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メッセージ - 講解説教(新約)カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:キリストが形造られるまで(ガラテヤ4:12-20):右クリックで保存
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パウロがそれまで、ガラテヤ人に語気荒く戒めるような内容を書いてきた理由は、彼らを情熱をもって愛し、良くなって欲しいと本気で思っているからであったが、本日の箇所では幾分、嘆願するような語調へと変化している。
「わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。兄弟たち、お願いします。」(12節)

パウロが堂々と「わたしのようになってください」と勧める事が出来たのは、彼は元々誇り高き律法を持つユダヤ人であったにもかかわらず、キリストにあって自由な者として模範を示し、少しでもガラテヤ人を救おうとして、ガラテヤ人のようになったからである。

彼がガラテヤに福音を伝えた理由は、パウロが弱かったからと13節に書いている。
恐らく彼は元々、ガラテヤに留まるつもりはなかったのに、たまたま何らかの疾患に罹ってしまって留まる事となり、その病状ある体のまま、そこで福音を伝えた所、いのちの広がりを見せたようである。
主は実に、人の理解を超えた導きをなさる。
パウロの病気は具体的に何であったかは分からないが、14節によると、それは人が見たら試練となるような、また軽蔑の対象となってもおかしくないような症状であったようだ。
にもかかわらず、ガラテヤ人はかえってパウロを御使いのように、キリスト・イエスご自身であるかのように迎えてくれた。

ガラテヤ人に当初あったその愛情は、人間的な博愛や道徳によるのではなく、彼らの内に形造られたキリストの故であり、彼らの中に形作られたキリストご自身 にあって、そのような状況のパウロを喜んで迎え入れ、御使いやキリストそのもののように扱い、目をえぐり出して与えたいとさえ思ったのである。

しかし彼らは、そのはじめの愛、はじめの喜びから離れてしまった。
何によってか。それは「熱心な人々」によって惑わされたからである。
その者達が熱心だった理由は、ガラテヤの人達を自分に対して熱心にしたかったからであって、ガラテヤの人たちをキリストに対して熱心にさせたいからでは決してなかった。(17節)
ガラテヤの人達を自分たちに熱心にさせ、上に立って支配するようになり、そうして、ガラテヤの人たちをキリストにある恵みから締め出してしまったのだ。

かつては、目をえぐり出して与えたい程までパウロを愛してくれたガラテヤ人が、かの者達に惑わされ、そこをパウロが真理を語ったがために、パウロの敵になってしまうとしたら、どれほどパウロにとって辛い事だっただろうか。

「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。」(19節)
パウロが心血注いで苦心したのは、ガラテヤの人達の内にキリストを形作る事だった。
私達が歩むべきは、立派な行いの追求ではなく、人道的・博愛的な人間になろうと頑張る事ではなく、キリストが形作られ、そのキリストによって歩む事である。
ますますキリストがはっきりと形造られ、キリストの身丈にまで成長していく皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
 

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
1ペテロ1:1-5:右クリックで保存
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礼拝説教メッセージ音声:花婿ならぬ花婿の影を慕う花嫁(ガラテヤ4:8-11):右クリックで保存
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ガラテヤ人達は救われる以前、神ではない偶像の神々の奴隷で、その点は日本人と良く似ている。
仏式の葬式を経験された方はご存知の通り、諸々の法要や○周忌など、多くの気遣いやお金、労力がかかり、そうした事が発端となって、兄弟や親類とトラブルが発生し、関係が悪化する事も良くある。
神ではない人間や企業、あるいは誰かの作った搾取システムなどを「神」の座に据え、その仕組みに乗っかってしまうと、束縛の中を生きざるを得ないのだ。

「しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。」(9節)
偶像の神々は明らかに無力で頼りにならないが、それまで一度も守っても見なかったくせに、律法の教えを有り難がって新たに守ろうとする事もまた、無力、無価値な支配する諸霊の下に逆戻りする事なのである。

「律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。」(ヘブル10:1-5)
パウロにとって、彼がキリストへと導いた人々は皆、キリストへと嫁がせた花嫁である(2コリ11:2)はずなのに、その花嫁たちが、嫁いだ先の本体・キリストを離れて、キリストの影である律法に仕えるようになってしまった事を、彼は嘆いている。
例えば、女性が男性その人を愛するのではなく、男性の「影」を恋い慕うような、あるいは、3次元世界でいのちを持って生きている人間よりも、2次元世界のみに存在する命の無いアニメキャラなどを愛するような事をしているのだ。
キリストという実体ではなく、キリストの影である律法を求める行為は、そのようなものである。

