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礼拝説教メッセージ音声:義の栄冠をめざして(1コリント9:24-27):右クリックで保存
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競技場で走るもの、競技をする者にキリスト者がたとえられていますが、当時もオリンピックのようなものが、2年に1度、コリントの郊外で開催されておりました。
パウロも信仰者を、よく競技者にたとえて話しております。
スポーツ競技というものは非常に単純明快で、賞を受けるのは一番高い数字を出した者です。
優れた能力を発揮する者が参加するものの、その競技者は当然、自由が与えられていて、その競技について練習する自由も、しない自由もあります。
キリスト者には、全てのことが許されてる自由はあります、しかしすべてのことが益であるとは限らないのです。
競技する日が、何月何日と決まっているのに、自分の好き勝手に飲み食いして、練習も怠る自由もあるのですが、そんなことをしている者が競技で賞をもらえるわけがありません。
競技をする者は、あらゆることについて自制します。
自分のベストを尽くしますし、なおかつ、自分自身のコンディションを最善に保つように、自ら管理します。
みんなで手をつないで、同時にゴールしてみんながそれぞれ一等賞だということは、来たる世においてはありえないことです。
そんな幻想を抱いて日々不摂生している者は当然、賞を受けるべきではありません。
また、競技をするとき、ルールに従って競技をしなければ、栄冠を得ることはできません。
自分流を押し通そうとすれば、退場させられます。
サッカーでゴールにボールを入れると得点をもらえるからといって、ボールを手でつかんで、ラグビーのように走っていくような者は退場させられてしまいます。
ただ主よ、主よ、と言うものが、天の御国に入れるものではないということが、マタイ7章に書いてあります。
大勢の人が主よ、主よ、あなたの御名を使って、預言をし、しるしを成したではありませんか、と言う者は大勢いるのですが、しかし、その日主は、私はあなた方を全然知らない、不法を成すもの、出ていけ、と言われます。
不法を成すものというのは、法に則らない者という事です。
主が与えてくださっているルールがあります。御心を行うということです。
自分に則るのではなく、イエス・キリストに則る者だけが、その賞を得ることができるようになるのです。
26節に、
「だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。」とあります。
決勝点がどこか分からない、それほど無駄な走りはありません。
私たちは何を目指して走るべきでしょうか。
私たちが目指すゴールはイエスです。信仰の創始者また、完成者なるイエスを目指して私たちは重荷と、まとわりつく罪とを捨てて、走るべきです。
また、皆さんはローマの8章28節には、何が書いてあるかきっとご存じかと思います。
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
この御言葉を、そらんじることができる人はたくさんいます。
しかし、その次の節をそらんじる事が出来る人は、少なくなってしまいます。
「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。」
神が全てのことを働かせて、万事益としてくださるのは、この29節にかかってきます。
キリスト者にとって益というのはどのようなことでしょうか。
今は苦しいけれど、後で思い通りになるとか、後で楽ができる、とかいったように、28節を受け取っていなかったでしょうか。
肝心なのは29節です。御子の姿に似たものとするために、神様は全てのことを働かせてくださるわけです。
つまり、自分にとっての益ではなく、キリストにとっての益ということですので、皆さんの望み通りでないという可能性も大いにありえます。
むしろ、みなさんの内にキリストが形作られるまで、大いに苦しむ可能性もあります。
ですから、私たちは決勝点を見誤ってはなりません。
ゴールというのは皆さん自身が望むあの自分、この自分ではなく、ゴールというのはキリストであって、私たちがますますキリストが形作られること、それがゴールに近づくということです。
私たちは、空を打つような拳闘を、してはいけません。
打つべきは空中ではなく、自分の体を打ちたたいて従わせるべきです。
どうも私たちは、空中を打ちたたいて、満足しているようなことが多いかもしれません。
例えば、祈りの中で、あの人が癒されますようにとか、教会がますます発展しますように、という祈りをしますが、わたしのこの罪あの罪を許してください、という悔い改めの祈りを全くしない者は、空を打つような者です。
神様が義と認めた祈りは、私は十分の一を捧げてますとか、自分が隣にいる取税人のようでない事を感謝します、といった祈りではなく、自分の胸を打ちたたいて、こんな罪人の私をお許しくださいと、言った取税人の祈りのほうを、神様は受け入れられました。
空を打つような拳闘をするのではなく、むしろ自分を打ちたたいて、決して朽ちることのない冠を受けるために、そのようにするべきです。
