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メッセージ - 講解説教(新約)カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:恵みと憐れみが追って来る(使徒8:1-8):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

サウロはステファノ殺害の日以降、教会への迫害を強めた。
彼はなぜその時以降、しつこく迫害するようになったのか。
恐らくこのステファノの最後の様を見て、よほど激しく燃え立たされるものがあったのであろう。

彼は元々神様を思う熱心さから、キリスト者達を、神に敵対する「ナザレ人の一派」なる新興の集団として迫害した。
しかし、ステファノの最後の有様は、サウロの思いを超えて、聖かつ真実な趣を醸していた。

宗教をしている人は、敬虔な宗教者らしく、愛ある人らしく、御使いのように清らかな振りをする。
そういう振りをしている人を見る時、違和感を感じるものだが、ステファノはそういう振りをしている様子は一切無く、心底、輝いていたのである。
サウロは恐らく、そんなハズは無い、絶対どこかでボロを出すはずだと思ったであろう。

そこでイエスの名の下に集まっている家々に強襲して踏み込み、そこにいた男も女も牢にぶち込んで行った。
ところが彼が暴いていく家々、ぶち込んで行く人達は、あまりにも善良だった。
彼らは日々共に集まり、パンを裂き、賛美し祈り、神殿に礼拝しに行き、多くの徴や奇跡を行い、人々から尊敬されていたのである。(使徒2:43-47)

サウロがが一人また一人と獄にぶち込んでいく度に、恐らく心が痛かったのではなかろうか。
サウロは後に、主がこのように言われたと人々に証している。
『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う』
サウロは聖徒達を牢に入れる度に、とげのついた棒を蹴るような痛みを覚え、そして主はサウロ自身が痛みを感じている事もご存知だった。
イエスを主とする者たちを叩くのは痛い事である。
愛を持って兄弟姉妹を戒め、間違いから立ち直らせるのなら望ましいが、不特定多数のクリスチャンや牧師達をただ批判し貶めるだけなら、主がサウロに介入されたように、その人にも介入なさる。

サウロ他迫害者達のために教会の人々は散らされ、財産を取り上げられ、着の身着のまま追い出されてしまった。
それまでの日常生活が、ある日突然奪われてしまったわけである。
震災で着の身着のまま出て行かなくてはならなかった人達を私達は見ているため、それがどれほど困難な状況であるか、想像に難くない。
ところが聖書には、その大変さについては全く書かれておらず、むしろ、かえって良かったかのような書かれ方をしている。

4節には、行く先々で福音を言い広めたと書かれてある。
この福音のために、彼らは狙われ牢に入れられたり追い出されたりしたのではなかったか。
しかし主の霊に捕られた人間は、福音を伝えずにはいられない衝動に動かされるのだ。
彼らは確かに大変だったが、その大変さ以上に、恵みと憐れみ、慰めが付いて回り、物質的な必要の満たしも与えられたのである。

福島の教会の方々には行方不明の聖徒がいたり、ちりちりになってしまったりという困難にある状況を祈祷課題として書いたが、
その先々での生活は物質的に満たされ、逆に回りに与えているほど満たされているという事をインターネットの掲示板にて記している。
また、行く先々で主にある兄弟姉妹からのおもてなしや志しを頂き、励ましたり励まされたりして、涙が尽きない日々だという。
このように、主イエスにある者たちは、決して行き詰まる事が無く、慰めに満ち、恵みと憐れみが追って来るのである。(詩篇23)

私達も日々この福音をのべ伝えた者達のように、主の霊に満たされて、困っている兄弟姉妹のために祈り執り成して行きたい。
この終わりの時代において、いかなるときでも福音を伝える皆さんでありますように、イエスの名によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:暴力的な混沌の中で(使徒7:54-60):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

人々は確かにステファノの話に心刺されたのだが、刺された心の持って行き場は「悔い改め」ではなく「憎悪と殺意」であった。

この殺意に満ちた権威ある訴訟人達は、口々に叫びながら彼に殺到し、彼は多くの腕に掴まれ、殴られ、もみくちゃにされ、外に引き摺り出され、よってたかって石を投げつけられた。
そのように暴力的な混沌の中で、ステファノはどうだったか。
「ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。
それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。」(使徒7:59,60)

彼がこんなにも平安に満たされつつ眠りについたのは、なぜか。

天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見つめていたからである。(55節)

