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あなたの祈りと施しは覚えられている(使徒10:1-8)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » 使徒の働き
- 執筆 :
- tenseikawai 2011-4-11 22:23
礼拝説教メッセージ音声:あなたの祈りと施しは覚えられている(使徒10:1-8):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
使徒10章は、コルネリオスというローマ人と、彼に関連する親しい異邦人達の救いの話である。
彼はローマ軍イタリヤ隊という部隊の百人隊長で、神を恐れる人だった。
百人の隊長として任命された者であるからには、能力的にも人格的にも優れた者であった事だろう。
後にペテロを自分の家に招き入れた時、大勢の親類や友人達を呼び集めているし、また家族や部下の中にも敬虔な者がいたという事は、彼は人々に神様の事を伝え、何人かは敬虔な者として立ち返らせるほど、御言葉を伝える人だったのだろう。
彼に御使いが使わされたのは、神様を人に伝える人であり、また絶えず祈っており、ユダヤの民に数々の施しを為していたためである。
異邦人の救いはこのコルネリウス達が最初だと思われ勝ちだが、その前にエチオピアの高官の救いがあった。(8:26-)
フィリッポスが伝道した宦官は、誰よりも熱心に礼拝し、深く御言葉を愛する者だった。
対してコルネリウスは、人と人との関わりの中で賜物を発揮するタイプのようである。
これらの事から、神様は全地をあまねく見渡し、異邦人であろうと誰であろうと、どのような形であれ、主に対して真実な者はしっかり覚えておられ、きちんと報いてくださるお方だと分かる。
コルネリウスに現れた御使いがまず言った言葉は「あなたの祈りと施しは神のみ前に覚えられている」である。
私たちが日々捧げる「祈り」はしっかり神のみ前に立ち上っている。(黙示録8:1-5)
祈りは、聖徒達一人ひとりが捧げる薫り高いいけにえである。
また「施し」も「芳しい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえである。」(ピリピ4:18)
昨日の主日は、高松の兄弟から送っていただいた讃岐うどんを、皆で頂いた。
彼としては、まだ見ぬ天声の聖徒達の喜びを思いつつ送って下さったのだが、それは、聖徒達を満たしたばかりでなく、同時に、神様に覚えられる芳しい香りとして捧げていたのである。
パウロは続けてこう書いている。
「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。」(ピリピ4:19)
この御言葉からも、施しは神様に喜ばれる供え物であると同時に、非常に祝福に満ちたものである事が分かる。
そのように祈りと施しを欠かさなかったコルネリオスに、御使いが使わされたわけである。
御使いは「ヤッファへ人を送り、ペテロと呼ばれるシモンを海辺の家に訪ね、彼を招きなさい」と、かなり具体的な指示を与えるが、「何のために」「その結果何が起こるか」という事は伝えていない。
もし御使いが「あなたがたも聖霊を受け、バプテスマを受ける」「異邦人にも救いの道が開く」などと、これから起こる事が予め知らせれていたら、彼はもっと違う行動を取っていたかもしれない。
しかし、人はその後の事は知らなくて良い。
神は異邦人をも省みてくださる憐れみ深いお方だ、と信頼しながら昨日も今日も同じように祈る日々は、味気なく写るかもしれないし、人目を惹くものではないかもしれないが、神の御前にはそれで十分である!
