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メッセージ - ヨシュア記カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:取るべき地は、なお多く(ヨシュア記13:1-14):右クリックで保存

ヨシュア記13章以降は、イスラエル12部族に相続地を分与する記録が、暫く続く。

『さてヨシュアは年が進んで老いたが、主は彼に言われた、「あなたは年が進んで老いたが、取るべき地は、なお多く残っている。その残っている地は、次のとおりである、、、。』(ヨシュア記13:1-2)
ヨシュアは年をとったが、主は、「もう充分働いたから隠居しなさい」などとは言わない。
むしろ、獲得すべき地はまだまだ残っているのだから、それを勝ち取りに行きなさい、と言われた。
モーセも120歳まで、死ぬまで現役だったように、また、カレブは85歳になっても戦いに出て勝利したように、神の民は、霊的活動において、生涯現役なのだ。

私達の日々の生活における霊的戦い、すなわち、私達の肢体にこびりついている肉欲や、罪に傾いてしまう性質との戦いには、「もう充分」というものは無く、生涯戦い続けていくべきもので、また、平安や喜びなど、勝ち得て行くべき「領地」も、生涯追求して行くものである。
キリスト者は、いつまでも同じ所に留まるのではなく、日々、完成される事を目指して、進んでいくものである。
『そういうわけだから、わたしたちは、キリストの教の初歩をあとにして、完成を目ざして進もうではないか。今さら、死んだ行いの悔改めと神への信仰、洗いごとについての教と按手、死人の復活と永遠のさばき、などの基本の教をくりかえし学ぶことをやめようではないか。神の許しを得て、そうすることにしよう。』(ヘブル6:1-3)

そして、それら日々の戦いは、主と共同して行うものである。
『わたしはみずから彼らをイスラエルの人々の前から追い払うであろう。わたしが命じたように、あなたはその地をイスラエルに分け与えて、嗣業とさせなければならない。』(ヨシュア記13:6)
この箇所から分かる事は、この戦いには順番がある事で、まずは人の側が、信仰をもって一歩踏み出す所から始まる事で、それをするなら、主の側がその信仰の行いを助けて下さり、敵を追い払って下さるのだ。
ただ主だけが、一方的に、敵の上に石を降らせたり、猛獣をけしかけたりして敵を滅ぼしてくれ、人の側は何もせず黙って待っていれば良い、というわけではない。
人の側にも、果たすべき分があり、その分を果たすなら、主も共に戦って下さり、そして勝利するのだ。

私達の信仰生活も、ひと度、イエス様を信じたら、あとは何から何まで主がしてくれる、というものではない。それは既に経験しているはずである。
むしろ、私達自ら罪やサタンと戦う努力をし、私達の内にある肉的な事柄を捨て去って、主の喜ばれる御霊の人になれるよう、日々、信仰をもって努力をしていくべきなのだ。
そうするなら、主が働いて下さり、聖霊によって助けを得て、私達はますます以前のものは過ぎ去って行き、新しく造り変えられて行くのだ。
『わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。』(ピリピ3:12-14)

礼拝説教メッセージ音声:滅ぼすべきリストと勝ち得るべきリスト(ヨシュア記12章):右クリックで保存

『さてヨルダンの向こう側、日の出の方で、アルノンの谷からヘルモン山まで、および東アラバの全土のうちで、イスラエルの人々が撃ち滅ぼして地を取った国の王たちは、次のとおりである。』(ヨシュア記12:1)
ヨシュア記12章は、それまでに占領した領地と、打ちとった王達のリストが記されている。
1-6節は、モーセが生きていた時代に打ちとった王達であり、7節以降が、モーセの死後、ヨシュア達が打ちとった王達である。
聖書巻末などのカナン地方の地図を見ると、大体、地図の中央に上下に伸びるラインがあり(キネレテ湖あるいはガリラヤ湖 〜 ヨルダン川 〜 死海)、その”中央ライン”の東側が、モーセが生きていた時代に征服した地域、その西側が、ヨシュア達が占領した地域である。

このカナンの占領戦は、現代を生きる私達の、日々の生活における霊的戦いにも、照らし合わせる事ができる。

私達の肢体、あるいは心の中には、罪深い習慣や、過去の傷、不必要な恐れなど、打ち倒すべき”敵”が棲んでいる領域がある。
そして、まことのヨシュアである主イエス様と共に歩んできた人達には、勝利し自由になった領域もある。
例えばある人は、偶像礼拝という”王”は討ち取ったけれど、怒りやすい性質という”王”との戦いに難しさを覚えているかもしれない。
またある人は、喜びや平安という”領地”は勝ち取ったけれど、自制という”領地”を勝ち取る事に難しさを覚えているかもしれない。
このように、私達の内には討ち取らなければならない邪悪な”王達”、また、征服するべき良き”領地”があるのだ。

次のリストは、”肉の働き”という、私達の内から根絶すべき”王達”である。
『肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。』(ガラテヤ5:19-21)
また、次のリストが、私達が勝ち取るべき良き”領地”である。
『御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。』(ガラテヤ5:22-23)
私達は一生をかけて、これらを獲得する事を怠ってはならない。

その戦いにおける勝利の鍵は、まことのヨシュア(イエシュア)であるイエス様にある。
ヨシュア記12章には、イスラエルが討ち取った王達が合計31あるが、その内、モーセが討ち取った王達は2、ヨシュアが打ちとった王達は29である。
この圧倒的な差は、律法と信仰の圧倒的な差とも言える。

モーセは”律法”の代表格であり、律法を守り行う事には、確かにそれなりの祝福はあるが、残念ながら、律法は”救い”においては不完全であり、私達の内にうごめく罪や肉に対しては力が無く、そして、まことの約束の地である天国を継がせる事は出来ない。
それに対し、まことのヨシュアであるイエス様は、私達の完全なる救い主であり、イエス様を信じる信仰によって、私達は罪に対し、肉に対し、死に対して、圧倒的な勝利者となるのだ。

