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メッセージ - 雅歌カテゴリのエントリ

愛される花嫁の性質(雅歌2:8-17)
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8節は女性の歌で始まる。

雅歌2:8 わが愛する者の声が聞える。見よ、彼は山をとび、丘をおどり越えて来る。
2:9 わが愛する者はかもしかのごとく、若い雄じかのようです。見よ、彼はわたしたちの壁のうしろに立ち、窓からのぞき、格子からうかがっている。

かもしかは、がけや丘など人が通るのに難儀な所も、平気で飛び跳ねて、元気に乗り越えて、行き来しているが、そのように、男性は、愛している女性の所へは、どんな山も飛び越え、どんな困難も飛び越えて行くもである。
花婿にとっての慰めは、花嫁である。イサクは、リベカを自分の天幕に引き寄せて、慰めを受けた(創世記24:67)。
だから花婿は、どんなに山や崖が横たわっていても、それらを若い鹿やかもしかのように飛び超えて、愛する花嫁のところに勇んで帰って来る。
そして彼女の元に帰ってきたら、憩いを得、慰めを受けるのだ。

サムソンは、憩ってはならぬ異邦の女の膝元で憩い、そして、決して手放してはならぬものを、すなわち、神に捧げれた者の印であり力の源である「髪」を明け渡してしまった。
それで彼は、力を奪われ、人生の終わりを残忍な者の手に渡してしまった。

箴言5:3 遊女のくちびるは蜜をしたたらせ、その言葉は油よりもなめらかである。
5:4 しかしついには、彼女はにがよもぎのように苦く、もろ刃のつるぎのように鋭くなる。
5:5 その足は死に下り、その歩みは陰府の道におもむく。
5:6 彼女はいのちの道に心をとめず、その道は人を迷わすが、彼女はそれを知らない。
5:7 子供らよ、今わたしの言うことを聞け、わたしの口の言葉から、離れ去ってはならない。
5:8 あなたの道を彼女から遠く離し、その家の門に近づいてはならない。
5:9 おそらくはあなたの誉を他人にわたし、あなたの年を無慈悲な者にわたすに至る。
5:10 おそらくは他人があなたの資産によって満たされ、あなたの労苦は他人の家に行く。
5:11 そしてあなたの終りが来て、あなたの身と、からだが滅びるとき、泣き悲しんで、
5:12 言うであろう、「わたしは教訓をいとい、心に戒めを軽んじ、
5:13 教師の声に聞き従わず、わたしを教える者に耳を傾けず、
5:14 集まりの中、会衆のうちにあって、わたしは、破滅に陥りかけた」と。

キリストは、私達・花嫁である教会を「わが愛する美しいひとよ」と愛の言葉をかけ、窓の隙間や格子越しからのみならず、天から、至る所から、四六時中、うかがっておられる。
だから私たちは、イエス様の目に「慰め」となるために、いつでもイエス様の好まれる飾りを身に帯びるべきである。
私達がイエス様の好まれる飾りを、すなわち、御霊の実である愛、喜び、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制を「飾り」として身に帯びるのであるならば、彼は私達を格子窓の隙間からうかがい、「わが愛する者、美しいひとよ、出ておいで」と言われる。

雅歌2:10 わが愛する者はわたしに語って言う、「わが愛する者よ、わが麗しき者よ、立って、出てきなさい。
2:11 見よ、冬は過ぎ、雨もやんで、すでに去り、
2:12 もろもろの花は地にあらわれ、鳥のさえずる時がきた。山ばとの声がわれわれの地に聞える。

私達は、雨の季節や冬の季節を、通って行かなくてはならない時がある。
この世界は1度、ノアの時代の大洪水によって滅びた。そしてその雨が過ぎ去った後、オリーブの若枝が萌え出て、鳩が飛んだ。

私たちもまた、古い、以前の性質は全部、水によって過ぎ去らせなくてはならない。以前の、肉欲に従って歩んでいた生き方、また、罪深い性質を。それが、水のバプテスマである。このような「冬の季節」雨の季節」を通った後に、主は私達に「わが愛する者よ、わが麗しき者よ、立って、出てきなさい。」と呼びかけられる。
主にあって、麗しい、甘い実を結ばせるようになっていく。

雅歌2:13 いちじくの木はその実を結び、ぶどうの木は花咲いて、かんばしいにおいを放つ。わが愛する者よ、わが麗しき者よ、立って、出てきなさい。

ノアの洪水の時、雨が止んでから、「方舟から出てきなさい」と呼び出したのも、主だった。

主が「出て来なさい」というタイミングがある。「わが愛する者よ、わが麗しき者よ、立って、出てきなさい。」と。
その時、主の呼び声に応じ、主の所へと出ていくべきである。

雅歌2:14 岩の裂け目、がけの隠れ場におるわがはとよ、あなたの顔を見せなさい。あなたの声を聞かせなさい。あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい。
2:15 われわれのためにきつねを捕えよ、ぶどう園を荒す小ぎつねを捕えよ、われわれのぶどう園は花盛りだから」と。

