでなく、現代を生きる私達にも必要な事である。
『というのは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。』(ローマ2:28-29)

私達には、心の割礼こそ必要である。
というのは、心に罪や肉の覆いがかかっているなら、神の国の事柄がさっぱり理解出来ないため、聖徒たちが交わりの中で、御言葉に感動し、喜びを分かち合っていても、何が面白いのか、何をそんなに感動しているのか、さっぱり分からず、一人だけ恵みに入れずに、置いてけぼりをくらってしまうからだ。
だから、御言葉が理解できないとするなら、また、神の国の事柄が分からないとするなら、心の覆いが取りのけられるよう、主キリストに求めるべきである。
主キリストこそ、私達に、心の割礼を施して下さるお方である。

『あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てたのである。あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。
あなたがたは、先には罪の中にあり、かつ肉の割礼がないままで死んでいた者であるが、神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった。神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。』(コロサイ2:11-15)

さて、イスラエルは確かに、奇跡的に国が再興しているが、以下のモーセの預言は、まだ完全に成就していない、と言える。
『あなたの神、主はまた、あなたを迫害する敵と、あなたを憎む者とに、このもろもろののろいをこうむらせられるであろう。しかし、あなたは再び主の声に聞き従い、わたしが、きょう、あなたに命じるすべての戒めを守るであろう。そうすればあなたの神、主はあなたのするすべてのことと、あなたの身から生れる者と、家畜の産むものと、地に産する物を豊かに与えて、あなたを栄えさせられるであろう。』(申命記30:7-8)

イスラエルは2014年現在、ここに記されている程に祝福されていないし、むしろ今、イスラエルを憎む国々に囲まれて危機的な状況にある。
それは、イエスをメシヤとして受け入れておらず、正当な信仰に立っていないからだ。
しかし、やがて、ここで示された預言が成就する時が来る。
『すなわち主はあなたの先祖たちを喜ばれたように再びあなたを喜んで、あなたを栄えさせられるであろう。これはあなたが、あなたの神、主の声に聞きしたがい、この律法の書にしるされた戒めと定めとを守り、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に帰するからである。』(申命記30:9-10)

イスラエルがかたくなにされているのは、異邦人の救いの成就する時まで、であり、そうして後、全てイエスを主とする人は、イスラエルも、全世界の民族も、皆、救われるのである。(ローマ11章)
イスラエルは今、かたくなな心の故に、呪いを受けているが、彼らは私達にとって、霊的に、長男の国である。
長男が好き勝手にいたずらした所を、親に打ち叩かれ、懲らしめを受け、それを弟達が見ていて恐れおののき、正しく歩み、懲らしめを免れているかのように、イスラエルのかたくなさの故に、私達異邦人は、彼らにあって恩恵に預かっているのだ。
だから私達は、イスラエルが一日も早く、かたくなさを捨て去り、救われるよう執り成し祈るべきである。

礼拝説教メッセージ音声:御言葉を理解した事で生じる責任(申命記29:22-29):右クリックで保存

『後の代の人、すなわちあなたがたののちに起るあなたがたの子孫および遠い国から来る外国人は、この地の災を見、主がこの地にくだされた病気を見て言うであろう。・・・すなわち、もろもろの国民は言うであろう、「なぜ、主はこの地にこのようなことをされたのか。この激しい大いなる怒りは何ゆえか。」』(申命記29:22-24)
神の民であるなら、アブラハムの子孫であるなら、教会に通っているクリスチャンであるなら、もうそれで安心で、一切災いに遭わないかと思ったら、大間違いである。
既に何度も聞かされている通り、主の御声に聞き従わず、御言葉を守り行わないなら、呪われ、災いが下されてしまうからだ。
そして、神の民に下される災いの有り様は、あまりにも非道いので、人々はそれを見て語り合う。

『彼らはその先祖の神、主がエジプトの国から彼らを導き出して彼らと結ばれた契約をすて、行って彼らの知らない、また授からない、ほかの神々に仕えて、それを拝んだからである。それゆえ主はこの地にむかって怒りを発し、この書物にしるされたもろもろののろいをこれにくだし、そして主は怒りと、はげしい怒りと大いなる憤りとをもって彼らをこの地から抜き取って、ほかの国に投げやられた。今日見るとおりである。』(申命記29:25-28)

実際、イエス様を十字架につけたすぐ後、イスラエルはローマ帝国に包囲され、最終的には極度の食料不足の故に凄惨を極め、ローマが進入した際には、イスラエルのあまりの惨状を見て、イスラエルには確かに神がおられる事を実感したそうである。
「主の御声に聞き従わず、御言葉を守り行わないなら、呪われ、災いが下されてしまう」という法則は、万民も容易に理解できるシンプルな法則であり、まことの神を捨てる事が、どれ程罪深く、災いな事であるかを、神を知らない異国人でも実感するのだ。

イエス様も、同じ事を言っている。
『それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。』(マタイ7:24-27)
イエス様の御言葉を聞いておきながら、それを守り行わない人は、やがて倒れるが、それは、ただの倒れ方ではない。ひどい倒れ方なのだ。
『なぜなら、神には、かたより見ることがないからである。そのわけは、律法なしに罪を犯した者は、また律法なしに滅び、律法のもとで罪を犯した者は、律法によってさばかれる。なぜなら、律法を聞く者が、神の前に義なるものではなく、律法を行う者が、義とされるからである。』(ローマ 2:11)