競技をする者は、朽ちる冠を得るために競技するのですが、しかし、私たちには朽ちない冠が待っています。
その称賛は、単にテレビで30分ほど放映されるようなものではなく、主から永遠に頂き続ける栄誉です。
あらゆることに自制し、そして自らを打ちたたいて義の栄冠を勝ち取る皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福いたします。
アーメン。
礼拝説教メッセージ音声:本当の自由(1コリント9:19-23):右クリックで保存
韓国語通訳有
キリストを伝える者達が報酬を受け取る権利を、パウロも持っていたのですが、彼はその権利を行使しませんでした。
今日の箇所は、そのキリスト者が持っている自由についてです。
パウロ自身は誰に対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、全ての人の奴隷となりました。
自由であるはずのキリスト者が奴隷になる、とは、どういうことでしょうか、それは、世に対しては自由ですが、キリストには奴隷となることです。
ユダヤ人を獲得するために、ユダヤ人のようになる。
一見、人に縛られてるようですが、それはユダヤ人を獲得するために、あえて、自らを束縛のもとに置いていくのです。
パウロ自身は、キリストを信じる信仰の故に、律法から自由とされた者になっていると自覚していたのですが、しかし、ユダヤ人を一人でも多く獲得するために、例えばテモテに割礼を施したり、あるいはユダヤ人達に躓きを与えないために、ユダヤ人の祭りをしっかりと守り行いました。
こんな祭りに意味がないと思いながら、しぶしぶ行っていたのでしょうか。
そうではなく、このユダヤ人の幾人かでも、キリストへ導くために、という心持があれば、それは苦痛でも束縛でもなかったはずです。
さて、律法を持たない人々に対しては、パウロもあたかも、律法を持たない者のようになりました。
例えば、パウロは幾度も、異邦人達と食事を共にしたのですが、もし、パウロが異邦人と食卓を共にするのは、律法にかなわないと言って、食事を共にしなければ、異邦人を一人も獲得できなかったでしょう。
異邦人と食事を共にしたからには、律法で禁じられている食物、例えば豚やイカなども出されたことでしょう。
律法に厳格に育てられた、パリサイ派のパウロのようなバックグラウンドを持つ人にとっては、最初にそのような物を食べるのは嫌だったと思いますし、屈辱的だったかもしれませんが、彼はそれを、異邦人と一緒に食べたのです。
それは、一人でも律法の下にない者を獲得するためです。
弱い人に対しては、弱い人のようになりました。
「もし肉を食べることが信仰の弱い人たちの躓きになるのであれば、私は今後一切肉を食べません。」と、パウロはかつて言っており、神は唯一で、偶像の神々というものは存在しない、ということをパウロは知っていたのです。
そのような行動が、信仰の弱い人々の躓きになるのであれば、そういった物は食べない、ということを彼は選択したのです。
このように、キリスト者というのは全てのことを許されているのですが、しかし、全てのことが益ではありません。
もし私は肉が好き、ということで、肉を食べれば躓くような人の前で、肉を食べるようであれば、自分のプライド、自分の自我の奴隷だということです。
そうしてパウロは23節、「私は全ての事を福音のためにしています。それは私も福音の恵みを共に受けるものとなるためだ。」と言っております。
ある人の前では肉を食べ、他の人の前では食べないというのは、カメレオンのように、自分のアイデンティティーを持っていない者と思われる方もいるでしょうか。
そもそも、人の前で態度をコロコロを変える根本的な原因は、人目を気にしたり、人に嫌われたくないという、思いからであります。
対して、パウロがしている事の動機は、全ての人を獲得するため、福音のためであり、決して人目を気にするとかいった動機ではないのです。
いわゆるカメレオンとは、自分の名声を救うためにそうするのに対して、パウロは他人の永遠の命を救うために、そうしているのです。
パウロは律法の下にあるのではなく、むしろキリストイエスにある自由の律法の下にあるものです。
ガラテア2章の11節から16節までを読みますと、年上の先輩のケパに対しても公然と叱るほど、芯のしっかりした人でした。
そのパウロが異邦人の前では、異邦人のように振る舞い、ユダヤ人の前ではユダヤ人として振る舞うような自由は、いったいどれほどの自由だったでしょうか。
この自由は、人目を気にしていては、決して得ることのできないものです。
パウロの人間的な誇りは、キリストにあって、もはや捨て去っており、彼のアイデンティティーは自分にではなく、もはや天にありました。
どうか、パウロのように、人目を気にするのではなく、御国を気にする者として、真に自由なものとなる皆さんでありますように。
そして、一人でも多くの魂を救う皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。
アーメン。
礼拝説教メッセージ音声:天に富を積む:(1コリント9:11-18):右クリックで保存
韓国語通訳有