イエス様を信じ、共に歩むなら、人生のあらゆる領域において、多くの勝利を納める。
ちょうどヨシュア記の快進撃のように。

そして私達は、罪に対し、また悪霊と戦っていく上で、中途半端な”生き残り”を残したままにしてはならない。
そうでないと、それらが苦い根となって生え出て、以前よりも悩ましくなってしまうからである。
実際、イスラエルがそうだった。
せっかくヨシュアと共に快進撃して行ったのに、徹底して滅ぼし尽くす事をせずにいたため、その”生き残り”が後になってイスラエルの悩みの種となってしまった。

主イエスと共に歩み、日々、罪に対し、悪霊に対して勝利し、妥協する事なく自由な領域を勝ち取って行き、ますます新しく造り替えられて行く皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:向かう所敵なし状態になるための秘訣(ヨシュア記11:10-23):右クリックで保存

『その時、ヨシュアはひきかえして、ハゾルを取り、つるぎをもって、その王を撃った。ハゾルは昔、これらすべての国々の盟主であったからである。』(ヨシュア記11:10)
ハゾル(ハツォル)は、ガリラヤ湖の北15kmほどの町で、周辺地域の首都的な場所だった。
エリコの時のように、ハツォルの町を攻撃した時は、人も全て家畜も聖絶し尽くしたが、その他の町々は、アイの時のように、人は聖絶し尽くしても家畜は分捕って良いとされた。
『主がそのしもべモーセに命じられたように、モーセはヨシュアに命じたが、ヨシュアはそのとおりにおこなった。すべて主がモーセに命じられたことで、ヨシュアが行わなかったことは一つもなかった。』(ヨシュア記11:15)

私達も、御言葉が示されたなら、その通りに守り行うべきであり、御言葉に対して付け加えたり、除いたりしてはならない。
『この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。』(黙示録22:18-19)

『ヨシュアはこれらすべての王たちと、長いあいだ戦った。』(ヨシュア記11:18)
これら王達との戦いは、どのくらい続いたのか。
士師記の1章を見ると、ヨシュア達の後の世代のイスラエル12部族は、それぞれの領地で先住民を聖絶し尽くさず、そのわずかに残った先住民が仇となって、士師記の荒んだ時代が始まった。
つまり、このヨシュア記11-12章の戦闘で、敵に壊滅的なダメージを与えたものの、生き残った者達(ヨシュア記10:20)を徹底して滅ぼず事をせず、残したままにしてしまったのだろう。

『ギベオンの住民ヒビびとのほかには、イスラエルの人々と和を講じた町は一つもなかった。町々はみな戦争をして、攻め取ったものであった。彼らが心をかたくなにして、イスラエルに攻めよせたのは、もともと主がそうさせられたので、彼らがのろわれた者となり、あわれみを受けず、ことごとく滅ぼされるためであった。主がモーセに命じられたとおりである。』(ヨシュア記11:19-20)
これらの住民の心を頑なにしたのは、主である。(ローマ9章) エジプトのパロの時も、そうであった。
それは、彼らは主の恵みが示されてたのに、悔い改める事をせず、かえって恵みと憐れみを放縦に変えてしまい、ほしいままに罪深いことを行っても、中々裁きが下されないので、いい気になって、四百年もの長きに渡って神の民を圧迫し、弱い人達を圧迫し続け、その叫びが天に達したために、ついには憐れみの時は尽き、主は彼らを滅ぼすために、心を頑なにされたのだ。(創世記15:16、19:13、出エジプト記3:7-9、7:3)

『こうしてヨシュアはその地を、ことごとく取った。すべて主がモーセに告げられたとおりである。そしてヨシュアはイスラエルの部族にそれぞれの分を与えて、嗣業とさせた。こうしてその地に戦争はやんだ。』(ヨシュア記11:23)
以上、ヨシュア記11章までは、ヨシュア達がカナンをほぼ平定するまでの戦いが概略的に記されており、12章以降では、戦いや土地の分配についての詳細な記録が続く。

ヨシュアが生きている間は、向かう所敵なしの、連戦連勝状態だったが、その秘訣はやはり、次の御言葉だろう。
『主がそのしもべモーセに命じられたように、モーセはヨシュアに命じたが、ヨシュアはそのとおりにおこなった。すべて主がモーセに命じられたことで、ヨシュアが行わなかったことは一つもなかった。』(15節)
ヨシュアは主に命じられた通り、御言葉から右にも左にもそれなかったがために、ことごとく勝利を得、誰もヨシュアの前に立ちはだかるものがいないようにされたのだ。
全ては、主がヨシュア記1章で約束して下さった通りである。

『あなたが生きながらえる日の間、あなたに当ることのできる者は、ひとりもないであろう。わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共におるであろう。わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもしない。強く、また雄々しくあれ。あなたはこの民に、わたしが彼らに与えると、その先祖たちに誓った地を獲させなければならない。
ただ強く、また雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法をことごとく守って行い、これを離れて右にも左にも曲ってはならない。それはすべてあなたが行くところで、勝利を得るためである。この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜もそれを思い、そのうちにしるされていることを、ことごとく守って行わなければならない。そうするならば、あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう。』(ヨシュア記1:5-8)

