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エルサレム使徒会議1 - 律法を行わなければ救われない?(使徒15:1-11)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » 使徒の働き
- 執筆 :
- pastor 2011-5-12 20:30
礼拝説教メッセージ音声:エルサレム使徒会議1 - 律法を行わなければ救われない?(使徒15:1-11):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
ある人たちがユダヤからアンティオキアヘくだって来て「モーセの慣例に従って割礼を受けなければ、あなたたちは救われない」と兄弟たちに教えていた。
それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じ、この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。(使徒15:1,2)
いわゆるエルサレム使徒会議である。
会議という場において、意見の強い者の思惑によって議論が進む場合、その人の意図が通される事によって他の人を束縛する方向性で、物事が決まる事が多い。
しかし教会における会議では、人間の経験や知識ではなく御言葉には何と書いてあるかを、人の思惑ではなく神の御心を、優先させるべきである。
ペテロは立ち上がり、神がなさった事実、すなわち、イエスを信じた者には聖霊が下った事、そこには異邦人もユダヤ人も何の差別も無かった事を伝えた。
「それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。
わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」(15:10,11)
主が為さった完全な救いがあるのに、なお人間的に固執してきた思い込みやしきたりを人に押し被せようとするのは、神を試みる事である。
そもそも、律法の行いによって人は義とされるのだろうか?
「人は律法の業によっては義とされず、イエス・キリストヘの信仰によってのみ〔義とされる〕ということを知って、私たちもまたキリスト・イエスを信じたのである。それは私たちが、律法の業によってではなく、キリストヘの信仰によって、義とされるためである。というのは、律法の業によっては、いかなる人も義とされないであろうからである。」(ガラテヤ2:16)
例え律法のチェックリストが100あったとして、100全て守ったとしても、義もいのちも与えられない。(ガラテヤ3:21)
では、律法とは何か。
それは、人に違反を示すため付け加えられたものであり(ガラテヤ3:19)人をイエスキリストへと導くための養育係である。(3:24)
人間は、とても律法を全て守れるものではない。
そういうわけで、人間にはどうしようもない罪という「違反」があるという事を示される。
そこで救いが必要だという渇望が起こり、そこからキリストへと導かれる。
そういうわけで「律法の**を守らなければ救われない」と言うのは、的外れである。
しかし律法は当然良いもので、律法を守るなら律法における守りによってその人は守られ、律法のもたらすあらゆる祝福を享受できる。
ただし、救いの条件は律法ではなく、イエスキリストを信じる信仰である事に変わりは無い。
イエス様は律法を成就するために来た。(マタイ5:17)
イエス様を信じることによって、律法も神の要求も全て全うされたイエス様のいのちが、私達のいのちに適用されるのだ。
律法を成就されたイエスキリストといのちを共有する者として相応しく歩む皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:そのいのち、リアル以上。(使徒14:19-28):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
パウロ達を神々にしてしまったリュストラの住民は、今度はパウロを石打にしてしまった。
その町にはもちろん、イエス様にしっかり繋がった者達はいたが、パウロに石を投げた者達は、心定まらない者達だった。
ギリシア神話は最近のファンタジー小説や映画と良く似ていて、平凡な日常を捨てて奇想天外な毎日に明け暮れたいとか、大いなるパワーを気ままに振るってみたいとかいったバーチャルリアリティに耽っている者は、いとも簡単にパウロを神にしたり、石を投げる側に豹変してしまったりするのである。
しかしイエス様が与える命は、バーチャルではなくリアルな平安をもたらし、しかも、現実さえも左右されない、超リアルに迫ってくるのである。
リュストラの住民が突然豹変してしまったのは、パウロがそこにいる事を聞きつけたユダヤ人達が遠くからはるばる来て、民衆を扇動したからである。
