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メッセージ - 士師記カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:失敗してしまった信仰の継承(士師記2:6-15):右クリックで保存

士師記の記者は、ヨシュアが生きていた時代から、士師記の時代に至るまでの、イスラエルの略歴を説明している。
ヨシュアと共に主の大いなるわざを見、体験していた世代は、主に仕えていたが、信仰の継承がうまく行っていなかったようである。
『ヨシュアが民を去らせたので、イスラエルの人々はおのおのその領地へ行って土地を獲た。民はヨシュアの在世中も、またヨシュアのあとに生き残った長老たち、すなわち主がかつてイスラエルのために行われたすべての大いなるわざを見た人々の在世中も主に仕えた。・・・そしてその時代の者もまたことごとくその先祖たちのもとにあつめられた。その後ほかの時代が起ったが、これは主を知らず、また主がイスラエルのために行われたわざをも知らなかった。』(士師記2:6-10)

信仰の継承においては、自分がかつて見て体験した事を、単に口先で伝えるだけでは、不十分である。
ヨシュアから学んだ事をその本人も実践するなら、主は、ヨシュアにして下さったと同じように、大いなるわざをその人にも為して下さり、生まれてきた新しい世代達も、それを一緒に見、体験し、共に味わうなら、そのような家系は信仰にあって必ず栄え、廃れる事はない。
しかし、ヨシュアなどの偉大な信仰者と一緒に歩んでおきながら、自分が経験した事に安住し、自身は偉大な信仰者にならって「行う」事もなく、単に「むかしはこうだった」と伝えているだけなら、信仰の継承は、うまく行かない。

当時のイスラエルは、ヨシュアから命じられていた事を、どんどん先延ばしにし、ヨシュアにならって行動する事も、主のみわざを体験する事も無かった彼らは、世代が変わったとたん、主の怒りを引き起こすような事をし出してしまった。
『イスラエルの人々は主の前に悪を行い、もろもろのバアルに仕え、かつてエジプトの地から彼らを導き出された先祖たちの神、主を捨てて、ほかの神々すなわち周囲にある国民の神々に従い、それにひざまずいて、主の怒りをひき起した。』(士師記2:11-12)

主を捨て去り、偶像礼拝へ走る者が、イスラエル全土各地から出てくる。
それは、申命記やヨシュア記の時代では考えられなかった事だ。
信仰の継承をしっかりしておかないなら、わずか一代変わっただけで、そのようになってしまうものだ。

信仰の継承は、口先で伝えるだけでは、効果はあまり無い。
だから何? 自分はそんな大きな奇跡を見たことも経験した事も無いよ、と思われてしまうのが落ちであり、さらに彼らは、色々な教えで制約受けるのはかったるいと思うようになり、そんな親たちが言うような、見た事もない教えを聞いているより、目で見えて形のあるものや、目新く肉欲を刺激するもののほうがいい、と心移りしてしまうものである。

信仰の継承において大事な事は、主という「生けるお方」と、「生きた交わり」を一緒にして行く事である。
主は、生きておられ、人格ある御方である。
つまり、親と子の関係のように、また夫婦の関係のように、愛の言葉の交換をすものであり、よくコミュニケーションして意思疎通を取るべきお方である。
それをしないなら、主を知らない世代が育ってしまい、目で見える偶像へと傾いて、災いの時代へと突入してしまうのだ。

『すなわち彼らは主を捨てて、バアルとアシタロテに仕えたので、主の怒りがイスラエルに対して燃え、かすめ奪う者の手にわたして、かすめ奪わせ、かつ周囲のもろもろの敵の手に売られたので、彼らは再びその敵に立ち向かうことができなかった。彼らがどこへ行っても、主の手は彼らに災をした。これは主がかつて言われ、また主が彼らに誓われたとおりで、彼らはひどく悩んだ。』(士師記2:13-15)
親が受けていた祝福を、そのまま享受し、主を知らずに育った者は、高慢になって、主を捨て去ってしまう人が多いが、そのような者には、必ず”災い”という報いがある。
主は約束されていた。

『あなたは、きょう、わたしが命じる主の命令と、おきてと、定めとを守らず、あなたの神、主を忘れることのないように慎まなければならない。あなたは食べて飽き、麗しい家を建てて住み、また牛や羊がふえ、金銀が増し、持ち物がみな増し加わるとき、おそらく心にたかぶり、あなたの神、主を忘れるであろう。
主はあなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出し、あなたを導いて、あの大きな恐ろしい荒野、すなわち火のへびや、さそりがいて、水のない、かわいた地を通り、あなたのために堅い岩から水を出し、先祖たちも知らなかったマナを荒野であなたに食べさせられた。それはあなたを苦しめ、あなたを試みて、ついにはあなたをさいわいにするためであった。』(申命記8:11-16)

