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メッセージ - 講解説教(新約)カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:落ち着いて信頼し力を得る(イザヤ30:15-17):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

「お前たちは、立ち帰って/静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」と。しかし、お前たちはそれを望まなかった。
お前たちは言った。「そうしてはいられない、馬に乗って逃げよう」と。それゆえ、お前たちは逃げなければならない。また「速い馬に乗ろう」と言ったゆえに/あなたたちを追う者は速いであろう。」

「立ち返って静かにしているなら」
これは、じっとして動かなければ救いが自動的に降ってくるというものではない。
「立ち返って」とは、注視する対象を、世から離し神様に向け直す事である。
「信頼している事こそ力がある」
信頼する対象は神様であり、神様を信頼しているなら平和がある。

イザヤ30章は、当時における強大で頼もしい国、エジプトと同盟を結ぼうとした者達に対する預言である。
災いという「追っ手」が来るのなら、早い馬に乗って逃れよう、というのが世の人であるが、災いという「追っ手」は尚、早いものである。
それに比べ、我々御国の人は落ち着いて主の御声を聞く者達である。

主の御声は、世から流れてくる言葉によって荒れ狂っている状態では、聞く事が出来ない。
一昨日、トイレットペーパーが無くなったため買いに行って見ると、全く無くなっていたばかりか、カップラーメンコーナーは根こそぎ無くなっていた。
その時はポテトチップスはあったものの、昨日はそれすら無くなっており、サラダ油も無くなっていた。
いざと言う時はサラダ油も火の燃料になる事がメディアで言われたためである。
人は「これが救いだ」と言われるとサラダ油にさえ飛びつき、それが無いのを見ると、不安になったり悔しがったりするものである。

そうした諸々をすぐに買えなかった事は情報収集力や知識の弱さだったかもしれないが、そんな弱い我々にさえも、主はきちんと必要を満たして下さったばかりでなく、聖徒達の暖かい心遣いや楽しい交わりもおまけとして与えられた。
主を信頼し祈る聖徒が集まる場所は、砦のような頼もしさがあった。
平和の備えの靴(エペソ6章)の上に立っていれば動かされる事は無い。

エペソ6章には神の武具を身につける事を促しているが、ここでは身につける順番が大切である。
まず、真理の「帯」を締めなくては、せっかくの武具は揺らいでしまう。
心に恐れが来た時は、御言葉を盾に取るべきである。
詩篇46編には「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。」と書いてあり、その通り御言葉に留まれば神は苦難のときの砦となって下さる。

世の中には不安を促すニュースが流れており、中には根拠の無い噂も流れている。
私達は外側の汚染よりも、頭や胸の中に忍び込んでくる汚染にまず気をつけるべきである。
頭を守るには救いのかぶと、胸を守るには正義の胸当てである。
その上で信仰の大盾を取り、恐れや不安という悪い者が放つ火の矢を打ち消すのである。

落ち着いて信頼していれば、力を得る。
この時期、恐れではなく平和の福音を告げ知らせる皆さんでありますように。
御言葉を盾に取り、守られるみなさんでありますように。
主イエスの名によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:主の名を呼ぶ者は救われる(使徒2:17-19):右クリックで保存

全ての聖徒達が最も注視すべきは、終末の徴や災害ではなく、主イエスの御名である。

地震の時、教会にいた4人は最初はイエスの名を求めて助けを求め、御言葉を宣言していたが、そのうち怒りが込み上げて来て、地震そのものに対して叱るようになりだしたら、収まって来た。
聖徒達の経営するお店も、耐震の措置は全くしていなかったのに奇跡的に物品は乱れずキレイに守られていた。
他の店を覗いて見ると物品がごちゃごちゃになっていたのに、被害はゆず茶ひと瓶だったり、倒れたのはハイヒールひとつだけだったり。
その後、皆で韓国料理屋に行ったが、その場所には御使いが一体何人陣を張り巡らしてガードしていたのだろう、という安心感があった。
聖徒達は、守られているのである。

