メッセージ - 講解説教(新約)カテゴリのエントリ
礼拝説教メッセージ音声:おっちょこちょい集団が出し抜く時(使徒12:12-19):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
御使いによるペテロの奇跡的な救出劇に対して、教会の応対はどうだったか。
それは、記録さえしないでおれば格好が良いまま終わっていたのに、と思える程、おっちょこちょいな対応だった。
教会はペテロが助かる為に祈っていたはずなのに、いざ、その張本人が本当に助かって目の前に現れてみると、にわかには信じられなかったようだ。
彼らは「さあ祈るぞ」「ねえ聞いて聞いて」「気が変になったのだ」「守護天使だろう」など等、おしゃべりしたり盛り上がったりする事が、好きだったようである。
私達も本来の祈りの目的を忘れ、仲間内でおしゃべりしたり盛り上がる事を第一にしているなら、ロデのように、おっちょこちょいな者として永遠に記されてしまうかもしれない。
しかし主は、これは叶えられないだろうと人に思えるような祈りでも、あざやかに応えてくださる御方である。
当初、ヘロデ王も兵士達も、こんな弱くまとまりの無い集団を潰すなど朝飯前、と思っていたかもしれない。
ヘロデ王は国家権力を用い、二重の衛所に鉄の門、16人体制という抜かり無さでやっていたのに対し、
教会は、集って祈っていただけで、ペテロに至っては、単に寝ていただけである。
ところがその教会というおっちょこちょいで抜かり有りな集団のほうが、ヘロデ王達を出し抜いたのだ!
彼らには、キリスト者達に手を出すと痛い目に遭うぞ、と大いに印象付けられたに違いない。
私達の主イエスにより頼み、十字架の死に明け渡しているなら、このように、主が実に痛快な救いを与えて下さるのである。
「12:16 しかし、ペトロは戸をたたき続けた。彼らが開けてみると、そこにペトロがいたので非常に驚いた。」
天使は鉄の門をやすやすと開いたが、教会の門までは開かなかった。
確かに主は、私達を縛る鎖を断ち切り、行く手を阻む鉄の門も開く。
しかし、教会の門も、天の門も、天使にではなく私達教会に委ねられているのである。
「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ16:19)
為す術も無く滅んでいく者達や、主を知らない者達のために大いに祈り、教会の門を開き、そして呪いや悪しき者達に対しては、門を閉じるべきである。
「夜が明けると、兵士たちの間で、ペトロはいったいどうなったのだろうと、大騒ぎになった。
ヘロデはペトロを捜しても見つからないので、番兵たちを取り調べたうえで死刑にするように命じ」(使徒12:18)
当時の衛兵達は、囚人を逃がしてしまうと、その囚人の刑が科せられてしまうという決まりがあった。
聖徒達の痛快で朗らかな様子に対し、ヘロデの部下達は、何と悲惨な事だろう。
トップが呪われているなら、例え強く有用な者達が集まっていてもその組織は呪われている。
しかし、主イエスの名の下にある集まりであるなら、どんなに要領悪く弱い集団であっても、そこは祝福されているのだ。
主にしっかり繋がって痛快な救いを体験し、天の門をしっかり管理する皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:殺されるにしても生かされるにしても(使徒12:1-12):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
教会は勢いを持って発展して行ったが、それを妬み歯軋りする者、サタンの攻撃もあり、ヨハネの兄弟ヤコブが殺された。
ペテロやヨハネと共に初期の段階から主イエスに仕え、主の近くで特別な場面も通ってきたかの弟子は、ヘロデ王が民に取り入るためのネタとして、剣で殺された。
この時ヤコブはなぜこのような殺され方で殺され、ペテロは奇跡的に生かされたのか、と思うかもしれない。
主は当然、ヤコブをも剣から救い出そうとするなら、救い出せた。
しかし、亡くなる側と生き残る側のどちらになるのか、また、どちらにつくのが良いのか、結局人には分からない。
それに、人が生きたいと願おうと召されたいと願おうと、生死の事は人に委ねられていない。