イスラエルはいよいよ主を捨て去り、そのため、主はイスラエルをひどく悩まされた。
しかしそれは、ついには彼らをさいわいにするためである。
どうせなら私達は、懲らしめを受けずに、初めから生涯安泰でいたい、と思うが、それは可能だ。すなわち、主の教えを捨てず、御言葉に聞き従って守り行う限り、安泰である事は、主が約束して下さった通りである。
何より私達は、主と人格的な交わりをし、コミュニケーションとり、主を喜ばせる生き方を身に着けるべきだ。
主と共に歩む事が喜びとなってゆき、主と交わる事のほうが、世と交わるよりも”趣味”になって行くなら、それ程のさいわいは無いのだ。

礼拝説教メッセージ音声:勝利はもうない、という宣言(士師記2:1-5):右クリックで保存

ヨシュアは最後のメッセージで、主が約束をして下さった良き事の中で、成就しなかったものは何もなく全部実現したと語ったが、その通りであった。(ヨシュア記23:14)

それなのに人は、主が命じられていた約束を、破ってしまった。
そこで主の使いが現れ、言った。
『わたしはあなたがたをエジプトから上らせて、あなたがたの先祖に誓った地に連れてきて、言った、『わたしはあなたと結んだ契約を決して破ることはない。あなたがたはこの国の住民と契約を結んではならない。彼らの祭壇をこぼたなければならない』と。しかし、あなたがたはわたしの命令に従わなかった。あなたがたは、なんということをしたのか。それでわたしは言う、『わたしはあなたがたの前から彼らを追い払わないであろう。彼らはかえってあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたのわなとなるであろう。』(士師記2:1-3)

今までイスラエルは、連戦連勝であったのに、いよいよ主は、イスラエルに勝利はもうもたらさない、という宣言がなされてしまった。
それは人の側が主の命令を捨てたからに他ならない。
主の使いが言った通り、イスラエルは、この国の住民と契約を結んでしまい、また、こぼつべき異教の祭壇を、放置したままだったのだ。
ヨシュアがイスラエルに相続地を与えてから死ぬまで、かなりの年月が経っていたはずなのに、ずっと異教の祭壇を放置し、為すべき事を為さないままにしておいた。その結果、エバのごとく、入手してはならぬものに興味がわき、魅了され、それを取り入れてしまい、結局、祝福が取り去られてしまったのだ。
私達も、捨て去るべきものを置いたままにしたり、止めるべき習慣を止めないままにしておくと、やがてはその状態に妥協し、共存している事に異常さを感じなくなり、ついには堕落しまうものだ。

『不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、/「わたしは彼らの間に住み、/かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となるであろう」。
だから、「彼らの間から出て行き、/彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。そしてわたしは、あなたがたの父となり、/あなたがたは、/わたしのむすこ、むすめとなるであろう。全能の主が、こう言われる」。』(6:14-18)
信仰者が、不信者の輪の中に混じり込もうとするなら、二つの敵をつくってしまう。
それは、神から敵対され、懲らしめられ、またサタンの側にも、その人を攻め立てる根拠を与えてしまうからだ。
神に従う道は、白か黒かはっきりした道なのだ。

『主の使がこれらの言葉をイスラエルのすべての人々に告げたので、民は声をあげて泣いた。それでその所の名をボキムと呼んだ。そして彼らはその所で主に犠牲をささげた。』(士師記2:4-5)
彼らは確かに、声を上げて泣いた。主に犠牲も捧げた。
しかし、その泣いた涙は、自分達の罪を悲しむ悔い改めの涙ではない。ただ単に、主が勝利を与えて下さるという「特典」が去ってしまった事への悲しみだった。
また、彼らが捧げた捧げ物は、心から主と関係を取り戻したいという捧げものではなく、形式だけのっものだった。
なぜなら、その後、主に対する怠慢な心を改めたとか、偶像を捨て去ったといった記事は無く、その逆に、どんどん偶像礼拝へと落ち込んで行った記事しか無いからだ。