コリント9章を見ると、コリント人のある者達は、教会設立の大きな功労者であるパウロに向かって、言葉使いが弱々しく、なっていないと批評したり、使徒として認めなかったり、また、彼自ら世の仕事をして、生活費や伝道のための資金を稼いでいるというのに、彼を物質・経済の面で援助する、という発想すら沸かなかったようである事を、垣間見る事が出来ます。
コリントの人達は、パウロに福音のための報酬は与えなかったのですが、しかし12節を見ると、どうやらコリントの人達は、他のいわゆる「働き人たち」には、報酬を与えたようです。
しかしその「働き人たち」は、どうもコリントの人達に良くない影響を与えていったようです。
第二コリントの11:18-23節を開きますと、その「彼ら」というのは、肉的なことによって誇り、コリントの人達を奴隷にし、食い尽くし、騙し、威張り放題されている、にもかかわらず、コリントの人たちはそれをこらえていたようです。
また彼らは、ヘブル人であって、アブラハムの子孫だったようです。
そして、その彼らというのは、パウロより、遥かに苦労をしていなければ、迫害も受けていないようでした。
コリントの人達は、そのような人たちに報酬を支払っているというのに、彼らを心遣い、愛し、日夜祈っているあのパウロに、そう、コリント教会設立の張本人であり、最も尽力した、あのパウロに対し、そのように、恩知らずな事をしていたのです。
皆さんにも、日夜祈りに覚えられて祈っている牧者や兄弟姉妹、家族はいるでしょうか。
そのような兄弟姉妹を身勝手に陰口を言ったり、福音の為に実際骨折っているのに、物質的・経済的援助を惜しんではいないでしょうか。
私達は決して、そのような恩知らずになってはなりません。
福音を述べ伝える者がその福音によって生活の基を、支えを得るということは、それは旧約聖書からも明らかなことです。
13節には、神殿で働く人たちは神殿から下がる物を食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかれる事が書かれてありますし、14節 にも、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されたと書かれてあります。
その通りなのですけれど、しかしパウロは、その当然たる権利を、敢えて用いませんでした。
私たちが見ればパウロこそ、コリントの人達から真っ先にもてなしを頂いて然るべきと思うのですが、パウロが敢えてそうしなかったのは、16節「そうせずにはいられないことだからです。」
もしコリントに福音を述べ伝えなかったなら、私はわざわいだ、とパウロは示されていたからです。
つまり彼からすれば、そうせずにはいられずに行ったのですが、他の人から見たら、もしかしたら彼は気違いのように思われたかもしれません。
そんなパウロに、報いはあるのでしょうか。
彼は、自らの受けた報いは「福音を述べ伝えるときに、報酬を求めないで与え、福音の働きによって持つ、自分の権利を十分に用いないこと」だと言っています。
なんと、これが「報い」だというのです。
しかし実は、それは人には計り知れない報いなのです。
一体、それの、何処が「報い」になるのでしょうか。
マタイ福音書の6章では、偽善者のように人前で善行をしたり、祈ったり、断食したりしないよう、主が命じています。
人に見てもらおうという動機で、それらをする時、彼らは既に、報いを受けているのです。
もし、人目を求めてではなく、主を慕ってそれらの事をするのであれば、隠れたことを見ておられる天の父が報いてくださるからです。
つまり、福音の働きや祈り、善行などは、人に見られる目的で為し、人から賞賛を受けてしまった時点で、天からはもう何も受け取れないというのです。
私達が神の国の働きをするのであれば、この世の富や名誉といった、そういったことは期待するべきではないのです。
むしろ私達は、盗人やしみ、さびが決して入り込めない、天に、宝を蓄える事に専念すべきです。
「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。 富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(マタイ6:19-21)
もし皆さんの宝が、人々からの賞賛であるならば、それは廃れてしまいます。
皆さんの宝が、お金であるならば、それはいずれ無くなります。
もし皆さんの宝がそういった世に属する事にあるのであれば、それが少しでも傷つくと、怒ったり、気がきでなかったり、あるいは、人を傷つけたり、あらぬ噂を流したりと、罪を犯してしまうことさえあります。
皆さんが宝を蓄えるべきは、パウロのように、天に積み上げるべきです。
朽ちない宝を天にいっぱい積み上げて、そして、かの日には天の父なる神様から豊かな富をいただける皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。
アーメン。
礼拝説教メッセージ音声:霊的な恩に報いる:(1コリント9:1-10):右クリックで保存
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コリントの人たちの中には、パウロが使徒であるかないかということをさえ、疑問に思っている者達もおりました。
