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黙示録の7つの災い - 封印、ラッパ、鉢 - の読み解き方(黙示録6章)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » 黙示録(2回目)
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- pastor 2016-6-29 21:30
黙示録の7つの災い - 封印、ラッパ、鉢 - の読み解き方(黙示録6章)
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黙示録は6章以降、16章に至るまで、「災い」と見られる記事が続く。
いわゆる「7つの封印の災い」、「7つのラッパによる災い」、「7つの鉢による災い」と呼ばれるものである。
啓示録が「怖い」と思われている原因の1つにもなっているが、これらは「災い」とみなすべきではない。正しくは「審判」である。
「審判」は、ある人には災いかもしれないが、ある人には救いだ。
モーセの時代、ユダヤ人を奴隷として搾取し苦しめていたエジプト人にとって、神の「審判」は「災い」であったが、神の民であるユダヤ人にとっては、むしろ「救い」であった。
それと同じ事が、世の終わりでも起きる。
『小羊がその七つの封印の一つを解いた時、わたしが見ていると、四つの生き物の一つが、雷のような声で「きたれ」と呼ぶのを聞いた。』(黙示録6:1)
全能の父なる神から全権威を授与された小羊キリストが、いよいよ、神の元で封じられていた巻物の封印をはがして行く。
そして、太古より立てられていた神の計画の全貌が、次々と明らかにされて行く。
その中には、悪魔サタンとそれに属する者共への究極的な裁きが含まれている。
そのため、悪魔サタンは、この黙示録を最も嫌い、教会から、またキリスト者達から、この書を遠ざけさせて来た。
人を搾取し、苦しめて来た悪魔サタンとそれに属する者達には主の審判は「災い」であるが、イエス・キリストを救い主としてあおいで神の民とされた人達には「救い」である。
これら「封印」、「ラッパ」、「鉢」による7つの災い(審判)は、一体何を意味するのか。
また、どうすれば、このいわゆる「災い」をまぬがれる事ができるのか。
それらを巡って、古くから、多くの人々によって色々な解釈が為されて来た。
また、異端達はこれを利用して「自分達だけがその真意を知っている」「この”災い”から逃れるには自分達の所に来るべきだ」と、多くの人々を惑わし、取り込んで来た。
一体これらの事柄は、どのように読み解いていくべきなのだろう。
ご存知の通り、「黙示録」を書いたのは、使徒ヨハネである。
そしてヨハネはユダヤ人であり、ヘブル的思考に従って、これを書いている。
だから、黙示録を読み解くには、ヘブル思考から外れては内容が理解できない。
ユダヤ人達は、物事を表現したり弁証したりする時、キアズムと呼ばれる論理構造に従って説明する「くせ」があり、聖書は旧約も新約も「キアズム」の独特の「反復表現」や「平行表現」で満ちている。
例えば、
「わがしもべイスラエルよ、わたしの選んだヤコブ、わが友アブラハムの子孫よ」(イザヤ41:8)
と言う呼びかけは、「イスラエル」も、「ヤコブ」も、「アブラハムの子孫」も、全部、同じくイスラエルの民を表しているのだが、3点方向から確実に伝えようとしているわけであり、また、イエス様の有名な命令、
『求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。 』(マタイ7:7-8)
も、3点の異なる命令形動詞がまず与えられ、それら命令に従順する者に与えられる報償が、「求める→得る」「探す→見出す」「叩く→あけてもらえる」と、7節と8節の間で平行的に示されている。
日本語を用いる私達が、聖書を読む時、このような反復表現や平行表現は、少々「くどい」「難解だ」と実感する事があるだろうが、これは、より正しく論理的に物事を伝えるためのものである。
「キアズム構造」を読み解く上で真っ先に注目すべきは、「動詞」である。
黙示録6章から16章までを、「封印」「ラッパ」「鉢」の3点から成るキアズムとして見る場合、それぞれで7度、繰り返して用いられる動詞がある。
