メッセージ - 講解説教(新約)カテゴリのエントリ
男女関係・夫婦関係の聖書的スタンダード(エペソ5:22-33)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » エペソ人への手紙
- 執筆 :
- pastor 2016-5-11 23:50
ラオデキヤ教会のメッセンジャーに対する書き送り(黙示録3:14-22)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » 黙示録(2回目)
- 執筆 :
- pastor 2016-5-11 23:00
ラオデキヤ教会のメッセンジャーに対する書き送り(黙示録3:14-22)
Youtube動画
メッセージ音声
七つの教会の内の第七番目、ラオデキヤ教会への書き送りは、次の構造となっている。
1,一次受信者の指定
『ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。』(3:14)
2,語られるキリストの姿
『アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。』(3:14)
3,賞賛と激励
なし
4,叱責と警告
『あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。』(3:17)
5,勧めの宣言
『このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。』(3:16-18)
6,勝利者に約束されている報い
『勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。』(3:21)
7,二次受信者への命令22
『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。』(3:22)
主は、ヨハネに7つの教会のメッセンジャー達に対して手紙を送りなさい、と命じられたが、その最後・7つ目の教会が、ラオデキヤ教会である。
この教会には、主からの賞賛は一切無く、ただ、叱責しか無い。
それは7教会中、このラオデキヤだけである。
ラオデキヤは当時、金融都市で、医療を学ぶ所もあり、フルギヤの目薬工場を直営する富裕な地域だった。
また、ラオデキヤから8キロ離れたヒエラポリスという都市には、パムッカレ(トルコ語で「綿の宮殿」の意味)という有名な温泉があり、各地から多くの人が治療目的で訪れて、温泉を楽しむ所だった。
ここの教会に対し、主はご自身を「アァメンたる者、忠実な、まことの証人」と紹介される。
アーメンも、忠実も、まこと(真実)も、いずれも同じ意味である。
ヘブル語のアマン(アーメン)には、忠実、真実の意味があり、「アーメン」は全てのクリスチャンの信仰告白の言葉となった。
イエス様はまことに、全ての聖徒達が「アーメン」と信仰告白する対象であられるお方、忠実また真実なるお方、神に造られた全ての根源なるお方である。
『わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。』(黙示録3:15-16)
物質的に恵まれ、自分の事を「富んだ者」と言ってはいるが、主は「なまぬるい」と評価された。
そして主は言われる。なまぬるいよりは、むしろ、冷たいか熱いかであってほしい、と。
なお、ヒエラポリスからラオデキヤへと流れてくる温泉水は、ラオデキヤに到達する頃にはなまぬるくなっており、この水で体を洗うと、皮膚病になった、と言われている。
熱いでもなく、冷たいでもない。それは逆に、体をむしばんでしまうのだ。
熱い事、熱心な事は、結構である。
冷たい事も、「なまぬるい」よりはまだましだ。
「愛」の反対言葉は「憎しみ」ではなく、「無関心」だと言われている。
親子関係や男女関係において、憎しみがある内は、まだ良い。それは、相手に対して関心がある、という事の裏返しだからだ。
しかしもし、相手に対して何の感情も関心も抱かないとするなら、その親子関係・男女関係は、致命的な段階に来ている。
ましてや主との関係なら、なおさらだ。
信仰者にとって致命的なのは、主に対する無感覚、無関心、距離を置いた「事なかれ」的ななまぬさであり、そのような人は、主から遠く離れた者である。
日本には現在、キリスト教への迫害は無く、あらゆる宗教に対して寛容で、経済的にもある程度富んだ国である。
一見すると、迫害下にある国々よりはましに見えるが、霊的に見るなら致命的だ。
事実、過去多くの宣教師たちがこの国に派遣されているにも関わらず、日本のクリスチャン人口は、今だに1%にも満たない。
この、真理に対する熱さも冷たさもない「なまぬるさ」が、重要な原因の一つであろう。
『あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。』(黙示録3:17)
彼らは確かに物質的には富んでいたかもしれない。