アポロはとても雄弁な人でした、また、ケパ、すなわちペテロも、主イエス様と共に行動した者で、威厳がありました。
それに対して、「パウロは話し方がなっていない」、などとコリントの人たちが非難しているのです。
「私を批判する人たちには、こう弁明します」と言っているとおり、批判する人がいたわけです。
その疑う者に対して、パウロは言っております。
「他の人たちにとってわたしは使徒でないにしても、少なくともあなたがたにとっては使徒なのです。
あなたがたは主に結ばれており、わたしが使徒であることの生きた証拠だからです」と。
パウロは、自ら働きながら福音を伝えていたのですが、そんなパウロに、食物やお金を提供するといった考えすら、コリントの人たちにはなかったようです。
パウロは、コリントの人達のため夜昼となく祈り、苦悩し、この霊的に幼稚な聖徒たちのために多大な苦労をしてきました。
そのように霊的に豊かな養いを頂いていたコリントの人たちの中には、パウロに対して、「働きもせず伝道ばかりしているではないか」といった難癖をつける者がいたようです。
ケパは、信者である妻を連れて伝道して、旅費は妻の分も支給されていたようです。
しかし、パウロとバルナバは結婚もせず、ただ主の働きに打ち込んでおりました。
そればかりか、コリントの人達に対して、一人でも躓きを与えまいと、自ら働いて、そのお金で日々の食費や、伝道に必要なお金も出していました。
モーセの律法に、「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」と書いてあります。
神様は、牛のことを気にかけておられるだけではなく、私たち人間のためにも、働き人に対してその報酬を得るのは当然であると言っておられるわけです。
パウロはそのように、非常にやんわりと諭しております。
ただ、分かることは、コリントの人たちは非常に霊的恩知らずだという事です。
パウロは散散な目に遭いつつも、コリントにたどり着き、コリントの地で汗水流し、血も流して伝道し続けてきました。
そのコリントの人たちは、パウロを批判する事に始終して、その恩に関しては全く忘れています。
恩知らずといえば、ダビデに良くしてもらったにもかかわらず、その恩を仇で返したナバルを思い出します。(第一サムエル25章)
ダビデは、サウル王から逃亡中であるにもかかわらず、ナバルの羊飼いを助けたり、守ったりしていました。
しかし、ダビデがパンや水が必要になったとき、彼のところに使いを送っても、ナバルは「ダビデとは何者だとか、エッサイの子とは何者だ」とすげなく返事をしました。
ダビデはそれを聞いて、若者たちに剣を帯びさせて、そこを襲いに向かいました。
しかし、その途中、ナバルの賢い妻アビガイルの説得によって、ナバルはダビデに殺されずに済み、またダビデ自身もむやみに血を流す罪から救われ、そして、ダビデはパンと水を得て、お互い別れました。
しかし、その恩知らずのナバルが、アビガイルとずっと一緒に生きたわけではなかったのです。
ナバルは、アビガイルがダビデにしたことを聞いて、石のように硬くなり、10日後に死んだのです。
そして、ナバルの財産も、アビガイルも、みんなダビデのものになったのです。
このように、恩を知らない者が、いかに自分の財産をケチったとしても、それは主に従う者に財産を渡すことになるのです。
私たちは、霊的な恩知らずに、なってはなりません。
特に、日々皆さんのために労したり、祈ったりといった、霊的な養いをしている方に対しては、しっかりと恩を成すべきです。
ナバルは、ダビデから物質的な援助を得ていたにもかかわらず、恩を返すことを惜しんで、その結果、このような有様になったわけです。
ましてや、霊的な恩恵を受けていながら、その恩を忘れるとしたら、どのような事が待っているでしょうか。
もし誰かから恩恵を受けているのでしたら、それが霊的であるか物質的であるかにかかわらず、しっかりと恩を返すようにしましょう。
そのような皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福いたします。アーメン。
愛は人を造り上げる(1コリント8章1節から13節まで)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » 1コリント人への手紙
- 執筆 :
- pastor 2011-12-6 19:14
礼拝説教メッセージ音声:愛は人を造り上げる(1コリント8章1節から13節まで):右クリックで保存
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今日は、第一コリントの8章、偶像に捧げた肉についての質問に対するパウロの回答です。
コリントの町には、アフロディテ神殿という非常に大きな偶像の宮があり、そこで何らかの儀式によって捧げられた肉が出回っておりました。
私達キリスト者が知っていることは、世に神々と呼ばれるものがあったとしても、神は唯一であり、主は唯一キリスト・イエスだけです。
偶像というものは神ではなく、意匠が作った物体にすぎません。
ですから、偶像に捧げたその肉についても、食べなくても損にはならないし、食べても益にならないと、パウロは8節で言っております。
以上の知識がある人は、その肉を食べる事に対して何か良心が穢れるといったことはないでしょう。