人は知らなくても、信頼して行動するからこそ信仰が実体として現れるのであるし、順次祈り求めて順次示されるからこそ、私たちは一瞬一瞬、日々、主に求め、より頼んで行くのである。
私たちは将来どうなるかは分からないけれど、主は私たちの祈りと施しを覚えておられる事と、当面為すべき御言葉が知らされていれば、それで十分である。
たゆまず主に信頼し、かぐわしい香りを捧げるみなさんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:権利証書は有効に活用しよう(ヘブル4:12-16):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
人は言葉では何とでも言えるし、外見も取り繕う事は出来るが、心の内は隠されている。
大人になるにつれ、外見と内面を切り離す事が出来るようになって行き、そうなればなるほど世渡り上手となるものだが、神の御前にはそれは通用せず、神の御前で隠されているものは何一つ無い。
病院でレントゲンを取るなら骨組みも内臓も見透かされてしまうが、神様のまなざしは、肉体だけでなく霊も魂も心も見透かすX線である。
12節「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分ける」
生きているという事は、生命力が在って動くものであり、力を発揮する。
力とは原語はエネルゲイヤ、これは「物を動かす力」である。
神の言葉は、信仰を混ぜて初めて力を発揮するものであり、御言葉には力が無いじゃないかと言う者は、信仰を混ぜていないのである。
例えばマイクは声を大きくさせる道具であるが、全然動作しない、というのであれば、コードを指しているかいないかを疑うべきである。
御言葉というマイクは、信仰というコードを、天の御座というアンプに通さなければ、力は発揮されないのだ。
神の言葉には力がある。
この世の中は、神の言葉によって創られた。
光よあれと言われた時、光が創られ、言葉によって混沌とした状態から秩序が生まれた。
人の言葉に力が無いのは、信仰が込められていないからである。
聖書は紙切れかもしれないが、書かれてあるのは神の言葉であり、その言葉は世を創り、世がいずれ焼き尽くされた後もずっと残る程力強い。
この神の言葉を信仰を持って受け入れるなら、力となり、物を動かす力、エネルゲイヤとなる。
ヘブル11:1「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」
ここの「確信」とは「権利証書」と訳す事も出来る。権利証書も紙切れかもしれないが、力がある。
「信仰とは、望んでいる事柄の権利証書である。」
もしこの教会の建物のビルの全所有者は、パスターの林である、という不動産の権利証書があるとしたら、201号室だけでなく、全フロア教会にする事も出来る。
但し、その権利を確信して主張しなければ、何にもならない。
聖書は、にわかには信じられないほど絶大な権利が書かれてある証書である。
「すべては、あなたがたのものです。パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。」(1コリント3:21-23)
これを主に対し、世に対し、サタンに対して信仰を持って宣言するなら、実際にその通りになるのである!
弟子達は悪霊が子供に取り憑いて泡を吹きながら引き付けさせている様を見、これは追い出せないだろう、と、信仰が弱ったしまった時、イエス様は「なんと信仰の無い者よ」と叱責された。
しかし同時に弱い私達を助けて下さり、イエスご自身が言葉を発したので、悪霊は出て行かざるを得なかった。
イエス様は、人が居る事の出来ない聖なる光の中に住んでおられるお方であるが、同時に人となられ、あらゆる誘惑も人間として受けられ、罪こそ犯されなかったが、私達同様試練に遭われた。
だからこそ、人のあらゆる弱ささえも見透かされ、その上で執り成して下さるのである。(ヘブル4:14-16)
神様の目と言うX線によって、人の罪や穢れ、あらゆる悪しき物は照らし出される。
医者がそれを診るならお手上げであり、死ぬしかないのであるが、しかし神は「はいそれでおしまい」と言うお方ではなく、イエスキリストのいのちというワクチンを用意され、それを摂取した者は生きるようにされた。
このワクチンは、一度人を死に至らしめ、そして、新しいいのちで生き返らせる。
いのちの御言葉を信仰を持って自分に適用させる時、新しいいのちが生き、古い自分は終わるのである。
主の御言葉は、罪や病、自分の嫌な部分をも見透かすけれども、同時に、人が罪によってどんなに苦しみ悲しんでいるか、という深い呻きまでも見透かす。
その上で御霊は深いうめきを持って、人を執り成すのである。
だから私達もダビデのように、傷ついた道のあるかないかをお調べください、永久の道へと引き戻して下さい、と祈ることが出来る。(詩篇139篇)