それで「自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もない」と自分で自分を評価しているが、主は逆に、彼らに5つのマイナスな事柄を、すなわち、「みじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者」と指摘している。
そして、それを脱却するために、3つのものを「買いなさい」と指示されている。
『そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。』(黙示録3:18)
この「買う(アゴラゾー)」は、買い戻す事の意味もあり、十字架上で主が血の値をもって私達を「買い戻し」て下さった単語であり(1コリント7:23,30)、買い戻されて赦された私達・信仰者には重要かつ基本的な事をあらわす単語でもある。
ここでは「買い戻し」を3度並行させているが、この、同意的な言葉を並行的に繰り返す事によって強調するのは、ヘブル的キアズム構造の強調表現である。
主は、強調される。
なまぬるさからの脱却は「値をもって、買い戻す」事によるものだ、と。
まず買い戻すべきは、「火で精錬された金」であるが、火で精錬された金について、1ペテロに書いてある。
『そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。』(1ペテロ1:6)
ここでは、様々な試練によってためされた信仰が、「火で精錬された金」と平行して書かれているが、まず買い戻すべきは「信仰」、それも、試練によって試され純化された信仰である。
また、次に買い戻すべきは、「裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣」だ。
この白い衣については、長老の一人がヨハネに説明している。
「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。」(黙示録7:14)
また、主は言われた。
「見よ、わたしは盗人のように来る。裸のままで歩かないように、また、裸の恥を見られないように、目をさまし着物を身に着けている者は、さいわいである。」(黙示録16:15)
主はいつ来られるか、分からない。
しかし主のしもべが、罪を犯しても、主の贖いの血潮で洗わないままに、あい変わらず罪の飲み食いのどんちゃん騒ぎをし続けているなら、その者は裸の恥をさらしたままである
主のしもべは、罪のけがれがついたなら、その日が暮れない内に小羊の血潮で洗い、きよい状態を保ち続けるべきなのだ。
3つめの買い戻すべきものは、「見えるようになるため、目にぬる目薬」である。
イエス様ご自身が目薬を塗って下さった記事が、ヨハネ9章に記されている。
『イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って言われた、「シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい」。そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った。』(ヨハネ9:6-7)
「顔にドロを塗る」「顔につばきをかける」、いずれも屈辱を受ける事の表現だが、「見える」ためには敢えてそのような経験を「買い求める」事も、必要だろう。
主から直接、目にドロを塗られる時、その人が「遣わされた者」の所に行って、洗うなら、目からウロコが落ち、それまで見えなかったものが見えるようになり、働き人として整えられるのだ。(使徒9:18)
『すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。』(黙示録3:19)
主は、愛すれば愛するほどに、しかったり、懲らしめたりする。(申命記8:5、ヘブル12:5-11)
主は、ラオデキヤの人を愛しておられるからこそ、このような厳しい事を言われる。
だからメッセンジャーは、このラオデキヤの箇所を、憎い人を裁断するための道具として用いてはならない。
むしろ過ちに陥っている人には、その人が倒れてしまわないように、愛をもって戒め、諭し、立ち返らせるべきだ。
『見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし(デイプネオー:夕食あるいは宴会をする)、彼もまたわたしと食を共にするであろう。』(黙示録3:20)
なんとラオデキヤでは、イエス様は、扉の外におられる。
「ラオデキヤ」は「ラオス+ディケー:民衆の義、民衆の判決」の意味があるが、人が裁き、人が自分の義を主張するなら、イエス様は戸の外に追いやられてしまっている。
イエス様は、彼らの中に入ろうとして、戸を叩く。
もしイエス様が叩くのを聞いて、扉を開き、彼を受け入れるなら、イエス様は入ってきて、共に食事(デイプネオー:夕食あるいは宴会)ができる。
しかしもし、民衆の議論や義の中で喧々諤々したまま、イエス様の叩く音を無視するなら、イエス様は去って行ってしまう。(雅歌5:6)
『勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。』(黙示録3:21)
主は「わたしと共にわたしの座につかせよう。」と言われた。
だから、イエス様抜きにして、勝利を得てもいないのに、自分が勝手に王の座・裁きの座に着こうとするのは不当であり、そこから引きずり降ろされてしまう。
主が座に招いてくださり、そしてそこに主が着かせて下さる。それを待つべきなのだ。
『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』(黙示録3:22)
主は、これらの事を、私達にも語っておられる。
もし私達の中に、ラオデキヤに対して主が叱責されたような事があるなら悔い改め、買い戻すべきものを、主から買うべきである。
フィラデルフィア教会のメッセンジャーに対する書き送り(黙示録3:7-13)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » 黙示録(2回目)
- 執筆 :
- pastor 2016-5-9 21:49
フィラデルフィア教会のメッセンジャーに対する書き送り(黙示録3:7-13)
Youtube動画
メッセージ音声
七つの教会の内の第六番目、フィラデルフィア教会への書き送りは、次の構造となっている。
1,一次受信者の指定
『ヒラデルヒヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。』(3:7)
2,語られるキリストの姿
『聖なる者、まことなる者、ダビデのかぎを持つ者、開けばだれにも閉じられることがなく、閉じればだれにも開かれることのない者が、次のように言われる。』(3:7)
3,賞賛と激励
『わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。
見よ、サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくて、偽る者たちに、こうしよう。見よ、彼らがあなたの足もとにきて平伏するようにし、そして、わたしがあなたを愛していることを、彼らに知らせよう。忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。』(3:8-10)
4,叱責と警告
なし
5,勧めの宣言
『わたしは、すぐに来る。あなたの冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい。』(3:11)
6,勝利者に約束されている報い
『勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。』(3:12)
7,二次受信者への命令13
『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。』(3:13)
フィラデルフィア教会のメッセンジャーに対しては、スミルナ教会と同様、主からの叱責が無い。
そして今回の箇所には、キリスト者であるなら必読とも言える事が、すなわち、全世界に来るべき試練の時でも主から守られるための秘訣が、書いてある。
主はご自身を「聖なる者、まことなる者、ダビデのかぎを持つ者、開けばだれにも閉じられることがなく、閉じればだれにも開かれることのない者」(7節)と紹介された。
実に主は、死とハデスの鍵を持っておられ(1:18)、また「ダビデの鍵」をもっておられる。
かつてヒゼキヤ王の時代、主は、主人に恥をもたらす宮廷執事シェブナを権威の座から降ろし、その代わりに、宮内長官エルヤキムをその座に据え、彼の肩に「ダビデの鍵」を与える、と言われた。(イザヤ22:22)
しかし、ダビデの子孫の「人間」の統治は不完全であり、やがては引き抜かれてしまう事も、主はその時預言しておられた。(同25節)
事実、バビロン捕囚以降、ソロモン以降に続く血筋は、イスラエルの王権から絶たれてしまった。(エレミヤ22:30)
ソロモン以降、歴代の王たちは、主を怒らせ続けて来たからだ。
イエス様は、”処女”マリヤから生まれた故に、ソロモン以降の血を継ぐマリヤの夫・ヨセフの血は、受け継いでいない。(マタイ1章)
しかし、イエス様を産んだ処女マリヤは、ダビデの血を受け継いでおり、なおかつ、ソロモン以降の血は、受け継いでいない。(ルカ3章)
彼女は歴代の王族の血筋ではなくとも、ヨセフに嫁いだ事によって、法的には王族へと迎え入れられた形になる。
つまり、イエス様は法的に王族であり、かつ、歴代の王族のいわば”汚れた”血筋ではない、いわば、完全で純血なる王族ダビデの子孫なのである。
彼が開くなら、それは誰にも閉じる事は出来ず、また、彼が閉じるなら、それは誰にも決して開ける事が出来ないのだ。
主はその約束を、フィラデルフィア教会のメッセンジャーに対して為された。
『わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。』(黙示録3:8)