主だけが力ある御方であり、最善を知る御方であり、いのちは主のものである。
とにかく彼の死の結果、主に敵対する者達の邪悪さが明らかにされ、聖徒達の真剣な祈りが起こされ、
遂には、主につく側と敵対する側に対する神からの絶対的な格差、すなわち祝福と呪いが明らかにされた。
ヤコブを殺した事がユダヤ人たちの気に入ったのを見たヘロデは、ペテロをも捕らえた。
ペテロが連行された場所は、鉄の門と2つの衛所の奥という堅固な獄屋で、しかも四人一組の兵士四組体制で監視された。
たかだか一人の一般人を拘束するには厳重すぎるほど厳重に思えるが、過ぎ越し祭という民衆の盛り上がりが高みに達している時にペテロを引き渡す、いわば扇動イベントの重要なネタとしたかったのかもしれない。
当のペテロは、2本の鎖に両手を繋がれ、二人の兵士の間で眠っていた。
時は過越祭の夜、十字架に架かっているような有様で二人の人の真ん中に立ち、眠っている所を、脇腹を叩かれた。
この有様は、イエス様の十字架の場面と大いに重なる。
彼はこの時、死も同然の状態だったが、死といえば復活であり、十字架といえば救いである。
教会では彼のために熱心な祈りが捧げられていたが、主はその祈りに応えて下さった。
祈っている者達は、兵士のように力も無いし、社会的に弱く貧しいし、要領も良くない。
しかし神により頼んでいるなら、いかに大勢の権力者達から狙われようとも、王から狙われようとも、主は救い出す事が出来るのだ。
今の私達にも諸々の攻撃や困難があるが、主にあって守られ、誇り高く歩んで行ける皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:死をいのちに、災いを勝利に飲み込む主 2(使徒11:27-30):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
時に、ユダヤ地方に大飢饉が訪れた。
アンティオキヤの聖徒達は、ユダヤの兄弟姉妹に援助を送る事を決め、バルナバとサウロに援助の物資を託し、エルサレムの長老達に届けさせた。
アンティオキアの教会元々、数人のキュプロス人とキュレネ人がアンティオキアに入って福音を伝えた事から起こり、全くの外国人から始まった。
それを聞いたエルサレムの聖徒達は、バルナバを派遣する事で、霊的な養いをアンティオキヤへ送ったわけだが、
大飢饉の時には逆に、物質的な養いをアンティオキアからユダヤの兄弟姉妹達へと送られたわけである。
ユダヤ人達による異邦人への蔑みや偏見は、この援助によって、できなくなった事だろう。
元々ユダヤ教に熱心な者は、異邦人から援助をもらう事は気が引ける事かも知れないが、キリスト者に与えられている啓示は、神が清めた者(異邦人キリスト者)を「穢れている」としてはならないという事である。
ユダヤに住んでいる人々がこの援助をいただく事によって、神様の意図している事が実行に移されたのである。
聖徒達のいのちを救うため、そして兄弟姉妹の結束を固くするために、敢えて飢饉という「災い」を用いられた事例は旧約にもある。
ヨセフは兄弟達に売られたが、売られた先エジプトで苦労の後、かの地で大臣となり、全世界に飢饉が起こった時、70人の身内を救った。(創世記37章ー50章)
ヨセフは兄弟達に会った時、自分を売ったことを悔やまないようにという事と、自分がどのような意図や仕方であったにせよエジプトへ行ったのは、身内全員のいのちを救うために、神が意図したのだ、と告白している。(創世記45:4-8)
ヨセフには、自分が大臣になったのは、彼が苦労に苦労を重ねたからそのごほうびに、ではなく、神がヤコブの子達全てのいのちを救うためと分かっていた。
エジプトの地位も、富も、ヨセフの心には無く、彼が心に留めていたのは神のご計画であり、神の民のいのちを救う事だった。
その時、ヨセフの兄弟達の憎悪を一身に受け、呪いに落とされたかのようだったかもしれないが、それさえもいのちに飲み込むために神様が用いて下さったと知っていたのである。
初代エルサレム教会に及んだ飢饉も、いのちのために、また、主にある兄弟姉妹の結束を堅くするために用いられた。
今、私達にも諸々の災いが起こり、先の事は分からないかもしれない。
