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メッセージ - 講解説教(新約)カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:十字架の言葉(1コリント1:18-25):韓国語通訳あり(右クリックで保存)

十字架とは死刑の道具で、それを全面に出す集団とは愚かそのものに見える。しかし信じる者達にとっては神の力であるとパウロは言う。
十字架の上では、ただ張付けられているだけ、ただ晒し者になっているだけで、自ら何もする事ができない。ただ死ぬのを待つのみ。
なぜ人の力を全く無力にする場である十字架が、神の力なのか。
それは、人間の力が尽き果てたところに、神の大いなる力が働く余地が生まれるからである。
主の御前に何も保留する所なく、全てを明け渡す事が十字架の経験である。

アブラハムは多くの父となるという召しを受けた時は70歳であった。
80,90歳になっても子供は出来ず、人の目から見れば彼が父になるなど愚かな事、考えもつかない事である。
しかし彼は、肉の力が尽き果てたような、死んだも同じような100歳の時に父親になった。
神はアブラハムが自分の力に頼る事を諦め果てるまで待たれたし、ユダヤ人が40年も荒野をさ迷い肉の力が尽き果てるのを待たれたが、私達までアブラハムやイスラエルのように長い間待つ必要は無い。
自らの力に頼まず神の約束を信じ続けていればアブラハムは13年も待つ必要はなかっただろうし、イスラエルもカナン偵察時に自分の力にこだわらず神に委ね切っていれば40年もさ迷う必要は無かったのである。
イエス様が「完了した」と言って霊を神に明け渡されたように、私達もすぐに十字架の上で神に明け渡せばすぐにラクになるだけでなく、人間的な力が尽きた私達を通して御わざが働かれるのである。

パウロはパリサイ人の最高学府の元で最高の教育を受けたが、彼は当時最高の知識やテクニックを用いたのではなく、十字架につけられたキリストをのべ伝えるだけであった。
それは神の力が現れるのは、人間の叡智や力によるのではなく、人の力の尽きた所にであり、人とイエスを結びつけるのは、優れた論舌や説得ではなく十字架のことばだからである。

クリスチャンからキリストを除いてはならず、教会から十字架を除いてはならない。
十字架にとどまり、神の力が大いに働くみなさんでありますように!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

礼拝説教メッセージ音声:後のものを忘れ前のものへ(ピリピ3:12-16):韓国語通訳あり(右クリックで保存)

パウロはイエス様を知った事があまりに素晴らしいので、それ以外のものは糞土のようだと言った。(8節)
普通人よりも、はるかに苦難を受け、はるかに素晴らしい啓示や幻も見てきたパウロが、ピリピの人々に言った事は、オレはここに到達した、だからお前達もここを目指してついてこい、ではなく、自分達が到達した所に基づいて歩むべき、という事だった。(16節)

イエス様がパウロを捕らえたように、私達も既にイエス様によって捕らえられた。
救いは既に成就しているのだが、パウロが目標を目指して進んでいるように、私達も「後ろのものを忘れ、前のものへと身を伸ばしつつ、目標を目指して追い求める」(14節 岩波訳)べきである。
私達は肉体を持っている限り、上にあるもの、すなわちキリストを求めて歩むべきである。

私達は地上において時間に束縛され、今日も古い一年が過ぎ去ろうとしている。
苦労はその日その日に十分あり、明日についての心配は無用である。なぜなら私達は常に、神様におんぶされて歩んでいるからだ。
明日という言葉には「空中」という意味が含まれており、その空中には邪悪な思念が住んでいる所である。(エペソ2:2)
明日について思い煩う事は、空中に思いを馳せる事であり、悪い思念に支配されやすいが、イエスに思いが満たされて明日を生きるなら希望がある。
イエス”なし”の空中は汚れた所であるが、イエス”あり”の空中は天国なのである。

天の御国においては永遠の「今」がある。
私達が意識をおくべきは、昨日でも明日でもなく「今」である。
今日もたんたんと、キリストにおける神の上への召しという賞を目指して生きていきたい。
私達は一人頼りなく生きているのではない。
永遠というファインダーから覗いて見れば、私達は見えないお方によって背負われて歩んでおり、たとい白髪になってもそのお方は背負う。(イザヤ46:4)
とこしえに生きておられる真の父に背負われ、希望を持って進むみなさんでありますように!