『キリストは世に来られたときに、次のように言われたのです。「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、/むしろ、わたしのために/体を備えてくださいました。』(5節)
ここでは、私達のために備えられたのは「体」と書いてあるが、この引用元である詩篇40編は「体」ではなく「耳」であると書いてある。

神様が私達に備える「体」に匹敵する重要な器官は、耳である。
人はうわべを見るもので、目に頼ると惑わされやすく、例えば律法の行いや、目に見える儀式などを見ると、それを自分も行いたくなる。
しかし、目を使うのではなく、耳を使って御言葉が何を言っているか聞いて従えば、大体間違える事はない。

「主が喜ばれるのは/焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり/耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。反逆は占いの罪に/高慢は偶像崇拝に等しい。」(1サムエル15:22-23)

見えるものに拠らず、信仰によって歩み、祝福を得る皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:アッバ父と呼べる関係(ガラテヤ4:1-7):右クリックで保存
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高貴な家柄に娘が生まれた場合、後見人や家庭教師をあてがわれ、成人して嫁ぐまでに、様々な花嫁修行をする事になる。
同じように、イスラエル民族には「律法」という家庭教師があてがわれ、食事のマナーや、どのような人と付き合っていいか悪いか、結婚した場合はどうすべきか、礼拝する時のマナーなど、神からの直接的な高等教育を受けた。
イスラエル民族はことさら、罪や穢れに陥らないようにと、礼拝規定については事細かに教育されて来た。
それは嫁ぐべきお方のためである。

娘がいよいよ成人し、親が良しと見た時、家庭教師の管理から解き、しっかりした花婿に嫁がせるが、同様に神様も、花婿なる御子イエスをイスラエル民族に示し、彼へと嫁ぐようにされたが、イスラエル民族の多くはなんとその花婿を拒否してしまい、家庭教師である律法から離れようとしなかった。

娘は嫁ぐまで、親元でしっかり家庭教師の言う事を聞いて花嫁修業するが、嫁いだ時は、嫁ぎ先の主人に従うものである。
しかしガラテヤの人達は、イスラエル民族が犯してしまったように、嫁いだ花婿キリストを差し置いて、以前の家庭教師である律法に戻るような過ちを犯したわけである。

今、私達はキリストを花婿とし、父なる神をアバ父と呼ぶ事の出来る御霊が与えられている。
アバとは、子供が父親に親しみを込めて言う「お父ちゃん」のような呼び方である。
父を敬う事が行き過ぎて、「御座い天の父なる御神様(ございてんのちちなるおんかみさま)、、、」と言うような、異様に畏まった祈りをする人もいるが、今や、父なる神様と私達との関係は、子とする霊にあって、奴隷と主人のような差別的上下関係ではなくなっているため、そのような親しみの無い祈りは、本来的ではない。
「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。」(ローマ8:15)

私達は、キリストに対しては妻、父なる神に対しては義理の娘としてアバ父と呼べる関係となり、キリストとの共同相続人とされた。(ローマ8:17)
もはや家庭教師に従うのではなく、新婦として、花婿なるキリストに全面的に頼るのが、本来的である。

子とする霊にあって憐れみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づく皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:律法とは2:キリストへと導く養育係(ガラテヤ3:23-29):右クリックで保存
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律法とは、違反を示すためのものである事を前回見たが、律法のもうひとつの意義は、キリストの元へと導く養育係である事だ。
「こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。」(24節)

ユダヤ人は、年ごと日ごとに犠牲の子羊が屠られ捧げられるのを目で見、鳴き声を耳で聞き、自らの罪に痛みを覚える度に「ただ一度犠牲が捧げられて全ての罪が清められるまことの子羊は無いものだろうか」と、全人類を救うメシヤに思いを馳せ待望した事だろう。

キリストこそまことの子羊であり、人類全体の贖いを、ただ一度で成し遂げられた。
「ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。律法は弱さを持つ人間を大祭司に立てますが、律法のあとから来た誓いのみことばは、永遠に全うされた御子を立てるのです。」(ヘブル7:27-28)