御言葉が与えられた民であるからこそ、御言葉を与えられていない民よりも、非道い災いに遭う事がある、というのは、確かだ。
なぜなら、せっかくいのちを与える尊い御言葉が与えられたのに、それをないがしろにし、守り行わないからである。
『隠れた事はわれわれの神、主に属するものである。しかし表わされたことは長くわれわれとわれわれの子孫に属し、われわれにこの律法のすべての言葉を行わせるのである。』(申命記29:29)
ある人にとって、御言葉のある部分が覆い隠されていて分からないのであるなら、それは主のものであり、その部分についての責任は生じない。
しかし、その部分がその人に光当てられ、あらわにされ、その人が理解したからには、それはその人に属するものであり、それを守り行うか、行わないかという責任が発生する。
そしてそれを守り行うなら、他の人には味わえない素晴らしい祝福があるが、守り行わないなら、他の人よりも深刻な状況に陥るのである。

御言葉を聞いて、理解したからには、それに従うか、従わないかという、二者択一の責任が生じ、聞いておきながらそれを守り行わない人に降りかかって来る災いは、大勢で助走つきで飛び込んで来るような、大々的なものであり、御言葉を知らない人に下される災いに比べて、その酷さや深刻さの度合いは、はるかに違う。
しかし、御言葉に聞き従い、それを守り行う人に与えられる幸いもまた、大勢で助走つきで飛び込んで来るような、大々的なものであり、御言葉を知らない人に与えられる幸いよりも、質においても量においても永続する面においても、はるかに大きいのである。

礼拝説教メッセージ音声:主を恐れない者への裁き(申命記29:19-21):右クリックで保存

主の御声に逆らう人は大抵、「自分は大丈夫だ」という、根拠不明の自信があり、自分で自分を祝福し、自分の道を行くのだが、主は、そのような者がどんなに栄えていようと、あるいは元々貧しかろうと、同じように滅ぼされる。

『そのような人はこの誓いの言葉を聞いても、心に自分を祝福して『心をかたくなにして歩んでもわたしには平安がある』と言うであろう。そうすれば潤った者も、かわいた者もひとしく滅びるであろう。』(申命記29:19)
この19節は、訳が分かれる所である。
潤った者も、渇いた者も、ひとしく滅びるのなら、自分は心のままに歩んでも大丈夫だ、というい風にも訳す事は出来るが、いずれにしても、そのような考え方の持ち主を、主は等しく滅ぼされる事には変わりはない。
御言葉を聞いても退けて、自分の道を行こうと自分を祝福するような者も、御言葉の堅苦しい所やのろいの所ばかりを見て、どのみち自分には滅びしか待っていないのだったら自分の好きに生きよう、と言うような者も、等しく、申命記28章で示されている呪いの明細が、待っている。

『主はそのような人をゆるすことを好まれない。かえって主はその人に怒りとねたみを発し、この書物にしるされたすべてののろいを彼の上に加え、主はついにその人の名を天の下から消し去られるであろう。主はイスラエルのすべての部族のうちからその人を区別して災をくだし、この律法の書にしるされた契約の中のもろもろののろいのようにされるであろう。』(申命記29:20-21)
バプテスマのヨハネも、当時の地位の高い宗教指導者に、躊躇なく言い放った。まむしの子らよ、悔い改めにふさわしい実を結べ、と。
外見や言っている事がいかに立派に見えても、悔い改めにふさわしい”実”を結んでいないなら、切り倒す斧は、木の根元に置かれている。良い実を結ばない木は、ことごとく切られて、火の中に投げ込まれてしまうのだ。

『あなたがたは言った、「神に仕える事はつまらない。われわれがその命令を守り、かつ万軍の主の前に、悲しんで歩いたからといって、なんの益があるか。今われわれは高ぶる者を、祝福された者と思う。悪を行う者は栄えるばかりでなく、神を試みても罰せられない。」』(マラキ3:14-15)
主を恐れない者は大体、そのように豪語をする。

『そのとき、主を恐れる者は互に語った。主は耳を傾けてこれを聞かれた。そして主を恐れる者、およびその名を心に留めている者のために、主の前に一つの覚え書がしるされた。「万軍の主は言われる、彼らはわたしが手を下して事を行う日に、わたしの者となり、わたしの宝となる。また人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。その時あなたがたは、再び義人と悪人、神に仕える者と、仕えない者との区別を知るようになる。』(マラキ3:16-19)
主は、主を恐れない者の豪語も、主を恐れている人の言葉も、等しく聞いておられ、それら全てを、主の前の覚え書き(韓国語:主の記念の書)に記しておられ、それぞれ御言葉に応じて、報われる。

主に逆らう者に対して、真実と光で返す聖徒には、主は次の報いをして下さる。
『万軍の主は言われる、彼らはわたしが手を下して事を行う日に、わたしの者となり、わたしの宝となる。また人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。』(マラキ3:17)
そうして主は、救いの器と滅びの器とを、区別されるのだ。(同19節)

裁きは、神の国から始まる。
彼らの中から、御蔵に納められる麦と、火で焼かれる毒麦とを選り分けられるが、成長し切る時までは、伸びるがままにされるのだ。

私達は、神に召しだされた者、聖徒として歩み、そのような者から離れるべきである。
『不品行といろいろな汚れや貪欲などを、聖徒にふさわしく、あなたがたの間では、口にすることさえしてはならない。また、卑しい言葉と愚かな話やみだらな冗談を避けなさい。・・・すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない。あなたがたは、だれにも不誠実な言葉でだまされてはいけない。これらのことから、神の怒りは不従順の子らに下るのである。だから、彼らの仲間になってはいけない。・・・
実を結ばないやみのわざに加わらないで、むしろ、それを指摘してやりなさい。彼らが隠れて行っていることは、口にするだけでも恥ずかしい事である。しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。明らかにされたものは皆、光となるのである。だから、こう書いてある、/「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照すであろう」。』(エペソ5:3-14)