私たちの人生は、いつもが順風満帆とは言えない。
危険な時もあるし、悪い者がはびこっている時もある。そういう時こそ私たちは、岩の裂け目に宿るのだ。

私達が鳩のように、危険の最中で岩の裂け目からうめく時、それがどんなに小さい声であっても、聞いてくださる。
どんなにか細い声でも。鳩が岩の裂け目にいるのは可愛らしい姿であるが、私達がキリストと言う岩の裂け目に囲まれている時、主は愛の守りの中で、かくまってくださる。
そして山々を乗り越え、若い鹿やかもしかのように丘の上をはねて、私下のところに飛び込んできてくださり、躍り上がるような力をもって、敵を打ち倒して下さり、危険が過ぎ去ったなら、「さあ岩の裂け目にいる私のはとよ、出てきておくれ」と、呼び出して下さるのだ。

2:15 われわれのためにきつねを捕えよ、ぶどう園を荒す小ぎつねを捕えよ、われわれのぶどう園は花盛りだから」と。

ぶどう畑を荒らす狐や子狐をとらえる分が、私たちの側にある。
狐や子狐は、花盛りの時に来て荒らす。それは単にお腹がすいていて花を食べたいからではなく、実を実らせないようにするための、嫌がらせ目的であり、それはまさにサタンの性質である。
私たちは、それを捕えなくてはならない。そして私たちの葡萄畑は、しっかりガードするべきである。それは、花婿がそうしなさいと言われたからである。

雅歌2:16 わが愛する者はわたしのもの、わたしは彼のもの。彼はゆりの花の中で、その群れを養っている。
2:17 わが愛する者よ、日の涼しくなるまで、影の消えるまで、身をかえして出ていって、険しい山々の上で、かもしかのように、若い雄じかのようになってください。

私の愛する方は、私のもの・・・これは、私達のイエス様に対する呼び声でもある。

男女の間で、本当に相手を愛しているのであるならば、「私はあなたのもの」「あなたはわたしのもの」と言い合う時、本当に喜びとうるわしさを伴う言葉である。
パウロが言っている。夫婦の間柄は、自分の体に関する権利は自分にはなく、伴侶が持っている、と。
だから、私たち教会の所有権は、全部、イエス様にあって、私達教会の目的も動機も全部、イエス様の喜びのためになるべきである。
そうするなら、イエス様は私たちのものであり、イエス様もまた私たちのものであると宣言して。イエスさまとの愛と喜びの麗しい関係をますます築き上げて行くのである。

雅歌2:17 わが愛する者よ、日の涼しくなるまで、影の消えるまで、身をかえして出ていって、険しい山々の上で、かもしかのように、若い雄じかのようになってください。

彼女は、日が落ちて夜になる前までに帰ってきて下さい、と言う。
私たちも、あの方が帰ってくるまでに、しっかりと、この心と体を整えておかなくてはならない。

賢い花嫁とは、花婿が来る前に、いつ来ても良いように、灯を燃やし油を整えて、用意しておくものである。
しかし主はまだ来るまい、と思いこんで、子狐を放置しておくと、愛する方が来た時、慌てふためく事になってしまう。

どうか、キリストとの関係が、新婚の若い男女のように、うるわしく、喜びに満ちた関係でありますように、イエス様のお名前によって祝福します!

あの方の喜びとなるために(雅歌書2:1-7)
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ここは、互いに愛し合っている男女が、相手の麗しさ、慕わしさを喜び讃え合っているところ。

2:1 わたしはシャロンのばら、谷のゆりです。
ここは男性が言ってるのか、女性が言ってるのか、意見が分かれているが、はっきりしている事は、イエス・キリストはまことに私たちにとってのシャロンのサフランであり、谷の百合である。
ゆりの花、サフランは香りを放つ。キリストの香りを放っている。
本当にこのお方のもとにいつまでもいたい、実側近くで香りをいつまでも描き続けていたい、と言う、慕わしさを持って、キリストの御側近くへと近づくものである。


2節は、男性が女性を褒めそやしている。
2:2 おとめたちのうちにわが愛する者のあるのは、いばらの中にゆりの花があるようだ。

前回の1章で、この女性は、パロの戦車の雌馬になぞらえられ、またカスタムメイドの飾りをもって、飾られた。
男性は、愛する女性を、美しい飾りで飾らせてあげよう、と、さらに美しいしつらえ品を作らせる。
その飾りは、男性が好む飾りであり、女性の好む飾りではない。
女性が男性が贈った男性好みの飾りを身に付ける時、その女性は、娘たちの間にいるとしても、周りの娘たちは、いばらに見えて、自分の愛する女性だけが、百合の花のように、際立って慕わしく、美しく見えるのだ。
棘はキリストの頭を刺したが、世の者達はキリストにとって、とげとげしている。しかし、私達は、キリストの飾りを身に帯びるなら、私達こそ茨の中の百合になるのだ。
私達も、キリストが与えて下さる御言葉の飾りを、あるいは、時には試練という飾りが与えられる時があるが、それも受け入れて身に帯び、しっかりと自分のものとして、主とともにいくなら、キリストの目には、ますます、いばらの中の百合の花のように見えていく。
イエス様を愛していない人は、イエス様がくださる飾りを好まない。でも、本当にイエス様を愛しているなら、その人はどんどんどんどんキリストがくださる飾りをもっと身に纏いたい、あなたの喜びになりたい、と思うようになっていく。

さらに乙女の言葉が続く。

2:3 わが愛する者の若人たちの中にあるのは、林の木の中にりんごの木があるようです。わたしは大きな喜びをもって、彼の陰にすわった。彼の与える実はわたしの口に甘かった。
2:4 彼はわたしを酒宴の家に連れて行った。わたしの上にひるがえる彼の旗は愛であった。