礼拝説教メッセージ音声:人の兵器を打ち壊される主(ヨシュア記11:1-9):右クリックで保存

ヨシュア率いるイスラエルによって、死海西岸地域がほぼ制圧された事が、周辺地域に知れ渡った。
『ハゾルの王ヤビンは、これを聞いて、マドンの王ヨバブ、シムロンの王、およびアクサフの王、また北の山地、キンネロテの南のアラバ、平地、西の方のドルの高地におる王たち、すなわち、東西のカナンびと、アモリびと、ヘテびと、ペリジびと、山地のエブスびと、ミヅパの地にあるヘルモンのふもとのヒビびとに使者をつかわした。そして彼らは、そのすべての軍勢を率いて出てきた。その大軍は浜べの砂のように数多く、馬と戦車も、ひじょうに多かった。』(ヨシュア記11:1-4)
ハゾル(ハツォル)は、ガリラヤ湖より北側の都市である。
10章は、死海の西から南西地域にかけての戦いの記録であったが、この11章は、そこからさらに北方での戦いの記録である。

「その大軍は浜べの砂のように数多く、馬と戦車も、ひじょうに多かった。」と記されているからには、敵は、装備も数もかなり揃えて、イスラエルに攻めて来たのだろう。
装備と数だけを見るならば、イスラエルは圧倒的に不利に見えたかもしれないが、主は再びヨシュアを励まして下さる。
『「彼らのゆえに恐れてはならない。あすの今ごろ、わたしは彼らを皆イスラエルに渡して、ことごとく殺させるであろう。あなたは彼らの馬の足の筋を切り、戦車を火で焼かなければならない」。そこでヨシュアは、すべてのいくさびとを率いて、にわかにメロムの水のほとりにおし寄せ、彼らを襲った。主は彼らをイスラエルの手に渡されたので、これを撃ち破り、大シドンおよびミスレポテ・マイムまで、これを追撃し、東の方では、ミヅパの谷まで彼らを追い、ついにひとりも残さず撃ちとった。』(ヨシュア記11:6-8)

主は今回、”いつ”までに敵を渡されるかは示されたものの、アイの時のように”方法”は示されなかった。
しかしヨシュア達はすぐさま、敵を打ち破るために、普通に出て行った。
今回の戦いでは、主が特に奇跡的な事を起こされた記述は無いが、それでも彼らは大勝利を収めた。

人は何かと、自分でプランを立て、その計画どおりに進む生き方に慣れているため、”方法”を知りたがるものであり、また、前回は主は雹を降らせて下さったから、今回もそうして下さい、と、過去に主がして下さった事を期待しがちであるが、主の方法は人の思い計りに囚われるお方ではないし、ワンパターンなお方でもない。
主は、主の御声に聞き従う人には、どんな方法であっても勝利させて下さるのである。

『ヨシュアは主が命じられたとおりに彼らに行い、彼らの馬の足の筋を切り、戦車を火で焼いた。』(ヨシュア記11:9)
これもまた不思議な命令に見えるかもしれないが、主は、馬の力を喜ばず(詩篇147:10-11)、戦車や軍馬のような、人を攻撃し殺めるような”兵器”を喜ばれない。
今までカナンの地で人々を蹂躙して来た馬や戦車などは、この地にはもう必要ない物であり、これからは、そうした兵器に頼るのでなく、ただ主にのみ頼って生きるのが、この”約束の地”での生き方ある。

主の救いは、馬や兵器によるものではなく、むしろ、ひとりのみどりごによって、もたらされるのだ。
『すべて戦場で、歩兵のはいたくつと、血にまみれた衣とは、火の燃えくさとなって焼かれる。ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもって/これを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。』(イザヤ9:5-)
主は、人々が編み出した兵器を火の中に投げ込み、人々の罪や傲慢の結果である悲惨を打ち壊し、人の目から涙をすっかり拭い去って下さり、とこしえにダビデの王座について、平和の統治をして下さるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:連戦連勝の理由(ヨシュア記10:28-43):右クリックで保存

28節から39節までは、「ヨシュア達は**の町を攻め寄せ、主がそこを手に渡されたので全ての住人を聖絶した」といった記述が7回続き、じつに、とんとん拍子に勝ち進んで行った事がわかる。
行く町々を聖絶していく、というのは、残酷なように思えるかもしれないが、一体なぜ神は、こんなにもイスラエルに味方し、徹底的にこの地の住人を滅ぼさせたのだろうか。

ヨシュア記の戦いは、力づくで他国を自分色に塗り替えたり、富や利権を分捕ったり、欲しいままに略奪したり殺したりして、所有欲や破壊欲を満足させるような「世の戦争」とは、全く違う。
主が「約束の地」「乳と蜜の流れる地」と示した地は、主の御心が常に注がれている地であるにもかかわらず、その地に住んだ住人は、端から端まで暴虐や不品行に満ちており、その町々の叫びは天にまで届き、ついにのそ悪は、主の憐れみの目盛りを超えてしまったために、主は、イスラエルの民を用いて、その地の悪い者達を滅ぼされたのだ。(創世記15:16、申命記9:4)

『あなたはあなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。』(申命記7:6)
主は、主の民を「聖なる民」「自分の宝の民」とされた。
聖なる主の宝の民であるからには、先住民がそこで行っていた汚れに染まってはならず、その痕跡を、残してはならなかったのだ。
それはキリストにある私達も同じであり、以前の暗闇の生き方を捨て去るべきだ。

私達の内から滅ぼし尽くすべきものは、肢体に宿る、主に敵対する欲望である。
『地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのために、神の怒りが下るのである。』(コロサイ3:5-6)

私達の内に巣食う、とめどもない情欲や、頑固に定着してしまった罪深い行動パターンを見るに、これらと戦っても、絶対にかないそうにない、と思うかもしれない。
ちょうど、イスラエルの民が当初、先住民を見て「絶対かなわない」と、しりごみしたように。
しかし、私達がまことのヨシュア(イエシュア)であるイエス様に従順し、その御声に聞き従い続けるなら、御霊が働いて下さり、私達の内に巣食う情欲や不品行などを殺し、今まで自分には到底入れなかったような、きよい、安息の領域へと、やすやすと入って行けるのである。
「もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。」(ローマ8:13)

