メッセージ - 士師記カテゴリのエントリ
礼拝説教メッセージ音声:偽りの主張への対処方法(士師記11:12-28):右クリックで保存
元々はごろつきの首領だったエフタだが、主によって召しだされ、イスラエルを率いる士師とされた。
彼は長老達から任命を受けた後、さっそく戦いに出て行くのではなく、まずはアンモンに使者を送った。
『エフタはアンモンの人々の王に使者をつかわして言った、「あなたはわたしとなんのかかわりがあって、わたしのところへ攻めてきて、わたしの国と戦おうとするのですか」。アンモンの人々の王はエフタの使者に答えた、「昔、イスラエルがエジプトから上ってきたとき、アルノンからヤボクに及び、またヨルダンに及ぶわたしの国を奪い取ったからです。それゆえ今、穏やかにそれを返しなさい」。』(士師記11:12-13)
アンモンからこのように主張をされると、なんだか、こちらが不当な事をしていたかのような気分になるが、実際はそうではない。
相手の主義主張をそのまま丸呑みしてはならない。必ず真理の光に照らし出すべきである。
エフタは元々ごろつきの首領だったのだが、使者を通して返事した内容から、彼はかなりの知性派で、イスラエルの歴史に通じた信仰者である事がわかる。
エフタはエモリ人に、イスラエルがエジプトから出て後に歩んだ道のりを、正確に述べた。
すなわち、イスラエルがエジプトから出て、今いる地へと入った際、アモン人やモアブ人、エドム人など、アブラハムゆかりの子孫達の国には一切手出しせず、むしろ平和に通行しようと許可を求めたのに尽く断られてしまい、仕方なしに、死海南側の迂回ルートを通って行て、そうしてモアブとエモリ人の国境であるアルノン川まで来た所、アルノン川の北に住んでいたエモリ人達は、故なく武力で攻めてきたために、イスラエルは返り討ちにし、そうしてこのアルノン川以北の地は、正当防衛的な形でイスラエルのものとなったのだ。
つまり、アモン人らが所有権を主張しているアルノン川からヤボクに至る土地は、元々、エモリ人の土地であり、彼らの「アルノン川以北は元々自分のものだったから返せ」という主張は、偽りのあつかましい主張なのだ。
そのような偽りの主張は、そのまま看過して良いものではない。
偽りを黙認し、放置しておくなら、それが既成事実化してしまい、やがては実際的に奪われてしまう。いわゆる「言った者勝ち」の論理である。
サタンのやり口も全く一緒だ。
偽りの所有権を身勝手に主張し、その主張の勢い飲まれたり無抵抗だったりしていると、図に乗ってもっと侵入して来るため、そのような偽りに対しては、必ず対処しなくてはならない。
サタンが仕掛けて来る偽りの所有権主張への対処は、自分の力や議論で勝とうとする事よりも、御言葉の真理を突きつけ、上の権威に戦いを委ねるほうが確実である。
社会では、暴力団が不法な脅迫や暴力で訴えて来るなら、弁護士を呼んで、法を盾に取って守ってもらうのが通例であり、また、会社組織では、自分の手に負えない案件が来たなら、上司に振って任せるのが通例であるが、霊の戦いも、全く同じである。
敵である悪魔やサタンが何か訴えて来たなら、御言葉という最高の法を盾にとって弁護者である主に守ってもらい、また、自分の手に負えない案件が来たなら、上の権威であるキリストに振るものである。
エフタは、相手の偽りに対して、真理で返したばかりでなく、この争いを、最高の上司であるイスラエルの神、主へと持って行った。
『イスラエルの神、主はその民イスラエルの前からアモリびとを追い払われたのに、あなたはそれを取ろうとするのですか。あなたは、あなたの神ケモシがあなたに取らせるものを取らないのですか。われわれはわれわれの神、主がわれわれの前から追い払われたものの土地を取るのです。』(士師記11:23-24)
偶像の神ケモシュ対、天地を創られたまことの神、主。この戦いに持っていったなら、もう勝負は見えた。
『イスラエルはヘシボンとその村里に住み、またアロエルとその村里およびアルノンの岸に沿うすべての町々に住むこと三百年になりますが、あなたがたはどうしてその間にそれを取りもどさなかったのですか。わたしはあなたに何も悪い事をしたこともないのに、あなたはわたしと戦って、わたしに害を加えようとします。審判者であられる主よ、どうぞ、きょう、イスラエルの人々とアンモンの人々との間をおさばきください』」。しかしアンモンの人々の王はエフタが言いつかわした言葉をききいれなかった。』(士師記11:26-27)
このように、エフタは見事、真理の言葉によって相手の不真実を暴き出し、さらに、この戦いをアモン人の神対イスラエルの神へと持って行った。
私達もこのように、真理による対決方法を身につけるべきである。
礼拝説教メッセージ音声:人からは捨てられても主が用いる器(士師記11:1-11):右クリックで保存
『さてギレアデびとエフタは強い勇士であったが遊女の子で、エフタの父はギレアデであった。ギレアデの妻も子供を産んだが、その妻の子供たちが成長したとき、彼らはエフタを追い出して彼に言った、「あなたはほかの女の産んだ子だから、わたしたちの父の家を継ぐことはできません」。』(士師記11:1-2)
主が今回、イスラエルを救うために立てた士師は、遊女の子・エフタだった。
エフタのような非嫡出子は、本来、主の集会に加わる事はできない。(申命記23:2)