私たちは、大きなものの陰に宿る時、安心感を、居心地の良さを感じるが、女性にとって、男性は大きい存在で、女性の方が体のサイズが小さい。
主がそのように造ったのだが、彼女は、愛する方は林の木の中のリンゴの木のようです、と言っている。
りんごは体に良く、病気になっている人は、りんごを食べる。おいしくて、甘い、そして少しすっぱい。私にとって、相手の男性は、この、おいしくて、甘くて、少しすっぱいリンゴのようだ。その木陰に座って、直射日光から守られ、甘酸っぱい実を得たいと願っている。

イエス様が私たちに与える良きもの、イエス様が私たちに送ってくださる言葉は、私たちの口に甘い。
詩編91:1 いと高き者のもとにある/隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は
91:2 主に言うであろう、「わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神」と。
91:3 主はあなたをかりゅうどのわなと、恐ろしい疫病から助け出されるからである。
91:4 主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。そのまことは大盾、また小盾である。
91:5 あなたは夜の恐ろしい物をも、昼に飛んでくる矢をも恐れることはない。
91:6 また暗やみに歩きまわる疫病をも、真昼に荒す滅びをも恐れることはない。
91:7 たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、その災はあなたに近づくことはない。
91:8 あなたはただ、その目をもって見、悪しき者の報いを見るだけである。
91:9 あなたは主を避け所とし、いと高き者をすまいとしたので、
91:10 災はあなたに臨まず、悩みはあなたの天幕に近づくことはない。

詩編は格調高く聞こえるが、雅歌書のほうはそれにプラスして甘さが、麗しい感情が込められている。
盾の中の盾、やぐらの中のやぐらである私達の主は、リンゴの木のよう。うるわしく、慕わしいお方。その全能者は、私たちをいばらの中の花のようだと見てくださる。

イエス様が私たちのことを、いばらの中の百合の花のようだと言っていただくためには、条件があった。
それは私達が、キリストが飾らせてくださる御言葉を、身に飾ること。
もし身勝手な飾りを身に帯びるなら、イエス様は見向きもしてくれない。しかしイエス様がくださるものを、その身に帯びるなら、女の中で最も美しい、いばらの中にいる百合の花の上に見えると言ってくださる。

ゼパニヤ3:16 その日、人々はエルサレムに向かって言う、「シオンよ、恐れるな。あなたの手を弱々しくたれるな。
3:17 あなたの神、主はあなたのうちにいまし、勇士であって、勝利を与えられる。彼はあなたのために喜び楽しみ、その愛によってあなたを新にし、祭の日のようにあなたのために喜び呼ばわられる」。

もし私たちが、イエス様が送ってくださる飾り、試練の飾り、私が皆さんにこうなって欲しいと言う通りに、自分が飾られるママに飾られるのであれば、上は喜び楽しみ、高らかに歌って、喜ばれる。
このゼパニア三章の後半は、本当に素晴らしい愛の歌であるが、一章から三章の中盤までは、実は、懲らしめに満ちている。
3章1節では、懲らしめという飾りを受け入れようともせず、主に信頼せず、神に近付こうとしなかった事を責め立てており、それ故、強制的に懲らしめが与えられ、7節において、あなたはただわたしを恐れ、懲らしめを受け入れよ、そうすれば彼らが行った悪事にもかかわらず滅ぼされるような事はしない、と。そうして9節以降、幸いな預言へと切り替わる。
だから私達も、主の前に「懲らしめ」という飾りが与えられたなら、受け入れるべきである。
そして主の御胸のままに身を委ねるのであれば、さらに素晴らしい飾りを飾らせて下さり、その時、主は高らかに歌って喜ばれる。

2:4 彼はわたしを酒宴の家に連れて行った。わたしの上にひるがえる彼の旗は愛であった。キリストの旗印は、愛。
旗印、とある。イギリスの王家がどこかに行くときには必ず端を持っていく。だから、林の木陰に置いて、バンケットを持つときに、イギリス王家の旗を掲げて、ここにはおうがおられる、と示しその領域は王が宿る所だ、と示すのだ。
キリストは、荒野においても宴を設ける時がある。私たちのために酒宴の席へと導かれる時、旗を掲げられる。ここは、キリストの王子王女がおられると。そしてその旗印は、愛である。


ルツはボアズの衣の裾をまくって、その中に入った。
あなたは、家を絶やさない責任のある方です、どうか私を買い取ってください、と求めた。私たちも同様に、キリストの愛の旗印の下に、足のまくって入り、キリストの下にぴったりとよりそって入るべきだ。
そしてわたし達が愛の旗印の下に宿るならば、イエス様が守り、私たちも潤っていく。


2:6 どうか、彼の左の手がわたしの頭の下にあり、右の手がわたしを抱いてくれるように。


女性は求める。本当にこの麗しいお方の、懐深くに宿り、彼の腕の中に抱きしめられ、守られる、ということを。
私たちも、ルツのように、キリストの懐に飛び込んで、愛の旗印に包まれて、その腕の中に宿ることを、求めるべきだ。
そのように慕い求めていくなら、どんどんキリストとの愛の関係に入り込んでいく。

さらに、この6節から、聖書的な男女のポジションがわかる。
女性は、男性の左の腕の下で、男性の右の手で抱っこされる事を求めた。

女性はもともと、男性の脇腹のところに収まっていた。(創世記2章)
だから女性にとっての本来の居場所は、男性の心臓の所に、男性の腕にくるまれている状態であり、女性はそれを求めている。

