メッセージ - 講解説教(新約)カテゴリのエントリ
黙示録は恐るべき書であるか?(黙示録1:4-8)
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この書・黙示録の出所元は、神であり、この書が与えられた目的は、キリストのしもべ達(すなわち、私達も含めたイエスキリストを信じる全時代・全民族・全国語の聖徒達)に対して、すぐにでも起こるべき事を開示するために書かれたものであり、そしてまた、この書は集会の中で朗読されるのを前提とした書かれ方である事が、1章1節から3節までの所で分かる。
主はこの書の中で、「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」と、7回も言われた。
そうであるからには、黙示録という書は、全時代・全人類の人が耳を傾けるべき書であるのだ。
『ヨハネからアジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、やがてきたるべきかたから、また、その御座の前にある七つの霊から、』(黙示録1:4)
『今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、「わたしはアルパであり、オメガである」。』(黙示録1:8)
アルファは、ギリシヤ語アルファベットの最初の語であり、オメガは最後の語である。
つまり主イエスキリストは、昔も今も、これから後も、全「時」を超越しておられる御方であり、また、空間も超越しておられる御方である事が宣言されている。
全てのものは「ことば」によって造られており、そして主キリストは「ことば」のはじめなる御方、終わりなる御方、そして、永遠なる御方である。
この書の最初期の段階で、キリストの時空超越性が宣言されているが、同じように、この書を読んで行くに際しても、時間的・空間的概念に囚われてはならないのだ。
もしこの書を、普通の書のように、順番どおり時系列そのままで読み解いていこうとするなら、途中で混乱を来してしまう事は必至だろう。
なにしろ、ある時は太古の事が記されているかと思えば、突然、未来起こるであろう事に話が移ったり、また、ある時所では地上の事が記されているかと思えば、突然、天上の事に話題が移ったりするのだから。
だからこの書を読み進めて行く場合は、この記事は昔の事を言っているのか、今の事を言っているのか、未来の事なのか、あるいは、地上の事を言っているのか、それとも天上の事を言っているのか、といった事を、常に注意しておく必要がある。
『また、忠実な証人、死人の中から最初に生れた者、地上の諸王の支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さったかたに、世々限りなく栄光と権力とがあるように、アァメン。』(黙示録1:5-6)
ヨハネはここで、最初の祝祷をしているが、祝福の源なる御方は、誰であるか。
それは、「忠実な証人、死人の中から最初に生れた者、地上の諸王の支配者であるイエス・キリスト」である。
そう、イエス・キリストは、忠実な証人である。
彼は、父のふところにおられたひとり子なる神であり、その彼が、地上に降りて来られ、神を証したのだ。(ヨハネ1:18)
また彼は、死人の中から最初に生まれたお方、いわば長男である。
最初の人はアダムであるが、彼は死を全人類にもたらしたゆえ、彼の子孫である人は皆、死と呪いの「負債」の中に生きる以外にない。
しかし、最後のアダムであるキリストは、生かす霊となられた。(1コリント15:45)
キリストは私達をこよなく愛され、罪の中に死んでいた私達を生かすために、十字架上で血を流して下さり、『その血によってわたしたちを罪から解放し、わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さった。』(黙示録1:6)
私達は、キリストにあって、王とされ、祭司とされた・・・なんという素晴らしい特権であろう!
