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メッセージ - 1サムエル記カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:アマレクではなく祭司たちを滅ぼし尽くしたサウル(1サムエル記22:17-23):右クリックで保存

私達は常時、何かしらを「思っている」ものだが、その「思い」の出所元には、いつも気をつけるべきだ。

なぜなら私達は、常日頃浸っている「思い」の「出処」に似てくるからである。
サウルは、健全な主の言葉から思いをそむけ、かえって、「妬み」や「怒り」「殺意」といった、サタンを出処とする悪しき思いを、いつも巡らしていたため、彼はどんどん、サタンの性質を帯びるようになって行ってしまった。

人は、ねたみや好色、汚れた思いに委ねているのは、肉的にはラクである。
人にはそうした罪の性質が「刺さって」いるため、ねたみや好色などをネタにする雑誌が、国を問わず、売れているのだ。
しかし私達のように、キリストにあって聖徒とされた者が、聖なる言葉に馴染もうとせず、肉的にラクな道ばかりを選び、汚れた思いに浸り続けているなら、どんどん聖なる感覚は鈍って行き、ついには、恐るべき悪行をも、無感覚的に平気で実行するようになってしまうのだ。

近衛兵たちは、誰も、このサウルの命令、「主(エホバ)の祭司たちを殺せ」には、従えなかった。(1サムエル記22:17)
主エホバをおそれる民であるなら、主の祭司を殺すなど、決してできないものだ。
「主の祭司たちを殺す」という”望み”を果たしてくれる人は、神の民イスラエルの中には誰もいない、というのを見て取ったサウルは、神を恐れぬ邪悪な者をもって、その”望み”を果たさせようとする。

『そこで王はドエグに言った、「あなたが身をひるがえして、祭司たちを殺しなさい」。エドムびとドエグは身をひるがえして祭司たちを撃ち、その日亜麻布のエポデを身につけている者八十五人を殺した。彼はまた、つるぎをもって祭司の町ノブを撃ち、つるぎをもって男、女、幼な子、乳飲み子、牛、ろば、羊を殺した。』(1サムエル記22:18-19)
剣で殺したのだから、返り血も浴びただろう。
エポデを着た祭司達の、血まみれの死体八十五体が累々と横たわる様を見ても、サウルの心は全く動かず、かえってドエグに、そこ(ギブア)からわざわざ祭司の町・ノブまで出向かせ、祭司たちの女、子供、乳飲み子ばかりでなく、家畜までも、殺させ尽くしたのだ。

この祭司たちは、エポデを着ていた。
エポデとは、祭司が務めを為す時の服であり、その両肩部分には、イスラエル十二部族の名が刻まれた宝石が結び付けられ、また、胸の所には、イスラエル十二部族の名が彫り込まれた十二種の宝石がはめ込まれている「さばきの胸当て」を結びつけられる。
祭司たちはエポデを着る事によって、イスラエルの名を両肩に背負い、またイスラエルの名を胸に収めつつ、聖所を出入りして、イスラエルの罪の贖いをしているのだ。(出エジプト記28章)

サウルは、神と人との間に立って罪を身代わりに背負ってくれる祭司たちを、自分から抹殺したのだ。
一体誰が、サウルの身代わりに罪の贖いをしてくれるというのだろうか。
それは彼には、もはや無い。
だから、サウルがこれから危機に陥った時、彼を救ってくれるものは、何もなくなってしまったのだ。
私達ももし、私達の罪を身代わりに背負って罪を購ってくださった主イエス・キリストをあなどり、拒否し、抹殺するとするなら、もはや罪の贖いは何も残っておらず、ただ恐ろしいさばきを待っている他ないのだ。

『しかしアヒトブの子アヒメレクの子たちのひとりで、名をアビヤタルという人は、のがれてダビデの所に走った。そしてアビヤタルは、サウルが主の祭司たちを殺したことをダビデに告げたので、ダビデはアビヤタルに言った、「あの日、エドムびとドエグがあそこにいたので、わたしは彼がきっとサウルに告げるであろうと思った。わたしがあなたの父の家の人々の命を失わせるもととなったのです。』(1サムエル記22:20-22)
ダビデも、まさかサウルがそこまでするとは思っていなかった事だろう。

しかし実をいうと、このエリの子孫達が剣で絶たれてしまう事は、主によってあらかじめ警告されていた事だった。(1サムエル記2:31-36)
『イスラエルの神、主は仰せられる、『わたしはかつて、「あなたの家とあなたの父の家とは、永久にわたしの前に歩むであろう」と言った』。しかし今、主は仰せられる、『決してそうはしない。わたしを尊ぶ者を、わたしは尊び、わたしを卑しめる者は、軽んぜられるであろう。見よ、日が来るであろう。その日、わたしはあなたの力と、あなたの父の家の力を断ち、あなたの家に年老いた者をなくするであろう。』(1サムエル記2:30-31)
エリとその息子達は、この警告を受たが、軽んじ、行状を改めなかった。