横浜天声キリスト教会 copyright 2010

礼拝説教メッセージ音声:偽りの法廷において(マルコ14:53-65):韓国語通訳あり(右クリックで保存)

イエスは捕らえられ、最高法院において沢山の偽りの証言が成されるが、いずれも意見が一致しない状況であった。
私達も、偽りの訴えには答える必要は無く、訴えの偽り自身がその訴えた者を滅ぼすからである。
主に委ねている限り、真理に立つ者が最も強いのである。
その場もイエス様が弁明すれば簡単にその場から出る事ができたと思われるが、あえて、わざと有罪になるように行動した。
大祭司の「あなたはキリストか」という質問に「私がそれだ」と応え、さらに明確にメシヤである事を証しした。
大祭司は衣服を裂き、冒涜を聞いて激した事を表現し、死罪の判決を下した。

この者達はイエスのメシヤ表明を、にせメシヤによる冒涜という論法へと持って行き、そして死に定めた。
古今東西、イエスを認めない者は同じ手法でイエスを認めず抹殺し、クリスチャンをも偽り者として抹殺することさえある。

イエスがこの場で取った行動は人の目には愚かに見える。
十字架は滅んでいく者には愚かさそのものだが、救われる者達、信じる者にとっては神の力である。(1コリント1:18)
主の御心はその時には愚かで危なっかしく、弱々しく見えるかもしれないが、人が自分のさとりによらず主に委ねきる時、神の大いなる力が働く機会を得るのである。
自分の全てを手放し御心に委ねる事が十字架であり、十字架の向こうに復活と新しい獲得があるのである。

祈り
私達は主のように法廷に引き出されて主イエスを告白する機会が訪れるのか、分からない。しかしそのような時にも守られますように。
恐れてイエスを3度否んだペテロさえ権威ある者達に大胆に語る者へと創り変えられたように、私達も御霊に覆われてこの時代を生き抜く事ができますように。

横浜天声キリスト教会 copyright 2010

礼拝説教メッセージ音声:剣を取るか、御心を取るか(マルコ14:43-52):韓国語通訳あり(右クリックで保存)

イエス様が捕縛される場面では、大勢の群集によって力ずくで捕らえられたというより、イエス様が主導権を取って自ら捕らえられに行ったようである。
イエス様は大勢の武器を持った群集に囲まれた時、「わたしはある」と言い、群集は言葉の権威に圧倒され倒れ(ヨハネ19:6)、イエス様は「私を求めているならこの人々は行かせてやりなさい」と指図までした。(8節)
大勢に力ずくでねじ伏せられ捕らえられたのではなく、御父が与えて下さった杯を真正面から受けるために、自らの主導で捕らえれて行ったのである。

ペテロは威勢良く剣で打ちかかり、大祭司の僕マルホスの右の耳を切り落とした。
人の望みは、力づくで打ち負かす事である。彼らは暴徒達を力で打ち負かす事を望んで打ちかかったのであろうが、主の御心は逆で、なんと、弟子が切り落とした耳を癒すのである。
12軍団以上の御使いに命じて自分を守らせる事のできる主は、あえて抵抗せず、弟子達が一人も捕われないようにし、見事に自分だけが捕らえられて行くのである。
弟子達は最初は威勢が良かったが、イエス様が自主的に、あまりにあっさり捕らえられてしまうと、一人残らず逃げてしまい、ある青年は裸にされてでも逃げた。

インターネット上でAとBのクリスチャンがおり、二人とも言葉で攻撃されるのを私は見た。
Aは膨大な言葉や御言葉の剣で打ち、呪いで返したが、Bの場合は赦し、愛し、攻撃した者を祝福した。
事の行方はまだ決していないが、どちらに主の御心があり、神様の分があるのか、一目瞭然である。