私達の人生の中に巣食って来た邪悪な強敵、不品行と暴虐の”カナン人”を打ち取るためには、私達自身も自ら信仰の戦いに参加する必要がある。
ちょうど、ヨシュア達の軍隊が、剣を実際に手に取り、敵陣へと足を用いて走って行ったように。
御言葉に聞き従って行動を起こすなら、敵陣に石を降らせ、太陽や月の動きを止めてまで、イスラエルに味方して下さった主が、私達にも味方して下さり、私達の内外で苦しめて来た邪悪な”カナン人”と戦って、勝利して下さるのだ。

『イスラエルの神、主がイスラエルのために戦われたので、ヨシュアはこれらすべての王たちと、その地をいちどきに取った。』(ヨシュア記10:42)
ヨシュア記10章の快進撃を読んでいると、とても弱い敵と戦っていたかのように見えるが、決してそうではない。
これら7つの民は、イスラエルよりも数多く、強かったし、実際に40年前、彼らの父の世代は「こんな強い民とは戦えない」と恐れ、夜通し泣き明かし、エジプトに帰ろうとまで言い出した程だった。
しかし、父たちの世代があんなに恐れたカデシュ・バルネア以北の国々は、いとも簡単に制圧された。
それは「イスラエルの神、主がイスラエルのために戦われた」(42節)おかげである。

『そしてヨシュアはイスラエルのすべての人を率いて、ギルガルの陣営に帰った。』(ヨシュア記10:43)
このギルガルは、主がヨルダンの水を枯らして下さった所を、ヨシュア達が渡って最初に降り立った地であり、そこには、川底から持ってきた12の石の記念碑が建てられている。
そして、40年来、無割礼だった状態を脱却し、割礼を受けて、肉を切り捨てた所であり、最初の過越祭を祝った地でもある。
ギルガルはいわば、信仰の原点の地である。

主が大勝利させて下さった後、彼らは勝利に浮かれる事なく、分捕りに奔走してむさぼる事なく、すぐに信仰の原点へと帰ったのだ。
私達も、大勝利した直後こそ、初心に帰るべきである。

礼拝説教メッセージ音声:敵を足の下に踏ませて下さる主(ヨシュア記10:16-27):右クリックで保存

今回の戦いは、主ご自身が直接戦って下さり、敵の上に石を降らせて下さったばかりでなく、地球まで動かして、敵を追撃する事を助けて下さった。
敵にとってはさんざんな、味方にとってはまことに頼もしく喜ばしい戦いだったろう。

『かの五人の王たちは逃げて行って、マッケダのほら穴に隠れたが、五人の王たちがマッケダのほら穴にかくれているのが見つかったと、ヨシュアに告げる者があったので、ヨシュアは言った、「ほら穴の口に大石をころがし、そのそばに人を置いて、守らせなさい。ただし、あなたがたは、そこにとどまらないで、敵のあとを追い、そのしんがりを撃ち、彼らをその町にはいらせてはならない。あなたがたの神、主が彼らをあなたがたの手に渡されたからである」。』(ヨシュア記10:16-19)

この戦いは、敵の王将を討ち取れば、それで終わり、というものではない。
主の命令は、元々、この地の者達を聖絶し、邪悪な神々の像を破壊し尽くして、平定する事にある。
だからヨシュアは、その王達はそこに閉じ込めておき、他の皆で残りの敵を追撃するようにと命じたのだ。

この戦いの始まりは元々、偽って同盟を結んできたギブオン人が「襲われているので助けて欲しい」と嘆願して来たのが発端で、イスラエル人からすれば、なんでギブオン人なんかのために、という思いもあったかもしれない。
また、ギルアデからギブオンまでの、およそ35kmの道のりを、夜通し急行して戦い、しかも、太陽は一昼夜沈まず、その間もずっと戦っていたため、彼らには確かに疲れはあったかもしれないが、彼らは倒れる事は無かった。
何より、地球の動きを止めてしまう程の偉大な主が、自分達を助けて下さるためにそれを為して下さり、その主が味方となって戦って下さるとは、どれ程の栄誉、どれ程の幸いだろうか。
私達は、日々の主との歩みにおいて、そのような栄誉と幸いを、果たして感じているだろうか。

私達は、時に疲れを覚え、今為している事の働きの意味を見失ってしまうことがあるかもしれない。
「なんでこんな人のために、休まずに働かなくてはならないのか」と思える時も、あるかもしれない。
しかし、今働いている事が、神の国のための働きであり、着実に御霊の実を結び続けているのであるなら、たゆまずそれを続けるべきである。
『人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うべきである。御言を教えてもらう人は、教える人と、すべて良いものを分け合いなさい。まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。
わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。』(ガラテヤ6:5-10)

『ヨシュアとイスラエルの人々は、大いに彼らを撃ち殺し、ついに彼らを滅ぼしつくしたが、彼らのうちのがれて生き残った者どもは、堅固な町々に逃げこんだので、民はみな安らかにマッケダの陣営のヨシュアのもとに帰ってきたが、イスラエルの人々にむかって舌を鳴らす者はひとりもなかった。』(ヨシュア記10:20-21)
一体誰が想像しただろうか。
この広大な死海西岸地域を、わずか数日で、一気に平定してしまう事を。
もはやこの戦いは、当初の、ギブオン人を助けるという小さな枠組みを超え、主の偉大な御旨を一気に成就させるためのものであり、主の栄光が一気に広まるものとなった。