礼拝説教メッセージ音声:契約の民は、誰で、どんな人か(申命記29:10-18):右クリックで保存

イスラエルの民は、これから主と契約を結ぼうとしているが、具体的に誰と契約するのかが明確化されている。
『あなたがたは皆、きょう、あなたがたの神、主の前に立っている。すなわちあなたがたの部族のかしらたち、長老たち、つかさたちなど、イスラエルのすべての人々、あなたがたの小さい者たちも、妻たちも、宿営のうちに寄留している他国人も、あなたのために、たきぎを割る者も、水をくむ者も、みな主の前に立って、あなたの神、主が、きょう、あなたと結ばれるあなたの神、主の契約と誓いとに、はいろうとしている。・・・
わたしはただあなたがたとだけ、この契約と誓いとを結ぶのではない。きょう、ここで、われわれの神、主の前にわれわれと共に立っている者ならびに、きょう、ここにわれわれと共にいない者とも結ぶのである。』(申命記29:10-15)

主と契約を結ぶ人、それは、神の民であるイスラエル部族で、上は部族の長から、下は薪拾いや水汲みに至るまで、あらゆる人種、あらゆる身分の人の全部と、そればかりでなく、あの時あの場にいなかった人も、この契約の対象者として、含まれているのだ。
遊女ラハブやルツは、あの時代あの場に立ち会っていなかったのに、イスラエルの神、主の翼の陰に救いを求める事の、信仰告白によって、神の民の交わりに入って来て、あたかも、あの契約をあの場で結んだかのような恩恵にあずかった。
それと同様に、現代を生きる私達も、キリスト・イエスを信じる信仰によって、救いの契約へと入る事ができるのである。

『これは主がさきにあなたに約束されたように、またあなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓われたように、きょう、あなたを立てて自分の民とし、またみずからあなたの神となられるためである。』(申命記29:13)
主の救いの契約に入ると、人は神と共に住む特権にあずかり、神自らが、その人の神となって下さる。
創世の当初、人は元々そうであったが、人が御言葉に反し、神から離れてしまったために、その特権にあずかれなくなってしまった。
神と人とが共に住み、人は神の民となる。それは、黙示録21章でも示されている、人が本来あるべき姿であり、人が戻るべき究極の目標でもある。

神との契約関係において、最先に禁じられている事は、まことの神以外のものを、神としてしまう事である。
『われわれがどのようにエジプトの国に住んでいたか、どのように国々の民の中を通ってきたか、それはあなたがたが知っている。またあなたがたは木や石や銀や金で造った憎むべき物と偶像とが、彼らのうちにあるのを見た。』(申命記29:16-17)

イスラエルの民は、エジプトの中に住んでいた時も、またそこから脱出して約束の地へ向かう途中でも、異国の偶像を見てきたが、それを慕い求めてはならないと命じられている。
この国にも、そのような偶像は神社仏閣などにあるが、私達が気をつけるべき”偶像”は、そうした類のものばかりでない。
私達が注意すべき”偶像”は、より多くを持とうとする所有欲であり、また、この肢体に宿っている汚れた肉欲、すなわち不品行、汚れ、情欲、悪欲の類である。
『だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのために、神の怒りが下るのである。』(コロサイ3:5-6)

ソロモンは、主から与えられた素晴らしい知恵や地位、富では満足せず、酒に酔う事や、快楽、愚かさをも所有しようとしてしまった。(伝道者の書1-2章)
彼は、その貪欲にどっぷりとはまってしまい、実際の偶像礼拝者になってしまい(1列王記11章)、何もかもが虚しくなってしまったばかりでなく、自分が治めている国や、自分の子孫たちにも、大きな災いを相続させてしまった。
いかに人類最もIQが高いソロモンと言えども、貪欲に妥協してそれを追求してしまったら、その誘惑に勝つことは出来なかった。とするなら、ましてや、私達などが貪欲を追求したりするら、勝てるわけが無いのだ。
だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲は、私達の内に生かして置く事なく、殺してしまうに限る。

『あなたがたも、以前これらのうちに日を過ごしていた時には、これらのことをして歩いていた。しかし今は、これらいっさいのことを捨て、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまいなさい。互にうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである。』(コロサイ3:7-11)

イスラエルの民が偶像を投げ捨てたように、私達は、キリストを知る以前に夢中になっていた世の事、肉欲、怒りや憤り、口から出る恥ずべき言葉の類を、投げ捨てるべきである。
古き肉にまみれた自分自身は、キリストと共に十字架の死へと明け渡し、キリストにあって新しく造られた者として歩むのである。
キリストにあっては、人種差別も、身分差別も、一切無い。ただキリストこそ、全てである。

『それゆえ、あなたがたのうちに、きょう、その心にわれわれの神、主を離れてそれらの国民の神々に行って仕える男や女、氏族や部族があってはならない。またあなたがたのうちに、毒草や、にがよもぎを生ずる根があってはならない。』(申命記29:18)
雑草は、根こそぎ取り除かないなら、再び茂って来てしまうように、主から離れた罪の苦い根も、根こそぎ取り扱わないと、やがて茂って、そえrは多くの聖徒を汚してしまう。
だから私達は、聖徒の交わりを清く保つために、日々互いに励まし合って、清くなる事を求め、互いに教え戒め合うべきである。