これをイエス様との関係に適用するなら、私達は、男性女性に限らず、本来いるべき場所は、キリストの懐の中である。
そこは、十字架上で、槍が突かれた時、水が流れていた。
キリストが、十字架上で死んだ時、私たちも一緒に死んだ。そして復活の時、私達もキリストにある永遠の命が生まれた。
アダムは、深い眠りに落ちていた時に、脇腹から骨がとられて、神さまに整えられて、そしてアダムのところに連れてこられたのと同様である。
私たちも、そのホームポジション、キリストの脇腹のところを求めて、そこに宿るなら、詩篇91にあった通り、昼くる矢を恐れず、夜歩き回る疫病を恐れず、1000人、10000人が右手左手に倒れようとも、恐れることはない。
ルツのように、イエス様の贖いの衣をまくってその中に入り、その中で守られ、ますますキリストの慕わしさ、麗しさの中に浸しこまれて行く皆さんでありますように。
イエス様のお名前に行って祝福します!
 

雅歌書講解説教
まことの主人からさらに優れた飾りで飾られるために(雅歌1:10-17)
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雅歌書には男女の愛が記されており、特に1章では、新婚の若者らしい本当にみずみずしい愛が記されている。
前回は、花嫁は自分がぶどう畑の見張りに無理やりにさせられ、黒くなってしまった、と嘆いたが、しかし花婿の評価は「美しい」、と言うものだった。
そして、わたしがどこにいるかを知りたいなら、羊達の足跡についてきなさいと。
私たちもイエス様の羊たちの後について行って、まことの羊飼いイエス様の傍で、イエス様に言われた通りに雌やぎを飼う。そのように、御声に聴き従って従順して行くなら、ますます花婿との関係は良好になって行き、花婿はますます良いものをプレゼントしてくれるようになる。
花嫁が、花婿の御声について言ったならば、9節の言葉が与えられる。

雅歌1:9 わが愛する者よ、わたしはあなたをパロの車の雌馬になぞらえる。
自分の愛する女性を、とてもたくましく、筋肉が隆々としているパロの戦車馬になぞらえるのは、ちょっと不思議に聞こえるかもしれない。
この「パロの戦車」は、よく訓練され、とても従順である。出エジプト記を見ると、パロの戦車馬は、火の柱が立っていても、紅海の水が割れても、それでも、パロの命令に従って飛び込んでいった。
主人が「行け」と言えば行き、飛び込めと言えば飛び込んでいくほどに、よく訓練され、いらない身勝手さも削ぎ落とされ、忠実に主人の声の通りに行っていくのが、パロの馬である。
この花婿が「パロの雌馬になぞらえよう」と言ったのは、この女性は、よほど主人に対する従順さが成長している様を褒めそやしたのだろう。

女性が筋肉隆々でたくましい事も、ある種の美しさはある。
腹筋、背筋を鍛える事にはいくらかの有益はあるが、男性である主人に喜ばれる筋肉は、「聞き従う筋」のたくましさである。
「主人の声に従順であること」において鍛えられて行く事こそ、私達の主人イエス様が、私達・花嫁へ求めておられる事である。
主の御声によく聴き従う、主人に服従することにおいて鍛えられて行くなら、どんどん主からの寵愛を受けるようになっていく。しかし従順さが衰えてしまっているなら、どんどん主の寵愛から離れて行ってしまう。

従順である花嫁に対し、花婿はさらに優れたアクセサリーをプレゼントをする。

雅歌1:10 あなたのほおは美しく飾られ、あなたの首は宝石をつらねた首飾で美しい。
1:11 われわれは銀を散らした金の飾り物を、あなたのために造ろう。

彼女は、黒かっただろうし、ある程度の筋肉がついていただろう。しかし花婿は、そんな彼女を、オーダーメイドの飾りで、飾らせてくださった。
従順の度合いが進んで行くにつれて、さらにさらに優れたプレゼントが与えられるのだ。

女性が、男性にとっての喜びとなるためには、自分の好きな飾りを身につけるのではなく、相手の男性から贈られたアクセサリー、男性の好みに合ったアクセサリーを、身につける事だ。
もし贈られても、それを身に付けないなら、相手の男性を重んじていない事になる。

主が私たちに下さるアクセサリーは、皆、主の目に慕わしくなるための「御言葉」の飾りである。

1テモテ2:9-10 また、女はつつましい身なりをし、適度に慎み深く身を飾るべきであって、髪を編んだり、金や真珠をつけたり、高価な着物を着たりしてはいけない。むしろ、良いわざをもって飾りとすることが、信仰を言いあらわしている女に似つかわしい。

私たちは、御言葉で飾るべきであって、世の言葉を飾るべきではない。
私達が御言葉によって飾られるならば、次はますます素晴らしいプレゼントを用意し、どんどん飾りをつけさせてくださる。もし、世の癖、手癖、悪い癖を身につけるならば、そんなものを身に付けたものを、主は、喜ばれない。
もし主が私たちに「御言葉を覚えなさい」と言う「首飾り」が与えられたならば、それを身に付けるべきであり、この行いをしなさい、と言う飾り輪が与えられたなら、それを身に付けるべきだ。

私達が主の御言葉を、どこに飾るべきかが、申命記に記されている。

申命記6:6 きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、
 6:7 努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。
 6:8 またあなたはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとし、
 6:9 またあなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない。