『かの五人の王たち、すなわち、エルサレムの王、ヘブロンの王、ヤルムテの王、ラキシの王、およびエグロンの王を、ほら穴から彼のもとにひき出した。この王たちをヨシュアのもとにひき出した時、ヨシュアはイスラエルのすべての人々を呼び寄せ、自分と共に行ったいくさびとの長たちに言った、「近寄って、この王たちのくびに足をかけなさい」。そこで近寄って、その王たちのくびに足をかけたので、ヨシュアは彼らに言った、「恐れおののいてはならない。強くまた雄々しくあれ。あなたがたが攻めて戦うすべての敵には、主がこのようにされるのである」。
そして後ヨシュアは彼らを撃って死なせ、五本の木にかけて、夕暮れまで木の上にさらして置いたが、日の入るころになって、ヨシュアが命じたので、これを木からおろし、彼らが隠れていたほら穴に投げ入れ、ほら穴の口に大石を置いた。これは今日まで残っている。』(ヨシュア記10:23-27)

主がイスラエルのために戦い、石を降らせ、太陽まで止めて、この5人の王に打ち勝たせ、足の下に踏ませて下さった。
イスラエル人達は、どれほど勇気づけられ、敵は、どれ程恐れおののいた事だろうか。
私達も、御言葉に従順となり、善にさとく、悪にうとくあるなら、主は速やかに、私達の足を用いて、悪しき者どもを足の下に踏ませて下さるのだ。
『あなたがたの従順は、すべての人々の耳に達しており、それをあなたがたのために喜んでいる。しかし、わたしの願うところは、あなたがたが善にさとく、悪には、うとくあってほしいことである。平和の神は、サタンをすみやかにあなたがたの足の下に踏み砕くであろう。どうか、わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。』(ローマ16:19)

主の敵は、どんなにおごり高ぶっていようとも、必ず滅ぼされ、主に信頼して歩む者は、驚くべき主の御力によって守られるのだ。
「全能者にして主なる神よ。あなたのみわざは、大いなる、また驚くべきものであります。万民の王よ、あなたの道は正しく、かつ真実であります。主よ、あなたをおそれず、御名をほめたたえない者が、ありましょうか。あなただけが聖なるかたであり、あらゆる国民はきて、あなたを伏し拝むでしょう。あなたの正しいさばきが、あらわれるに至ったからであります。」(黙示録15:3-4)

礼拝説教メッセージ音声:宇宙をも動かしたヨシュアの祈り(ヨシュア記10:8-15):右クリックで保存

ヨシュア達からすれば、気乗りしない戦いだったかもしれないが、それでも、彼らが主の前に立てた誓いの故に行動を起こした時、主は言葉をかけて下さった。
『その時、主はヨシュアに言われた、「彼らを恐れてはならない。わたしが彼らをあなたの手にわたしたからである。彼らのうちには、あなたに当ることのできるものは、ひとりもないであろう」。』(ヨシュア記10:8)
人が主に対して忠実に行動するなら、主はそれを全面的にバックアップして下さる。
それも、人々があっと驚くような形で。

『ヨシュアは、ギルガルから、よもすがら進みのぼって、にわかに彼らに攻めよせたところ、主は彼らを、イスラエルの前に、恐れあわてさせられたので、イスラエルはギベオンで彼らをおびただしく撃ち殺し、ベテホロンの上り坂をとおって逃げる彼らを、アゼカとマッケダまで追撃した。
彼らがイスラエルの前から逃げ走って、ベテホロンの下り坂をおりていた時、主は天から彼らの上に大石を降らし、アゼカにいたるまでもそうされたので、多くの人々が死んだ。イスラエルの人々がつるぎをもって殺したものよりも、雹に打たれて死んだもののほうが多かった。』(ヨシュア記10:9-11)

イスラエル人達が夜通しギブオンまで急行した所、主ご自身が戦って下さった。
天から雹の石を降らせる事によって。
しかも、イスラエルの人達が倒した数より、雹で打たれて死んだ数の方が多かったのだ。
あまりに出来過ぎた話であり、人はこれを「うそだ」とか「たまたまだ」と言うかもしれないが、主は、主に信頼して御言葉に従って歩む人には、自然現象を通しても、あるいは自然を超越した現象を通しても、働かれるのだ。

『主がアモリびとをイスラエルの人々にわたされた日に、ヨシュアはイスラエルの人々の前で主にむかって言った、/「日よ、ギベオンの上にとどまれ、/月よ、アヤロンの谷にやすらえ」。民がその敵を撃ち破るまで、/日はとどまり、/月は動かなかった。これはヤシャルの書にしるされているではないか。日が天の中空にとどまって、急いで没しなかったこと、おおよそ一日であった。
これより先にも、あとにも、主がこのように人の言葉を聞きいれられた日は一日もなかった。主がイスラエルのために戦われたからである。』(ヨシュア記10:12-14)

これは、聖書の中でも、最も大いなる奇跡ランキングのトップスリーに、紛れも無く入る出来事だろう。
日が沈まずにそのまま留まる、という事は、その時だけ地球の自転が停止したか、地軸が傾いて白夜のようになったか、とにかく、宇宙規模の何かが起こったわけである。
実は、この出来事は、NASAの科学者達によって、実証されている。

人工衛星を打ち上げるにあたり、過去や未来の太陽・月・惑星などの位置を計算するのだが、太陽や地球が一日の例外もなく、普通に回って来た事を前提として計算すると、どうしても、計算が合わなくなってしまうのだ。
そこで、科学者の一人が、聖書の中のこのヨシュア記から、一日太陽が沈まなかったという記述を発見して、一日太陽と月の動きが止まった事を計算に入れた所、計算結果はかなり精度が良くなったという。
しかし、まだ誤差があって、計算が合わない。
そこで、さらに聖書の記述を調べた所、ヒゼキヤの時代に、神がヒゼキヤの祈りを聞いて日時計が10度傾いた記述(2列王記20:9-11)も発見し、それも計算に代入した所、全てのつじつまがぴったり合ったというのだ。

一人の人の祈りが、地球を動かす。人はそれを到底信じられないかもしれない。
しかし神様は、人が御心に適った祈りをするなら、いかに地球を動かすような宇宙規模の内容であれ、聞いて下さるのだ。