全ての傷ついた道を知って頂き、御霊の助けを頂いて、折に適った助けを頂く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します。
礼拝説教メッセージ音声:いのちの積立金とは(使徒9:36-43):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
昨日はペテロによる中風の癒しについてだったが、今回は、死んだタビタを生き返らせる奇跡である。
昔も今も、病の癒しや蘇りの奇跡は、聖徒なら誰もが一度は切実に求め願う事であろう。
聖書に死人を蘇らせる奇跡は幾つか出てくるが、今回のように、ある人の死が多くの人達に悼まれ、蘇らせていただきたいと祈られた事は、他にも多くあったころだろう。
例えばステファノの死は、多くの人達に悼まれ、多くの聖徒達が彼の死体を囲んで生き返って欲しいと願ったであろうし、後に学ぶヤコブが殺害された時も、多くの人達に悼まれ、蘇らせて欲しいという願いが起きただろう。
彼らは蘇らなかったが、もし、彼ら程の働き人が蘇っていたのなら、今回のタビタ以上に、ユダヤ社会とクリスチャン達に大きな衝撃を与えただろう。
誰が癒され誰が癒されないか、誰が蘇らされ誰がされないか、なぜあの人には奇跡が起こりなぜこの人には起こらないか、とった議論は、我々のする事ではない。
いのちは主のもの、人がいつまで生きいつ死ぬかは、いのちの主イエス様が計っておられる。
私達キリスト者は、生きるにしても死ぬにしても、主のために生き、主のために死ぬのみである。
病で死んで多くの人に悼まれ、蘇らせていただいたケースとして、ベタニヤのラザロがいる。
彼が病だと知らされた時、イエス様はこう言われた。
「この病は死に向かうものではない。神の栄光の為に、神の子がそれを通して栄光を受けるためのものである。」
しかもイエス様はそれを聞いて、よりによって2日もその場所に留まり、ラザロの所に到着した時、既に彼は亡くなっていた。
なぜイエス様はすぐに行かなかったのか。
生きている内に癒されたかもしれないのに、なぜそうしなかったのか。
それは、イエス様が私達に死ぬほど大事な事を教えるためであり、もしインスタントな癒しをしていたなら、人々はその大事な言葉を心に刻む事は無かっただろう。
皆さんにぜひ覚えて置いていただきたい事は、病が癒されるとか、死人が生き返るとか以上に重要な事があって、それはすなわち「イエス様こそよみがえりであり、いのちであり、彼を信じている者は、死んでも生きる」事だ。
タビタの場合、彼女を慕う者が多かったため、ペテロは呼び出された。
ペテロはその時、主に蘇えらせて頂けるかどうかは、知らなかった。
ここでもし蘇らせて頂けなかったら、ペテロからはもう聖霊が去った等と見なされ、評判は地に落ちるのだろうか?
そのような議論もまた無駄である。
いのちは、ペテロなど特定の信仰深い者にかかっているものではない。
いのちの主イエス様が計っておられるものであるから。
ペテロはとにかく聖徒達に促されるまま行き、ひざまづいて祈った。結果、いのちを吹き返したのだ。
かつてアナニヤとサッピラ夫婦は、サタンに心を満たし、聖霊を試みたため、死への奇跡が起きた。
聖徒達への配当をしぶったその偽りの代金が、死への切符となったのだ。
それに対しタビタは、生前愛を持って聖徒達のために捧げ施したため、いのちへの奇跡が起きた。
やもめ達への愛情と憐れみの篭った記念の品々がペテロに示された時、それがいのちへの切符となったのである。
そして、彼女は蘇らされ、多くの人達を主へと立ち返らせる記念の証となった。
私達も日常生活において、アナニヤ夫婦のように、心をサタンに満たして死への積み立てをするのではなく、タビタのように、聖徒達を愛し、心遣い、いのちを得るための積み立てをしたい。
昨晩、宮城沖で大きな地震が起き、そのために女川原子力発電所の3つある電源系統のうち、2つが止まり、一つの電源だけで稼動しているとの事。(4/8朝5時現在)
私達はその現状に対しても、直るか直らないかは詮索せず、いのちの為に祈るべきである。
現在、多くの苦しみ悲しみがあるが、皆さんについては、どうかいのちのために執り成し、いのちの働き人として生きますように。
そしてペテロのように、生と死の狭間に立ち、命のために祈る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します。
礼拝説教メッセージ音声:面倒見られる者から面倒を見る者へ(使徒9:32-35):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
癒しのわざは、福音書や使徒の働きを見るとさほど珍しくない出来事のように思えるが、現代を生きる我々には、病の癒しは切実ではあっても滅多に起きない事のように思える。
アイネヤの癒しに限っては、それを見聞きしたこの地方の人達が主に立ち返る程に、インパクトのあるものだったようだ。
彼は中風で、8年間体が動かない状態だった。