確かにクリスチャンには御使いが陣を張ってあらゆる敵から守られるが、私達が取るべき道は必ず守られる安泰な道ではなく、イエス様の道、すなわち「父の御心を選ぶ」道である。
その道は一時、悲しみや裏切り、敗北の道に見えるが、主は後に偉大な栄光を受けたように、勝ち得て余りあるのである。
人間には先の事は分からず、一時的に敗北や悲しみを通らされるかもしれないが、最終的に大いなる栄光、大勝利、永遠の命を勝ち取るのである。
主の御心を選び、大いなる勝利の道を選ぶみなさんでありますように、イエスの名で祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2010

礼拝説教メッセージ音声:悲しみをくぐり抜けて示された愛(マルコ14:32-42):韓国語通訳あり(右クリックで保存)

ゲツセマネは油絞りという意味があり、イエスは文字通り圧搾され、涙と血の滴りのような汗を絞られた。

彼は十字架と死を恐れて祈っていたのではなく、死ぬほど悲しみながら(マルコ14:34)である。
彼は世は始まる以前から御父と片時も離れる事無く、愛の内に親しく交わっておられたが、その御父から、十字架上で完全に見捨てられるのである。(マルコ15:34)
だから死ぬほど「悲しく」、3回も祈ったのだ。
死ぬほどの苦しみの時、最も近くに居て欲しい時に、完全に断絶されるのだ。私達にそのような絶望的な痛みと断絶が提示されるとしたら、耐えられるであろうか。
本来、私達が罪を犯したため、その罰を受け、断絶され、十字架で磔にされるべきなのであるが、しかし、彼が私達の身代わりとなって下さった。

神様は全能だから、イエス様にこんな苦しい悲しい目に遭わせず人類を救う事ができたであろう。
人は思う。なぜラクな方法を取らず、こんなに回りくどく、究極的に割りに合わない方法を取られたのだろうか。
そのような痛みと苦しみを通して、それほど人を愛しておられる事を、私達に示すためである。

しかし人は御心を知らず、弟子達は3回も眠ってしまった。
イエス様は神様なのに、なぜ女々しく命乞いをしたのだろうか、という議論があるが、もし、肉親が自分を助けるために、命がけで身を挺して傷を負ったとしたら、私達は「親なのだから助けて当然」と思って良いだろうか?
命がけで守ってくれた親に対して「大人だから傷の痛みに涙を流すのはおかしいのではないか?」などと、第3者のように思うだろうか?
神なのだから命がけで痛みを負うのはおかしい、あるいは、神は痛まないし悲しまない、と、人は思う程、神について知らないのだ。
神も痛むし、悲しむ。
女は苦しんで子を産んで、その子を見て満足するように、イエス様は、自分の苦しみの跡を見て満足する。(イザヤ53:11)
母親が子を見るように「私の痛みを通じて産まれてきた愛する子、私の血といのちを分けた、尊い私の子」、そのように、私達を見て満足されるのである。

イエスの愛の広さ、高さ、深さをさらに知る皆さんでありますように、イエス様の名前で祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2010

 

礼拝説教メッセージ音声:裏切る者を取り成す大祭司(マルコ14:26-31):韓国語通訳あり

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主は皆が彼を見捨てて出て行く事を予告した。
ペテロはひどく力んで「たとえご一緒に死ななければならないとしてもあなたを見捨てたりはしません」と言ったし他の弟子達も、少なくともその時はそのつもりであっただろうが、彼らはその日の内にイエス様を見捨ててしまった。
この時、サタンが弟子達をふるいにかけ、神の前に聞き届けられた。(ルカ22:31)
人が力を込めて言う言葉は人の弱さの前には役に立たず、死の覚悟もサタンの前には無力である。
ここで分かる事は、サタンは全能者の許しを得なければ何も成しえず、たといそうであっても、イエス様は私達のために信仰が失せないよう取り成して下さる。
また、私達の見えない世界・天においてはこのような駆け引きが行われており、人はそれに支配され逆らう事はできないが、しかし、大祭司なるイエス様が天において取り成しておられる、という事が分かる。
サタンは私達のふがいなさを攻め立てるが、大祭司なる主は取り成し、汚れた服を脱がせ、きよいターバンを被せてくださる。(ゼカリヤ3章)
私達が信仰において立っているのは、私達の力でも、まして意地でもなく、私達のためにとりなし祈っておられるお方のお陰である。
主は、私達の弱さを共に苦しむ事ができないお方ではない。(ヘブル4:14-16、岩波訳)
私達は弱いので苦しむが、大祭司なる主はその時、私達と一緒に苦しんで下さるのだ。
嘆くが、共に嘆いて下さるのだ。
だから、彼は私達の全てを委ね切るる事ができる大祭司なのであり、私達は大胆に恵みの座へと進み出て、時に適った恵みをいただく事ができるのである。

