• カテゴリ 講解説教(新約) の最新配信
  • RSS
  • RDF
  • ATOM

メッセージ - 講解説教(新約)カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:神を道具とする者達(使徒19:23-32):右クリックで保存
韓国語通訳有

「諸君、よく知られているように、われわれが楽に暮らしているのは、この商売のおかげです。それなのに、諸君も見聞きしているように、あのパウロが、『人の手で造ったものなどは神ではない』などと言って、このエフェソだけではなく、ほとんどアシア〔州〕全域にわたって、大勢の人々を説き伏せ、誘惑してしまった。
これでは、私たちの仕事の評判が悪くなる恐れがあるばかりではなく、大いなる女神アルテミスの神殿もないがしろにされ、全アシア、全世界が崇拝している女神のご威光さえも、消えてしまう恐れがあります」(使徒19:26,27)

アルテミス神殿の参拝方法は、この銀細工人たちが作っているような細工物を買い、それを神殿に奉納するという方法だったようである。
福音が伝えられて縮小してしまうような商売は、汚れた商売である。
この度騒動を起こした銀細工人達は、そのような礼拝システムが続く限り安泰だが、福音が広まり偶像礼拝する者がいなくなると、今までのように楽して儲ける事が出来なくなってしまうのだ。

何も価値を生み出さない、意味の無い物事に、あたかも大きな価値があるかのような幻想を抱かせたり、あるいは、実体の無い恐怖によって人々を束縛する事によって、人からお金や時間、労力を搾取するような仕組みもまた、偶像崇拝の特徴である。
現代日本も、そのように人々を恐怖させ搾取するシステムに気付かないうちに束縛され、閉塞感の内にあえいでいる者が多くいる。
終わりの時代にはそのような、人間の作ったシステムという「獣の像」を神とし、それに拝む事が強要されるものだが、あくまで天地を創られたまことの神を神とし、イエスキリストを主とする者には、最後まで守られる事が約束されている。

銀細工人たちに扇動された大勢の群集たちは「大いなるかな、エフェソ人のアルテミス」と叫んだ。
彼らの表向きの主張は、我らが神アルテミスが貶められている、それはけしからん、大いなるは我らエフェソ人の神アルテミスだ、というものだ。
しかし本心ではそんな神はどうでもよく、ラクしてこの世の富が儲けられるシステムを脅かすような、パウロが伝えている福音を掻き消したい、というのが本音だ。
めいめいがアルテミスという抽象的存在を、自分の欲望の隠れ蓑にし、その欲望がまかり通ることを叫びたいだけ。
だから、それを叫ぶ為に劇場に参加した群集は、なぜ集まったのかさえ知らず、ある者はこのことを叫び、ほかの者は別のことを叫んでいる状態だったのだ。

現代の教会においても、良く分からないけれど「アーメン」や「ハレルヤ」などのキリスト教用語をとりあえず叫んだり、「主よ主よ主よ主よ主よ・・・」と2時間も叫んでいれば何かもらえるかもと勘違いしている者も中にはいるが、エペソ人がアルテミスを欲望を満たす道具にしたように、それはまことの神を自分の欲望を満たすための道具にしているに過ぎない。
イエスは、主である。
イエス様は自分の欲望を満たすための道具でるのか、それとも、自分の人生を支配していただく「主」であるのか、日々意識していたい。
 

礼拝説教メッセージ音声:権威的上下関係(使徒19:11-22):右クリックで保存
韓国語通訳有

「神は、パウロの手によって並々ならぬ力ある業を行なわれた。彼の肌から手拭や前掛を取って病人に当てると、病気が去り、悪霊が出て行くほどであった。」(19:11,12)
パウロの前掛けや手ぬぐいそのものに病を癒したり悪霊が出て行くような超自然的な力が宿っているのではなく、癒す側、癒される側の、イエスキリストを信じる信仰による。
12年長血を患った女は信仰をもってイエス様の衣に触れ、イエス様も気付かないうちに癒しを引き出してしまった(マタイ9:20)ように、ツロ・フェニキヤの女も、イエス様に娘から悪霊を追い出して頂けると信じ抜き、イエス様のほうではその気は無くても、信仰告白によって娘の悪霊は出て行ってしまった。(マルコ7:24-30)

