メッセージ - 講解説教(新約)カテゴリのエントリ
礼拝説教メッセージ音声:ひとつ(1コリント6:15-20):右クリックで保存
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キリスト者である私達は、キリストの体の一部であり(15節)、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり(19節)、代価を払って買い取られた(20節)者達である。
私達はキリストと一つとなっており、遊女と交わる事はすなわち、キリストの体の一部を遊女の体の一部とするという、とんでもない行為である。(15節)
神はどのように、人を男と女とに創られたか。
神は男を深い眠りにつかせ、そのあばら骨取り、これに肉をかぶせ、女を造られた。
そして神が女を男のところに連れて来られ、男がその同じ肉、同じ骨、同じいのちを共有する助け手と出会った時、次のように喜び叫んだ。
「ついに、これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう、まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」(創世記2:23)
聖書において、「ひとつ」という言葉は、とても重要なキーワードである。
男と女がひとつとなり、いのちを生み出すように、キリストと私達がひとつとなって私達は永遠のいのちを生み、キリストとひとつとなった宣教によって、ますますいのちを生んで増えて、地に満ちて行くのだ。
そしてやがて、キリストと教会が結婚してひとつとなり、永遠を生きるのである。
キリストは教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた。
それは、教会をきよめて聖なるものとし、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のない花嫁とするためである。(エペソ5章)
人がキリストを信じ、主とする時、キリストが「主人」すなわち夫となり、その同じ肉、同じ骨、同じいのちとなる。
そうしてキリストの血によって清められ、傷や、しみや、しわ等の無い花嫁とされた私達をキリストが見る時、キリストは、私達を喜び楽しむのである。
「若者がおとめをめとるように、あなたを再建される方があなたをめとり、花婿が花嫁を喜びとするように、あなたの神はあなたを喜びとされる。」(イザヤ62:5)
「あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」(ゼパニヤ3:17)
それほどまでに私達は愛され、私達のからだが尊いものであるなら、どうしてこの体をおろそかにできるだろう。
キリストの体の一部として、聖霊が宿ってくださる神殿として、また、キリストの命の値がつけられた者として、それらしく歩む皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
召しだされた聖なる者として(1コリント6:9-14)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » 1コリント人への手紙
- 執筆 :
- pastor 2011-11-25 23:10
礼拝説教メッセージ音声:召しだされた聖なる者として(1コリント6:9-14):右クリックで保存
韓国語通訳有
主日の収穫感謝祭では、栗がイガの中に入った状態だったが、実はあれは、イガは自然に落ちているものを拾って来て、その中に、店で買った栗をはめ込んで、飾ったものだ。
それはあくまで、飾りのためだったけれど、皆さんがもし偉大な王様に栗を献上する時、イガがついたまま献上して「はいお召し上がり下さい」などと出来るだろうか。
「正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。」(1コリント6:9-10)
ここにリストされている事は、以前に属するもの、もはや過ぎ去ったもの、捨てられるべきもの、栗のイガに似た「もみがら」の類であり、それをつけたままでは、主の御前に捧げられるものではない。
そのような以前の事どもを引き摺ったまま「神は全てを受け入れてくれるのだから」と悔いて改める事をしないのであれば、主は受け入れて下さらない。
「あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。」(11節)
私達が留まるべきは、洗われ、聖なる者とされ、義として下さった「主イエス・キリストの名」の内に、である。
そうであるからには、もはやもはや古きに属するイガや渋皮といった「もみがら」と言ったものを、主の御前に、再び身につけるような事は、すべきでない。
『「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、わたしは何事にも支配されはしない。』(12節)
人間には神の似姿として自由意志が与えられており、神であっても、その自由意志を操る事をなさらず、アダムが罪に陥る選択をした時でさえ、強制力を持って人を支配なさる事をしなかった。
キリスト者とは確かに自由とされた者である。
しかし、すべてのことが益になるわけではない。
盗みをすれば、それなりの報いを刈り取るし、姦淫を犯しても、それなりの報いを刈り取る。
