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メッセージ - 講解説教(新約)カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声 ヤコブ5:13-20(音声のみ)

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礼拝説教メッセージ音声:人を恐れると罠にかかる(ガラテヤ2:11-14):右クリックで保存
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「さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。 なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。」(ガラテヤ2:11-12)

ケファとはペテロの事であり、全教会から尊敬を置かれている牧師長のようなものだったが、彼は割礼を受けている者達(ユダヤ人改宗者)の目を見て恐れ、今まで異邦人と食事をしていのに、異邦人から段々と身を引いて行くようになってしまった。

それを見た他の人たちも引き込まれ、それまで何のわだかまりも無く異邦人と食事をしていたのに、引け目を感じ出し、ペテロに習って異邦人を避けるようになり、そして、パウロをクリスチャンの集まりへと導いたバルナバさえも、そのような心へと引き込まれてしまった。
「あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています」(ヤコブ3:1)

異邦人を避けるような空気を作ってしまったペテロを戒めたのは、いわば新参者であり、エルサレムの偉い指導者達とはあまり関わりの無かった、パウロであった。
なぜ古参の指導者達にそれが出来ず、新参者の彼にそれが出来たのか。

それは、彼は人ではなく、神を恐れていたからであり、エルサレムの偉い人たちに導かれたのではなく、直接キリストに導かれていたからである。
「人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである。」(箴言29:25)
牧師長などの指導者も含め「主だった人」や他人の目を気にし出すと、人は罠にかかるが、主にのみ信頼し、御言葉を拠り所とする者は、決して過ちに陥る事は無い。

ペテロはそのパウロに、皆の前で、面と向かって前でたしなめられた時、きっと、ものすごく恥ずかしい思いをしただろう。
しかし彼は、それによって、本心と異なった行動を改めた事だろう。
彼が本心と偽った行動をした時、恥じ入って悔い改める理由は十分にあった。
なぜなら彼は、まだ異邦人伝道が無かった頃、主から幻によって「主がきよめた物をきよくないと言ってはならない」と3度も示され、ためらわず異邦人の中に入って行き、異邦人に聖霊が与えられたのを見て、異邦人に洗礼を授け、異邦人と食卓を共にし、異邦人への救いの道を主イエスにあって開いた経歴の持ち主である。(使徒10章)

そのペテロが人間を恐れて、良心に背いた行動をした時、また、人々がペテロに見習って同じように異邦人を避け出した時、きっと「しまった」と思ったのではなかろうか。
そしてパウロに皆の前でたしなめられた時、心は恥ずかしく痛くても、きっと救われた思いがしたのではなかろうか。

私達も人目を恐れ、権威ある人を恐れる時、同様の罠に陥る事がある。
もし教会の指導者たる者が、自ら進んで人を差別したり、うそをついたり、争いやねたみ、陰口、党派心などといった、御霊の実に反する事を率先して行ったり、人に勧めるのであれば、その仲間入りするのではなく、パウロのように、恐れず御言葉をもって諭すべきである。
(私も極力、御言葉の真理を貫くよう務める所存であるが、もし私が、御言葉の真理から離れてしまったり、人目を恐れたりするのを見た暁には、遠慮なく指摘していただきたい。)

人の目を気にするのではなく、キリストを気にし、キリストにある秩序を保ち続ける皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:主は誰か?(ガラテヤ2:6-10):右クリックで保存
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「そして、おもだった者と見られていた人たちからは、――彼らがどれほどの人たちであるにしても、私には問題ではありません。神は人を分け隔てなさいません。――そのおもだった人たちは、私に対して、何もつけ加えることをしませんでした。」(6節)
この「おもだった者」「と見られていた」「人たち」という短い言葉から分かるのは、主(おも)たる者は、人間の誰かでも組織でもなく、主イエスキリストである、という事だ。

パウロがエルサレムに行った時、ペテロ達がパウロに唯一指示した事といえば、貧しい人たちをいつも省みるように、という事だけで(10節)、半年に一度はエルサレムの牧師会に参加しなさい、といった事は、一切無かった。
ヤコブやペテロが交わりのしるしとしてパウロに右手を差し伸べ、パウロ達が行っているミニストリーにあれこれ指示する事が無かったのは、アンテオケの聖徒達の内にキリストが生きて働かれておられるのを認め、そのキリストに全面的に安心して委ねられたからである。

人間組織には必ず「おもだった人」がおり、会議などで上意を下達したり、集団としての意識を合わせたり、調整したりするが、初代教会においては、キリスト者それぞれの内に生きておられるキリストに聞き、支配していただき、キリストの意向に沿って物事が為されていた。