しかし主は、飢饉や戦争、地震や病といった、呪いを連想させるものさえも、いのちで飲み込む御方であり、全ての事を益として用いてくださる御方である。
今、災いのように思える事が起きていたとしても、主はそれさえもいのちに飲み込んで下さるお方だと信じる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:死をいのちに、災いを勝利に飲み込む主(使徒11:19-26):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
福音はヨッパやカイサリヤ地方ばかりでなく、地中海東側の沿岸地方の広い地域にも広がり、アンティオキアにまで広まった事がエルサレム教会に伝えられ、バルナバがそこに派遣された。
ステファノの殉教は、その時は悲しむべき事、あって欲しくない事として受け止められたかもしれないが、それが元となって聖徒達は各地に散らばり、結果、このように広い地域の多数の人々がいのちを得る事となった。
主は御名を呼ぶ者を責任を持って支え、災いの中を生かし、思いもしない祝福の道へと導いてくださるのである。
バルナバは到着した時、神の恵みを見て喜んだ。
人が動植物の成長に手を加え過ぎると逆にいのちが育たないように、人間の作った神学や宗教的勧め等を前面に押し出すなら、いのちは育たない。
アンティオキヤにおいて聖徒達は初めて「キリスト者(christianoi)」と呼ばれるようになったのは、彼らは何でもかんでも「キリスト」に持っていったからである。
種を蒔けば自然に芽が出、葉をつけ、実りをもたらすように、キリストの御言葉が蒔かれるならいのちは自動的に育ち、恵みは広がっていくものである。
バルナバはさらにサウロをタルソスから連れ帰り、アンティオキヤはますます熱く成長し、伝道の最前基地となって行った。
さて土曜、教会のある姉妹の容態が急変し、救急車で運んで診ていただいたが、芳しい状況ではなかった。
日曜礼拝後に訪問した時、死は勝利に飲み込まれたという御言葉が与えられ、この事は呪いや災いで終るものではなく、逆にいのちに飲み込まれて行くものだと語った所、彼女は苦しくか細い声であっても「アーメン」を繰り返していた。
結局手術する事になったのだが、状況はかなり悪く進行していたにもかかわらず、執刀した医者もびっくりする程奇跡的に守られていた事が分かった。
当初、先行きが見えず悲しみや落胆もあったにはあったものの、結局この一連の事によって、主はいのちと勝利で飲み込む御方だとますます知ることが出来た。
「あなたの信仰があなたを救った」と主は言われた。
確かに聖徒達は手を置いて祈ったが、誰か聖徒の按手が癒しの決定要因ではない。
自身のイエスを信じる信仰ほど、癒しの薬になるものは無いのである。
主イエスに信頼し、死をいのちに、災いを勝利に飲み込んで頂く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:ペテロの報告(使徒11:1-18):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
異邦人も神の言葉を受け入れたという事がエルサレムの教会の耳に入り、ペテロはそこに帰って報告した。
ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりする事は、律法で禁じられているため、使徒ペテロといえども、当然その事を追求された。
ペテロとしても同胞達からの非難は予測したろうし、行動する前の段階から彼自身に躊躇があった。
だからこそ、事前に再三の幻が示されたわけである。
ペテロは教会にて、事の次第を順序正しく説明した。
まず、ヨッパの家で見た、あらゆる動物が入った入れ物が下りて来て、屠って食べなさいと言われる幻。
この幻で命じられた事も、ペテロ自身に多くの躊躇があったはずだが、ここで神が示されたのは、「神が清めたものを、あなたが不浄なものとしてはならない」という事。
そして幻を見た直後、カイサリヤから3人が来て、霊がすぐに「ためらわずに行きなさい」と指示をした。
このように、主があまりにリアルに、ヨッパという「現場」で働かれていたからこそ、ペテロも、彼に同行した6人の兄弟達も、ためらわずに異邦人の家に向かったのだ。