中風とは半身不随などで体がマヒしてしまう、癒し方い病気である。
この病について聖書の他の箇所で思い出すのは、4人の人が一人の中風患者を担いでイエス様の所に連れて行った場面である。(マルコ2:1-12)
イエス様のいる所は人がいっぱいだったためそのまま連れて行けず、屋上に登って屋根を剥がし、イエス様の所に4隅を吊って降ろした場面だ。
そのマルコの場面と使徒の場面で共通している事は、そこにいた人々に大いなる驚きをもたらした事。
この病が癒され突然立ち上がるなどという事態は、正気を失うほど驚くべき事である。
もう一つの共通している事項として、癒されるときに「起きて寝床を担ぎなさい」という言葉も一緒にかけてもらった事である。
中風患者は体が動かないため人に世話になりっぱなしで、誰かに運んでもらわなくては移動もできない。
人の中には、霊的な中風患者もいる。
その人は肉体的には健常であっても、霊的な感覚や良心がマヒし、霊的に面倒を見られっぱなし、という状態である。
ペテロもイエス様も「自分で自分の寝床を運びなさい」と言ったのは、もはや自分で自分の面倒を見ることができるのだから、以前のように人から面倒を見られっぱなしという習慣から
脱出しなさい、という事である。
イエス様は癒す時に「あなたの諸々の罪は赦される」と言われた。
周りの人達は「神おひとりのほかに誰が罪を赦すことができるだろうか」と思ったが、イエス様の場合は本当に人の罪を赦す権威があるお方である。
その事を示す為に、敢えて「起きて歩け」ではなく「あなたの諸々の罪は赦される」と言われたのである。
中風の癒しとは「このように、全き回復の他に「罪の赦し」も連想させるものである。
ペテロはこのように声かけた。
「アイネヤよ、イエスキリストがあなたを癒される。起き上がりなさい、そして自分で床を整えなさい。」
イエスキリストが癒される時、霊的にも肉的にも回復すると同時に、諸々の罪は赦される。
人に面倒を見られっぱなしだった人生から、自分の面倒を見れる人生となり、ついては中風の人をイエス様の元に運んでいく人生となるのだ。
アイネヤの身動き出来なかった8年の辛い記憶はたちまち主の栄光の記憶へと創り変えられ、それを見た者は主に立ち返るのである。
霊的にしろ肉的にしろ、中風にかかっている人がいればイエス様の元に連れて行く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって、祝福します。
礼拝説教メッセージ音声:止まる事を知らず広がる福音(使徒9:19b-31):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
サウロはアナニヤの手引きによって目からうろこのようなものが落ち、悔い改め、人生の方向性を180度転換した。
アナニヤがサウロを弟子達の所に連れて入った時、そこには大きな驚きと恐れがあっただろう。
なにしろ、あの有名な迫害者サウロがダマスコス入りしたと聞いただけで何人もの弟子達が震え上がった、あの噂の張本人が突然連れてこられ、入ってきたのだから。
しかしその驚きは喜びに変わり、主への感謝に変わったからこそ、その後数日間、弟子達との有益な交わりができたのであろう。
22節「サウロはますます力づけられ、イエスがキリストであることを論証し」
サウロは、あの光に打ちのめされた自身の体験よりも、聖書からイエスがキリストであることを論証した。
元々旧約聖書には、イエスがキリスト、すなわち救い主である事の根拠が、至る所にちりばめられているため、聖書に親しんできたサウロには論破する事は難しいことではなかった。
サウロはイエスの事を語る毎に、ますます力づけられていった。
それは御言葉を伝える者なら誰もが経験している所ではないだろうか。
イエスが神の子である事、罪を赦し永遠の命を与える主である事を伝えれば伝える程、力が湧いて来るものだ。
後になって思い返してみると、よくもあそこまで福音を伝えたものだ、と思う事もあるが、主ご自身が守って導いてくださった事も同時に分かるのである。
イエスが主である事を伝える者には御霊の助けがあり、霊が燃やされるため、人の目も危険も気にならなくなって来るのだ。
かなりの日数が経った後、サウロを殺そうとする陰謀が起こるが、主はそのような隠れた陰謀さえ分かるように取り計らってくださり、みすみす殺されるような事が無いように配慮された。
街の門を昼も夜も監視され、サウロは行き来できなくなってしまうが、弟子達は彼をかごに乗せて城壁伝いに吊り降ろし救い出した。
そして彼はエルサレムに着き、弟子達の仲間に入ろうとするのだが、やはり交わりに加わる事に難航する。
しかし「慰めの子」と呼ばれるバルナバが、サウロを執り成し、弟子達の交わりへ加える事に成功した。
31節「こうして教会は、エルサレム、ユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方にわたって平和を保ち、主〔へ〕の恐れと聖霊の慰めにあって、その基礎が固まり、発展し、その数を増していった。」