それはそれぞれ、「(封印を)はがす」、「(ラッパを)吹く」、「(鉢を)ぶちまける」である。
これら、3つの「動詞」に着目するなら、言いたい事が何であるのかが見えてくる。
最初の動詞、封印「はがす(アノイゴー)」は、それまで覆われていたものをはがし、隠れていたものが公衆の目にさらされた、という事である。
映画でいうなら、ある監督が秘密裏に制作していた映画の予告サイトが、ある時点にテレビやネット上に現れたようなものだ。
予告編は全容はなんとなく分かるけれど、詳細は知らされないので、その実体は映画が封切られてみなくては分からない。
次の動詞は、「吹く(サルピゾー)」である。
ラッパを吹く事は、ユダヤ人にとって、「これから何事か起きるぞ」「何々をしなさい」というサインとして古くから用いられて来た。(民数記10章)
映画でいうなら、映画のサイトやテレビなどで「本日いよいよ公開!」と表示されるようなものである。
最後の動詞、鉢を「ぶちまける(エッケオー)」は、液体や金銀を「注ぎ出す、流し出す、外へ流す」意味であり、前の二つの動詞に比べればより実体的な行動を伴った動詞である。
つまり、「アノイゴー」→「サルピゾー」→「エッケオー」は、映画の全容が予告編で知らされ、いよいよ「本日公開」のサインがあり、いよいよ各映画館でフィルムが動き出し、映像が流れ出した、というようなものである。
封印を「はがす(アノイゴー)」事は、終わりに起こるべき事を公開する事であり、隠れた物事をオープンして行ったのが、8章1節までの記事である。
次に、ラッパを「吹く(サルピゾー)」事は、今まで予告されて来た物事がいよいよ封切られるというサインが示された事を意味し、いよいよ「終わりの始まり」が始まった事の警告が10章7節までの記事である。
そして鉢が「ぶちまけられる」事は、ついに、審判の実体が次々と遂行されて行く事を意味する。
6章の、封印をはがされた時点では、審判の「実体」は起きておらず、「これからこんな事が起こるぞ」という「予告篇」である。
その証拠として、第五の封印が解かれた時(6:9-11)、これから殉教するべき人がまだ残されている事が「予告」されているだけで、何らかの災害は、何も起きてはいない。
また、第六の封印が解かれた時(6:12-17)、天は巻物が巻かれるように消えてしまった事が記されているが、もしこの事が実体として起きてしまったなら、もはや全ての事がジ・エンドとなり、そのまま21章の新天新地へと内容が飛んで行かなくてはならないはずなのに、まだ7章以降へと地上の物事が続いて行く。
これらの事が、封印を「はがす」事はまだ審判の実体ではなく「予告編」である事の証拠である。
このような視点をもって、6章以降の事柄をこれから見て行きたい。
こんこんと湧き上がって来るいのちの水(ヨハネ4:7-15)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » ヨハネによる福音書
- 執筆 :
- pastor 2016-6-13 19:40
福音が大胆に語れるよう祈ってください(エペソ6:19-24)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » エペソ人への手紙
- 執筆 :
- pastor 2016-6-8 23:00
格闘の相手は血肉に対するものではなく(エペソ6:10-12)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » エペソ人への手紙
- 執筆 :
- pastor 2016-5-25 21:10
天権授与式(黙示録5:6-14)
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『わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た。それに七つの角と七つの目とがあった。これらの目は、全世界につかわされた、神の七つの霊である。』(黙示録5:6)
なぜ「ほふられた」小羊が「立つ」事ができるのか。それは、よみがえって、生きているからだ。
この小羊は、一切の罪や汚れの無い、世の罪を取り除く神の小羊であり(ヨハネ1章)、七つの目すなわち七つの霊によって、全世界の物事をくまなく見ておられる。
神の霊は、私達の立つのも伏すのも見ておられ、心の内も、私達の出生も生い立ちも、全部探り尽くしておられる。(詩篇139篇)
