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礼拝説教メッセージ音声:あなたは既に死んでいる(ローマ6:1-8):右クリックで保存
韓国語通訳有
罪が増し加わった所に恵みがさらに溢れたのなら、恵みが増すように、さらに罪の中に留まるべきだろうか?
断じてそんな事があってはならない。
イエス様が自らの尊い命を捧げつくして与えてくださった恵みを、敢えて踏みにじるような事など、して良いはずはない。
それ以前に、イエス様にあって罪に対して死んでいる私達が、敢えて罪のうちに留まり続けるなどというのは、できない。
キリストの新しいいのちが息吹かれた者は、罪の内を歩み続けていると、苦しくなるからである。
「それともあなたがたは、キリスト・イエスヘと洗礼を受けた私たちすべては、彼の死へと洗礼を受けたのだ、ということを知らないのか。」(3節)
洗礼(バプテスマ)とは浸し込むという意味で、漬物が漬け汁を染み込むように、私達にはキリストに浸しこまれ、キリストのありとあらゆる性質が染み付いている。
そればかりでなく、キリストの死にも浸しこまれて、キリストのよみがえり、キリストの新しいいのちにも結び付けられ、私達の体内、魂内、霊内にキリストが息吹かれているのだ。
それ故、私達は罪に対して死んでいるため、罪から解放されているばかりでなく、世から来る艱難や生まれながらの呪い、そして死に対してさえ、キリストにあって死んでいるのである。
「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」(ガラテヤ6:14)
信仰の偉人たち - アブラハムとサラ(ヘブル11:8-16)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » ヘブル人への手紙
- 執筆 :
- pastor 2011-8-27 19:10
礼拝説教メッセージ音声:信仰の偉人たち - アブラハムとサラ(ヘブル11:8-16):右クリックで保存
韓国語通訳有
人は70歳を超えると、住み慣れた場所で余生をゆったり過ごすものだが、アブラハムは75歳の時、主からの召しに応え、さらなる祝福の約束を信じ、見知った土地での家族との平和な暮らしを捨て、どこに行くかも分からずに、主の示されるままに出て行った。
彼の信仰は確かにすごいが、サラもすごい。
もし旦那がある日突然、神から示されたので新しい土地に出て行く、と言い出し、しかもその行き先は分からない、と言うなら、一体どうするだろう。
そこだけを見ると、この夫婦は素晴らしい信仰のように見えるが、最初からそうだったわけではない。
創世記をよく読むと、彼らも最初は信じられなかった事が分かる。(創世記17:15-17)
アブラハムは最初、約束を信ぜず、約束を聞いた時は笑いしか出てこなかった。
しかし最終的に、彼は信じた事の実体として、主から契約の印とした与えられた「割礼」をその日のうちに施す、という行動をした。
割礼は、男性の包皮を切り取るが、それは男性にとってはかなりの覚悟が要る行為である。
アブラハムはその日のうちに、彼自身だけでなく、彼の家にいる男子全てにそのようにさせ、彼の信仰に行いという実体を示した。
サラはどうだったか。
彼女も最初、約束を信ぜず、約束を聞いた時は笑いしか出てこなかった。
しかし彼女は後には主に信頼し、不信仰に恐れる夫の間違った指示にさえ従順を示し、全ての事から救い出して下さる主に全面的に委ねた。(創世記20章)
サラが主に明け渡したからこそ、主はアビメレクに直接介入され、サラは救い出されただけでなく、羊や奴隷、銀1000枚を得た。
そうして彼らは信仰においても整えられ、主は彼らを省みて、主が言われたその時期にサラは男の子を生んだ。
新約聖書に記述されている彼らに対する評価は、かなり良心的だ。
しかし旧約を読むと、彼らの実際はもっと汚くどろどろしている。
旧約は人のおどろおどろしい実態を、ありのままに暴いているが、新約では、人が犯したおどろおどろしい部分は記録から省かれ、信仰の賞賛だけが残っている。
永遠の書物に記載される内容は、人のどろどろや汚い罪の部分は、主イエスにあって無かった事にされ、ただ信仰によって歩んだ結果だけが残り、賞賛だけが残るのである。
しかしもし彼らが信じないで、御言葉を無視して相変わらず自分の力でやりくりしていたなら、そのような良心的な記載はされなかったどころか、永遠の書物からも抹消されていたであろう。