しかし彼は、イスラエルを救うために、主から白羽の矢が立てられた。これはどういう事か。
本来、神の民にはなれない者・なってはならない者が、神の民に加えられ、しかも、神の国のため有用に用いられる。
それは、その人の主を信じる「信仰」の故であり、また、それが信じる者にとっての醍醐味である。
エフタには主を畏れ敬う純粋な信仰があった故に、主に用いられたのだ。
私達も同じである。
私達は元々は異邦人であり、救いから遠い、罪人であったのに、主イエスを信じる信仰の故に神の民に入れ、そればかりでなく、主の御用のために用いられる者とされたのだ。
『それでエフタはその兄弟たちのもとから逃げ去って、トブの地に住んでいると、やくざ者がエフタのもとに集まってきて、彼と一緒に出かけて略奪を事としていた。』(士師記11:3)
エフタは異母兄弟から追い出されていたため、やくざ者の頭として略奪をしていたが、略奪する相手は、イスラエルから略奪していたのではなく、アモン人からだったと思われる。
なぜなら、もし彼がイスラエルから略奪しているとしたら、長老達からの申し出も無かっただろう。しかしもし彼がアモン人にいつも損害を与えていたのなら、長老達が彼に助けを求めて来たのもうなずける。
それに、彼自身は主を恐れ敬う信仰者であるので、神の民イスラエルから略奪するのは考えにくい。
エフタは、長老達からの申し出を一旦は断ったものの、長老たちは食い下がる。
『ギレアデの長老たちはエフタに言った、「それでわたしたちは今、あなたに帰ったのです。どうぞ、わたしたちと一緒に行って、アンモンの人々と戦ってください。そしてわたしたちとギレアデに住んでいるすべてのものとのかしらになってください」。エフタはギレアデの長老たちに言った、「もしあなたがたが、わたしをつれて帰って、アンモンの人々と戦わせるとき、主が彼らをわたしにわたされるならば、わたしはあなたがたのかしらとなりましょう」。』(士師記11:8-9)
エフタは「主が彼らを私に渡されるなら」と言った。
ここに、勝利は主からのものであるという、彼の正当な信仰が垣間見られる。
『ギレアデの長老たちはエフタに言った、「主はあなたとわたしたちの間の証人です。わたしたちは必ずあなたの言われるとおりにしましょう」。そこでエフタはギレアデの長老たちと一緒に行った。民は彼を立てて自分たちのかしらとし、大将とした。それでエフタはミヅパで、自分の言葉をことごとく主の前に述べた。』(士師記11:10-11)
彼は、自分が大将となって、アモン人と戦う事を、真っ先に主に報告した。
その事からも、彼の信仰の純粋である事を、伺い知る事が出来る。
人々は、彼が遊女の子である事を理由に軽んじ、一度は捨てたが、主は、御目をもってあまねく全地を見渡し、心が主にひとつとなっている人を探され、その物をもちいられる。(2歴代誌16:9)
神はこのように、人から軽んじられている人を、あえてよく用いられる。
なぜなら、救いは人の力や知恵によるのではなく、ただ神によるものであると、人々が知るためだ。
『兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。』(1コリント1:26-29)
礼拝説教メッセージ音声:憐れみの扉を開いていただくには(士師記10:1-18):右クリックで保存
『アビメレクの後、イッサカルの人で、ドドの子であるプワの子トラが起ってイスラエルを救った。彼はエフライムの山地のシャミルに住み、二十三年の間イスラエルをさばいたが、ついに死んでシャミルに葬られた。彼の後にギレアデびとヤイルが起って二十二年の間イスラエルをさばいた。彼に三十人の子があった。彼らは三十頭のろばに乗り、また三十の町をもっていた。ギレアデの地で今日まで、ハボテ・ヤイルと呼ばれているものがそれである。ヤイルは死んで、カモンに葬られた。』(士師記10:1-5)
アビメレクの荒んだ統治の後、主はトラとヤイルという士師を任命し、イスラエルをさばかせた。
その合計45年間、平和だったようであるが、彼らが死んだ後、イスラエルはさっそく主を捨て去り、不従順の時代に逆戻りした。
『イスラエルの人々は再び主の前に悪を行い、バアルとアシタロテおよびスリヤの神々、シドンの神々、モアブの神々、アンモンびとの神々、ペリシテびとの神々に仕え、主を捨ててこれに仕えなかった。主はイスラエルに対して怒りを発し、彼らをペリシテびとの手およびアンモンびとの手に売りわたされたので、彼らはその年イスラエルの人々をしえたげ悩ました。すなわち彼らはヨルダンの向こうのギレアデにあるアモリびとの地にいたすべてのイスラエルびとを十八年のあいだ悩ました。』(士師記10:6-8)
彼らは今までに無いほど多くの種類の神々を拝むようになってしまっている。
今回、イスラエルを悩ませるために主が用いられたのは、ペリシテ人とアンモン人であるが、イスラエルはペリシテ人やアンモン人の神を頼りにした結果、そこの人々によって苦しめられた。皮肉なものである。
人が主を捨てて、別のものに頼るなら、主はその人を立ち返らせるため、その頼りにしたものを用いて懲らしめられる。
例えば主よりもお金に頼るなら、主はその人をお金によって苦しめられ、主よりも異性のほうを取るなら、主は異性を用いて懲らしめられるものだ。