キリスト者とは、11節にあるとおり、主イエス・キリストの名と神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされた者達である。
だからキリスト者は、聖なる者として召しだされた以上、それに相応しく歩むべきであり、聖なる品位を保つべく努力をしなくてはならない。
競技をする者は、自らを節制する。
夜食をがつがつ食べる自由は、確かに競技者にもあるかもしれないが、そんな不摂生ばかりして太った者が、競技に勝てる訳はない。
同様に、御言葉で勧められている事を無視して、「これが私のスタイルなの!」と自分流を主張しているような者は、勝てるわけが無いのだ。
聖なる競技に立つ私達は、全ての事に節制し、何が最善であるのかをわきまえ、選択して行動しなくてはならない。
主は、私達に自由を得させるために、まさしく命を捨ててまで、私達を愛され、解放させて下さった。(ガラテヤ5:1)
だから、古き肉に属する者戻って再び奴隷のくびきが負わされる事が無いように、そして、聖なる者として召し出された者らしく歩む皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:たゆまず善を行いなさい(マタイ5:43-48):右クリックで保存
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今日は、最近いただいた恵みの分かち合いをします。
最近、ある人が主にあって建て上げられる事を願って、その人のために祈り、時間や労力を注いだり、お金の便宜を図ったりました。
ところがその人は、このように言いました。
「私は別にそうして欲しくなかった、あなたが勝手にそうしただけだ」
私はその人が主にあって成長する事を望んでいましたが、その方は別の事を願っていて、私がその方のためにする事は、あたかもその方にとっては邪魔であるかのようでした。
その方のために骨折った事への感謝はなく、むしろ「あなたが勝手にした」と受け止められた事で、怒りと悲しみの苦々しい思いに溢れて、祈りました。
暫く祈っていると、心に浮かんでくる言葉がありました。
「あなたは、わたしが命がけであなたを救うために流した血を、踏みにじった事は無いのか?」
私はその言葉を受けた時、心刺され、さも自分は何の間違えも罪も無いかのように、さも、自分が何か尊いものであるかのように、高ぶっていた自分が悲しくなりました。
私は邪悪で罪深く、まさにその日、主が流して下さった血潮を、軽んじる事をしました。
それなのに、今私はこうして恵みと哀れみによって生かされています。
「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマ5:8)
私は罪と穢れにまみれているのに、そしてそれは今もそうであるのに、そんな私に、主は何をささげて下さったのか。
主は、尊い血潮を、尊いご自身のいのちを、私達のために、父なる神に捧げて下さいました。
それを思うと、私は申し訳なくて申し訳なくて、ただ「主よ、ごめんなさい」と心一杯に呼ぶしかありませんでした。
主が命じられた事を守ろうとする時、時には無駄に思える事があるかもしれません。
しかし、主は良い人にも悪い人にも太陽を登らせ、雨を降らせて下さる良いお方です。
主が望んでおられる事は、自分の敵を愛し、迫害する者のために祈る事。それでこそ、天におられる御父の子となる事が出来る。(マタイ5:43-48)
だから私達も、そのような主の足跡を辿る事に、間違いは無いのです。
もし皆さんが、主のために奉仕をする時、その動機が主を愛するがため、主に捧げたいがために成すのであれば、人々が何を言おうと、主はその捧げ物を受け取り、とこしえの記念としてくださいます。(マルコ14:3-9)
主が十字架にかかられる直前まで、主がなさろうとする事を12弟子は理解しておらず、ベタニヤのマリヤだけが理解していました。
マリヤは、主が自ら死へと向かっている事を悟ったけれども、他の弟子達は分かっていないので、彼女自らにしか出来ない事をしました。
彼女は300デナリ(1デナリは一日分の給与)の香油のつぼを割り、一滴残らず主に注ぎ尽くしました。
主は、そんなマリヤの心を隅々までご存知でしたが、他の弟子達はそれとも知らず、なぜこんな、無駄な事をしたのか、と憤りました。
私達が主の御心を知り、自分しか出来ない事をする時、周りはそれを悟らず、無駄なことをしている、と怒るかもしれません。
しかし主は、皆さんの心を隅々までご存知で、むしろ皆さんを弁護し、褒めて下さいます。
イエス様は、この事は彼女にとって永遠に記念となると言われました。
永遠に残る事とは、人の考え付いた善行ではなく、主のために注ぎ尽くす事。
主の御心を探り、主のために、その日その時にしか出来ない事をする事。
それは人の目には無駄に見えるかもしれませんが、主の目には尊く、永遠に残る事です。
主が求めておられる事を悟り、人の言葉に左右されず、たゆまず主のために注いでいく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:訴えあう事について(1コリント6:1-8):右クリックで保存
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コリントの教会は、分裂分派争いがあり、不品行はひどいし、さらには、兄弟姉妹同士の裁判沙汰もあったようである。