世の中の人々が、あるいは呪いに満ちた被造物が、殺意に燃えて私達を取り囲む事があるかもしれない。
そういう状況でもステファノのように平安を保つには、天を見つめ、イエスを見つめる事である。
「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:39)

子供の頃この箇所を読んだ時、こんな、自意識がどこかに行ってしまっているような、あぶない人間にはなりたくないと思った事もあった。
しかし、大人になるうちに、人生の色々な経験をし、自意識がどこかに行ってしまっている、あぶない、などと評価する事で自分を保とうとする事が出来なくなる時が来て、結局、はるかに弱くてあぶない自分に気付いて、打ちのめされた。
私達は生きていく上で、人々の憎悪の的にされ、のけ者にされ、迫害に遭い、戦いに直面する時が来る。
ステファノが石に打たれている場面のように、もはや自分の力ではどうしようもない状況となった時でも、揺るがされない平安を与えてくださるのが、イエス様である。
最近、イエス様を主とするようになってから、ステファノ程ではないにしても、困難な場に置かれてもその平安が支配するようになってきた。
事実、地震の中でも、テレビを通して入ってくる恐ろしい情報を聞くにつけても、その主から来る平安は乱されていない。

あくまで自分を主に明け渡したくないと思うならそれでも良いが、そういう人達は、この日本の危機的状況に太刀打ち出来ていないのではないか。
私達の主イエス様を見つめているなら、人生のあらゆる困難に対して、平安の内に対処することが出来る。

さて、ここにサウロという人物が出てくるが、彼こそ後のパウロであり、新約聖書の大部分を書いた本人である。
彼はパリサイ人として高度の教育を受け、律法に関してはそこいらの人達以上に熱心に守っていたが、律法の言っていることが正しいと認識していながらも、守りきれない自分にみじめさを感じていた。

そんな彼がステファノの処刑に立ち会った時、衝撃を受けたのではなかろうか。
こんな殺意を持った群集に囲まれ石打に遭っているのに、なお御使いのような満ち足りた表情をして、石打をしている人達のために祈ったのだ。
それも見たところ、人間的ながんばりや、無理やりではなく、心の奥底から溢れる熱情に突き動かされて、である。
サウロは相当悔しかったのではなかろうか。
律法を守り、一生懸命神に仕えて来たはずなのに、彼自身が望んでも得ることの出来なかった聖なる性質、義なる性質を、この新興の異端集団が、ごく自然に体現している。

サウロはその後、教会を迫害する者になるが、さらにその後、彼自身が主イエスと出会い、迫害者サウロから伝道者パウロへと造り変えられた。
そして最後に、彼もステファノのように殉教するが、彼も終わりまで平安満たされていたようである。

主イエス様を見つめる者は、ステファノもパウロも、そして皆さんも、同じように平安に満たされるのである。
彼らのように、とまでは行かずとも、日々のあらゆる小さな困難や迫害において平安が保たれる。

日々、主の平安によって満たされ、終わりまで満たされたまま生を全うできる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祈ります。

礼拝説教メッセージ音声:神殿とは(使徒7:44-53):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

ステファノはなぜ捕られられ、最高議会で弁明しているのかというと、偽りの証人によって「彼がモーゼと神殿に対して冒涜の言葉を吐いた」「ナザレ人イエスはこの神殿を打ち壊しモーセの慣例を変えるだろう、言うのを聞いた」という訴えが彼に対して為されたためである。
そこで彼は、神はいかにイスラエルを立ち返らせようとして来たか歴史を紐解き説明するが、その内容は聞いている者達の耳障りの良いものではなく、いかにイスラエル民族が神に逆らってきたか、という歴史であった。

今日の箇所には、荒野の幕屋から神殿に至るまでのいきさつが説明されている。
神殿の前身は荒野の幕屋で、ヨシュアの時代にこの地に持ち込まれ、ダビデが神殿を建てたいと願ったものの、建てたのはソロモンだった。

祭司長達や律法学者達は礼拝祭儀施設として神殿を大切にしているが、建物よりもっと大切にしなくてはならない事柄を、彼らは疎かにしている。
「いと高き方は人の手で造ったようなものには住まない。」(48節)
イエス様は「この神殿を壊してみよ、三日でそれを立て直す。」と言われたが、それは建物の事ではなく御体の事を言われたのであって、まことの神殿は人の手による建造物ではなく「からだ」であり、神を敬いイエスを信じる一人ひとりである。