いのちの危険がいつも隣り合わせなのに発展して行くとは、一見すると相反しているかのように見えるかもしれない。
しかし福音とは、人の罪が赦され、病や貧しさから解き放たれ、死の門をも打ち破るいのちの道であり、いのちの危険があっても、なおいのちで飲み込んで行くからである。
聖霊によって慰めを受け、いのちを増やしていく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します。
礼拝説教メッセージ音声:目からうろこ(使徒9:10-19a):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
「たちまち鱗(うろこ)のようなものがサウロの目から落ちて、見えるようになった。」(使徒9:18)
目からうろこということわざの起源は、聖書のこの箇所あらである。
他にも「笛吹けど踊らず」「豚に真珠」など聖書由来のことわざはあるが「目からうろこ」とはそれまで気付いていなかった意外な事、見えていなかった事が開け、その世界が広がる事である。
それまで目は見えていなかったサウロの目は見えるようになり、霊的な盲目状態もまた開けて真実が見えるようになった。
サウロはそれまで、神様に熱心だと自負して突っ走っていたが、実は盲目の状態でやみくもに走っていたのだ。
彼は主の弟子達を脅迫し殺そうという、間違った方向性で意気込んでいたため、主ご自身からの直接的な介入があったわけである。
古今東西、主の弟子達を迫害して燃えていた者は大勢おり、そのまま変わらず終わった人生もあれば、サウロのように変えられた人生もある。
変えられるには主の直接介入が必要な事もあるが、主からの促しに「応える」という、本人の側の決断と行動も必要である。
サウロは既に有名であったため、身に危険を招かないために、180度方向転換した事を隠してひっそり生活するという選択肢もあったかもしれない。
しかし彼は、主からの促しと与えられた召命に素直に答え、それまでの地位を捨てる道、命の危険を冒しても福音を伝える道を選んだ。
もし彼ほどの器の人物がひっそりと信徒生活を送る選択をしたら、主はきっと別の器を起こされた事だろう。
しかしそれなら、彼が新約聖書の大部分を書く事も、地中海世界を伝道して回り多くの魂を救う事も、朽ちるこのとの無い栄光の冠をいただく事も無かったであろう。
主からの促し、主の召命に応えるなら、大いに用いられ、朽ちない栄光をいただく事になるのだ。
アナニヤは使徒9章にしか出て来ないが、彼について分かる事は、彼はダマスコスに住み、主から特別な任務を頂いてそれに従順に従う良き聖徒だという事である。
彼は事前に、サウロという人物について詳しく知っており、サウロがダマスコスに来た理由も、どんな権威を祭司長から得ていたかも知っていた。
初代教会の情報網の細かさ、伝達の早さが伺える。
ダマスコスはガリラヤ湖の北にある町で異邦人が住み、ユダヤ人は比較的区別しやすく、故にキリスト者も比較的見つかりやすい状況だったと思われる。
キリスト者達は、あのサウロがそちらに向かったぞという事で多くは事前に逃げたと思われるが、それでもアナニヤはダマスコスに残っていた。
アナニヤには主から、サウロに手を置いて癒すという使命を託された。
もしサウロを知らない聖徒にこの使命が託されるなら、もっと楽な気持ちでサウロの所に行ったであろうが、主は敢えて、サウロを良く知っているアナニヤを召命した。
サウロは99.9999%改心は望めないキリスト者にとっての天敵だったかもしれないが、人の見方と主の見方は違うものである。
人の目からは不可能でも主には不可能は無く、改心するハズの無い者をも改心させ、主は栄光を表すのだ。
私達もアナニヤのように、目が見えず頑なな”うろこ”が付いている人の所に行って、うろこを取ってやるように遣わされる事がある。
アナニヤは相当嫌だっただろうし、私達も相当嫌だろう。
今から聖徒達を逮捕したり殺害してきた組織のアジトに行って、目が見えなくさせられているボスに手を置いて癒してやりなさい、と、主から言われるとしたら、私達も「あの人はちょと嫌です」と訴えたいものだ。
しかし、主は「行きなさい」と言われ、アナニヤはその言葉に従い、行って手を置いて癒した。
主に行けと言われるなら行くべきであり、主の言葉に従えば不可能は可能に、サウロはパウロに変わるのである。
主のなさろうとしている事はある時信じられないかもしれないし、私達にはとんでもない危険があるように見えるかもしれない。
しかし、主の促しに従うのであれば、大いなる祝福と恵みをいただくことが出来るのである。
サウロやアナニヤのように、主からの召命に忠実である皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します。
礼拝説教メッセージ音声:主よ、あなたはどなたですか(使徒9:1-9):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