それはひとえに、主が栄光をあらわすためである。
なぜなら、全被造物は、主の栄光のために創られているからだ。
『日よ、月よ、主をほめたたえよ。輝く星よ、みな主をほめたたえよ。いと高き天よ、天の上にある水よ、主をほめたたえよ。・・・火よ、あられよ、雪よ、霜よ、み言葉を行うあらしよ、・・・彼らをして主のみ名をほめたたえさせよ。そのみ名は高く、たぐいなく、その栄光は地と天の上にあるからである。』(詩篇148編)

私達は、太陽や月が明日も必ず上って沈む事を、何の疑いもなく信じているが、よくよく考えると、それも不思議だとは思わないだろうか。
何万年、何億年と、太陽や月が毎日、たがわず律儀に上ったり沈んだりして来たのだ。しかも、たった2回の例外を除いて。
それも、それらの例外は、ちょうどヨシュアの軍団にとって都合よく、神の民の敵に対して都合悪いタイミングに。また、ちょうどヒゼキヤが祈り願ったタイミングに。
実に不思議であるが、もっともっと不思議な事は、この地球や太陽を含む森羅万象の源であられ、それら全てを支配しておられるイエス・キリストが、こんなちっぽけな私達の内に、宿っておられる事だろう。
『その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」。』(ヨハネ14:20-21)

礼拝説教メッセージ音声:救われた途端に来る敵からの攻撃(ヨシュア記10:1-7):右クリックで保存

『アモリびとの五人の王、すなわちエルサレムの王、ヘブロンの王、ヤルムテの王、ラキシの王、およびエグロンの王は兵を集め、そのすべての軍勢を率いて上ってきて、ギベオンに向かって陣を取り、それを攻めて戦った。』(ヨシュア記10:5)
ギブオン人達は、欺いた事によって曲がりなりにもイスラエルと和平を結び、神の民からは滅ぼされない、という確約を手に入れたが、早くも敵は、そのギブオンに向かって攻撃を仕掛けて来た。

罪深い不品行の者達から離れ、神の民と和平を結び、救いに入った途端、元々属していた罪深い者達から攻撃を受ける。
それは、今を生きる私達も、救われた時によく経験する事である。
キリストにあって神と和解し、暗闇の王国から神の光の王国へと救われた途端、以前属していた暗闇の勢力が歯ぎしりし、再び暗闇へ引きずり戻そうと攻撃を仕掛けて来る。
『過ぎ去った時代には、あなたがたは、異邦人の好みにまかせて、好色、欲情、酔酒、宴楽、暴飲、気ままな偶像礼拝などにふけってきたが、もうそれで十分であろう。今はあなたがたが、そうした度を過ごした乱行に加わらないので、彼らは驚きあやしみ、かつ、ののしっている。彼らは、やがて生ける者と死ねる者とをさばくかたに、申し開きをしなくてはならない。』(1ペテロ4:3-5)

以前属していた暗闇の者達が攻撃を仕掛けて来た時は、まことのヨシュア(イエシュア)であるキリストに助けを叫び求めるべきである。
『ギベオンの人々は、ギルガルの陣営に人をつかわし、ヨシュアに言った、「あなたの手を引かないで、しもべどもを助けてください。早く、われわれの所に上ってきて、われわれを救い、助けてください。山地に住むアモリびとの王たちがみな集まって、われわれを攻めるからです。」』(ヨシュア記10:6)
ギブオン人達は、ヨシュアに助けを求めた。

イスラエルからすれば、ギブオンは元々、和を講じるつもりのないカナン人で騙された形で和を講じたので、心情的には、救いたくはなかったかもしれない。
そのギブオンが、今、敵であるカナン人によって攻め立てられている。
このまま放置して、自分達の手を汚さず厄介払いする、という選択肢も、あったかもしれない。
しかしヨシュア達はそうせず、戦士達を率いて、ギブオン人達を助けに上って行った。(7節)

ヨシュア達のいるギルガルからギブオンまでは、およそ35km、傾斜地を登って行く形となる。
骨折れる行軍であり、気が進まない戦いかもしれないが、それでもヨシュア達は、一度立てた誓いに忠実に従って、戦闘に行った。
一度立てた誓いは変えない、それが、主の民たる品性であり、性質だからである。
『主よ、あなたの幕屋にやどるべき者はだれですか、あなたの聖なる山に住むべき者はだれですか。直く歩み、義を行い、心から真実を語る者、その舌をもってそしらず、その友に悪をなさず、隣り人に対するそしりを取りあげず、その目は神に捨てられた者を卑しめ、主を恐れる者を尊び、誓った事は自分の損害になっても変えることなく、利息をとって金銭を貸すことなく、まいないを取って/罪のない者の不利をはかることをしない人である。これらの事を行う者は/とこしえに動かされることはない。』(詩篇15:1-5)

ギブオン人のように、ついこの間まで罪深い敵だったのに、だまされて、和平を結んでしまったような相手を、骨折って助けに行くのは、心が進まないだろう。
しかし、そんな人であっても、彼らが主の元に助けを求めて来るのであるなら、いくら気乗りしなくても助けるべきである。

ひと度、主の御前で約束した事が、後になって損だと思うようになり、後悔し、やりたくない役回りに奔走するような事があるかもしれない。
しかし御前で約束した事を、忠実に従う聖徒を、主は、全面的にバックアップして下さり、大いなる御業を見させて下さるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:イスラエルの中で主に守られたギブオン人達(ヨシュア記9:16-27):右クリックで保存

イスラエルの人達は、盟約を結んで3日後、実はこの者達は、盟約を結んではならないカナンのギブオン人であった事が分かった。
『長たちは皆、全会衆に言った、「われわれはイスラエルの神、主をさして彼らに誓った。それゆえ今、彼らに触れてはならない。われわれは、こうして彼らを生かしておこう。そうすれば、われわれが彼らに立てた誓いのゆえに、怒りがわれわれに臨むことはないであろう」。長たちはまた人々に「彼らを生かしておこう」と言ったので、彼らはついに、全会衆のために、たきぎを切り、水をくむものとなった。長たちが彼らに言ったとおりである。』(ヨシュア記9:19-21)