時代は終りに入っており、天と地で大いなるしるしがこれからも現われる。
人々はそれに驚き、不安になるが、主の御名を呼び求める者は救われる。

世に来ようとしている終末において救われ守られる者とは、主の名を否まない者、イエスの御言葉を忍耐して守る者である。(黙示録3:8-10)

私達の言葉は地上で繋ぐなら天において繋がれる。

『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。
わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。
上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。
主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。
主の名を呼び求める者は皆、救われる。』(使徒2:17-19)

終わりの時代、しもべにもはしためにも私の霊を注ぐ、と預言されている。
私達には、主の霊が注がれて、守られている。
主イエスの名を否まない者、御言葉を忍耐して守る者には、実際に体が守られ、またたとえ命が奪われるような場面になっても、ステファノのように、心は乱されること無く、それどころか、迫害する者の為に取り成し祈るほどに平安に満たされるのである。

鄭先生 早天礼拝説教メッセージ音声
祈りに力をつけなさい(コロサイ4:1-6):右クリックで保存
日本語通訳有

主は、疑わず信じて祈る者に報いてくださるお方である。

いつも祈りつつもその祈りが聞かれた時は意外と信じていなかった使徒たち(使徒12:13)のようではなく、祈り求めたものは既に得たという信仰、感謝できる信仰を持つように。

この邪悪な時代において、いつも醒めた者として、知恵深く、多くの祝福の言葉をちりばめて祈り、人々に希望を与える者でありたい。

礼拝説教メッセージ音声:恥の歴史:モーセ(使徒7:17-43):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

ステファノが訴えられている理由の一つは「モーセの教えを覆そうとしている」である。
彼はモーセについて詳しく説明しているが、彼の語るモーセの歴史は、主の御前にユダヤ人にとって不利な内容であった。

モーセには実に多くの徴や不思議、明らかな神様のわざと、力ある言葉があったが、人々は受け入れなかった。
27節「誰がお前を立てて我らの指導者や裁判官にしたのか。」
この言葉は、ユダヤ人がモーセに語った言葉だが、イエス様にも語った。

そのモーセは、イエスの雛形である。
イエス様も、諸々の徴を通してお生まれになり、多くの幼子が殺された中から救い出され、エジプトで一時期匿われ、そこから抜け出して来た。
イエス様は、言葉にもわざにも力があり、明らかな奇跡でもって神から遣わされた者である事を証明したにもかかわらず、人々は彼を退けた。

モーセはイスラエルに預言して言った。
「神は私を立てられたように、あなたたちの兄弟の中から、一人の頚言者を立てられるであろう」(37節)
ユダヤ教の人たちは現代でも、モーセの預言したこの預言者を待ち望んでいるが、それはイエスであり、彼こそ天と地の間に立ち、御父と私達人間の間に立つ中保者である。

モーセは契約の石板をいただいた時、群集は好き勝手に、手で作った偶像を礼拝し、楽しんでいた。
そこで神様は彼らに背を向け、好き勝手のままにして、滅びるままにさせた。

このように、ステファノは、ユダヤ人は尽く神の立てられた預言者に逆らって来た事を証言し、
彼らが誇りにしてきた自分達の「言い伝え」が、いかに好き勝手なもので、荒野で民が作った偶像と同じであるかという事を、明らかにした。

一見するとステファノは、大勢対一で告発され、罪定めされているかのように見えるが、しかし彼は歴史と御言葉を盾に、天においては、逆に告発し罪定めしているのである。

私達も真理を盾に訴えなくてはならない状況がある。
もちろんステファノのように、大勢対一ではないかもしれないし、命の危険がある場面ではないかもしれない。
彼が真理を語った報酬は死であったが、我々の場合はそうではなく、改心と感謝の涙に溢れているかもしれない。

いずれの状況であっても、御言葉を盾に、御霊に満たされ、力と知恵に満ちた言葉で語る皆さんであります様に。
イエスの名によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:恥の歴史:アブラハム〜ヨセフ(使徒7:1-16):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

