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くびきを共にする相手を選べ(2コリント6:11-18)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » 2コリント人への手紙
- 執筆 :
- pastor 2012-2-15 22:48
礼拝説教メッセージ音声:くびきを共にする相手を選べ(2コリント6:11-18):右クリックで保存
韓国語通訳有
人間の教えや神学に頼らず、御言葉の真理に頼った方が良い、と、どんなに事例を示したり、論理的証拠を示しつつ説明しても、決して自分の考えを手放さないとするなら、その人は、御言葉の真理よりも、自分の納得のいく答えを言ってもらおうという願いを、決して手放さないからだ。
パウロは勧める。
「あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのです。 私は自分の子どもに対するように言います。それに報いて、あなたがたのほうでも心を広くしてください。」(12,13節)
コリントの人達が、自分の心を窮屈にしているもう一つの理由は、一緒につながれてはならぬ者と共に歩んでいるからである。
「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛(くびき)につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。」(14節)
ここは、キリストを信じていない人と全く付き合ってはならない、という事ではなく「不釣り合いな軛」につながれてはならない、と言っているのである。
軛(くびき)とは、牛や馬などを組にさせて、2頭で車を引かせるための道具であるが、申命記22:10には、牛とろばを同じくびきにつなげてはならない、と書かれてある。
別のいのちの動物は、力も耐久力も違うし、嗜好の方向性も違うため、同じくびきにつなぐなら、当然不具合が起こる。
牛はあっちに行きたいと思っているのにロバはこっちに行きたい、といった事が起こるように、キリスト者はこれをしたいと思っているのに、不信者はこれをしたいと思って互いに引っ張られ、いつもお互いに辛い事が起きてしまう。
キリスト者は、世の中の釣り合わぬ価値観を、自分と自分の家族に取り入れてはならず、むしろ、世の中にどんどん神の国の価値観を広め、キリストを証していくべきである。
私たちが世に染まるのではなく、世を、キリスト色に染めるべきである。
私達のアイデンティティは「生ける神の宮」であり、キリストは、私達の内に住んでおられる。
キリストを宿しているからには、それに見合う聖なる者として、ふさわしく歩むべきである。
鉄と泥が決して混じる事は無いように、私たちは不信者と釣り合わぬくびきを負ってはならない。
もし祝福を得たい得たい思っているのに、どうしても得られないなら、自分の中に、神と自分を隔てている壁が存在しないかを吟味すべきである。
「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。
むしろお前たちの悪が/神とお前たちとの間を隔て/お前たちの罪が神の御顔を隠させ/お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。」(イザヤ59:1-2)
皆さんは祝福を受け、安らぎを得たいだろうか?
そうであるなら、神に対して生きた者として、死んだ者としてのくびきを取り払い、キリストとくびきを共にするべきだ。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)
日々、キリストのくびきを負い、キリストと歩調を合わせ、安らぎの内を歩む皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:恵みの時、救いの日の内に(2コリント6:1-10):右クリックで保存
韓国語通訳有
人は、キリストにあって神と和解し、神との間に平和が成就しました。
私たちキリスト者は、その平和の使節であり、パウロはキリストに代わって「神との和解を受け入れなさい」と言いました。(5:20)
そしてパウロは続けて、神と共に働く者として「恵みを無駄にしないように」と懇願しています。(6:1)
私たちは税金や経費精算など、身近な所では支払ったものを取り戻そうと努力するものですが、イエス様が支払ってくださった「いのち」という代金を無駄にする事は、なんと多い事でしょう。
どのようにしてムダにするのでしょうか。
それは、御言葉よりも自分の凝り固まった概念を優先してそれに囚われてしまったり、御言葉を素直に信じなかったりする事で、キリストの贖いを空文にしてしまうのです。
「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」(2節)
大切なのは「今」です。
そうです。救いには、賞味期限があるのです。
恵みの時に、差し伸べられた救いの御手に応じるべきであり、明日に引き伸ばす事無く、救いの告げられた日の内に、素直に受け入れるべきなのです。
パウロは自分を、神のしもべとして推薦している、と話しております。(4節)