『自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。また、一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように、不品行な俗悪な者にならないようにしなさい。あなたがたの知っているように、彼はその後、祝福を受け継ごうと願ったけれども、捨てられてしまい、涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかったのである。』(ヘブル12:14-17)
聖徒の交わりは確かに楽しく麗しいものである。しかし同時に、そこには互いに戒めあう事が無ければ、その楽しい交わりは、たちまち苦くなってしまう。
私達の内には、一杯の食物で長男の権利を売り渡したエサウのような、銀貨30枚でイエス様を売り渡してしまったような、俗悪な者を好き放題させてはならない。
そのような性質が出ないよう、日々互いに励まし合って、交わりを清く保つ皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:妙なる主の御業を思い起こせ(申命記29:1-9):右クリックで保存

出エジプトしたばかりの頃に、ホレブ山で交わされた契約からもう40年が経ち、イスラエルの民がすぐにでも約束の地に入ろうとしている時、そして、モーセの死が間近に迫った時に、主はモーセに命じて、モアブの野で再度契約を交わされた。
『これは主がモーセに命じて、モアブの地でイスラエルの人々と結ばせられた契約の言葉であって、ホレブで彼らと結ばれた契約のほかのものである。』(申命記29:1)
その内容は、それまで教えられて来た事に従順するように、という命令と、また、不従順を犯した場合、どのような罰が待っているかが強調されており、それまでの命令の確認的な内容となっている。

『モーセはイスラエルのすべての人を呼び集めて言った、「あなたがたは主がエジプトの地で、パロと、そのすべての家来と、その全地とにせられたすべての事をまのあたり見た。すなわちその大きな試みと、しるしと、大きな不思議とをまのあたり見たのである。しかし、今日まで主はあなたがたの心に悟らせず、目に見させず、耳に聞かせられなかった。』(申命記29:2-4)
イスラエルの民は、荒野で40年間、主からの多くの奇跡としるしを見て来たが、彼らは悟る所が無かった。

神は人に、神に聞き従う祝福の道を示しても、それを人が退け、敢えて自分の進みたい道から頑なに離れない人は、その、頑なな心のままに捨て置かれる。
神は人に、神に逆らう自由を与えられ、しかも、神の御子を殺す自由さえも与える程に、人の自由意志を尊重された。
そして、敢えて神に逆らう事を止めないような人には、永遠の滅び、すなわち、永遠に火で苦しめられる裁きが待っている。

私達も、イスラエルの民と同じように、主の妙なる業を見ている。それは人体や宇宙など、全ての被造物によって、である。
『神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである。』(ローマ1:20-23)

無神論者は、神の永遠の力と神性の宿るこの被造物を見ておきながら、神がおられる事を無視し、あるいは意図的に認めようとはしない。
なぜなら、彼らにとって、全能なる神がいてもらっては、色々と不都合だからである。
つまり彼らは、自分の罪深さを、弱さを、義なる神の御前にはとうてい立てない事を、永遠の刑罰がある事を、無意識的に認めており、そのような事を否定したいからだ。

しかしそのように、敢えて神を認めず、ないがしろにして、自分の好き勝手をしていると、神は彼らを頑なな心ままに、滅びるにまかせ、汚れから汚れへと堕ちて行くに任せられる。
『ゆえに、神は、彼らが心の欲情にかられ、自分のからだを互にはずかしめて、汚すままに任せられた。』(ローマ1:24) と記されている通りである。

モーセはイスラエルの民に、再び、神が荒野でなされた御業を思い起こさせている。
『わたしは四十年の間、あなたがたを導いて荒野を通らせたが、あなたがたの身につけた着物は古びず、足のくつは古びなかった。あなたがたはまたパンも食べず、ぶどう酒も濃い酒も飲まなかった。こうしてあなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であることを知るに至った。』(申命記29:5-6)
イスラエルの民がこの40年、毎日、飲み食いして来たマナや水について思い起こさせ、それらは100%主から与えられたものである事を認めさせている。
また、今自分自身が着ている服やくつについても、それらが40年も古びずにいる事は、主の御業に他ならない事を認めさせている。

『あなたがたがこの所にきたとき、ヘシボンの王シホンと、バシャンの王オグがわれわれを迎えて戦ったが、われわれは彼らを撃ち敗って、その地を取り、これをルベンびとと、ガドびとと、マナセびとの半ばとに、嗣業として与えた。』(申命記29:7-8)
最近彼らが戦った戦争についても、主がいかに奇跡的に勝利させて下さったかをモーセは思い起こさせている。

そして、次のように結論づけている。
『それゆえ、あなたがたはこの契約の言葉を守って、それを行わなければならない。そうすればあなたがたのするすべての事は栄えるであろう。』(申命記29:9)
これはもう、何度も聞かされて来た内容だが、結局、主の御言葉を守り行う事こそ、私達にとって全てである。

礼拝説教メッセージ音声:病と恐怖にまといつかれ、追いかけられる人(申命記28:58-68):右クリックで保存

主の御言葉を守り行わない者への呪いの明細は、さらに続く。

『もしあなたが、この書物にしるされているこの律法のすべての言葉を守り行わず、あなたの神、主というこの栄えある恐るべき名を恐れないならば、主はあなたとその子孫の上に激しい災を下されるであろう。その災はきびしく、かつ久しく、その病気は重く、かつ久しいであろう。主はまた、あなたが恐れた病気、すなわちエジプトのもろもろの病気を再び臨ませて、あなたの身につかせられるであろう。』(申命記28:58-60)
神であられる主の御名は、恐れ敬うべき栄光の御名である。
そのお方を軽んじ、その御言葉を守り行わない者にまとわりつくのろいは、厳しく、長く継続するものであり、病も、しつこくまとわりついて、中々癒やされない。
主を軽んじる者には、のろいと病にしつこくまとわりつかれ、追いかけられるが、主を羊飼いとする人には、恵みといつくしみにまとわりつかれ、追いかけられる。(詩篇23編)