ステファノが訴えられた内容は、彼がモーセと神に冒涜の言葉を吐き、イエスが神殿を壊しモーセの慣例を変えると言っていた、というものである。
それに対してステファノの弁明が始まったが、それは唐突に、イスラエル歴史の最も父祖であるアブラハムの話からだった。

彼の歴史観は、人間視点ではなく神視点であり、訴える者達が当然のように持っていた自民族の栄光の歴史ではなく、神に対する反逆の、恥の歴史であった。
彼らは律法や神殿を誇りとしているが、いかに神様の示された約束や救い、憐れみから反逆して来たか。

アブラハムが義とされた理由は、信仰である。
彼は行き先が分からないのに、神様の言う通り出て行き、まだ子孫も約束の土地が一幅も与えられていない時に、子孫にこの土地を受け継がせようという約束が与えられ、それを信じた。

また、アブラハムに割礼の契約が与えられた。
割礼とは肉体の一部を切り取り、神の民という印を残すものであるが「肉に頼らない」という意味もあり、また、神様への感覚が開かれているという意味もある(51節)。
つまり、神の民である所以は、神様の約束を信仰を持って受け取る事、肉に拠り頼まないという事、そして神様に対して感覚が開いた状態である事である。

しかし彼でさえ約束を信じられない時があった。
割礼の契約は彼が99歳の時に与えられたが、その前に、約束を待ちきれず、肉の力でイシュマエルを生んでしまい、割礼の契約が与えられた時、イシュマエルが祝福を受けますように、と告白している。
祝福の約束は、まだ産まれていもいないイサクに対するものだったが、神はアブラハムの不信仰も赦し、憐れみ、イサクを生ませて下さった。
イサクが産まれた時、8日目に約束どおり割礼を受けさせた。

そこから時代は飛び、イサクの子やコブの子12人の族長の話になるが、真っ先に出た話題は、族長達がヨセフを妬んでエジプトへ売った話であった。

ここで見るべき特徴は、妬みである。
ステファノを捕らえた最たる動機も、妬みだ。
ステファノのメッセージは「兄弟達、父たちよ、」で始まり、族長達は罪の無い兄弟を妬みによって売り飛ばしたが、同じように兄弟達あなた方も「妬んで」訴えるのか、と促している。

ヨセフは苦難を受けたが、神様は恵みを施して下さった。
結局神様はヨセフを通して12部族もヤコブも救って下さり、族長達の悪い行いさえも益と変えて下さった。

イスラエル民族の歴史は、罪の故に自業自得の苦しみに陥っても、神様はその苦難から救い出すという繰り返しである。
訴えた者達は、自民族を誇って来たが、実は誇れる点は、何も無いのだ。
私達は罪人であるにも関わらず、それでも恵みによって救われている者達である。

神がアブラハムを義と認めたのは、彼に何か優れた所があるからではなく、彼が「信じた」からである。
神の民たる印は割礼だが、それは肉の力に頼らない事、神に対して耳と心が開かれているという事である。

信仰によるアブラハムの子孫である皆さんも、肉に頼らず、信仰によって神様と関わり、神様に対しての感覚が開かれた者達でありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:御使いのような表情(使徒6:8-15):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

ステファノは信仰と聖霊に満ちた人で、民の間で大いに徴と奇跡を行っていた。
その彼に、外国のいわゆる会堂に属するユダヤ人達が議論を仕掛けたが、知恵と聖霊によって語ったため、太刀打ち出来なかった。
そこで彼らは人々をそそのかし、モーセや神に冒涜の言葉を吐いた、と言って最高法院に引き立てて行った。
もはやステファノに対しては、人の知識や経験では太刀打ちできないため、彼のように聖霊に満たされたキリスト者を黙らせるには、もはや偽りの証人を立てて捕らえるしか無いのである。

使徒の働きの学びをしてから、最高法院はすっかりお馴染みになってしまった。
ペテロほか使徒達は既に2回立たされたし、主イエス様も引っ立てられて行った場所で、ステファノも捕らえられて行った。