サウロ(後のパウロ)は相変わらずイエス様に連なる者を捕らえ、殺害しようと意気込み、ダマスコにまで出向こうとした。
主の弟子達に対する執念に、そこまで燃えたのは、恐らくステファノの場面が強烈に残っていたから、と思われる。
彼にとって、イエス様に連なる者達は新興の異端集団だったが、ステファノの最後の様子は彼にとっては相当ショックだった。
ステファノは最後の最後まで、聖らかな愛の趣に満たされ、心底輝いていたのである。
サウロは確かに律法に熱心だったが、頑張っても頑張っても聖なる趣に達する事は出来なかった。
自身はパリサイ派の中でも熱心であると、自他共に認めた者であるにもかかわらず義と聖、愛に満ちる事は無かった。
なのに、この新興宗教の異端者はいとも自然にその性質を帯びている。
その聖さと愛は、込みあがって押し止められないほどの衝動となって自らに石を投げる者達を執り成し、その表情は石打受刑者とは思えないほど輝いていた。
サウロは実に葛藤しただろう。
しかし彼は自分の中で相反する思いを抱えながらも、神様に従いたいという自分の熱心を堅持しつつ、ダマスコまで来た。
ダマスコに行く途中、天からの突然の光に照らされ、彼は倒れた。
「サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか。」
イエス様ご自身がサウロに語りかけるのだが、イエス様は『なぜ「私の弟子達を」迫害するのか』ではなく、『なぜ「私を」迫害するのか』と呼ばれた。
イエス様の弟子達を迫害する者は、イエス様を迫害したと同じなのである。
そこで彼は尋ね返す。
「主よ、あなたはどなたですか。」
この呼びかけには、声の主は「主」と分かっているのに、「どなたですか」と尋ねるという矛盾がある。
彼は、そうせずにはおれなかったのである。
打ちのめされる程の天から聖なる光は間違いなく主である。
しかし、その光の主は「なぜわたしを迫害するのか」と言い、しかも続いて「私は、おまえが迫害しているイエスである。」と、明確にお答えになった。
彼はどれほどショックだっただろうか。
自分はそれまで熱心に仕え、神に喜ばれる事をしてきたと思っていたのに、実はその逆をしていた。
神の反逆者と思っていたイエスこそ、実はメシヤだったのだ。
自分が熱心に律法を読んでその律法は、全てイエスを示して来たのである。
サウロは起き上がったが、何も見る事が出来なかった。
彼は人に手引きされダマスコに連れて行かれたが、3日間見ることも食べる事も、飲むこともできなかった。
彼はこの時、死を体験したようなものである。
それまで生きてきた人生が、ことごとく否定され、学んできた事は覆された。
パリサイ派の同窓生や友人と共に、キリスト者を敵として戦ってきたあの戦いは、一体何だったのか。
彼にとって、この経験が非常に強烈だったため、彼は後に何度もこの光に照らされた体験を証して行く。
キリスト者は、死の体験、よみがえりの経験こそ原点であり、大切にすべきである。
それまでの自分の力、自分の思いを否定し、自分の望むまま行きたい方向性を180度転換してキリストに向かう事は、人の目から見れば愚かな事かもしれない。
共に歩んできた友人知人、家族にさえ敵対するかもしれない。
しかし、イエス様と共なる歩みこそ、真実の歩みである。
サウロは自分の人生を否み、180度転換し、パウロとしてキリスト主体の人生となったからこそ、大いなる働きを為し、朽ちることの無い栄光の冠を受けたのである。
私達も彼ほどないとしても、主に仕えるために、自分のわざをやめなくてはならない。
主の働きをたくさん出来て栄光の冠を得る皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福します。
礼拝説教メッセージ音声:安息に入れない予備軍(ヘブル4:1-10):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
「神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。」(ヘブル4:1)
安息に預かる約束があるのに、取り残されてしまう者とは、与えられた約束を信仰によって結び付けない者である。
「聞く者、これに信仰をまじへざりしに因る」(文語訳2節)
この事から、約束を聞いただけで安息に入れるという訳ではなく、聞いた言葉を、信仰によってその人自身に混ぜ合わせなくてはならない。
御言葉を聞いても何も良い事が起きない、と言っている人は、コンセントを挿さずスイッチも入れないのと同様で、御言葉に力が無いのではなく、その人が聞いた御言葉に信仰を混ぜないから、力が発揮されないのである。
ヘブル4:4-7節には、安息に入れない予備軍が書かれてある。
メタボ予備軍にならないためにテレビや雑誌等でよく注意喚起されている。