もしこの時、心から悔い改め、行いも改めていたなら、まだ希望はあっただろう。
あのイスラエル史上最悪の王であるアハブ王でさえ、預言者エリヤからの主から災いを降されるという言葉を聞いて、断食をし、荒布を着て伏し、また、打ちしおれてへりくだった結果、主は彼が生きている間は災いを降さないようにして下さった。(1列王記21:17-29)
邪悪な町ニネベも、ヨナの説教によって悔い改め、上から下まで断食をし、主の前にへりくだった所、災いは降されなかった。
しかし、士師記の時代の彼らは、悔いはしても、改めはしなかった。
悔い改めとは、悔いて悲しむ事だけでなく、今までの悪い行いを改める事が必要であり、そのような方向転換なしには、全く無意味である。
それ故、イスラエルはその後、暗黒の時代に突入する。

パウロはコリントの人達に厳しい手紙を送り(1コリントの手紙)、コリントの人達はそれを読んで、悲しみ、悔いて改めた事を聞いて、以下のようにしたためている。
『そこで、たとい、あの手紙であなたがたを悲しませたとしても、わたしはそれを悔いていない。あの手紙がしばらくの間ではあるが、あなたがたを悲しませたのを見て悔いたとしても、今は喜んでいる。それは、あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めるに至ったからである。あなたがたがそのように悲しんだのは、神のみこころに添うたことであって、わたしたちからはなんの損害も受けなかったのである。
神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。見よ、神のみこころに添うたその悲しみが、どんなにか熱情をあなたがたに起させたことか。また、弁明、義憤、恐れ、愛慕、熱意、それから処罰に至らせたことか。あなたがたはあの問題については、すべての点において潔白であることを証明したのである。』(2コリント7:8-11)

悔い改めた人は、その人に定められていた災いを回避し、命へと至るが、改める事をしない「悔い」は、単なる悲しみであり、やがては死へと至らせてしまうものだ。

礼拝説教メッセージ音声:ゴキブリを恐れて部屋に入れない人のようになった神の民(士師記1:22-36):右クリックで保存

今回の箇所では、イスラエル各部族が「追い出さなかった」カナンの地がリストアップされている。

マナセ族は、ベテシャンとタアナク、ドル、イブレアム、メギドの住民を、追い出さなかった。
そのためカナン人は、引き続きマナセの領土内に住んだ。(27節)
別にマナセ族が格段に弱かったからでもないし、これらの住人が格段に強かったからでもない。
むしろイスラエルは、カナン人を強制労働に服させる程強くなった事が記されている。
ただ、彼らは滅ぼし尽くすべきカナン人を、いつでも滅ぼせる状態であったというのに、妥協してしまい、それをしなかっただけなのだ。

滅ぼし尽くすべきものを、いつまでも放置したまま置いておくと、それらはやがて罠となってしまう。
それは現代を生きる私達も同じであり、聖書や聖霊から「為すべき事」「為さぬべき事」は示されていても、妥協してしまうならば、それらはやがて罠となり、災いを招く元となってしまうものだ。

『またエフライムはゲゼルに住んでいたカナンびとを追い出さなかったので、カナンびとはゲゼルにおいて彼らのうちに住んでいた。ゼブルンはキテロンの住民およびナハラルの住民を追い出さなかったので、カナンびとは彼らのうちに住んで強制労働に服した。』(士師記1:29-30)
エフライム族やゼブルン族も、カナン人を追い出し尽くさずにおり、主から与えられた自分の領地に、あたかも、ドーナツの穴が開いたような形でカナン人が居座り続ける事を、許してしまっていた。

アセル族やナフタリ族に関しては、もっと情けない事になっている。
彼らは「カナン人の中に住んでいた。」と表現されており(士師記1:31-33)、つまり、カナン人のほうが栄えて住んでいる中、アセル族やナフタリ族のほうが「ドーナツの穴」のように肩身狭く住んでいたのだ。
神の民と、邪悪な者達との間であるべき関係が、逆転してしまっているのだ。

さらに、ダン族は、もっと情けない状況になっている。
『アモリびとはダンの人々を山地に追い込んで平地に下ることを許さなかった。アモリびとは引き続いてハルヘレス、アヤロン、シャラビムに住んでいたが、ヨセフの一族の手が強くなったので、彼らは強制労働に服した。アモリびとの境はアクラビムの坂からセラを経て上の方に及んだ。』(士師記1:34-36)
なんと、神の民である彼らのほうが圧迫され、主から与えられている領土から、締め出されてしまっているのである。