彼は最高法院にて偉い権威ある人達に囲まれ、その中に一人立たされた。
偽りの証人によって訴えが為された時、最高法院に集っていた憎悪の群集は彼に目を注ぐが、彼の顔は恐怖に怯えるどころか、逆に、御使いのように輝いた顔をしていた。
そのような状況において御使いのような表情になれるのは、必死の取り繕いではなく、聖霊によるものである。

主の証をする時は、御霊と知恵に満たされていないと、ボロが出てしまう。
人間の知恵や自分の栄誉のために福音を伝えるなら、こういった状況では対応出来ないし、御使いのような表情を取り繕おうとしても、胡散臭い顔になるのである。

イエス様は予めこう言われた。
「人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く、、、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。」(ルカ21:12-15)
私達はそのような状況において、がんばる必要は全く無い。
イエス様ご自身が口の言葉を与えてくださるから。

使徒7章は、非常に長いステファノのメッセージになっている。
アブラハムから始まり、モーセ、ダビデまでの歴史であるが、それは最高法院の者達が好きな栄光の歴史ではなく、父祖達が預言者や神の立てた者達に逆らってきた、恥の歴史であった。
ステファノは、メッセージを語ったがゆえに殺される。
このメッセージによって、悔い改めやリバイバルが起きる事は一切なく、一人残らず彼に歯軋りし、そして彼を殺すのである。

全ての義人たちの血はこの時代に降りかかる、とイエスは言った。
その通り、ステファノを殺した者達の時代のすぐ後に、エルサレムは包囲され壊滅し、義人達の血が降りかかった。

ルカ21:17-19「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」

世のどんな荒波、どんな歯軋り、悪意、偽りに晒されても、霊肉ともに髪の毛一本すら乱されない程の御霊の満たしを与えられますように。
イエス様の名前によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

礼拝説教メッセージ音声:12弟子の非道い(?)決議(使徒6:1-7):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

弟子達が増えるにつれ、教会にある問題が持ち上がった。
古今東西、教会には人間が集まる故、問題は付き物であるが、初代教会においてどのように問題を解決して行ったのか、またどのような事に優先順位を置くべきなのか、この箇所から多くを学ぶことが出来る。

問題とは、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して、自分たちのやもめらが、日々の配給で、おろそかにされがちだ、というものであった。

人は何かと文化や言葉が違う者を理解するのが難しいものだが、当時の彼らにはそればかりでなく深刻な問題を生みやすい要素があった。

ギリシア語を話すユダヤ人とは、ローマ所属州の各地に住んでいる者達である。
なぜ外国に住んでいるのか、色々な理由があった。
ユダヤ近辺で商売するよりも、外国でするほうが儲かって裕福な生活が出来たり、ユダヤの堅苦しい文化を出てヘレニズム文化という当時としてはハイカラな文化を求めて行ったり、あるいは外国人と結婚してその地に住み着いている、といった理由である。

民族意識が強いヘブライ語を話すユダヤ人からすれば、そのような者達は神の民を捨てた、軽薄な、いけ好かない者であり、
ギリシヤ語を使うユダヤ人たちからすれば、彼らは頭の固い、古臭い、ダサい者達であった。
あまり仲がよろしくない集団が混ざり合っていたわけである。
そして、一方のやもめ、援助すべき弱者が、見過ごしにされている、というのだ。

人権意識の進んだ、上から下までクレーム対応第一の現代において、このような事が起こるとすれば、真っ先に取り組んで解決したい問題ではある。
12弟子はどのように問題を解決して行っただろうか。

12弟子が真っ先に語った言葉は、弱者を大切にしましょうとか、民族や文化の差別の無くしましょうとか、皆さんもっと仲良くしましょう、といった、現代人なら真っ先に考え付くようなものは全く無く、「神の言葉をほうって置いて、食事の奉仕をするのは良くない」である。
さらに3,4節、
「そこで兄弟たちよ、霊と知恵に満ちた評判の良い人達を、7人探し出してもらいたい。その人達にこの役割を任せよう。
他方、私達は祈りと身言葉の奉仕に専念しよう。」
邪険な見方をすれば、この12人は、この問題を別の人達に丸投げし、私達は別の事に専念しよう、とも見れる。
ヒューマニズム主義の人達からすれば、ずいぶんひどい対応に見える。
しかし、教会という所は、ヒューマニズムという人間中心で動くところではなく、御言葉が中心となって動く所である。