「ヨッパに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。」(13節)
「あなたと家族の者すべてを救う言葉をあなたに話してくれる。」(14節)
ペテロの説明中、上記13節は確かにコルネリウスへ御使いから示されていたが、14節の内容はその時示されていなかったはずである。
その時点では、コルネリオスは14節の内容、すなわち、神の意図は分からなかったし、ペテロにしても自分が異邦人の家で救いの言葉を語るなど思っても見なかった事だろう。
その時は分からなくても、後になって、神の意図していた事が、関係者全員に分かったのである。
私達も、神様は何故このように導かれるのか分からなくても、その通り実行すると、神様があの時示されたのはこれこれの意味があったのか、と、後になって主の深遠なご計画が分かる事がある。
17節「私達に与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、私のような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」
あそこまで不思議な導きによってペテロとコルネリウスを引き合わせ、明確に聖霊まで与えてくださったのに、握り締めている自分の価値観に執着して、水のバプテスマを授けないなどというのは、神を妨げる行為なのである。
私たちも、培ってきた価値観や常識を超える道が示される事があるが、主が示して下さった道を行かないと、神を妨げる者となってしまうのである。
「会議室」にいる者達は、「現場」で起きている事を中々理解できないものである。
しかしエルサレムの教会の人達は、ペテロの報告を聞いて、なお自分の価値観に固執したり反抗したりする事はせず「神を褒め称えた」(18節)。
彼らは、主が秩序正しく導いておられる事を素直に受け入れ、神を褒め称えたからこそ、教会はますます発展して行ったのである。
聖霊が与えられ、神の示しが明確に与えられているなら、忠実に従うべきである。
主によく聞き、信頼し、忠実に従う皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:祭司の任命(ヘブル5:1-6):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
祭司とは、神の前に立つことがらについて任命を受けた者である。(ヘブル5:1)
それは神の側から選び出された者であり、誰もが好き勝手になれるものではない。
4節「この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく、アロンもそうであったように、神から召されて受けるのです。」
ちなみに私は、この御言葉がパスターになるきっかけの御言葉だった。
社会人として働いていた時、バイブルカレッジの通信講座を受けていたものの、それは牧師になるためでなく、御言葉を掘れば掘るほど宝がざくざく出てきて、それが楽しくて仕方なかったからだ。
元々牧師になるような性格ではなく、牧師達のしていることを見ると、とんでもない、あんな事出来っこないと思い、働きながら主に仕えて行くものと信じて疑いもしなかったある日、ある預言の賜物を持った姉妹と出会った。
彼女と話しているうちに、なぜ牧師にならないの?と言われ、しかも、牧師にならなければ災いだとまで言われた。
私は理系人間なので、論理的根拠も無く断定される事にカチンと来て、暫くの間彼女とケンカになったものの、心の中には引っかかるものがあった。
そして天声教会で御言葉の奉仕をしていくうちに、心に引っかかっていたものは次第に燃え立たされて行き、
ある日、電車の中で「もし私がその務めに相応しいのであれば、はっきり分かる形で示して下さい。」と祈った。
その時、たまたま聖書を開いていたのだが、祈り終わった直後聖書に目を注いだその箇所が、ちょうどこのヘブル5:4だった。
私はとても驚いた。なにしろ、祈って一秒後に答えが示されたのだから。
その栄誉ある勤めは誰も自分で得るのではなく、神に召され、頂く物。
自分の何かではなく、神様が任命し召されるのだから、その勤めに与れるのだと知り、心がラクになった。