『またこの律法の書にのせてないもろもろの病気と、もろもろの災とを、主はあなたが滅びるまで、あなたの上に下されるであろう。あなたがたは天の星のように多かったが、あなたの神、主の声に聞き従わなかったから、残る者が少なくなるであろう。』(申命記28:61-62)
主の御声に聞き従わない者は、聖書に載っていない病、当時は存在しなかった新しい病にも打たれる事が、ここで預言されている。
実際、現代は、100年前には存在しなかったような恐ろしい不治の病が次々と出現し、たとえ特効薬を開発しても、それが効かない別の病気やウイルスなどが次々と現れている。
主の御声に聞き従い、御言葉を守り行う事にまさる”医療”は無い。それは、どんな金銀をつぎ込んで最先端の医療を受けるよりも、優れている。

『さきに主があなたがたを良くあしらい、あなたがたを多くするのを喜ばれたように、主は今あなたがたを滅ぼし絶やすのを喜ばれるであろう。あなたがたは、はいって取る地から抜き去られるであろう。』(申命記28:63)
しかし、主は元々、罪人の死を望まない。
一人の罪人が悔い改めて立ち返るなら、立ち返る必要の無い99人にまさる大きな喜びが、天で沸き起こる。

『シオンの娘よ、喜び歌え。イスラエルよ、喜び呼ばわれ。エルサレムの娘よ、心のかぎり喜び楽しめ。主はあなたを訴える者を取り去り、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王なる主はあなたのうちにいます。あなたはもはや災を恐れることはない。
その日、人々はエルサレムに向かって言う、「シオンよ、恐れるな。あなたの手を弱々しくたれるな。あなたの神、主はあなたのうちにいまし、勇士であって、勝利を与えられる。彼はあなたのために喜び楽しみ、その愛によってあなたを新にし、祭の日のようにあなたのために喜び呼ばわられる」。』(ゼパニヤ3:14-17)
ゼパニヤ書のこの慰めに満ちた御言葉は、誰にでも与えられるものではない。
ゼパニヤ1−2章の懲らしめをしっかり受け、自分の不従順を悔い改めた者にのみ与えられるものである。
だから、私達も悔い改めなくては、主は私達にとって救いの勇士となっては下さらないし、私達が罪を洗い清めなければ、主が私達を喜ばれる事も無い。

主は、悔い改めて立ち返る人を慰め、災いの宣告を取りのけられるが、そうでない者は、いつも、絶え間なく、災いに怯える。
『その国々の民のうちであなたは安きを得ず、また足の裏を休める所も得られないであろう。主はその所で、あなたの心をおののかせ、目を衰えさせ、精神を打ちしおれさせられるであろう。あなたの命は細い糸にかかっているようになり、夜昼恐れおののいて、その命もおぼつかなく思うであろう。あなたが心にいだく恐れと、目に見るものによって、朝には『ああ夕であればよいのに』と言い、夕には『ああ朝であればよいのに』と言うであろう。』(申命記28:65-67)
このように、いつも自分の主張ばかりして、御言葉を全然聞こうとしない人は、いつも、いわれのない恐怖に怯え、身も心も病んでいく。
御声に聞き従わない者は、諸々の病を患う他、情緒不安定になり、視力も、見識も悪くなり、自分が嫌いな人が栄えてその者に支配されるようになり、いつも訳も分からない漠然とした恐怖に支配され、追われてもないのに逃げるようになる。(レビ記26:16-17)

また、全ての事に対して、とんちんかんとなるため、仕事の人材としては全然使いものにならなくなり、誰も雇ってくれず、仕事も無くなるので、自らを二束三文で身売りするのに、誰も雇ってくれなくなる。
『主はあなたを舟に乗せ、かつてわたしがあなたに告げて、『あなたは再びこれを見ることはない』と言った道によって、あなたをエジプトへ連れもどされるであろう。あなたがたはそこで男女の奴隷として敵に売られるが、だれも買う者はないであろう」。』(申命記28:68)

その人は、主にある聖徒の交わり(イスラエル)の中で、いつも世迷い事ばかり言うので聖徒からは相手にしてもらえず、世(エジプト)に降って行っても、誰も見向きもされない。
このような、御言葉の知識が多少あるのに従順しない中途半端なクリスチャンは、聖徒の交わりから厭われ、無視され、社会においても全然使い物にならず、誰からも相手にされないまま、独り消えていくのだ。

そこから抜け出し、祝福に戻るコツは、もう何度も言われている通りである。『もしあなたが、あなたの神、主の声によく聞き従い、わたしが、きょう、命じるすべての戒めを守り行うならば、あなたの神、主はあなたを地のもろもろの国民の上に立たせられるであろう。』(申命記28:1)
主の御声によく聞き従い、主の御言葉を守り行う事によって、すみやかに災いから離れ、祝福に入る皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:親が子の肉を食う程の食糧難(申命記28:49-57):右クリックで保存