欺かれたとはいえ、イスラエルは彼らに手を出さない、と、主の御前に誓いを立ててしまった故に、彼らは手を出せなかった。
主の前で立てた誓いを翻して主の怒りが降る事を、恐れたからである。

『ヨシュアは彼らを呼び寄せて言った、「あなたがたは、われわれのうちに住みながら、なぜ『われわれはあなたがたからは遠く離れている』と言って、われわれをだましたのか。それであなたがたは今のろわれ、奴隷となってわたしの神の家のために、たきぎを切り、水をくむものが、絶えずあなたがたのうちから出るであろう」。』(ヨシュア記9:22-23)
カナン人からすれば、奴隷となる事は「呪い」に見えるかもしれない。
しかし、彼らの命は救われ、神の民の中に住む事が出来、そして、真の神の家に仕える事ができるのは、むしろ、幸いではなかろうか。

欺いてまで盟約を結んだ理由を、ギブオン人達は以下のように説明している。
「あなたの神、主がそのしもべモーセに、この地をことごとくあなたがたに与え、この地に住む民をことごとくあなたがたの前から滅ぼし去るようにと、お命じになったことを、しもべどもは明らかに伝え聞きましたので、あなたがたのゆえに、命が危いと、われわれは非常に恐れて、このことをしたのです。われわれは、今、あなたの手のうちにあります。われわれにあなたがして良いと思い、正しいと思うことをしてください。」(24-25節)

彼らは確かに「うそ」をついてイスラエルの中に入ってきた、しかし彼らがそれをしたのは、主への恐れがあったからだ。
そして彼らは、自分達の生殺与奪の権を、ヨシュア達にゆだねた。
『そこでヨシュアは、彼らにそのようにし、彼らをイスラエルの人々の手から救って殺させなかった。しかし、ヨシュアは、その日、彼らを、会衆のため、また主の祭壇のため、主が選ばれる場所で、たきぎを切り、水をくむ者とした。これは今日までつづいている。」(26-27節)

ギブオン人は確かに、最初は「うそ」でイスラエルの中に入ってきた。
しかし彼らは、少なくとも、以前の不品行や偶像礼拝などは、捨て去ったはずだ。もしイスラエルの会衆の中で、相変わらず不品行や偶像礼拝など主の忌み嫌われる事を続けたとしたなら、誰であれ、イスラエルから即刻絶たれると律法にあるからだ。
そして彼らは日々、神の家のために、イスラエルの会衆のために奉仕をし続けた結果、良い方向へと造り変えられて行ったようだ。

主は後の時代、正当にギブオン人達の側に立って、イスラエルをさばいている。
『ダビデの世に、年また年と三年、ききんがあったので、ダビデが主に尋ねたところ、主は言われた、「サウルとその家とに、血を流した罪がある。それはかつて彼がギベオンびとを殺したためである。」そこで王はギベオンびとを召しよせた。ギベオンびとはイスラエルの子孫ではなく、アモリびとの残りであって、イスラエルの人々は彼らと誓いを立てて、その命を助けた。ところがサウルはイスラエルとユダの人々のために熱心であったので、彼らを殺そうとしたのである。』(2サムエル21:1)

神は、ヨシュアの時代に結ばれた誓いをずっと覚えておられ、手前勝手な熱心によって盟約違反をしたサウル王をさばき、ギブオン人をかばった。
主に対して忠実な者は、ギブオン人であれ、誰であれ、主はかばって下さり、その忠実な人を害した者は、いかにイスラエルの王であっても、主は害する。

『ダビデはギベオンびとに言った、「わたしはあなたがたのために、何をすればよいのですか。どんな償いをすれば、あなたがたは主の嗣業を祝福するのですか」。』(2サムエル21:3)
ダビデ王は、このききんの原因が、ギブオン人による、主に対する叫びが元であったと判明したので、「どんな償いをすれば、あなたがたは主の嗣業を祝福するのですか」と、丁重にギブオン人に聞いている。
『ギベオンびとは彼に言った、「これはわれわれと、サウルまたはその家との間の金銀の問題ではありません。またイスラエルのうちのひとりでも、われわれが殺そうというのでもありません」。・・・「われわれを滅ぼした人、われわれを滅ぼしてイスラエルの領域のどこにもおらせないようにと、たくらんだ人、その人の子孫七人を引き渡してください。われわれは主の山にあるギベオンで、彼らを主の前に木にかけましょう」。王は言った、「引き渡しましょう」。』(2サムエル記21:4-6)

ギブオン人達は、金銀のつぐないを求めるではなく、命に対して命を取る事を求めるのでもなく、「主の山にあるギベオンで、彼らを主の前に木にかけましょう」と、あくまで「主」の問題である事を言っている。
ここに、彼らの主に対する信仰が、いかにイスラエルの中で培われたかを見ることができる。
だから、この時代に至るまで彼らはイスラエルの中で守られ、主から、正当なさばきを行使していただけたのだ。

キリスト者の中にも、はじめは「うそ」をついて、教会の集まりへと入ってくる人はいる。
表向きは信仰を装っておきながら、実は、外国人と会話がしたいとか、教会の中の女性が目当てだとか。
しかし、最初の動機がどうあれ、教会のために、聖徒のために奉仕をしていく内に、きよい性質へと造り変えられ、真に救われて行く人は多い。
重要なのは以前の事ではなく、主の交わりの中において、いかに以前の邪悪な性質を捨て去り、いかに主への奉仕を忠実に行ったか、である。