本来、神の民であるイスラエルは、どうであったのか。主はどのような約束を、彼らにして下さったのか。
『主が、大きくて強い国々を、あなたがたの前から追い払ったので、今日まで、だれもあなたがたの前に立ちはだかることのできる者はいなかった。あなたがたのひとりだけで千人を追うことができる。あなたがたの神、主ご自身が、あなたがたに約束したとおり、あなたがたのために戦われるからである。』(ヨシュア記23:9-10)
ダン族は、主を信じて進み行けば、必ず勝てるはずなのに、恐れをなして戦わず、逆に圧迫されてしまっていたのだ。

それはちょうど、ゴキブリ嫌いの女性が、部屋の中にゴキブリがいるのを見つけると、もうそれだけで部屋には入れず、ゴキブリは部屋でくつろいで、部屋の主人のほうは外に締め出さたまま、休みを得ない状況になっているかのようだ。
ゴキブリには、女性を部屋から閉め出す筋力もなければ、権威もなく、むしろ、女性のほうがゴキブリを簡単に潰せるはずのに、女性のほうが部屋から閉め出されてしまう。
このような現象は、彼女の内にゴキブリに対する過度の恐れや「偽り」の思い込みがあるのが原因であり、恐れて立ち向かわないままでいるなら、部屋はゴキブリに占拠されっぱなし、自分は外に締め出されっぱなしのままである。

これは、キリスト者と悪霊やサタンとの間にも、よくありがちな事である。
キリスト者は、キリストにあって勝利した側であり、悪霊やサタンは、敗者の側にある。
権威的には、キリスト者が「上」であり、悪霊やサタンが「下」である。
それなのに、なぜ多くのキリスト者は、悪霊やサタンに良いように束縛され、締め出されてしまっているのか。
それは、ゴキブリと女性との関係のように、偽りの恐れを吹き込まされており、恐れに囚われてしまっているからである。
ゴキブリに女性を閉め出す力は無いように、悪霊やサタンには、私達を閉め出す力は無い。
しかし奴らは、キリスト者に偽りを信じ込ませる事によって、キリスト者をあやつる事が出来るのだ。
しかし、キリスト者が御言葉の真理にしっかりと立ち、信仰をもってそれを宣言する時、奴らは、光に照らされたゴキブリのごとく、すごすごと闇に逃げ去るしか無いのだ。
「真理はあなた方を自由にする」と御言葉に記されている通り、私達は真理を知れば知るほど、自由になって行く。

悪霊やサタンは、それを最も嫌がる。
だから、色々な世の情報や享楽、イデオロギー、神学などで真理をくらまし、キリスト者から自由を奪っているのだ。
それ故、私達キリスト者の中にも、ダン族のように、勝利者の側にいるはずなのに敗北していたり、良きものを相続しているはずなのにそれが奪われたままであったり、広い土地を大いに闊歩できる立場であるはずなのに、狭い所でびくびくと暮らしている人が、実に多い。

私達・神の民は、世と妥協すればする程、不自由さが増していってしまう。
私達は御言葉の真理を大胆に宣言し、サタンから来る偽りを蹴散らし、カレブやオテニエルのように、主にある勝利を信じて進み行き、多くの安息の地を勝ち取り、堂々とそこに住まう者でありたい。

礼拝説教メッセージ音声:信仰が落ちていく世代の中で、ひときわ輝く信仰の人達(士師記1:8-21):右クリックで保存

イスラエル12部族には、取るべき地を獲得するという、為すべきつとめがあるのに、それを為さないまま放置し、段々妥協と堕落へとゆっくり落ちていく有り様が士師記には記されているが、そのような中において、ユダ族のカレブの行動は、ひときわ輝いていた。
今回のこの箇所は、ヨシュア記15章と重複する内容だが、士師記の記者は、そんな時代の中でひときわ輝いていたカレブ達の信仰を強調するために、彼らの話を再び挿入したのであろう。

カレブは、信仰によって進み行き、積極的に勝ち取るくスピリットを、他の者達にも奮い立たせている。
『カレブは言った、「キリアテ・セペルを撃って、これを取る者には、わたしの娘アクサを妻として与えるであろう」。カレブの弟ケナズの子オテニエルがそれを取ったので、カレブは娘アクサを妻として彼に与えた。』(士師記1:12-13)

このオテニエルは、単にその地を勝ち取って、カレブの娘を得たばかりではない。
彼は、カレブの娘アクサを通しても、カレブにもっと求めている。
『アクサは行くとき彼女の父に畑を求めることを夫にすすめられたので、アクサがろばから降りると、カレブは彼女に言った、「あなたは何を望むのか」。アクサは彼に言った、「わたしに贈り物をください。あなたはわたしをネゲブの地へやられるのですから、泉をもください」。それでカレブは上の泉と下の泉とを彼女に与えた。』(士師記1:14-15)