『しかしあなたの一族のひとりを、わたしの祭壇から断たないであろう。彼は残されてその目を泣きはらし、心を痛めるであろう。またあなたの家に生れ出るものは、みなつるぎに死ぬであろう。あなたのふたりの子ホフニとピネハスの身に起ることが、あなたのためにそのしるしとなるであろう。すなわちそのふたりは共に同じ日に死ぬであろう。』(1サムエル記2:33-34)
エリも、彼の息子ホフニとピネハスも、この警告の通り、同じ日に死んだ。
そしてこの度、その一族郎党の祭司たち八十五人も、女子供も、乳飲み子までも、剣によって絶やされてしまった。
こうして、「あなたの家に生れ出るものは、みなつるぎに死ぬ」という預言は、成就した。

ここで、アヒメレクの子・アビアタルだけが逃れて来たのだが、結局彼も、ソロモン王の時代、ダビデに敵する側についたゆえに、祭司職から罷免され、彼の代わりに、ツァドクの家(ピネハスの子孫)が大祭司の家系となっていく。(1列王記2:35)
こうして「あなたの一族のひとりを、わたしの祭壇から断たないであろう。彼は残されてその目を泣きはらし、心を痛めるであろう。」「そのとき、あなたは災のうちにあって、イスラエルに与えられるもろもろの繁栄を、ねたみ見るであろう。」という預言も、エリの家に成就する事となった。

『あなたはわたしの所にとどまってください。恐れることはありません。あなたの命を求める者は、わたしの命をも求めているのです。わたしの所におられるならば、あなたは安全でしょう」。』(1サムエル記22:23)
このようにしてサウルは、主に伺う事のできる祭司を自ら抹殺し、彼自身、みずから主に伺う事を断絶してしまった。
しかしお陰で、ダビデは、祭司を得る事になった。

滅ぼし尽くすべきアマレクは滅ぼす事を惜しみ、代わりに、神と自分との間に立って執り成してくれる祭司を滅ぼし尽くしたサウル。
サウルのように、罪の性質を滅ぼす事を惜しみ、健全な御言葉を踏みにじり続けるなら、その内、手をかけてはならない恩人をあやめるようになり、ついには、まことの大祭司であるイエスキリストを殺してしまうようになってしまうのだ。

礼拝説教メッセージ音声:憎しみを思い巡らす人は主の祭司も平気で殺す(1サムエル記22:6-16):右クリックで保存

『サウルは、ダビデおよび彼と共にいる人々が見つかったということを聞いた。サウルはギベアで、やりを手にもって、丘のぎょりゅうの木の下にすわっており、家来たちはみなそのまわりに立っていた。』(1サムエル記22:6)

サウルは、息子・ヨナタンに槍を投げつけて以来の登場であるが、彼の人格の崩れ度合いは、さらに進んでいる。
戦時でもないのに、いつも彼が槍を手にしているのは、人々を威圧するためか、あるいは最悪、気に食わない者に槍を投げつけるためなのかもしれない。

『サウルはまわりに立っている家来たちに言った、「あなたがたベニヤミンびとは聞きなさい。エッサイの子もまた、あなたがたおのおのに畑やぶどう畑を与え、おのおのを千人の長、百人の長にするであろうか。』(1サムエル記22:7)
サウルは、イスラエル全体の王のはずだ。なのに、彼の周りにはベニヤミン人しかいない。
もしかすると、凶暴化して来た彼から人々が逃げ、もはや身内のベニヤミン人しかいなくなってしまったのかもしれないし、あるいは、サウルの猜疑心が強くなりすぎて、自分の身内しか信用できなくなってしまったからかもしれない。

サウルは、「エッサイの子」すなわちダビデは、はたして、あなたがたにぶどう畑や昇進などの褒美を取らせるだろうか、と言っている。
しかし本来、神の民は、畑を人から褒美として与えられるべきものではないし、また本来、千人隊や百人隊の長や兵士などを、人間の制度によって徴用されるべきものではない。
王である主が、相続地を人に与えておられ、そして主が、それぞれの人に賜物を与え、それぞれおの志に働きかけるのだ。
だから、神の国の人は、主から与えられた賜物を自由に生かし、ある人は隊長になり、ある人は畑を豊かにさせる者となったりするのだ。

サムエルはかつて、人々が王を求めた時、あらかじめ宣言していた。
『あなたがたを治める王のならわしは次のとおりである。彼はあなたがたのむすこを取って、戦車隊に入れ、騎兵とし、自分の戦車の前に走らせるであろう。彼はまたそれを千人の長、五十人の長に任じ・・・また、あなたがたの畑とぶどう畑とオリブ畑の最も良い物を取って、その家来に与え・・・あなたがたは、その奴隷となるであろう。そしてその日あなたがたは自分のために選んだ王のゆえに呼ばわるであろう。しかし主はその日にあなたがたに答えられないであろう」。』(1サムエル記8:11-18)
イスラエルは、サウルを王に任じた事を、既に後悔していたであろう。

『あなたがたは皆共にはかってわたしに敵した。わたしの子がエッサイの子と契約を結んでも、それをわたしに告げるものはなく、またあなたがたのうち、ひとりもわたしのために憂えず、きょうのように、わたしの子がわたしのしもべをそそのかしてわたしに逆らわせ、道で彼がわたしを待ち伏せするようになっても、わたしに告げる者はない」。』(1サムエル記22:8)
サウルは、ものすごい被害妄想に憑かれている。
誰も教えてくれない、誰も心配してくれない、みんなが共に計って自分に敵対している、と思っているのだ。

