メッセージ - 講解説教(新約)カテゴリのエントリ
礼拝説教メッセージ音声:全てを共有に(使徒4:32-37):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
使徒達の生活の様子が再び出て来るが、ここで強調されている事は、心と魂がひとつであり、一切を共有して生活し、何も自分の物とは言わない事である。
土地や家を持っているほどの者は、家や畑を売って、使徒達の足元に代金を置いた。
実に思い切った事をするものである。
なぜ彼らがそれだけの事をしたのか。
まず、イエスキリストを信じた者達はそれほど「兄弟姉妹」だったからであり、イエスキリストの通った兄弟姉妹のほうが血の通った兄弟よりも真実の兄弟姉妹なのである。
そればかりでなく、世の富が霞んで見えたからであり、売ったとしても収支が余りある大いなる恵みが彼ら一同の上にあった(33節)から、喜んでそれが出来たのだ。
さて、36節以降にバルナバが出てくる。
「訳せば慰めの子」と書いてあるが、言語的には慰めの子とは訳せない。
しかし彼の後の行動を見れば「慰めの子」の名前が相応しい事が分かる。
教会を迫害していたサウロ(後のパウロ)がイエスを受け入れた直後、教会は彼を非常に恐れていた。
そんな時、バルナバはサウロを受け入れ、使徒達の元に連れて行き、彼を仲間に加える仲介人となった。
また、後の伝道旅行の時、パウロは、以前伝道旅行を脱退して行ったようなマルコは連れて行けないと主張したが、バルナバは断固一緒に連れて行くように主張し、激しい意見衝突となり、結局二人は別のルートで行く事になったエピソードもある。
この箇所で二人は別れたが、分かれた後もパウロはバルナバを忠実な僕として認めていた様子である。
それが1コリント9:1-7 に書かれてある。
この箇所を見る限り、バルナバも独身を通していた節がある。
「私の働きの成果は、主にあるあなたがたではないか。」(1コリント9:2)
パウロもバルナバも、たとい妻や子供はいなくても、コリントの人達や世界中で伝道して得た主にある兄弟姉妹たちが子であり、父であり母であり、家族である。
主にあるいのちにつながった兄弟姉妹が増える事が大いなる喜びだったからこそ、バルナバは自分の畑も売って、主にある兄弟姉妹、父、子たちに喜んで捧げたわけである。
バルナバのように豊かに捧げ、豊かな実をたくさん得る皆さんであますように。イエス様の名前によって祝福します!
横浜天声キリスト教会 copyright 2011
礼拝説教メッセージ音声:アナニヤとサッピラ(使徒5:1-11):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
アナニヤとサッピラはたちどころに死に、その事を聞いた原初教会は大きな恐れに包まれた。
少しでも不正な心を持って捧げれば即滅びるのであれば、教会に集う多くの者は既に倒れているはずであるが、そうでもない。
なぜ彼らに、このような事が起きたのか。
アナニヤとサッピラが行ったのは、土地を売って聖徒達の足者に置いたのだから、外見的には立派な行動である。
しかし、彼らの心は「全く逆」で、心はサタンに満たされ、聖霊を欺いていたのだ(3節)。
主は、そのような事は、そのまま捨て置かず赦されない。
当時はまだ新約聖書が無かったが、この出来事によって、神様は何を望んでおられ、何を赦されないのかを、聖徒達は厳粛に知って行く事ができたであろう。
私達は日常生活において、このお金は神様に捧げ、このお金は生活のため活用する、といった仕分けをするが、それはもちろん正当な行為である。
問題は、聖徒達は自分の資産を売って一円違わずきっちり捧げなくてはならない、といったような事ではなく、「心の内をサタンで満たし、聖霊を欺く」事であって「代金を」ごまかすという行為に限った事ではない。
主の御霊を試みて、世の富に心奪われるというのは、ヨシュアの時代のアカンのように「滅び」を自分の内にとどめておくような事である。
世と世の欲望(肉の欲、目の欲、資産の誇り)は滅びるものだが(1ヨハネ2:15-17)、彼らが残しておいたものは、まさしく「滅び」だったのである。
私達という神の畑は、キリストのからだなる教会に、全て売りつくしたはずである。
