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メッセージ - 講解説教(新約)カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:主の栄光を輝かせる(2コリント3:12-18):右クリックで保存
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パウロや私達の新約の務めは、モーセの務めよりはるかに優れております。
モーセの務めは、罪に定め死に至らせる務めですが、新約の務めは、命に至らせる務めであり、永遠に残るからです。
律法はただ人に罪がある事を示すもので、キリストへと導く養育係です。
キリストが十字架で死んでくださった時、神殿の幕屋は裂け、神と人を隔てる隔たりは破壊され、旧約の律法も預言者も、キリストにあって成就しました。

その傍ら、多くのユダヤ人達は、メシアがまだ来ていないかのように律法を朗読しており、今でもそうしている人も沢山います。
「「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。」(14節)

人が主イエスに向くなら、神と人とを隔てている覆いは取り除かれます。
罪ある人は、神殿の至聖所、すなわち、絶対的聖なる領域には、決して入る事はできず、もし、その聖と俗とを分ける隔てが存在しなければ、人は「聖」に打たれて死ぬしかありませんでした。
しかし、キリストが私達の罪の身代わりとなって罪を取り除いてくださり、私達がキリストを着る事によって、聖であられるお方の御前に立てるようになりました。
イエス様は神と人との間の架け橋となって下さり、このお方をおいて他に永遠なる神の御前に行ける道は、ありません。

主の栄光を輝かせる鍵は、モーセのように、神と向き合って交わる事です。
「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(第二コリント3章18節)
私達は信仰の創始者であり完成者なるキリストを見つめ、主の栄光を反射し、世に対して、主の光を放つ者となるのです。

ステパノは、御座に座しておられる方を見つめ、殺意と騒乱に満ちた状況でも、栄光の輝きを顔から発し、キリストに似た者として、栄光と尊厳に満ちた死を遂げました。
御霊に待たされるなら、どのような状況でも主に在る平安と自由があり、栄光があります。
「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」(ガラテヤ5:1)
決まりごとを守る事に、あまり自由は感じませんが、御霊に歩むなら、どんな事にも自由があり、開放感に満たされるものです。
大切な事は、文字の決まりごとを守る事ではなく、御霊によって歩む事です。

いつでもイエス様に目を向け、主の栄光を世に輝き渡らせる皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。
アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:栄光の務め(2コリント3:7-11):右クリックで保存
韓国語通訳有

新しい契約は、私たちの心の板に記されたため(エレミヤ31:33)、その律法はいつも私達の内にあり、いつでも私達を導きます。
そしてそれは、いつまでも残るものであり、古い契約は太陽の前の灯火のように色褪せたものとなります。

もちろん旧約の律法にも栄光はありましたが、それは石に刻まれた「死の務め」であり(7節)、「罪に定める務め」(9節)とあります。

モーセが山で律法を授与した時、彼の顔は栄光の光を帯び、民は栄光に輝いた彼の顔を見れませんでした。
また、神がシナイ山で圧倒的な臨在で民の前に顕現された時(出19章)、民は震え上がり、神が直接自分達に語らないようにしてくださいとモーセにお願いしました。
このように旧い契約は、神様と民の間に大きな隔たりがあり、互いの距離は、遠いものでした。
いつも遠くから、細かい決まりごとばかり伝えてくる夫の言う事を、喜んで聞き入れられないように、民は、遠く隔たれて、細かい決まりごとばかり要求してくる神の定めた掟を、守れませんでした。

律法の行いによって義と認められる人は、一人もおらず(ガラテヤ2:16)、あれをせよ・これをせよという律法の行いの下にいる者は、呪いの元にあります。(ガラテヤ3:9-14)
善悪の木の実に基づいて生きている人、すなわち、善か悪かという路線のもとにいる人には、心に平安がありません。
そういわけで、旧約の律法は「死の務め」であり、「罪に定める勤め」なのです。

イエス様はその呪いから解放し、いのちの木であるイエス様に繋がらせて生かして下さるために、十字架上で呪われた者となり、私達の身代わりとなって死に、そして、よみがえってくださいました。
「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。」(ガラテヤ3:13)
もはや信じた私達は、呪いの木にかけられる者ではなく、命の木につながった者とされました。

その救いは、どのようにして私達に適応されるのでしょうか。
それは、信仰によってです。
律法は罪に定める務めですが、イエス・キリストを信じる信仰は、義とされる道です。
そしてイエス・キリストへと導く勤めは、永遠に残る栄光の務めです。

