メッセージ - 講解説教(新約)カテゴリのエントリ
ぶどう園の忍耐強い主人と悪い農夫(マルコ12:1-12)한국어예배 礼拝メッセージ音声
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » マルコによる福音書
- 執筆 :
- pastor 2010-11-16 6:08
ぶどう園の忍耐強い主人と悪い農夫(マルコ12:1-12)한국어예배 礼拝メッセージ音声(右クリックで保存)
雇われている農夫が収穫を納めず、主人の僕達を、ましてや一人息子を殺す事など、あってはならない。
そこまで忍耐強いというか、愚かなほどお人よしな雇い主はいないし、報復を受けて当然な行動をするような雇われ人も、現代社会にはいない。
しかし愛なる神は人には愚かに見えるほど忍耐強く人を救おうと何度も使いを送り、人は、そんな事すれば報復を受けて殺されるだろう、と先読みをあえてしないほど、愚かなのだ。
天の父はまことの農夫、主イエスはまことのぶどうの木であるが、その父に代わってこの世界というぶどう園を管理し、主イエスが結ぶぶどうの実を本来手入れするよう、人は任せられている。
私達は良き忠実な僕としてこの世を管理し、イエスの結ばせてくださった良き実を、父なる神様にお返しすべきである。
主は人には捨てられたが、このお方を礎として忠実に歩むなら、ぶどう園を継ぐ事ができるのである。
何の権威によって(マルコ11:27-33)한국어예배 礼拝メッセージ
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- pastor 2010-11-15 13:42
何の権威によって(マルコ11:27-33)한국어예배 礼拝メッセージ音声(右クリックで保存)
人が何かをしている時、その行為の正統性の裏付けとして、何の権威によって行い、その権威は誰が授けたのかを知りたがるが、天の御国の活動をする上での権威は、父なる神様から直接与えられる。
キリストこそ、天においても地においても来るべき世においても全ての権威の頭であり源であり、教会はそのお方の満ち満ちている所である。
それゆえ私達はキリストの権威を用いて全ての民に福音を伝え、洗礼を授け、弟子とするべきである。
山が海に移る信仰(マルコ11:20-25)한국어예배 礼拝メッセージ音声
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- 執筆 :
- pastor 2010-11-12 6:13
山が海に移る信仰(マルコ11:20-25)한국어예배 礼拝メッセージ音声(右クリックで保存)
神殿があればその町は滅びないのではなく、神の箱を持ち込めば勝てるのでもない。
神を信じる信仰によって勝利を得るものであり、滅びない保証を頂けるのである。
祈りが聞かれないのは欲望による悪い動機で祈るからであって、例え何万回同じ言葉を繰り返しても自分の体を傷つけても決して聞かれない。(ヤコブ4:1-4)
動機は人間によるのではなくキリストによるべきである。
信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞く事による(ローマ10:17)。つまり、信仰とは口を膨大に使うのではなく、まず耳を使う事である。
霊的な実と収穫(マルコ11:12-14,20,21)한국어예배 礼拝メッセージ
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- pastor 2010-11-11 23:00
霊的な実と収穫(マルコ11:12-14,20,21)한국어예배 礼拝メッセージ音声(右クリックで保存)
イエスが憤られ神殿内を清められたのは、当時神殿において、礼拝者の心を利用した独占的な搾取が行われていたからだ。
現代、神殿とは私達のからだを示し(1コリント3:16)欲望の取引をする強盗の巣としてはならない。
もしそうなっているなら、主イエスが入り込んで清めてくださるのは幸いである。
祈りの家とは本来喜ばしいものであり、私達の体はいつも祈りと喜びで満たしているべきである。
霊的な実と収穫(マルコ11:12-14,20,21)한국어예배 礼拝メッセージ音声
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » マルコによる福音書
- 執筆 :
- pastor 2010-11-10 6:15
霊的な実と収穫(マルコ11:12-14,20,21)한국어예배 礼拝メッセージ音声(右クリックで保存)
イエスはなぜ実がなる季節ではないのにいちじくの木を呪ったのか。
この後彼は神殿へ行き、商人達を追い出されるが、主の喜ばれる実が無く「人間の取り繕い」といういちじくの葉だらけのものは呪われ枯れてしまう。
主の喜ばれる実、食べ物とは、御心を行いそのわざを成し遂げる事(ヨハネ4:31-38)であり、主に繫がってこそ実を結ぶ事ができるである。