サウルは「あなたがたは逆らっている」と言ったが、真に逆らっているのは、一体誰だろう。
サウルは、はるか前、サムエルを通して、主から言われていた。
『あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。』(1サムエル記15:23)

サウルは既に王位から退けられており、彼に代わって、主はダビデに王としての油が注がれた。
サウルにはその事が知らされていなかったのかもしれないが、少なくともヨナタンは、ダビデがこれから王として栄え、サウルの家は衰えていく事が分かっていた。
それなのにサウルは、相変わらず王位にしがみつき、ダビデを殺そうと付け狙っている。
神の民の「王」というものは、人間の王が唯一絶対の権力者ではなく、その上に王の王、主の主であられる神がおられるものだ。
だからもし、人がおとなしくその「王座」から降りて、神に明け渡さないでいるなら、やがて、強制的に降ろされてしまう事になる。

ベニヤミン人の部下たちは、サウルに何も言えないでいたが、ただ一人一人、サウルに応えた者があった。
『その時エドムびとドエグは、サウルの家来たちのそばに立っていたが、答えて言った、「わたしはエッサイの子がノブにいるアヒトブの子アヒメレクの所にきたのを見ました。アヒメレクは彼のために主に問い、また彼に食物を与え、ペリシテびとゴリアテのつるぎを与えました」。そこで王は人をつかわして、アヒトブの子祭司アヒメレクとその父の家のすべての者、すなわちノブの祭司たちを召したので、みな王の所にきた。』(1サムエル記22:9-11)
先にも見た通り、ドエグはエドム人、一杯の食物で尊いものを売り渡したエサウの子孫であるが、彼も、地位や名誉欲しさに、神の祭司を告げ口する。

『サウルは彼に言った、「どうしてあなたはエッサイの子と共にはかってわたしに敵し、彼にパンとつるぎを与え、彼のために神に問い、きょうのように彼をわたしに逆らって立たせ、道で待ち伏せさせるのか」。』(1サムエル記22:13)
アヒメレクとしては、唐突にこんな事を言われて、暫く、わけが分からなかっただろう。

サウルのような、いつも被害妄想で怯え、良くない思いを脳内で巡らしているような者は、唐突に意味不明な事で人を責め立て、凍りつかせるものだが、それが王で、絶対的権力を持っているなら、その王の下にいる人々は悲惨である。
サタンは歴史上、幾度もこのような手段を用いて、多くの国を悲惨に陥れて来た。

そもそも、神の国の王たるものは、祭司に何か物申す事はできないはずで、王のほうが、祭司の示して来る御言葉に服従しなくてはならない。(申命記17:14-20、2歴代誌26:16-23)
それなのに、サウルの中では、完全にサウルが上で、主と主の言葉と主の祭司は、その下になっている。
サウルはなぜ、王から退けられたか。それは、彼が御言葉を退けたからだった。

『アヒメレクは王に答えて言った、「あなたの家来のうち、ダビデのように忠義な者がほかにありますか。彼は王の娘婿であり、近衛兵の長であって、あなたの家で尊ばれる人ではありませんか。彼のために神に問うたのは、きょう初めてでしょうか。いいえ、決してそうではありません。王よ、どうぞ、しもべと父の全家に罪を負わせないでください。しもべは、これについては、事の大小を問わず、何をも知らなかったのです」。』(1サムエル記22:14-15)
祭司は極めてもっともな事を言っているし、また事実である。

『王は言った、「アヒメレクよ、あなたは必ず殺されなければならない。あなたの父の全家も同じである」。』(1サムエル記22:16)
サウルは既に、脳内で、祭司アヒメレクは死ぬべき反逆者として、憎しみを混ぜつつ思い巡らしてしまった後なので、アヒメレクが事実を言ったかどうか、そして彼が主の祭司であるかどうかは一切関係なく、彼を殺せ、と命じてしまう。
もはやサウルは、主を恐れる心も、祭司を敬う心も無くなってしまった。
こうしてサウルは、主に伺う事のできる祭司を自ら抹殺し、彼自身、主に伺う事を断絶してしまったが、この事がきっかけで、ダビデは主に伺う事ができる祭司を得る事になる。

サウルは「王座」をしがみついて、離さない故に、「王座」に支配され、「王座」に振り回され、やがては「王座」によって滅ぼされてしまう。
「王座」は、人間が座るものではなく、唯一、主が座すべき所であり、人がそこに座そうとするなら、必ず滅びが待っている。
『あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。それらは、くつわや手綱の馬具で押えなければ、あなたに近づかない。悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。』(詩篇32:9-11)

私達の王は、誰だろうか。
それは唯一、王の王、主の主であるイエス様であるべきだ。

礼拝説教メッセージ音声:養うべき人を養う内に、実は養われていたダビデ(1サムエル記22:1-5):右クリックで保存

ダビデは、自分のいのちを守るために、逃げ隠れしたり、本心でない行動を取ったりして、本当にみじめな思いが続いただろう。
そして彼自身、真実から外れた言動を続ける事に、良心の咎めを感じ、このままでは良くないと思っていた事だろう。
そんな彼に、主は、助けを送られる。