パウロはそれらに対し、表面的に「してはいけません」と注意するだけでなく、主イエスにある私達がどういう立場であるのか、真理に立てばそうした事がいかに稚拙であるかを、示して来た。
この6章は、兄弟姉妹同士が訴え合う事について叱責しているが、ここにおいても、真実に照らして何が問題であるのかを示している。
「あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか。」(2節)
私達人間は、今はしばし、御使いよりも低いものとされているが、後に世界は、私達神の子の支配化に置かれるようになる。(ヘブル2:7)
それなのに、聖徒達の間に争い事が起こると、聖徒同士が御言葉に照らして戒めあうのではなく、世の裁判官を選んで裁判してもらい、自分達の失態を、世に晒している。
そもそも、訴え事が起こるのは、大体人の貪欲さが原因である。
自分の思っていた通りに人が動かない時、欲におびき寄せられだまされる時、自分に栄光を帰するための栄誉欲が満たされなかった時など。
『群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」
そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」』(ルカ12:13-15)
自分の兄弟から、いくらかでも財産を取りたいという、貪欲に由来する争いごとは、イエス様は取り合わなかった。
むしろ、貪欲に注意して警戒するよう注意し、そして、多くの持ち物を頼りとする愚かな金持ちのたとえ話へと続けた。
世に属する朽ちてゆく富のために、聖なる兄弟姉妹をないがしろにしたりして、自分を滅びに定めるような事は、実に愚かな事である。
財産を得るために、兄弟姉妹をないがしろにしたり、争ったりする者は確かにいるが、イエス様が命じられたのは、兄弟姉妹同士は、互いに愛し合いなさい、という事だった。
「そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。」(7節)
これは、右の頬を打たれたら左の頬も差し出しなさい、という主の言葉に通じるものがあるが、その箇所(マタイ5:39)をよく読むと、まず「悪いものに歯向かってはならない」という言葉が先にあり、そこから、右の頬を打たれたら左の頬も、、、と続く。
つまり、悪い事をした者に「抵抗しない」事は、その者を「悪い者」と定め、その者の裁きを、正当にさばいて下さる神様にお委ねする事になるのだ。
兄弟姉妹がもし悪い事をしたら、御言葉を根拠に、柔和な心で訓戒する事、それが愛する兄弟姉妹への対処である。
そうする事で、もしかしたら悪魔に囚われているその人を、神様はあるいは悔い改めに導いてくださるかもしれない。(2テモテ2:23-26)
最も良くないのは、コリント人がしているように、愚かな議論をもって兄弟姉妹に争いを引き起こしたり、兄弟姉妹を言葉巧みに自分の所に引き込んで分裂を促したりする事である。
しっかりと御言葉を身につけ、互いに愛し合い、赦し合い、仕えあいつつ、互いに徳を立て上げて行く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
交わりの純度を保つために2(1コリント5:9-13)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » 1コリント人への手紙
- 執筆 :
- pastor 2011-11-18 20:47
礼拝説教メッセージ音声:交わりの純度を保つために2(1コリント5:9-13):右クリックで保存
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パウロは、不品行な者を悔い改めさせもせず相変わらず交わりを容認させているのは、高ぶっている事だと指摘し、その者を主イエスの権威によってサタンに引き渡した。
それは、彼の肉が滅ぼされるためであり、それによって彼の霊が救われるためである。
コリントの町は、現代日本のように偶像礼拝に満ち、不品行に満ちていた。
そのような事をする人達と一切付き合ってはならない、という事なら、確かに、この世界から出て行かなくてはならない。
しかし、兄弟と言われるものの中で、そのような事をする者とは付き合ってはならない、食事を一緒にしてもならない、と命じている。(11節)
私は会社に勤めている時、お酒を飲むのが好きだったが、その時この御言葉を読んで、酒が好きな私は、兄弟姉妹と付き合う資格も無い、と見出し、兄弟姉妹と交わるとき、この言葉を思い出すたびに、ちくちくと心刺された。
他の兄弟姉妹の中にも、他の罪、例えば性的不品行など、中々止められず、心刺されている方も、いるかもしれない。
そういう人たちが、自分を御言葉に照らしてさばき、罪があると認め、主に救われたい、解放されたいと願うなら、もちろん主は癒しや解放の御業を為して下さるお方である。
しかし、御言葉が何を述べているかを聞きながら、不品行や酒、偶像礼拝などを、兄弟姉妹の交わりに持ち込み、止めないのであれば、その者は、教会の交わりを乱す者である。
そのような者とは付き合ってはいけないし、一緒に食事をしてはならない。