『またアンモンの人々がユダとベニヤミンとエフライムの氏族を攻めるためにヨルダンを渡ってきたので、イスラエルは非常に悩まされた。そこでイスラエルの人々は主に呼ばわって言った、「わたしたちはわたしたちの神を捨ててバアルに仕え、あなたに罪を犯しました」。』(士師記10:9-10)
イスラエルは、自分たちが罪を犯した、と告白している。
今回は18年目にしてやっとである。
しかし、主の返事はつれない。
『主はイスラエルの人々に言われた、「わたしはかつてエジプトびと、アモリびと、アンモンびと、ペリシテびとからあなたがたを救い出したではないか。またシドンびと、アマレクびとおよびマオンびとがあなたがたをしえたげた時、わたしに呼ばわったので、あなたがたを彼らの手から救い出した。しかしあなたがたはわたしを捨てて、ほかの神々に仕えた。それゆえ、わたしはかさねてあなたがたを救わないであろう。あなたがたが選んだ神々に行って呼ばわり、あなたがたの悩みの時、彼らにあなたがたを救わせるがよい」。』(士師記10:11-14)
せっかく人々が自分の罪を告白しているのに、何故、主はそんなにつれないのか。
それは彼らは、口先では自分達が悪かったと告白しているものの、実はまだ偶像の神々を手放していなかったからだ。
もし彼らが、主のつれない返事に引き下がっていたならば、災いはまだ続いていただろう。
しかしイスラエルの民は、主に食い下がった。
『イスラエルの人々は主に言った、「わたしたちは罪を犯しました。なんでもあなたが良いと思われることをしてください。ただどうぞ、きょう、わたしたちを救ってください」。そうして彼らは自分たちのうちから異なる神々を取り除いて、主に仕えた。それで主の心はイスラエルの悩みを見るに忍びなくなった。』(士師記10:15-16)
彼らは今まで頼りにしていた神々を捨ててて、主に願い求めた。
そこで、主は彼らをあわれまずにはいられなくなった。
私達も同じである。
主の忌み嫌われるものを手放さないまま、口先でいくら自分が悪かったと告白しても、主からつれない返事を受けるだけである。
しかし、それらを手放して主に憐れみを願うなら、主は私達を憐れまずにはおられない。
主の忌み嫌われるもの、それは、容易には手放せないものかもしれない。習慣的なくせや、性格的な問題、あるいは、依存性のものなど。
そのような場合は、それに対し、「イエス様の名前によって」断ち切る事を、自らに宣言するとよい。
イエス様の名前は何も、誰か他人の病や悪霊を追い出すだけのものではない。
自分自身の手放すべき性質や、自分の人生の呪われている領域に対し、死をいのちに飲み込む事をイエスの名によって宣言するなら、今まで固く縛られていた領域は解放され、それまで閉じていた祝福の窓は開かれて行くのである。
私達も、主以外のものに頼っていたものを捨て去り、主に立ち返るなら、主は憐れみの扉を開いて下さるのだ。
礼拝説教メッセージ音声:アビメレクという茨から火がのぼり(士師記9:41-57):右クリックで保存
『こうしてアビメレクは引き続いてアルマにいたが、ゼブルはガアルとその身内の人々を追い出してシケムにおらせなかった。翌日、民が畑に出ると、そのことがアビメレクに聞えた。アビメレクは自分の民を率い、それを三組に分け、野に身を伏せて、うかがっていると、民が町から出てきたので、たちあがってこれを撃った。』(士師記9:41-43)
アビメレクは、ガアルを追い出しただけでは飽きたりなかった。
シェケムの人々は、畑仕事をするために町から出てきた。
アビメレクはもうガアルが追い出された事で「気が済んだ」と彼らは思っていたのだろう、日常生活に戻ろうとしていたた所を、アビメレクは待ち伏せして、殺戮し、また、町を襲って住人を殺し、破壊した後、塩をまいた。(士師記9:43-45)
塩をまいたのは、その町が汚れたものである事を示し、それを自分達”正規軍”が懲罰して清めた、という事を内外に示すためであろう。
それで彼はさらに勢いづき、別の所を攻め取るために、進んで行った。
『シケムのやぐらの人々は皆これを聞いて、エルベリテの宮の塔にはいった。』(士師記9:46)
ここで「塔」と口語訳で訳された言葉は、元来、戦いの時に立て篭って抗戦するために用いる「とりで」のようなものの意味で、新改訳では「地下室」、新共同訳では「地下壕」と訳されている。
また、「エルベリテの宮」を直訳するなら「ベリテの神の家」、つまり彼らは、偶像礼拝施設の中の、敵がうかつに攻め込めないような所に、立て籠もったのである。
『アビメレクは自分と一緒にいた民をことごとく率いてザルモン山にのぼり、アビメレクは手におのを取って、木の枝を切り落し、それを取りあげて自分の肩にのせ、一緒にいた民にむかって言った、「あなたがたはわたしがしたことを見たとおりに急いでしなさい」。そこで民もまた皆おのおのその枝を切り落し、アビメレクに従って行って、枝を塔によせかけ、塔に火をつけて彼らを攻めた。こうしてシケムのやぐらの人々もまたことごとく死んだ。男女おおよそ一千人であった。』(士師記9:48-49)
アビメレクは、逃げ場の無い彼らを、火攻めという残酷な方法で殺し、それでも飽きたらず、さらに次の所を攻めに行く。
彼は一見、勝利に勝利を重ね、快進撃しているように見えるが、それは一時的であり、彼がもっと傲慢になって自ら滅びへと邁進して行くように、主がしておられるのである。