御言葉は、あまねく平等に注がれるが、それを信じ、信仰の実体である行いを示す者は、わずかだ。
御言葉が与えられ、その通り信じて行えば、豊かな祝福を得るけれど、もし恐れたり無気力になったりして、信仰の行いをしないのなら、ただいたずらに歳を取っていくだけである。
アブラハムやサラのように、信仰によって一歩進み、約束された祝福を得て、笑う皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:罪が増した所に恵みが溢れた(ローマ5:12-21):右クリックで保存
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一人の人アダムを通して罪が人類全体に入って来たように、その罪過を覆う恵みの贈り物も、一人の人を通して人類に入って来た。
私たち人類に罪がある事は、律法によって知る事が出来る。
律法に「偽りの証言をしてはならない」と書いてあるから、私達が嘘をついてしまう時に、私たちに罪すなわち違反があると、知る事が出来る。
旧約聖書や律法は、耳に痛いから嫌いだと言って、目を向けない者がいるが、御言葉は好き嫌いで判断するべきではない。
なぜなら律法なしには恵みは在り得ないからだ。
「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。
こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」(ローマ5:20,21)
嘘も方便とか、良い嘘もある等、御言葉に人間の教えを混ぜてはならず、たとえ人の命を救うためにつく嘘であろうと、嘘は違反として認めるべきである。
もし人の命を救うために嘘をついたのであれば、自分は人の命を救うために嘘という違反を犯した事を主イエス様に告白し、赦しを請うべきである。
罪は主に告白すれば赦して下さるが、御言葉をねじ曲げるなら、罪の赦しという法則を自ら絶ってしまう事になり、恵みを頂く余地も無くなってしまう。
福音の示す所は、人間には罪がある、だから神は怒りを下し罰を与える、ではない。
人間には罪がある、だから罪は覆われ赦される必要がある、そののために神は大切な一人子を罪の身代わりとされ、私たちはこのお方・イエス様を信じる事によって救われる、、、というのが、福音である。
礼拝説教メッセージ音声:命がけで愛された(ローマ5:6-11):右クリックで保存
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恋人や友、子のために命を捨てる、というストーリーの映画や小説はよくあるが、その命を捨てる相手が、平気で裏切ったり嘘をついたりする卑怯者であるというストーリーは、ほぼ皆無である。
人間の想定できる愛の枠組みからあまりに離れているし、人間の美意識という枠組みからも外れているからだ。
「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマ5:8)
神の愛は人の思いを越えて遥かに高く、理解不能なほど懐が深い。
主は私達のために命を捨ててくださった故に私達は愛を知り、兄弟姉妹を愛する手本が私たちに示された。
私達はたとい自分の心が責めても、兄弟姉妹を行いと真実を持って愛すべきである。(1ヨハネ3:16-24)
例えば、兄弟姉妹がお金に困っていて、自分にお金があるけれども、それを施したら財布が空になってしまう、というような時、施さないままでいるなら心は責められるが、施せば責められない。
はたして主は、私たちが施して空になってしまった財布を、そのままにしておかれるお方だろうか?そうではない。
「そして願うならば何でも彼から受けることになる。なぜなら私たちは彼の誡めを守っており、その面前で意にかなうことを行なっているからである。」(1ヨハネ3章22節)
神の御心を行っているのであれば、神は必ず必要を備え願っている事を受ける事ができる。
神は、愛する御子イエス様が命を懸けて救ってくれた私達の事を、どうしてすげなくできるだろうか。
また、尊い御子イエス様が命懸けで私たちを救ってくれたというのに、どうして私たちは、自らを軽んじたり、傷つけたり、自殺したりして良いだろうか。
たとい自分がどんなに薄汚く、みじめで、絶望的に見えようとも、主が命がけて救ってくださったからには、私たちは主の命の値がつけられた者に相応しく、誇り高く生きるのがスジである。
礼拝説教メッセージ音声:患難が希望を生む(ローマ5:1-5):右クリックで保存