もはや、古い石の板に書かれたものによるのではなく、聖霊によって心の板に書き記された掟に従って歩むように、キリストにあって造り変えられました。
栄光ある務め人として、相応しく歩むみなさんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。
アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:自身に刻まれたことば(2コリント3:1-6):右クリックで保存
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パウロは「わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか。」(1節)と書いていますが、果たして、コリントの人達にとってパウロは信用ならず、誰かの推薦が必要なのでしょうか。
そもそもコリントの教会は、パウロの献身的な奉仕のお陰で建てられたようなものなのに、パウロがそんな事まで書かなくてはならないという事は、コリントの人達のパウロに対する信用は、パウロを誹謗中傷する者達のお陰で、そこまで地に落ちていたようです。

しかしパウロは言います。
「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。」(2節)
パウロが使徒として、コリントの人達に福音を伝えた。
その実りが、コリントの人達自身であり、だからパウロは「あなた方こそ私の推薦状である」と言っているのです。

人は、文章による確証を求めがちでありながら、一体誰のお陰で今の恵まれた状態に入ったのかを、忘れがちです。
人は書面を求めるかもしれませんが、主が求められるものは、人そのものです。
「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。」(3節)

主の新しい契約も、書面によるものではなく、霊によるものです。
新しい契約の律法は、御霊の筆によって私達の心の板に記され、主を知る事について、もはや誰かからの説明を必要としなくなります。(エレミヤ31:33-34)

救いは、文字上のものではなく、人そのものが変わり変革されます。
キリストを信じる事により、いのちの御霊の法則が適用され、主は何を喜ばれ、何を嫌われるかが、自分自身に刻み付けられ、それに従って歩む事が出来るのです。

主も、私達を、その手のひらに刻みつけて下さいました。

イザヤ書49章を見ると、主は、私達を本当に愛し、憐れまれるお方である事が分かります。
「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。
見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける。あなたの城壁は常にわたしの前にある。」(16節)

主の手と足に受けた傷は、いのちを差し出すまでに私達を愛して下さったしるしであり、主も、ご自身の傷跡を見る度に、私達を思い起こして下さり、そしてその傷跡は、永遠に残るのです。
私達は、主がそこまで愛して下さった事を忘れないため、心の板に主の律法を刻み付けるのです。

主が御手に刻んでくださった事を覚えつつ、主の言葉を心に刻み、主にあって歩みつづける皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福いたします。
アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:キリストの香りを放つ者(2コリント2:12-2:17):右クリックで保存
韓国語通訳有

「神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。
救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。」(2コリント2:14-15)

当時、ローマ帝国では勝利を重ねてローマに凱旋した時、香りの高い香を焚きながら、打ち負かした国々の捕虜を引き連れ、凱旋行進していました。
パウロは自分を、キリストの勝利の行進に連ならされた者、すなわち、キリストに打ち負かされた者、キリストの捕虜、キリストの奴隷として、自分を表しております。
事実彼は、エフェソでも、トロアスでも、そしてコリントでも、いつでも弱く惨めで敗北した者であるかのようでしたが、弱いからこそ、逆に勝利者なるキリストの強さが引き立ち、至る所で、キリストの香りを放っていたのです。

「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。
私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。」(2コリント4:8-12)

私達は自分を降ろし「キリストの香り」を放つ者でなくてはなりません。
自分達の香りや教会の香り、牧師の香りばかり放ってキリストの香りが無いのは、本末転倒です。
キリストに降伏し捕虜となった者として、キリストに縛られて行くのであれば、キリストの栄光の香りを至る所で放つ事ができます。

このキリストの香りが放たれる所では、人は、真っ二つに分かれます。
すなわち、救われる人々と、滅びる人々です。
「わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。」(15,16節)

伝道しに行った時、救われる人が起これば、成功したと思い、邪魔されたり迫害されたりして、誰も福音に繋がらなかったら、失敗した、と思うかもしれません。
ところが、福音に「反対する」という反応があったのであれば、私達はキリストの香りをそこに放った、という事において、大成功を収めたのです。

ステファノは大勢の前で偉大な説教をしたにもかかわらず、悔い改めた人は一人もおらず、逆に反対され、石打にされ、殺害されました。
彼は強烈にキリストの香りを放ち、その香りによってエルサレム教会は散らされ、香りは至る所に届けられ、そしてその香りは、後の伝道者パウロに強烈なインパクトを与えました。
ステパノを殺害した者達は、ステパノを眠りにつかせましたが、ステパノから放たれた香りは結局、反対者全員に死に至らせる香りとなってしまったわけです。