その言葉に促され、結構な覚悟はあったものの世の仕事を辞め、御言葉の勤めに与るようになった次第である。
神が任命されたまことの祭司イエス様を不服とする者達は、どうなるのだろうか。
モーセの時代も、コラと仲間達が、神様に任命された祭司に逆らった。(民数記16章1-5)
コラと仲間達の言い分は、イスラエル共同体全体が聖なるもので、主がその中におられるというのに、なぜお前達(モーセとアロン)は上に立とうとするのか、
あなたも私も聖なるもの、だったら俺達も祭司になって良いのでは、というものである。
モーセやアロンは好きで民の指導者や祭司になったのではなく、むしろ元々嫌々だった所を、主から召されたのである。
コラ達にとっては、エジプトのような所、すなわち色々な産物や世的な享楽に満ちている所が、彼らの「約束の土地」観であった。(民数記16:13)
つまり自分勝手に約束の土地のビジョンを思い描き、モーセとアロンは我々の思い描いたとおり動かない、だから反逆しよう、という考えであり、
自分の考え・自分のやりたい事を「神から示された事」として、祭司職を自己実現の道具として好き勝手したいのである。
結局彼らの立っていた地面の下が裂けて、家族もろとも大地に飲み込まれ、生きたまま黄泉に落とされる事となった。
自分勝手に聖なる職務に就きたいと願って、自分を指導者、神の立場に立ちたいとする者には、誰もが「天罰」と分かる恐ろしい裁きが襲うのである。
この時代、自称「祭司」が多く起こされ、キリストを通さなくても誰でも天国だとか、神は間から地獄なぞ無いとか、聖書の御言葉から人々を引き離し、人々に耳障りの良い事を神の言葉として惑わしている。
私達はそのようなニセ祭司、ニセ預言者達に対しては、コラとその仲間のように、誰もが「天罰」と分かる恐ろしい裁きが襲うよう、願うべきである。
それは決して行き過ぎではない。
主は「この小さなもののうち一人でも躓かせる者は、ろばの引く石臼に結わえられて海に投げ込まれるほうがましだ」と言われた。
人は自分勝手に、神の祭司、支配の座を分捕って指導者になるべきではない。
神の立てたまことの指導者、すなわちキリストに従うべきである。
神様の立てたこの指導者であるイエス様に、ますます繋がって付いて行く皆さんでありますように。
終わりの時代に出てきた、間違った指導者に付いて行く事が無いように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:隔ての壁を打ち壊すお方(使徒10:44-48):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
異邦人が聖霊を受けると、ユダヤ人たちは非常に驚いた。
聖霊は神の民ユダヤ人にしか与えられないという固定概念があったからである。
しかし神の最終的な御心は、ユダヤ人も異邦人も、人類全体が救いに至る事である。
律法ではユダヤ人は異邦人と一線を画すよう促されている。
しかし異邦人には、主の名を愛し、仕え、教えを守るなばら、神に受け入れられるという預言がある。(イザヤ56:1-7)
コルネリウスに関しては祈りと施しを忠実に為し、まさにイザヤ56章の言葉を守っていたため、主は異邦人という区別をされず、御言葉どおり省みて下さったのである。
ユダヤ人と異邦人という二つの隔ての壁を打ち壊すお方が、イエスキリストである。
異邦人は、割礼を受けている人々からは無割礼の者と呼ばれ、神から遠く離れているとされていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となった。(エペソ2:11-13)
そしてキリストは、ユダヤ人と異邦人の敵意の壁を打ち壊し、平和をもたらし、双方を一つの新しい人、すなわちキリストの花嫁として造り上げた。(14-16節)
もはや外国人や寄留者ではなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、かなめ石キリストにおいて聖なる神殿として建て上げられ、聖霊によって神の住まいとなるのである。(19-22節)
それ故、異邦人がペテロの御言葉を信仰を持って聞いた時、聖霊が与えられたのであり、キリストにあって異邦人もユダヤ人も何の隔ても無いのである。