イエス様はパリサイ人を「改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまう」(マタイ23:15)と言われたが、嫉妬に燃え、あくまで自分を指導者の座に置きたい者の執念は、時にすさまじいものがある。
確かにそのような者の迫害や邪魔もあるが、主の恵みは、それをはるかに上回る。
パウロは石打にされ、死んだものとされ、野の鳥や獣についばまれるままにするために引きずり出されたが、弟子達が集まって取り囲むと、なんと、自らの足で立ち、翌日には50kmほど東のデルベという町にまで行く程、奇跡的な回復を見せた。
普通、石をぶつけられたら翌日も翌々日も痛いはずなのに、その痛みも、またユダヤ人に対する恐怖も取り除かれたというのは、驚くべき奇跡である。
パウロはそれまで福音を伝えてきた町々を引き返して「信仰に留まっているように」励ました。
「私たちは神の王国に入るためには、多くの苦難を経なければならない」
苦難は一人ひとりに違うが、それは押しつぶされてお終いというものではなく、脱出の道も癒しの道も用意されており、しかも、人間の感覚では見えていなかった、はるかに大いなる祝福へと導くためのものである。
私達に苦難があるからこそ主からの助けがあり、主からの助けがあるからこそ、主の良さ、主の麗しさ、主の確かさを、日々学んで行く事が出来るのである。
パウロは迫害されたため町から町へと行かざるを得なかったし、石打にさえ遭ったが、主の恵みはそれらをはるかに上回り、敵は、パウロのいのちを奪う事も、福音を邪魔する事にも、失敗した。
イエス様にあって勝利し、決して奪われることの無いいのちと平安に満たされる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:空想世界から開放されよ(使徒14:8-18):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
パウロ達はイコニオンにおける石打の謀略を避けるため、その南およそ40kmの異邦人の都市リュストラに入った。
リュストラは異邦人中心の町だったため、メッセージも旧約聖書を紐解いてではなく、天からの雨がもたらす実りなど、異邦人にも日常的に与えられている数々の恵みを通して、まことの神を伝えた。
さて、この町に生まれつき足の利かない男がいた。
パウロはその男に、癒されるに足る信仰があるのを認めると、大声で「自分の足で真っ直ぐに立ち上がりなさい」と言った。すると、彼は躍り上がって歩き出した。
パウロの声や演説に不思議な力があって癒されたのではなく、彼が伝えていた「イエスキリストの御名」に力があり、その男は信仰を持って聞き、行ったからこそ、癒されたのである。
それを見た民衆はとても驚いて、二人を人間の姿を取った神々と勘違いし、ゼウス神殿の祭司達は彼らに犠牲を捧げようとした。
「使徒たち、すなわちバルナバとパウロは、このことを聞くと、衣服を引き裂いて群衆の中へ飛び込んで行き、叫んで言った、「皆さん、とうしてこんなことをするのですか。私たちもあなたたちと同じ人間にすぎません。あなたたちがこのような空しいものから離れて、天と地と海と、その中のすべてのものを造られた生ける神に立ち帰るように、福音を告げ知らせているのです。」(使徒14:14,15)
福音を伝えた者が、伝えた福音の中身そっちのけであがめられるというのは、実に空しい事であり、衣を引き裂くくらい悲しむべき事である。
牧師や伝道者をあたかも神のように立て、犠牲を捧げる・捧げられる事を良しとする者も世の中にはいるが、御言葉を信じる者の内に働いて良き働きをなさるのはイエスであって、牧師や伝道者ではない。
このイエス様を伝える目的は、架空の存在である偶像に無駄な犠牲を捧げるという「空しい事」から立ち返らせ、より健全な、実体のあるいのちを楽しむようになるためである。
ギリシア神話の神々は人間の姿を取り、人間と接触するのだが、気まぐれによって人に災いをもたらしたり幸いをもたらしたり、ちょっかい出して人間との間に子供をもうけて、それが争いの元になったりと、実に気まぐれでロクな事をしない。
神々や人間が超自然的な力を使って気まぐれで面白おかしいストーリを展開させる神話は、現代の非現実的な物語が展開するテレビや小説、ゲーム等と何ら変わらない。
神話の神々や登場人物になり代わって、空想世界に多大なエネルギーやお金という「犠牲を捧げ」過ぎると、当然不健全になる。
イエスこそいのちの実体であり、彼を信じて御言葉を受け入れる者には、病の癒しや悪霊からの開放、不完全な体が完全にされる事などの、あらゆる良き実を結ばせるようになるのである。
信仰をもって御言葉を語り、良き実をたくさん結ばせ、癒し、開放、勝利を得る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:心地良さの罠(使徒14:1-7):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