この事は、次の御言葉をもっても保証されている。
『あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている。』(1ペテロ2:9-10)
確かに私達には、キリストにあって、王族の祭司としての素晴らしい特権が与えられてはいるが、同時に、そのための務めや責任、そして、それに相応しい立ち居振る舞いも求められている事を、忘れてはならない。
『見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン。』(黙示録1:7)
日本語は「雲に乗って来る」と訳されているが、正確には「雲と共に」、あるいは、「雲に囲まれて」である。
つまり、孫悟空のように筋斗雲のような雲に乗って来るという意味ではなく、栄光の雲、すなわち、圧倒的栄光の内に降臨されるのだ。
その時、「ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見る」と書いてあるが、彼を突き刺した者とは、何も、あのゴルゴダの丘でイエス様を突き刺したローマ兵に限定されるものではない。
イエス様を十字架に突き刺す者とは一体どういう人か、ヘブル書に書いてある。
『いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能である。』(ヘブル6:4-6)
イエス様はゴルゴダの丘で、執り成しの祈りをして下さった
『そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。』(ルカ23:34a)
ここの「言われた」は直接法未完了形であり、すなわちイエス様は、そのとき、ずっと「言い続けて」おられたのだ。
イエス様は今も、「知らずに」イエス様を突き刺しているような人のために、執り成し続けておられ、そして全ての人がイエス様に立ち返る事を、望んでおられる。
無知のため、知らないがために、イエス様を十字架につけたり、キリスト者を迫害する人であるなら、あわれみを受けるチャンスがある。
パウロは言っている。
『わたしは以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった。しかしわたしは、これらの事を、信仰がなかったとき、無知なためにしたのだから、あわれみをこうむったのである。その上、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスにある信仰と愛とに伴い、ますます増し加わってきた。』(1テモテ1:13-14)
しかし、「いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった」のに、その後、敢えてイエス様の尊い贖いを脇に押しのけ、好きこのんで堕落の方向に行くとするなら、その者は、キリストを再び十字架に突き刺し、キリストの尊い贖いの血を汚す者である。
そのような者は、キリストが栄光を帯びて来られる時、胸を打って嘆く者達の側となってしまう。
キリストは人の罪をその身に負うために「一度だけ」ご自身を捧げられるために、この世に降りて来られ、そして贖いを成し遂げられた。
そして二度目、将来来られるのは、主の現れを待ち望んでいる人たちの救いために来られるのであって、好きこのんで堕落の道を楽しむ人々のために再び十字架にかかるためではないのだ。次のように書いてある通りである。
『キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。』(ヘブル9:28)
黙示録は怖い書、というイメージがあるかもしれない。
しかし、黙示録を怖がるべきは「さばきに値する人」、すなわち、キリストに敢えて反抗する者達であって、神を愛する人、その名を信じる人は、怖がる事は一切ない。
確かにキリストにあって歩む人は、迫害を受けたり、試練を受けたり、忍耐しなくてはならない事はあるだろう。
しかし、主の御名の中にある人は、誰一人、永遠の滅びに至る者はない。(ヨハネ17:12)
また私達は、耐えられないような試練に遭うのではないか、酷い迫害に耐えられるだろうか、と恐れたり心配したりする必要も、一切ない。
次の言葉にある通りである。
「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」(1コリント10:13)
「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」(マタイ6:34)
この書は、キリストに贖われて尚、好き好んで罪を犯し続けている者達には、恐れるべき書物であろ。
しかし、主イエス様を愛し、救いを待ち望んでいる人にとって、恐れるべき書ではない。