律法は、罪ある自分を晒し出し、まことの贖い主なるメシヤへと心を向けさせ、行いによるのではなく信仰による救いへと導く、「養育係」としての役割もある。

キリストを信じた者は、キリストを着る者とされ、キリストへと接合され、神の子となった。
「洗礼(バプテスマ)を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」(27節)
洗礼(バプテスマ)には「浸しこむ」という意味があり、キリストへと浸しこまれた者には、もはやユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女も無い。キリスト・イエスにおいて一つであり、そして信仰によって皆、アブラハムの子孫である。

ますますキリストを信じ、キリストに浸しこまれ、キリストの香りをさらに放っていく皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:律法とは1:違反を示すためのもの(ガラテヤ3:15-22):右クリックで保存
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例えば、親が遺言を残し、一たびそれが発せられたなら、後になって誰かがそれに付け加えたり減らしたりできないように、アブラハムに与えられた契約(別訳:遺言)も同じである。
『主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」
アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。』(創世記15章5-6節)
この契約は、アブラハムの時代から現代に至るまで、そして、これからも決して減らされたり、加えられたりしない、信じた者に対して有効な、永遠に変わらない契約である。

ここの「子孫」(ゼラ:種という意)には、単数形が使われている。
つまり「子孫たちに」と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っており、その「ひとり」とは、キリストの事である。
アブラハムは信仰によって義とされた「信仰の父」であるが、キリストを信じてキリストにつながる者達も、信仰によって義と認められ、神の民に加えられ、生んで増えて地に満ちる祝福が、自分のものとなる。

つまるところ、救いに関しては、信仰を持った者だけが救われ、人間が何か行いによってそれに加えたり、減らしたりは、出来ないのだ。

「では、律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。」(19節)
主によって定められた契約に、付け加えられるべきものは何も無いからには、後に付け加えられた律法は、「信仰によって救われる」事に対して、直接的には何の関与もしない性質のものである。
その証拠に、21節で「もし人を生かす力のある律法が与えられていたとすれば」と、仮定法が使われているからには、律法は、人を生かす力が無いのである。

では律法とは何か。
それは、私達に違反がある事を示すためのものである。

アブラハムの子孫は、信仰によって救われる。では一体、「何」から救われるのか。
その「何」を示すもの、それが律法であり、その「何」とは、私達の内にある罪の性質、神の基準に従い尽くす事が出来ない違反の性質である。
その性質を示すのが律法であり、その性質から救い出されるのが、キリストへの信仰によるものである。
「しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。」(22節)
私達はイエスにあって、真っ黒な罪の性質から、純白な汚れ無き者へと造り変えられ、この暗闇の時代から光の子として救われたのである。

神様がアブラハムを外に連れ出し、「外に出て星を見なさい」と言われ、アブラハムが夜空を見上げた時、夜空には数え切れないほどの星々が輝いていたことだろう。
暗闇の中に輝くきれいな星、、、大きな星もあれば小さな星もあり、赤い星も青い星もある。
「あなたの子孫は、このようになる」と神は言われたが、その子孫であるキリストを信じて救われた皆さんは、今、真っ暗な闇の世界にあって輝く星々のようではないだろうか。

「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」(エペソ5:8)

礼拝説教メッセージ音声:呪い以外の何者でもない行い追求(ガラテヤ3:10-14):右クリックで保存
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人は、律法の行いのどれかを成した事によって、それによってあたかも自分が霊的次元が高まったかのような錯覚に陥るが、一たび、律法によって義を得ようとする路線に乗ってしまうと、呪いの束縛に入ってしまう。
律法は365の「してはならない」と、248の「しなさい」によって構成され、その一つでも破る者は違反者となり(ヤコブ2:11)、違反者は呪われる者となってしまう(申命記27:26)からである。

結局、人間は律法の要求を全うする事は不可能で、人間は誰でも呪いの内にある事を律法は示し、罪の性質がある事を暴くのみである
そのような律法によって生きようとする者には、漏れなく、呪いもついて回る。
「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。」10節

キリストは、そんな呪いの内に束縛されている私たちを解放するため、自らが十字架上で呪われた者となって下さり、いのちを差し出して私たちを買い戻して下さった。
それを信じる私たちに、呪いからの解放と自由が与えられるのである。