キリストを信じる者と悪霊や病は権威的上下関係にあり、暴力団は最終的に警察に屈するように、悪霊や病はキリストを信じる者に最終的に屈するしかない。
警察権威の象徴である制服を着て暴力団に権威を行使すれば、たとい警察署に座っている署長にその気はなくても暴力団は逃げていくように、イエスを信じる信仰によって命じれば、権威は力ある実体となり、悪霊や病、貧しさは逃げていくのである。

大祭司スケワの7人の息子達は巡回祈祷師であったが、試しに悪霊に憑かれていた者向ってイエスの名を唱えた所、「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」と言い返され、裸にされ、ぞろぞろと逃げて行くはめになった。
イエスを信じてもいないのに、御名を用いて悪霊に向っていくのは、一般人が暴力団事務所に乗り込み、よく知られている警察長官の名を出して丸腰で喧嘩を売るようなもので、そんな事をすれば当然やられる。
霊との戦いにおいてはその人の素性や力、人数などは全く関係無く、イエスを信じる信仰が最も大切で、イエスを信じない大祭司の息子祈祷師七人よりも、子犬呼ばわりされてもなお信仰告白したスロ・フェニキヤの女一人のほうが、悪霊にとってはよほど怖いのである。

この七人に起きた事がエペソ中に知れ渡って、イエスの名はますます広まり、魔術を行っていた者達に悔い改めが生じた。
彼らは魔術の文書を皆の前で焼き捨て、その額は3〜5億円(銀貨5万枚)に相当した。
魔術は悪霊の力を用いるため、力を行使するのに暴力団組織の力を用いるようなもので、人を不幸に陥れるが、イエスという絶対権威は人を生かし、いのちを与える。
彼らはその構造が分かったから、誰かに売ったりせずに、焼き捨てたのである。

イエスを信じる信仰によって、悪霊だけでなく、病、貧しささえも追い出し、世の暗闇の権威構造を打ち壊す皆さんでありますように。
イエスの名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:誰に浸し込まれるか(使徒19:1-10):右クリックで保存
韓国語通訳有

エペソでは、アポロが既にイエスの事を詳しく語り、イエスが救い主である事を明示してユダヤ人を論破していたが、ヨハネのバプテスマしか知らなかった。
パウロがエペソに下って来た時「信仰に入った時、聖霊を受けたのですか」とわざわざ聞いたのは、エペソの兄弟姉妹たちから聖霊の香りを感じなかったからである。

イエスが救い主である事を頭で知っていても聖霊を知らない者はいるし、聖霊は昔働いていても今は働きは終わっていると言う者達さえいる。
ヨハネのバプテスマとイエスの名によるバプテスマとはどう違い、また、聖霊のあるなしではどれほど違うのだろうか。
結構当たり前すぎて、逆にないがしろにされている所である。

バプテスマは元来「浸し込む」という意味で、ヨハネは水の中へ浸し込むが、イエスは聖霊と火の中へと浸し込ませて下さる。(マタイ3:11)

水のバプテスマは、罪を赦していただくため、人は必ず死ぬという「死」に浸しこまれる。
そこで終わっているクリスチャンは多く、罪赦されているので死んだ後は天国に行けるとしても、ただ教会に行ったり来たり往復するだけで力が無い。
悔い改めと死のみでは、さほど魅力は無いため、エペソの兄弟姉妹もわずか12名から増える事も無く、細々と信仰生活を守るしか無かった。

主イエスキリストの名によって、聖霊へ「浸し込み」がされると、力を受け、全世界にイエスキリストの復活の証人となる。(使徒1:8)
実際弟子達も、聖霊を受ける前と後では別人かと思われる程造り変えられた。
助け主、弁護者なる聖霊が与えられる時、主が御父の内におり、私達が主の内におり、主も私達の内にいる事が私達に分かり(ヨハネ14:15-20)、もはや一人ぼっちではなく、世の何者も奪う事の出来ない平安に満たされるのである。
イエスの名によるバプテスマは、悔い改めと死の向こう側、すなわち新しいいのちへと復活するバプテスマである。