韓国語通訳有
私達は信仰によって義とされ、主イエスキリストを通して神との間には平和がある。
キリストは、隔ての壁すなわち敵意を破壊して下さり、ご自身において私達を新しい人に創り上げ、十字架を通して神と和解させて下さった。(エペソ2:14-18)
私達はキリストにおいて神と和解させられたのみならず、神の子とされた。
子であるからには、全ての良き相続を相続する権利があり、その良き相続を得るにふさわしく整えるため、神自ら、私達に最善の教育を受けさせて下さる。
その最善の教育とは、私達が昨日・今日と経験してきた、日常生活である。
主が私達を教育するために患難を与えられる事もあるが、それは本来、喜ぶべき事である。
患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すからだ。(4節)
日本の教育では90年代以降、いわゆる体罰に対して神経質になり、本来罰すべき時の罰さえ差し控えられる事が多いが、聖書の教える所では、子を懲らす事を控えてはならず、「むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる」(箴言13:24)とさえ書いてある。
聖書は教育においても真理であるが故、いかに日本の教育が懲らしめを控える現状になろうと、主が私達を教育する時は、懲らしめを控えるという事は無い。
主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれる。(ヘブル12:6-11)
私達はこれを鍛錬として忍耐しなければならない。
なぜなら神は、私達を子として取り扱っておられるから。
もし主からのむちを控えられ、悪い事をしても罰が来ないのであれば、それは私生子であって、本当の子ではない。
主は、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられる。
それは当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのだ。
「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」(ローマ5:3,4岩波訳)
その時その時に主からいただいく教育をしっかり修了し、朽ちる事の無い希望を得て行く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:笑わせて下さる主(ローマ4:16-25):右クリックで保存
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もし、70歳以上の老夫婦に子供が生まれると言うなら、それを信じられる信じられない以前に、笑いが出てくるのではないだろうか。
それはアブラハムもサラも同じだった。
アブラハムは99歳の時、性的に死んだも同然だと認めていたのに、神様から、あなたの子孫をおびただしく増やし、サラから産まれる子孫はおびただしくなる、という約束が与えられた。
彼はそれを聞いた当初、笑ったのだが、神様は、その信じ難い約束を信じられるようにすためにフォローして下さり、彼は最終的に信じるに至った。
彼は信じたからこそ、その日の内に、自分自身だけでなく家の僕や奴隷に至るまで全ての男子に割礼を受けさせた。
男性にとって、包皮の肉を切り取るという行為にはよほどの覚悟が要る。
しかしアブラハムがその日の内に為したのは、与えられた約束への強い確信があったからに他ならない。
そして事実、神は約束を果たして下さり、彼は100歳にして念願の子を得るに至った。
信仰によって救われた私達も、アブラハムの子孫である。
アブラハムやサラのように、たとい老いたとしても、何の喜びがあろうかと思えたとしてもても、情けなくて笑うしかないような状況であったとしても、
主はそんな私達の弱った信仰をフォローして下さり、回復させて下さり、からし種ほどの信仰さえ私達が持ち続けるなら、主は約束を成就させて下さる。
礼拝説教メッセージ音声:割礼の徴(ローマ4:1-8):右クリックで保存
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罪が覆い隠され、主がその罪を認めない人の幸いは、何処から来るのだろうか。
それは、割礼によってではなく、無割礼だった時の信仰によってである。
アブラハムは無割礼だった時、彼の信仰が義とされた証印として、割礼の徴を受けた。