彼がここで立っている「立ち位置」は重要だ。
そこは、御座と長老たちの間、すなわち、神と人との間である。
彼はひと度、完全なるいけにえとなって、十字架上でほふられ、なだめのそなえものとして神に捧げられた。
だからこそ神はなだめられ、彼の後ろにつく全ての人々は、神との間に和解が成立しているのだ。
このまことの小羊キリストを自分自身の救い主とし、神と自分との間に彼を置く人はすべて、彼の故に神との間に和解が成立し、神の子とされ、天国の民とされるのだ。
人は本来、天国という聖なる、あまりにも素晴らしい所に到底入る事のできない、入ってはならない、罪を犯した存在だ。それなのに、入ることができている。
だから天国に入った全ての人は、いや、人間のみならず、全被造物は、ほふられてなだめの供え物となって下さった小羊に感謝してもし尽くせず、賛美してもし尽くせないのだ。
『小羊は進み出て、御座にいますかたの右の手から、巻物を「受けとった(ランバノー)」。』(黙示録5:7)
ランバノーの意味は、「受ける」「引き継ぐ」などの意味もある。
この場面は、ほふられた小羊が、全能の父なる神から全ての権威が委譲された「天権授与式」とも言える。
彼は、全宇宙・全被造物に対してとても重要な、その巻物を受け取る事によって、全能なる神の権威を行使する事が委ねられ、そして彼はその巻物の封印を次々に解いていく。
そして、原初より隠されていた全被造物の重要な秘密が、一つまた一つと解き明かされて行き、ずっと滞っていた全被造物の深刻な問題の一つ一つが、解決へと向けて流れ出して行く。
『巻物を受けとった時、四つの生き物と二十四人の長老とは、おのおの、立琴と、香の満ちている金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒の祈である。』(黙示録5:8)
金の鉢の中に入っているもの、それは「聖徒達の祈りである」と書いてある。
つまり、キリストにあって聖徒とされた人達の「祈り」は、香として天に立ち昇り、それらは御使の手によって金の鉢の中に蓄えられている。
『また、別の御使が出てきて、金の香炉を手に持って祭壇の前に立った。たくさんの香が彼に与えられていたが、これは、すべての聖徒の祈に加えて、御座の前の金の祭壇の上にささげるためのものであった。香の煙は、御使の手から、聖徒たちの祈と共に神のみまえに立ちのぼった。』(黙示録8:3-4)
神様を知らない人が「祈り」の姿を見るなら、目を閉じた人の、独り言のつぶやきのように見えるかもしれない。
しかし、キリストにあって聖なる者とされた私達・一人ひとりの祈りは、御使いの手を通し、天の神の御座の前へと、御使の手を通して立ち上って行き、積み重ねれられ、力を発揮するものだと認識すべきである。
世においては、税金を払っても、全然民意が反映されないまま、不正な者の懐へと消えて行くような事は、ある。
しかし天において、祈りにおいては、そのような事は一切無い。王であられる主は、義なるお方であり、天には不正な者が入れないからだ。
『御使はその香炉をとり、これに祭壇の火を満たして、地に投げつけた。すると、多くの雷鳴と、もろもろの声と、いなずまと、地震とが起った。そこで、七つのラッパを持っている七人の御使が、それを吹く用意をした。』(黙示録8:5-6)
祈りが金の鉢を満たした時、御心の成就が遂行されて行く。
祈りとは、天の神の御胸の遂行に参加するものであり、天権行使に、私達も関わる事ができる手段であるのだ。
小羊が巻物を受け取った瞬間、全礼拝者の礼拝の対象は、小羊へと集中する。
『彼らは新しい歌を歌って言った、「あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう」。』(黙示録5:9-10)
彼ら(四つの生き物と長老たち)は、「新しい歌」を歌った。
彼らは前章でも、全能の神様に冠を投げ出して賛美したが、今度は、「新しい歌」を、小羊に向かって賛美している。
イエス様は、ほふられて下さった。そして、その流された血によって、私達・キリストにある聖徒達を「買い戻して」下さった。
そして贖われた聖徒達は天国民となり、祭司となり、地上を支配するのである。
人が支配者となる事。この事は、神様が世を創られ人間を創られた当初から、神様が意図されていた。
その事への、正統な復帰である。