すなわち、主から与えられた御言葉という飾りは、心に、子どもたちに、手に、目の間に、そして家の入り口の柱、門に置くのであり、そしてその飾りは、家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、身に着けておくべきものである。

花婿は花嫁の何を慕っているか。
雅歌1:10 あなたのほおは美しく飾られ、あなたの首は宝石をつらねた首飾で美しい。
花婿は、あなたの頬や首は、自分が贈った飾りがついてあるから、美しいと言っている。男性の喜びとは、相手の女性が、自分が贈った飾りを身に着けている事である。
私達も、花婿である主の御前で、自分好みの自前の飾りは外し、主が飾らせてくださる「良き技」「従順」と言う飾り輪を身につけて行くならば、どんどん整えられ、美しく、主から仕立て上げられていく。
続いて、12節以降は、花嫁の側の言葉である。

雅歌1:12 王がその席に着かれたとき、わたしのナルドはそのかおりを放った。
1:13 わが愛する者は、わたしにとっては、わたしの乳ぶさの間にある没薬の袋のようです。

女性の乳房の間は、何人たりとも侵入を許さないところである。
ただ、本当に愛する男性へ、あるいは、本当に愛らしい赤ちゃん以外には、決して明け渡さないところである。
良くない女性は、平気で乳房を他にあらわにしたりする。しかし神の民はそうではない。本当に守るべきところは、守るのだ。
この乳房の間に宿るナルドは、何人たりとも手出しのできない尊い香りで、わたしの愛する方はそのように、何者にも嗅がせたくない尊い香りだ、と言っている。

また没薬とは、物を腐らせないようにする薬であり、良い香りを放つ。
自分の、愛する方へ捧げる愛を、没薬によって腐らせず、いつでもみずみずしい、新鮮な、状態に保っていたい。
そのような願いをもって、彼女は没薬の袋を、乳房の間に忍ばせていて、私の愛する方は、このようなお方です、と言っている。
本当に大切な大切な、他の物には侵入生中さらないところに入れて、あなたに対する愛は、いつまでも腐らないようにしておきたい、と言う願いが込められているのだ。

雅歌1:14 わが愛する者は、わたしにとっては、エンゲデのぶどう園にあるヘンナ樹の花ぶさのようです。愛する方は、この乳房の間に宿る、物薬の袋のよう。
私たちも、主に対する従順を、服従、愛を、いつまでも新鮮に保ち、それを、何人たりとも侵入を許さない状態に保つようにするべきだ。
主人が飾ってくださる贈り物を、しっかりと身に付ける歩みをしていくならば、主との愛し愛される関係はどんどん成熟し、どんどん親密になっていく。

雅歌1:15 わが愛する者よ、見よ、あなたは美しい、見よ、あなたは美しい、あなたの目ははとのようだ。
花婿は感嘆詞をもって花嫁を褒め讃えている。目は鳩のようだ、と。
他の箇所では「蛇のようにさとく、鳩のように素直でありなさい」とあるが、鳩は素直さの象徴である。
私達は主に対し、鳩のような愛らしい素直な瞳をもって見つめ、聴き従う心を持つべきである。

花嫁は、この褒めそやす声に対し、16節と17節で言っている。

雅歌1:16 わが愛する者よ、見よ、あなたは美しく、まことにりっぱです。わたしたちの床は緑、
1:17 わたしたちの家の梁は香柏、そのたるきはいとすぎです。
この長椅子(エレス:床)とは、カウチのような、ベッドのようなところである。
青々としている(ラアナン)とは、強く盛んな、あるいは、みずみずしい、春の木々のようによく茂っている事である。

新婚の夫婦のベッド、そこは夫婦が一つとなり、産んで増えて地に満ちていく営みをする所である。
そこが、春の木々のように茂っていくかのように。
私達も、イエス様とますます一つとなり、十字架のイエス様の懐深くにおさまって、イエス様の死と一つとなり、イエス様の復活と同様に復活され、主イエス様のいのちを、産んで増えて地に満ちていくための活動をしていくのである。

確かに新婚の男女にとっては、世界の全てのものがバラ色のようになったような気もするが、これは、私達と主との関係においても同じである。
主に愛し、主に愛されている関係であるなら、世界がとても変わったものに見える。
何もかも美しく、みずみずしく、若々しく育っていく。

主の御声に聴き従って歩んでいくならば、どんどん主から飾らされ、美しくされ、鷲のように若々しくされていく。
アブラハムとサラの夫婦は、100歳と90歳であったが、しかし子供を生み出す力が与えられ、また、サラは89歳であったにもかかわらず、美しさのゆえに、異邦の王に略奪結婚させられてしまった。
そのようなことが実際に起きる。

イエス様との関係が、結婚したばかりの男女のようにみずみずしく、若々しくなっていき、ますます主から飾られ美しくされていく皆さんでありますように!
主から与えられた言葉を、喜んで自分の心・思い・手のわざへと飾りつけ、主の喜びとされて、ますます優れた飾りで飾られていく皆さんでありますように!
麗しい方、イエス様のお名前によって祝福します!