むしろ、主の来られる時のために、自らを整えるための書であり、約束されている栄光の報いを望み見て、楽しみにしつつ今を整える書とすべきである。
黙示録は誰に対して書かれ、どのように接するべきか(黙示録1:1-3)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » 黙示録(2回目)
- 執筆 :
- pastor 2016-3-16 23:00
黙示録は誰に対して書かれ、どのように接するべきか(黙示録1:1-3)
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『イエス・キリストの黙示。この黙示は、神が、すぐにも起るべきことをその僕たちに示すためキリストに与え、そして、キリストが、御使をつかわして、僕ヨハネに伝えられたものである。ヨハネは、神の言とイエス・キリストのあかしと、すなわち、自分が見たすべてのことをあかしした。』(黙示録1:1-2)
この書の出所元を、原文の順番どおりに辿っていくなら、ヨハネ←キリスト←神、である。
すなわち、この書の啓示(隠された事柄の公開)は、まず、神がキリストへと与えられた。すなわち、すぐにでも起こるべき事を、「その(キリストの)しもべ達」に示すために。
そしてキリストは、彼の御使いをキリストの僕・ヨハネへと使わし、ヨハネはそのキリストから与えられた啓示を、この書に書き記したのである。
この書は、ヨハネが書き記した「手紙」である。
何について書かれた手紙であるか。それは、すぐにも起こるべき事を「キリストのしもべ達」に示すために、だ。
宛先はアジアにある諸教会で、実際、アジアの諸教会で回覧されたが、しかしこの書の出所元は「神」であり、そして神の目的は、「すぐにも起るべきことをその(キリストの)僕たちに示すため」である。
そうであるからには、この手紙は何も、エペソやスミルナと言った当時のアジア地方にある教会にだけ向けられたものとは言わず、全てのキリストのしもべ達、すなわち、私達を含む、全てのキリスト者に向けても書かれたものである。
主はこの書で、7度も言っている。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」と(2:7,11,17,29,3:6,13,22)
だから、耳がついている人は全て、聞くべきなのだ。(当然、これを読んでいる皆さんも)
全て、主にあるエクレシア(教会)である私達は、聖霊が、諸々のエクレシア達に対して言われたこれらの言葉に、耳を傾けるべきである。
だから啓示録(黙示録)は、私達から遠く離してはならない書物だ。
これを書いたヨハネは、自分を「(キリストの)しもべ」と告白している。
そして、ヨハネに諸々の啓示を明かした主の使いも、自分はキリストのしもべであると告白した。
『そこで、わたしは彼の足もとにひれ伏して、彼を拝そうとした。すると、彼は言った、「そのようなことをしてはいけない。わたしは、あなたと同じ僕仲間であり、またイエスのあかしびとであるあなたの兄弟たちと同じ僕仲間である。ただ神だけを拝しなさい。イエスのあかしは、すなわち預言の霊である」。』(19:10)
この啓示を証した主の使いも、これを書き記したヨハネも、皆、イエス様をあかしする「しもべ仲間」であり、「イエスのあかしこそ預言の霊」なのだ。
だから私達も彼らと同じように、イエスキリストをあかしする者、それ以上でも以下でもない、ただ、キリストのしもべである事に留意しているべきである。
そう、私達はいつも、イエスのあかしを保つべきなのだ。
『この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づいているからである。』(黙示録1:3)
この書を学ぶ事がなぜ重要か。それは、「時(カイロス)」が近いからだと記してある。
カイロスとは一定の期間、時機、シーズンを表す言葉であり、これからこの書で明らかにされていく、諸々のシーズンが近いのだ。
すなわち、敵が活躍する事が許される期間、苦難の期間、その敵がさばかれる時機、そして、それらの後に来る聖徒達に栄光が与えられる時。
それらが「近い」から、この書を朗読し、それに聞き、守り行う人達は、幸いなのだ。
この3節には、3つの動詞が出てくる。
すなわち、「朗読し」「聞き」「(書かれてある事を)守り行う」事。
「朗読する」は単数形であり、「聞く」「守り行う」は、複数形である。
つまり、僕者など単数の「語る人」が朗読する、それを会衆が聞く、そして会衆も語る人も、共に「守り行う」。その事を念頭に置いて、ヨハネは書いているのである。
だから、これは教会向けの書なのだ。
啓示録(黙示録)は、「朗読される(読まれる)」べきであり、それに余計な解釈を加えてはならない。
パウロは言っている。