『こうしてダビデはその所を去り、アドラムのほら穴へのがれた。彼の兄弟たちと父の家の者は皆、これを聞き、その所に下って彼のもとにきた。』(1サムエル記22:1)
一人逃避行中のダビデの元に、彼の家族や血縁者が集まって来た。
なぜ集まって来たのかは、大体想像できる。
ダビデは、何も悪い事はしていないとは言え、一国の王・サウルから執拗につけ狙われており、しかも、サウルは最近、見境の無い暴君のようになってしまったから、ダビデの家族も、何をされるか分からなくなってきた。
それで彼らもダビデと一緒に逃げるようになったのだろう。

どんな理由であれ、ひとり心萎えていたダビデは、家族が来たことで、慰めを得ただろう。
そしてダビデの元に来たのは、血縁の人達だけでなかった。

『また、しえたげられている人々、負債のある人々、心に不満のある人々も皆、彼のもとに集まってきて、彼はその長となった。おおよそ四百人の人々が彼と共にあった。』(1サムエル記22:2)
ダビデは別に、軍団の長になりたくて人を募ったわけでなく、人々のほうから来たのだが、その400人の内訳は、「しえたげられている人々、負債のある人々、心に不満のある人々(原意:苦い魂を持つ人)」だった。
ダビデはキリストのご性質を、実によくあらわしている。
キリストを慕い求めて来た人達も、当時の世において虐げられている人々、負債がある人々、苦い魂を持った人達だった。

それにしても、400人という大所帯である。
彼らが一日行動するにしても、かなりの食料や物資を調達しなくてはならないし、しかも彼らは、王に追い回されている身だ。
ダビデはそれまで、自分自身の悩みで手一杯だった所に、彼に助けを求めて来た人々が集まってきた。

”わたし”が助けられたい身なのに、なぜか、”わたし”に助けを求めて人が集まって来る。
実はそれが、主が”わたし”を助ける方法だったのだ。
人は、守らなくてはならない人、養わなくてはならない人を持つようになると、強く、健全になるものだ。
ダビデはそれまで、自分のいのちを救うために、本意ではないにしても、真実でない行動をして来た。
しかし400人の長となった今、彼らの前で偽りの行動はする訳にはいかなくなり、真理に立つようになっていった。
それは、彼の後の言動から知れる。

『ダビデはそこからモアブのミヅパへ行き、モアブの王に言った、「神がわたしのためにどんなことをされるかわかるまで、どうぞわたしの父母をあなたの所におらせてください」。』(1サムエル記22:3)
モアブは、ダビデのひいおばあさん・ルツの故郷である。
ダビデは、彼のひいおじいさん・ボアズが、ルツと結婚する前に言った言葉、「あなたがその翼の下に身を寄せて来た主が、豊かに報いて下さいますように」という言葉を思い起こしただろう。

しかし、モアブもペリシテのように、異教の神を拝する異邦の国であったが、ダビデはもはや、媚びる事も逃げ隠れもせず、堂々と「神が」自分をどのように導かれるか分かるまで、いさせて下さい、と頼んだ。
ダビデは、まことの神に導かれる者として、堂々と振る舞うようになった。ペリシテの時と比べて、ダビデはなんと変わっただろう。

『そして彼はモアブの王に彼らを託したので、彼らはダビデが要害におる間、王の所におった。』(1サムエル記22:4)
モアブの王は、申し出を受け入れた。
主は、正当に信仰告白をする人を守り、あらゆる便宜を図ってくださるのだ。

こうしてダビデは、しばしモアブに留まる事になった。
ひいおばあさん・ルツのゆかりの地で、いのちの安全が確保され、400人の長として、ある程度の平和の生活を送る事が出来るようになった。
もはやサウルの事は忘れて、モアブで新しい人生を再出発できるかも、という気分だったかもしれないが、それは主の御心ではない。

『預言者ガドはダビデに言った、「要害にとどまっていないで、去ってユダの地へ行きなさい」。そこでダビデは去って、ハレテの森へ行った。』(1サムエル記22:5)
預言者を通して神に示されたダビデは、すぐに預言者の言葉に従順し、危険ではあるけれども神の御心の地・イスラエルの地に帰った。
ダビデは主から、特別な任職の油を注がれた。だから彼は、一生を安穏として生きるべきではないのだ。
私達キリスト者にも、主から聖霊の油を注がれたからには、単に安穏とした一生を生きるものではなく、神の国の働き人として働かなくてはならない。それは安穏の逆、ダビデのように冒険の日々である。

ダビデは、任された400人のいのちを養う内に、清められ、整えられ、そしてイスラエルの王としての特別な養いを、この苦難の期間に受けた。
女王蜂を育てるためには、ローヤルゼリーという特別な蜜で育てられるように、ダビデを王として育てるために、この苦難の期間が、主からのローヤルゼリーだったのだ。
主は私達キリスト者にも、王族の祭司となるために、特別な御言葉のローヤルゼリーで養って下さる。

主はそれぞれに、どんなご計画を持っておられるか、人には分からない。
しかし、主が私達にご計画しておられるか、分かるまでは、私達は主に任されている事を忠実に行ない、また、任されているいのち達を忠実に養うべきなのだ。