49,50節はイザヤ66:1,2の引用であるが、そこには
「わたしが顧みるのは、苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人。」(イザヤ66:2後半)
と書かれてある。
主は神殿という建物や場所よりも、そこに集う礼拝者の御言葉を恐れ敬う心をご覧になる。
主は教会という建物や場所よりも、召しだされた者達がいかに霊が砕かれ、キリストに明け渡しているかを、ご覧になられる。

神殿を建てようという思いが最初に起こされたのは、ダビデであった。
彼は、神様のために幕屋ではお粗末だから、もっと立派な建物を建てたいと思ったのかもしれないが、主は
「あなたがわたしのために住むべき家を建てようというのか。」「むしろ牧場の羊の群れの後ろからあなたを取って、わたしの民イスラエルの指導者にした」(2サムエル7:5-8)
と言われた。

ダビデは力がついてきたから神殿を建てたいと思ったが、そのダビデを羊飼いから王へと仕立て上げ力をつけたのは、神である。
人が神のために家を建てようなどと言うのは、おこがましいのだ。
私達人間がすごいから神様がついてきたのではなく、神様が憐れみをもって選ばれたからこそ、イスラエル民族があるのである。

ステファノの説教ははじめから終わりまで、神様視点でのメッセージであった。
それに対し、神様に逆らってきた者達の視点はずっと人間中心、自分中心だった。
そのような視点だから、預言者の言う事が気に食わないと言って殺してきたし、
主の御旨に気付く事無く、預言者達が殊更に告げてきたメシヤさえも、十字架につけたのだ。

「今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。」(7:52)
ステファノはたった一人で、大勢の地位の高い人達を糾弾した。
結局その時代の人達は悔い改めるに至らず、その後、ローマ兵に囲まれ滅ぼされてしまった。
私達は彼らのように、自分中心に御言葉を塞いで心頑なにしてはならない。
御言葉を聞く時は、私達に都合が悪かろうと、耳障りが良くなかろうと、謙虚に受け入れるべきである。

御言葉をそのまま受け入れる皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します。

礼拝説教メッセージ音声:荒れ野に放置される者達(ヘブル3:7-19):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

ヘブル3章にはモーセの時代、神の安息に入れた民と入れない民の違いについて、明確に書いてある。
かの時代、イスラエルの民は信仰によってエジプトを出、約束の地、安息の地を目指しているはずだったが、行く途中に多くの者達が不平不満を言い、他の民の心を挫いた。
やれエジプトの方が良かった、ここにはマナしか無いじゃないか、モーセはこの荒れ野で我々を殺すつもりだ、などなど。
ある時は、モーセを石で撃ち殺して別の指導者、別の神を立ててエジプトへ戻ろう、と言い出す始末だった。

なぜ「心を頑なにしてはならない」「試みてはならない」と書いてあるのか。
それはもちろん、死なないためであり、安息に入るためである。

夫婦生活について、結婚を前にした男女向けにこのような例えがある。
夫婦生活は、命綱をペアで繋いで山を登っていくようなものである。
二人で同じ目標を目指して力を合わせて登って行き、片方が滑っても片方が支えて行くなら、無事目的に到達できる。
相手だけに頑張らせて、自分は全く努力せずブラブラぶら下がるつもりでいるなら、結婚は考えないほうが良い。
もしあなたが頑張っているのに、相方は何も努力せず、いつも命綱にブラブラして「おなかすいた」「ねぇかまって」と言ってばかりいたら、どう思うだろうか。
この荒れ野で不平不満を呟いていた者達は、今にも崖から落ちそうなのに命綱でブランコ遊びしていたような者達である。

主は確かに恵み深く憐れみ深いが、期限がある。
40と言う数字は試みの数字であり、これに耐え抜いたヨシュアとカレブは幸いだった。
頑張っている人達の心を挫いた者達を主は荒れ野で滅ぼしたように、命綱でブランコ遊びしているような者達は、主ご自身が命綱を切って、落として行く。