パウロが第1コリントを書いたのは、コリントの不品行の者が悔い改め、そして実際に訪問する時、叱責とむちをもって行きたくなかったからだった。
「あのようなことを書いたのは、そちらに行って、喜ばせてもらえるはずの人たちから悲しい思いをさせられたくなかったからです。わたしの喜びはあなたがたすべての喜びでもあると、あなたがた一同について確信しているからです。」(2コ2:3)
罪を改めなさい、と言うのは、言う側も、言われる側も、悲しく嫌ではあるが、もしそれで罪が除かれるなら、パウロもコリント人も、喜びが沸き起こるのである。
そして実際、その手紙によって悔い改めが沸き起こった。
その人(パウロに裁かれサタンに引き渡された者と思われる)は、多数の者から受けたあの罰で十分で、むしろその人が悲しみに打ちのめされてしまわないよう赦して力づけ、そして、ぜひともその人を愛するようにと、後に書いている。(2コリント2:5-8)
兄弟姉妹の交わりとは、義なる交わりであり、聖なる交わりである。
罪を許さない、という厳しい面があるが、もし罪を悔い改めるのであれば、愛によって覆うものでもある。
何事でも、愛を基準に愛を根拠に為すべきである。
なぜなら、愛は多くの罪を赦し、また、憐れみは裁きに対して勝利するからだ。
交わりに愛と憐れみを満たし、ますます教会の純潔と一致を保つ皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:交わりの純度を保つために(1コリント5:1-8):右クリックで保存
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キリストに呼び出された者達の集まりは、聖なる集いである。
それなのに、コリントの教会には、父の妻を妻としているような者がおり、しかもその者は悠然と教会を出入りし、兄弟姉妹達は、そのような者を悲しみつつ取り除こう、という事をしなかった。
そこでパウロは、主イエスの権威によってさばき、その者をサタンに引き渡した。(1コリント5:4-5)
彼がこのような対応を取らざるを得なかったのは、コリントの教会では自浄作用が機能しておらず、本来、教会がするべき事を誰もしないから、パウロが霊においてその者を裁いたのである。
兄弟姉妹を敢えてサタンに引き渡すのは、その者の肉的な部分が滅び、また、その者の行く様を見て他の者達が戒めを受け、そして、彼の霊が主の日に救われるためである。(5節)
教会とは、何でもかんでも許して、愛して、受け入れて、、、という集団ではない。
敢えて主の嫌われる事を平気でするような汚れた者が同居したまま、自分も健全に保っていける、と思っているなら、それは誇り高ぶっている。
過ぎ越しのパンにはパン種を入れてはならないのと同じように、教会全体が主に受け入れられる捧げものとなるためには、そのような者は除かなくてはならない。
主の忌み嫌われる行いを悔い改めず、他の聖徒達に悪い影響おを与え続ける者に対しては、このようにすべき事を、パウロは模範として示してくれたのだ。
主が忌み嫌われる事を行っている兄弟姉妹は、すぐに追い出すのではなく、その前に、戒めなくてはならない。
「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。
聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。
それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ18:14-18)
「現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。」(7節)
キリストは、私達の罪の身代わりとなるために、過越の小羊として、既にほふられた。
その聖なる愛さんの場に罪を持ち込むという事は、どれほど重い罪だろう。
「だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。」(8節)
キリストのおられる交わりの純度を保つために、時には兄弟姉妹を戒める勇気を、常に持っておきたい。
溢れるほど愛するから、叱る(1コリント4:14-21)
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- pastor 2011-11-16 22:48
礼拝説教メッセージ音声:溢れるほど愛するから、叱る(1コリント4:14-21):右クリックで保存
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私達はできれば手厳しい事は言われたくないし、また、できれば人に厳しい事は、言いたくないものである。
パウロがコリント人達を手厳しく戒めたのは、コリントの人達を霊的な子として愛しており、良くなってほしかったからである。
「あのようなことを書いたのは、そちらに行って、喜ばせてもらえるはずの人たちから悲しい思いをさせられたくなかったからです。わたしの喜びはあなたがたすべての喜びでもあると、あなたがた一同について確信しているからです。」(2コリント2:3)
私達も親から叱責を受けた経験があるが、親がそうするのは、子が、幸せになるような、たしなみを身に着けて欲しいからだ。
パウロも好き好んであのような手紙を書いたわけではなく、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書いたのであり、その動機は溢れる愛から出たものだった。
「わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした。」(2コリ2:4)
厳しい事を言ってくれる人は少ないものだが、その人の動機が愛から出て、苦しみとうめきを持ちつつしてくれるなら、その人の言葉は宝である。
「そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい。」(16節)
パウロは、コリントの人達にとって、これ以上無いと言うくらいの優れたお手本だったが、私達は、誰にも彼にも従って良いという訳ではない。
その人に従って良いかどうかの判断基準は、まず、その人がキリスト・イエスに忠実に習う者であるかどうかだ。
また、その人の行いの実が良いか悪いかも、判断基準になる。
もしその人の生活がだらしくなく、どんどん貧しく病んでいるような人であれば、例えどんなに優れた事を言っているようであっても、その人はスルーしたほうが良い。
しかしもし、その人が霊性においても人望においても物質的においても優れた実を結び続けているのなら、そのような人をお手本とするのは、間違い無い。
パウロは実に父のような愛をもって真摯に、そして御言葉に基づき的確にアドバイスした。
私達もそのように成長したいものであるし、また、霊的な父母に教え諭された時は、謙虚な心で聞き従いたいものである。
教会の交わりにおいて、主にあってますます教え、戒め、愛し合う皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
あなたは競技者?それとも観客?(1コリント4:6-13)
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- pastor 2011-11-15 19:23
礼拝説教メッセージ音声:あなたは競技者?それとも観客?(1コリント4:6-13):右クリックで保存
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パウロは諸々の苦難、幾多の迫害や、鞭打ち、石打などを経て、やっとコリントに至り、福音を伝え、そして彼らは、いのちを得た。
しかし彼らは、パウロの言葉は哲学よりも愚かに聞こえるなどと、あたかも自らが誰よりも偉い王様のように、あるいは全てに満ち足りているかのような立場でいた。
確かに、キリストを信じる者は、王のような支配者となる事は書かれてある。
しかし、それはキリストにならう者である事が、条件だ。
キリストは、まず低くなられ、十字架の死に至るまで従順だったからこそ、神によって引き上げられ、栄光が与えられた。
そのキリストに習い、自らを主の御前に低くなり、従順になり、その忍耐と従順を学ぶ事によって、はじめて引き上げられる。
キリスト者は確かに豊かになるし、王のようになれるが、「キリストに習い、まずへりくだる」という所を抜きにして、豊かになったり、王のようになったり、などというのは、あり得ない。
「神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。」(9節)
当時のコロシアムでは、様々な競技や戦い、公開処刑などが行われ、多くの観客が娯楽として見入っていた。
パウロは、キリストに従う者たちは、あたかもコロッシアムで見世物にされているような者達で、しかも、世の人達だけでなく、御使いたちにも見世物とされ、競技場の中で戦っているようなものだと言っている。
競技場の中にいる者と、観客席にいる者とでは、立場が随分違う。
観客席の側にいる人は安全であり、娯楽のためにそこにいて、あれこれと評論したりするが、中にいる人はいのちの危険があり、苦しみ頑張り、実際に体を張って血と汗を流すが、後には賞と栄冠をいただける。
パウロは9節で、コリント人達は観客席からパウロたちが頑張るのを見物して楽しむ側のようだと皮肉を込めている。
キリスト者とは、観客席にいてポップコーンを頬張りながら、血と汗を流す競技者を眺めて、批評したり楽しんだりする人種ではない。
観客席にいる者は、賞も栄冠も、決してもらえない。
むしろ私達は競技場の中で戦い、キリストの栄冠を勝ち取る者として、日々、いのちの務めに励む者達である。
パウロはコリントにおいて、労苦して働きながら復員を伝えた。それは、自らの手で働いて、模範を示すためだったが、残念ながらそれは伝わらず、彼らはそんなパウロを見物していた。
「今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています。」(13節)
「しもべ」という言葉の原意は「ちりの中をくぐる」という意味だったと最近学んだし、奇しくも、一昨日の主日メッセージも、口を塵につけよという題だった。
今私達に特に示されているのは、キリストの僕たり者は、塵の中を通れ、という事かもしれない。
確かにキリストの働き人は、塵の中をくぐる訓練が待っているかもしれない。
しかし、キリストが低められた後に高く上げられたように、私達も後には、決して朽ちる事の無い義の栄冠を勝ち取るために、しているのである。
塵の中をくぐるというのは、嫌な事、屈辱に移るかもしれないが、しかし、私達の主イエス様は、そのような所をくぐって行かれたのだ!