キリストの血によって買い取られた代金をごまかし、肉の欲、目の欲、資産の誇りのために残してはならない。
この夫婦はその時その場に倒れたが、もし、サタンに心満たされ聖霊を欺いたままで、奉仕や捧げ物をするなら、早かれ遅かれ倒れる。
それはとても厳粛な事であり、古今東西全ての聖徒に対する戒めである。
憐れみと猶予が与えられている今、キリストの血の値は差し引きする事なく、捧げるべきは全て捧げ尽くしたものとする皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
横浜天声キリスト教会 copyright 2011
礼拝説教メッセージ音声:大胆に御言葉を語らせて下さい(使徒4:23-31):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
ペテロとヨハネは、釈放されるとコイノニヤ(主の集まり)の元へ戻り、祭司長達に言われた事を残らず報告した。
結局祭司長らは二人に何もする事が出来なかったが、もはやイエスの名によって語ったり何かを成す事も禁じられた。
弟子達は次のように祈り始める。
「天と地と海とそれらの中のすべてのものを造りたもうた主よ。」
私達の主は、天と地と海とそれらの中のすべてのものを造りたもうた主。
被造物よりも遥かに尊く、全ての人よりもはるか高い主。
これが、私達のバックについておられるお方である。
ペテロ達は「神に聞き従うよりもあなたたちに聞き従うほうが神の前に義しいかとうか、判断して下さい。」と言う事によって、
天と地と海とそれらの中のすべてのものを造りたもうた主の御前で、逆に尋問した。
人の目から見れば、主の集まりは国家権力によって脅され、尋問を受け、働きを制限されたかのように見えるが、天的にはむしろ、国家権力の方こそ、迫害され、尋問される
立場なのである。
キリストも、その弟子達も、地上の者達に逆らわれる事は定められており、使徒の時代以来現代に至るまでそれはずっと続いている。
私達はどのように祈るべきか。
「今、主よ、彼らの脅迫をご覧下さい。」(29節)
この続きは「彼らから守って下さい」でも「敵を滅ぼして下さい」でもない。
確かに主は守って下さるし、敵を滅ぼして下さるが、御言葉を語る事抜きに、守って下さいとか敵を滅ぼして下さいと祈るのは、順番が違う。
まず告白すべきは、「あなた(キリスト)の奴隷」である事と「大胆な態度で御言葉を語らせて下さい」である。
奴隷は自身の意のままには出来ず、主人の意に添うものである。
私達は以前、世の奴隷であり、暗闇の支配下にあったが、御父は私達を闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださった。(コロサイ1:13)
主イエスの奴隷であるという事は、とても麗しく、甘い事である。
「同時にあなたの御手を伸ばし、あなたの聖なる僕イエスの名によって、癒しと徴と奇蹟とを行なわせて下さい」(30節)
何の考えも目的も無く単に癒しや徴、奇跡を求めるべきではないが、「御言葉を大胆に伝えるために」であれば、躊躇無く求める事ができるし、現に与えられる。
現代に至るまで、世は相集い、国家権力さえも用いてキリストに逆らい続けてきたし、我々もそのようにされている。
時には支配者を相手にする事になるかもしれないが、私達のバックには天と地と海を創られたお方がおり、このお方にあって御言葉を語り、世を罪に定める事さえできる。
私達はもはや暗闇や死の奴隷ではなく、麗しく慕わしい御子の奴隷であり、そうであるからには私達は主の保護の内にあって御心を成すのみである。
このお方にあって大胆に御言葉を伝え、癒しと徴と奇跡とを行い、暗闇を光に、死をいのちへと満たして行く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
横浜天声キリスト教会 copyright 2011
礼拝説教メッセージ音声:捨てられた石が(使徒4:8-22):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
イエスこそ人々から捨てられた隅の親石(詩篇118:22)であり、彼の名によって人は癒され、また彼の名以外には救いは与えられていない。