そのようにならない為に、私達には12,13節の御言葉が与えられている。
「兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。
あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。――」
兄弟姉妹のうち誰かが罪に惑わされて頑なになるのであれば、兄弟姉妹みんなで真剣にその人を立ち直らせる努力をすべきである。
それは「今日」と言われている日のうちである。
「その日」が明けないうちに立ち直らせないと、罪や頑なさが、その人に定着してしまうからである。

荒野で滅ぼされた人達は、神様の提示された御言葉を退けて、あくまで自分の主張をし通した者達である。

17節「いったいだれに対して、神は四十年間憤られたのか。罪を犯して、死骸を荒れ野にさらした者に対してではなかったか。」

兄弟姉妹の心を挫いて命綱にぶらぶらぶら下っている者は、
死骸として荒れ野に晒されたまま、置いて行かれ、
他方、信仰によって一歩一歩前進して行く者達には、安息が近づいてくる。
「このようにして、彼らが安息にあずかることができなかったのは、不信仰のせいであったことがわたしたちに分かるのです。」19節
皆さんは死骸として置いて行かれる者達だろうか? それとも安息の地に向かって一歩一歩全身し安息を勝ち取る者達だろうか?
それは、皆さんの信仰次第である。

信仰の歩みを日々為して、安息の地に入れる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって、祝福します。

礼拝説教メッセージ音声:心を空白にしておくなかれ(マタイ12:43-45):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

悪霊は人を住まいとする。
主がたとえ話で話された悪霊は、何らかの理由でその人から出てきた。
悪霊は水の無いさまざまな場所を出歩いて休みを得ず、元いた所に戻る事にした。
戻ってみると、そこは空っぽで掃き掃除がされており、飾りつけがしてあって(岩波訳)、悪霊にとって住み心地が良い状態になっていた。
そこで、自分よりもたちの悪い7つの悪霊を連れて来て住み、その人の状態は、前よりも悪くなった。

悪霊にとって心地よく住みやすい場所と言えば、イザヤ34章、エドムの廃墟である。
エドム(ヤコブの兄エサウの子孫)は神の民イスラエルに悪事をはかったため罰が下り、廃墟となる預言がそこに書かれてある。

エサウの性質は、神に属する栄光の家系を継ぐ権利を軽んじ、一杯の食物でそれを売るものである。
彼は、王族の栄えある系列の権利を退け、すぐに無くなる食べ物、肉の欲を取ったため、栄光の家系から外されてしまった。
さらに後には、栄光の系列を受け継いだ者に敵対する者となり、裁かれ、滅ぼされ、悪霊の住処となってしまった。

皆さんは以前は世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者に支配されていたかもしれないが、今やキリストを信じ、神に属する栄光の系列とされ、聖なる国民、王族の祭司とされた。(エペソ2章)
もはやエサウのように、その尊い権利を退けて一時の肉欲に自分を売り渡してはならない!
そうしてしまうと、神の民から除外され、神の民に敵対する側となり、裁かれ、滅ぼされ、悪霊の住処となってしまう。

一度でも、魔がさして罪を犯してしまったらもう2度と立ち直れない、という事ではなく、普段、何で心を満たしているかの問題である。
キリストに心を満たしているなら、1度や2度の罪を犯しても元に戻る余地は十分あるが、心を空白にしたまま悪霊の好む飾りつけをしているなら、悪霊に付け入れる隙をいつでも与えてしまっているのである。
心の内は、キリストを豊かに住まわせておくべきである。

(以下、エペソ3:16-21を元にした祈り)
イエスキリストが、力をもって皆さんの内なる人を強めて下さいますように。
皆さんが、信仰によって心の内にキリストを住まわせ、愛に根ざし愛にしっかりと立つ者としてくださり、神の全き充満へと満たされますように。
心が空っぽのまま悪霊の飾りをして放って置くのではなく、キリストの栄光の香りで内側が豊かに満たされますように。
皆さんがキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてに与り、それによって満たされますように。
皆さんの内に働く御力によって、求めたり思ったりする事、全てをはるかに超えて、叶える事のおできになる方に、栄光が世々限りなくありますように。
イエス・キリストの名前によって。アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:神の所にかくまわれて(コロサイ3:1-11):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

「あなたがたは死んだのだし、またあなたがたの命はキリストと共に神の内に隠されたまま」(コロサイ3:3 岩波訳)
キリストと共にあるのであれば、彼と共に神の右に座しており(1節)、私達のいのちも神のうちに隠されたままなのである。
だからそこ私達の本質的な居場所は「上」であり、アイデンティティの置き場は、キリストと共なる天の王座である。