礼拝説教メッセージ音声:ギブオン人達の、救われるための策略(ヨシュア記9:1-15):右クリックで保存

『さて、ヨルダンの西側の、山地、平地、およびレバノンまでの大海の沿岸に住むもろもろの王たち、すなわちヘテびと、アモリびと、カナンびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとの王たちは、これを聞いて、心を合わせ、相集まって、ヨシュアおよびイスラエルと戦おうとした。
しかし、ギベオンの住民たちは、ヨシュアがエリコとアイにおこなったことを聞いて、自分たちも策略をめぐらし、行って食料品を準備し、古びた袋と、古びて破れたのを繕ったぶどう酒の皮袋とを、ろばに負わせ、繕った古ぐつを足にはき、古びた着物を身につけた。彼らの食料のパンは、みなかわいて、砕けていた。』(ヨシュア記9:1-5)

カナン人の王達は相集い、ヨシュア達とあくまで戦おうとしていたが、ギブオンの住人は、戦うためではなく、和を講じるために策略をめぐらした。
彼らは、身にまとうもの全て、古びたぼろぼろのものを身につけ、いかにも遠い国からやって来たかのように装ったのだ。
『彼らはギルガルの陣営のヨシュアの所にきて、彼とイスラエルの人々に言った、「われわれは遠い国からまいりました。それで今われわれと契約を結んでください」。しかし、イスラエルの人々はそのヒビびとたちに言った、「あなたがたはわれわれのうちに住んでいるのかも知れないから、われわれはどうしてあなたがたと契約が結べましょう」。』(ヨシュア記9:6-7)

イスラエル人は、遠い国とは和を講じる事は出来ても、カナン人とは和を結ぶ事は出来ない。
次のように命じられているからだ。
『もしその町が穏やかに降服しようと答えて、門を開くならば、そこにいるすべての民に、みつぎを納めさせ、あなたに仕えさせなければならない。・・・遠く離れている町々、すなわちこれらの国々に属さない町々には、すべてこのようにしなければならない。ただし、あなたの神、主が嗣業として与えられるこれらの民の町々では、息のある者をひとりも生かしておいてはならない。 すなわちヘテびと、アモリびと、カナンびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとはみな滅ぼして、あなたの神、主が命じられたとおりにしなければならない。』(申命記20:11-17)

イスラエルの人々は、その有り様を怪しいと感じたのであろう。
『イスラエルの人々はそのヒビびとたちに言った、「あなたがたはわれわれのうちに住んでいるのかも知れないから、われわれはどうしてあなたがたと契約が結べましょう」。 』(ヨシュア記9:7)
そこでギブオン人は、ヨシュア(イエシュア)に、直談判する。
『彼らはヨシュアに言った、「われわれはあなたのしもべです」。ヨシュアは彼らに言った、「あなたがたはだれですか。どこからきたのですか」。彼らはヨシュアに言った、「しもべどもはあなたの神、「主(エホバ)」の名のゆえに、ひじょうに遠い国からまいりました。われわれは主の名声、および主がエジプトで行われたすべての事を聞き、また主がヨルダンの向こう側にいたアモリびとのふたりの王、すなわちヘシボンの王シホン、およびアシタロテにおったバシャンの王オグに行われたすべてのことを聞いたからです。』(ヨシュア記9:8-10)

彼らのこの言葉は、遊女ラハブが、救われるための交渉を、ヨシュアの斥候に対して仕掛けた時の言葉と、よく似ている。
彼女も、主がエジプトやエモリ人の二人の王にされた事を聞き、主を恐れ、自分達を救ってくれるように、お願いをしたものだった。
『そこでイスラエルの人々は彼らの食料品を共に食べ、主のさしずを求めようとはしなかった。そしてヨシュアは彼らと和を講じ、契約を結んで、彼らを生かしておいた。会衆の長たちは彼らに誓いを立てた。』(ヨシュア記9:14-15)

ヨシュアが主の指示をあおがず、さっさと彼らと和を講じてしまったのは、早計だったと見えるかもしれない。
しかし私は思う。主は、このギブオン人達を、かばいたかったのではないか、と。
聖書の他の箇所が示す所では、主は憐れみ深いお方であり、その御翼の陰に助けを求める人は、どこの国の人でも、豊かに救って下さったからだ。
カナン人の遊女ラハブもしかり、モアブ人ルツもしかり。
彼女たちは、「主(エホバ)」を信じる信仰のゆえにイスラエルの中に入ってゆき、ダビデ王家の栄光の家系に連なった。

全ての国民は、主を恐れ、捧げ物を携えて主の大庭入るようにと、詩篇96篇で命じられている。
『もろもろの民のやからよ、主に帰せよ、栄光と力とを主に帰せよ。そのみ名にふさわしい栄光を主に帰せよ。供え物を携えてその大庭にきたれ。聖なる装いをして主を拝め、全地よ、そのみ前におののけ。もろもろの国民の中に言え、「主は王となられた。世界は堅く立って、動かされることはない。主は公平をもってもろもろの民をさばかれる」と。』(詩篇96:7-10)
ここの9節には、「聖なる装いをして主を拝め、全地よ、そのみ前におののけ。」とある。
ギブオン人達は、屈強な戦士であり、その町も大きく堅固であった(ヨシュア記10:2)のにもかかわらず、彼らは主の民と戦おうとせず、彼らの前に身を低くし、ぼろぼろの服を身につけ、御前におののいた。
主の御前に聖なる装いとは、自分を飾らず、へりくだって身を低くし、ただ主のあわれみにすがる事である。
そのようにしたからこそ、主は、彼らを救わせたのではないだろうか。

人は外見を見るが、主は心を見る。
ギブオン人がヨシュアに直談判し、神の国と和を講じて、滅びを免れたように、私達も、まことのヨシュアであるイエス(イエシュア)に直談判し、救いを求めるなら、救われるのである。

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