異邦の習慣により男性器が切り取られてしまった宦官であったとしても、そうである。(使徒8:26-40)
「なぜなら、主はこう言われる、宦官が、わたしの安息日を常に守り、わたしの望むことを選び、わたしの契約を固く守るなら
わたしは彼らのために、とこしえの名を与え、息子、娘を持つにまさる記念の名を、わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない。」(イザヤ56:4,5)
例え心や体に、主の嫌われる異邦の習慣による印や、異教的な儀式による印を受けてしまっていたとしても、悔い改めてイエスを主とするなら救われるのだ。
イエスこそ、全ての肉体的・霊的束縛を解き放つ主である。
コルネリウス他、異邦人に聖霊が下ったのは、ペテロがイエスキリストを語り始めたからである。
「イエスのあかしは預言の霊」であると御使いは言う。(黙示録19:10)
預言など聖霊のしるしについてはキリスト教会で色々と議論されているが、異言よりも、預言よりも、その大元である「イエスのあかし」が大切である。
イエスを心で信じて受け入れるなら救われ、義とされ、賜物(贈り物)として聖霊が与えられるのだ。
以前は邪悪な者であった私達は、驚くばかりの恵みによって救われた。
その恵みをいつも感謝し、喜び、聖霊によって守られる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:証人としての当事者(使徒10:34-43):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
コルネリウスが
「今私たちは皆神の御前に出て、主があなたに命じられたことを一つ残らずうかがおうとしているのです」(33節)
と言ってペテロに託された言葉を待ち望み、ペテロが口を開いて伝えたのは、イエスキリストが救い主である事だった。
神が御使いを通じ、コルネリオスにもペテロにも奇跡的かつ的確な方法で出会わせたのは、イエスへと導くためである。
福音を伝えたい者と、救いを切望している者とは、この二人のように奇跡的な方法で、細やかで的確なお膳立てして下さるのだ。
ペテロが伝えたのは真っ先にイエスの事である。
コルネリオスはこのイエスについて、相反する2つの噂、すなわち良い噂と悪い噂とを聞いていたであろう。
ところが、熱心に神に使えていたコルネリオスに御使いを通して指示されたのは「ペテロと会って話を聞く事」であり、ペテロが伝えたのは、イエスこそメシヤであるという事である。
神は、もろもろの規定や割礼を伝えるためにペテロを召したのではないし、コルネリオスと出会うための細やかなお膳立てをしたのも、祭司長や律法学者の教えを伝えるためではない。
実に、イエスというお方を伝えるためである。
ペテロはイエスの「証人」であると自称している(39〜42節)し、43節では、預言者もそのように証言している、と証している。
事実、旧約聖書すなわちモーセの律法と、預言者たちと、詩篇に書かれてある事とは、イエスについて証している。(ルカ24:44〜49)
イエスがペテロなど弟子達に解き明かされたのは、天使からの新しい徴ではなく、御言葉であった。
神はなぜ、私たち一人ひとりを召されたか。
それは、御言葉と聖霊を元に、イエスの証人とするためである。
御使いがコルネリオスに使わされた時、御使いは一言も「イエス」「キリスト」の言葉を出さず、単に、海沿いの皮なめしシモンの家を訪ね、シモンペテロから話を聞くようにと、指導しただけだった。
神はなぜ、御使いの口から直接イエスを伝えないのだろう。
御使いを通じてダイレクトにキリストを宣教するほうが誤解や間違いもなく伝わるだろうし、人々は恐れて確かに信じる、と思われるかもしれない。
しかし神は、イエスと出会った私たちに、イエスが主である事の証言者としての役割をお委ねになったのである。
他の誰でもない。御使いでもない。私たち一人ひとりが、当事者である。
あの人に福音を示すために、御使いを遣わして下さい、不思議な夢や幻をあの人に見させてください、では、ない。