「しかし神は、憐れみに富んでいるために、私たちを愛したその絶大な愛のゆえに、もろもろの過ちのために死んでいた私たちをキリストと共に生かし ――恵みによってあなたがたは救われている ――、キリスト・イエスにおいて共に起こし、共に天上の座に着かせて下さった」(エペソ2:4-6)

今私達は、キリストと共に天上の座に着いてる。
そこは権威を発布する座であり、そこから発布された命令には効力がある。
私達はキリストにあって地で繋げば天で繋がれ、世に対し、サタンに対し、この呪われた大地に対して、いのちを命じるという尊い特権が与えられている。
それは一方的な恵みによるのであり、当然、私達が相応しいからではない。
彼と共に王座に着き、新しい人という王族のローブを着せられたからには、物乞いであった時に身に着けていた穢れに満ちた外套は捨てていなくてはならない。

「地上に属するもろもろの肢体を死に至らしめなさい、淫行、不浄、情動、悪しき欲望、それに貪欲 ――これは偶像礼拝である」(5節)
偶像礼拝とは貪欲であり、この「貪欲」は定冠詞つきで、元の意味は「より多くを持とうとする所有欲」。
地震の時、スーパーから食品が消え、今では水が危ないという事で水が店頭から消えた。
必要なものを買うのは当然だが、より多くを持とうとして、周囲の人も買えなくしてしまう性質が、それである。
金銭やモノに限らず、名声や権力など、身分相応以上に欲しいという肥大化した所有欲や、「誰々を自分の思い通りにしたい」「あの子が他人と仲良くするのは許せない」という歪んだ独占欲も含まれる。

人やモノ、金、権力などを、より多く持ちたいのは何故か?
それは当然、それを頼りにしたいからである。
これがなぜ偶像礼拝と言われているのかというのは「神様よりもこれの方が頼りになる」という考えだからである。

「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」(1テモテ6:17)

私達はキリストイエスにあって良き行いをするように召されている。
古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着、神の所にかくまわれた平安な信仰で生きていく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します。

礼拝説教メッセージ音声:決して引き離せない(ローマ8:31-39):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

悩んでいる事を聞いて聞いてあげたり祈ったりした時はスッキリするけれども、家に戻ってみると、依然として思い悩む心が沸き上がってくる、という事がたまにある。
問題の解決は、誰かに祈ってもらうよりも、むしろ、その人自身が「何を信じているか」によって左右される。

私はそのような時、「あなたは誰を主としていますか?」と聞く事にしている。
そう聞くと大体の人は意外な表情をする。
しかし、どのようなお方を主としているか、というのが実はとても大切である。

ある人は「神様」を主としていると言うが、神様と呼ばれるものは世に沢山ある。
願いを叶えてくれる神様、やさいし神様、学業や恋愛成就の神様などなど。
しかし私達が主とすべきは、明確にイエス=キリストである。

イエスが主です、と言っても、その行いや醸し出す雰囲気に平安が感じられない場合、私は疑ってかかっている。
イエスと言っても聖書には「バラバ・イエス」や「バルイエス」、キリストでない「イエシュア」など、同名は多数いる。
私達の主イエス様は、死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であり、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださる。(34節)

私達は、この主イエスと共に御座に座している者だ。(エペソ2:14)
キリストは死から勝利し、いつも共におり、私達の内におられる。
そして彼の愛から私達を引き離すものは被造物の中には何もない。

行き詰まることは確かにある。
しかしこれら全ての事の中にあって、私達を愛してくださるお方にあって、輝かしい勝利を得る事ができるのだ。

「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:38)

そのイエス様にあって、平安を保つ皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:共に天の王座に着かせられ(エペソ2:1-10):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」(エペソ2:6)

この言葉はそのまま聞くと、にわかには信じられない言葉だが、御言葉はそのまま受け入れるべき真実である。
イエスを主とした者は皆、間違いなくキリストと共に復活され、共に天の王座に着かせられている。

王座とは、権威を行使し、命令を発布する所である。
キリストと共に権威の座に座している時、限りない平安の内に権威ある言葉を語る事が出来る。
このエペソの御言葉はサタンが非常に嫌う所で、あらゆる手段、あらゆる思いの吹き込みによってそこから逸らそうとする。