「それは彼が、無割礼のままで信じた全ての者達の父となるためであり、彼らにもまた、その義が認められるためである。」(11節)
そもそも、割礼はなぜ男性器という部位に為されるのだろう。
アブラハムに割礼の徴が与えられたのは99歳の時、人のいのちの力としての望みが、費えた時だった。
主は、人の望みが尽きた時に「わたしは全能の神である」と言われ、もはやいのちを生み出す望みの無くなった時に「あなたをおびただしくふやそう」と仰せられた。
さらにダメ押し的に、いのちを生み出す器官たる男性器の肉を切り取るという割礼を命じられ、しかもそれはアブラハムだけでなく彼のまだ見ぬ子孫達にもそうするようにとの事だった。
実際、アブラハムにはその次の年に子が産まれた。
そしてその子孫達すなわち割礼のある者達は、神は全能であり、いのちも救いも力も祝福も、神から来る、という事を、そのしるしを見るたびに思い起こす事だろう。
外見上のからだの割礼が割礼なのではなく、御霊による心の割礼こそ割礼である。(ローマ2:28,29)
いのちも、救いも、力も、祝福も、全能なる神から来ると信じる私達こそ、アブラハムの子孫である。
礼拝説教メッセージ音声:見てもいない事柄の監査明細(ヘブル11:1-7):右クリックで保存
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ヘブル11:1によると、信仰には、望んでいる事柄を"確信"(フーポスタシス:実体、権利証書)する事と、見えない事実を"確認"(エレグコス:証拠、監査明細)する事の2つの要素がある。
望んでいる事柄を「フーポスタシス(確信)」するとは、例えば、100万円が必要になった時、100万円分を受け取るべき権利証書を持っていて、その証書を差し出すような事である。
信仰のもう一つの面、まだ見ていない事・思いも寄らなかった事柄の「エレグコス(確信)」であるが、この言葉は「監査明細」の意味で徹底的に調べつくされた結果の明細であり、現代ギリシア人は通信簿や車検証明書という意味で用いている。
普段から勉強好きであれば、当然、通信簿の結果は良くなり、嫌いなら悪くなる。
そうした事は、人の外見からは分からないが、通信簿があれば、知ることが出来る。
目に見えない事柄を現す通信簿の内容は、普段から意識していようが、いまいが、客観的な数字として表れ、普段から勉強して通信簿の結果が良ければ、報いとして、より良い地歩を得る資格が与えられる。
同様に、普段から神様が好きで共に歩むなら、私達が思いも寄らないような報いが、ある日与えられる。
1節から7節に登城する人物たちは、人目に見えない日々の歩みについての監査証明を受け、そして賞賛された者達である。
アベルとカインは、普段の生活において、何月何日に神様から試験を受けるから、その日に備えて準備しておこう、とは、恐らく思っていなかっただろう。
しかし彼らがいけにえを捧げた時、普段どういう信仰態度であったかが、如実に示された。
「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。」(11:4)
私達の今時点の信仰は目に見える形では見えないかもしれないが、もし今、信仰の抜き打ちテストを受けたなら、天の通信簿にどう書かれるだろうか。
アベルは死んだが、信仰の賞賛はいつまでも残るものである。(1コリント13:13)
エノクは死を見ることが無く、ある日突然神によって移された。
彼についての記述はあまり無く、彼の生き様はまさしく私達の目に隠されているが、ただ分かる事は、彼は神と共に歩み(創世記5:24)、神に喜ばれていた事(ヘブル11:5)だ。
彼も、まさか自分が死を見ることが無いとは、普段の生活では思ってもいなかっただろう。
しかし、彼が死を見る事無く神に移されたという出来事によって、彼が普段いかに神と親しく共に歩んでいたかが私達の目に明らかにされたのだ。
7節にはノアが登場する。
ノアに告げられた内容や与えら得た命令は、とてつもなく非現実的だった。
大いに栄えている人間やネフィリム達が皆、大雨の洪水によって滅び、自分は多くの生き物を救うために、海の無いところに巨大な船を100年かかって造るのである。
ノアは箱舟を作ることによって世を罪に定め(7節)、もうすぐ洪水が起こると警告を発していたけれども、残念ながら救われたのはノアとその家族のみだった。
信仰者は、その信仰の行動によって、世に罪を示すのである。
神に喜ばれるには、信仰が必要である。