「私は何々教団に属しています」「私は誰々牧師の元で養われています」といった「人の名」に浸しこまれているだけなら、力は無く、それはたとえ人類で最も偉大と言われたバプテスマのヨハネの名に浸し込まれていても、そうである。
しかしイエスキリストの名に浸し込まれているなら、爆発的な力を受ける。
エペソの兄弟姉妹は、それまでわずか12名で細々と信仰生活を守っていたが、聖霊を受けた後、エペソの生徒達は大いに活躍し、エペソだけでなくアシア州全体に主の言葉が伝えられて行った。
いつも主イエス様の名前に浸しこまれ、聖霊に満たされ、主の御名を大胆に伝えていく皆さんでありますように。
主イエス・キリストの名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:アクラとプリスキラ(使徒18:18-28):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

使徒18章の18節から23節までの間、パウロは最低でも2000キロの道のりを海陸移動しているが、著者ルカはわずか5節で表現し、駆け足で書いている。
パウロは、それまで主が異邦人の間で為してくださったいのちの広まりを、エルサレムとアンテオケに戻って報告し、しばらくそこに滞在した後、さほど落ち着く間もなく再び旅立ち、かつて行った事のある地方の兄弟姉妹達を訪ねて力づけた。
パウロは多くの人達を救いへと導き、教会を立てていたため、彼らに対する心遣いと主からの熱心に捕らえられ、自分だけが落ち着くなど出来なかったのである。
我々一般人から見れば、スーパーマンのように見えるかもしれない。

さて、パウロはエフェソにアクラとプリスキラを残して来たが、この町に巡回伝道者アポロがやって来た。
彼は雄弁家で聖書に強く、イエスのことを詳しく語るのだが、ヨハネのバプテスマしか知らなかった。
そこでアクラとプリスキラは彼を招き入れて、もっと正確に神の道を説明した。

目立たない天幕作りの夫婦が、雄弁で聖書に詳しいプロの伝道者を招いて、より正確に神の道を解き明かすのである。

この夫婦は、アポロほど自分の時間を捧げていなかっただろうし、彼ほど雄弁でもなく聖書に通じていたわけでもなかったかもしれない。
それでも神の道についてアポロに説明すべき事があるなら躊躇事無くそうしたし、アポロも謙虚に受ける事によって、より強力な伝道の武器を手に入れる事が出来たのである。
そればかりでなく、アポロが行きたがっていたアカイア州の聖徒達に手紙を書くことによって次の伝道地点までの手助けを為し、アポロもそこの聖徒達を大いに助け、そこの聖徒達もアポロから多くの影響を受けた。

神の働きは、パウロやアポロなどのフルタイム伝道者だけのものではない。
彼らのような表立った献身者の功績は確かに大きいが、表に立つ事のない多くの「アクラとプリスキラ」が背後にいるからこそ、彼等は活動出来るのである。

現代のアクラ・プリスキラとして、世の仕事を忠実に為し、同時に神の国の働きも立派に果たす皆さんでありますように。
イエスの名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:兄弟姉妹同士の争いは(使徒18:12-17):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

コリントのユダヤ人達は一致してパウロに反対し、法廷に引き立て、彼が律法に反していると異邦人の総督ガリオに訴えたが、ガリオは取り合わなかった。
彼らは異邦人に訴えたりせず、御言葉に即してパウロを論破すれば良かったものを、パウロ達は真理に沿っていたため、結局反論できなかったから、こうして異邦人に訴えて排除しようとするしかなかったのである。
真理を不都合とする者達は、パウロもステファノも、そしてイエス様も、偽りを口実に不真実な者に訴え、ある時は追い出し、ある時は石打ち、ある時は十字架にさえつけるのである。

さて、私達聖なる者が兄弟姉妹を訴える事について、御言葉はどう語っているか。
1コリント6章でパウロは、兄弟姉妹の間で何か訴えごとが起きた時に、聖なる者達の間ではなく不義な者達の前でさばこうとするコリント人を叱責している。
もし兄弟姉妹達が間違っているなら、御言葉の知恵によって戒めるべきであり、御言葉を知らない異邦人に裁きを委ねるべきではない。