一日何歩以上歩かない者や、エレベータばかり使っている者は危ない等と言われているが、「ああ、私は予備軍だ」と言うだけで何の改善もしない者は、事実メタボのままである。
御言葉を聞いて「それ聞いた事ある」「でもねー」と言って、何の改善も無い者は「安息に入れない予備軍」である。
予備軍の特徴として「不従順な者」(6節)、「神の声を聞いても心を頑なにする者」(7節後半)。
安息に入れない者とは、聞いても心と顔面を頑なにする者、自分の考えをあくまで固持する者である。
安息に入れない予備軍の行く先は暗闇と歯軋りであるため、メタボ予備軍よりもはるかに深刻。真剣に扱っていただく必要がある。
神のみわざは既に完成されており、安息日の休みは残されている。(9-11節)
ところが、さもみわざが完成していないかのように、安息とは程遠いかのように人々が振舞っているのはなぜだろうか。
それは、御言葉に信仰を混ぜていないからである。
アダムとエバは、善悪の木から以外は、全ての木から取って食べて良いと言われたのに、さも何か不足しているかのように感じてしまったり、
善悪の木から取って食べたら必ず死ぬ、と言われたのに、さも神のようになれると思ったりしたからこそ、大地は呪われ、額に汗しつつ、死に向かって生きていかなくてはならなくなってしまった。
10節「神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。」
御言葉を信じるのであれば、神の安息がその人を覆い、そして自分の業を休む。
しかし信じないで疑う者は安息を得ず、右往左往した末に滅びる。
信じて安息を得、自分の業を終えて休む皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
異邦人の宦官であっても(使徒8:26-40)(使徒8:26-40)
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- pastor 2011-4-1 20:40
礼拝説教メッセージ音声:異邦人の宦官であっても(使徒8:26-40):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
ある時フィリッポスは主から詳細な指示をいただき、一人の人と出会うよう仕向けられ、彼に福音を伝えた。
フィリッポスはその他大勢に福音を伝えたが、特別詳細に記録されているのは、前回の魔術シモンと、このエチオピアの宦官だけである。
彼はエチオピア人の宦官で、女王カンダケの高官としてその全財産を管埋しており、礼拝のためにエルサレムに来て馬車で帰る途上だった。(8:27)
彼のような異邦人はエルサレム神殿に詣でても、神殿の「異邦人の庭」より先には入れない。
また、宦官であるためイスラエルの民に加えられる事は律法によって禁じられている。(申命記23:1)
そして彼は忙しい身分であり遠い国であるのに、それでも礼拝のため上り、しかも帰りの車の中でイザヤ書を朗読していた。
現代でさえ車中で書物を読めば頭が痛くなるのに、当時の舗装されていない道をサスペンションの無い馬車で走りながら、御言葉の巻物を朗読し思い巡らしていたのだ。
彼は普通のユダヤ人と比べ、礼拝するのに一体幾つのハンディキャップがあっただろう。
にもかかわらず、どれほど熱心に主を望んでいた事だろう。
これほど熱心に御言葉を求めている者に、主が報いて下さらない事が果たしてあるだろうか。
「主のもとに集って来た異邦人は言うな、主は御自分の民とわたしを区別される、と。宦官も、言うな、見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。
なぜなら、主はこう言われる、宦官が、わたしの安息日を常に守り、わたしの望むことを選び、わたしの契約を固く守るなら
わたしは彼らのために、とこしえの名を与え、息子、娘を持つにまさる記念の名を、わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない。」(イザヤ56:3-5)
主を恐れる者は、異邦人だろうと宦官だろうと、主は区別されない。
彼は確かに、異邦人の庭までしか入れないという制限や区別をされていたかもしれないし、御言葉の導きをフィリッポスと会うまで誰もしてくれなかったかもしれないが、主はフィリッポスに細やかな指示を与えて遣わし、まことの救いイエスキリストへと導いて下さった。
二人が道行くうちに、水のある所まで出て、宦官は
「ここに水があります。私が洗礼を授けられるのに、なんの妨げがありましょうか」(36節)
と言うと、二人とも水の中に入って行き、フィリッポスは宦官に洗礼を授けた。
後の箇所で異邦人コルネリウス達の救いが起こるが、その時使徒達は異邦人が聖霊を受けた事に大いに驚き、それなら水のバプテスマを授けるのに何の妨げがあるだろう、と言って、水のバプテスマを施した。
当時はまだ、異邦人に水のバプテスマを施す事は、異例中の異例であった。
しかしフィリッポスはためらいもなく、水のバプテスマを施した。