今日の箇所からすれば、たといその人の夢に御使いが現れるにしても、**の所に行って話を聞け、と示すのではなかろうか。
だから私たち自身、いつでもイエスを伝える準備をしているべきである。
準備が出来ているなら、主はいつでもお膳立てし、福音を必要としている人の所に遣わして下さるだろう。
主からお膳立てされるほど豊かに用いられる皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:謙虚に聞く姿勢(使徒10:17-29):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
昨日はコルネリウスとペテロを取り巻く周辺で起きている出来事を中心に話すはずだったが、図らずも、創世記から黙示録までを通して主がご計画された、人類全体の贖いの計画を話す事となった。
異邦人の救いとは、ユダヤ人のそれまでの考えをひっくり返すほど、天的に重要な転換点である。
ペトロは、見た幻はいったい何を意味するのだろうかと、一人で思い惑っていたその時、3人の異邦人が訪ねて来た。
「三人の者があなたを探しに来ている。さあ、立って下に降り、ためらわずにその者たちと共に行きなさい。彼らを遣わしたのは私なのだから」。
国際社会を生きる私たちには、その言葉だけでためらわずに行って然るべき、と思われるかもしれない。
しかし、事前にあれだけ印象的な幻を見せられなければ、ためらってしまう程、敬虔なユダヤ人にとって、異邦人に同行したり家を訪問する事は異色な事なのである。
カイサリアはヨッパから海沿い50kmほど北に位置する重要な港町で、多くのローマ兵が駐屯している。
異邦の穢れた民とされていたローマ人に、支配されている側のユダヤ人からすれば、支配する側であるローマ人が大手を振っているそのような町は、嫌悪する所だろう。
それでもペテロは、数名の聖徒達を連れて行った。
迎えたコルネリオスはなんと、ペテロにひれ伏した。
「支配する側」であるローマの百人隊長が、部下も含め大勢いる列席一堂の前で、
「支配される側」であるユダヤの、名も無い一漁師にひざまづくのは、いかに驚くべき光景であろうか。
ペトロは「立ちなさい。私も同じ人間です。」と言った。
黙示録の場面でも、ヨハネは御言葉を伝えた御使いにひれ伏した所、同じ事を言われた。
『わたしは天使を拝もうとしてその足もとにひれ伏した。すると、天使はわたしにこう言った。
「やめよ。わたしは、あなたやイエスの証しを守っているあなたの兄弟たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ。イエスの証しは預言の霊なのだ。」(黙示録19:10)』
御言葉を語る者は尊敬されても、礼拝の対象となるの確かに行き過ぎである。
しかしコルネリウスにとっては、列席の前でひれ伏す程、ペテロの事を御言葉を語る者、神の使わした者として尊敬したのである。
「今私たちは皆神の御前に出て、主があなたに命じられたことを一つ残らずうかがおうとしているのです」。(33節)
たとい身分が低く見下されるような者であろうと、神の使わされた者、御言葉を語る者であるというのであれば、このように謙虚に聞くべきである。
この一連の出会いの出来事は、ペテロにとってもコルネリオスにとっても、多くのチャレンジを必要とした事であろう。
しかし主の御言葉に忠実に従うならば、主の大いなる御技を見ることが出来る。
もし皆さんが、主からの導きを求めつつも中々示されていないのであれば、今一度、自分の中に謙虚に聞く姿勢のあるかないかを、見直したほうがいいかもしれない。
常に謙虚に聞く姿勢を持ちつつ、御言葉を語る者に耳を傾け、主の御言葉を待ち望むみなさんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:神が清めたものを不浄としてはならない(使徒10:9-16):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
昨日はコルネリオスへの幻だったが、今回は彼が出会うべき、シモン・ペテロに示された幻である。
コルネリオスから使わされた三人がヨッパに近づいた時、ペテロには天から敷布のような物が4隅を吊るされて下りて来る幻を示された。