真っ黒なぶどう畑の見張りから栄光の花嫁へのシンデレラ・ストーリー(雅歌1:5-8)
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1:5 エルサレムの娘たちよ、わたしは黒いけれども美しい。ケダルの天幕のように、ソロモンのとばりのように。

彼女は、自分が黒くなってしまったと言っている。その理由が6節。

1:6 わたしが日に焼けているがために、日がわたしを焼いたがために、わたしを見つめてはならない。わが母の子らは怒って、わたしにぶどう園を守らせた。しかし、わたしは自分のぶどう園を守らなかった。

日に焼けて黒い。なぜそうなったか。それは自分の肉親の子達、すなわち兄や姉がいきりたって、無理矢理彼女に、彼らの葡萄畑の見張り人に仕立てられたからだ。
「しかし彼女は自分の葡萄畑たちを見張ることができませんでした。」と言っている。
畑が複数形、という事は、兄や姉たちの畑たちを見張らなくてはならなかった。
それでいて、自分の(単数形の)葡萄畑の面倒を見る事はできなかった。
それで彼女が黒くなってしまった。というのが、彼女の状況。

日に焼けて黒くなって、女性としての魅力がなくなってしまった、と彼女は思って、それで、私のことをそんなに見つめないでください、と言っているのかもしれない。

しかし「日がわたしを焼いた(シャザフ)」は、直訳すると、わたしは太陽に見つめられた、と訳せる。
本来、自分の葡萄畑を見張って面倒を見るべきが、無理やり他人の葡萄畑を見張るようにされてしまった。自分のぶどうは面倒を見ることも、実らせることもできないまま、ただどんどん黒くなっていくだけ、というのが、彼女の今までだった。

しかし彼女は、黒いけれども美しいと言っている。
美しいとは「似合っている」という意味である。

彼女は、自分のぶどうの面倒を見ることができなかったかもしれない。ただ黒くなってしまったかもしれない、しか少なくとも彼女は、ずっと太陽に見つめられつけていた。
義の太陽であられるイエス様は、彼女をずっと見つめて続けておられた。あの間も、この間も。
そして彼女は、ついに、将来の夫の目に留まり、そこへ嫁いでいく。

まさにシンデレラストーリーである。シンデレラは元々、過酷な継母の元で灰をかぶる程に強制的に働かされ、真っ黒になったのと、意地悪な継母が「cinder(灰)」の娘、シンデレラ、と揶揄したのが元々であるが、やがて王子様に見初められ、王家へと嫁ぎ、素晴らしい王宮に入り、以前の古くて汚い、せまい働き場は全くもって過ぎ去る。
地上で神のために働く全ての「僕(ディアコノス=ディア(くぐる)+コノス(灰))」達は、皆、この壮大なシンデレラストーリーにあずかるのである。

花婿は黒くなった彼女のことを、女性の中でも最も美しい、と言う。
彼女は自分で自分のことを黒い、恥ずかしい、と思ったが、それは花婿とは違う価値観だった。

私たちも同様である。
自分で自分を見つめる評価は重要なのではない。むしろ、真の花婿にどう見られているか、彼がどう私たちを評価するのかこそ大事である。
私たちはいつまでも、他人の葡萄畑を見張り続けているわけではない。
やがて王の王であられるお方、まことの夫であられるお方が、より素晴らしい所へと導いて下さるのだ。

以前は、彼女の母の子供たちが、彼女よりも上の立場、力強い立場だったかもしれない。それで彼女の時間やエネルギーを搾取する事ができた。
しかしそれよりもさらなる上なるお方、王の中の王であられるお方に見初められ、嫁がれて行くなら、もはや以前の支配者たちは、手放さざるを得ない。

だから私達は、まことの夫へと引き寄せられる日に備え、日々しっかりと与えられたことをなすべきである。
私たちも世の中において、あるかもしれない。
世の人たちが、いきり立って、神の子達をこき使い、肝心の自分の畑、自分の家庭を全然見張ることができず、ただ無理やり他の兄弟姉妹の畑の面倒ばかりを見せられ、ただ黒くなってシミやそばかす、シワの類だけが増えて、あたかも無駄に時間をつぶしているかのように感じる事が。
しかしイエス様は変わらず、全部を、ずっと見つめ続けておられる。
主が私たちを呼び出し、召し出して下さるなら、もはや誰かに身勝手に押し付けられる労働や苦労から解放され、愛する方に召し出され、奥の間の交わりへと導かれて行く。

そのために私達がなすべき事が一点ある。
それは、夫なる方に、呼びかける事である。

1:7 わが魂の愛する者よ、あなたはどこで、あなたの群れを養い、昼の時にどこで、それを休ませるのか、わたしに告げてください。どうして、わたしはさまよう者のように、あなたの仲間の群れのかたわらに、いなければならないのですか。

私の愛する方、イエス様、どうか教えてください、どこであなたは羊を飼い、どこで休ませているのですか、なんで私だけさまようような事をしなくてはならないのでしょうか、と。

呼び求めるなら、主は教えて下さる。
私たちを罪の飲み食いから、黒くならざるを得ないところから解放される方法を、そして、花嫁として整えますます美しく仕立てられて行く術を。

黙示録に書いてある。夫のために飾られる花嫁は、天から降って来た、と。
花嫁が整えられる場所は、天である。私達のこの身は地上にいるかのように見えても、主に導かれるなら、私達の霊は天にあり、そこでは世の者は決して触れる事はできない。
この身は地上に居ながらにして、霊は御国におり、御国の平安、安息の内に、主に養われ、御国へと嫁いで行く花嫁として整えられ、飾られて行くのである。

何も私たちが、主に気に入られるために宝石やゴールドを買って飾るのではない。
私たちは主にあって、天的な養いを受け、宝石や首飾りなどで花嫁として美しく
飾られていくの。