ピシディアのアンティオキアから追い出されたパウロ達は、そこから南東およそ144kmに位置する町イコニオンへ行き、ユダヤの会堂に入ってそこでもイエスを伝えた。
ここでも彼らは大胆に語り、その福音が確かである証拠の徴や奇跡を行い、それによってイエスを信じる者も何人か出た。
にもかかわらず、そこでも反対する者が現れ、陥れられ、別の地方へと出て行かざるを得なくなってしまった。
このイコニオン地方において多くの苦労があり、主の力あるわざがなされ、教会もある程度育ち、これからさらに500人1000人と増えていって欲しかったのが、彼らの気持ちであろう。
それなのに反対され、扇動された民衆に命の危険に遭い、別の地方へと追い出される、と言うのは、人の目からは「失敗」のように見えるかもしれない。
しかし主の御心は、一箇所でキリストの体を肥大化させる事ではなく、各地方に散らばって、キリストの体をぽつぽつと建てていく事である。
福音は、人々を真っ二つに分ける。
「私が地上に平和をもたらすために来たと思うな。平和ではなく、剣である。」(マタイ10:34)
イエスを信じる事によって、神との間には和解が訪れるが、人との間には剣が生まれるかもしれない。
父母は敬い、子は愛し、友人達は大切にして然るべきだが、ことに「イエス様から離れなさい」という言葉だけは、別である。
その時、人間的な思いや愛情が、かえってイエスに敵対し福音を阻害するものとなる。
パウロは元々、パリサイ派の中のエリートだった。
会堂においては、それまで何年も培ってきた彼の得意分野である律法や預言者について語ったほうが受けが良かったであろうし、パウロとしても、そういう働きの方が慣れていて心地良かったかもしれない。
しかし彼は、そんなはかない心地良さよりも「イエスの御名」の方が、肉体的命よりも永遠のいのちの方がはるかに重要だったが為に、イエスの御名による福音を語った。
その結果、彼は大いに用いられ、多くの人達を永遠のいのちへと救う結果となった。
私達ももしかしたら、イエス様の故に、慣れた礼拝形式や勝手知ったる心地良さを、捨てなくてはならない時が来るかもしれない。
今までどおりで勝手を知っていて心地良いけれど、主の為には何の新しいものを生み出さない「A」という道と、今までと経験した事が無く予測不能だけれど、主が促されている「B」という道があるのなら、当然、Bの道を選ぶべきである。
主は福音のために、今まで知らなかった道を歩ませる事があるかもしれない。
主の御心を知り、行い、主の用意された道を歩んで豊かに用いられる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:その方向で大丈夫?(ヘブル6:4-12):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に”堕落(パラピプトー)”した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。」(ヘブル6:4-6新共同訳)
この箇所の「堕落」を狭義に捉え、救われた後にちょっとでも罪を犯してしまったら悔い改めの余地なく決して赦されない、と誤解する者もいるが、そういう意味では無く、むしろここは「歩む道の方向性」の問題を言っている。
日本語聖書の主要3訳はいずれも”パラピプトー”を「堕落する」と訳しているが、「パラピプトー」とは「脇にそれる」「脇に落ちる」「自ら教えを捨てる」というのが本来の意味である。
せっかく主の憐れみが示されて自分中心の道からイエス中心の道へと悔い改め(メタノイア:人生の方向転換)したのに、なお自分中心の道へと”脇にそれて”しまう者は、悔い改めを自らの意思で捨てているわけであるから、悔い改めの余地は無い、と、当然の事を言っているだけである。
人生の方向性を、再び自分中心にサタン中心へと敢えて向けてしまう者は、イエスを再び十字架にかけて辱める者である。
イエス様が十字架にかかり、血を流し、肉を引き裂かれたのは、私達が永遠の命を得るため、罪が赦されるためだ。
そこまで自らを捧げられたイエス様を、どうしてないがしろにする事が出来るだろう。
7節「地が自分の上にたびたび降って来る雨を吸い込み、自分を耕している人々のために有益な植物を産み出していれば、神からの祝福に与るが、茨やあざみをもたらし続けるなら、その地は無益なもので呪いに近づいており、その終りには焼かれてしまうことになる。」
ここで土地とは「自分」すなわち私達であり、土地を耕す者とは神である。
土地と実の主役は神であり、決して私達ではない。
土地の存在意義は、耕す者すなわち神に有益な実を実らせる事である。
主の恵みは良い者にも悪い者の上にも日々降り注いでいる。
もし私達が良い産物を実らせるのであれば、祝福をいただく事が出来るが、茨やアザミとのような、とげとげしい、苦々しいものばかり生み出すのであれば、呪いに向かって進んでおり、終わりには、永遠に焼かれてしまう。