横浜天声キリスト教会 copyright 2010

 

 

礼拝説教メッセージ音声:聖餐(マルコ14:22-26):韓国語通訳あり (右クリックで保存)

主はまずパンを祝福して弟子達に渡され、弟子達はパンを裂いては回した。
パンは裂かれるイエス様の体の記念であり、パンを裂く度に、裂かれるイエス様の体を覚えるものである。(1コリ11:23,24)
杯はイエス様の流される血であり、新しい契約のしるしである。
過ぎ越しの羊の血はそれを囲む人達のために身代わりとなって流されるが、イエスの流される血は、多くの人の罪の為に流される血である。
新しい契約とは、エレミヤ31:31-34に記されており、石の板にではなく胸の中に刻まれる掟であり、その掟と人とはひとつとなる。
文字によって知識を悟るものではなく、主の霊が息吹かれて霊によって悟るものであるため、互いに「主を知れ」と言って教えあう必要は無い。
イエスは律法を破棄するために来られたのではなく律法を成就するために来られた。
人間には守ることの出来なかった古い契約を、イエスキリストを信じる私達の内に、成就して下さった彼が生きて下さる事によって、私達も律法を成就する者とされるのである。

イエスの裂かれた肉、流された血を覚える事は、イエスのうめきや痛みを思い起こす事である。
ただ「救われてよかったね」「ラッキーだね」と言った喜びだけで終わるのでは、片手落ちであり、喜びだけではなく苦しみも共にする事によって、さらに主と深いつながりを得ることができる。
救いは痛みも伴うものであり、私達も時には痛みを伴いつつ、主を告げ知らせる者でありたい。
横浜天声キリスト教会 copyright 2010

礼拝説教メッセージ音声:裏切る自由(マルコ14:17-21):韓国語通訳あり (右クリックで保存)

主が弟子の一人の裏切りを予告した時、弟子達はそれぞれ「まさかこの私では」と言って確認した。
ユダ以外はその時まで裏切りなど心にも無かったはずであったが、自分の弱さも知っていたので、確認したと思われる。
ユダが「この私では」と問うた時、主は「それはあなたの言った事だ」(新共同訳、岩波訳 マタイ26:25)と言って直接回答を避け、ユダ自身に判断を委ねた。

ヨハネ13章においては更に詳しくやり取りが書かれている。
主は最後の晩餐の食事の時、ご自分を引き渡そうとする者がいる叫ばずにはおれないほど霊の激情にとらわれた。
主はパン切れを浸して与える者がそれだ、と言われたが、パン切れを浸すというのは、特別な好意の表現であり(ルツ2:14)、イエスは実際パン切れをユダに渡すのだが、弟子達はまさかユダが裏切ろうとしているとは気付かいほど、主のその好意を示す振る舞いは愛情深く、自然であった。
主の示しによって、主に立ち返るか、そのままサタンに行くかの選択を示したが、ユダはサタンが入る事を許してしまった。

主は人の自由を尊重され、どれほど尊重されるかというと、サタンが入ってしまったユダのしようとしている事を、するようにと促すほどである。
神は人に善悪知識の木といのちの木を選ばせ、いのちを取って欲しかった。
祝福とのろいを選ばせ、祝福を取って欲しかった。
しかし人は善悪知識を選び、のろいを選び、ユダはサタンを選んでしまった結果、主を十字架につける事になってしまった。
主としては立ち返って欲しい、その機会を何度も示したのに立ち返らず裏切ってしまったユダに、主はどれほど悲しまれた事だろう。

全宇宙を管理している全能の神が、あえて手をつけない領域は人間の自由意思であり、それは裏切られ裂かれ刺し貫かれるリスクさえ負うものであった。
それほどまでにして与えられている自由を、肉の働く機会として用いず、主の喜ばれることを選ぶ私達でありたい。
横浜天声キリスト教会 copyright 2010