もしサタンが
「天の所に座している?おまえのような罪人が?!ふざけるな!」
といった偽りの思いを吹き込んだとしても、
「御言葉にはこう書かれてある」
と言って対抗すれば、サタンは去っていく。
御座においては、世も、サタンも、この呪われた被造物も、イエスキリストの名によって支配されるのだ。

なぜ私達にこんなに特権が与えられているのか。
それは、私達自らの力や権力に拠らず、一方的な恵みによる(8節)。
自らの何かによって、大自然やサタンに対抗するなら、当然やられる。

サタンはかなりしつこく思いに攻めてくる。
「あの時ああしたじゃないか、こうしたじゃないか」
悪いことに、サタンの突く事には確かに心当たりがある。
しかし、私達にとってまことに都合が良い事に、私達の何かに拠って戦うのではなく、キリストイエスによって戦うのである。

行いに拠るのではない。行いによるのであれば到底不可能。
皆さんは恐らく昨日も一昨日も、罪を犯した事だろう。
私達が戦っていくのには、いかに力をつけるかではなく、どの立場に立つのかである。
私達が立つべきは、主イエスと共に、天の王座にである。

この天の御座から迷い出たりする事が無いように。
世に対し、サタンに対し、そして呪われた被造物に対し、主イエスの名によって命じる皆さんでありますように。
イエスの名によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:祭りを祝えず悲しむ者を集める(ゼファニア3:14-20):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

「その日、人々はエルサレムに向かって言う。「シオンよ、恐れるな、力なく手を垂れるな。
お前の主なる神はお前のただ中におられ、勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ、愛によってお前を新たにし、お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」(ゼファニア3:17)

この希望に満ちた言葉は当然、誰にも彼にも、というわけではなく、悔い改めて主を呼び求める者に対してである。
実はゼファニア書の大部分は、恐ろしい災いの預言に満ちている。

ゼファニアはヨシヤ王の時代に活躍した預言者で、この王は自国から徹底的に偶像礼拝を取り除いたが、その前の王達は、偶像礼拝を広め、強い者達が弱い者を虐げる暴虐に満ちた時代であった。
それ故ゼファニアも、そのような者達に主の怒りの火が下ると1-3章まで預言してきたのである。
神はいてもいなくても同じ、と思っている人(ゼファニア1:12)は、恐ろしさを本当に知らない。
地獄は、確かにある。
私達はライターで簡単に火を点ける事ができるが、地獄ではそれよりも何倍も熱い硫黄による火が見える限り一面に広がり、サタンや偽預言者、イエスを主としない者達がそこで永遠に苦しむのである。
しかし、主は悪い業を悔い改め、心から主を呼び求める者を喜びとし、楽しみ、歌って下さる。
子を持つ親にとって、子供は存在だけでも喜びであるように、主イエスを信じる者は神の子とされ、子とされた者は特別扱いされる。

主は、信じる者のただ中におられ、どこにおいても救いの勇者であり、勝利を与えられる。
たとえ一人であっても、暗闇の中で寒さで震えていても。

「わたしは、祭りを祝えず苦しめられていた者を集める。彼らはお前から遠く離れ、お前の重い恥となっていた。
見よ、そのときわたしは、お前を苦しめていたすべての者を滅ぼす。わたしは足の萎えていた者を救い、追いやられていた者を集め、彼らが恥を受けていたすべての国で、彼らに誉れを与え、その名をあげさせる。」(3:18、19)

誉が与えられる者とは、主の祭りが行えないという事で苦しむ者達であり、主の祭りを祝えなくてもどうも思っていない者達に、誉は与えられない。
主を慕い、主の祭りを行えずに苦しんでいる者達には、主がプライドにかけて恥を除き、苦しみを取り払って下さる。

「そのとき、わたしはお前たちを連れ戻す。そのとき、わたしはお前たちを集める。わたしが、お前たちの目の前で、お前たちの繁栄を回復するとき、わたしは、地上のすべての民の中で、お前たちに誉れを与え、名をあげさせると、主は言われる。」(3:20)