それは、この奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも、人につまづきとならないために、です。
私たちが神のしもべとして福音を伝えているのに、その私達事態がしっかりしていなくて、私達の存在が逆につまづきのきっかけとなり、福音の妨げになるような事は、あってはなりません。
だから私たちは、この身をもって、神の栄光を現す器として、整えられなくてはなりません。
「栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。」(8節)
悪評を受けるのは望ましくないと感じるものですが、最も良くないのは、好評も悪評も無い事、つまり、何も伝え無い事です。
私たちがすべきことは、まず御言葉をのべ伝える事です。
「人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、 悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」(9,10節)
私達は、弱い時にこそ強いのです。
なぜならキリストの力は、弱さのうちに完全に現われるからです。(2コリント12:9)
求めるべき事は、私たちが強くなる事ではなく、私達の内におられるお方に働いていただく事です。
どうか、このイエス・キリストにある、大能の力に満ち溢れ、どんな時にも、いかなる困難においても、全てにおいて全てを満たすお方に働いていただき、このお方を表現する皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。
アーメン。
礼拝説教メッセージ音声:託された和解のつとめ(2コリント5:16-21):右クリックで保存
韓国語通訳有
「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しい者が生じた。」(17節)
私たちはキリストにあって、生まれながらの自分とは全く違う、全く新しい人間となります。
血筋も、能力も、誰かからの支配も、外見も関係無く、ただ神によって、新しくされるのです。
「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1章12-13)
新しく変えられるのは、血筋や肉体的性質に留まらず、遺伝的な病気や、家庭内の虐待や歪んだ育て方によって染み付いてしまった、呪われた生き方からも解放されます。
そのようにキリストによって新しく造り変えられたという証は、キリスト者達から沢山聞くことができます。
キリストは、生きておられるのです。
「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。」(16節)
この世は、血筋や能力、どこに属しているかなど、目に見えるものさしで人を判断しますし、自分の事も判断します。
しかし、キリストにあって新しく生まれた以上、そのような肉的な標準で自分を計る必要はありません。
キリストを信じた者にとって重要なのは、「私が何者か」ではなく「私の内におられるお方は何者か」だからです。
「子たちよ、あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。」(1ヨハネ4:4)
キリストは神と私達と間を、和解させてくださいました。
今、イエス様は肉体をもってこの世におりません。だから和解のつとめは、肉体を持ってこの世にいる私たちに、課されているのです。(18節)
「ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。」(20節)
私たちがキリストの使者である以上、まず、キリストというお方の人となりを、そして神の意図している事を、正確に知り、伝える必要があります。
そのためにはキリストを知る知識の霊がさらに与えられるよう、祈り求めるべきです。
「キリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」(エペソ3:17-19)
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ヤコブ3:13-18:右クリックで保存
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礼拝説教メッセージ音声:キリストの愛迫る故(2コリント5:11-15):右クリックで保存
韓国語通訳有
イエス様は、ご自身の命を差し出すほどに私たちを愛してくださり、その愛は、どこまでも私達を追い、迫ってきます。
もし私たちが罪に向かうとするなら、キリストはうめくように迫り、立ち返る事を願っておられますが、主は決して、私達の自由意志を侵害する事はありません。
「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめいの体を住みかとしていたときに応じて、報いを受けねばならないからです。」(2コリント5章10節)
人は皆、一度死ぬことと死後裁きにあう事が定められますが、キリストは人が一人として滅びる事無く、永遠のいのちを得る事を望んでおられます。
パウロは、そのキリストの愛に駆り立てられ、時には、狂っているかのように見られるほどに、キリストをのべ伝えました。