ここで12人が提案した、7人の選別基準は何であろうか。

食卓の奉仕なので、現代の教会であれば、栄養や調理のプロ、弱い立場へ配慮が出来る人、諍いやクレーム処理するのに長けた口達者な人、など、その道のプロを選ぶ所である。
ところが選別基準は、3節「霊と知恵に満ちた、評判の良い人」である。
社会的地位や能力の高さがあっても、霊と知恵に満ちていない人は、落とされるのである。
また評判の良い人でなくてはならない。
教会という閉じた世界では通用しても、外の社会で通用しないような者は、落とされるのである。
これこそ、教会の働き人を選ぶべき基準である。

この12人が、重大問題を差し置いて専念したかった事は、何だったか。

それは、4節「祈りと御言葉の奉仕」である。
人権問題は誰かに委ねて自分は祈りと御言葉の奉仕の方を優先するのは、世の考え方では「ひどい」かもしれないが、しかしそれがエクレシアにおける要職者の取るべき選択である。

エクレシアの主だった人達が祈りと御言葉の奉仕に専念し、霊と知恵に満ちた評判の良い人々がその奉仕に当たった結果、どうなったか。

7節「神の言葉は広まっていき、弟子達の数は猛烈に広がって行った。」
そして、使徒達を迫害していた祭司達さえも仲間に加えられていった。

今日、教会においてこのような増え広がりが無い原因は、教会で要職にある人々が、祈りや御言葉よりもヒューマニズムを優先させたり、
働き人として、霊や知恵に満ちていない者、社会で評判の良くない者が就いたりしているからである。

私達が評価すべきは、霊と知恵に満ち、そしてその実である評判の良い人である。
優先すべきは、祈りと御言葉の奉仕である。
これは教会においてだけでなく、家庭においてもこの優先順位を守るなら、大いに祝福される。

祈りと御言葉に専念し、大いに祝福される皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

礼拝説教メッセージ音声:イエスの名は永遠に(使徒5:29-42):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

サドカイ人達はペテロ達に再び尋問した。
イエスの名を語ってはならないと言ったのになぜ語ったのか、しかもイエスの血の責任を我々に転嫁しようとしている、と。
そこでペテロ達がまず答えたのは、前の尋問時と同様、人間に従うより神に従うべきである事。

イエスの名によって、既に多くの徴が行われており、それだけ明らかに、イエス様の名に力があると示されているのだから、本来、イエスを信じて然るべきである。
にもかかわらず、なおこの世の富や権力に目を奪われ、激しく怒り、殺そうとまで思ったほど、彼らの存在が邪魔で、自分達の立場や教えは大切なのである。

この人達はたまたま、自分の王座の根拠をサドカイ派という派閥や既得権威に置いていたが、人間、誰しも自分や自分の属するものが王であって欲しいもので、まことの神を脇に置いてでも、それを頑なに握り締めるものである。
しかし、神様に与えられた救いの道は、一つしかない。
自分の握り締めている王座を手放し、イエスに明け渡す事である。
このイエスの名の他に、救いの名は無い。

さて、ここに民全体に尊敬されている律法の教師ガマリエルというパリサイ派の指導者が、最高法院に立ち、次のように提案する。

人間が自分の主張をして人々を先導するのであれば、いつまでも続かないものである。
かつてテウダスという者が自らを預言者と騙り、大いなる事をしてみせると言ったが、結局滅ぼされた。
またガリラヤ人ユダという者はユダヤ民族意識を高揚する正論によってローマへの反逆を煽ったが、結局彼も滅ぼされた。