そのためには、花婿に呼び求め、その言葉に聞き従っていかなければならない。

1:8 女のうちの最も美しい者よ、あなたが知らないなら、群れの足跡に従っていって、羊飼たちの天幕のかたわらで、あなたの子やぎを飼いなさい。
 
主は語られる。羊の群れの足跡に従ってついてきなさい、と。
私達も、主の羊たちが歩んだ道、すなわち、信仰の先輩たちの足跡ならい、まずついていくことから始まる。
4節にある通り、私を引き寄せてください、私はあなたの後から急いで参ります、と言う姿勢で。
イエス様、私の後についてきて困った時に助けてね、と言う姿勢ではなく、私たちの側が、主のあとについていく、という歩みをしていくべきなのだ。

主について行って、その場所に到達したなら、羊飼いの住まい(ミシュカン)の傍らで、あなたの子山羊を買いなさい、と言われる。
山羊は羊よりもグレードが低いような、角が生えていた逆らう性質があり、前か悪かと言えば、どちらかというと悪に思えるような気もするが、しかし、その子山羊を飼いなさい、と言われる。羊飼いのミシュカンの傍らでう。

ミシュカンとは幕屋、テントの意味だが、モーセの時代以降の礼拝する所もミシュカンという。
私たちが子山羊を買うようなことがあっても、主の天幕(ミシュカン)のそばでそれを飼っているならば、主は私たちを、子山羊飼いから羊飼いにして下さる。
山羊は成長すれば、目がきつくなっていき、 あばれたり突進して来たりするが、子山羊のうちであるならば、主への捧げ物になる。

私達はまず、まことの羊飼いであられる主の羊たちの群れの足跡に、ついていかなくてはならない。ダビデは、主がまことの羊飼いで、私達はその羊だと言った。
だから私達も、ダビデやヨシュア、カレブのような信仰の先輩たちという主の羊達の足跡について行き、まことの羊飼いの幕屋、すなわち礼拝場所の傍らで、主が言われる通りに、子山羊を飼うのだ。それをしっかりとしていくならば、主はさらなる次の整えへと入らせていく。

どうか、ますます世の罪の飲み食いから離れ、キリストの花嫁として整えられ、飾られ、美しくされ、主の麗しい交わり、奥の間での交わりへと導かれていく皆さんでありますように。
イエス様の名前よって祝福します!

雅歌書の中に見出すイエス様との親密な愛の交わり(雅歌1:1-4)
Youtube動画
メッセージ音声

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雅歌1:1 ソロモンの雅歌

雅歌(シール・ハ・シーリーム)は日本語の漢字では、雅やかな歌、と当てられているが、原意は「歌たちの中の歌」である。
花嫁と花婿の詩、娘たちの合唱が呼び交わされる形式で、男女の婚約した時から、結婚に至り、初々しい夫婦生活から、その成熟に至るまでの、男女間の愛の喜びに溢れた表現で描いている。
雅歌書は、聖書の中でも異色の本といえる。
聖書の他の書は、神と人との愛の関係が記されるのが多いものの、雅歌書のように、人同士の、それも男女の愛をうたっている箇所はほとんどないし、また他の書は、感情表現ぬきで淡々と真理が示されている箇所は多いものの、雅歌書に限っては、ふんだんに感情表現がされている。
また、聖書の他の箇所では、神を称え賛美する箇所は多いものの、雅歌書のように、誰か人を、それも、異性をほめ讃える表現は、他の書では皆無だ。
この雅歌書から私達は何を読み解いていくべきか。

日本語で言う所の「愛」は、ギリシア語には4種類がある。
すなわち、フィレオの「友愛」、エストロゲの「親子愛」、エロスの「男女の恋愛」、そして、アガペーの、「神の完全なる究極的な愛」。
フィレオの愛は友愛、エストロゲの愛は親子愛、エロスの愛は男女の恋愛、そして、アガペーの愛は、神の完全な究極的な愛であるが、この雅歌では、主に、エロスの愛を描いている。
このエロスの愛は、強く情欲を駆り立て、うきうきさせる力があるが、自己中心的で、自分が満足したり、自分が気持ちよくなったり、時には奪ったりするものである。
もし相手に性的な魅力を感じなくなってしまったら、いとも簡単に離れてしまう。

世の中には多くの歌があるが、おそらく半数以上は、男女の愛をテーマにしたものではないだろうか。
しかもその愛の歌の中には、心をうきうきさせるよりも、切なくさせたり、悲哀感情へと浸しこませたりするものも、たくさん見受けられる。
神の愛・アガペーは、それらとは方向性が真逆で、人のした悪を思わず、自分が得る事を思わず、ただ人を大切にする愛である。

このエロスの愛で満ちている雅歌書は、聖書的に意味が無いのかというと、そうではない。
この世の有様は、全て天の実体の陰であり、男女の愛も、そうである。
雅歌のこの愛の模様は、私たち教会、すなわち、キリストの花嫁と、キリストと言うまことの花婿との関係の雛形として見ていく時、雅歌書はキリストと教会の関係において、非常に豊かな示唆を与えてくれる。
しかしもしキリストなしにこの雅歌書を読むなら、ただの恋愛ドラマや、官能小説と変わりはなくなってしまう。