しかし、クリスチャンと呼ばれる人が、誰しも、キリストに支配されて働いているわけではなく、その場合は、人間の知恵によってではなく、キリストにあって注意深く取り扱われなくてはならない。
エルサレム使徒会議において、律法を押し付けるよう者達の意向は、キリストの為された業に照らし出された結果、退けられ、キリストを信じる信仰によって救われるという、主の意向が勝利したように、私達も、キリストの意向を中心にいつも据えるべきである。

教会(エクレシア)とは元々、キリストに召しだされた者達の集まりであり、キリスト抜きの組織や会議といった、人間だけの思惑によって運営されるものではない。
ペテロやパウロといった「人間という器」が重要なのではなく、信じる者を成長させ、働き人に使徒としての権限や力を与え、教会を建て上げて下さる「主イエス」こそ、重要である。

それだから教会には、与えられた賜物を存分に発揮できる自由さと、いのちの躍動があるのだ。
人に支配されるのではなく、キリストに支配され、キリストにある自由の中を存分に生き、働ける皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ヤコブ5:7-12:右クリックで保存
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礼拝説教メッセージ音声:真理を妥協するなかれ(ガラテヤ2:1-5):右クリックで保存
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ある人々が「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教え、それによって混乱が生じた時、パウロ達は決して妥協する事なく、使徒や長老たちに協議するために、エルサレムへ上った。(使徒15:1-2)
これがいわゆるエルサレム使徒会議である。

この会議で主が為して来られた御業の数々が挙げられ、それらを総合すると、人の救いは、ただ信仰によって以外には考えられない事が明らかとされ、律法を異邦人にも強要して悩ませてはならない、という結論に至った。
もしパウロがあの時、少しでも譲歩していたらなら、私達異邦人にここまで福音は広まっていなかった事だろう。

「聞くところによると、わたしたちのうちのある者がそちらへ行き、わたしたちから何の指示もないのに、いろいろなことを言って、あなたがたを騒がせ動揺させたとのことです。」(使徒15:24)
割礼など律法の行いを強要しようとした者達は、元々、エルサレム教会から何の指示も無いのに、勝手にそのように言って、混乱させたのだ。
アンテオケの教会は真理を妥協しなかったお陰で、健全に成長して行ったが、福音に混ぜ物する輩は古今東西後を絶たないもので、ガラテヤ人達は、それによって惑わされてしまった。

「潜り込んで来た偽の兄弟たちがいたのに、強制されなかったのです。彼らは、わたしたちを奴隷にしようとして、わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらい、こっそり入り込んで来たのでした。」(ガラテヤ2:4)
偽の兄弟たちは一見正しい事を言っているようで、神に仕えているかのように見えるが、心の中はそうではなく、律法に通じている事を自慢の種にして、主にある兄弟姉妹達を支配して、上の立場に立ち、偉ぶりたいのだ。

「福音の真理が、あなたがたのもとにいつもとどまっているように、わたしたちは、片ときもそのような者たちに屈服して譲歩するようなことはしませんでした。」(ガラテヤ2:5)
単に偉ぶりたいがためにキリストの福音を曲げてしまうような輩に対しては、パウロのように、一歩も譲歩してはならない。

パウロが地中海方面に福音を広める事が出来たは、パウロの力というより、パウロの伝えた福音の御言葉そのものに力があったからだ。
パウロは福音を混ぜ物する事なくダイレクトに伝え、御言葉の純度を保つ事において少しも妥協しなかったからこそ、御言葉自らが人々をいのちに満たし、造り変え、そうして福音が広まっていったのである。

真理を曇らせる者達に決して譲歩する事無く、御言葉なるキリストご自身に働いていただくように、主に用いられる皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:キリストを目指した歩み(ガラテヤ1:11-24):右クリックで保存
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「兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。」(11節)
ガラテヤの聖徒達を惑わした偽使徒達は、エルサレム教会のお墨付きである事など、人間的な事を根拠に、自分達の権威を主張したが、パウロはその真逆で、人間的な所に根拠を置く事は一切排除し、ただキリストによってのみ召しだされ、導かれ、宣教のわざを為した事を主張したのが、本日の箇所である。

パウロは元々パリサイ人で、キリスト者達を牢に入れたり、死刑に定めたりして来たのに、ある日突然逆転し、キリストを迫害する者から、宣べ伝える者へと変えられた。
その事は、当時のキリスト者には誰にも知られていた所である。
それは人間業ではなく、ただキリストご自身が、圧倒的な臨在と力によってパウロを造り変えた、としか説明がつかない。