パウロがここで論じているのは、偶像に捧げた肉そのものが穢れているのかどうかではなく、むしろ、他の兄弟姉妹につまづきを与えていないか、ということです。
1節に、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる、とあります。
私たちも、あのことを知っている、このことを知っているということで、他の兄弟姉妹に何の心遣いなしに行うことが、他の兄弟姉妹のつまづきになっていないか、注意するべきです。
「私には知識がある」と高ぶっている者は、実は、知らなくてはならないことさえ、知っていないのです。
知らなくてはならないこととは「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。」ということです。
愛は人を造り上げますが、知識は人を造り上げるとは限りません。
パウロは、もしあなたの知識によって、その弱い人を滅びに導くのであれば、あなたは罪を犯していることになるのだ、と言っております。
キリストは、その弱い兄弟のためにも、死んで下さったため、その兄弟たちの弱い良心を傷つけ、躓かせる事は、キリストに対して罪を犯す事なのです。
私達は以下のパウロの態度を見習うべきです。
「食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。」(13節)
知識は人を高ぶらせますが、愛は人を造りあげます。
たとえ、世界の全ての神秘に通じる知識を持っていたとしても、愛がなければ、それはなんの益にも徳にもなりません。
私達が何を基準に行動すべきか。それは、愛を基準に行動するべきです。
いかに人の徳を高めるか、いかに人を清い方向へ導くか、そのような基準であれば、何を言うべきであり、また、何を言わぬべきかも、分かってきます。
「神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです」、と3節にあります。
私達が愛を基準に行動するのであれば、神に知られた者として扱ってくれるのです。
「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」とイエス様はおっしゃいました。(ヨハネ13:35)
たとえ私達があらゆる災いから守られていても、もし高ぶっているのであれば、世の人達は、こんな交わりには加わりたくないと思います。
しかし、私達が知識や力とかではなく、愛を基準にして行動するのであれば、世の人たちは心を開くのです。
世の中の人が、あの人はクリスチャンだ、と、評価するのは、知識に通じているという事や、不思議なことをする、ということよりも、愛に満ちた人だ、という事を見る時ではないでしょうか。
世の人がキリスト者を、さすが神様から愛された人だ、さすがそのような人は違うな、と評価するとき、その人は神様に栄光を捧げているのです。
どうか、知識によるのではなく、力によるのでもなく、愛を基準に行動する皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。
アーメン。
婚期の処女を持つ父親への勧め(1コリント7:36-40)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » 1コリント人への手紙
- 執筆 :
- pastor 2011-12-5 21:54
礼拝説教メッセージ音声:婚期の娘を持つ父親への勧め(1コリント7:36-40):右クリックで保存
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今日の箇所は、処女の娘を持っている父親や後見人に対するパウロの勧めです。
他の聖書の訳ですと「自分の娘」ではなく「自分の(結婚しようとしている)相手」と訳されているものもあるのですが、ここで使われているギリシア語は「結婚させなさい」であって、「結婚しなさい」ではありません。
ですからここでは、未婚の娘を持つ父親や、身寄りのない女の子を面倒をみている長老達に対する勧めと思われます。
パウロはここでも一貫して、結婚するよりも、独身でいられるのであれば、そのほうがより優れている、と勧めています。
ここを曲解して、パウロは結婚は悪で、独身を貫くのが清い、と教えていると勘違いしている人もおります。
パウロも何度も言っていますが、ここの箇所は命令ではなく勧めです。
なぜ独身の方が良いと言っているのでしょうか。
それはパウロのように、主を第一として専心している者にとっては、結婚はむしろ妨げとなるからです。
パウロ自身の手紙においても、終わりの時代には、結婚を禁じる者も出てくる、しかしそれは悪霊に心を奪われた者の偽善だと指摘しております。(第一テモテの4章1節から5節)
結婚は、主が定めてくださった偉大なる奥義ですから、結婚を禁じるということは、むしろ、人を不自然な状態へと導くことになります。
何か聖職者になるためには、結婚してはならない、というような宗教には、大体、男性同士の不品行や、幼児性愛といった不品行がはびこっております。
パウロが独身のほうが優れているといったのは、あくまで主に専念するためであって、結婚を禁じることが神に喜ばれるからではないのです。