アブラハムも、アベルも、エノクも、信仰によって義と認められた。(ヘブル書11章)
行いによる義を追及して行けば行くほど、束縛が増して行き場を失うが、キリストにある信仰によって義とされる真理は、知れば知る程自由になり健やかになっていく。

さらに真理を知り、さらに自由にされていく皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:行いによらず信仰によって(ガラテヤ3:6-9):右クリックで保存
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アブラハムはイスラエル民族の父、イスラエルのアイデンティティの根源であるが、そのアブラハムが神に選ばれ、義とされたのは、律法の行いなどではなく、実に、信仰によってであった。
「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」(ガラテヤ3:6、創世記15:6)

アブラハムに子が与えられたのは、人間の力によっただろうか。否、100%神の力による。
神は「全能の神」として現れ、人としての生殖機能が完全に死んだ89歳の不妊の女サラに、来年の今頃、あなたには子が生まれている、と仰せられた時、サラは力なく笑うしか無かったが、神に不可能は無かったのである。
人間は神の御業に何か付け加えて、御業の完成をさせる事ができるのだろうか。
それも否、神のなさろうとする御業は元々完全であり、人間が何かの行いや頑張りによって、それに何か付け加えようとすると、逆に災いしかもたらさない。

アブラハムさえ、中々成就されない神の約束を、人間的な力や頑張りによって成就しようとして、後々にも災いの根を残すような失敗をしてしまった。

「サライはアブラムに言った。「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。」アブラムは、サライの願いを聞き入れた。」(創世記16:2)
サライが「主はわたしに子供を授けてくださいません。」と言ったからには、子を生ませないのは「主」だと知っていた。
だから主に祈ってお願いしよう、という発想に行き着かず、では私たちで出来る事を頑張りましょう、という発想になってしまった。
その結果、主は13年も沈黙され、人間的な頑張りによって奴隷女ハガルとの間に生んだイシュマエルは、後のアブラハム一家に争いと分裂を引き起こし、今日においても、イサクの子孫イスラエル人とイシュマエルの子孫アラブ人は、骨肉の争いをし、今日の世界全体に、大きな災いをもたらす事になってしまった。

人間が自分の力で足掻くなら、神はその人が力果ててあきらめるまで沈黙して待たれる。
いよいよ肉的な力が尽き果てた時、神は「全能の神(エル・シャダイ)」として現れ、99歳と98歳の夫婦に「来年の今頃、あなたには子が生まれている」と仰せられ、しかもアブラムにはアブラハムという新しい名を、サライにはサラという新しい名を与え、この夫婦から国々が生まれ、王たちが生まれる事を宣言される。
それは人の耳には実にばかげており、サラも笑ってしまったほどだが、実際にその次の年、その通り神の約束された事が成就し、何世紀か後には子孫は多くなり、数々の王達が生まれた。

イスラエル民族の父祖アブラハムが救われたのは、彼が格別善人で、行状が良かったからだろうか?否、神の一方的な選びによった。
彼が義とされたのは、彼が律法の行いをしたからだろうか?否、彼が信じたからである。
私達の救いも同じであり、人間の身勝手な頑張りは、有害しか生み出さない。

神の御業はあたかも不完全であるとして、神抜きの人間の力で足掻こうとするのは、罪である。
神は救って下さるお方であるという信仰により救いを得て、大いに栄える皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:ああ愚かな!(ガラテヤ3:1-5):右クリックで保存
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たとえば、あなたが記憶に残っていない程の小さい時、父親が道路に飛び出したあなたを助けるために、身を挺して身代わとなり、車に轢かれ、死んでしまったとする。

後にあなたが「私は、かけっこが早いから、あの時、自分の足でがんばって走って救われた」と言うとしたら、母親は叫んで「ああ、なんて愚かな子。お父さんが目の前であんなにはっきり命を挺して守ってくれたのに、誰がそんな風に惑わしたの!」と嘆くだろう。
「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。」(ガラテヤ3:1)
もし、自分のかけっこのお陰で救われたと、あくまで主張するなら、それこそ父親の死は無駄であり、父に対して失礼である。
同じように、私たちも行いによって救いを完成しようとするのなら、それこそキリストの死は無駄であり、命を投げ出して下さったキリストに失礼である。