異本には37節が存在し(殆どの聖書には37節が欠けている)こう書いてある。
「フィリッポスが彼に言った。あなたが真心から信じるならば、受ける事が許されます。彼が応えて言った。私はイエスキリストが神の子であると信じます。」
これこそ信仰告白である。
イエスキリストが神の子であると信じて告白する者は、誰でもバプテスマを受けられるのだ。
宦官はその後、もはやフィリッポスを見る事は無かったが、喜びながら道を行った。
イエスを信じてバプテスマを受けて生まれ変わった者は、救いの喜びが満ち溢れるのである。
魔術師シモンもバプテスマを受けたが、彼は罪の縄目に縛られ、その苦い根っこを抱えたままだった。
それはイエスを信じても、イエスを主とする事からすぐに離れてしまったからである。
救いの喜びを持続させるには、救い主イエスから離れない事。
宦官とフィリッポスは、バプテスマの直後より、お互い恐らく一度も会う事は無かった。
しかし、主イエスと繋がったからこそ、喜びに溢れているのだ。
大切なのは、誰からバプテスマを受けたかではなく、どなたと繋がり続けているか、という事である。
イエスに繋がり続け、常に喜びに満たされる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します。
礼拝説教メッセージ音声:魔術師シモン(使徒8:9-25):右クリックで保存
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魔術師シモンに関する伝承は好奇心をそそる話が多いが、この箇所から私達は、我々にありがちな魔術師シモンの性質について見ていきたい。
現代はアニメや映画を通して魔術への興味が大いに掻き立てられているが、魔術は自分の欲望を満たす手段として暗闇の力を用いるため、福音の道とは間逆である。
聖書で言われている事は、魔術を行う者は、偶像礼拝者同様、御国を継ぐ事は出来ず(ガラテヤ5:20)行き着く所は火と硫黄の燃える池、第二の死である。(黙示録21:8)
私達の内にも「力に対する憧れ」という魔術師シモンが住んでおり、その要求する所は「人々を驚かし、自らを何か大いなる者のように言いふらす」「人々から興味を示される」(9節)である。
さて、彼自身もフィリッポスの宣教によってバプテスマを受けた。
バプテスマとは以前の自分に対しては死に、キリストにあって新しいいのちを生きる「悔い改め」であるが、以前の自分に死んでいない、悔い改めていない「形式だけのバプテスマ」を受けただけの者もいる。
彼は、バプテスマを受けた後も、興味のある事といえば力ある業や大いなる徴で、フィリッポスに付いて行く理由も徴が見たいから、自分もそれを行いたいから、であった。
そして後に魔術師シモンはペテロとヨハネに金を出して言った。
「私が手を置けば、誰でも聖霊を受けるように、そのような力を私にも授けて下さい」(19節)
ペテロはそんな彼を叱りつけ「おまえの金はおまえもろとも消えうせろ」と言った。
金など世の富によって、神の賜物を得られる訳が無いのだ。
ペテロの叱責から得られる教訓が、いくつかある。
まず神の権威、神の賜物を、金など世の物によって手に入れようとするのは悪事であり、そのような者は神の国の相続に預かる事は出来ない。
また23節に「お前が苦い胆汁と不義の縄目の中にいることが、私には見える」とある。
洗礼を受けても、苦々しい思いのままで、罪に縛られているなら、今一度、自分の中の魔術師シモンがいないかを点検した方がいい。
もう一つの見られる特徴として、自分の口で悔い改めの祈りをせず、人にさせる事である。
ペテロは22節で悔い改めと自身の口で祈る事を勧めたが、シモンが応えたのは
「あなたが私のために主に祈って下さい。言われたことが絶対に私に起こらないように」であった。
悪しき者の特徴として、決して自分の口で悔い改めをしない事が挙げられる。
イエスキリストの名によって祈れず「主の御名によって」あるいは「神さまによって」祈る場合は、すかさず「イエスの名前によって」祈る事を促すべきである。
また、口先では悔い改めているかのような言葉を並べて「イエスの名によって祈ります」までは言っても、「アーメン」だけは自分の口で言わず、人に「アーメン」を言わせる事もある。
悔い改めや信仰告白の祈りの場合、本人自身が自分の祈りにアーメンしないで他人がアーメンしてしまうと、その人自身の偽りの茶番劇に参加してしまう事になるので、本人のアーメンを確認してから皆さんもアーメンするべきである。
自分自身の唇で悔い改めをしない者は、要注意である。
悔い改めとは、人生の方向性を自分中心から180度転換し、イエス様中心の人生を歩む事であり、以前の自分には死んで、イエスキリストに生きていただく事である。
苦々しい思いや罪の束縛から解放され、キリストの全き平安の内にいる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します。