それでも主の御声に聞き従わず、頑なに自分のやりたい事、自分の行きたい道を貫こうとする者には、さらに激しいのろいが示されている。
『主は、遠く地の果てから、わしが飛びかかるように、一つの国民にあなたを襲わせる。その話すことばがあなたにはわからない国民である。その国民は横柄で、老人を顧みず、幼い者をあわれまず、あなたの家畜の産むものや、地の産物を食い尽くし、ついには、あなたを根絶やしにする。彼らは、穀物も、新しいぶどう酒も、油も、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も、あなたには少しも残さず、ついに、あなたを滅ぼしてしまう。』(申命記28:49-51)
この事は、イスラエルの歴史で実際に起こった。
ずっと後の時代、北イスラエル王国はアッシリアに、南ユダ王国はバビロン王国に攻め落とされ、散らされ、鉄の枷に繋がれて、連れて行かれた。

『その民は全国ですべての町を攻め囲み、ついにあなたが頼みとする、堅固な高い石がきをことごとく撃ちくずし、あなたの神、主が賜わった国のうちのすべての町々を攻め囲むであろう。あなたは敵に囲まれ、激しく攻めなやまされて、ついにあなたの神、主が賜わったあなたの身から生れた者、むすこ、娘の肉を食べるに至るであろう。』(申命記28:52-53)
これ程の深刻な食糧難は、預言者エリシャの時代のサマリヤに、バビロン捕囚前後のイスラエルに、そして、イエス様を十字架につけた直後のイスラエルにおいて実際に起こった。
その時の人々の霊的状況や、主に対する態度はどのようであったのか、2列王記6−7章から知ることが出来る。

『この後スリヤの王ベネハダデはその全軍を集め、上ってきてサマリヤを攻め囲んだので、サマリヤに激しいききんが起った。すなわち彼らがこれを攻め囲んだので、ついに、ろばの頭一つが銀八十シケルで売られ、はとのふん一カブの四分の一が銀五シケルで売られるようになった。』(2列王記6:24-25)
銀一シケルは、日当の3〜4倍相当であるから、食料価格のとてつもない暴騰である。

そのような時、ある女が王に訴えをした。
『「この女はわたしにむかって『あなたの子をください。わたしたちは、きょうそれを食べ、あす、わたしの子を食べましょう』と言いました。それでわたしたちは、まずわたしの子を煮て食べましたが、次の日わたしが彼女にむかって『あなたの子をください。わたしたちはそれを食べましょう』と言いますと、彼女はその子を隠しました」。』(同28-29節)
まさに、次の御言葉の、文字通りの成就である。
『あなたがたのうちのやさしい、柔和な女、すなわち柔和で、やさしく、足の裏を土に付けようともしない者でも、自分のふところの夫や、むすこ、娘にもかくして、自分の足の間からでる後産や、自分の産む子をひそかに食べるであろう。敵があなたの町々を囲み、激しく攻めなやまして、すべての物が欠乏するからである。』(申命記28:56-57)

この女の王への訴えとしては、約束した通り行使しなかったのだから、当初の約束の通りに、相手の女の子供を食わせて欲しい、という事であろうが、内容が内容である。
このような常軌を逸した内容を、それも、恥も外聞も無しに、大勢の前で、城壁を歩いている王に向かって大声で訴えている。
もはや、人間性のかけらもない状態である。

『王はその女の言葉を聞いて、衣を裂き、――王は城壁の上をとおっていたが、民が見ると、その身に荒布を着けていた―― そして王は言った「きょう、シャパテの子エリシャの首がその肩の上にすわっているならば、神がどんなにでもわたしを罰してくださるように」。』(同30-31節)
彼は荒布を着けていて、外見上は、あたかも悔い改めて身を慎んでいるかのように見えるが、この王の言葉は、注目に値する。
その言っている事は外面の装いとは真逆で、神の遣わされた預言者エリシャは殺すべし、と言っているのだ。
御言葉に照らすなら、自分の衣を裂くより、むしろ、自分達が神の御言葉に背いた事を悔い、臣下にこのような不幸を招いてしまった事を、心を裂いて悔い改めるべきなのに、それをせず、むしろ、災いを預言した預言者が悪い、あんな預言をするから、この国にこんな悲惨が起きただ、だから殺してやる、という考えなのだ。

また、王の使者もエリシャに言っている。
「この災は主から出たのです。わたしはどうしてこの上、主を待たなければならないでしょうか。」(同33節)
自分達は主に幸いを期待していたのに、でも来たのは、こんなにも非道い災いだ、一体主に、何を期待できようか、という考えなのだ。

思い出して欲しい。祝福が与えられるためには条件があり、順序があった事を。
主から幸いが与えられるためには、順序として、まず人の側がしなければならない事がある。すなわち、主の御声によく聞き従い、主の全ての命令を守り行なう、という”条件”を、人の側が満たしたなら、主はその人に幸いを与えられる。(申命記28:1)
しかし、主の御声に聞き従わず、主の全ての命令とおきてを守り行う事をいつまでも保留し、行なわないのであれば、申命記28章15節以降に記されている全ての呪いが臨む、と、モーセは既に何百年も前から条件開示している。(同15節)

『エリシャは言った、「主の言葉を聞きなさい。主はこう仰せられる、『あすの今ごろサマリヤの門で、麦粉一セアを一シケルで売り、大麦二セアを一シケルで売るようになるであろう』」。時にひとりの副官すなわち王がその人の手によりかかっていた者が神の人に答えて言った、「たとい主が天に窓を開かれても、そんな事がありえましょうか」。エリシャは言った、「あなたは自分の目をもってそれを見るであろう。しかしそれを食べることはなかろう」。』(2列王記7:1-2)
王の副官もまた、「主はそんな事はなさらない」と”不信仰告白”をしている。
そのような主に期待しない心の持ち主は、主が顧みて下さり恵んで下さる”わざ”は目にしても、それを享受する事は出来ないのである。