私達ももし、塵の中をもしくぐっているなら、キリストの足跡をそのまま歩んでいるという、甘く栄誉ある経験をしているのだ。
どうか、キリストに習い、キリストの歩んだ足跡をそのまま歩む事によって、主のくびきの甘さと安息を得る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:忠実な管理者であれ(1コリント4:1-5):右クリックで保存
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4章では、コリント人たちが高慢になっている事を指摘している。
神様を差し置いて、自分が善悪判断したり、罪定めしたりする、というのは、高慢である。
私達はキリストのしもべであり、支配する側ではなく、仕える側にあるのだ。
また、なんと私達は、神の奥義を管理している、というのである。(1節)
「そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」」(マタイ13:52)
倉庫番は、倉庫から新しいものや古いものを、その時に応じ、取り出す事が求められている。
神の国の奥義の管理者が、神の倉庫から取り出すものは、御言葉であって、自分自身の何かを取り出すものではない。
「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。」(3節)
もし私達が、ある会社の倉庫番であるなら、誰か他人が倉庫の中身にケチをつけたとしても、痛くも痒くもないはず。
それは自分のものではなく会社のものだし、ケチつけた人は、会社にケチをつけた事になるのだから。
私達は、神の国の倉庫番なのに、あたかも、自分の家の倉庫番であるかのようにふるまうから、他人の評価が気になってしまう訳である。
「ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。」(5節)
裁いてはならない、とは有名な言葉だが、それは、他人を裁くだけでなく、自分を裁く事も含まれている。
なぜなら、私達はもはや私達のものではなく、私達の所有権は、イエス様に移ったのだから。
だから、勝手に「自分をさばく」という事も、してはならない。
「自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。」(4節)
これは、逆に考えれば、私達にやましい所が大いにあったとしても、それで有罪にされるわけでもない。
唯一、裁く権利のあるお方は、主である。
だから、やましいところがあろうと無かろうと、自分は有罪だ無罪だ、といった裁きは、無意味である。
私達は、人の評価や自分の評価は止め、ただ自分自身という「託されたもの」を忠実に管理する事が、求められている。
この世において、管理するものを、小さなものだと思ってはならない。
もし地上で忠実に管理するのであれば、天において、さらに大きな事が任されるからだ。
地上における事はしっかり管理し、かの日には、主から「良くやった、良い忠実な僕よ」と賞賛される皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
にわかに信じがたい事の連続(1コリント3:16-23)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » 1コリント人への手紙
- 執筆 :
- pastor 2011-11-11 20:32
礼拝説教メッセージ音声:にわかに信じがたい事の連続(1コリント3:16-23):右クリックで保存
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本日の箇所は、にわかには信じがたい事が連続して書かれている。
パウロは言う。あなたがたが、神の神殿である、と。
私達が「神殿」であるからには、私達という器は、神を宿らせている、という事であり、そして私達は、聖なるものである。
そうであるからには、私達を攻撃するものは、神を攻撃しているのであり、そのような者は、神が取り扱われる。
パウロはさらに続ける。
「パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。」(1コリント3:22-23)
パウロもアポロもケファも世界も生も死も、みな私達のもの?!
これもまた、にわかには信じ難い事である。
しかし、御言葉にそう書いてあるからには、アーメンといって受け入れるだけである。
なぜこれら全てが、私達のものか。
それは、私達はキリストのもの、そして、キリストは神のものであるからだ。
私達がキリストを「主人」としているなら、夫なるキリストは、計り知れない富と知恵、力で満ちておられるお方だから、全ても私達のもの、という事になるのだ。
「わたしはあの人につく」とか、「わたしはこの教えにつく」といった主張は、なんと馬鹿げているだろう。
私達にとって、まことの主人なるイエスキリストこそ全てであり、このお方を知れば知るほど、世の何者も色あせてしまう。
私達は、自分の立場というものを、よくよく理解すべきである。
エペソ1:20-23
「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。
神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。
教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」
私達の内に宿っておられるお方は、すべてにおいて、すべてを満たしておられる方。
キリストの名の元に召しだされた私達、すなわち教会は、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場である。
その私達の主は、今の世ばかりでなく、後の世においても、あらゆる名の上に置かれている。
そしてなんと、私達は、そのお方をお入れする神殿なのだ。
「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。
そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。
また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。」(エペソ1:17-19)