礼拝説教メッセージ音声:最もみっともない場面でも賛美したダビデ(1サムエル記21:11-15):右クリックで保存

サウルを避けてペリシテのガテに逃れたダビデは、ペリシテ人に捕らえられ、ペリシテの王アキシュの所に連れて行かれた。

『アキシの家来たちはアキシに言った、「これはあの国の”王”ダビデではありませんか。人々が踊りながら、互に歌いかわして、/『サウルは千を撃ち殺し、/ダビデは万を撃ち殺した』/と言ったのは、この人のことではありませんか」。』(1サムエル記21:11)
イスラエルの女達が歌った『サウルは千を撃ち殺し、ダビデは万を撃ち殺した』の歌は、異邦の地にも鳴り響いており、しかもイスラエルの王はサウルであるのに、ダビデも「王」として認知されていた。
ダビデのほうが異邦の国でも認められているのだ。
しかし今は、その事を喜べる状況ではなく、その事がまずい状況である。

『ダビデは、これらの言葉を心におき、ガテの王アキシを、ひじょうに恐れたので、人々の前で、わざと挙動を変え、捕えられて気が変になったふりをし、門のとびらを打ちたたき、よだれを流して、ひげに伝わらせた。』(1サムエル記21:12)
それまで全くもってペリシテ人を恐れなかったダビデだったが、この時、彼はペリシテ人を恐れるあまり、命を救うために、気が変になったふりをした。
そんな事をしなくても、主はきっと彼を守ったでろう。しかし彼は、恐れたのだ。

彼にはあまりに色々な事が起こり過ぎた。
ダビデは何も悪くないどころか、サウルやイスラエルのため最も貢献した筈なのに、そのサウルから逃げざるを得ないために、ペリシテの地に逃れて、そこで捕らえられてしまったのだ。
もっと、怒ったり悲しんだり、自暴自棄になっても不思議でないが、彼はこの時の経験を通して、主との関係が親密に深まり、信仰が鍛えあげられた。
彼はこの時の出来事を、詩篇に記している。

『ダビデがアビメレク(アビメレクはペリシテの王の称号)の前で狂ったさまをよそおい、追われて出ていったときの歌
私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。私のたましいは主を誇る。貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。私とともに主をほめよ。共に、御名をあがめよう。』(詩篇34:1-2)
彼は、気の触れた者を装って危機を逃れるような、恥かしさの極みのような時さえも、まさに「あらゆる時に」主をほめたたえている。
彼の口には、いつも賛美があった。だからこそ主は、彼を守ったのだ。
主は聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられるからだ。

私達も人生の危機の場面において、命を救うために、恥も外聞もかなぐり捨てるような事があるかもしれない。
ダビデも、そこを通って来たのだ。
そして彼は、そんな時ですら、主を誉めたたえたのだ。
だからこそ、主は彼を引き上げたのである。

『私が主を求めると、主は答えてくださった。私をすべての恐怖から救い出してくださった。彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。「彼らの顔をはずかしめないでください。」この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた。こうして、彼らはすべての苦しみから救われた。主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。』(詩篇34:4-7)
ダビデは、知っていた。
彼が気が触れた者を装って、ひげによだれを流し、壁を打ち叩いていたまさにその時さえも、主は、彼の周りに御使を遣わして陣を張り、彼を守って助けだされた事を。
私達も、罪の故に、あるいは弱さの故、望まない行動をしてしまう時があっても、いつも主に助けを求める心を持っているなら、まさにその時、主は御使を遣わして陣を張り、罪や悪から、誘惑から、そして災いや死から守ってくださるのだ。

『主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。主を恐れよ。その聖徒たちよ。彼を恐れる者には乏しいことはないからだ。若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。』(詩篇34:8-10)
皆さんも、実感がないだろうか。
今までの人生の、あの時この時、仕事や生活やもろもろの活動の中において、主に訪ね求めて来た自分には、何一つ欠けるものがなく、必要がいつも満たされていた、という事に。
主に信頼して歩む人は、その経験を多くしているはずである。
なぜなら主は生きておられ、御言葉は真実だからだ。

『来なさい。子たちよ。私に聞きなさい。主を恐れることを教えよう。』(詩篇34:11)
ダビデは、弱さの極みを経験し、恥ずかしさの極みも通った。
しかしその都度、主に感謝し、主を誉めたたえたからこそ、王として高められたのだ。
私達も、いかに人生のどん底に落ちたとしても、共におられる主に信頼して歩むなら、主の素晴らしさを味わう事が出来、私達もダビデのように主の証を大胆にできるようになり、人生の低い所に落とされている人を慰め助ける事ができるようになるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:恐れませんと告白しつつも恐れてしまう時(1サムエル記21:7-10):右クリックで保存

サウル王に命を狙われ、着の身着のまま逃げてきたダビデが行った先は、ダビデ自身が最も頼りにしていた、イスラエルの神・主の、その宮だった。
彼はそこで、具体的な助けをいただいた。
『ダビデはまたアヒメレクに言った、「ここに、あなたの手もとに、やりかつるぎがありませんか。王の事が急を要したので、わたしはつるぎも武器も持ってこなかったのです」。祭司は言った、「あなたがエラの谷で殺したペリシテびとゴリアテのつるぎが、布に包んでエポデのうしろにあります。もしあなたがこれを取ろうとおもわれるなら、お取りください。ここにはそのほかにはありません」。ダビデは言った、「それにまさるものはありません。それをわたしにください」。』(1サムエル記21:8-9)