彼らには、少ししか力がない、という。
つまり、主からの賞賛と保護を受けるには、力の大小は関係無い、という事であり、むしろ、「主の言葉を守り」「主の御名を否まない」事こそ大事である。
門を開いて下さるのも、閉ざして下さるのも、主であり、自分の力で開けたり閉めたりするものではない。
ただ、主の言葉を守り、主の御名を否まない聖徒達に、主が彼らの歩むべき道を、くぐるべき門を、開いたり、閉ざしたりして、導いて下さるのだ。
『見よ、サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくて、偽る者たちに、こうしよう。見よ、彼らがあなたの足もとにきて平伏するようにし、そして、わたしがあなたを愛していることを、彼らに知らせよう。』(黙示録3:9)
自称ユダヤ人、すなわち、自分達は神に属する、神に選ばれた者達だ、と言いつつも、実はサタンの会堂に属しているような「偽兄弟」「偽クリスチャン」は、どの時代にもいる。
力が無い人であるなら、そのような者達に、自力で対抗したり、論破したりは、できないかもしれない。
しかし主ご自身が、弱い彼らを弁護し、主ご自身がそのサタンの会衆の者達を、彼らの前にひれ伏させ、その者達に「わたしが愛しているのは彼らだ」と知らしめて下さるというのだ。
『忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に「住む(カトイケオー)」者たちをためすために、全「世界(オイコウメネー)」に臨もうとしている「試錬(パイラスモス)」の時に、あなたを防ぎ守ろう。』(黙示録3:10)
ここの「住む(カトイケオー)」とは、一時的に住む事の意味ではなく、「永住する、定住する」の意味であり、また、「世界」(オイコウメネー)は、特に人が居住している地、つまり、人の支配(特にローマの)が及ぶ所の意味である。
つまり、行政が高度に発達し、人による支配が行き届いた都市などを目指して、永住・定住しようとしている人は、要注意である。
そこには、「試錬(パイラスモス:試験のための誘惑)」が臨もうとしているからだ。
人の栄えを目指して、人の上に成り上がろうとする者は、所詮、バベルの塔を構築する一員となっている過ぎず、最終的には、築きあげて来たものは皆、崩されてしまう事になる。
信仰の父・アブラハムが、この地上では、自分の墓地以外は何も土地を得ず、ずっと天幕生活を貫いたように、私達もこの地上では旅人、寄留者として歩み、天の故郷を目指して歩む者である。
『信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ。彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である。・・・
これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。』(ヘブル11:8-16)
そのような聖徒達には、主からの密かな養いと喜びがある。
イエス様がお生まれになった時、羊飼い達は、皇帝アウグストの住民登録を受ける価値も無い、いわば、オイコウメネーの外の人達だったが、彼らには、救い主キリストがお生まれになった事を天の軍勢の賛美と共に告げ知らされ、その現場を見に行けるという、密かな、そしてとてつもない幸いを得る事ができた。
終わりの時代、誰も耐えられないような試練の時代でも、主から守られる秘訣がある事は、私達キリスト者には大きな慰めである。
その秘訣とは、「わたし(イエス様)の言葉を守り、わたし(イエス様)の名を否まな」い事である(8節)。そして、力は少しばかりしか無くても良いのだ。
『わたしは、すぐに来る。あなたの冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい。勝利を得る者を、わたしの神の聖所における「柱(ストゥーロス)」にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。』(黙示録3:11-12)
柱(ストゥーロス)には、「最重要人物」の意味もある。
神の聖所において、重要人物として立てられる事も名誉であるが、何よりも、主の聖所の主の臨在の中で、永遠に主の御そば近くで生きられる事は、どれ程の幸いであろう。
勝利を得る者達の上に、主は「名を書き記そう」と約束しておられる。
その名とは、「神の名」と、「神の都すなわち天から下ってくる新しいエルサレムの名」と、「主の新しい名」である。(12節)
自分の持ち物に、自分の名前を書く事によって「これは自分のもの」と周り宣言するように、主は私達の上に、ご自身の名を書きつけて、私達は「主に属するもの」「主のものだ」と明記して下さる。
21章には、天から下ってくる新しいエルサレム、すなわち、小羊キリストの妻である花嫁の記述があるが、勝利者には、その「新しいエルサレム(小羊キリストの妻)」の名も、記されるというのだ。
勝利を得る者は、なんと幸いな事だろうか!