たとえ人の目にはその季節でなくても実を結び、私達は主が労苦して種を蒔いて下さった実を刈り取る事ができるのである。横浜天声キリスト教会 copyright 2010
仮庵祭としゅろの枝とエルサレム(マルコ11:7-11)한국어예배
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- pastor 2010-11-9 6:18
仮庵祭としゅろの枝とエルサレム(マルコ11:7-11)한국어예배 礼拝メッセージ音声(右クリックで保存)
仮庵祭はしゅろの枝を持ち7日間喜び祝うが、ことばなるイエスは肉体という仮庵に宿り、エルサレムの群集に喜んで迎えられたが、その1週間後には群集から嘲られ、十字架につけられた。
ろばの上のイエスはどんな表情だっただろうか。
しかし主はまさしく、このエルサレムの真っ赤な罪を雪のように白くするために身代わりとして来たのだ。
花嫁として整えられる新エルサレムは、イエスの血によって衣を白くした大勢の群集が、しゅろの枝を持ち、まことの夫イエスを迎え入れ、永遠に共に住むのだ。
横浜天声キリスト教会 copyright 2010
主のご指名は雌ろばの子の子ろば(マルコ11:1-6)한국어예배
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- 執筆 :
- pastor 2010-11-8 6:02
主のご指名は雌ろばの子の子ろば(マルコ11:1-6)한국어예배 礼拝メッセージ音声(右クリックで保存)
大事な所へ入場する場面で乗り物を選ぶなら、普通は高級で格好の良いものを指名するものだが、主が指名されたのは、誰も乗ったことの無い子ろばであった。
この場面はゼカリヤ9:9にて預言されていたが、かの王は戦いを止めさせる柔和な平和の王。
主があえて取るに足らない者を用いられるのは、力ある者をさげすみ知恵ある者をはずかしめるため。
あえてろばの子を指名してくださった主は、私達も主のご入用として用いてくださるのだ。
横浜天声キリスト教会 copyright 2010
あなたに宿りたい(ルカ19:1-10) 한국어예배 礼拝メッセージ音声(右クリックで保存)
ザアカイは取税人であるが、イスラエル人にとって取税人はローマの手先、裏切り者であり、罪人の最右翼のように考えられており、彼はお金を得るために名誉を捨て、律法の正しい事を知りながらせず、したくない悪を行い、心に反する日々を送ってきた。
そんなある日、イエスが傍を通られるといううわさを聞いた。
群集の邪魔を押しのけ、何としてもイエスを見ようとし、恥も外聞も無く葉の生い茂った木に登った。
イエスはザアカイを見上げ、何と自分の名を呼び、「あなたの家に泊まりたい」と申し出た。
自分の名前を知っていたという事は、自分の素性も知っていた。
素性を知っていたとは、ザアカイにとって何という驚きと恥ずかしさであったろう。
そしてそれを知りながら自分の家に宿りたいとイエスが言って下さった事は、何という喜びだっただろう。
財産を貧しい人に施しなさい、と言われて悲しんで去っていった金持ちもいたが、人間の力で善行を行うのは、らくだが針の穴を通るようなものである。
しかしイエスに声をかけられ、愛の心で受け入れられる嬉しさによって、人間にはできない事もできるようになるのだ。
イエスは彼が、アブラハムの子だった事を知っていた。
立ち返らせるのに、何時間もの説教は必要ない。「あなたの家に泊まりたい」という言葉だけである。
イエスが心の扉を叩く時、開いて受け入れるなら、イエスは入り、共に食事をしてくださり、その愛の交わりのうちに人にはできない事が出来、救いを得るのである。
救い主を呼び止める(マルコ10:46-52) 한국어예배 礼拝メッセージ音声(右クリックで保存)
バルティマイは人通りの多い道端で物乞いしていた。
彼は盲人であり頼れる身内がいなかったからである。
多くの人達が彼を見下ろし、過ぎ去って行く日々の中、彼は普段と違う町の様子から、ナザレのイエスが通られると知ると、「ダビデの子イエス」すなわち救い主として彼を認め、呼び止めた。
私達も人生の途中でイエスが通られる時「ダビデの子」と呼んで彼を呼びとめ、彼と具体的に言葉を交わして関わらなければならない。そうするなら彼は癒し、必要を満たし、祝福して下さる。
横浜天声キリスト教会 copyright 2010
世の支配と御国の支配(マルコ10:35-45) 한국어예배 礼拝メッセージ音声(右クリックで保存)
イエスが自分の死と復活を予告した時の悲しみや呻きを弟子達は知らず、彼らは偉くなりたい、出し抜いてでも地位を得たい、と考えていた。
この世の支配・被支配の関係は優劣の関係で不平等、怒りを生じさせるが、御国の価値観は全く逆で、進んで仕え、自らを差し出す愛を基にした関係であり、そこに不平等も怒りも無い。
主が自ら犠牲となられたのは、彼が多くの人々の身代わりとなり、血で汚れたエルサレムを、新しい花嫁として立て直すためであった。
私達が主に習い、皆に仕える者、皆の僕に進んでなるのであれば、その群れは天国のような交わりとなる。