結婚に限らず、食物とか、何か禁じることによって、逆にそのことで情欲が芽生え、罪の踏み台となってしまうようでは、本末転倒です。
神がつくられたものはみな良いもので、感謝して受けるのであれば、捨てるものは何もないのです。
また、パウロは他の個所で、結婚させなさいと言っている場面もあります。
第一テモテの5章9節から16節までお読みしましょう。
ここではパウロは、若いやもめは結婚して子供を産みなさい、と言っております。
それは、結婚しないことによって、その人は、良くないことをするようになってしまうからです。
結婚でも食物を禁じることも、それは主に専念することであれば、結構な事ですが、それによって機会を得て、情欲に引き摺り回されるようであれば、結婚しなさい、あるいは食物をとりなさい、と勧めているわけです。
パウロがなぜ独身のほうがよいと言ったかといいますと、パウロ自身の生き方、パウロ自身の経験によるものです。
彼自身、色々な聖徒たちが、世を愛したために信仰を離れていくのを見て、嘆きました。
配偶者や、子供、両親を愛するのは、それはよい事ですが、しかし、主よりも世のほうを愛して、信仰の道から遠ざかってしまうのは、救いの道から遠ざかってしまう事で、よくないことです。
パウロは、生きるにしても死ぬにしても、主のために生き、主のために死ぬ、それほどの主に対する熱い思いがありました。
それと同じように、パウロと同じように志をできるのであれば、結婚をしないほうがよいと勧めているのであります。
結婚するにしても、しないにしても、いずれにしても、主の為に専心することこそ、大切なのです。
自分で自分の情欲を抑えきれない、あるいは欲望を抑えきれないのであれば、むしろ結婚して、しっかりと結婚生活を送りながら主に仕えていくほうがより秩序のある生活になります。
どうか、主にあって秩序正しく生活していき、願わくば、主に専念する皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福いたします。
アーメン。
礼拝説教メッセージ音声:心の王座を主に委ねよ(1コリント7:25-35):右クリックで保存
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7章は結婚の事についての個所です。
今日の個所は、処女や結婚していない男への勧めです。
ここでパウロが記しているのは、勧めであって、命令ではありません。
パウロの意見をまとめますと、結婚をしていない者はそのままの状態にとどまるのがよい、ということです。
その理由は、26節には、今危機が迫っている状態にあるので、と書かれており、また29節に、時は迫っている、とあります。
この当時、パウロがコリント人への手紙を書いたとき、既に、信者に対する、ローマ政府からの迫害がおきておりました。
また、キリストの再臨は近いと考えられておりました。
そのような状況で家族を持つということは、その身に苦難や思い煩いを招くことでした。
例えば、妻が捕まる事によって信仰が萎えてしまったり、このようなご時世で、子供をキリスト者として健全に育てられるだろうかと苦悩したりすることです。
今の世の中では、クリスチャンでなくても、結婚したり、子供を産んだりという事が困難と予想される時代であります。
事実、今の若者は、結婚について、子供を産むことについて、思い悩む人も大勢おり、戦争や地震の噂や、また、人の心が冷たくなって、
子供が健全に育つのが難しい時世だからです。
それでパウロは、主にあって信頼できる者として、結婚していないのであれば、なるべくしないように、と勧めたわけです。
29節から31節を再びお読みしますけれども、
「兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。
今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、
物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。」
もちろん、妻や夫を得たり、持ち物を所有することは、それ自体、悪いことではないのですけど、
それらに執着しすぎて、主よりもそちらのほうを、思い煩いうのであれば、
むしろ初めから持たないほうが主に専念出来て良い、ということです。
つまりパウロの言いたい事の要点として、世のものは過ぎ去るものだから、執着しすぎないよういに、という事です。
よく、物に支配されてしまって、家の中が自分が動くスペースよりも、
物が占めるスペースのほうが多くなってしまう人もいますけれども、
その場合は、物を持たないほうがむしろ自由になります。
みなさんの心の内でも、心のスペースに主をより多く占めるのであれば、
皆さんは、より自由になっていきます。
パウロが求めていることは、秩序ある生活を、主にあって送る、ということです。
35節、「このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、
品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。」
私達の生活のなかで最も大切なのは、主に奉仕をするということなのです。