この書は、あまりに男女の愛の喜びを楽しみを赤裸々に散りばめているので、これが果たして聖書の一巻としてふさわしいのかどうかと言う議論も成された。
しかし、神の国には当然、愛し愛されるゆえの喜びがあり、楽しみが存在する。
世の宗教では、男女の愛を何か汚れたものとして見る所もあるが、キリストにあっては、捨てるべきものは何一つ無い。
キリストを交えて見るなら、この雅歌書はとても美しく、麗しい、好ましいものである。

雅歌1:2 どうか、あなたの口の口づけをもって、わたしに口づけしてください。あなたの愛はぶどう酒にまさり、
1:3 あなたのにおい油はかんばしく、あなたの名は注がれたにおい油のようです。それゆえ、おとめたちはあなたを愛するのです。

最初から早速、官能的な表現で始まるように見えるが、この「口づけ(ナーカシュ)」、もともとの意味は結びつける、(武器などを)装着する所から、「口づけ」になった。
私たちはここから、キリストの花嫁としての立ち位置、キリストを装着し、キリストを着たい、キリストと一体化したい、という感情を共有する事ができる。
イエス様が、私とひとつになってくださったら良いのに、と感情として思うのは、正常なキリスト者の願いである。
そのイエス様の愛は、ぶどう酒よりはるかに優れた心地よさだ、という感覚を、理解できるだろうか。
私達が「イエス様」と呼ぶたびに、イエス様の愛を感じ、その麗しさ、甘さが、香り高い香油のように、喜ばしさをともなって心に満ち満ちていく。
その感覚は、正常なキリスト者の感覚である。それを理解できない、とするなら、単にキリスト教を宗教として生きているだけである。

雅歌1:4 あなたのあとについて、行かせてください。わたしたちは急いでまいりましょう。王はわたしをそのへやに連れて行かれた。わたしたちは、あなたによって喜び楽しみ、ぶどう酒にまさって、あなたの愛をほめたたえます。おとめたちは真心をもってあなたを愛します。

ここに、私達とキリストとの正しい立ち位置が記されている。
私たちはイエス様のあとを従って行くものであり、決してその逆ではない。
イエス様が行ったなら、私達は彼から離れずに、急いで彼についていく。それがイエス様との正しい位置関係である。

普段は自分の好き勝手にやって行って、何か困った時だけ、神を取り出して助けてもらおうとしたり、あるいは自分が願う事を叶えてもらうためだけに神を持ち出すような、そんなふうに、神を何か便利な四次元ポケット的なものとみなすのは、イエス様を主とした歩みではない。
イエス様は、この雅歌書の乙女にとって大好きな男性のように、私達にとってうるわしい主人であり、私達はただ彼の後からついて行き、彼の願われる事を行い、彼がしてはならないと言われた事はしない、そして、彼がしなさいと言われた事を行う。
それが正しい私達の歩みであり、その歩みをするならば、イエス様は私たちを「奥の間」へとエスコートし、そこで親密な愛の交わりへと導いて下さる。

そこには、「楽しみ喜び」があり、それは、ぶどう酒に遥かにまさるものだと書いてある。
ここの「楽しみ」と訳されたヘブライ語ギール(あるいはグル)は、元の意味は「くるくる回る」、そこから嬉しさ、喜びのあまりに踊り上がる事をあらわし、「喜び」と訳されたヘブライ語サマハ(ク)は、顔が喜びにぱーっと輝く様をあらわしている。
子犬が主人に久しぶりに会った時、ぴょんぴょん飛び跳ね、くるくる回って喜び叫び踊るような感覚である。

女性が、慕い求めている男性に、エスコートされ、奥の間に親密な愛の交わりへと連れて行かれる時、まさに、このギールやサマクの感覚ではなかろうか。
私達がキリストに対して描く感覚も、同じである。
イエス様に伴われ、普段の人には到底入れない聖なる所での、聖なる親しい交わりへと導かれて行く事は、キリスト者にとって、この上もない喜びである。

神を礼拝する場所、神殿や幕屋には、至聖所と呼ばれる「奥の間」がある。
そこは絶対的に聖なる領域で、普通の人間は決して入れない。
しかしイエス様は、十字架の上で、ご自身のからだを裂かれる事により、私達にそこへの道を開いて下さった。

私達は「肉体」という外面を持っており、それに対し「霊」という「奥の間」を持っている。
神は霊であるから、私達は霊とまことによる礼拝をする事を求められている故に、私達はこの肉体だけを礼拝に参加させるのではなく、霊とまことをもって主を礼拝するべきである。

そうであるなら、たとえ体は礼拝する場ではない所に、例えば職場や不信仰に満ちた家の中にいたとしても、霊においては主と交わっていて、「奥の間」における主との交わりにある。
その時、どこでも主にある喜び、楽しみに入る事ができる。
たとえ、私達を殺そうとする迫害者に取り囲まれている時でも、決して揺るがされるものではない。
ステパノがまさに、殉教される直前、キリストとの霊における奥の間の交わりに入っていた。

イエス様との正しい位置関係を持ち、イエス様の後から急いでついて行って、奥の間へと導かれ、そこにで霊における親密な愛の交わりに入って、世の何者にも決して揺るがされない平安と喜びの内を歩む皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
幼い娘を立派な花嫁に育てよ(雅歌8:8-14)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
封印のように固く成熟して行く夫婦の愛(雅歌8:1-7)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
何も包み隠さない交わりへの成熟(雅歌7章)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
正しい夫婦関係の回復(雅歌6章):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
あなたの愛する方はどんなお方ですか?(雅歌5:9-16):右クリックで保存

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