この時代のサマリヤは、預言者に示された主の御声に聞き従わず、かえって預言者を殺そうとするような霊的状態だったからこそ、親が子の肉を食べるまでの食糧難に陥ってしまった。
バビロン捕囚直前のイスラエルも、預言者エレミヤに示された主の御声に聞き従わず、その手紙を破って火にくべ、預言者を迫害したからこそ、そこまでの食糧難に陥った。
そしてイエス様の時代、神が御子キリストを直接使わして、御国の福音を語ったにもかかわらず、人々は悔い改めるどころか、逆に御子を退け、外に追い出し、十字架につけて殺してしまった。
だからこそローマ帝国に攻められ、イスラエルは、城壁も神殿も石が一つも積み上がっていない程にまで崩され、マサダの要塞に立て籠もったユダヤ人達は、深刻な食糧難の末に、壮絶な最後を遂げた。

いずれの時も、御言葉への不従順を繰り返し、主から遣わされた預言者の言葉を拒否し、迫害したり、殺したりしたからこそ、このような悲惨な事態に陥ったのだ。
私達もそうならないためには、主への不従順は速やかに捨て、頑なさを捨て去るべきである!
御言葉によって悔い改めが促されたら、すぐにでも自分を下ろし、悔い改め、御言葉に従順し、速やかに幸いを得る皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:「働けど働けどわが暮らし楽にならざり」に陥る人(申命記28:36-48):右クリックで保存

御声に聞き従わず、御言葉を守り行わない者が受けるべき「のろい」の数々が示されているが、それらを受けても、なお自分の道を曲げず、主に立ち返らない人へののろいは、さらにひどくなって行く。

『主はあなたとあなたが立てた王とを携えて、あなたもあなたの先祖も知らない国に移されるであろう。あなたはそこで木や石で造ったほかの神々に仕えるであろう。あなたは主があなたを追いやられるもろもろの民のなかで驚きとなり、ことわざとなり、笑い草となるであろう。』(申命記28:36-37)
こののろいは、何百年も後に現実のものとなってしまった。有名なバビロン捕囚である。
詩篇137篇は、一人のユダヤ人が、バビロンで余興のネタにされ、笑い草にされている様が、示されている。
モーセは、もし主の民が、主の御声に聞き従わない事を続けているなら、このようになってしまう事を、何百年も前から警告していたのに、人々はきっと、それらの御言葉を、何か大げさなおどしだとか、誰かが気まぐれに書いたものだとか、思っていたのかもしれない。実際、聖書をそのように評価している人は、いる。
しかし、そのように御言葉を軽んじている人には、実際に、これらののろいが振りかかってしまうのだ。

『あなたが多くの種を畑に携えて出ても、その収穫は少ないであろう。いなごがそれを食いつくすからである。あなたがぶどう畑を作り、それにつちかっても、そのぶどう酒を飲むことができず、その実を集めることもないであろう。虫がそれを食べるからである。あなたの国にはあまねくオリブの木があるであろう。しかし、あなたはその油を身に塗ることができないであろう。その実がみな落ちてしまうからである。
むすこや、娘があなたに生れても、あなたのものにならないであろう。彼らは捕えられて行くからである。あなたのもろもろの木、および地の産物は、いなごが取って食べるであろう。』(申命記28:38-42)

御声を無視し御言葉に反する人は、ますます収入が少なくなる。なぜなら、彼らが稼いだ労役の実は、全て、虫や他人に持って行かれてしまったり、立ち消えしてしまうからだ。
まさに、「働けど働けど、わが暮らし楽にならざり」状態である。

ちなみに、「働けど働けど、わが暮らし楽にならざり」の歌を作った石川啄木は、曹洞宗住職の家の生まれである。
働いても一向に暮らしは楽にならず、お金を借りる事はあっても、貸す事は無く、病弱で、早死にし、子を産んでも三代続かずに家が絶えてしまった彼の家は、残念ながら、偶像礼拝をしている人はこのようになる、という聖書の法則が、まさしく実体化してしまった形だ。
多くの日本人は、彼のこの歌に共感を覚える。働いても働いても楽にならない事が多いからだが、残念ながら、偶像礼拝をしている限り、聖書が示す呪いの法則から逃れる術は、ない。
唯一救われる道が、悔い改めてイエス様を信じる事だ。
私達はこの偶像崇拝の多い日本という国に使わされている者としてうめき、祭司として執り成し祈るべきだ。

『あなたのうちに寄留する他国人は、ますます高くなり、あなたの上に出て、あなたはますます低くなるであろう。彼はあなたに貸し、あなたは彼に貸すことができない。彼はかしらとなり、あなたは尾となるであろう。』(申命記28:43-45)
これは12-13節の逆である。
主に聞き従わず、あくまで自分の好む道に固執するなら、人に借りるばかりで返す事が出来ず、いつも下っ端で、いつまでも上に上がる事はできないのだ。

なぜ、これらののろいが降りかかるか。
その理由は、既に何度も聞かされている通り、主の声に聞き従わず、主から命じられた戒めと定めとを守らなかったからである。(申命記28:15,45)