「一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」(15節)
これは、全ての人達が知るべき事柄です。
主が私達のために死んでくださった以上、私たちは生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
主がどれほど愛してくださったかを、更に知る事が出来、そして、行動の動機全てがキリストの愛に突き動かされて為すものでありますように。
イエス様の名前によって祝福します。
アーメン。
礼拝説教メッセージ音声:新しい体を着せられる(2コリント5:1-10):右クリックで保存
韓国語通訳有
私達が生きているこの肉体は、使っていればやがて壊れてしまう幕屋(テント)のようなものですが、後に神様から頂く体はこのテントよりも遥かに優れた豪邸のようなものです。
旅路において確かにテントは必要ですが、何日もテント生活をしていると疲れてしまうように、この地上での人生という旅路は、疲れを覚えるものです。
「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。」(4節)
地上を生きる肉体には罪があり、諸々の必要があり、その体を存続させるために、そして、死から逃れるために、我々は額に汗して働き、労苦しなくてはなりません。
しかし、神様から与えられる新しい住まいには、罪は無く、死もありません。
罪ある滅びるべきものは、罪なき滅びないものを着、死ぬべきものは不死を着、こうして死は命に飲み込まれるのです。
私達がこの死ぬべき体から解放されて、新しい住まいに住めるのは、イエス・キリストが私たちを買い戻して下さった故です。
私達の体は日々衰えますが、キリストにあって朽ちない体を着せられる時、死は勝利に飲み込まれたという御言葉が実現します。(1コリント15:53-57)
「わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。」(5節)
御国の体を受け継ぐための保証(手付金)が御霊です。
保証とは手付金とも訳せ、永遠の御国は私達に保証されており、聖霊が私達に与えられているのです。
私達はイエス様を信じて救われたからと言って、好き放題してよいというのではありません。
なぜなら人は、一度死ぬ事と、死後裁かれる事が、定められております。
「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」(10節)
そういうわけで私達は、この地上において、主に喜ばれる事をするのです。
天の御国のための積立貯金は、今しかできません。
この体は既に主のものとなった以上、生きるにしても死ぬにしてもキリストのためになすべきです。
ただ、天の御国をもって、何より愛するイエス様に喜ばれ、その愛の動機によって、この地上での日々を歩んでいく皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。
アーメン。
礼拝説教メッセージ音声:見えるものと見えないもの(2コリント4:13-18):右クリックで保存
「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。」(16節)
外なる人は私達の肉体であり、日々衰えていくもの、永続しないもの、その組成は土にすぎません。
内なる人とは、イエス・キリストにあって息吹かれた私達の霊であり、それは朝ごとに新しく、キリストを感知し、キリストを表現し、キリストにあって莫大な力を秘めています。
『「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。』(13節)
この箇所は詩編116編10節からの引用ですが、その詩編の作者も主を信頼し、主の御前で誠実に歩もうとしました。
それでも、困難があると「私は大いに悩んだ。」と告白してしまいましたが、すぐに「すべての人は自分も含めて偽りを言う者だ」と否定し、それから主はどういうお方かを告白し、そして、感謝と賛美をしました。
私達の肉体や、内側にあるものを見ても、絶望しかありません。
ただ私達の希望は、内なるお方・キリストであり、このお方にあって私達は日々新たに造り変えられていきます。
「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(18節)
見えるもの、すなわち私達の肉体や精神、また私たちが頼りにしがちな富や人などは一時的です。
しかし、見えないもの、すなわち、キリストにあって息吹かれた霊である内なる人は、いつまでも続きます。
どうか皆さんの内に息吹かれた霊にあって、私達と共におられるお方が、どれほどすばらしいかを口で告白し、じっくり味わい、感謝する皆さんでありますように。
イエス・キリストの御名前によって祝福します。
アーメン。
礼拝説教メッセージ音声:途方もない宝を秘めた私達(2コリント4:7-2:12):右クリックで保存
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私達は土の器にすぎませんが、キリスト者は内側に、途方もない宝を入れています。(2コリント4:7)
その宝とは、キリストです。
泥で団子を作る「泥団子」は、実は奥が深く、団子をうまく磨けば磨くほどツヤが出て、反射するまでになり、宝玉のようにもなります。