私達がアダムの腰の中にいた時の記憶は残っていないが、確かにその時、私達もアダムと共に不従順へと飛び出し、それ以来、神から離れた善悪判断によって生きるよう、生まれながらの罪の性質がインプットされてしまった。
しかし、そのような罪へと飛び出してしまった私達を、キリストが身代わりになって死んでくださり、そして、よみがえって下さった事を、信じる信仰によって救いが与えられ、御霊が与えられ、奇跡的な救いの喜びの日々へと入れられた。
救いは決して、私達の行いや努力によるものではない。

キリスト者は救われた当初、限りない喜びを体験し、健やかな救いの自由に喜びをもって浸り、どんどん魅力的になっていくものだが、なぜか、日を追うごとに疲れ、くたびれ、魅力も無くなって行き、中には病んでいく人もいる。
そのような人は、ガラテヤ人ような罠に陥っているからだ。
そっと忍び込んだサタンの使いが、私たちを奴隷に引き落とそうとして、キリスト・イエスにあって私たちの持つ自由をうかがうために忍び込み、あたかもキリストの十字架の死だけでは不十分であるかのように吹き込み、私達に罪の呵責へと追いたて、良い行いを強いさせ、そのようにして罠に陥れられて行くのだ。

騙されてはならない。
キリストが言われたのは「あなた方にさらに重荷を負わせて疲れさせてあげよう」ではなく「重荷を降ろさせ休ませてあげよう」であり(マタイ11:28-30)、「真理はあなたを束縛する」ではなく「自由にする」である(ヨハネ8:32)。
福音は、勝利の良い知らせであり、敗北の悪い知らせではない。
もしキリスト者になった事で束縛を感じたり、病んだり、重荷をさらに負わされたのであれば、ガラテヤ人の罠に陥ったのではと疑い、再び御言葉を点検し、人にではなくキリストに聞き、再び真理へと戻るべきである。

私達に救いを、自由を、解放を、命を投げ出してまで提供して下さったキリストの愛をますます知り、罪と死から解放された自由を満喫し、喜びをもってキリスト者として生活していく皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:ピスティス・クリストゥ(ガラテヤ2:15-21):右クリックで保存
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律法の実行によって、義とされる者はいるのだろうか?
答えは否である。
「人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。」(16節)

万引きをして捕まったとして、「私は母の肩を叩きました」とか「学校の雑草を抜きました」とか、良い行いをして来た事をいくら並べた所で万引きの罪は消えないように、人は生まれながらアダム以来抱えている罪を抱えている限り、律法の行いをいくら守ったところで、罪が消えるわけではない。
万引きしたら、それなりの罰を受けたり償いをしなくては罪は消えないように、人類が抱えている罪も、それなりの罰を受けるか、償いをしなくては、罪は消えない。
その罪の罰を身代わりに受け、償いを払って下さった方が、イエス様であり、このイエス様を信じる信仰によって私達は義とされるのである。

かつての私達は、律法が示されると、自分の内に罪があることが示され、かと言ってその罪をどうしようもできずに、苦しんでいた。
しかし「キリストを信じる」という、芥子種ほどの信仰を働かせた事によって、そのような以前の、罪vs律法の終わり無き葛藤の人生に対して、死んだ。
何によってか?それは、キリストの十字架につけられた事によって、である。
「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(19,20節)

16節の口語訳/新改訳は「キリスト・イエスを信じる信仰によって」とされているが、ここはピスティス・クリストゥ、すなわち「"キリストの信仰"によって」が正しい。(KJV:by the faith of Jesus Christ)

生まれながらにして持つ人間の性質に対して、十字架にあって死んだ私達は、もはや以前のような宗教的な頑張りによって生きるのではなく「キリストの信仰」によって生きている。
キリストの信仰とは、わずかのパンと魚で何千人もの必要を満たし、病や悪霊を追い出し、死人を生き返らせ、魚の口から税金を払える銀貨さえ出したような、あの信仰である。
人間由来の信仰では、そのような事はありえない。
ただ、キリストの信仰によって生きるから、そのような事がありえるのである。

結局、自分の頑張りや信仰ではなく、「イエス様を信じた」(believe in Jesus)事によって以前の自分は死に、死んで甦ったキリストが私達の肢体の内で生き、その"キリストの信仰"によって(by the faith of Jesus Christ)私達は生き、このキリストにあって、全ての事は可能なのである。
このキリストの信仰によって生きる皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

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