耕される時は鍬が入れられ、痛いこともあるが、それによって良い実を豊かに実を結ばせるようになる。
私達は主のためにあらゆる良き実を結ばせる者でありたい。
9節「このように語ってはいても、愛する人々よ、私たちはあなたがたについて、もっとよいこと、救いに関わることがあると確信している。」
パウロはヘブル人にまず厳しい事を語った。それは「愛する人々」に滅んで欲しくないからであり、より良い者になって欲しいからである。
確かに神は、いつまでも愛を持って忍耐されている。しかし、敢えていのちの道から逸れてしまなら、その終わりは滅びである。
私達は主イエス様に向かって歩んでいるのであれば、ますます熱心に同じ道を歩んで行きたい。
もし世やサタンのほうに向きを変えつつあるのであれば、この恵みの時、猶予の時が与えられている今のうちに、イエス様に向きを変えなくてはならない。
ただイエスを見つめつつ歩んでいく皆さんでありますように。イエス様の名によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:恵みに留まる者と罵る者(使徒13:42-52):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
パウロはメッセージを語り終えると、人々はなお残って話は尽きなかった。
主にある兄弟姉妹との別れが名残惜しくて、どこまでも見送り見送られたという経験は、皆さんにもあるだろう。
「二人は彼らと語り合い、神の恵みに留まっているようにと勧めた。」(43節)
救われる者達にとって、聖徒同士の交わりは楽しく、いつまでも尽きないものだが、別れ際は、名残惜しさだけでなく心配も湧いてくるものである。
パウロは色々な地方、色々な人々に「神の恵みに留まっているように」勧め、そして後に多くの手紙を書いたが、ある教会には、成長して恵みが増し加わった事への賞賛の手紙を書き、別の教会には、2度行ってもなお罪を犯し続けるなら3度目に行った時は容赦しないと叱責した手紙もある。
どの伝道者も働き人も、福音が蒔かれた聖徒達に、恵みに留まり続けなさいと言うその願いは切実であるが、残念ながら、恵みに留まらない者も出てくる。
さて、その次の安息日には、ほとんど町中が集まってパウロたちの話を聞きに来た。(44節)
前回来た人達が、普段来ない人達を誘って来たのだが、残念な事に、嫉妬に駆られたユダヤ人達、それも、真っ先に福音に与るべき彼らが、罵りながら邪魔をした。
「このよそ者は俺達より人気を集めてしまった」「俺達の立場はどうなるのか」といった、けちな自己満足を満たすために、聖なる福音を邪魔するのは、憤りを覚える事である。
「ところが、ユダヤ人たちは神を敬う貴婦人たちや町の有力者たちを扇動して、パウロとバルナバに対する迫害を起こし、二人をこの地方から追い出した。」(50節)
滅びが定められている者達のする事は、古今東西同じで、陰で動き回って根回しし、有力者や有名人を唆して味方につけ、神の立てた権威に反抗する。
そしてひとたび彼らが攻め立てると、群集の側からは、神の立てた権威さえも弱くていじめ放題のうっぷん晴らしキャラに見えてしまう。
モーセやアロンも、パウロも、そして、イエスがそうだったように。
しかし、そのように逆らう者達の側につく群衆の最後は、モーセの時代もイエスの時代も、実に悲惨なものであった。
世から流れてくる群集心理に扇動される事無く、いのちの御言葉に留まり続け、神の立てた権威すなわちイエスに留まり続ける皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:神の立てたメシヤ(使徒13:26-41):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
パウロは旧約聖書の色々な箇所を引用し、イエスがメシヤである事をメッセージした。(使徒13:26-41)
イスラエル民族の多くは、御言葉を日ごと週ごとに朗読していたにもかかわらず、その御言葉が示しているメシヤなるイエスキリストを十字架へつけてしまった。
しかし神は、イエスを蘇らせる事によって、彼こそ全世界の救い主であると認定し(33節)、このお方にあって確かな祝福を与えると約束され(34節)、そして朽ち果てなる事が決して無いと定められた。(35節)
主イエスキリストを信じ、彼に繋がる私達にも確かな祝福と朽ちる事の無い永遠の命が約束されている。
そしてメッセージの最後は、福音を聞き続けてもなお頑なになって信じない者への警告として、ハバクク書1章5節からの引用で終わる。(使徒13:41)
ハバククはバビロン捕囚前の預言者で、エレミヤ同様、神に立ち返るようにと人々に促したが、人々は心頑なにし、堕落から立ち返る事無く、かえって預言者達を迫害した。
ハバククは少し特殊な預言者で、他の預言書は神からの示しを一方的に示すのに対し、ハバククは、彼がまず主に訴え、それに対して主が応答するという形式で、主の御心を示していく。