「勝利者」とは、この地上で最後までイエス様のわざを”継続的に”守り続ける人である。(黙示録2:26)
『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。』(黙示録3:13)
これらの事は、現代を生きる私達に対しても語っている。
私達も、勝利者として、これらの素晴らしい特権にあずかれる者でありたい。
酒に酔ってはならない、そこには放蕩があるから。その「放蕩」とは?(エペソ5:10-21)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » エペソ人への手紙
- 執筆 :
- pastor 2016-5-4 23:40
愛されている子らしく、聖徒にふさわしく、光の子らしく(エペソ5:1-9)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » エペソ人への手紙
- 執筆 :
- pastor 2016-4-27 21:50
新しく造られた者に相応しい歩みと捨てるべき性質(エペソ4:25-32)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » エペソ人への手紙
- 執筆 :
- pastor 2016-4-24 20:48
サルデス教会のメッセンジャーに対する書き送り(黙示録3:1-6)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » 黙示録(2回目)
- 執筆 :
- pastor 2016-4-20 23:20
サルデス教会のメッセンジャーに対する書き送り(黙示録3:1-6)
Youtube動画
メッセージ音声
七つの教会の内の第五番目、サルデス教会への書き送りは、次の構造となっている。
1,一次受信者の指定
『サルデスにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。』(3:1)
2,語られるキリストの姿
『神の七つの霊と七つの星とを持つかたが、次のように言われる。』(3:1)
3,賞賛と激励
『しかし、サルデスにはその衣を汚さない人が、数人いる。彼らは白い衣を着て、わたしと共に歩みを続けるであろう。彼らは、それにふさわしい者である。』(3:4)
4,叱責と警告
『わたしはあなたのわざを知っている。すなわち、あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる。』(3:1)
5,勧めの宣言
『3:2 目をさましていて、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたのわざが、わたしの神のみまえに完全であるとは見ていない。
3:3 だから、あなたが、どのようにして受けたか、また聞いたかを思い起して、それを守りとおし、かつ悔い改めなさい。もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない。』(2:25)
6,勝利者に約束されている報い
『彼らは白い衣を着て、わたしと共に歩みを続けるであろう。彼らは、それにふさわしい者である。勝利を得る者は、このように白い衣を着せられるのである。わたしは、その名をいのちの書から消すようなことを、決してしない。また、わたしの父と御使たちの前で、その名を言いあらわそう。』(3:4-5)
7,二次受信者への命令
『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。』(3:6)
今までの教会たちと違い、主はサルデス教会に対して、賞賛の前に叱責を与えておられる。
『サルデスにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『神の七つの霊と七つの星とを持つかたが、次のように言われる。わたしはあなたのわざを知っている。すなわち、あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる。目をさましていて、死にかけている(ready to die)残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたのわざが、わたしの神のみまえに完全であるとは見ていない。』(黙示録3:1-2)
主はサルデスに対し、あなたは、生きているとは「名ばかり(オノマー:名、名声、評判)」で、実は死んでいる、と評価された。
ヤコブは、行いのない信仰は死んだものである、と言ったが、それとは別に、主の御前に「死んだ行い」というものもある。それはすなわち、信仰に由来しない行いである。
『義を追い求めなかった異邦人は、義、すなわち、信仰による義を得た。しかし、義の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法に達しなかった。なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである。彼らは、つまずきの石につまずいたのである。』(ローマ9:30-32)
『だから、あなたが、どのようにして受けたか、また聞いたかを思い起して、それを守りとおし、かつ悔い改めなさい。もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない。』(黙示録3:3)
人は考察する。主はいつ来られるのだろう、と。