この名を信じる者には罪の赦しと、体のよみがえりと、永遠のいのちが与えられ、ペテロ達を大胆に造り替えた聖霊も与えられる。
これこそ、私達がなすべきメッセージである。
ペテロとヨハネは、祭司長達の前であろうと、群集の前であろうと、「イエスの名によってでなければ救われない」と同じく宣言し、誰の目にも明らかに生まれつき足が利か
なかった者は、癒された。
この出来事の故に、多くの人達は「神様を賛美し」、イエスを信じる者はこの素晴らしい事が人に起こるのだと希望を持ち、五千人以上が仲間に加わった。
悔い改めて立ち返るならそのような素晴らしいプレゼントが与えられるが、悔い改めるという事をあくまでしない者もいる。
サドカイ派の人達の主張は、復活もよみがえりもなければ、死後の裁きも無い。
彼らは今生きている現世こそ全てだと考えている故、いかに既得権を守り、保つか、という事に苦心している。
そのような主張は、何も彼らだけの専売特許ではなく、いつの時代でも、どこにでもいる。
多くの人達は癒しの御技に希望を持ち、神を賛美したが、彼らがそれを喜ばないのには訳がある。
自分達が「上」であるために、「下」である人間が必要で、
「あなたは神殿に入れない劣った者、私達は入れる優れた者」といった、目に見える比較対照が欲しかったのだ。
生まれつき足が利かずにいる者は、神殿に一生入れないまま癒される事無く、ずっと物乞いをしていて欲しかったのである。
下の奴はいつまでも下に留まって欲しい、と思って、伸びようとする者を叩く人間は、今も会社組織に珍しくない。
彼らは、その下の階級である元漁師のペテロとヨハネに、何も言い返す事ができず、互いに評議し合って言った。
「あのような著しい徴が全住民に知れ渡ってしまった。だから、どうしよう。」
ペテロ達がイエスの名を通して人間業ではない事が行われたのを見た事は見たものの、悔い改めるという事は、頭に全く無かった。
それどころか、多くの者達がこの二人を支持したから、もし彼らを鞭打ち処刑したりすれば、自分達のほうが悪人になる、といった事を心配しているのである。
そういうわけで、彼は何も出来ず、脅した上で釈放しようという結論に至った分けである。
イエスというお方の前に、人は真っ二つに道が分かれる。
それまでの自分の道を捨てる者、固持する者。
自分を固持する者は後に失い、捨てるものは後に得る。
ペテロたちは言った。
「神に聞き従うよりもあなたたちに聞き従うほうが神の前に義しいかとうか、判断して下さい。」
彼らは尋問されているようで、逆に尋問したのである。
イエスの名によって徴が現れているのは誰も否定しようが無い。
それでもなお、イエスを否定しているあなたたちは、神の前に正しいかどうか。判断して下さい、と。
神の国の大使として、その事を立派に提言したわけである。
ペテロとヨハネは元々お調子者で、カッとなりやすい、裏切った、弱く卑怯な者達であった。
しかし彼らのこのような一連の言動と、大胆さと、知恵とは、とても人間業ではない。
御霊に満たされれば、誰でも造り替えられるのである。
御霊に満たされ、イエス様を大胆に証しする皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
横浜天声キリスト教会 copyright 2011
礼拝説教メッセージ音声:ヘタレなヤラレキャラでも(使徒4:1-14):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
サドカイ派が闊歩している神殿で、イエスキリストや死者の復活を語るというのは、十分逮捕されうる行為だったが、それでもペテロとヨハネは堂々とイエスをのべ伝え、五
千人以上を獲得した。
御言葉と聖霊にキャッチされているなら、イエスを伝えずにはおれない衝動に突き動かされ、そのような危険など霞んで見えたのである。
御言葉を伝える者は全てそうである。
そしてペテロ達は捕らえられて行った。
政治・宗教の上流階級であるサドカイ派は、民衆の捧げ物を独占的に管理し、思うままに税率を決め、時には搾取していた。
彼らが信望していたのはモーセ5書で、死者のよみがえり、死後の裁き等は彼らの信条には無く、現世的な生き方をしていたため、イエスキリストの教えとは真っ向から反す