主が「右の頬を叩かれたら左の頬を差し出しなさい」と言われたのは「悪人」に対してであって(マタイ5:39)、兄弟姉妹に対しては、身勝手に兄弟姉妹を叩くような悪人たらぬよう御言葉をもって責め、戒め、勧めるべきである。(2テモテ4:2)
もし兄弟姉妹の不義をほったらかして甘んじるなら、その者を神と人との間で「不義な者」「兄弟姉妹ではない」と定め、その者の裁きを神に委ねる行為である。
だからもし大切な「兄弟姉妹」であるのなら、御言葉に従って不義を指摘し戒めるべきである。
もし「兄弟姉妹ではない」なら、甘んじて不義を受け入れ、その裁きを神に委ねれば良い。

そういうわけで、兄弟姉妹を御言葉に従って戒めないまま、異邦人の判断で裁いてもらうというののは、もっての他なのである。

今日、キリスト者は外部からどのように見られているだろうか。いらぬ紛争をしてキリストの名を貶めてはいないだろうか。
全ての事を御言葉に照らして兄弟姉妹を導くみなさんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:託された賜物と遣わされた場所で(使徒18:1-11):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

パウロは自らアテネを去り、発展した商業都市であるコリントへ行った。
コリントは発展した経済と活発な偶像礼拝のため道徳的に退廃し、当時は退廃した生活を「コリント風」とさえ言っていた。
そのようの町でもイエス様は「恐れず御言葉を語り続けよ、この町には私の民が大勢いる」とパウロに示し、パウロも1年半じっくり腰を据えて活動したため、多くの者達が悔い改めに導かれて洗礼を受けた。

パウロがコリントに来た時、アクラとプリスキラという夫婦に出会った。
「彼らは、カエサル・クラウディウスが、すべてのユダヤ人はローマから退去すべしとの命令を出したので、最近イタリアから来ていたのであった。」(2節)
なぜそのような命令が出されたかというと、ユダヤ人達はキリストの騒動で世界を騒がしているため、そのような「迷惑な民族」はローマから出て行かなくてはならなかったからである。

使徒行伝を見ると、あたかもパウロ一人が地中海世界を伝道していたかのように錯覚するが、そうではない。
名も無い大勢の者達が、至る所に遣わされて伝道し、多くの命を獲得し、そして迫害に遭ってきたのだ。
アクラとプリスキラも、イタリヤにいた時に誰かから伝道されてキリスト者となり、そしてコリントに退去させられたと思われる。

彼らの仕事は天幕作りで、パウロも同業だったため、彼らと一緒に仕事をしながら安息日ごとに会堂で論じる生活を暫くしていた。
福音を伝えながら世の中の仕事もしている人をテントメーカーと呼ぶのは、この箇所が元になっている。

全ての人が専業の献身者にならなくてはならない、というわけではないし、逆に、全ての召された人は必ず世の仕事もしなくてはならない、というわけでもない。
12使徒は、祈りと御言葉の奉仕を差し置いて食卓の事に関わるのは良くないと判断した(使徒6:2)し、主は、福音を宣べ伝える人達には福音によって生活の資を得るようにと指示されている(1コリント9:10)。
パウロがその権利を、コリントやテサロニケで行使しなかったのは、キリストの福音を少しでも妨げないため(同12節)また、怠惰な生活を脱却して働く者になるよう、身をもって模範を示すため(2テサロニケ3:9)であった。
事実、テモテとシラスが来てくれたからパウロは御言葉と祈りに専念でき、その結果、このような堕落した町でも多くの人達が悔い改めて洗礼を受ける事になったのだ。

主の仕事とは何もパウロのような特別な器だけのものではないし、世の仕事をしながらでも十分に出来るし、主の奉仕に当たっている者を支える事も、立派な主の仕事である。
それぞれに託された賜物と遣わされた場所で、それぞれにしか出来ない主の仕事をすれば良いのである。
任された秤に従って、主の働きを忠実に為す皆さんでありますように。
イエスの名前によって祝福します!
 