『ついでアビメレクはテベツに行き、テベツに向かって陣を張り、これを攻め取ったが、町の中に一つの堅固なやぐらがあって、すべての男女すなわち町の人々が皆そこに逃げ込み、あとを閉ざして、やぐらの屋根に上ったので、アビメレクはやぐらのもとに押し寄せてこれを攻め、やぐらの入口に近づいて、火をつけて焼こうとしたとき、ひとりの女がアビメレクの頭に、うすの上石を投げて、その頭骸骨を砕いた。
アビメレクは自分の武器を持つ若者を急ぎ呼んで言った、「つるぎを抜いてわたしを殺せ。さもないと人々はわたしを、女に殺されたのだと言うであろう」。その若者が彼を刺し通したので彼は死んだ。』(士師記9:50-54)
将軍シセラがヤエルに殺された時のように、将軍や王などが女に殺されて死ぬは、かなりの恥であった。
それでアビメレクは、そのそしりを受けないようにと、道具持ちの若者に自分を殺させるという”工夫”をしたものの、のちの時代には、彼は「女によって殺された」と語り継がれており、しかも、城壁にうっかり近づき過ぎると、アビメレクのように女にも殺されかねない、と、注意喚起の象徴のようにされたようである。(2サムエル記11:20-21)
『イスラエルの人々はアビメレクの死んだのを見て、おのおの去って家に帰った。このように神はアビメレクがその兄弟七十人を殺して、自分の父に対して犯した悪に報いられた。また神はシケムの人々のすべての悪を彼らのこうべに報いられた。こうしてエルバアルの子ヨタムののろいが、彼らに臨んだのである。』(士師記9:55-57)
エルバアルの血の唯一の生き残りであるヨタムは、こう預言していた。
『アビメレクから火が出て、シケムの人々とベテミロとを焼きつくし、またシケムの人々とベテミロからも火が出てアビメレクを焼きつくすでしょう。』(士師記9:20)
彼が預言した通り、アビメレクという”いばら”は、シェケムを焼き、アビメレク自身も、相手に”火”をつけようとしている最中に、女によって脳天を割られ、火の滅びは自分の頭上に返った。
血を流すものは血を流され(創世記9:6)、剣を取る者は剣によって滅びる。(マタイ26:52)
『あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。あわれみは、さばきにうち勝つ。』(ヤコブ2:13)
私達は神を恐れつつ、御言葉に従い、柔和な者、地を相続する者として、安全に歩んでいきたい。
礼拝説教メッセージ音声:神を恐れない者に現れる特徴(士師記9:26-40):右クリックで保存
アビメレクがイスラエルを治めるようになって以来、アビメレクとシェケムの人々との間に、争いが続いていたが、そこに、ガアルという者が来た。
『さてエベデの子ガアルはその身内の人々と一緒にシケムに移住したが、シケムの人々は彼を信用した。人々は畑に出てぶどうを取り入れ、それを踏み絞って祭をし、神の宮に行って飲み食いしてアビメレクをのろった。』(士師記9:26-27)
神の宮、といっても、それは偶像の宮であり、ガアルはそこでシェケムの人々と一緒に飲み食いしながら、アビメレクの悪口に花を咲かせた。
シェケムの人々は、ガアルのアビメレク叩きに、そうだそうだと言って持ち上げたのだろう。
ガアルは気が大きくなって「アビメレクに向かって『おまえの軍勢を増して出てこい』と言うであろう。」と大言壮語した。(士師記9:28-29)
上司の面前では言えない大口を、陰の酒の席で互いに言い合っているようなものである。
しかし、それを聞いていたアビメレクの役人ゼブルは、彼らに反乱の心がある事を、アビメレクに告げ口する。
『町のつかさゼブルはエベデの子ガアルの言葉を聞いて怒りを発し、使者をアルマにおるアビメレクにつかわして言わせた、「エベデの子ガアルとその身内の人々がシケムにきて、町を騒がせ、あなたにそむかせようとしています。それであなたと、あなたと共におる人々が夜のうちに行って、野に身を伏せ、朝になって、日ののぼるとき、早く起き出て町を襲うならば、ガアルと、彼と共におる民は出てきて、あなたに抵抗するでしょう。その時あなたは機を得て、彼らを撃つことができるでしょう」。』(士師記9:30-33)
アビメレクはこれを聞いて、先手を打ち、ゼブルの言うとおりに備えて、この反乱を未然に防いだ。
そうしてガアルは追い出され、多くの人々が刺殺され、倒れた。
こうしてアビメレクは反乱分子を平定した、はずだが、彼はなおシェケムを徹底的に攻撃して行く。
このように彼らが憎みあい、骨肉の争いをするのは、神がそのようにしているためである。
神を恐れず、人を人とも思わず、そして自分の欲望を遂げるためには、手段を選ばないような者達を、神はさらに良くない思いへと引き渡され、自滅して行くに任せられる。
『彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられた。すなわち、彼らは、あらゆる不義と悪と貪欲と悪意とにあふれ、ねたみと殺意と争いと詐欺と悪念とに満ち、また、ざん言する者、そしる者、神を憎む者、不遜な者、高慢な者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者となり、無知、不誠実、無情、無慈悲な者となっている。』(ローマ1:28-31)