パウロが造り変えられた時、そ事の相談は、パリサイ人の先生にも、キリスト者の使徒にも相談する事は出来ず、彼は主と一対一で向き合うためにアラビヤ(荒野)に出て行き、そこでおそらく主との直接的・濃密な時間を過ごした事だろう。(16-17節)
それから3年後、彼はエルサレムに行くが、ペテロと交わったのは僅か15日のみ、また、主の兄弟ヤコブの他は使徒には会わず、すぐにシリヤおよびキリキヤの方へと退いた。

そういうわけで、彼は、偽使徒達が誇りにしていたエルサレム教会とは、ほぼ接点は無かったが、しかし彼はエルサレム教会のどの使徒よりも、力強く主にあって働いた事は、明白な事である。
パウロは、ペテロが神を見ず人を見て、本心に偽った行動を取っていた事を、面と向かって責め立てた程、信仰の面で研ぎ澄まされていた。
エルサレムの指導者達の集まりの中で安穏としていた大使徒達に比べ、荒野で主と一対一で交わったパウロの方が、健全な信仰だったわけである。

キリスト者が信仰生活を歩む上で欠かせないのは、主イエスキリストと直接的に出会い、主と一対一で向き合う事である。

キリスト教といえば、弱い人を憐れんだり、社会活動をしたりする人達だと思う人もいるだろうし、あるいは魅力的な牧師と出会って、彼のような人格者になりたいと思う人もいるかもしれない。
素晴らしいキリスト者を模範にするのは大いに結構だが、そのように、人間の誰かを第一として目指す歩みは、実は「キリスト者」とは言えない。
キリスト者が目指すべきは、素晴らしい牧師のような人格者になる事ではなく、キリストから目を離さず、キリストご自身を目指すべきである。

アンテオケで「キリスト者」と呼ばれるようになった根拠は、元々、彼らは「キリスト気違い」と揶揄される程、キリスト、キリストしか無い者達だったからである。
キリスト者とは、キリストと出会い、キリストに魅せられ、キリストのために生きる者達である。

私達が日々歩み続ける目標は、どこにあっただろうか。
キリスト以外にあった場合は、キリストへと軌道修正したい。

礼拝説教メッセージ音声:早速の叱責(ガラテヤ1:6-10):右クリックで保存
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「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。」(6節)
パウロの他の手紙で1章6節といえば、まだ賛辞や挨拶が続いているはずであるが、ガラテヤへの手紙に限っては、早速叱責へと移っている。
キリストは、私達の罪のために命を投げ打って救ってくださったというのに、そのキリストを早くも離れ、ほかの福音に乗り換えつつある事を、パウロは驚愕したからである。

敵は私達に与えられている自由を妬んで、私達から自由を取り上げ、束縛の奴隷へと落ち込ませようとして、忍び込んできている。
「潜り込んで来た偽の兄弟たちがいたのに、強制されなかったのです。彼らは、わたしたちを奴隷にしようとして、わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらい、こっそり入り込んで来たのでした。」(ガラテヤ2:4)
もし私達が、兄弟姉妹や牧師などの話を聞いた時、心に汚れた思いや束縛感が増し加わるなら、それが御言葉の真理から来たものか、すぐに照らし合わせる必要がある。
真理は私達を自由にするものであり、聖霊は清い御霊であるから、たとい、御言葉が私達の行動を制限するとしても、その制限の内に健全で自由な霊が増し加わるものだからである。

「しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。」(8節)
「呪われるがよい」という言葉「アナテマ」は、神の庇護から離れ地獄へ堕ちよ、と言うほどの、とても厳しい言葉である。
ことに、つまづきを与えて人の信仰を貶めるような者に対しては、主も同じように厳しく言っている。(マルコ9:42)
つまづかせる者は、それほど災いなのであり、たとい、御使いのような者であっても、また、御使いであっても、災いである事には変わりない。

一体ガラテヤ人達は、なぜ一たび自由にされたのに、律法の束縛に戻ろうとするのか。
それは、「すがるな、味わうな、さわるな」といった教えは、あたかも賢いもののように人には見えるからであり(コロサイ2:20-23)、また、そのような困難を自分に課した事で、自分を誇る罠に陥り易いからである。
しかし、一時的な自己顕示欲を満足させるために十字架を覆い隠すような事があってはならず、キリストというお方の栄えを差し置いて「私達」の栄えを押し出してはならない。
私達も、十字架の福音語らずキリストを覆い隠そうとするなら、この偽使徒達のように、呪われるべき者となってしまう。