実際、主が再臨されるタイミングについては色々な説が提唱され、そのうち、どの説に自分が属するか、という事によって、世界の教会は分断され互いに論争している。
しかし、その現状こそ、死んだ行いであると知るべきである。
なぜなら主は、『その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。』と言っておられるのだから(マタイ24:36-37)。
誰も知らない、御使たちもまた子も知らない、ただ父だけが知っておられる、と主がわざわざ言われた「その日その時」を知ろうとするなぞ、傲慢である。
知る良しもない事は、知らないままにして置き、私達はむしろ、主がいつ来られても大丈夫なように、目をさまして備えておくべきだ。
主は言われた。
『主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。
もしそれが悪い僕であって、自分の主人は帰りがおそいと心の中で思い、その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰ってきて、彼を厳罰に処し、偽善者たちと同じ目にあわせるであろう。彼はそこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。』(マタイ24:45-51)
主はいつ来られるかわからないが、盗人のように来る、という事は、確かである。その日その時を、人は知らない。
だから私達は、主人であるイエス様がいつ来られても良いように、無毛な議論に酔ったり、それでしもべ仲間を打ち叩いたりする事は止め、霊においてしっかりと目を覚まして、任されている聖徒達に、時に応じた御言葉の食物を食べさせるべきなのだ。
主は黙示録16章でも言われている。
『見よ、わたしは盗人のように来る。裸のままで歩かないように、また、裸の恥を見られないように、目をさまし着物を身に着けている者は、さいわいである。』(黙示録16:15)
主がこの事を言われたのは、最後の災いである第七の鉢をぶちまける直前、かえるのような三つの汚れた霊、すなわち、しるしを行う悪霊どもが、全世界の王たちを惑わして、ハルマゲドンに召集する事を示している所に、挿入的に語られている。
終わりの時、私達は、しるしを行う悪霊に惑わされたり、酔わされたりする事なく、目を覚まし続け、「神の七つの霊と七つの星とを持つ」主から目を離さず、御言葉に目を留め続けるべきなのだ。
『しかし、サルデスにはその衣を汚さない人が、数人いる。彼らは白い衣を着て、わたしと共に歩みを続けるであろう。彼らは、それにふさわしい者である。勝利を得る者は、このように白い衣を着せられるのである。わたしは、その名をいのちの書から消すようなことを、決してしない。また、わたしの父と御使たちの前で、その名を言いあらわそう。』(黙示録3:4-5)
サルデスに対する賞賛は、メッセージの後半に少しだけ挿入されている。
それは「その衣を汚さない人が、数人(オリゴス:少し)」しかいなかったからだろうか。
黙示録において主から与えられる「白い衣」とは、殉教者に与えられる慰めの衣であり(6:11)、大きな患難を通って来た全世界の人達が、小羊の血で洗ったものである。(7:14)
そして、小羊キリストの婚姻のために、自らを整えた花嫁に対して、主は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許されている。
「この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである」(19:8)
『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。』(3:6)
私達は、この時代において、聖霊が語られることに耳を傾け、心に留め、そして行うべきである。
結局、正しい行い(それも、信仰に基づいた御言葉に適った行い)をし続ける者にこそ、勝利者に与えられるべき「白い衣」が与えられるのだ。
テアテラ教会のメッセンジャーに対する書き送り 2(黙示録2:12-17)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » 黙示録(2回目)
- 執筆 :
- pastor 2016-4-19 22:50
テアテラ教会のメッセンジャーに対する書き送り 2(黙示録2:12-17)
Youtube動画
メッセージ音声
このテアテラへの手紙で頻繁に登場するキーワードは、「行い(エルゴン)」である。
主は、彼の愛と信仰と奉仕と忍耐と、そして、その「わざ(エルゴン)」が、初めよりもまさっている事を賞賛しており、主は良い事につけ、悪い事につけ、行いに応じて報われるお方だ。
『見よ、わたしはこの女を病の床に投げ入れる。この女と姦淫する者をも、悔い改めて彼女のわざ(エルゴン)から離れなければ、大きな患難の中に投げ入れる。また、この女の子供たちをも打ち殺そう。こうしてすべての教会は、わたしが人の心の奥底までも探り知る者であることを悟るであろう。そしてわたしは、あなたがたひとりびとりのわざ(エルゴン)に応じて報いよう。』(2:22-23)
ここの「女の子供たち」とは、イゼベルの血統的な子孫ではなく、彼女と同じように預言者だと自称して主のしもべに近づいて惑わし、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせる者の事であろう。なぜなら主は、これを「耳のある者」全てに警告しておられるからだ。