敷布には清い・清くないを含めたあらゆる動物が入っていて、それを食べなさい、というのが幻の内容である。
それは「どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならない」とペテロに示すためだったが、それにしても実にユニークな幻である。
その事を知らせるためには、もっと別の幻も見せられるのでは、と思われるかもしれないが、何故そのような内容が示されたのか。
主が「食べなさい」といわれた時、ペテロが嫌がったのはなぜかというと、食べて良い動物と食べてはならない穢れた動物が律法(レビ記11章)に細かく規定されており、主から食べるよう促されたものの中には、汚れているとされる「地を這う動物」も含まれていたからである。
ところが聖書のもっと前のほうでは、地を這う動物も含め、地上の全ての動物は全て食べて良い、と言われている箇所があり、それはノアの洪水直後に定められた契約で、創世記9:1-4にある。
しかし、さらに以前に定められた契約があり、それは創世記1章の終りに出てくる契約で、「全地に生える種を持つ草と種を持つ実をつける木」が食物として定められている。
動物は人間にとっての食物ですらなく、また、全ての動物にとっての食物は、あらゆる青草である。
このエデンにおいて与えられた人類最初の契約は、人類によって破られてしまった。
人は罪ある者として増えていき、罪が地に増し加わったため、ノアの時代に一度滅ぼされてしまった。
しかし神はなお憐れみ、全人類と全被造物を救うために、第2、第3と段階を追って契約を定められたわけである。
律法が入る以前、動物達は清い汚れているという区別が無く、そうした区別は律法が来た時に導入されたものだが、穢れた動物がなぜ洪水後もこうして生き残っているかというと、ノアの箱舟によって救われたからである。
いくら「汚れている」と見なされている動物であっても、救い、すなわちノアの箱舟の中を通ってくれば、生きるのである。
穢れているとされている異邦人達も、まことの箱舟、すなわちイエスによって救われ、永遠の命を得る事が出来るのである。
神は、ご自身を示すために、その証人となる人々を用意しなくてはならなかった。
そしてその証人を通して、神は何を是とし、何を非とするのかを、示さなくてはならない。
その、ご自身を世に対して示す証人として、アブラハムすなわちユダヤ民族を選ばれた。
なぜユダヤ人が選ばれたかというのも、彼等のような言わば選民のみを救おうとするためではなく、その民族を用いて、人類全体を救おうという遠大な計画の一部として、ユダヤ民族を選ばれたわけで、彼らを通して、神は何を喜び何を嫌われるかという意図を世に示そうとされたのである。
それ故、律法の中で何が清い、何が汚れているという区別は、救いのご計画のうちの一つの段階として示したものであり、最終的には、人類全体をキリストへと導くためである。
ユダヤ人は結局、神様の約束を守り切ることは出来なかった。
神の「是非」から見れば、人類全ては「非」であり、人類は自らの力でどうしようもない、救いようがないと徹底的に知らされた時、神の憐み、救いの希望が示された。
すなわち、イエスを信じる信仰による救いである。
その救いの道は最初、ユダヤ人に示され、続いて異邦人に知らされた。(使徒10:41)
幻の中で動物達が降りて来た元は天であり、それらは元々、神様の所にあったわけである。
人類が罪を犯す以前、創世記1章の生き物は全て、清いも穢れも無く、皆同じように草や木の実を食べていた。
神が望んでおられる究極の完成形は、黙示録の最後に記述されている、天から降りてくる花嫁衣裳を纏ったかのようなエルサレムである。
その最初の示しが、この使徒10章における幻である。
ペテロが嫌がったのを「神が清めたものを、あなたが不浄な物としてはならない。」とたしなめられたのは、そういうわけである。
当然、誰も彼もが無条件に清められ聖とされる訳ではない。
イエスキリストを受け入れた者達が、その義と聖に預かる事が出来る。
一人でも多くの者達を、例え獣のような者であっても、イエスキリストへと導く事によって清め、聖とする皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!