るものだった。
彼らは健康や富が与えられる事が神の祝福であるとしていたため、生まれつき足が不自由で神殿の外で物乞いしている者は、神に呪われた者の典型だった。
そんな彼が、イエスの名によって癒され、永遠のいのちについて語られたのだから、サドカイ派からすればたまったものではない。
ペテロとヨハネは捕らえられ、そうそうたる面々の前に引きずり出されていった。
祭司長達とその一族、現代で言えば、大臣と教団長を足して割ったような地位の高い人達が召集され、大いに威儀を正し、
「一体何によってこのような事をしたのか」と、二人の元漁師に詰め寄ったのである。
普通の人間なら、それだけで震え上がるものだが、
彼らは物乞いであろうと大祭司であろうと「あなたがたが十字架につけたキリスト」を大胆に伝えた。
どんな立場であろうと、人間が救われる名前は、天の下において十字架につけられたキリストの他には誰もいないのである。
彼らがあまりに大胆に真理を語るので、祭司長達は何も言い返す事が出来ず、そして、彼らが無学な普通の人間であった事を知って驚いた。
彼らがそのように出来たのは、人間業ではなくまさしく聖霊の力による。
イエス様が本当によみがえったかどうかの根拠を見たい時は、どうしたら良いだろうか。
それは、福音書の前と後の弟子達を見ていると、良く分かる。
あれだけお調子者で3回も裏切ったペテロが、このように偉い人達の前で大胆に証しする事ができるように造り替えられているのだ。
もしイエス様が、有史以来、幾多もの現れては消えていった宗教の教祖の一人であったなら、死刑にされた時点で歴史の闇に葬り去られるものだし、ペテロのようなヘタレキ
ャラなど、裏切った時点で再び登場するわけが無いのである。
しかし主は、そんなヘタレなヤラレキャラさえも用いて、大胆な者へと造り変えて下さるお方である。
聖霊に満たされるにはどうすれば良いか。
それは、聖徒達の交わりから離れず、例え3度主を否んだとしても、再び立ち返るほどのしつこさが大切である。
イエス様にあくまで付いて行って大胆に造りかえられる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
横浜天声キリスト教会 copyright 2011
礼拝説教メッセージ音声:待ち望んでいた安息(使徒3:17-26):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
今回の癒しの徴は、かなりインパクトがあった。
およそ20年以上も毎日神殿の門前にいて施しを求めていた、神殿に行く者達にとってはいわば目印のような者が、癒されたのである。
今回のペテロのメッセージもペンテコステの時と同じで、預言者に予め語られていたキリストが中心である。
モーセは自分のような預言者が神によって立てられる事を示し、その彼に聞き従うよう命じた。
変貌山において天から語られた言葉も、モーセでもエリヤでもなく「彼(イエス)に聞け」と言っている。
モーセ以降、全ての預言者達が語っていた事が、キリストにあって実現した。
アブラハムの子らである私達は、信仰によって不完全なからだは完全にされ、罪は拭い去られ、主の御前から安息の期間が来る。
かの癒された者は、40年もの間、不完全な体のため、美しく装飾された「美しの門」の前に20年毎日運ばれても、決してその中に入ることは出来ず、捧げ物をする事も禁じられていた。
ずっと安息できていなかったが、イエス様を信じる信仰によって安息を得た。
イエスの名によって癒され、ペテロと一緒に門を入っていったその喜びは、いかほどであっただろうか。
第7日、すなわち安息日の祝いは、私達のために残されている。(ヘブル4:9-11)
安息に入るのは信仰の故であり、安息に入れない者は福音に信仰を混ぜない故である。(ヘブル4:2-5)
この足の不自由だった者は、創造のみわざが再び完成する必要があった。
みわざの完成は、イエスを信じる信仰によって成る。
不完全さは、キリストの名によって完全にされなくてはならない。
病は、キリストの名によって癒されなくてはならない。
貧しさや不足は、キリストの名によって満たされなくてはならない。
