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キリストという土台の上に(1コリント3:10-15)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » 1コリント人への手紙
- 執筆 :
- pastor 2011-11-10 20:41
礼拝説教メッセージ音声:キリストという土台の上に(1コリント3:10-15):右クリックで保存
韓国語通訳有
パウロがコリントに行って伝えたのは、哲学など人間の知恵ではなく、説得でもない。
彼は、神の知恵の現われである、十字架のキリストを伝えに行ったのだ。
すなわち、パウロがコリントに行った時に据えた土台とは、イエスキリストという土台であり、このお方こそ、全ての教会の土台なるお方である。
人はその土台の上に、色々な材料を使い、神の宮という家を建てて行く。
私達はどのようにしてこの家を建てて行くべきか。それは、イエス様の言葉を聞いて、行う事によってである。
その者は、岩の上に自分の家を建てた賢い人であり、イエス様の言葉を聞くだけで行わない者は、砂の上に家を建てた愚かな人である。(マタイ7:24-27)
あの牧師の説教は斬新だ、最先端だ、おしゃれだ、などと、表面的な評価するだけで、その中に語られている御言葉を聞いて行わないのなら、それは砂の上に立てる人のようなものだ。
単に聞くだけの人と、聞いて行っている人、その二人の10年後の成り立ちは、鮮やかに、残酷なまでに、違って来てしまう。
キリストという土台の上に、御言葉を行うという事によって、自分という神の神殿を建て上げるのであれば、その建物はいつまでも残る。
対して、人間の教えや人間の知恵によって建てるのであれば、その建物は、かの日には焼かれてしまう、とパウロは言っている。(15節)
神は、焼き尽くす火(consuming fire)であり、私達の礼拝を、唯一受け入れてくださるお方(consumer)である。(ヘブル12:29)
神の火は、私達を信仰の試練として試し、聖霊の火に浸しこまれる時、私達は力に満たされ、全世界に対しキリストの証人となる。
また、敵に対しては焼き尽くす火となって私達の先頭を進んで下さる。(申命記9:1-3)
もし、この火を通って、何かが残るなら、それは私達の栄誉であり、焼けてしまって何も残らないなら、それは私達の恥である。
「建物自体は燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。」(15節)
私達の生前の恥は全て燃やされ、土台であるキリストだけが永遠に残される、というのは、実は、永遠を生きる上では、大きなあわれみである。
もし私達による、神抜きで作ってしまった気恥ずかしい作品が、永遠に残るとしたら、永遠に恥じながら、生きていかなくてはならない。
「斥候の若者たちは行って、ラハブとその父母、兄弟、彼女に連なる者すべてを連れ出し、彼女の親族をすべて連れ出してイスラエルの宿営のそばに避難させた。
彼らはその後、町とその中のすべてのものを焼き払い、金、銀、銅器、鉄器だけを主の宝物倉に納めた。」(ヨシュア6:23,24)
遊女ラハブは、神の民の使いを穏やかに受け入れ、かの日には、その彼らによって安全な所へとかくまわれた。
私達も、知らない間に、もしかしたら神の使いを助けているかもしれない。
かの日には、神の使いは私達を安全なところへと匿ってくれる。
エリコの町が火で焼き滅ぼされたように、この世の全ても火で焼き滅ぼされるが、金が銀、鉄の器などは、主の宝物倉へと運び込まれ、永遠に主の御用とされて用いられるのである。
私達がこの世で、金や銀など朽ちないものによって建てるのであれば、永遠の聖なる神の都へと運び込まれ、そこで永久に用いられるのだ。
だから私達は、この世の生活において、神のみ言葉どおり実行する事により、永遠に残る尊い材料で、この神の宮を建て上げていくべきである。
キリストという土台の上で、御言葉の実行によって家を立て、かの日には、尊い器として永遠に残り、永遠へと用いられる皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:目に見える人にではなく(1コリント3:1-9):右クリックで保存
韓国語通訳有
「兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。」(1節)
堅い食物とは、みことばの事で、霊的幼子は、御言葉を柔らかく噛み砕いてあげないと、食べない。
信じて間もない人にはそうする必要がある。
しかし、信じて10年や20年も経っているのに、いつまでもそのような事を要求しているようであれば、嘆かわしい事である。
皆さんは、御言葉を忘れて、人の言葉や人からの評価に、振り回されたりしてはいないだろうか。
あるいは、私は誰につく、彼につくと言って、分裂を引き起こしたりしていないだろうか。
私達一人一人は、人や、目に見えるものによって養われるのではなく、御言葉の食物によって養われるべきである。
霊的幼子のもう一つの特徴として、御言葉には何も求めず、パウロやアポロ、牧師先生といった、目に見える「人」に求め続け、そして、そういった働き人に、信仰の土台を置いている事である。