なぜなら聖書の最初の書、最初の章に書かれている。
『神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。』(創世記1:26-28)
人は堕落して以来、全被造物は、神の荷姿から離れた人間たちの、恐怖政治にうめいている状態だった。
本来、人が罪を犯したから、人が断絶されるべきであるはずが、小羊が、神と人との間に立ち、身代わりにほふられた。
そして、贖われた聖徒達は王となり、祭司となり、神に属する民としての、正統な支配が戻ってきたのだ。
もはや、神の荷姿からかけはなれてしまった人間による不当な支配、恐怖政治に、悩まされる事は無い。
だから、全被造物は、その全ての解決をして下さった小羊に賛美するのだ。
幾万幾千の御使い達も、賛美を捧げているる。
『さらに見ていると、御座と生き物と長老たちとのまわりに、多くの御使たちの声が上がるのを聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍もあって、大声で叫んでいた、「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい」。
またわたしは、天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた、「御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように」。四つの生き物はアァメンと唱え、長老たちはひれ伏して礼拝した。』(黙示録5:11-14)
このように天上では、贖われた人々、4つの生き物、そして、幾千万もの御使い達がおり、彼らは皆、小羊を賛美し、礼拝している。
ダビデが詩篇150で書いたように、全て造られし者が、色々な楽器を用いて賛美を捧げている。
ダビデはまさに、天上の礼拝の「型」を、地上で演じていたのだ。
小羊に賛美が集中する時、父なる神は、栄光をお受けになる。
ちょうど子供が運動会で一等賞を取った時、それを見ている親も栄光を受けるように。
『キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。』(ピリピ2:6-11)
キリストにあって聖徒とされた私達は、天においてどのような王国を治めるのかは分からない。
しかし私達は天を目指し、地上で任されている日々の「小さなこと」を、忠実に守り行うべきである。
太古より封じられてきた秘密を解くお方(黙示録5:1-5)
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ヨハネはまたさらに、天で隠されていた秘密を見せられる。
『わたしはまた、御座にいますかたの右の手に、巻物があるのを見た。その内側にも外側にも字が書いてあって、七つの封印で封じてあった。また、ひとりの強い御使が、大声で、「その巻物を開き、封印をとくのにふさわしい者は、だれか」と呼ばわっているのを見た。しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開いて、それを見ることのできる者は、ひとりもいなかった。巻物を開いてそれを見るのにふさわしい者が見当らないので、わたしは激しく泣いていた。』(黙示録5:1-4)
太古より、全能の父なる神によって計画され、人知れず、長らく封じられて来た秘密がある。
ヨハネに、この天上の幻が見せられた時点で、人類史上初めて、その封じられてきた秘密が「あった」という事が、明らかにされたのだ。
終わりの時代になれば、なる程、多くの人々は、知識を求め、色々と探り調べる事になる。(ダニエル12:4)
事実、今も聖書の秘密について、多くの人々が色々な説を起こし、諸説や議論が咲き乱れているが、私達はそうした事どもに参加する必要は無いし、してはならない。
私達は主がダニエルに言った言葉に注目すべきである。
『わたしはこれを聞いたけれども悟れなかった。わたしは言った、「わが主よ、これらの事の結末はどんなでしょうか」。彼は言った、「ダニエルよ、あなたの道を行きなさい。この言葉は終りの時まで秘し、かつ封じておかれます。多くの者は、自分を清め、自分を白くし、かつ練られるでしょう。しかし、悪い者は悪い事をおこない、ひとりも悟ることはないが、賢い者は悟るでしょう。・・・しかし、終りまであなたの道を行きなさい。あなたは休みに入り、定められた日の終りに立って、あなたの分を受けるでしょう」。』(ダニエル12:8-13)