彼は繰り返し、民衆達が続ける不当について「いつまで訴えを聞いてくださらないのですか」と主に叫んでいる。
私達もハバククのように、正しい裁きがなされるよう日々主に叫んでいるかもしれない。
しかし主は憐れみ深いお方であるので、一人でも多くを救おうと、忍耐を持って猶予の期間を定めておられるのである。
定められた猶予期間の内に頑なな心を悔い改め、主を受け入れる者は幸いを得る。
しかし、いつまでも裁きは為されないと思って悔い改めず、神が聞くようにと定めた預言者を認めず、頑なに自分の考えに固執し続けるなら、ある日突然カルデヤ人に攻め滅ぼされたように、ある日突然、容赦の無い災いが襲う事になる。
主から与えられた憐れみの時、恵みの時に、しっかりと主に繋がって、もはや心かたくなになる事の無いようにしたい。
そして終わりの時代の聖徒達である皆さんは、ハバククのように神と親しく対話しつつ世に御心を示し、またパウロのように大胆に福音を告げ知らせる者達でありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:全てはイエスに集約される(使徒13:13-25):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
パウロはピシディアのアンティオキヤ(新改訳:アンテオケ)に着くと、安息日に会堂に入った。
パウロ達が色々な地方へ回って福音を伝える時は、まずその地方の会堂、あるいはユダヤ人達が集まりそうな場所を見つけ、そこでイエスを伝えるのが、主なやり方である。
彼らはイエスが主である事を真っ先には話さず、まず切り出したのは、イスラエルの歴史からであった。
かつてペテロやステファノがメッセージした時と同様、イエスを伝える上では、イスラエルの歴史は決して外す事は出来ない。
なぜなら律法と預言者は、全てイエスを指し示しているからである。
ステファノ(新改訳:ステパノ)を迫害したユダヤ人達の歴史観は、あくまで自分中心、自民族の栄光が中心であった。
しかしステファノは、神が主体の歴史観、すなわち、神に反逆しっぱなしのイスラエルの恥の歴史を語ったが故に、彼は殺されてしまった。
しかし神こそが世界を支配する主であり、人類の救いの一環として、アブラハムひいてはイスラエル民族を一方的に選んだのである。
神が彼らを祝福し、増やしたのは、アブラハムや先祖達が偉かったからでないし、彼らだけを救うためでもない。
全人類を救うために、アブラハムを選び、イスラエル民族として増やし、彼らに神の言葉を委ねたのである。
しかし彼らは増え広がったとたん、何度も反逆をしていく事になり、神はおよそ四十年の間、荒野で彼らの行ないに「耐え」た。(18節)
その後、神は時代時代において導く者を立てたが、そのうち民衆は目に見えない神ではなく、目に見える王を求めるようになり、
そこでキシュの子サウルを王として立てたが、彼は従順でなかったため退け、神はダビデを選んだ。
イスラエル民族は幾たびかの不従順をしつつも、神は救いのご計画を立て、成就して行ったのである。
そもそも律法と預言者はなぜあるのか、という、基本過ぎて誰も疑問に思う事さえ無くなってしまったような疑問を、イエスという御方を答えとして、パウロは説明したのである。
パウロは洗礼者ヨハネについても説明した。
人々からもしやこれがメシヤ?と期待しされていたヨハネも、明確に「私がメシヤではない」「私はメシヤのサンダル紐さえ解く価値が無い」と明言したのである。
以上のように、全ての律法、預言者、ヨハネも、イエスこそ主であると証言しているわけである。
この天声教会の名前の由来も、そのような私達でありたいという理由でつけられ、
天から声が下って来た声は、モーセでもエリヤでもなく、イエスに聞くように御言葉は明言している。(マタイ17:4,5)
礼拝メッセージの中には色々な奨励もあるが、最も大切な事は、イエスこそ主であり、皆が聞くべき御方はイエスキリスト、という事である。
あの人この人ではなく、イエスに聞く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:御言葉を曲げる者(使徒13:1-12):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
「彼らが主に礼拝をし、断食していると、聖霊が、「さあ、バルナバとサウロとを選び出し、私が二人に任命しておいた仕事に当たらせなさい」と告げた。
そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置き、出発させた。」(使徒13:2,3)
神がこの二人にあらかじめ任命しておいた仕事とは、福音を各地へ伝え歩く事である。
サウロはこの時からパウロと名乗るようになり、バルナバやペテロより、パウロの方が使徒行伝の前面に出て来る。