ガマリエルはさすがに人々から尊敬を受けるだけに、人間から出るものは必ず滅びるし、神から出ているものは永遠に残る、という知恵を語ったのである。
しかももし、キリスト者達が神から出ているなら、あなたたちほうが神に敵対する者となる、と。
実にその通りである。
人類歴史において、色々な政治家宗教家が現れては消えていったが、人間由来で人々を自分の下に引き寄せるというわざは、永遠には残らなかった。
それに引きかえ、弟子たちの行為は神から出ていたため、この2000年来、この教えはずっと増え広がり、イエス復活依頼、多くの人々を造り変え、人生を良い方向へと導いて行った。
福音は、神から出ている事は、もはや明らかなのである。

最高法院の人達は弟子達を呼び出し、鞭を内、イエス様の名で語ってはならないと命じた上で釈放した。

この弟子達は、御名のために辱しめをうけるに足る者とされたことを喜びながら、最高法院の面前から出て行った。
イエス様の名の故に辱めを受けたという事は、それほど明らかに「イエス様の弟子である事」が認められ、天においての報いは大きい事を喜んだのである。

そして彼らは釈放され、その命令を違反して、毎日イエス様の名前で福音を告げ知らせた。
定められた法律には従順に従うべきであるが、福音と相反するのであれば、福音のほうを取るべきである。
事実、イエスの名を語ってはならないというサドカイ派の定めた事はすぐ滅び、彼の伝えているイエスの名が永遠に残っている。

人々に従うのではなく、神に従う皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

礼拝説教メッセージ音声:留め置けない命のことば(使徒5:17-28):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

使徒達は、再び大祭司たちに捕まってしまった。
その動機は嫉妬であり、自分達が民の指導者でいたいのに、使徒達のほうが大いなる奇跡を行って、目立っているからである。

福音を邪魔する者の特徴として、もっとも特徴的なのは、嫉妬である。
彼らは民衆の目を気にし、相集い、自分達の権威を振りかざす事で存在をアピールする。
イエスの名によって多くの徴が行われているにもかかわらず、イエスがキリストであるという考えに結びつかないのは「我々」が第一優先だからであり、力強いあかしと奇跡に裏打ちされたイエス様の名を否定してでも、あくまで自分達が支配者の座に座っていたいのである。

ペテロは「あなたがたがキリストを十字架につけた」と、外国から来た者達にも言ったし、イスラエルに元々住んでいる者にも、道端の物乞いにも、そして祭司長達にもまったく同じく言ってきた。
全ての人がイエス様を十字架につけたのだ。
悔い改めて永遠のいのちに入れられる者とは、心刺され、イエスキリストを信じた者達である。
故に、ことさら「我々のせいにしようとしている」と読み取っているサドカイ人達は、まことに自分の事しか見ていない。

福音を伝える者達は確かに迫害を受けるが、しかし福音を留めおくことは出来ない。
どんなに牢獄の鍵をがっちりかけても、番人たちが牢の外で見張っていようとも、主はその中から救い出す事が出来る。
何のために救い出すのか。それは20節「いのちのことばを全ての民に向かって語りなさい」これが理由である。
主は、確かに聖徒達を苦しいところから助け出されるが、聖徒達が「聖徒」たる行いをする動機があれば、大いに救い出してくださる。

「いのちのことば」とは何か?
それは、ペテロが2回のメッセージにて一貫して伝えている「十字架につけられたイエスキリスト」の事である。
彼を十字架につけたのは人類全てであり、悔い改めて信じる者には、罪の赦し、永遠のいのち、約束の聖霊が与えられ、大いなる徴や不思議を成す。

祭司長達はあくまでイエスの名を語ってはならないと命じたが、いのちのことばは病や汚れた霊に苦しめられている人達を解放し、邪悪な行いをしていた者達は聖なる行いをするようになり、生まれつき歩けなかった者も、神殿に入れなかったものも、喜び踊りながら神殿に入って、神を礼拝する者となるのだ。
どうしてこの尊い「いのちのことば」を黙す事が出来るだろうか。

弱い者達が次々と壮健に変えられていくのも、祭司長達が耐えられない理由のひとつであった。
世の中の価値観では、弱者は弱者のままであって欲しい。
世の価値観は人々を束縛し奴隷状態にするが、主の価値観は、人々をいのちで満たし、奴隷から解放する。