礼拝説教メッセージ音声:霊的不毛地帯(使徒17:22-34):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

アテネの町では、パウロに積極的に「語ってほしい」と頼んで来た。
そういうケースは珍しく、伝道者には一見嬉しい事のように見えるが、何でもかんでも受け入れるアテネのような所こそ、実は要注意である。

アテネ人のように、死の危険が少なく、生活の雑事から解放されて、時間的ゆとりもあると、面白おかしい物事は無いかと探し回り、偶像や哲学、福音さえも「自分に気に入るか入らないか」という身勝手な判断によって取捨選択する。
そのような所は日本のように、福音を受け入れない霊的不毛地帯となりやすい。
彼らは福音さえも「何か新奇なこと」の一つとし、パウロをコメディアンのように新規なネタを提供してくれる者とし、イエス様を「異国の心霊(ダイモニア)」の一つにしてしまう。
日本も色々な神々が祀られ、テレビをつければ日々目新しい事や、面白おかしい事に満ちており、イエス様さえもコメディアンの一つのようにしてしまった。

パウロはアレオパゴスという有力者達の評議会に連れて行かれ、話す機会が得られ、アテネの人達にも分かりやすいようにメッセージを展開した。
有名な詩人の詩を引用し、彼らが知らないで礼拝している神の正体は、実は天地を創造したまことの神である、だから偶像崇拝は意味が無い。。。
そこから真の救い主、イエス様へと話を持っていこうとした所で、唐突にメッセージは終了してしまう。

死者のよみがえりの話になった途端、人々はあざ笑い、「その話だったらまた後で」と言いつつ2度と聞こうとしなかったからだ。
他のほとんどの伝道地では、迫害に遭ったりユダヤ人が騒ぎを起こして出て行かざるを得なかったものだが、ここでは何の迫害も反対も無く自由に伝道出来たのに、パウロ自ら去って行った。そういうケースも珍しい。

もし死者の復活が無ければどうか?
古今東西のクリスチャン達は、自分たちの師を見捨てた卑怯な12弟子たちによるでっちあげ話を信じているわけである。
しかしあいにく、イエス様と出会った者はいっぱいいるし、イエスの名によって悪霊は追い出され病も癒されたケースは数多く、イエスにあって眠った聖徒達の顔は、実に聖なる安らかさがある。
いのちの主であるイエス様は、私達の初穂として蘇られた。そのしるしとして、イエスの名によって多くの良きわざが為されているのを、私達は見ている。

そういうわけで、復活こそ救いの根幹であり(?コリント15:12〜19)それを認めないアテネ人も、復活を信じない「クリスチャン」も霊的には致命傷で、パウロもイエス様も、そういう者からは何も言わずに去っていくのである。
罪と死によって支配されている呪いの生活に対しては十字架の死に明け渡し、イエス様と共に復活し、新しい永遠のいのちという祝福に満ちた人生を歩む皆さんでありますように。
イエスの名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:カニのように(ヘブル12:1-7):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

人生は戦いの連続だが、罪と戦って血を流すまで抵抗した事はあるだろうか。
危害を加えに来る敵と戦うのは分かりやすいが、気持ちよくさせる誘惑者と戦うのは、難しい。
韓日讃頌歌396番「主イエスのみ名高く」の賛美は、そうした戦い方の大きなヒントが得られる。(賛美は音声メッセージ参照)

誘惑が来た時は自分で戦うのではなく、主イエスの御名を褒め称えるほうが、誘惑は逃げて行く。
負けてしまうと罪の奴隷にされたり、悪しき束縛され、その下でこき使われ、したくない事をさせられ続ける事になるが、立ち返って主に求めるなら鎖は解き放たれる。
負け続ければ負け続けるほど、立ち返るのは困難になるので、最初の時点ですぐに勝利した方が良い。