結婚や、人間関係や、また持ち物などが、自分の心を思い煩わすものとなってはなりません。
心のうちの拠り所、自分の王座に、主に座っていただくのであれば、何が最善なのか分かりますし、主も最善へと導いてくださいます。
どうか、主を第一として、秩序ある生活をしていく皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します、アーメン。
礼拝説教メッセージ音声:召されたままの状態で(1コリント7:17-24):右クリックで保存
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キリスト者である私達一人一人は、神に呼び出された者達、世のシステムから天のシステムへと組み込まれ、死と呪いに属する者からいのちと祝福の内に入れ替えられた者達である。
しかし具体的な生活や、仕事とか家庭状況を変えなくてはならないというものではない。
「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。」(17節)
私達が今置かれている場所・状況において、主が召しだしてくださったからには、その現場・状況こそ神様から提示されている働くべき領域である。
私達にはそれぞれ分があり、そこを背伸びして、分を超えた事をわざわざする事も、それが出来ないと言って憂うような、いらぬ先回りも、全く必要無い。
「おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい。召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。」(20、21節)
今の状態が、奴隷であろうと主人であろうと、従業員であろうと雇用主であろうと、主婦であろうと働いていようと、そうした立場は主の御前に関係なく、大切なのは、神の命令、すなわち、御言葉を守る事である。
しかし、不正な利益を得る事や、不品行の生活など、主に喜ばれない習慣からは脱出するべきであり、主に助けを求めるなら、たとい、自ら止める事が出来ないような状況であっても、主はそこから救い出して下さる。
バプテスマのヨハネが現れた時、彼はまず群集に、悔い改めにふさわしい実を結べ、戒めた。(ルカ3:7-14)
バプテスマを受けたから、教会に通っているからと言って、何でもかんでも許されているわけではなく、悔い改めるためにバプテスマを受けたからには、悔い改めに相応しい実を結ぶべきである。
「悔い改めにふさわしい実を結べ。・・・斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」(ルカ3:8,9)
バプテスマ受けたといって安住し、以前の生活に留まったまま、何ら悔い改めの実を結ばないなら、やがて切り倒され、火に投げ込まれてしまうのだ。
群集がヨハネに「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねたとき、彼は、困っている兄弟姉妹に分け与えなさい、また、自分の職務を越えて、持っている権力や力を乱用する事無く、頂いている給料で満足しなさい、と勧めた。
私達は、主から頂いている分を超えず、各々がそれに従い、召された状態のまま歩むべきである。
イエス様のいのちの値段によって買い取られた者らしく、悔い改めに相応しい行動をし、それぞれ与えられた環境、場所、能力に応じ、豊かな実を結ぶ皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:夫婦の信仰生活(1コリント7:10-16):右クリックで保存
韓国語通訳有
今日の箇所は、既に結婚した人達への命令と勧めである。
「更に、既婚者に命じます。妻は夫と別れてはいけない。こう命じるのは、わたしではなく、主です。」(10節)
パウロは結婚という経験が無かったにもかかわらず、夫婦生活や結婚について大胆に命じる事が出来たのは、その命じた内容は御言葉に即した事、主が確かに言われた事だったからである。
キリスト者同士が、兄弟姉妹に勧めたり、命じたりする時、その内容が御言葉通りであるなら、相手がたとい目上であろうと、たとい自分にはその経験がない事柄であろうと、命じる事が出来るのだ。
主はこう言われた。
「言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」(マタイ 19:9)
結婚とは、男と女が、神の御前に一つとなる事で、安易にして良いものではなく、神が既に一つとしたものを、人間が勝手に引き離したりしてはならないものである。
だからパウロは、既に別れてしまったのなら再婚せずにいるか夫のもとに帰りなさい、また、離縁してはいけない、と「命じて」いるわけである。
次に、夫婦の片方が信者で、片方が信じていない場合についてであるが、そのケースは聖書に明示されていないため、パウロも「主ではなくわたしが言うのですが」と前置きし、信仰の先輩として助言している。
伴侶が信者でなく、なおかつ、その人が自分と一緒にいる事に、反対でないならば、離れてはならない、とパウロは勧めた。
自分がクリスチャンである事を、伴侶が承知し反対しないのなら、その人は、キリストに反対しない者、主に味方する者と見る事ができる。(マタイ9:40)