信じて、創造のみわざを完成させる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
横浜天声キリスト教会 copyright 2011
礼拝説教メッセージ音声:足なえも踊る(使徒3:1-16):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
生まれつき足の不自由な男がいた。
彼は産まれてこの方、自分の足で立った事は無く、神殿の美しの門へ毎日運びこまれ、施し物をいただきながら暮らしていた。
律法ではこのような者に施すよう言われているし、毎日運んでくれる者もいたため、結構「稼いで」いたと思われる。
彼は40歳を越えており、長い間そうして来たため、神殿に通っている人達にとって「ああ、あの男か」と分かるような、目印のような存在だったであろう。
ある日、ペテロとヨハネが神殿に入って行くと彼に出くわし、彼は何年も何千人にも繰り返してきたように施しを求めた。
普通であれば、双方あまり意に介さず、暗黙的にお金を落とし受け取る事が多い中、この二人は「私達を見なさい」と言った。
彼は当然、何かもらえるものと思って二人を見る。
ところが彼がまず聞いた言葉は「銀や金は、私達には無い」であった。
私達を見よ、と言っておきながら、お金は無い、というのだ。
しかし彼らが提供できるものは、金銀よりもはるかに優れていた。
「ナザレのイエスの名によって」「歩きなさい」
手を取って立たせてもらうと、
すると足とくるぶしは強くされ、完全な体となり、歩き始めた。
産まれてこの方40年、自分の足で立った事が無かった或る日突然、自分の足で立ち、飛び跳ねる事が出来るようになったので、どれほど驚き、どれほど嬉しかった事だろう。
足が萎えている者は神のパンを捧げる事は出来ず(レビ21:18)、美しの門までは運んでもらえても、中に入る事は出来なかった。(2サムエル5:8)
彼はの喜びは、どれほどのものだっただろうか。
ただ座っているだけで稼いでいたかもしれないが、ラクして多く稼げる人生が幸せなものではなく、自分の足でしっかり立って働き、自分の足で礼拝に行く人生こそ、より優れた生き方である。
大勢の人達は彼を長らく見て知っているので、彼が癒された時、大勢が詰め掛けて来て大騒ぎになり、ペテロ達をあたかも聖者であるかのような目で見つめていた。
ペテロは「なぜこの事について驚くのか?」と言った。
、、、いや、十分驚いて然るべきである。
生まれつき足の萎えている者で40歳過ぎた人が突然、完全な体になったからだ。
しかし、こんな事で驚くなかれ、これからもっと凄い事を語るぞ、という意味で言ったのである。
生まれつきの足の萎えている者が完全に癒されるよりも、遥かに凄い話とは、ナザレ人イエスの話である。
ペテロは言った。
私達の信仰深さや力がこの人を癒したのではない。
あなたたちが拒んだ、あのイエスの名前を信じる信仰が、この人の足を強くし、完全なからだにしたのである。
イエス様というお方こそ、この癒しの奇跡よりもはるかに重要である。
なぜならイエスこそ、癒しの源、必要の満たしの源だから。。。
ペテロとヨハネは「イエスの名によって歩きなさい」と言って手を取っただけで、この人が癒されたのは、彼にイエス様の名前を信じる信仰があったからであり、ペテロやヨハネの信心や力ではなく彼の信仰による。
ベテスダの池で38年寝込んでいた者が癒されたのも、イエスの「寝床を取って歩きなさい」という言葉に従い、その通り実行したからである。
病人にとって、38年や40年という年月は絶望的に長い。
生活も、価値観も、固まってしまっていたかもしれない。
しかしイエスの名は、人間の何十年という時間や価値観よりも、はるかに力強い。
どんなに固まってしまった価値観や、固まってしまった体が動かないようであっても、義の太陽なるイエスの名の故に行動を起こす者は、彼のいやしの羽の中で癒され、牛舎の子牛のように飛び跳ね喜ぶのである。
この力あるお方の名を信じ、固まってしまった価値観や、固まってしまった体を癒していただく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
横浜天声キリスト教会 copyright 2011