『あなたがすべての物に豊かになり、あなたの神、主に心から喜び楽しんで仕えないので、あなたは飢え、かわき、裸になり、すべての物に乏しくなって、主があなたにつかわされる敵に仕えるであろう。敵は鉄のくびきをあなたのくびにかけ、ついにあなたを滅ぼすであろう。』(申命記28:47-48)
物が豊かになる事を、祈り求める人は、多い。
しかし、たとえその祈りが聞かれて、物が豊かに与えられたとしても、その人に、主への感謝が無く、主を喜ぶ感性が無いなら、何もならない。
主は逆に、そのような人を、飢えさせ、渇かせ、裸にし、すべての物に乏しくし、敵に仕えるようになり、ついには滅ぼされる。
なぜなら、私達にとって重要な人生の目的は、持ち物が豊かになる事ではなく、全ての祝福の源であり、全てのいのちの源であられる主と、愛と喜びの関係を築く事だからである。

礼拝説教メッセージ音声:皮膚病、錯乱、負け続け、奪われ続ける呪い(申命記28:25-35):右クリックで保存

御胸に逆らって歩む者、すなわち、御声に聞き従わず、御言葉を守り行わない者の受けるべき「のろい」は、実に惨憺たるものばかりだった。
しかし、それらを受けても、なお自分の道を曲げず、主に立ち返らない人に対するのろいは、まだまだ続く。

『主はあなたを敵の前で敗れさせられるであろう。あなたは一つの道から彼らを攻めて行くが、彼らの前で七つの道から逃げ去るであろう。そしてあなたは地のもろもろの国に恐るべき見せしめとなるであろう。またあなたの死体は空のもろもろの鳥と、地の獣とのえじきとなり、しかもそれを追い払う者はないであろう。』(申命記28:25)

これは7節「彼らは一つの道から攻めて来るが、あなたの前で七つの道から逃げ去る」の、真逆である。
主の御言葉に逆らう人は、敵に勝つ事は出来ない。
それも、「一つの道から彼らを攻めて行くが、彼らの前で七つの道から逃げ去る」と、実に”派手”な負けっぷりをし、その死体はさらされ、野の獣や猛禽類についばまれてしまう。
列王記や歴代誌を見ると、実際にイスラエルの歴史で、この事は何度もあった事が分かる。

『主はエジプトの腫物と潰瘍と壊血病とひぜんとをもってあなたを撃たれ、あなたはいやされることはないであろう。』(申命記28:27)
主が病で体を打つ時、皮膚に疾患を現す事が、多い。

その人の外見や皮膚にありありと現れる症状を、人が見る時、この人はやはり、その強情を捨てなかった報いを、主から受けたのだな、と、分かるのである。
実際、ミリヤムやウジヤ王は、主が立てた権威や指導者に逆らった時に、すぐにツァラアト(らい病)が現れ、それを見た人達にとって戒めとなった。

もちろん、これらの症状が出た人イコール御言葉に反した人とは限らないが、御言葉を軽んじ、主に逆らい続ける人には、100%、何かしらののろいの兆候が現れる事は間違いない。
そういう人は、外見的な疾患だけでなく、心の疾患にも侵される。

『また主はあなたを撃って気を狂わせ、目を見えなくし、心を混乱させられるであろう。あなたは盲人が暗やみに手探りするように、真昼にも手探りするであろう。』(申命記28:28-29)
彼らは、真理に対して目が見えなくなるため、本質を外した歩みに陥り、何をしても、とんちんかんであり、常に何かに怯えている。
サウル王は、頑なな道を改めなかったため、主からの悪い霊にいつも怯え、狂ったような行いをした。

御声に聞き従わず、御言葉を守り行わない者は、いかに物持ちであったとしても、ただただ人にかすめ奪われるのみである。
具体的には、自分の愛する異性や伴侶が奪われ、自分の住まいが奪われ、仕事場が奪われ、また、働いて蓄えた資産が奪われ、そして、自分の愛する息子や娘が、目の前でどんどん他人に奪われていくのに、それをただ見ているだけで、どうする事もできず、ついには、それらを慕い求めて狂うまでになる、と書かれてある。(申命記28:29-34)

『主はあなたのひざと、はぎとに悪い、いやし得ない腫物を生じさせて、足の裏から頭の頂にまで及ぼされるであろう。』(申命記28:35)
足の先から頭のてっぺんまで、癒しがたい腫物のために、特に、膝や脚が打たれるのだ。

もし、これらの疾患や災いが続き、栄える事なく、負け続け、ただ奪われているサイクルに陥っているなら、今一度、御言葉に照らし合わせ、御声に聞き従わない所が無かったか、御言葉を守り行わなかった所は無かったか、自分自身を省みるべきである。

主日の礼拝や、主への捧げ物、聖徒の交わりを、軽視していなかったか。
主を敬うと言いつつも、周囲に妥協し、偶像や占いの類を自分の所に持ち込んでいないか。
父や母を軽んじていないか。憎んでいないか。
性的な罪なや、盗む事、うそをつく事などが、日常的になっていないか。
兄弟姉妹を赦さず、執拗に憎しみを握りしめていなかったか。
あるいは、かつて主から「この道を行け」と示されていたのに、それを嫌がって、自分のしたい道に歩んだままではなかったか。

自分は祝福と呪いのどちらを受けているか、という問がある時、呪いのほうを受けている、と思い当たる人は、今一度、御言葉に照らすべきである。
主に対する姿勢が正しいか、御心にかなった道を正しく歩んでいるかをチェックし、思い当たる御言葉が示されたなら、すぐにでも、主の怒りを引き起こすものを捨て去り、道を改めるアクションを起こすべきである。

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