彼は主の宮で、食料のみならう武器も入手する事ができたが、その主の宮にはある男がいて、彼らのやり取りを見ていた。
『その日、その所に、サウルのしもべのひとりが、主の前に留め置かれていた。その名はドエグといい、エドムびとであって、サウルの牧者の長であった。』(1サムエル記21:7)

このドエグという者はエドム人、すなわち、一杯の食物と引き換えに尊いものを売った、あの、エサウの子孫である。
彼がそこにいたのは、主を慕うゆえではなく、何かの訳があって、主の宮に留め置かされていたのだ。
彼には、主を敬う心は全く無い。
その証拠に、彼は後に、ダビデとアヒメレクのこのやり取りをサウルに告げ、そしてサウルに命じられて主の祭司たちを彼は虐殺する。
主の宮に留められてはいても、その心は主に無く、主の祭司を敬う事も無く、兄弟姉妹を糾弾する材料を見つけたなら平気で告発し、売り飛ばし、殺める事に躊躇しない者は、昔も今もいるのだ。

『ダビデはその日サウルを恐れて、立ってガテの王アキシのところへ逃げて行った。』(1サムエル記21:10)
ダビデは、このドエグを気にしていたので、すぐにそこから離れて行ったが、ダビデが逃げて行った先は、ペリシテ人のガテ、ダビデが殺したゴリヤテの故郷であった。
彼は、国家指名手配犯のよう立場だったため(彼自身は何も悪い事してはいないが)、イスラエルの国外へ逃亡したのだ。

実に皮肉な運命である。
ダビデはそれまで、主にあって戦っていたので、どんな屈強なペリシテ人も、恐れていなかった。
自分の倍以上もあるゴリヤテにも、主にあって平気で向かっていったし、サウルからペリシテ人の陽の皮100枚を求められたところ、200枚も揃えた
そのダビデが、なぜこんなにもみじめに、ペリシテ人の国へと逃げ惑わなくてはならなかったのだろう。
それは、彼をつけねらっているサウルが、曲がりなりにも、主に油注がれた王だからだ。
ダビデは、主が油を注がれた王であるサウルに、手をかけるわけには行かなかった。それは、ダビデが主を愛する故であり、その主が油注がれた王を敬う故である。
だから彼は、サウルからは逃げるしか無いのだ。

ダビデはペリシテのガテで、ペリシテ人たちに捕えられてしまったようである。
詩篇56編の表題には、次のように書かれてある。
『聖歌隊の指揮者によって、「遠き所におる音をたてぬはと」のしらべにあわせてうたわせたダビデのミクタムの歌。これはダビデがガテでペリシテびとに捕えられたときによんだもの』

ダビデは、敵地で一人、捕らえられてしまったが、彼は、彼ととともにおられた神に呼びかけた。
『神よ、どうかわたしをあわれんでください。人々がわたしを踏みつけ、あだする人々がひねもすわたしをしえたげます。わたしの敵はひねもすわたしを踏みつけ、誇りたかぶって、わたしと戦う者が多いのです。』(詩篇56:1)
まさに四方八方敵だらけの状態だが、主にその事を訴えている。

『あなたはわたしのさすらいを数えられました。わたしの涙をあなたの皮袋にたくわえてください。これは皆あなたの書に/しるされているではありませんか。』(詩篇56:8)
ダビデが「わたしの涙をあなたの皮袋にたくわえてください」と言ったように、私達も、「主のゆえに」「神の国のゆえに」流して来た全ての涙は、主の皮袋に、たくわえられているのだ。
迫害の故に、聖徒の故に、また、自分の罪や弱さを嘆き、御胸に従えない事を悲しんで流した涙も、含めて。

『わたしが呼び求める日に、わたしの敵は退きます。これによって神がわたしを守られることを知ります。わたしは神によってそのみ言葉をほめたたえ、主によってそのみ言葉をほめたたえます。わたしは神に信頼するゆえ、恐れることはありません。人はわたしに何をなし得ましょうか。』(詩篇56:9-11)
ダビデは「恐れません」と、主に申し上げ、自分にも言い聞かせている。
しかしこの直後、ダビデは、恐れゆえに、きちがいのふりをしてその場を乗り切る行動に出てしまう。
恐れに憑かれて、弱くなってしまったのだ。

主にあって自らを御言葉でふるい立たせ、「恐れません」と告白しても、実際には恐れてしまい、恐れ故の行動をしてしまう、というのは、私達にもある事であり、ダビデでさえ、そこを通って来たのだ。
しかしダビデは、その事を神と人とに打ち明け、その時の心境と祈りをこうして詩篇に56編にしたため、彼が編成した聖歌隊にその内容を賛美させたのだ。
彼は、主の素晴らしさを伝え主の栄光を誉め讃えるために、自分の恥さえ、喜んでさらし、主を賛美する道具としてくれた故に、この詩篇と同じ困難と苦しみにある多くの聖徒達を励まし続けて来たのだ。

『神よ、わたしがあなたに立てた誓いは/果さなければなりません。わたしは感謝の供え物をあなたにささげます。あなたはわたしの魂を死から救い、わたしの足を守って倒れることなく、いのちの光のうちで神の前に/わたしを歩ませられたからです。』(詩篇56:12-13)
彼は最後を、感謝でくくっている。
私達もダビデのように、ゆえなく、苦しい所や恥ずかしい所を通らされる場面は、人生において確かにある。
しかし私達も主を信頼し、御言葉を握り締めて歩むなら、主がダビデを引き上げてくださったように、私達も引き上げてくださるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:聖なるパンにあずかれる特権者とは(1サムエル記21:1-6):右クリックで保存