礼拝説教メッセージ音声:初代教会の状況(使徒2:42-47):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
ペンテコステの日、ペテロのメッセージによって3千人ばかりの人たちが交わりに加えられた。
彼ら初代教会の者達は何に熱心であったか、42節と46節に記されている。
1、使徒達の教え
使徒達の教えとは、彼らの口を通して語られる御言葉であり、新約聖書の大部分はそれによって成り立っている。
彼らは日々、御言葉に対して熱心だった。
2、交わり
交わり(コイノニア)の真ん中にはイエスキリストがいて下さる故、その集まりは実に麗しく楽しいものである。
信じている者たちお互いの不足の補い合いといった機能的な事ばかりでなく、主に在って心をもひとつとする行為である。
3、パン裂き
彼らは、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にしていた。
たかが食事、されど食事、わざわざ書かれてあるからには「共に食す」のは重要である。
ルカは聖餐も同等の意味で使っており、エルサレム教会においては聖餐も愛さんも同じであったようである。
4、祈り
彼らは日々熱心に祈っていたため、奇跡としるしが行われ、それによって、皆の者に恐れの念が生じた。
5、毎日一致して神殿に通い、賛美していた
神殿に行くのは普通、安息日か年毎の祭りの時のみであるが、彼らは熱心に、毎日通い賛美していたのは、主を身近に感じていたからであり、主を愛していたからである。
主の交わりは何も神殿、教会でしかできないというものではなく、各々の家々でパンを裂き、食事を共にし、礼拝ができるのである。
信じた者たちは一切の持ち物を共有し、貧しい者が誰一人いなかった。
共有していたのは物質的な物に限らず、精神的な面でも同じで、喜ぶ者と一緒に喜び、泣く者と共に泣いていた。
それは一人の喜びが全体の喜び、一人の悲しみが全体の悲しみであり、コイノニヤの一人ひとりこそ、キリストの各器官だからである。
彼らはそのような毎日を送っていたため、全ての民に好意を持たれていた。
この集団が周囲から孤立している集団ではなかったのは、当然、彼らが出て行って好意をもたれる事をしたからである。
私達の交わりは、自分たちだけが清らかであったり、周りから断絶するものではない。
人々をこの交わりに加えたいから伝道を頑張る、というのは、順番違いである。
主が麗しいから、自然と交わりやパン裂き等を為し、主が真ん中におられる魅力につかれた者達がコイノニヤに加えられるである。
それはまさに、主がなさる事である。(47節)
初代教会の者達がしていたように、御言葉、交わり、パン裂き、祈り、礼拝への集い、賛美を為し、主ご自身が働かれるのをたくさん見るみなさんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
横浜天声キリスト教会 copyright 2011
礼拝説教メッセージ音声:悔い改め、聖霊をいただく(使徒2:36-41):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
ペテロのメッセージは、神がキリストとし主とされたイエス様を、「あなたたちが十字架につけた」と宣言して終わる。
そこにいた人達は、色々な国出身で、イエス様が十字架に架かったその時、むしろイスラエルにいなかった者の方が多かったはずである。
それなのに何故「あなた達が十字架につけた」と言ったのか。
イエス様を十字架につけた者とは、イエス様が王様になって欲しくない者、自分の好き勝手に生きたいと願う者の事であり、それは私達にも当てはまる。
3千人ほどの者達はそのメッセージで心抉られ、「どうしたら良いか」とペテロ達に聞いた時、与えられた言葉は「悔い改めなさい」であった。
「悔い改め」の原語「メタノイヤー」は人生を180度方向転換する「回心」の意味だが、ルカやマタイがこの言葉を使う場合、「悔いる」というニュアンスを同時に込める事も
多い。
イエス様の十字架を聞く時、心抉られ、悔いる体験は、深く感覚として主を知るために貴重な経験である。