キリストの香りを豊かに放つには、神の言葉に混ぜ物をしてはなりません。
「私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。」(17節)

私達はいたるところにおいても、キリストの香を放つ者であるべきです。
どうか日々自分を降ろし、御言葉に混ぜ物をする事無く、キリストに捕虜とされた者として、純粋なキリストの香りを放つ皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。
アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:真実な関係(2コリント2:5-11):右クリックで保存韓国語通訳有

「その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。 そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください。」(2コリント2:6-8)

ここに出てくる「その人」とは、おそらく第一コリント5章に登場する、父の妻を妻としている不品行の人の事でしょう。
パウロは、体そこにいなくても、主イエスの御名によってその人を裁き、サタンに引き渡したとさえ言いました。
それはその人の肉が滅ぼされるためですが、それによって、その人の霊が主の日に、救われるためです。(1コリント5:5)
信徒をサタンに引渡したい牧会者など、恐らく一人もいないでしょうが、パウロが敢えてそのような事をしたのは、その人が憎くて、感情任せにではなく、良くなって、救われて欲しいがために、涙と呻きを持って為したのです。(2コリント2:4)

そしてその人は、多くの人から処罰を受けて、十分悲しんで、悔い改めたようです。(6節)
パウロは今度は、その人への思いやりに満ちた事を書いており、もう処罰を十分受けたのだから、その人を赦し、慰め、愛するようにと勧めております。

パウロが先の手紙を、敢えて厳しく書いたのは、コリントの人達が従順であるかどうか、試すためだ、と、9節に書いております。
彼はこの手紙によって、コリントの人達が憤って断絶してしまうか、あるいは、悔い改めて和解するかを「試し」、コリントの聖徒達を失うか、得るか、という「賭け」に出たわけです。
幸いコリントの人達は、あの手紙によって悔い改め、パウロはコリント人達を、霊的に得ました。
悔い改めへと導かれたからこそ、和解が成立し、このような悔い改めと赦しと愛に満ちた手紙を、書くことができたのです。

悔い改め無き和解は、妥協に過ぎません。
兄弟姉妹達が、御言葉に反する方向に行こうとするなら、パウロのように、断絶も辞さないほどの厳しさで臨まなくてはならないのが、本来あるべき姿です。
そして悔い改めたのであれば、赦し、愛で包むべきです。
「わたしたちがそうするのは、サタンにつけ込まれないためです。」(11節)

罪を犯した兄弟姉妹と相対する時、怒りに任せてしまうと、サタンに機会を与えやすいため、気をつけなくてはなりません。
「偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。」(エペソ4:25-27)
私たちは互いに真理を語り合い、その関係は、真実であるべきです。

罪を犯しているのであれば、御言葉に基づき指摘して戒めるべきですが、罪を犯しているのではなく、価値観や習慣のちょっとした違いから、怒りへと発展してしまう事があります。
例えば、Aという兄弟が習慣的・無意識にしている事は罪ではないのだけれど、Bという兄弟の神経を常に逆なでし続けているようであるなら、Bは我慢し続けるのではなく、その事を正直にAに申し上げるべきです。
いつまでもその事を思い巡らしてサタンに機会を与えたり、罪を犯していまう前に、真実を言って、お互いの間をすっきりさせるべきです。
「日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。」(エペソ4:27)
もし悔い改めたのであれば、たとえ同じ過ちを犯したとしても、七度を七十倍するまで赦しなさい、と、イエス様はおっしゃいました。(マタイ18:21-35)
なぜなら、私たち全てが、莫大な借金を免除してもらっているからです。

どうか、主イエス様にあって、赦され、そして聖なるものとされた者たちらしく歩む皆さんでありますように。
互いに、御言葉によって教え合い、ある時は責め、戒め、有益な事を勧め合う兄弟姉妹達でありますように。
イエス様の御名前によって祝福いたします。
アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:ヤコブ2章19-26節:右クリックで保存
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礼拝説教メッセージ音声:ヤコブ2章14-18節:右クリックで保存
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礼拝説教メッセージ音声:ヤコブ2章1-13節:右クリックで保存
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礼拝説教メッセージ音声:ヤコブ1章19-27:右クリックで保存
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礼拝説教メッセージ音声:ヤコブ1章1-8:右クリックで保存
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