彼らはユダヤ人の諸会堂に入ってはイエスがキリストであると伝えて行ったが、パポスという所でユダヤ人の魔術師バルイエスという偽預言者に出会った。
バルイエスとは「イエスの子」という意味であるものの、キリスト・イエスとは真逆の存在で、福音を遠ざけ、いのちを塞いでいた。
「この男は、地方総督セルギウス・パウルスという賢明な人物のもとにいた。」(7節)
総督が「賢明」と評されているのは、彼が頭が良いからではなく、福音に積極的に聞こうとしたからである。
この総督はバルナバとパウロを招いて神の言葉を聴こうとしたが、かの魔術師はそれを邪魔した。
正面から言葉の論理で対抗したのか、それとも、何か派手な魔術的パフォーマンスを行って福音よりもそちらへ引き込もうとしたのか、
あるいは、現代教会にもよく居るように、御言葉を語っている最中に大いびきをかいたり、派手な貧乏ゆすりをしたりして、御言葉を語る者よりも注目を集めたのか、具体的にどのように邪魔をしたのか、書かれていない。
とにかく、神に敵対する霊が入っている者に共通している事は、あらゆる方法を用いて礼拝や御言葉を邪魔し、そして、罰と思えるような災いに必ず遭う事である。
神の道は元々まっすぐである。(10節)
しかしそれを「曲がったもの」へとしてしまうのは、魔術はもちろん、パリサイ派の教えも、神学的主張も、人間中心のヒューマニズムも皆そうであり、それに捕らわれると、バルイエスのように、霞と闇が覆い霊的な目をふさがれてしまう。
総督は、実際にこの魔術師の身に起きた事を目撃して、主の教えとその実際に持っている力に驚き、信仰へと入った。
このように、主の敵に降りかかる災いも、周りの人間にとっては救いに入るきっかけとなる。
この魔術師の名は「あのバルイエスのようになりたくなければ・・・。」など、呪いの代名詞として広まった事だろう。
私達もバルイエスのようになりたくなければ、御言葉を曲げたり礼拝を邪魔したりしない事である。
結局の所、信じる者には権威が与えられ、ますます道が開けてゆくが、御言葉を塞ぐ敵の道は、ますますふさがっていくのである。
「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。
手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」(マルコ16:18)
信じる者となり、これらのしるしを沢山経験していく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:神と呼ばれるものは多くとも(使徒12:20-25):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
ティルスとシドンの住民は、ヘロデ王から糧食を得ていたが王の怒りを買っていた。
そこで住民らはヘロデを神と呼んで褒め称えたが、彼は御使いに打たれ、蛆に食われて死んだ。
日々の食料をもらうために、神でないものを「神」呼ばわりしつつ、機嫌を取らなくてはならないのが、呪われた人間世界である。
神と呼ばれるものは世に多いが、それの大体は身勝手で多くの犠牲を要求するものだ。
ヘロデの場合、わずかの間食料を与えてくれる神になったかもしれないが、彼はあえなく蛆に食われて息絶えた。
神ではないのに神と呼ばれる人間や物など、そんなものである。
ヘロデは教会を迫害したためその罰を受けた意味もあったかもしれない。
しかし決定的理由は「神に栄光を返さなかった」からだ。(23節)
力や権力のある自分を、神、あるいはそれに近い者とし、まことの神に栄光を帰さない事は、重大な罪なのである。
使徒12章全体を見ると、教会は広がるどころか縮小するのではないかという脅威にさらされていた。
同胞達から排斥され、国家権力からも攻撃され、主だったメンバーも殺され、頭とされていてたペテロも捕らえたれた
しかし結局、教会は存続したどころかますます栄え、教会を攻撃したヘロデも、ペテロを捕らえていた兵士達も、滅びることになった。
「神の言葉はますます栄え、広がって行った。」(使徒12:24)
12章の最後を見て分かるとおり、いのちの言葉はさらに広がり、神を信頼する者達は最後には勝つのである。
教会がやっていたと言えば、ただ祈っていただけであった。
デモをしたとか、刺客を送って王を暗殺させたとかではない。
教会は、ただ神を畏れ、祈るのである。
神を畏れる者は、御使いに命じて足が石に打ち当たる事の無いよう守り、御使いに陣を張らせ守らせてくださる。(詩篇91篇、34編)
刹那的に強力に見えたヘロデについた者も一人や二人はいたかもしれないが、そういう者達は、恥を見たであろう。
この終わりの時代にも守られる者とは、イエスの御名を否まず、忍耐して御言葉を守る者である。(黙示録3:8-10)
そのような皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福します!