「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。」(5節)
パウロやアポロ、牧師先生たちは、皆さんの職場や家庭に、いつでも共にいる事はできないが、皆さんはいつでもどこでも、御言葉から直接、必要十分な養いを受ける事ができる。
だから信仰生活は、教会の中ではなく、教会を出て家庭や職場に戻ってからが、勝負どころである。
大切なのは、御言葉を蒔いた人でも、注いだ人でもなく、成長させてくださる神である。
目に見える人間にではなく、決して離れる事の無い、イエス様に望みを置く皆さんでありますように。
礼拝説教メッセージ音声:世の知恵にではなく御霊に(1コリント2:12-16):右クリックで保存
韓国語通訳有
コリントの人たちが分裂しているのは、人間の知恵に頼っているからだ、と、パウロは指摘する。
神の国の事柄は、人間の知恵によっては決して理解できない。
神がおられるのかどうかも、21世紀の科学さえはっきりさせる事ができていないし、何千年も培ってきた叡智も哲学も道徳も、人の罪を除くことは出来なかったし、完全な国家を構築する事も出来なかった。
自然に目を留めれば、永遠なる神様の存在を見る事が出来るが、人類歴史に目を留めれば、人の罪深さや不完全さ、はかなさが、浮き彫りにされているのを見るだけである。
神の知恵のほうが、人の知恵よりも、はるかに勝っている。
ところが人間は、はかない目に見えるものの方を、どうしても頼ってしまいがちである。
コリントは当時のギリシア文化の中心地で、哲学や弁論術、道楽も発達していたため、彼らの耳と目はとても肥えていた。
いかに目や耳、感情に訴えるか、という事を求め、それが良い物だという価値観があった。
しかしパウロの話は目や耳、感情に訴えるものではなかった。
だから彼らは、彼の語るかんじんの御言葉やいのちに、全く目を留める事ができなかったのである。
ところが、神の国に属する事とは、御霊によって解くのである。(14節)
生まれながらの人間、すなわち「魂の人」は、心の中でぐるぐる考えを巡らすしか出来ないため、神の国の事を受け入れる事が出来ない。
対して、御霊を受けている人、すなわち「霊の人」は、全ての事をわきまえるが、彼自身、誰にもわきまえられる事がない。
また、霊の人は、キリストの思いを持っている。(16節)
キリストが思うように思う。その思いを、御霊は与えてくださる。
キリスト者とは、世の人からすれば、わきまえられる事のない、本当に理解不能な人種である。
世の人はキリスト者を見ていて思う。
なぜあの人は、あんにあに悲惨な状況なのに、あんんあに平安なのだろう。
なんであの人は、邪悪な人間に仕返しせず、良いことばかりしてあげているのだろう。
なぜ、彼らは祈るだけで、あんなに平安なのだろう。
ところが実際、キリスト者は、それら全ての苦しみや災いから、助かってしまうのである。
人類にとって最高の敵である「死」すら、彼らを打ちひしがれさせる事が出来ない。
世の人は、そういう事を見て、神がいるんじゃないか、と思って、入信した人も多い。
御言葉というものは、世の人から見れば愚かに見える。
ところが、信じる者にとっては。神の力の現われとなるのだ。
信じる者には助けぬしなる御霊から力が与えられ、慰めが与えられ、あらゆる良きものが与えられる。
キリストは、恵み深く、憐れみ深く、愛に富んでおられ、気前が良く、癒し主であり、いのちの主である。
世の知恵でなく、キリストを豊かに宿らせ、御霊に満たされる皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:人の知恵によるのでなく(1コリント2:6-11):右クリックで保存
韓国語通訳有
人の知恵は、いかに勉強し、いかに経験するかによって増していくものだが、神の国の事柄は、人の知恵によっては理解し得ない。
人類歴史が培ってきた、科学や文学といった人間の知恵によっては、決して悟るとこはできないため、21世紀となった今となっても、神の存在を立証したのかしないのか分からない状態である。
「わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。」(1コリ2:7)
この神の知恵の最たるものが、イエスの十字架の事である。
イザヤは預言している。
「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。」(イザヤ53:1)
一体誰が、自分達のメシヤが、十字架につけられるなど予想できただろうか。
神のなさる事は、人には、とうてい思いもよらない事である。
「まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」」(1コリ2:9)
御霊の光による照明がなくては、御言葉を悟る事は出来ない。
御霊に導かれて歩むには、私達は罪に対しては死んだ者であり、神に対しては生きている者である、と、自由意志によって「仕分け」する事、そして、霊に従って歩むかそれとも肉に従って歩むか、という二者択一の場面で、霊に従って歩む事を選び続ける事である。
そうやって御霊に従って進む者は、豊かな御霊の実を結んでいく。
御霊によって歩み、多くの豊かな実を結ばせる皆さんでありますように!