しかし材料が泥である事には変わりありませんので、落とせば粉々になるし、水分が無くなれば、ひび割れします。
私達という土の器も、泥団子のように自分磨きをするのですが、所詮は土のちりに過ぎない事が、いずれ明らかになります。
自分磨きもいくらかは有益ですが、私達という土の器よりも、むしろ器の中に入っている宝のほうが、はるかに勝っています。
だから私達は、土に過ぎなくとも、計り知れない宝をお入れしている「器」であると、わきまえる事が大切です。
キリスト者になれば、苦しみや困難などが無くなる、と思ったら、大間違いです。
むしろ、それらの中にあっても、私達という土の器にキリストをお入れしている状態であるならば、どんな困難にも、どんな不足にも、決して行き詰ったり倒されたりする事はありません。(8-10節)
パウロも肉体に何かしらの病があり、それを「わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使い」と表現しました。(12:7)
しかし、キリストの力は、人の弱さの中でこそ十分に発揮されます。
それ故パウロは、キリストの力が宿るように、むしろ、自分の弱さを大いに喜び、誇りましょう、と言いました。(第二コリント12:9)
私達の全ての助けの源を、土の器に過ぎない自分に置かず、内におられる方・キリストに委ねる時、キリストの圧倒的な復活の力が働きます。
その時、自分の力を発揮できず、死に定められているようにも見えますが、その弱さの中でキリストの圧倒的な力が働いて、キリストの力が、誰の目にも明らかになるのです。
その時、艱難も苦しみも、迫害も、飢えも、裸も、危険も、剣も、どのような困難の中にあっても、私達を愛して下さる方によって、圧倒的な勝利者となる事ができるのです。(ローマ書8:35)
そして、世のいかなる被造物も、死も、命も、主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私達を引き離すことはできません。
この内側におられる宝なるキリストから、無限の力をいただきつつ、日々を歩むみなさんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。
アーメン。
礼拝説教メッセージ音声:神の言葉を曲げる事無く(2コリント4:1-6):右クリックで保存
韓国語通訳有
「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。」(2コリント4:5)
イエスキリストにあって、いのちの務めを為す際に、最も大切な事は、より多くの人を惹き付ける事ではなく、神の言葉を曲げる事無く正しく伝える、という事です。
多くの人が受け入れやすいよう、意図的に「地獄は無い」とか「イエス以外でも救いはある」などと言うのは、もっての外ですが、自分が善い事をしていると思いつつ、無意識的に、神の言葉を曲げる人もあります。
例えば「弱い人を憐れみたい」という思いが強いために、キリストを主としてもいないのに「あなたは高価で尊い」「天国がある」などと、聖書の特典的な良い面ばかりを語って、キリストの十字架を語らないのは、神のことを思わず、人間のことを思う者であり、そのようにしたい誘惑は、サタンの巧妙な罠です。
「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マタイ16:23)
御言葉を正しく伝えるのは私達の責任ですが、福音を受け入れるか受け入れないかは、聞いた人の責任になります。
しかし4節を見ると、不信者の目をくらまし、キリストの栄光を輝かせない霊的存在があるようです。
そのような霊的勢力に対しては、霊的な武器をもって対抗しなくてはなりません。
「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(エペソ6:12)
「真理の帯」がぐらぐらしていては、霊的武具はすぐに解けてしまいますし、「救いの兜」がしっかりしていなかったら、すぐに頭(思い)を攻撃されてしまいます。
唯一の攻撃の武器は「御言葉の剣」であり、エバはこれを正しく用いずやられてしまいました(創世記3章)が、キリストは3度、御言葉の剣で正しく対処し、勝利しました。(マタイ4:1-11)
私達の内の、真理や救いの確信、義とされている事、救いの平和、信仰、そして御言葉が、しっかりしている事こそ大切である事は、エペソ6章10-17節をお読みいただければ理解出来ます。
『「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。』(2コリント4:6)
私たちが神の栄光を知る知識を輝かせるには、「光あれ」と言われた神によって照らし出されなくてはならず、キリストを知る知識のかおりをを漂わせるには、キリストに全く服従し、キリストについていかなくてはなりません。(2コリント2:14-17)
パウロのように、キリストに全面降伏しているのであれば、私達もキリストの香りを放つ者となり、栄光の光を輝かせる者となります。
御言葉を混ぜ物する事無く正しく伝え、キリストの光を放ち、キリストの香りをさらに放つ皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福いたします。
アーメン。