神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならない。(6節)
神は、私達に何か願い事がある時だけに登場する神ではない。
私達の日々の生活の中におられる神として、アベルやエノクのように日々神と共に歩み、御言葉が与えられたなら、その内容がいかであろうともノアのように従う歩みこそ、喜ばれる歩みである。
この人は祝福を受けるに相応しい、合格だ、と、天の通信簿に書かれる皆さんでありますように。
イエス様の名によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:信仰義認(ローマ4:1-8):右クリックで保存
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アブラハムはメソポタミヤで生まれ育ち、父テラは偶像を作って売る者で、彼の生まれも育ちも、それまでの行いも、神に認められる要素は何一つ無かった。
彼が義とされたのは何故だろう。
アブラハムは神の「父の家を出て私に従いなさい」と言う言葉に従って住み慣れた生まれ故郷を離れ、妻は不妊の女だったにもかかわらず「わたしはあなたを大いなる国民とする」という言葉を信じた。
彼が義とされたのは、彼の業や行いが正しかったからではなく、彼が信じたからである。
「不信心〔で神なき〕者を義とする方を信じる者にとっては、業を為すことのないままで、その人のその信仰が義とみなされるのである。」(ローマ4:5 岩波訳)
ダビデは、神によってそむきの罪が赦され、罪を覆われ、主が咎をお認めにならない人が、いかに幸いかを、詩篇32編で綴っている。
その幸いを享受するためには、主の御前に自分の全てを隠さず告白しなくてはならない。
告白する前、黙っている時は一日中うめき、骨骨が疲れ果て、御手が昼も夜も重くのしかかる。(詩篇32:3,4)
しかし御前に隠し立てせず告白するなら、主はとがめを赦して下さり、いかにサタンが濁流のように訴えようとも、それは届かず、その者の苦しみを取り除き、救いの歓声で取り囲んでくらさるのだ。(6,7節)
「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。
自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。」(1ヨハネ1:7-9)
礼拝説教メッセージ音声:信仰による義の実現(ローマ3:21-31):右クリックで保存
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律法の条項が100あるとして、100全部守ったら義とされるのだろうか?
答えは、否である。(ローマ3:20)
律法は人に罪の認識を生じさせ、人には違反がある、という事を示すために、付け加えられたものである。(ガラテヤ3:19)
付け加えられたもの、と言うからには、別の本質がある。
それはすなわちイエスキリストで、律法は単に、キリストへと導くための養育係に過ぎない。(ガラテヤ3:23-26)
神は聖であり義なるお方である故、人を罪あるまま受け入れる訳にはいかない。
しかし同時に憐れみに満ちたお方でもある故、人の罪を除いて、義とする方法を示された。
それがすなわち、イエスキリストを信じる信仰による義であり、それは何人たりとも無償で提供されるため、誰も、自分の何かを誇る事は出来ない。
では、信仰によって律法は破壊されてしまうのだろうか?そんな事は無い。
律法の一点一画が滅びるよりは、この天地が滅びるほうが易しい、と主は言われたし、律法の最も小さな事を破るように勧める者は、天においては小さい者だとも言われた。
むしろ、信仰によって、律法を成就するのである。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」(マタイ5:17)
主イエスは私達のために身代わりとなって罪を背負い、代わりに罰され、代わりに全ての代金を払ってくださったばかりでなく、私達の代わりに律法を成就して下さったのだ。
エデンの園で善悪の実を食べない限りは園のどんな実をも食べて良かったように、私たちがイエスから独立して自ら善悪判断をしない限りは、あらゆる良き祝福を享受できるのである。
イエス様に全面的に信頼して、あらゆる良き物を得る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!