ダビデはヨナタンと別れて以来、サウル王という国家権力から追われる「逃亡生活」が本格的に始まり、それ以降、サウルが死ぬ時までそれは続く。

彼は着の身着のまま逃げたが、そこで真っ先に行った先は、祭司アヒメレクが仕えている「主の宮」であった。
人は、いざとなった時、真っ先に助けを求めに行く先をどこにするかによって、普段からどこに拠り所を置いているかを知れるが、ダビデの場合、それは主だった。

『ダビデはノブに行き、祭司アヒメレクのところへ行った。アヒメレクはおののきながらダビデを迎えて言った、「どうしてあなたはひとりですか。だれも供がいないのですか」。』(1サムエル記21:1)
アヒメレクは、彼が一人で来た状況に、ただならぬものを感じたのだろう、それで、おののきながらダビデに尋ねた。

『ダビデは祭司アヒメレクに言った、「王がわたしに一つの事を命じて、『わたしがおまえをつかわしてさせる事、またわたしが命じたことについては、何をも人に知らせてはならない』と言われました。そこでわたしは、ある場所に若者たちを待たせてあります。ところで今あなたの手もとにパン五個でもあれば、それをわたしにください。なければなんでも、あるものをください」。』(1サムエル記21:2-3)
ダビデは、祭司に心配をさせまいとしたのだろう、真実を伏せた。
彼は、着の身着のまま逃げてきたため、とてもひもじかったので、パンを求めたのだが、あいにく「普通の」パンは無かった。

『祭司はダビデに答えて言った、「常のパンはわたしの手もとにありません。ただその若者たちが女を慎んでさえいたのでしたら、聖別したパンがあります」。・・・そこで祭司は彼に聖別したパンを与えた。その所に、供えのパンのほかにパンがなく、このパンは、これを取り下げる日に、あたたかいパンと置きかえるため、主の前から取り下げたものである。』(1サムエル記21:4-6)
この、主の宮に置かれている聖別したパンとは、安息日ごとに主の宮に捧げられるパンであり、アロンとその子以外は食べてはならないはずのもので、女を慎む慎まないは関係ないはずだ。(レビ記24:5-9)
はたして、いいのだろうか。
その事については、イエス様が弁護しておられる。

イエス様の弟子達が麦畑を通った時、ひもじかったので、麦の穂を摘んで食べ始めたところ、それを見たパリサイ人達はイエス様に言った。
「ごらんなさい、あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」(マタイ12:2)
パリサイ人が責めたのは、弟子達が人様の畑のものを勝手に食べたからではない。麦の穂を「摘んで」「脱穀する」という行為は「労働」にあたるものであり、それが安息日にしてはならな事だから、という、少々ややこしい理由からである。
それに対しイエス様は、ダビデがした事を引用して言われる。

『「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えたとき、ダビデが何をしたか読んだことがないのか。すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほか、自分も供の者たちも食べてはならぬ供えのパンを食べたのである。』(マタイ12:3-4)
ダビデは祭司の元に行った時は一人だったが、その後誰かダビデと一緒に行動する人が現れ、おそらく彼にもそのパンを分け与えたのだろう。
イエス様は言われた。
『「わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない」とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。』(マタイ12:7)
イエス様は他の場面でも、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。
それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである」と言われた。(マルコ2:27-28)
安息日の主であるイエス様は、いのちを奪う主ではなく、いのちの君であり、憐れみの主である。

さらにこう言われている。
『また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは安息日を破っても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか。あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。・・・人の子は安息日の主である」。』(マタイ12:5-8)

祭司たちは「神の国の公用」を果たす者で、安息日でも宮の中で務めをして働かなくてはならない。
このように、祭司には安息日にも働く事が許されているのだから、ましてや、安息日の主であり、宮よりも偉大なる主であるイエス様の弟子達が、「神の国の公用」を働く事を、どうして何者かが差し止めたりできるだろう。
『聖書は、「穀物をこなしている牛に、くつこをかけてはならない」また「働き人がその報酬を受けるのは当然である」と言っている。』(1テモテ5:18)
だから、神の国のために働く弟子達も、そして、キリストに仕える私達も、聖なる食卓から存分に食べてもいい、ばかりでなく、主から様々の特権が与えられている。
私達もキリストにあって、王であり、祭司である故、全て神の国のために働くための必要は備えられ、神の宮からの食料をいただき、食べることを阻む全ての「くつこ」は除かれるべきなのだ。

ダビデは真っ先に主を慕い求め、その宮に助けを求めに行った。
だから主は、ダビデを擁護し、聖なるパンを備え、また、神の戦いを戦っているダビデに組したダビデの「連れの者」にも、そのパンに与ることを、主は許された。

主は、ダビデのように、主を慕い求める全ての魂たちにに、全ての必要を備えてくださり、聖なるパンに与る特権も与えて下さる。
ダビデのように、あらゆる必要が満たされ、心から歓びをもって主に仕える皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:さんざん破壊しておきながら何事も無かったかのように振舞う人の性質(1サムエル記20:24-42):右クリックで保存