主を恐れる者には、どのような災いの地においても繁栄を回復させ、地上における誉れとして下さる。

地震以来の1週間、主に信頼を置く皆さんを見て、世の人達は驚いたのではないだろうか。
こんな恐ろしい時世なのに、何故こんなに差別的に守られ、心に平安が保たれているのか、と。
主は、信じた者をプライドをかけて守ってくださり、誉れを与えて下さるからである。

その主に拠り頼み、苦しみには慰めを、恥には栄誉を、貧しさには富を、逆に頂く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します。

礼拝説教メッセージ音声:小羊の血(出エジプト12:21-23):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

モーセは、イスラエル民族を奴隷解放し、主に礼拝させよと、9度もファラオに促した。
にもかかわらずファラオは頑として聞かず、あくまでイスラエルを奴隷として囲って置きたかったため、全ての長男が死に絶えるという、最後の恐ろしい災いが下される事になってしまった。
その恐ろしい災いから唯一救われる方法は、小羊の血である。

主が定められた救いの方法は、大切な1歳の傷の無い小羊を、その家族が滅ぼされないための犠牲の小羊とし、屠り、流された血を門の両脇と鴨居に塗る。
その夜、滅ぼす者が町を行き巡る時、滅ぼす者は家の出入り口に小羊の血を見たら、その家を過ぎ越した。
その子羊の血の印の内側で、種を入れないパンと焼いた子羊を食していた者達は、身分の上下や国籍を問わず、災いは及ばなかったが、子羊の血を塗っていない家は長男が死に絶えた。。
この生きるか死ぬかの重要な分かれ道は、小羊の血である。

今、私達にとって小羊の血とは、イエスの血である。

イエスの血は人の罪を清めるだけでなく、この血が塗られた者すなわちイエスが主である事を信じた者には、災いを下してはならない、という徴なのである。
今、日本では悲しむべき災害が起きてるが、イエスの血を宣言する事によって、永遠の滅びから救い出される。
ほふられた小羊なるイエス様は、今も、執り成しの祈りを捧げているのだ。

私達も、子羊の血を宣言し、自分自身に、家の両脇と鴨居に、愛する家族や友人にイエスの血を宣言し、災いが及ばないよう、執り成しの祈りをすべきである。

人に害為す災いから救い出される者とは、全能の神の陰に宿る人(詩篇91編)すなわちイエスの血の下に集まる人である。
その人は、暗黒の中を行き巡る疫病も、真昼に襲う病魔からも守られる。
御言葉は信仰を持って宣言すれば、実体化して豊かないのちの実を結ぶ。
その信仰は大層なものは必要なく、からし種ほど、すなわち、鉛筆の先っぽほどの大きさあれば十分である。

以下、詩篇91編の御言葉の空欄部分は、元々は「あなた」もしくは「彼」ですが、ここに皆さん自身や皆さんの大切な人の名前を置き敢え、執り成しの祈りをしましょう。
人生のいかなる大きな山も、主と共にであれば恐れる事無く進み行けます。

1 いと高き神のもとに身を寄せて隠れ、全能の神の陰に宿る____よ
2 主に申し上げよ、「わたしの避けどころ、砦、わたしの神、依り頼む方」と。
3 神は____を救い出してくださる、仕掛けられた罠から、陥れる言葉から。
4 神は羽をもって____を覆い、翼の下にかばってくださる。神のまことは大盾、小盾。
5 夜、脅かすものをも、昼、飛んで来る矢をも、恐れることはない。
6 暗黒の中を行く疫病も、真昼に襲う病魔も
7 ____の傍らに一千の人、____の右に一万の人が倒れるときすら、____を襲うことはない。
8 ____の目が、それを眺めるのみ。神に逆らう者の受ける報いを見ているのみ。

9 ____は主を避けどころとし、いと高き神を宿るところとした。
10 ____には災難もふりかかることがなく、天幕には疫病も触れることがない。
11 主は____のために、御使いに命じて、____の道のどこにおいても守らせてくださる。
12 ____らは____をその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る。
13 ____は獅子と毒蛇を踏みにじり、獅子の子と大蛇を踏んで行く。

14 「____はわたしを慕う者だから、____を災いから逃れさせよう。わたしの名を知る者だから、____を高く上げよう。
15 ____がわたしを呼び求めるとき、____に答え、苦難の襲うとき、____と共にいて助け、____に名誉を与えよう。
16 生涯、____を満ち足らせ、わたしの救いを____に見せよう。」

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