この、神を恐れない者に現れる特徴のリストを見ていると、実に、アビメレクやガアル、シェケムの人々の性質そのものであると分かる。
これらの良くない思いは、ひとえに、神を恐れない所から来る。
そしてその特徴は、特に、偶像礼拝者に顕著である。
『なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである。ゆえに、神は、彼らが心の欲情にかられ、自分のからだを互にはずかしめて、汚すままに任せられた。彼らは神の真理を変えて虚偽とし、創造者の代りに被造物を拝み、これに仕えたのである。創造者こそ永遠にほむべきものである、アァメン。』(ローマ1:21-25)
私達はいつも神への畏れを持ち、御言葉に親しみ、自らをきよく保つべきである。
そうするなら、さらにさらに良き性質を身に帯びるようになり、主に愛され、守られるようになって行くからだ。
礼拝説教メッセージ音声:主が悪霊を送られる時(士師記9:22-25):右クリックで保存
『アビメレクは三年の間イスラエルを治めたが、神はアビメレクとシケムの人々の間に悪霊をおくられたので、シケムの人々はアビメレクを欺くようになった。これはエルバアルの七十人の子が受けた暴虐と彼らの血が、彼らを殺した兄弟アビメレクの上と、彼の手を強めてその兄弟を殺させたシケムの人々の上とに報いとなってきたのである。シケムの人々は彼に敵して待ち伏せする者を山々の頂におき、すべてその道を通り過ぎる者を略奪させた。このことがアビメレクに告げ知らされた。』(士師記9:22-25)
主は、敢えて邪悪な事を行う者や、御言葉を退けて肉欲に従って歩むような者達には悪い霊を送り、その者を災いへと向かわせる事がある。
イスラエルの最初の王・サウルは、主の御声に聞き従わず、御言葉を退け続けたので、主は彼を王位から退けて悪い霊を送り、彼は狂気へと走って行ったし、イスラエル最悪の王・アハブの時も、主は彼に惑わす霊を送り、滅びへと導いた。
サウル王も、アハブ王も、共通している事は、預言者の言う事を聞かず、自分に都合の良い事を言ってもらう者を身近に囲って、真実である主の言葉を退けた事だ。
真理から目をそむけ、自分に都合の良い「偽り事」にばかり目を向けている者には、主から悪い霊を送られてしまうのだ。
『不法の者が来るのは、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議と、また、あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行うためである。彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送り、こうして、真理を信じないで不義を喜んでいたすべての人を、さばくのである。』(2テサロニケ2:8-12)
霊だからと言って、何もかも信じてはならない。
主からのものでない霊は、その人を滅びに導き、神の民を惑わし、混乱させ、滅びへと導いてしまうからだ。
『愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである。あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である。あなたがたは、それが来るとかねて聞いていたが、今やすでに世にきている。』(1ヨハネ4:1-3)
私達はむしろ、あらゆる偽りや悪しき霊に対し、また、戦いを挑んでくる肉欲に対し、対抗するべきである。
いつもキリストと交わり、いつも御言葉によく親しんでいるなら、そのような「偽り」が来た時にはすぐに分かるし、どのように対処すれば良いのかも判る。
人々が健全な教えから離れ、勝手気ままな道に歩んでいこうとするような時代こそ、真理の御言葉に目を向けるべきである。
『御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。』(2テモテ4:2-5)
礼拝説教メッセージ音声:主を差し置いて王を求める事の災い(士師記9:7-21):右クリックで保存
イスラエルに誠実を尽くしたギデオンすなわちエルバアルの七十人の子達は、アビメレクの野心によって虐殺され、その惨劇の唯一の生き残りであるヨタムは、ゲリジム山に登って、その事をした者達に呼ばわった。
『ある時、もろもろの木が自分たちの上に王を立てようと出て行ってオリブの木に言った、『わたしたちの王になってください』。しかしオリブの木は彼らに言った、『わたしはどうして神と人とをあがめるために用いられるわたしの油を捨てて行って、もろもろの木を治めることができましょう』。』(士師記9:8)
この「もろもろの木」は、アビメレクをかついだシェケムの人々をあらわしているのだろう。
たとえの中で、その木々は、自分達を治める王になって欲しいと、オリーブの木、いちじくの木、ぶどうの木に求めているのだが、次々と断られる。
オリーブの木からは『わたしはどうして神と人とをあがめるために用いられるわたしの油を捨てて行って、もろもろの木を治めることができましょう。』と、またいちじくの木からは『わたしはどうしてわたしの甘味と、わたしの良い果実とを捨てて行って、もろもろの木を治めることができましょう。』と、ぶどうの木からは、『わたしはどうして神と人とを喜ばせるわたしのぶどう酒を捨てて行って、もろもろの木を治めることができましょう。』と言って断られた。