 

礼拝説教メッセージ音声:過越しの子羊(マルコ14:12-17)국어예배 (右クリックで保存)

過越し祭の子羊を屠る日にイエスは十字架につけられた。
過越し祭はユダヤの中では最も重要な祭りで、その起源は神がユダヤ民族発端の初期、奴隷の国エジプトから脱出させたその大いなる日を記念するために定められた。(出12章)
この祭りにはさらに大きな意味があり、屠られる傷無き子羊はイエスキリストを予め表している。
屠った時に流された血は家の柱に塗られ、滅ぼす者が過ぎこす印となる。
印の外では災いの叫びが起こっている中、屠った肉を家の者達は子羊を食べながら自分達が救われている事をかみ締めた。
イエス様はまことの子羊として来られ、イエスの血は救いの印となり、救われている事を噛み締めつつその肉に与るのである。
またその日は、エジプトから大いなる脱出の日でもあり、キリストが身代わりとなって死なれた私達にとっても罪や死の奴隷からの開放、神の裁きからの開放を意味する。
イスラエル民族は何百年もの間、キリストを表現してきたわけである。

横浜天声キリスト教会 copyright 2010

礼拝説教メッセージ音声:聖徒の中に潜むイスカリオテ・ユダ(ヨハネ12:1-8)국어예배 (右クリックで保存)

前回は私達の心のユダについてであったが、今回は、聖徒達の内にいるユダについて。
ユダがイエス様のそばにいつもいたが、私達は聖徒達の中に巧妙に入り込むユダに気をつけるべきである。
ベタニヤの交わりにおいて、マルタは健全に奉仕をし、ラザロは喜びの内に主と食事し、マリアは持てる中で最上の油をイエスに一滴残らず捧げ尽した。
イスカリオテ・ユダは、香ばしい香り漂う麗しい調和を破ってしゃしゃり出た。

彼の特徴は、他の聖徒の礼拝や交わりを分析し、値定めし、口出しする。
そのような者は要注意である。

マリヤにとっては値段はどうでも良く、イエス様がもうじき葬られる事を悟ったので彼女自身にできる事をしただけであるのに、ユダは「私だったら300デナリをこうする」と言ったり、自分の定める形式を押し付けたり、その通りにしない者は間違っている、と裁いたりした。

彼は尤もらしい事を口出しするが、貧しい人の事を心にかけていたのではなく、聖徒の捧げ物を横取りしたいのであり、捧げられた300デナリを見て歯軋りしケチをつける。
また、麗しい調和をぶち壊して人々の目を自分の方に向けさせ「ワタシは貧しい人に心をかけているのだ」とアピールし、栄光も横取りしたかったりするのである。

御霊の実には分裂も妬みも嫉妬も無い。結ぶ実によってユダを見分ける事ができる。
彼らはイエス様が好きなのではなく、イエス様にひっついて大活躍しているワタシが好きなのであり、主であるべきイエス様が自分の思い通りに動かないとなると、銀貨30枚で売り飛ばしさえするのである。

イエス様は、ユダの下心も浅ましい動機も当然知っていた。しかしその事は一切触れず、その平和で麗しい交わりを掻き乱さないように、それとなくユダに諭しただけ。
それが、私達が習うべきイエス様の品性であり、ユダに対処する時の模範である。
「わたしはいつも一緒にいるわでではない」(8節)私達もいつまでも地上で平和に生きていて自由に礼拝できるという保障は無い。今しか出来ない礼拝は先延ばしするのではなく、今、為すべきである。

イエス様は、聖徒の持ち物を食い物にしたり、貧しい人々を道具にするようなユダにさえ愛と憐れみを示し、彼が武装した兵士達をイエス様の所に導いた時さえ、イエス様は「友よ」と語りかけて、悔い改めを促した。
「もう死ぬ他に無い」と後悔して絶望する前に、イエス様に立ち返って悔い改めるべきである。

ベタニヤの兄弟達のように与えられている賜物を生かして、今しかできない礼拝を捧げる皆さんでありますように!

横浜天声キリスト教会 copyright 2010

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