十字架につけられたキリストのみ(1コリント2:1-5)
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- 執筆 :
- pastor 2011-11-5 20:52
礼拝説教メッセージ音声:十字架につけられたキリストのみ(1コリント2:1-5):右クリックで保存
韓国語通訳有
コリントは当時のギリシア文化の中心地で、哲学や雄弁術、詭弁学が盛んであり、色々な娯楽もあったため、コリント人の目と耳は、現代日本のように、非常に肥えていた。
それだから彼らがパウロについて気を留めたのは、御言葉のいのちではなく、外見の弱々しさや話ぶりのなってなさ、という、キリストのご性質とは関係の無いことについてであった。(?コリント10:10)
今日でも、語られる御言葉ではなく、説教者の見栄えや話し振り、ステータスなどに気を取られて、その話している御言葉を右から左へと素通りさせているとしたら、当時のコリント人同様、叱責されても仕方無い。
パウロがコリントでは弱く恐れおののいていた(3節)のは何故だろう。
また、何故すぐれた知恵を用いて神のあかしを宣べ伝えることはせず、十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したのだろう。
それは、彼がコリントに着く前のいきさつを見れば納得がいく。
彼はマケドニヤで何度もユダヤ人たちの暴動に遭っては別の地に逃れるという事を繰り返し、シラスやテモテを置いてギリシヤへと半ば逃げるように、一人ぼっちでアテネに着いたのだった。(使徒17章)
実はパウロは、このアテネのアレオパゴスで、雄弁術的に知恵を用いて福音を説明しようとしている。
有名な詩人の詩を引用し、彼らが知らないで礼拝している神の正体は、実は天地を創造したまことの神である、よって偶像崇拝は意味が無い、
そこから真の救い主、イエス様へと話を持っていこうとした所で、唐突にメッセージは終了してしまう。
それは、死者のよみがえりの話になった途端、アテネの人々はあざ笑い、「その話だったらまた後で」と言って2度と聞こうとしなかったからだ。
そういうわけでパウロがコリントに到着した時、弱く恐れおののいており、そして雄弁術的に人を説得する事も止め、イエス・キリスト、それも十字架につけられた彼のほか、何も知るまいと決めたのだろう。
パウロはコリントでは弱々しく恐れおののき、雄弁さのかけらも無かったというのに、なぜ大勢の人達が信じ、救いに導かれたのだろう。
それは、イエスの十字架の言葉こそが、神の御霊と神の御力の現われだからである。
多くの娯楽と不品行に溢れ、目と耳が非常に肥えているコリントの人が、聖なる者へと造り変えられるのは、雄弁さでも説得でもなく、十字架につけられたキリスト、ただこのお方のみである。
もし雄弁さや説得によってパウロになびいたのであれば、他の優れた雄弁家、優れた娯楽が来れば、すぐに捨ててしまっていただろう。
しかし、信仰は人の知恵によらず、神の力によるからこそ、このような町にあっても人は造り替えられ、聖なる者となったのである。
十字架につけられたキリスト、このお方にのみ望みを置き、神の御霊と神の御力を現す皆さんでありますように!