ヨハネは水でバプテスマを授けたが、それは今までの自分を死に明け渡し、キリストへと道を整える役割を果たしていた。
イエス・キリストの名へのバプテスマは、新しいいのちに生まれ変わり、イエス様と同様、死に束縛される事は無く、罪の赦しに至り、そして賜物として聖霊をいただくバプ
テスマである。
ペテロは「この曲がった時代から救われなさい」と薦めた。
生まれながらの人として、この世の霊から邪悪な影響を受けていた者達が、その束縛から解放され、イエス様の愛のご支配へと移る事が出来るのだ。
この古い創造は悪しき者の手に委ねられており、全ての富も悪しき者の支配下にあるが、新しく生まれ変わった者は、新しいいのちの君なるキリストの支配下に置かれる為、
悪しき者は手を触れる事ができない。
さて、この時3千人が悔い改めたが、必ずしもこのように大成功するとは限らず、悔い改めとは逆の反応を示す者達もいる。(使徒4:16,17)
ステパノは、素晴らしいメッセージをしたにもかかわらず、誰一人、悔い改めに至らないどころか、憎悪し、ステパノは命を奪われる事になる。
しかし、彼は御使いのように輝いた表情で、自分に向かって石を投げる群集を執り成しつつ、眠りに入った。
そのように、状況とは全く裏腹の安らかな眠りに入ったのは、聖霊に満たされていた故である。
イエス・キリストの名へのバプテスマは、賜物として聖霊をいただく事ができ、死の恐怖や他人の罪からも解放されるのである。
聖霊に導かれる私達は、どのような人生となるのか、どのような最後を遂げるのかは心配するには及ばない。
状況如何に関わらず、安らかに導かれ、安らかに眠りに入るからである。
私達は頑なになる者ではなく、打ち砕かれ、悔い改め、信じる者としてキリストの内にバプテスマされ(浸し込まれ)、邪悪な世代から救い出され、聖霊を頂いて安らかに導
かれていく者達である。
そのような皆さんでありますように、イエスの名によって祝福します!
横浜天声キリスト教会 copyright 2011
礼拝説教メッセージ音声:死に束縛されない主(使徒2:25-35):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
ペンテコステのペテロ説教の前半は、起きている出来事についてヨエル書から説き明かし、そして今日の箇所である説教後半部分は、イエスは死に束縛されない、永遠に生きておられるお方である事を、詩篇を元に説き明かしている。
主は天に上げられて以来、神様の右の座に着座された。
ダビデはいつも主を目の前に置いていたため、心は楽しみ、喜び、希望のうちに生きていた。
彼は預言者であったため、彼の子孫をとこしえに王座に着かせる事を示されていた。
私たちも同じように、既に挙げられ御父の右の座から統べ治めておられる主の守りの内に、楽しみ、喜び、希望の内に生きていくのである。
「主はわが主に言われた、『私の右に座せ、私がお前の敵をお前の足下に据えるまで』」(使徒2:34)
この箇所は詩篇110編からの引用である。
なぜダビデは、その子孫であるキリストを主と呼んでいるか。
それはキリストこそダビデよりはるかに優れて偉大な王であり、メルギゼデクに等しい永遠の祭司であり、死に束縛されない、とこしえに生きておられるお方だからである。
キリストは敵であるサタンも、死をも、永遠に足の下に踏みつける事になる。
ダビデは死に、私たちもいずれ第一の死が訪れるが、キリストは死とハデスを滅ぼし、硫黄の燃える池に投げ込まれる。
これが第2の死であるが、キリストにある私たちには、第2の死はむしろ救いの時である。
信仰の子孫である私たちも、ダビデやキリストとともに王座に着座し、とこしえに統べ治めるのである。
ペテロは福音を告げ知らせる者となり、それを聞いた者達はそれを世界中に告げ知らせ、そして後には、私たちにも届いた。
福音とは、勝利のよき知らせである。
何に対しての勝利か?
それは死に対して、サタンに対してである。
私たちも、死に対し、サタンに対しての勝利を告げ知らせる者達である。
ペテロように勝利の良き知らせを伝え、死に、サタンに勝利した者として相応しく、多くの分捕りをして行く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!