海の岩場に、小さなカニが沢山いるのを見た事があるだろうか。
波が来るとカニは素早く隙間に入り込み、波が打ち付ける時にはカニは岩の隙間で守られている。
まことの岩はイエス様であり、私達はその岩陰で戯れる蟹のようなもので、どんな人生の荒波が押し寄せようとも、まことの岩なるイエス様の隙間にすぐに隠れれば安全は守られ、イエス様の内に隠れた私達を攻撃する者は、イエス様を攻撃する者となる。
イエス様は死と悪魔に打ち勝ち、悪魔は足の下に踏みにじられているため、私達もイエス様の内にあれば共に勝利しており、悪魔は足の下で踏みつけられ、陰府の力は届かない。

何事も勝利するコツとは、実は非常にシンプルで、誰にでもできる。
それはすなわち、イエス様を主とし、イエス様の内に入る事。

人生の荒波にみくちゃになっている原因は、100%と言い切っていい程、イエス様から離れているからだ。
敵はいつもこのイエス様という守りの岩からエサでおびき出そうとしており、おびき寄せられ岩の外に出ているなら、人生の荒波と苦難が尽きない。

私達は主イエス様にあってより良くなるために、訓練を受ける事や、むちを加えられることもある。(ヘブル12:1-7)
世の人が楽しそうにしているのに、自分がそっちに行こうとすると道がふさがれ鞭打たれる経験は、クリスチャンならあるのではないだろうか。
それは、神は私達を子として扱っているからだ。
親であれば子を特別扱いするもので、他の子が遊び呆けていても何とも思わないが、自分の子には、より良い将来を与えるために特別な訓練を与えたり勉強させる。

罪の楽しみはせいぜい100年も続かないが、主は、ちっぽけな100年よりも遥かに優れた永遠の祝福を楽しませたいがため、私達が世に向こうとすると、鞭を加えられるのだ。
短い人生、主から打ちたたかれるばかりでは、損である。
自分のはかりや天秤を握り締めて歩む人生は、打たれっぱなしの苦々しい思い出しか無いが、主に人生の重荷も全て委ねて歩む人生は、はるかにラクである。

自分のはかりや天秤はすぐにイエス様の元に投げ出し、イエス様にいつでも隠れ、運んで頂く。
そんな安全でラクな人生を過ごす皆さんでありますように。
イエスの名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:真に高貴な者とは(使徒17:10-15):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

テサロニケでのユダヤ人による混乱のため、パウロ達は夜陰に乗じてベレヤの方へ送り出された。

「この町のユダヤ人は、テサロニケのユダヤ人よりも「まとも(エウゲネス:生まれの良い、高貴な)」で、御言葉を非常な熱心さをもって受け入れ、その通りかどうかと、日々聖書を調べていた。」(11節)

ベレヤの人達は、なぜ「高貴」と記されたか。
それは、「御言葉を非常な熱心さをもって受け入れ、その通りかどうかと、日々聖書を調べていた」からである。
つまり、神の目から「生まれの良い者」「高貴な者」とは、メッセンジャーから受けた内容を、はたしてその通りかどうかを御言葉からじっくり調べる者である。

御言葉が気に食うか気に食わないかではなく、御言葉を伝えるメッセンジャーが気に食うか気に食わないかではない。
一番望ましいのは、私達一人ひとりが日々聖書を調べ、神様から直接御言葉を頂き、頂いた御言葉の恵みを兄弟姉妹の間で流し合う事である。

※ 天声教会から日々配信しているメッセージも、はたして御言葉の通りかどうかを確かめ、もしそうでない所がありましたら遠慮なくご指摘頂ければ幸いです。

ベレヤの人達は毎日聖書を調べ、熱心さをもって受け入れた結果、多くの人達が信仰に入った。
それなのに、テサロニケで反発したユダヤ人達は、はるばる80kmの道のりを超えて来てベレヤまで来て、群集を騒動させ、そのためパウロはシラスやテモテ達と別れ別れになり、一人アテネへと導かれる事となってしまった。

御言葉を伝える者を「自分の気に入るか、気に入らないか」というはかりにかける者は、「霊的生まれの良くない者」であり、自分の何かではなく御言葉から熱心に調べる者こそ「霊的生まれの良い者」である。