オテニエルが彼女を通して求めたのは「畑(KJV: a field、一つの畑)」であったが、彼女は一つの畑どころか、パレスチナ地方ではとても貴重な「泉(KJV: springs of water:数々の泉)」を父カレブに求め、そうして見事、上の泉と下の泉とを得たのだ。
私達も、主の御言葉に留まり、キリストにつながっているなら、御言葉が約束している祝福を、どんどん求めて良いのである。
『あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。』(ヨハネ15:7)
『バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。』(マタイ11:12)

天の御国の良きものは、彼ら族のように、激しく襲って奪い取ろうとする者にこそ、多く与えられるのだ。
『求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。・・・このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。』(マタイ7:7-11)
オテニエルは、そのような精神だったからこそ、後に士師の第一号となる栄誉を得ている。
そして彼の活躍の背後には、妻アクサの存在も大きかった事だろう。

『主がユダと共におられたので、ユダはついに山地を手に入れたが、平地に住んでいた民は鉄の戦車をもっていたので、これを追い出すことができなかった。人々はモーセがかつて言ったように、ヘブロンをカレブに与えたので、カレブはその所からアナクの三人の子を追い出した。ベニヤミンの人々はエルサレムに住んでいたエブスびとを追い出さなかったので、エブスびとは今日までベニヤミンの人々と共にエルサレムに住んでいる。』(士師記1:19)
カレブ達は積極的な信仰によってヘブロンに住んでいた巨人たちを追い出したのにひきかえ、他の者達は、平地に住んでいたカナン人の鉄の戦車に恐れをなして、そこを追い出すことをしなかった。

主は、強大と見える敵と相対するに際しては、どうするように言われていたか。
『あなたが敵と戦うために出る時、馬と戦車と、あなたよりも大ぜいの軍隊を見ても、彼らを恐れてはならない。あなたをエジプトの国から導きのぼられたあなたの神、主が共におられるからである。あなたがたが戦いに臨むとき、祭司は進み出て民に告げて、彼らに言わなければならない、
『イスラエルよ聞け。あなたがたは、きょう、敵と戦おうとしている。気おくれしてはならない。恐れてはならない。あわててはならない。彼らに驚いてはならない。あなたがたの神、主が共に行かれ、あなたがたのために敵と戦って、あなたがたを救われるからである』。』(申命記20:1-4)

主は、敵の馬や戦車や、大勢の軍隊を見ても、恐れてはならない、と言われた。
なぜなら、戦って下さるのは主であり、その人自身の力で戦うのではないからだ。
その人自身の力は、何に費やすべきか。敵と戦うために費やしても無駄である。そうではなく、主に対する従順にこそ力を注ぐべきなのだ。
そうするなら、主が約束しておられる通り、主ご自身が戦い、勝利して下さるのだ。
実際カレブは、85歳であったのに、そうしてアナクの巨人たちに打ち勝ち、ヘブロンという良き地を得た。

現代も含め、いつの時代も光と闇とが交差しているが、恐れをなして退く者は、闇に飲み込まれてしまい、悔いのみが残る。
しかし、カレブ達のように、信じて進み行くなら、闇は必ず光によって飲み込まれ、死は必ずいのちで飲み込まれ、呪いは必ず祝福に飲み込まれていく。
なぜなら、私達の主イエス様は、光であられ、いのちの君であられ、祝福の主であられるからだ。

礼拝説教メッセージ音声:崩れ始める主にある秩序(士師記1:1-7):右クリックで保存

本日より士師記の講解説教に入る。

士師記はヨシュアの死から始まり、それ以降のおよそ400年、イスラエルが遍歴した道が記されている。
この時代は、モーセやヨシュアのような、イスラエル全体を霊的に正しく治める指導者はおらず、イスラエルの人々はおのおの、自分の目に正しいと見える事を行っていた。
それで、イスラエルの歴史の中でも、かなり無秩序な、荒んだ時代となってしまった。
イスラエルの人々が主から離れ、偶像礼拝を行い、その結果、律法に記されていた通りの災いが降り、それに懲りたイスラエルは主に助けを求め、それで主は「士師」と呼ばれる指導者(ヘブライ語でshaw-fat、判断する人、治める人の意味。「裁き司(さばきつかさ)」という訳が原意に近い。)をおこしてイスラエルを救い、そうして平和が戻り、生活も安定すると、再びイスラエルは堕落して災いが降り、、、という、繰り返しの歴史である。