あの、主から愛されたダニエル、知恵深いダニエルさえ悟れずに主に聞いた秘密に対し、主は「それは封じておかれる」「あなたの道を行きなさい」と答えられた。
私達もダニエルのように、「いつ」とか「どんな時」とか、知る必要はない。(使徒1:7)
それよりも、主から与えられた道のりを、イエス様が来られる日まで、走り尽くすべきなのだ。そうして、走るべき道のりを終えた後に、受けるべき報いがある。
ヨハネは、この巻物を開いて封印を解ける者が誰もいない事で、激しく泣いた。
それは、この巻物を解く事は、とても切実な事だったからである。
天上の、地上の、地の下の全存在にとって、とても切実な。
もし、これが解かれないままであるなら、天上・地上・地下において封じられていた諸々の問題は、解決されないまま置かれ、神が定めた「完成」には至らないままになってしまう。
ところが、ダニエルの時には明かされなかった諸々の秘密は、黙示録で次々と明らかにされて行く。
なぜなら、「勝利され、封印を解く事ができるお方」があらわれたからだ。
『すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」。』(黙示録5:1-5)
ここの「勝利(ニカオ)」のギリシア語は、直接法アオリスト形能動態という、特殊な時制が使われている。
それはすなわち、この「勝利」は、過去のある時点において「完結」され、全問題は「解決済み」となり、その勝利以降、その効力は今に至るまでのみならず、これから後もずっと続いていく事だ。
その、決定的勝利をした時点は、「ほふられた時」、すなわち、十字架である。
ユダ族から出たしし(ライオン)、勝利された「ダビデの根」、それはまさしく、イエス・キリストである。
勝利した彼には、全能の父なる神から全権が委譲され、次々と封印を解いて行くのだが、その都度、はるか昔に神によって用意されていたスケジュールが動き出し、隠されていた秘密が露わにされていく。
アダム以降、人類が抱え持ってしまった深刻な問題、天においても地においても、地の下においても、誰にも解決できなかった諸々の問題は、この、ほふられて勝利した小羊キリストによって、どんどん解決されて行くのだ。
御座の前にいる四つの生き物(黙示録4:6-11)
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前回、御座の周りに、二十四人の長老が座についていた事を見たが、さらに御座のそば近くには、特別な生き物がいた。
『御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座のそば近くそのまわりには、四つの生き物がいたが、その前にも後にも、一面に目がついていた。第一の生き物はししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人のような顔をしており、第四の生き物は飛ぶわしのようであった。この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その翼のまわりも内側も目で満ちていた。』(黙示録4:6-8a)
「御座のそば近くそのまわり」を直訳するなら「御座の真ん中には、また、御座の周り」である。
御座の四辺のそれぞれ真ん中に、彼らが位置した、という事であろうか。
いずれにせよ、この生き物達は、主の御座からとても近い位置にいるようである。
ここに登場する四つの生き物と似たものが、旧約エゼキエル書にも登場する。
『顔の形は、おのおのその前方に人の顔をもっていた。四つの者は右の方に、ししの顔をもち、四つの者は左の方に牛の顔をもち、また四つの者は後ろの方に、わしの顔をもっていた。彼らの顔はこのようであった。その翼は高く伸ばされ、その二つは互に連なり、他の二つをもってからだをおおっていた。・・・四つの輪には輪縁と輻とがあり、その輪縁の周囲は目をもって満たされていた。』(エゼキエル1:10)
エゼキエルはさらに、「位(キセェ:御座)のようなもの」を見たが、それも、ヨハネが見た御座の特徴とよく共通している。