『この手紙があなたがたのところで読まれたなら、ラオデキヤ人の教会でも読まれるようにしてください。あなたがたのほうも、ラオデキヤから回ってくる手紙を読んでください。』(コロサイ4:16)
ただ、読むだけ。
それが当時の説教スタイルでありメッセージなのだ。
ヨシヤ王の時代、祭司ヒルキヤが神殿の掃除をしていた時、神殿の中で見つかった律法の書、すなわち、御言葉を「読み上げる」と、人々はただそれだけで恐れおののき、悔い改めた。(2列王記22章)
また、預言者ヨナも、主から与えられたシンプルなメッセージ、「四十日を経たらニネベは滅びる」と、ただ言って回っただけで、王から奴隷まで12万以上の人々が、40日も経ずして、ことごとく悔い改めた。
ただ神の御言葉を読むだけ。口から語り出すだけ。それだけの所に、大きな力が発せられるのだ。
黙示録に限らず、聖書は、余計な解釈を加えずに、単に読む書物であり、口からそのまま言葉として発すべきものである。
だから、黙示録も「読」めば、御霊が教えて下さるものであり、如何なる時代の如何なる状況の下にある人に対しても、時に応じた示唆や諭し、叱責や慰めなどが、与えられるものである。
私達は難しく考えず、ただ、御言葉を書かれてある通りに受け止めていきたい。
黙示録と向き合うにあたり(黙示録1:1-3)
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ヨハネの黙示録。
聖書の一番最後の書物であり、最も「難解」と言われて来た書であり、おそらく最も議論や解釈の分裂などがなされて来たであろう、色々な意味で特別な書である。
黙示録は、ギリシア語では「アポカルプシス」、この言葉がこの書の一番最初に登場する単語、なおかつ、その言葉は全黙示録22章を端的に表現している言葉でもある。
この言葉を分解すると、
「アポ」(はがす)+「カルプシス(覆っている)」
すなわち、「覆われていたものを露わにする」意味がある。
なお、黙示録の英語「Revelation」は、ラテン語の「revelatio(暴露、すっぱ抜き)」に由来する。
日本語の「黙示録」という訳し方は、あまり良い訳し方ではない。
なぜなら、日本語の「黙示」は、「?はっきりと言わず、暗黙のうちに意志や考えを示すこと」と、「?ユダヤ教・キリスト教で、神が人に隠されていた真理や神の意志を啓示すること」の、互いに相反する、2つの意味を持っており(大辞林 第三版)、そして一般的に黙示録を言う場合、特に?の意味合いが強く打ち出されてしまっているからである。
だから「啓示録」と訳す方がむしろ正しいのだが、いかんせん、一部の異端が既に「啓示」「啓示録」の言葉を採用してしまっているため、この言葉を用いると、誤解されてしまうきらいが無きにしもあらずであるのが、悩ましい所だ。
確かに多くの人々は、黙示録について、何か難しそうで、怖そうな、そして、迂闊にタッチできないようなイメージを持っている。
現に、何十年も存続している教会であっても、黙示録からは一度もメッセージした事が無いケースも多いようだ。
黙示録が難しい、と思う理由の一つとして、黙示録には、暗喩(シンボル)が多い事があげられるだろう。例えば、7つの封印やラッパや鉢による裁き、あるいは14万4千の聖徒達や、象徴的な数字666など。
そして、それらの記事を巡って、多くの解釈が生まれ、「自分達こそ、あの14万4千人である」「自分達こそ、あの二人の証人である」などと主張する異端も、多く生まれてきた。
これらの多くの議論や騒動、分裂や戦いなどの故に、歴史上、何度も煙たがられ、避けられて来た黙示録ではあるが、主は次のように言っておられる。
『この書の預言の言葉を封じてはならない。時が近づいているからである。』(黙示録22:10)
主がそう言われたからには、この書は封じて置くべきではない。
もし上記のような理由によって、黙示録を否定的に考え、封じられてしまっているとしたら、それは、サタンの企みが、成功してしまっている事になる。
もし私達の中に、この書についてメッセージしたり読み解いたり「しないほうが無難だ」という考えがあるとするなら、それをこそ払拭すべきだ。
主が『この書の預言の言葉を封じてはならない。時が近づいているからである。』と言われたのだから。
アポカルプシスは、覆いが剥がされた、隠されていたものが暴露されてすっぱ抜かれた、という意味があり、世の初めから隠され封印されていた事を、主が、一つ一つ剥がし、明らかにして行く書である。
実際、主はヨハネに直接的に見せて下さった幻や象徴の意味を、直接的に解き明かして下さった箇所は、この書の中に多くある。(1:20、17:7,11など)
主が明示して下さった事については、根拠なき解釈を加えたりはせず(例えば、14万4千は私達を意味するとか、主の御前に立つ二人の証人は何処どこの教団である、等)、主が直接説明された事、書かれてある事は、そのまま受け止めていきたい。