1章から3章までの所に、そのような時代に入るまでの成り立ちが記されており、そして士師記のメインともなる士師たちの活躍が、3章から16章までの所に記されており、そして17章以降にはイスラエル諸部族をめぐる事件が記されているのだが、その事件の内容を見ると、当時のイスラエルがいかに荒んだ霊的状況であったかが伺える。

士師記は、ヨシュアの死から始まったが、偉大な指導者が死んだ途端、人々はめいめい好き勝手な事をし出して、混乱の時代へと突入するというのは、人類歴史では何度も見てきた事である。
日頃から人間の指導者に極度に頼ってしまうなら、ある日突然その人がいなくなってしまうと、混乱を来たしてしまうのは、当然である。
だから、私達が日々頼りとすべきは、決して死ぬこともなく、指示を誤る事も無い、完全なる指導者イエス様であり、私達が日々指針とすべきは、決して変わる事の無い真理の御言葉である。

『ヨシュアが死んだ後、イスラエルの人々は主に問うて言った、「わたしたちのうち、だれが先に攻め上って、カナンびとと戦いましょうか」。主は言われた、「ユダが上るべきである。わたしはこの国を彼の手にわたした」。ユダはその兄弟シメオンに言った、「わたしと一緒に、わたしに割り当てられた領地へ上って行って、カナンびとと戦ってください。そうすればわたしもあなたと一緒に、あなたに割り当てられた領地へ行きましょう」。そこでシメオンは彼と一緒に行った。』(士師記1:1-3)
ヨシュアが死んだ直後は、それほど混乱は無いものの、イスラエルの秩序が崩れ始める兆候が、早速現れている。
物事を行う前に、主に伺いを立てるのは良い事である。
しかし、ユダは主から指名されたというのに、彼らは、指名されてもいないシメオン族を戦いに加えている。

戦いとは、命がけのものであり、そこに二つの部族が関与してしまうなら、戦いの方法や分捕りの配分、捕虜の扱いなど、色々な事について諍いが発生しやすくなり、色々な人の意見を折衝していく内に、どんどん主の御胸から離れて行ってしまいがちである。
この「御言葉への混ぜ物」は、最初はほんの些細な事かもしれない。
主も、彼らが少しでも命令を超えたから、即座に罰したわけでもなかったが、このような「ちょっとした事」は、さらに多くの「ちょっとした不従順」をばらまき、それが積もるなら、「大きな反逆」へと成長してしまうものである。

ユダとシメオンの連合軍は、確かに大勝利した。
しかし、王アドニベゼクをしばらく生かしておいた。
『アドニベゼクは逃げたが、彼らはそのあとを追って彼を捕え、その手足の親指を切り放った。アドニベゼクは言った、「かつて七十人の王たちが手足の親指を切られて、わたしの食卓の下で、くずを拾ったことがあったが、神はわたしがしたように、わたしに報いられたのだ」。人々は彼をエルサレムへ連れて行ったが、彼はそこで死んだ。』(士師記1:6-7)

主は、生け捕りにした王を、現地の風習に従ってなぶりものにせよ、とは言っていない。
むしろ主の命令は、カナンの住人は全て聖絶せよ、というものである。(申命記20:16-18)
それなのに彼らは、王をしばし生かしておき、しかも、生け捕りにした王の手足の親指を切り取るという、その地方で行われていた残酷な風習を取り入れている。
もしかしたら、ユダ族やシメオン族の、その場のノリや勢いでした事かもしれない。しかし、少しずつ、主の御言葉に混ぜ物をする事も、カナンの風習も、少しずつ入り込んで来てしまっている。

士師記を一言で言い表す御言葉は、『そのころイスラエルには王がなかったので、人々はおのおの自分たちの目に正しいと思うことを行った。』(士師記17:6、21:25) である。
世の人がそれを見る時、一体その事のどこが良くないのか、と思うかもしれない。世の人は普通に、おのおの自分たちの目に正しいと思うことを行っているからだ。
しかし神の民は、御言葉を退けて自分の目に正しいと思う事を行うのは、あらゆる災いの元であり、それは、アダムとエバの時代以来、変わっていない。
私達・神の民は、自分の目に正しいと見える事に歩むのではなく、御言葉に従って歩む者達なのだ。

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