『生きものの頭の上に水晶のように輝く大空の形があって、彼らの頭の上に広がっている。大空の下にはまっすぐに伸ばした翼があり、たがいに相連なり、生きものはおのおの二つの翼をもって、からだをおおっている。・・・彼らの頭の上の大空の上に、サファイヤのような位の形があった。またその位の形の上に、人の姿のような形があった。・・・
そしてその腰とみえる所の上の方に、火の形のような光る青銅の色のものが、これを囲んでいるのを見た。わたしはその腰とみえる所の下の方に、火のようなものを見た。そして彼のまわりに輝きがあった。そのまわりにある輝きのさまは、雨の日に雲に起るにじのようであった。主の栄光の形のさまは、このようであった。』(エゼキエル1:22-28)
御座、水晶、にじ、宝石、いずれもヨハネが見たものと一致している。
それにしても、彼らの表現を元に「この情景の絵を書きなさい」と言われるなら、百人百様の絵が完成するであろう。
人の日常では到底無いような、普通の言葉ではとても表現できないような天的な有様を見せられた事には間違いないが、とにかく、両方に共通している事は、この4つの生き物は御座のすぐ近くにいるものであり、それらは「人、しし、牛、わし」の性質が現れており、翼があり、目でいっぱい満ちており、また、彼らがいる御座の周囲には、水晶に似たガラスの海のようなものがあって、宝石のような輝きがあり、虹のような栄光の輝きがある、という点は、共通している。
エゼキエルは最初、この4つの生き物が何であるのかを知らなかったが、後に、それが「ケルビム」である事を知った。(エゼキエル10:20)
ではケルビムとは何者で、どういう生き物なのか。
ケルビムが、聖書で最初に登場するのは、かなり初期で、創世記3章に現れる。
アダムとエバが、禁断の実を取って食べてしまった故に、楽園(エデン)から追い出されてしまった時、もはや人が楽園の中から「いのちの木」を食べて永遠に生きないようにするために、”(全方向に)回転する炎の剣”をもって楽園をガードする者として登場する。(創世記3:24)
その次に出て来るのは、出エジプト記である。
イスラエル民族が主から与えられた最も聖なる「契約の箱」を、その翼で覆う者として「ケルビム」を造るよう、主はモーセに命じられた。
また、契約の箱が安置された聖所の幕屋の、最も内側は、ケルビムが織り込まれた幕によって覆われていた。
『その所でわたしはあなたに会い、贖罪所の上から、あかしの箱の上にある二つのケルビムの間から、イスラエルの人々のために、わたしが命じようとするもろもろの事を、あなたに語るであろう。』(出エジプト記25:22)
主は、ケルビムの間から命じ、語られると言われた。
この、ケルビムに覆われたあかしの箱は、いわば、主の命令が発せられる「御座」のようである。
実際、主は「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神」と表現され(詩篇80:1、99:1、イザヤ37:16)、また、ケルブ(ケルビムの単数形)は、主の乗り物としての役割もあるようである。(詩篇18:10)
以上の事から、ケルビムは、常に主のすぐそばに常に侍り、聖と俗とを区切る者として、聖なる所を守る者として、また、主を運ぶ者としての共通点がある。
ケルビムは、創世記では回転する炎の剣を持っており、エゼキエル書でも、車輪と呼ばれる輪の間に火を持っていた。(エゼキエル10:6)
しかし、黙示録に登場する彼らには、それは無い。
ヨハネが見ている「天」は、もはや「楽園(パラダイス)の中」であるため、回転する炎の剣も必要ないのであろう。
エゼキエルとヨハネは、それぞれ、立ち位置も視点も、主から託された働きも違う。
エゼキエルの場合、「彼に霊が入った」のだが、ヨハネの場合、「彼が霊の中に入れられた」のだ。(エゼキエル2:1-2、黙示録4:1)
エゼキエルは、地上からはるか上方を見上げて幻を見ていたのに対し、ヨハネは天に「上って」、天そのものから、これらの幻を見せられている。
エゼキエルは「御座のようなもの」と表現したが、ヨハネは、はっきり「御座」と言った。
エゼキエルは、反逆の家にさばきを伝えるために、これらを見せられたのに対し、ヨハネは、天上の隠されていた事、神がこれからご計画しておられる事を、公に示すために、これらの事を見せられ、それを書き記すように命じられた。
だからヨハネは、今までの預言者には無かったような経験をしており、彼は天をはっきり見せられているのである。