礼拝説教メッセージ音声:誇る者は主を誇れ(1コリント1:26-31):右クリックで保存
韓国語通訳有
十字架の福音とは、世の人からすれば、実に愚かである。
なにしろ、世界を救うメシヤが、裸にされ、あざけられ、十字架で公開処刑された、というのだから。
知者であればあるほど、また力ある者であればあるほど、それはばかばかしく、受け入れ難い。
福音はなぜ、わざわざ、そうなのか。
それは、この世の力ある者達をはずかしめるためである。(1コリント1:27)
コリントの人たちは、世の価値観のまま変わらず、世において富を得、高められ、力ある者、知恵ある者となる事を、求めていた。
彼らは福音を、この世的なステータスや祝福を求める価値観だったからこそ、争いや分裂が絶えなかったのだ。
キリストに望みを置く者は、概して、知者も、権力者も、力ある者も、そんなに多くは無い。古今東西、大体そうである。
それでキリスト教は弱者が信じる宗教だと言われるが、それは逆である。
神が、この世の弱いものを、敢えて選ばれた。(28節)だからこそ統計的に、知者や権力者、力ある者は少なく、地位のない者、無に等しい者、見下げられている者が多いのである。
キリストに望みを置く皆さんは、地位のない者、無に等しい者、見下げられている者と言われて、不愉快になるだろうか。
もしそうなら、コリントの人と同じく、価値観はこの世に向かっているのだ。
イエス様が、無に等しい見下されている者を、あえて選んで下さったのは、誰も誇らせないためであり、私達が誇るべきは、ただ主だけである。
しかもなんと、私達が為す良い行いをも、あらかじめ備えれていたのだ。(エペソ2:8-10)
ここまで来ると、もはや誰も自分の何かを誇る事ができない。
私達が世にあって歩むとき、何を求めるべきだろうか。
お金だろうか?地位だろうか?知恵だろうか?力だろうか?
私達は、それらを豊かに与えて下さり、楽しませて下さる主をこそ、求めるべきである。
「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」(1テモテ6:17)
礼拝説教メッセージ音声:愚かさの極みの中に命あり(1コリント1:18-25):右クリックで保存
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コリント人たちは人間的な知恵によって優劣判断していたため、兄弟姉妹達の間に分裂があった。
それでパウロは、人間の知恵は神の前には愚かだと指摘している。
人は、力強いな演説や雄弁さ等によって、いのちを得たり救われたりする事は、決して無い。
人は何によっていのちに至るのか?
それは、人には愚かに見える、十字架の言葉によってである。
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(18節)
一体どこの脚本家が、人類の救世主は裸にされ、さらし者にされ、磔刑にされる、などと考えつくだろうか。
十字架は、人の価値観からすれば、愚かの極みである。
しかし十字架は、私達いのちに定められた者達にとって、救いの力なのである。
何故そのように福音は、人の目に愚かなように出来ているのか。
それは「知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする」ためである。(19節)
救いとは、人の何かに拠るものは何一つ無く、神様からの一方的な恵みであると、神様が定められたからである。
もし福音をそのまま伝えるなら、それは愚かとだと、人は判断しやすい。
だから人は、福音を、より人にとっつきやすく、よりスタイリッシュにと、音楽や芸術などを織り交ぜつつ、伝えようとする。
そうした事は、より多くの人たちに間口が広がる、という意味で、有用である。
しかし忘れてはならないのは、救いは、そういった人の知恵による装飾だけでは成就しない事、そして、救いはイエスキリストの十字架を除いては、ありえない、という事である。
救いは、宣教の愚かさを通して伝わるようにと、神様は定められたのである。
見栄えの良さや、スタイリッシュさ、心地良さだけを伝え、福音の根本たる十字架を伝えない事には、命の養いも栄養も何も無い。
救いの根幹である主イエス様の十字架をしっかり理解し、伝える皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:私は誰々につく、ではなく(1コリント1:10-17):右クリックで保存
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もし皆さんが、ある人から「あの人はあなたについていくと言っていた、でもこの人は誰々についていく」と聞いたなら、どうだろう。
「そうか、あの人は私に味方で、あいつは敵だ」と言って、舞い上がったり憎んだり、という事になるだろうか。
パウロはある時、コリントの人たちがそのような状態だ、という報告を受けた。
ある人はパウロにつく、ある人はアポロにつく、と言って、分裂があるというのだ。
パウロはそれを聞いて、よし、私につく者だけを集めて戦争だ、などと言っただろうか?