自分の分をわきまえている人は、敢えて王となる事は望まないものであり、ただ、神様から与えられた賜物を用いて、神と人とを喜ばせる良き実を結ばせる事で満足するものである。
しかし、どうしても自分たちが好むように治めて欲しいと願う者達は、どうしても王を求めるものであり、そして彼らはその事が主を退けている事に気づいていない。(1サムエル8章)
結局、彼らが王になって欲しいと行き着いた最終先は、いばらであった。
『そこですべての木はいばらに言った、『きてわたしたちの王になってください』。いばらはもろもろの木に言った、『あなたがたが真実にわたしを立てて王にするならば、きてわたしの陰に難を避けなさい。そうしなければ、いばらから火が出てレバノンの香柏を焼きつくすでしょう』。』(士師記9:14-15)
この「いばら」はアビメレクを指している。彼らは、最も愚かなものを、王に立ててしまったのだ。
そこでヨタムは言う。
『あなたがたがアビメレクを立てて王にしたことは、真実と敬意とをもってしたものですか。あなたがたはエルバアルとその家をよく扱い、彼のおこないに応じてしたのですか。わたしの父はあなたがたのために戦い、自分の命を投げ出して、あなたがたをミデアンの手から救い出したのに、あなたがたは、きょう、わたしの父の家に反抗して起り、その子七十人を一つの石の上で殺し、その腰元の子アビメレクをあなたがたの身内の者であるゆえに立てて、シケムの人々の王にしました。』(士師記9:16-18)
シェケムの者達は、エルバアルの恩を、仇で返して来た。
自分達に都合よくしてもらいたいがために、恩ある人々を平気で殺して、都合よく王を仕立てる。そのような者には、呪いがもたらされる。
『あなたがたが、きょう、エルバアルとその家になされたことが真実と敬意をもってしたものであるならば、アビメレクのために喜びなさい。彼もまたあなたがたのために喜ぶでしょう。しかし、そうでなければ、アビメレクから火が出て、シケムの人々とベテミロとを焼きつくし、またシケムの人々とベテミロからも火が出てアビメレクを焼きつくすでしょう」。』(士師記9:19-20)
ヨタムはこのように宣言したが、最終的にはその通りに、彼らは互いを火で焼き合うような事になって行く。
ヤコブは言う。
『わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。・・・舌は小さな器官ではあるが、よく大言壮語する。見よ、ごく小さな火でも、非常に大きな森を燃やすではないか。舌は火である。不義の世界である。舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。』(ヤコブ3:1-6)
私達は、いたずらに人の上に立って教師のようになろうとしたり、まことの王であるキリストを差し置いて、自分が王のようになろうとすると、その高慢が、自分自身を焼きつくし滅ぼしてしまう元となる。
私達はただ、与えられている賜物に従って、神と人とを喜ばせる実を結んでいくべきである。
礼拝説教メッセージ音声:虐殺されてしまったギデオンの息子達(士師記9:1-6):右クリックで保存
ギデオン、すなわちエルバアルの死後、イスラエルは早速堕落し、しかも、神の民とは思えない程の凄惨な事を起こす。
イスラエルのために命がけで戦ったエルバアルの息子たち七十人が、二人を除いて全員殺されてしまうのだが、それは息子のうちの一人・アビメレクの野心によった。
『さてエルバアルの子アビメレクはシケムに行き、母の身内の人たちのもとに行って、彼らと母の父の家の一族とに言った、「どうぞ、シケムのすべての人々の耳に告げてください、『エルバアルのすべての子七十人であなたがたを治めるのと、ただひとりであなたがたを治めるのと、どちらがよいか。わたしがあなたがたの骨肉であることを覚えてください』と」。』(士師記9:1-2)
そもそもエルバアルは、自分も自分の子もイスラエルの王にはならない、主が、あなた方を治められる、と、宣言したはずである。
だから、エルバアルの息子たちも、その時、王ではなく普通人として平和に暮らしていたはずであり、その七十人を持ちだして、「エルバアルのすべての子七十人であなたがたを治めるのと、ただひとりであなたがたを治めるのと、どちらがよいか。」と持ちかけるのも、おかしな話である。
とにかくアビメレクは、王になりたかったのだ。そして、彼の身内の者たちは、それになびいた。
強欲な者は、その強欲さがその人を滅ぼす元となる。(1テモテ6:10)
『そこで母の身内の人たちがアビメレクに代ってこれらの言葉をことごとくシケムのすべての人々の耳に告げると、彼らは心をアビメレクに傾け、「彼はわれわれの兄弟だ」と言って、バアル・ベリテの宮から銀七十シケルを取って彼に与えた。アビメレクはそれをもって、やくざのならず者を雇って自分に従わせ、オフラにある父の家に行って、エルバアルの子で、自分の兄弟である七十人を、一つの石の上で殺した。ただしエルバアルの末の子ヨタムは身を隠したので生き残った。』(士師記9:3-5)