黙示録においては、その生き物は主の御座のすぐ近くで、絶え間なく主を誉め讃えている。
『この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その翼のまわりも内側も目で満ちていた。そして、昼も夜も、絶え間なくこう叫びつづけていた、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者」』(黙示録4:8)
彼らの賛美の内容は、客観的な主のご性質そのものを叫んで賛美している。
それに対し長老たちは、より人間味ある、気持ちが篭められた賛美を捧げている。
『二十四人の長老は、御座にいますかたのみまえにひれ伏し、世々限りなく生きておられるかたを拝み、彼らの冠を御座のまえに、投げ出して言った、「われらの主なる神よ、あなたこそは、栄光とほまれと力とを受けるにふさわしいかた。あなたは万物を造られました。御旨によって、万物は存在し、また造られたのであります」。』(黙示録4:9-11)
長老たちは「平伏す」「自分の冠を御座の前に投げ出す」という行為と共に、「われらの主なる神」と、自分と主との関係を明白にして、気持ちを込めて主をほめ讃えている。
冠を自分の頭から外して、主の御前に投げるのは、自分は罪を犯したという記憶があり、決してこんなに素晴らしい天国にいるに値しない者である、との自覚があり、そして、赦された記憶があるゆえである。
だから天国では、永遠に感謝が絶えない。
私達は、罪の記憶など、すぐに消してしまいたい、あんな記憶、なくしてしまいたい、と思っても、それでも消されずに残っている理由は、こんなに惨めになってしまっていた自分を、主は愛してくださり、良くしてくださり、救って天国に入れて下さる事を、永遠に感謝するためであって、決して、自分は罪深いと自分に言い聞かせて苦しむためではない!
罪を犯した記憶なしには、感謝は生まれない。
もう一度言う。
罪の記憶が消えていない理由は、自分は罪深いのだと自分に言い聞かせて苦しむためでは、決してない。
そんな自分をも救い、赦して下さった主を、永遠に感謝し、賛美するためである。
罪の責めをするのはサタンであり、もし自分から進んで過去の自分を罪定めするとするなら、主の完全なる贖いと赦しをないがしろにする「傲慢」である。
天上で生息しているものは、全て「賛美」する。人も、生き物も、御使も。
ダビデはイエス・キリストの雛形であるが、彼は命じている。
「息のあるすべてのものに主をほめたたえさせよ。」(詩篇150:6)
「主が造られたすべての物よ、そのまつりごとの下にあるすべての所で、主をほめよ。わがたましいよ、主をほめよ。」(詩篇103:21)
特に、詩篇148篇では、人や生き物のみならず、天使も、日も、月も、星も、天も、天上の水も、その他、ありとあらゆるものに対して「主をほめたたえよ」と命じている。
全て造られたものは、本来、主をほめたたえるものであるはずが、人間の罪の結果、虚無に服してしまった。それで被造物は、うめきつつ、神の子のあらわれを待っている。(ローマ8章)
私達、キリストにあって贖われた聖徒は、神の子であり、神に賛美と栄光を捧げる者である。
全被造物は、そのあらわれを待っていたのだ。
賛美は、聖徒達の口にふさわしい。大いに主をほめたたえて「天の前味わい」をし、地上において神の子としての使命を全うする皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
公開された天国 - 天上公開メッセージ(黙示録4:1-5)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » 黙示録(2回目)
- 執筆 :
- pastor 2016-5-18 21:48
公開された天国 - 天上公開メッセージ(黙示録4:1-5)
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メッセージ音声
前章までは、アジアにある7つの教会のメッセンジャーに対し、それぞれへの賞賛や叱責、勧めなどが送られたが、この章から、新たな展開となる。
4−5章では、天という所はどのような所で、誰が存在し、何が為されているのかが記されている。
ここはいわば、「天上公開メッセージ」である。