しかし、いのちのことばは、留め置く事ができないのである。
春になれば、芽を出す。そのめは例えアスファルトに覆われていようと、突き破って行くように、いのちのことばを伝えるなら、どんな邪魔も迫害も、留め置く事はできない。

しかし、聖徒達が恐れるなら話は別である。
サタンは色々な方法を使って邪魔を試みる。
特定の人達を使って直接の妨害をする事もあるし、何かしようとしたらそれをするに当たって欠かせない物が壊れたり、あるいは、聖徒達をささいな事で仲たがいさせたりする。
サタンのその策略を見言葉の光に照らし出し、見破り、イエスの血をふりかけるなら、妨害は無効化され、より大いに主の御技を成す事ができる。

サタンの策略に立ち向かい、いのちのことばを大胆に広める皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:奇跡の力と責任(使徒5:12-16):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

主を信じる者達に対する民衆の思いはどうであっただろうか。
神殿や政治を司る者達に嫌われているし、大いなる奇跡を行うし、また聖霊を欺いた夫婦は死んだという、恐ろしげな噂もある。
何やら特異すぎる存在だったため、変化を好まない者達は彼らと一線を引き、敢えて交わろうとはしなかったが、尊敬はしていた。
他方、主を信じて悔い改める者も多く加えられており、
主を信じて永遠の命に加えられる者と、一線を引いて敢えて加わらない者という二通りに別れた。

使徒達があまりに病人を癒したり汚れた霊を追い出したりするので、病人を寝台や寝床の上に乗せて使徒達が通る道に運び出して行った程である。
そしてせめて、陰が誰かの上に落ちるようにした者もいたが、全員癒された。

主を信じた者は、影にさえ力が宿るのであろうか?

病の異やしには色々なケースがある。
ある女性は、イエス様に気付かれずに衣の房に触れるだけで、癒しを勝ち取ってしまい、これは100%彼女の信仰に拠った。
百人隊長は何キロも離れている部下を、おことば一つで癒していただき、このケースは部下ではなく彼を思う百人隊長の信仰とイエスの思いに拠った。
パウロは前掛けで病を癒し、パウロと癒される側の、信仰両方が関係していた。
これらの事から、癒す側と癒される側、あるいは取り成す者の、それぞれの「信仰」が重要である事が分かる。
影や衣の房、前掛けそのものに力が宿っているわけではなく、信仰の篭った言葉こそ、力があるのである。


前回、アナニヤとサッピラの件を見たが、この事件により、聖霊の働きの力強さと恐ろしさを経験した。
使徒達はその後も大いなる奇跡を起しているが、その大いなる奇跡を見ておきながら捕らえる大祭司達やサドカイ派の人達は一体何なのだろう。
アナニヤとサッピラは捧げ物の代金を一部をごまかしたのに対し、サドカイ人達は主の僕たちを捕らえた。
目で見る限り、はるかにサドカイ派の人達の邪悪さのほうが明らかと思われるが、この事から次の事が分かる。

主は、聖霊の御技を体験した者と、そうでない者を、区別される。

サドカイ派の人達は、奇跡は見たが、イエスというお方は信じておらず、聖霊の御わざも彼ら自身の身の上には体験していなかった。
アナニヤとサッピラはイエスを信じて、聖霊の大いなる御技を体験し、目の前で数多く見ていたわけである。
それだけの体験をしておきながら尚、聖霊を、神様を欺こうとする事のほうが、主の御前には、サドカイ派よりも邪悪という事である。

我々は聖霊を求め、力を求め、奇跡を見たいと思うが、大きな力には大きな責任も伴う。
神様はもっと大いなる事をしてくれないかと願うが、今、一人一人に与えられている分は実に相応しく、主の恵みは今、聖徒達一人一人に十分なのである。
だから、しるしそのものを求めるのではなく御言葉を求め、その御言葉に各々信仰を混ぜて語るべきである。
それこそ、主が各々に求める責任を忠実に果たしている事になるのである。

聖霊に満たされ、人々から尊敬され、主にあって力ある実技をする皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

 

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