偶像の宮から受けた金を元手にして、やくざのならず者を雇い、平和に暮らしていたエルバアルの子達、あの、イスラエルに誠意を尽くしたエルバアルの子達七十人を、一つの岩の上で、平気で皆殺しにする。それはどれほど凄惨な光景だっただろう。
そうした事は聖なる民に出来る事ではないし、また神を知らぬ者であっても、並の神経でできる事ではない。
人は、生ける神から離れて偶像を礼拝をし出すと、神への恐れがなくなり、また、聖なる御言葉から離れて世のならず者の言葉に耳を傾けていると、残虐な事も、平気で出来るようになってしまうのだ。
実際現代は、映画やゲームなどで残虐なシーンに何度も触れているため、それに慣れてしまい、行き過ぎた暴力を振るったり、残虐な殺人事件をしたりする者が、増えてしまっている。
『鉄は鉄をもって研磨する。人はその友によって研磨される。』(箴言27:17)
だから私達は、友にするべき人間も、そして、友にするべき「見聞きするもの」に対しても、気をつけるべきである。
『そこでシケムのすべての人々とベテミロのすべての人々は集まり、行ってシケムにある石の柱のかたわらのテレビンの木のもとで、アビメレクを立てて王とした。』(士師記9:6)
こうして、アビメレクは自らの野心と手前勝手な「自分のよかれ」によって王にのし上がったが、それは長続きすることは無い。
神は侮られるようなお方ではない。人は、自分はまいたものは、きっちり刈り取ることになる。(ガラテヤ6:7)
あの素晴らしい信仰者であってエルバアルに、なぜアビメレクのような者が育ってしまったのか。
やはり、多くの妻を持つことが全ての元凶であろう。
妻が二人、三人になると、夫一人が妻に対して注げる時間や愛情はどうしても二分の一、三分の一となってしまい、妻の側からの夫に対する思い、恨み、寂しさなどが、そのまま子育てに影響し、子供が身につけていく世界観に影響してしまうのだ。
『「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」。この奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしている。』(エペソ5:31-32)
夫婦は「ふたりで」一つなのだ。そしてそれは、キリストと教会との型である。
キリストがただ教会を愛されたように、夫は、一人の妻以外の女性に愛を注ぐことは出来ない。
礼拝説教メッセージ音声:力と女と金(士師記8:29-35):右クリックで保存
ミデヤン人からイスラエルを救ったギデオンの、その後の人生はどうだったか。
『ヨアシの子エルバアルは行って自分の家に住んだ。ギデオンは多くの妻をもっていたので、自分の子供だけで七十人あった。』(士師記8:29-30)
彼は、多くの妻を持った。
聖書には、多く妻を持った人の事例も多くあるが、妻たちの意識や、子の成長において、問題が無い試しは無い。
モーセは、王たる人がしてはならない事を3つ示している。
それは、自分のために馬を集める事、妻を多く持つ事、金銀を多く蓄える事である。(申命記17:16-17)
馬は、多く持つ事によって軍事力が強くなるが、力を追求し、それを頼みとする者は、おごり高ぶって神をないがしろにしやすい。
また、妻を多く持ってはならない理由を、モーセは「心迷うから」と言っている。(申命記17:17) 事実、あんなに知恵が与えられたソロモンでさえ、多くの妻によって心迷わされ、イスラエル全体を堕落へと導いてしまった。
主は元々、人を男と女とに創造され、「ふたりは一体となる」と言われた。ゆえに、多くの伴侶を持つのは、本来在るべき姿ではないのだ。
また、金銀を多く持とうとする人も、やはり神にではなく金銀のほうに頼みを置いて、主から離れやすいものである。
『金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。』(1テモテ6:9)
力と女と金。
世の男達はそれらを追求し、それらをいかに多く持つかによって、男としてのステータスを上げようとするような所があるが、神の民は、力、女、金の積み上げによって安定を求めるべきではなく、主に信頼し、御言葉を守り行う事によって、主からの、決して揺るがされる事の無い全き安定を求めるべきである。
ギデオンは、力の追求こそしなかったが、女と金を集め、それが彼の家に罠となってしまった。
『シケムにいた彼のめかけがまたひとりの子を産んだので、アビメレクと名づけた。』(士師記8:31)
このアビメレクが、後のギデオンの家とイスラエルに災いをもたらすものとなってしまうのだ。
『ヨアシの子ギデオンは高齢に達して死に、アビエゼルびとのオフラにある父ヨアシの墓に葬られた。ギデオンが死ぬと、イスラエルの人々はまたバアルを慕って、これと姦淫を行い、バアル・ベリテを自分たちの神とした。すなわちイスラエルの人々は周囲のもろもろの敵の手から自分たちを救われた彼らの神、主を覚えず、またエルバアルすなわちギデオンがイスラエルのためにしたもろもろの善行に応じて彼の家族に親切をつくすこともしなかった。』(士師記8:32-35)
ギデオンは長寿をまっとうしたが、彼が死ぬとすぐ、イスラエルは堕落してしまった。
人間の指導者がいなくなると、すぐに主から心を翻してしまうのは、彼らにとっての王、あるいは彼らにとっての神は、自分に良い目を見させてくれるなら誰でも良いわけである。ギデオンであろうと、バアルであろうと、バアル・ベリテであろうと、まことの神である主であろうと。