主は、全世界の人々の心を探り極める御方である。(23節)
主は、世界中どの教会においても、イゼベルのような心に企みある者を主は見透かしておられる。たとえその者が、どんなに巧妙に人をそそのかしたとしても。
そしてその者達が、その行いを悔い改めないなら、聖徒の交わりに出入り出来なくなるように死の床へと投げ込まされ、また、彼女のわざ(エルゴン)を悔い改めない者も、大きな艱難の中に投げ入れられてしまうのだ。
「わたしは、あなたがたひとりびとりのわざ(エルゴン)に応じて報いよう。」と言われた主は、その事を為される。
『また、テアテラにいるほかの人たちで、まだあの女の教を受けておらず、サタンの、いわゆる「深み」を知らないあなたがたに言う。わたしは別にほかの重荷を、あなたがたに負わせることはしない。』(黙示録2:24)
この、イゼベルの教えを受ける者は、すなわち、サタンの「深み」を「知(ギノスコー:体験する、性的に交わる)」る事になる。
しかし主は、サタンの深みを知っておらず交わってもいないテアテラの残りの人達には、イゼベルが受ける災いの巻き添えに遭わせるような事はされない。
『ただ、わたしが来る時まで、自分の持っているものを堅く保っていなさい。』(黙示録2:25)
この「持っているもの」とは、19節で主から賞賛を受けた、以下の「行い」であろう。
『わたしは、あなたのわざと、あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐とを知っている。また、あなたの後のわざが、初めのよりもまさっていることを知っている。』(黙示録2:19)
主は、これらを最後まで固く保っていなさい、と命じられる。
『勝利を得る者、わたしのわざを最後まで持ち続ける者には、諸国民を支配する権威を授ける。』(黙示録2:26)
この教会において、勝利者に約束されている報いの記述の中には、「勝利者とは何者か」の定義が挿入されている。
それは他の教会には無い独特な点である。
勝利者とは、すなわち、「わたし(イエス様)のわざ(エルゴン)を最後(テロス)まで持ち続ける者」だ。
「最後(テロス)まで」とは、いつまでか。それは、25節からの続きとして見るなら、「イエス様が再臨される時」まで、すなわち「この世の時の終わりまで」、である。
つまり「勝利者」とは、この世界においてイエス様のわざを”継続的に”守り続ける人の事である。
そのような「勝利者」には、主は、次の報いを約束しておられる。
『彼は鉄のつえをもって、ちょうど土の器を砕くように、彼らを治めるであろう。それは、わたし自身が父から権威を受けて治めるのと同様である。』(黙示録2:27)
これと同じ表現が、詩篇2篇にある。
そこでは、諸国の民や王たちが相共に集い、主とその油注がれた方に逆らって、その絆を壊し捨て去ろうと言っている様が記されている。
天に座しておられる主は、それをあざけり笑い、激しい怒りをもって彼らを恐れ惑わせ、そして言われる。
『わたしは主の詔をのべよう。主はわたしに言われた、「おまえはわたしの子だ。きょう、わたしはおまえを生んだ。わたしに求めよ、わたしはもろもろの国を/嗣業としておまえに与え、地のはてまでもおまえの所有として与える。おまえは鉄のつえをもって彼らを打ち破り、陶工の作る器物のように彼らを/打ち砕くであろう」と。』(詩篇2:7-9)
ここの「油注がれたお方」は、すなわち「キリスト(意味:油注がれた者)」を指しているであろうが、今回の黙示録の箇所では、なんと、キリストに独占的に与えられた特権である「鉄の王杖をもって支配する権威」が、勝利した者達にも与えられる事が約束されているのだ。
主のわざを忠実に守り行った人に対しては、報いとして、王権が与えられる、という約束は、イエス様がたとえ話の中でも示して下さった通りである。(ルカ19章)
『わたしはまた、彼に明けの明星を与える。』(黙示録2:28)
明けの明星とは何だろうか。それは22章で、主ご自身が解き明かしておられる。
『わたしイエスは、使をつかわして、諸教会のために、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である。』(黙示録22:16)
明けの明星とは、イエス様ご自身だ。なんと、勝利者には、鉄の支配権威と同時に、イエス様ご自身をも与えられるのだ。
結局私達は、この地上においては、御言葉なるイエス様を握りしめ続けておれば良いのだ。
たとえ、すぐには分からなくても、やがては、御言葉ご自身であられる主が、明けの明星となって、心の中を明るく照らして下さるからだ。
『こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。』(2ペテロ1:19-21)
『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』』(黙示録2:29)
私達もまた、御霊が言われる事に聞き従い、この地上においては、愛と信仰と奉仕と忍耐とに基づいたわざ(エルゴン)を為し、それを手放さずに歩むべきだ。
それには報いがあるからであり、その報いとは、鉄の王権が与えられる事と、イエス様ご自身が私達のものとなるという事である。
いつも「新しくされ続け中」であるはずのキリスト者の歩み(エペソ4:17-24)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » エペソ人への手紙
- 執筆 :
- pastor 2016-4-16 20:59