「なぜなら、信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです。そうでなければ、あなたがたの子供たちは汚れていることになりますが、実際には聖なる者です。」(14節)
パウロは他の箇所でも「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使徒16:31)と言っているため、どうやら、救われる事・聖とされる事というのは、家族単位であるようだ。
伴侶が何十年目でやっと信仰に入った、というケースは数多くあるため、もし、相手が自分と離れるつもりが無いのであれば、希望を持ちつつ信仰生活を続けるのは、大いに結構である。
しかし、もし相方が、自分の意志で明確にキリストに反し、キリストを信じている自分から、離れていく、というのであれば、離れていくに任せるよう勧めている。
「妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうして分かるのか。」(16節)
私達に願いとしては、「妻が、あるいは夫が、救われて欲しい」というのがあるかもしれない。
しかし、救われる・救われないというのは、各人の自由意志に委ねられており、それは神であろうとタッチできない領域である。
神様は、私達が信仰よりも結婚という関係が優先させられ、それに縛られる事は望んでおられず、主を中心として、平和に与らせるために、私達を召して下さっているのだ。
だから、もし信者でない妻あるいは夫が、離れていくのであれば、それに任せなさい、とパウロは勧めている。
いずれにせよ、最も優れているのは、夫婦そろってキリストを信じる信仰に至る事である。
結婚されている方は、キリストの平和の内に夫婦生活を送るように、また、結婚されていない方は、キリストを信じる幸いな伴侶を得るように、主に導かれる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:夫婦の営み(1コリント7:1-9):右クリックで保存
韓国語通訳有
第一コリントは、6章までがコリント教会に対する叱責で、7章からは、コリントの人達からパウロに対する質問への回答、という形になる。
今日の箇所は、結婚や独身に関する質問への回答で、未婚の人あるいは何らかの理由で配偶者がいない男女への勧めである。
しかしその中で、3節から5節の間に、もし結婚したなら配偶者に対して果たすべき義務を果たしなさい、という勧めが挿入的に書いてある。
1コリント7章では、一人身だと情欲が燃えて不品行に走りやすい、それを防ぐために結婚しなさい、というような順番で書いているが、結婚はそんなに軽々しいものではなく、偉大な奥義であるとも、パウロは言っている。
結婚とは、単に情欲を満たす相手を得たいから、自分の憧れや願いごとを叶えたいから、といった、自分中心の理由で為すものではない。
結婚は、ひとつ体となる関係であり、しかも、体に関する権利は、相手にあって、自分には無い。
その事を伝えたいから、パウロは3-5節までの事を挿入したのかもしれない。
夫婦であれば、妻として、夫として、果たすべきつとめは、果たさなくてはならない。
「妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同じように、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれを持っているのです。」(4節)
もしあなたが妻なら、その体は夫のものであり、もし夫ならその体は妻のもの、つまり、自分のからだの権利は、自分ではなく配偶者が持っているのだ。
皆さんはこの事を、受け入れられるだろうか。書いてある事は厳しすぎると思うだろうか。
しかし、ここに書いてあるのは御言葉である以上、その通りの心持ちで行なら、その夫婦関係は、実にに祝福されるのだ。
夫と妻は一つ体となっている、と書いてある以上、夫婦という関係は、そういうものなのであり、キリストと教会の関係についても同様である。(エペソ5章)
夫婦の一方が不足を来たらしているのであれば、相方がその不足を満たし、互いに補い合って、完全を目指して互いに建て上げ合って行くものである。
いずれにせよ、結婚生活も含め、全ての営みは、主を中心とするべきで、そして、結婚するよりは、主のために独身を貫く事のほうが、より優れている、とパウロは勧めている。
それは命令ではないが、なぜ独身のほうが優れているかというと、結婚する人たちはその身に苦労を負う事になるからであり(28節)、
結婚するとどのような苦労を負うか、というと、結婚する前は、主に専心して捧げ尽くす事ができても、結婚したら、捧げるべき相手がもう一人増えるからだ。
それまで、主にのみ向いていた心が、伴侶、すなわち”世”にも向いてしまい、心が分裂してしまうのだ。(32-34節)
しかし結婚するからといって悪いわけでもなく、パウロも、その事は命令ではなく、勧めとして書いている。
いずれにしても、最も大切なのは、夫婦関係よりも、主との関係である。
主を中心として、秩序のある生活を送る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!