そうではない。パウロは分裂がある事を、悲しんだのである。
コリント人への手紙の最初は、流石にあいさつで始まったが、あいさつもそこそこに早速本題とするほど、パウロにとって、兄弟姉妹の分裂は、早急に解決すべき課題だったのである。
「わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」10節
「心を一つにし」とは、キリストの心を心とする事(ピリピ2:5・文語訳)であり、「思いを一つに」とは同じ判断基準である御言葉を、全てをはかる上での物差しとせよ、という事である。
そして、兄弟姉妹が一つとなるのは「わたしたちの主イエス・キリストの名によって」である。
「あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。」(12節)
この中に。「わたしはキリストに」とあり、それは一見非が無いかのようだが、一体何が問題なのか。
サタンでさえ、御言葉を道具にして人を訴えるのだ。
たとい、御言葉の知識が完全であっても、御言葉を、自分の正当性を主張して対立する道具とし、党派心を煽り、他の兄弟姉妹と敵対するなら、それは問題である。
兄弟姉妹の間に愛が無く告訴し合うのであれば、一体その正しい知識は何になるだろう。
私は誰々先生につく、いや、私は別の先生に、といった争いがあるとしたら、その人たちはまだ肉に属する者であり、ただの人と全く変わりない。(1コリ3:2-5)
あの先生もこの先生も、主が各々に授けられた賜物に従って働きを為した「器」に過ぎない。
大切なのは、誰々から何々の経験を受けた、ではなく、肉に歩んでいた頃の自分には死に、新しくイエスと共によみがえらされ、日々、新しいいのちを主イエスの名によって歩む事なのだ。
「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」(ガラテヤ6:15)
分裂や分派といった、古い世界に属する事はもう止めにして、キリストと共に十字架で死んだ者として、新しい創造として歩む皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:コリントにある神の教会へ(1コリント1:1-9):右クリックで保存
韓国語通訳有
パウロ達の第2回伝道旅行の時、彼らがマケドニヤでユダヤ人の迫害に遭い、止む無くギリシヤ方面へ退いた時、彼らははじめてコリント入りし、そこで1年半の間、じっくり伝道する事となった。(使徒18章)
その時、コリントにて教会が建てられたのである。
コリントの町は地峡の上にあるため、交通の要所として商業的に発展し、色々な文化が交じり合ったが、同時に道徳的な退廃も進み、退廃的な生活を送る事を「コリント流」と言うほどだった。
そんなことからか、他の手紙と比べて見ても、コリント教会は、色々な問題を抱えているようだった。
パウロはこの書簡を、第3回伝道旅行で、エペソで2年滞在している時期に書いている。
彼はなぜコリントへ手紙を書く必要を覚えたか。
それは、コリントの教会には分裂があった事、また、パウロへ幾つか質問があったため、その質問に答えるために書いたのである。
そういうわけで、この手紙には諸々の具体的な問題への答えが書いてあるため、我々キリスト者にとっても、それらの問題への対処が分かりやすく説明されている。
コリント人への手紙の書き出しは、「キリスト・イエス」という言葉を何度も登場させ、まず置くべき立ち位置は、キリストイエスである事を思い起こさせている。
「コリントにある神の教会、〔すなわち〕キリスト・イエスにおいて聖められた者たち、召された聖なる者たちに〔この手紙を書き送る〕
――私たちの主イエス・キリストの名を、いたるところで呼び求めているすべての者たちと共に ――〔この名は、〕彼らのものであり、そして私たちのものでもある。」(2節、岩波訳)
神の教会、すなわち、私達主に呼び出された者達は、キリスト・イエスによって清められた者であり、そして、至る所でキリスト・イエスの名を呼び求めている者達である。
私達は、人間的な知恵や主張よりも、キリストにある知恵や知識、御言葉に基づいた判断を、生活や行動の規範とすべきである。
「あなたがたは、その方の子であり私たちの主であるイエス・キリストとの交わりへと、召されたのである。」(9節)
このお方にあって、知恵においても、知識においても、全てが豊かに満たされる皆さんでありますように。
礼拝説教メッセージ音声:神に御栄え(ローマ16:21-27):右クリックで保存
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いよいよ今回でローマ人への手紙は終りだが、手紙を閉じようとして、パウロは何度か祝祷をしている。
実は24節として、もう一つの祝祷を挿入する異本もある。
聖徒を祝福する事は何度しても、いや、やればやるほど、祝福されるものである。
パウロは今度は、彼の周りにいる人たちから、ローマの人たちによろしく、と言っている。(21-23節)
彼の周りにはテモテを筆頭に、コリントの監査役エラスト、パウロが宿泊していた家主のガイオのほか、色々な地方の出身者がいた。
その事から、パウロがコリントで手紙を書いた時点で、彼は色々な国のメンバーから成る宣教チームと共にいた事が分かる。
パウロは宣教を一人でしていたのではなく、色々な賜物を持ったメンバーと共に行っていたのだ。
さて、25から27節で一つの長い祝祷となっている。
パウロは10,11章において、イスラエルの選びと異邦人の救いのご計画を説明し、その最後に
「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」(ローマ11:33)
と言って、神のその遠大なご計画を称えた。
それと同じように、この手紙の最後も、神の深遠な知恵と力を称えつつ、手紙を閉じている。
パウロは、聖徒達を何度も祝福し、「よろしく」を交換し、最後の最後に神に栄光を捧げた。
彼のように、聖徒達を祝福し、聖徒達と「よろしく」を交換し、そして神に栄光を捧げる皆さんでありますように。