救いに至る道は唯一、主イエスの十字架であり、その他に救いの道は無く、私達も十字架以外に誇りとするものは決して無いのだ。

礼拝説教メッセージ音声:譲ってはならないキリストにある自由(ガラテヤ1:1-5):右クリックで保存
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ガラテヤ人への手紙は、いつ、どこで、また、ガラテヤのどこに書かれたかはあまり定かではなく、状況的な手がかりを書面から余りつかめない程、パウロは本質だけをこの手紙で簡潔に書いている。

この手紙は全体的に論駁的で、それは福音の本質である「キリストにある自由」を侵害する者に対するパウロに怒りと、その者達によって欺かれてしまったガラテヤ人へのうめきに満ちているため、2コリントよりさらに情熱的な論調である。

イエスを信じる信仰によって救われる、というシンプルな福音に混ぜ物をし、割礼を受けさせる等、律法の行いをしなくては救われないと主張して、キリストにある自由を侵害する事を、パウロは決して赦す事ができなかった。
だから彼は1章1節の最初から、自分の使徒としての権威は人間からのものではなく、イエスキリストにある神から出たものである事を宣言し、そして4節では、キリストはあなたたたちを悪から救い出すために、いのちを投げ出して下さったという真理を宣言している。

あたかもキリストの贖いは不完全で、それに人間が何かを付け足す事によって救いを完成しようと思っているガラテヤ人を、パウロは真っ向から牽制したが、私達も同じ過ちに陥っていないだろうか。
キリストがただ一度、いのちを投げ出して提供して下さった十字架の救いは、完全であり、自分の何か頑張りも添えて完成させよう、などと思うのは、謙遜ではなく傲慢である。

「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。
 どうか、この神に栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ガラテヤ1:4-5)

礼拝説教メッセージ音声:キリストにあって完全な者となれ(2コリント13:7-13):右クリックで保存
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パウロの願いは、自分が不適格のように見えても、自分が弱くても、コリントの人達が不品行など止め、正しい行いをするようになる事だった。(7,9節)
「わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできます。」(8節)
私たちが何事も出来る根拠である真理とは、まことのぶどうの木なるキリストであり、このお方を離れては、何もする事ができない。(ヨハネ15:4-6)
キリスト抜きで何かをした、例えば事業で成功した、と思っても、それは神の前にあるものではなく、やがて消え去る霧、火に投げ込まれてしまう類のものである。

「わたしたちは自分が弱くても、あなたがたが強ければ喜びます。あなたがたが完全な者になることをも、わたしたちは祈っています。」(9節)
そして、完全な者になるとは、キリストの満ち満ちた身の丈まで達する事であり(エペソ4:13)、それには、聖徒達が互いにキリストにあって立て上げる働きをする事以外にはありえない。
「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」(エペソ4:16)
それ故、聖徒達がキリストにあって一つとなり、平和を保つ聖徒の交わりが大切である。

「終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。」(11節)
いよいよ手紙の最後の挨拶に入るが、その中で、真っ先に勧められている事は、「完全な者になりなさい」である。(「喜びなさい」と訳したギリシア語の字義は「さようなら」という挨拶の意味もある。)
完全な者になるとは、キリストの満ち満ちた身丈まで成長する事であり、それが大切であるので真っ先に勧められ、その次は「慰めを受けなさい」である。
キリストの力は弱さのうちに完全に働くものであり、私たちが弱さを身にまとうなら、同時にキリストにある慰めも与えられ、それによって、私達はいかなる状況下でも強くなる事ができる。
続いて「思いを一つに」「平和を保ち」これらはエペソ書でも見たように、聖徒達がキリストにあって一つとなり、平和を保ってこそ、完全へと進む事の近道であるためパウロは勧めているのである。
「聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。」(12節)
ボアズは、雇い人達と日常的に祝福の挨拶を交わしたため、彼は災い多き時勢にあっても有力者となる事が出来た。(ルツ2:4)
同じように私達も、聖なる挨拶を交わし、互いに祈り合う事によって、ますます祝福され、艱難の世にあっても有力者となって行く事ができるのである。

そして最後に祝祷である。
「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」(13節)
三位格なる神の恵みがあるよう祈る際、真っ先に持ってくるべきお方は、子なるキリストである。
このお方こそ唯一神と人との仲保者、聖霊を与えて下さる保障なるお方である。
キリストの血潮の助けを得てこそ、おりに叶った助けを得るために大胆に御父の前に出る事が出来、キリストの息吹によって私達は聖霊を受け、大胆にキリストを証する働きが出来るのである。

どうか、主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、皆さん一同と共にありますように。アーメン!

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