また、その場で直接的な説明がされていない場合は、今までして来た通り「聖書の解釈は聖書から」のスタンスに立ち、主が何をそこで言われているのかを、探って行きたい。
御言葉は、全て「連れ合い」があるもので、その互いの御言葉を知る事によって、旧約の預言が新約で成就した事の確証を得たり、あるいはその逆をも知る事が出来るのだ。
『あなたがたは主の書をつまびらかに/たずねて、これを読め。これらのものは一つも欠けることなく、また一つもその連れ合いを欠くものはない。これは主の口がこれを命じ、その霊が彼らを集められたからである。』(イザヤ34:16)
二つのものをひとつにし、隔ての壁を破壊される主(エペソ2:14-22)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » エペソ人への手紙
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- pastor 2016-3-2 23:10
早天祈祷会
ヤコブの手紙概要(ヤコブ1:1-4)
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『神と主イエス・キリストとの僕ヤコブから、離散している十二部族の人々へ、あいさつをおくる。』(ヤコブ1:1)
ヤコブ書を記したのは、主の兄弟ヤコブ、すなわち、イエス様と血の繋がった、イエス様の弟である。
彼は自分を、イエス様の「弟」としてでなく、「主」「イエス・キリストの僕」として立場を表明した。
それだけ、イエス様の公生涯の歩みと、死と復活の有様は、神の子として否定しようがないものだったのだろう。
私達も、血肉としての間柄を離れ、霊的な立ち位置をわきまえるべきだ。
そうでないと、「預言者は故郷では敬われない」事に加担してしまう。
彼はこの手紙の宛先を「離散(原語:ディアスポラ)している十二部族の人々へ」としている。
すなわち、迫害により世界各地へと散らされ、散らされた先々で根付き、実りを実らせているキリスト者達に、である。
こ のヤコブ書は、信仰による救いよりも「行い」を重視しているという事で、マルチン・ルターからは「藁の書」だと言われ、彼は何度も正典から外そうとされた が、あいにくこの書は、信仰を持っていない人に対して書かれた救いへのインビテーションではなく、既に信仰に入ったキリスト者達が、迫害の困難の中にあっ ても、いかにキリスト者として生き、成熟して行くべきかを、指南し、慰め、励ますための書なのだ。
だから、ヤコブは言う。
『わたしの兄弟 たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。あなたがたの知っているとおり、信仰がためされること によって、忍耐が生み出されるからである。だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい。』(ヤコ ブ1:2-4)
試練に遭うのは練られるため、そしてますます欠点が無くなり、完成へと近づくものである、だから、むしろ喜べ、と言われている。
そ れは、苦しいのに歯を食いしばって、無理やり「喜んでいます」と、ちぐはぐな事を言う事ではなく、むしろ試練にあわせられるのは、主はその人を成熟に近づ いている者として見ておられ、報いが実体として来る時が近いのだ、と、心の底から喜び楽しみにするべき時だと言っているのだ。
『そういう わけだから、わたしたちは、キリストの教の初歩をあとにして、完成を目ざして進もうではないか。今さら、死んだ行いの悔改めと神への信仰、洗いごとについ ての教と按手、死人の復活と永遠のさばき、などの基本の教をくりかえし学ぶことをやめようではないか。』(ヘブル6:1-2)
肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けた私達(エペソ2:11-13)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » エペソ人への手紙
- 執筆 :
- pastor 2016-2-27 0:29
人は皆同じではなく、いのちが全く異なる二種類がいる(エペソ2:1-10)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » エペソ人への手紙
- 執筆 :
- pastor 2016-2-20 9:56
キリストにあって与えられた特権がどれ程素晴らしいか、知る事が出来ますように(エペソ1:15-23)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » エペソ人への手紙
- 執筆 :
- pastor 2016-2-13 20:48