『その後、わたしが見ていると、見よ、開いた門が天にあった。そして、さきにラッパのような声でわたしに呼びかけるのを聞いた初めの声が、「ここに上ってきなさい。そうしたら、これから後に起るべきことを、見せてあげよう」と言った。』(黙示録4:1)
ヨハネは、開いた天の門を見せられ、「上って来なさい」と主から招かれた。
この「開いた(アノイゴー)」は、完了形受動態が使われており、すなわち、それまで開かれていなかった所が開かれ、それまでは未公開だった事が初めて公開された、という事である。
その後、黙示録では、天の情景が次々と公開されて行くが、天がここまでおおっぴらに公開された記事は、旧新約聖書を通しも、かつて無かった。
まさに、天の「すっぱ抜き(ラテン語:revelatio、英語:Revelation)」である。
天が全ての人に公開されたからには、天国は、もはや秘密の国ではない。
『すると、たちまち、わたしは御霊に感じた。見よ、御座が天に設けられており、その御座にいますかたがあった。』(黙示録4:2)
ここで、「(御霊に)感じた」と訳された言葉は、ギリシア語で「エゲノメーン(ギノーマイの直接法アオリスト形)」、すなわち「生成する、(今まで無かった所に)生じる」の意味であり、直訳的には「霊の中に生じた」である。
ヨハネは「上って来なさい」とは言われたものの、自分の足で上って行ったのではなく、かの声に呼びかけられた次の瞬間、霊の中にあって、見せられている幻の中に”いた”のだ。
『その座にいますかたは、碧玉や赤めのうのように見え、また、御座のまわりには、緑玉のように見えるにじが現れていた。』(黙示録4:3)
御座は、全能なる神が、全宇宙を統治する場であり、世の全ての事共をさばき、摂理する所である。
この「御座(スロノス)」という語は、新約聖書全部で61回登場するが、その内、46回は黙示録で登場する、「天」という場において、とても重要な語である。
主の座される所には、宝石のような輝きがある。
『また、モーセに言われた、「あなたはアロン、ナダブ、アビウおよびイスラエルの七十人の長老たちと共に、主のもとにのぼってきなさい。そしてあなたがたは遠く離れて礼拝しなさい。ただモーセひとりが主に近づき、他の者は近づいてはならない。また、民も彼と共にのぼってはならない」。』(出エジプト記24:1-2)
出エジプトの時代は、ただモーセだけが、主のもとに登って行く事が許された。
しかし、モーセが主の元にのぼって行き、主から告げられた言葉を伝え、そして犠牲の血を彼らに注ぎかけたところ、彼らも主の元にのぼって行く事ができた。(同3-9節)
『そして、彼らがイスラエルの神を見ると、その足の下にはサファイアの敷石のごとき物があり、澄み渡るおおぞらのようであった。神はイスラエルの人々の指導者たちを手にかけられなかったので、彼らは神を見て、飲み食いした。』(出エジプト記24:10-11)
主の足もとには、サファイアの敷石のごときものがあったのは、エゼキエル書1章や、黙示録の記述に似ている。
主の、その宝石の輝きのような栄光は、そのあまりに「聖なる」様に恐れをなすものであるが、主の御前出た長老七十人は、大丈夫だった。
しかも、神を見て飲み食いしたというのだ。なぜか。それは、「血の注ぎかけ」を受けていたからである。
私達も、神と人との唯一の執り成し手であられるイエス様が、その血を携えて御父の元に登り、犠牲となって下さった事によって、大胆に恵みの御座に近づく事が出来、天の食卓において飲み食いする事が許されるのだ。
『また、御座のまわりには二十四の座があって、二十四人の長老が白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶって、それらの座についていた。御座からは、いなずまと、もろもろの声と、雷鳴とが、発していた。また、七つのともし火が、御座の前で燃えていた。これらは、神の七つの霊である。』(出エジプト記4:4-5)
この二十四人の長老は、誰であるのか。
21章において、新しいエルサレムを取り囲む城壁の12の門には、イスラエル十二部族の名前が書いてあり、12の土台石には小羊の十二使徒の十二の名が書いてあるため、主の御座を囲んでいるこの二十四人は、彼らであろう。
黙示録(啓示録)においては、天が次々と開かれていく。
私達はそれを、自分とは関係のない空想話を解釈しようとするかのようではなく、将来、私達が実際に入る新居を楽しみながら見るように読んでいきたい。