永遠に残る書物に「生まれの良い者」「高貴な者」と記されたベレヤの聖徒達のように、御言葉を熱心に調べる皆さんでありますように。
イエスの名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:マケドニアの模範達(使徒17:1-9):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

パウロ達はピリピを離れてテサロニケまで行き、ユダヤ人の会堂で3週間に渡って聖書に基づいて論じ合い、ある者はイエス様を信じ、別の者は反発して暴動を起こした。
反発したユダヤ人達は、パウロ達を「カエサルの勅令に背いて『イエスという別の王がいる』と言っています」と訴えた。
しかし、そう言う自分達も、王とすべきまことの神を差し置いて「カエサルを王」と告白する事によって自己矛盾に陥っている。
彼らの行動の動機は嫉妬であり、訴え内容も矛盾しているが、彼らのやかましい主張のお陰で、パウロ達はまたしても別の町へ行かなくてはならなくなってしまった。

そんな中で、福音の種が撒かれたテサロニケの聖徒達はとても優れた信仰の持ち主であった。
彼らはやがてマケドニア・アカイア全体に聖徒としての模範となり、彼らを通して主の言葉がマケドニアやアカイアへと広まった事が、テサロニケへの手紙から分かる。(1テサロニケ1:6-8)
さらに彼ら自身、神様から直接に互いに愛し合うよう教えられ、実際にそのことをマケドニア州全地にいるすべての兄弟たちに対して実行している。(4:9-10)

パウロの最初の訪問の時は、ヤソンが捕らえられ、パウロもわずか3週間にして他の町へと散らされる艱難は確かにあった。
しかし例えパウロと一緒にいた期間がわずか3週間であっても、「多くの患難の中で、聖霊のもたらす喜びをもって福音の言葉を受け容れることによって、私たちと主とに倣う者になった」(1テサロニケ1:6)ため、多くの実を結ぶ事となったのである。

テサロニケの人達の、目を見張るような成長の秘訣は何だろうか。
「あなたがたは私たちから聞くことによって神の言葉を伝えられた時、それを人間の言葉としてではなく、むしろ ――真実にそうであるのだが ――神の言葉として受け容れたからである。その神は、あなたがた信ずる者たちのうちにあって、まさに働いておられる。」(1テサロニケ2:13)
預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、義人を義人として受け入れる人は、義人と同じ報いを受ける。(マタイ10:41)
御言葉を語る者の口から出た言葉を、人間の言葉としてではなく、神の言葉として受けるなら、御言葉がその人の信仰どおりになって生きて働き、このテサロニケ人のように他の聖徒達の模範となり、兄弟愛に満ち溢れるのである。

御言葉を伝える者の御言葉を、そのまま神の言葉として信じ、テサロニケの聖徒達のように、御言葉からの報いと実を沢山いただく皆さんでありますように。
イエスの名前によって祝福します!

メインメニュー
礼拝ライブ中継

礼拝ライブ中継!

礼拝ライブ中継!

過去の礼拝映像も視聴できます

メッセージ
このページを紹介!

 
 
 
礼拝週報
メッセージ音声
携帯メールで毎日メッセージを購読!無料!

以下コードを読み込み、空メールを送信すれば登録できます。

パソコン/ウィルコム/スマートフォンで受信:以下にメールアドレスを入力下さい。

メルマガ購読・解除
日々のバイブルメッセージ
   
バックナンバー
powered by まぐまぐトップページへ
Podcast

以下画像をitunesへドラッグすれば、更新が自動的にPodcast配信されるようになります。

※2020/1/1より以前に登録された方は、再度、以下Podcast画像をitunesへドラッグする必要があります。

 主日礼拝ポッドキャスト

定期祈祷会ポッドキャスト

その他音声 ポッドキャスト

検索
Copyright ©Yokohama Voice of Christ Church 横浜天声キリスト教会
All Rights Reserved.
 〒231-0058 神奈川県横浜市中区弥生町2-17 ストークタワー大通公園?-201
TEL/FAX:045-326-6211

ephes_03-tensei@ yahoo.co.jp
© 2022 Powered by XOOPS Cube 2.1
Welcome Guest