神である主を、何か、取り替え可能な存在としている限り、災いは絶える事はない。
日本という国は、八百万の神の他、占いも盛んで、まさにそのような状態である。
私達キリスト者は、世の者のように力や金、女を追求するのではなく、また、寄り頼むべき主を軽んじる事なく、御言葉に記されている事を学び、それを守り行うべきである。
礼拝説教メッセージ音声:人が定めるものに秘められている罠(士師記8:22-27):右クリックで保存
ミデヤン人の王達は、ギデオンによって討ち取られ、いよいよ、イスラエルに平和が訪れた。
そして、人々はギデオンの所に来て言った。『あなたはミデアンの手からわれわれを救われたのですから、あなたも、あなたの子も孫もわれわれを治めてください。』(士師記8:22)
後の時代でもサムエルが言っているように、イスラエルの国は、誰が「人間」が王となって治める事は、御心に叶わない事である。
ギデオンもそれを知っていて、人々に正しく応えた。
『わたしはあなたがたを治めることはいたしません。またわたしの子もあなたがたを治めてはなりません。主があなたがたを治められます。』(士師記8:23)
現代を生きる私達も同じである。
私達が王とすべき方は、キリストお一人であり、それ以外の何者かを王とするなら、その人は誤った歩みをしてしまう。
キリスト以外の「何者か」とは、自分自身をはじめ、大好きな伴侶、何らかのイデオロギー、あるいは、霊的指導を受けている牧師先生も、それに含まれる。
キリストの御言葉よりも、それらのものを上に据え、キリストよりも優先させてしまうなら、それは偶像礼拝である。
キリスト以外の何者かは、必ず間違いを犯すし、御言葉以外の「ことば」は、不完全である。
しかし、主は決して間違いを侵さない。
この御方を唯一の王とする人達が教会であり、教会の一人ひとりがしっかりとキリストを王としているなら、そこは真に統率が取れ、平和であり、力に溢れ、共に栄えていくのである。
しかしギデオンは、どういうわけか、次の事を人々に指示した。
『「わたしはあなたがたに一つの願いがあります。あなたがたのぶんどった耳輪をめいめいわたしにください」。ミデアンびとはイシマエルびとであったゆえに、金の耳輪を持っていたからである。彼らは答えた、「わたしどもは喜んでそれをさしあげます」。そして衣をひろげ、めいめいぶんどった耳輪をその中に投げ入れた。
こうしてギデオンが求めて得た金の耳輪の重さは一千七百金シケルであった。ほかに月形の飾りと耳飾りと、ミデアンの王たちの着た紫の衣およびらくだの首に掛けた首飾りなどもあった。ギデオンはそれをもって一つのエポデを作り、それを自分の町オフラに置いた。イスラエルは皆それを慕って姦淫をおこなった。それはギデオンとその家にとって、わなとなった。』(士師記8:24-27)
エポデは、祭司が身に付ける服であり、胸の部分には12種類の宝石がはめ込まれた「さばきの胸当て」が結わえ付けられ、その中には、主の御心を伺うウリムとトンミムが入れられるものである。(出エジプト記28章)
ダビデもよく主に御心を求め、その度に「エポデを持って来なさい」と祭司に言っていた。(1サムエル23:9)
ギデオンが、どういう動機で金のエポデを作らせたのかは、書いていないので憶測しかできないが、もしかしたら、次の事かもしれない。
すなわち彼は、主に何度も御心を伺い、尽く答えられ、それによってイスラエルに勝利をもたらした。
それで彼は、勝利の源は「御心を伺うことだ」と、御心を伺う象徴として、金のエポデを作り、後の時代の人々に、御心を伺わせるよう仕向けたのかもしれない。
しかし残念ながら、イスラエル人の心が未熟であったため、それはギデオンとその家に対し、そして、イスラエル全体に対し、つまづきの道具となってしまった。
「イスラエルは皆それを慕って”姦淫”をおこなった。」(士師記8:27)
イスラエルにおいて、姦淫とは、何も男女間で行われる性的な罪には限らない。
神の民にとっては、主こそまことの夫であり、それ以外の何者かを「主人」とする事が、すなわち姦淫なのである。(レビ記20:5-6)
たとえ最初は純粋な動機で作ったもの - それが何か記念的な、あるいは象徴的なものであろうと、あるいは、何かの決まり事であろうと - それが後には、人々の未熟さの故に、神から離れて行く道具として、サタンに悪用されてしまう、という事は、十分に有り得る。
例えば、クリスマスは本来、キリストの誕生を祝うために制定された日であるはずなのに、現代の日本を見れば分かる通り、人々をキリストへ導くどころか、多くの罪や物欲・性欲をそそらせる道具として、サタンに悪用されてしまっている。
だから主は、何者も「形」を作ってはならない、と、十戒で真っ先に定められたのだろう。
『あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。』(出エジプト記20:3-6)
私達は、形があるものであれ無いものであれ、主イエス・キリスト以外のものを、主以上に慕ってはならないし、また、誰かから主以上に「慕われ」てもいけない。
人が定める全てのものには、人を罪に束縛する罠となる可能性が秘められており、それに陥らないよう、日々気をつける必要がある。