『さて、ついたちになったので、王は食事をするため席に着いた。王はいつものように壁寄りに席に着き、ヨナタンはその向かい側の席に着き、アブネルはサウルの横の席に着いたが、ダビデの場所にはだれもいなかった。ところがその日サウルは何も言わなかった、「彼に何か起って汚れたのだろう。きっと汚れたのにちがいない」と思ったからである。』(1サムエル記20:24-26)

サウルは、それまで自分がダビデにして来た事、すなわち、ダビデを殺そうとして槍を投げたり、殺意をもって何度も追い回したりした事など、一切無かったかのように、ダビデが自分と食事を共にしないのは、「何か起って汚れたのだろう」と思ったのだ。
自分がしてきた事を一切考慮せず、どうしてそんな脳天気な理由を思い浮かべられるのだろうか。

自分が周りに、どんなにひどく怒りをぶちまけ、破壊し、周囲の人々の心や体を傷つけ、迷惑をかけ、ひどい事をして来たかを、一切、無かったかのようにして、普通に振舞うような人は、確かにいる。
自分が周囲にしてきた行ないが、見事、その人の意識の中から、全く抜け落ちているかのような。
周囲の調和をさんざん破壊しておきながら、それを全部してしまうと、何事も無かったかのように、日常的に周囲の人に振る舞うような人が。

そのような人は、その人が意識的にしている、というより、その人の内に住み着いた悪霊がそれをさせており、その人が悪霊に支配されている間、本人はあまり意識していないものである。
なぜ人は悪霊に意識を乗っ取られてしまうのか。
それはその人が、悪霊の好むエサを常時振り撒いており、寄って来た悪霊の邪悪な思い同意し、自分自身の意識や体の支配権を、悪霊に与えてしまうからだ。

悪霊の好むエサとは、ガラテヤ5章19節以降に記されている「肉の働きリスト」、すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。
宗教やまじない、占いにはまっている人が、そのような、非常人的な振る舞いをよくするのは、そのためだ。
サウルのように、偶像礼拝や殺意、ねたみ、怒りなどを放置しておくと、悪霊に支配されるようになって、無意識的に極端な”発作的行動”をしてしまうのだ。

もちろん、発作的に異常な言動をするすべての人が悪霊に憑かれていると言っているのではない。
しかし、少なくともサウルのように、主と主の言葉にそむく問題をそのまま放置し続けて、そうなってしまったのであるなら、それは明らかに霊的な問題である。

『しかし、ふつか目すなわち、ついたちの明くる日も、ダビデの場所はあいていたので、サウルは、その子ヨナタンに言った、「どうしてエッサイの子は、きのうもきょうも食事にこないのか」。
ヨナタンはサウルに答えた、「ダビデは、ベツレヘムへ行くことを許してくださいと、しきりにわたしに求めました。彼は言いました、『わたしに行かせてください。われわれの一族が町で祭をするので、兄がわたしに来るようにと命じました。それでもし、あなたの前に恵みを得ますならば、どうぞ、わたしに行くことを許し、兄弟たちに会わせてください』。それで彼は王の食卓にこなかったのです」。』(1サムエル記20:27-30)
ヨナタンの言った事、普通に「そういう事もあるだろう」と流せる内容だが、このわずかな言葉によって、サウルは豹変してしまう。
悪霊を宿している者は、通常、普通の人と変わらないように見えても、誰かのちょっとした言葉や行動がきっかけとなって、内に秘めている霊を暴走させてしまうのだ。

『その時サウルはヨナタンにむかって怒りを発し、彼に言った、「あなたは心の曲った、そむく女の産んだ子だ。あなたがエッサイの子を選んで、自分の身をはずかしめ、また母の身をはずかしめていることをわたしが知らないと思うのか。エッサイの子がこの世に生きながらえている間は、あなたも、あなたの王国も堅く立っていくことはできない。それゆえ今、人をつかわして、彼をわたしのもとに連れてこさせなさい。彼は必ず死ななければならない」。』(1サムエル記20:30-31)
サウルは突然、すごい剣幕で、ヨナタンのみならず、ヨナタンの母でありサウルの妻をも冒涜するような汚し事を叫んだ。

ヨナタンはただ、ダビデには都合あって、この食事の席に参加できない、と言っただけだった。
それが突然すごい勢いと剣幕で、「あなたは心の曲った、そむく女の産んだ子だ。」「自分の身をはずかしめ、また母の身をはずかしめている(原意:母の裸を露わにしている)」など返される。
一体どこをどう連想すれば、母の裸の露わに、という話へ発展するのか理解はできないないが、とにかく、頭の中で悪い思いをぐるぐる巡らしている人は、常人には到底連想できないような考えへと導かれ、それをぶちまけるのだ。

『ヨナタンは父サウルに答えた、「どうして彼は殺されなければならないのですか。彼は何をしたのですか」。ところがサウルはヨナタンを撃とうとして、やりを彼に向かって振り上げたので、ヨナタンは父がダビデを殺そうと、心に決めているのを知った。』(1サムエル記20:32-33)
今度はなんと、自分の跡継ぎである息子にも槍を投げつけた。
つい今しがた、王位継承を危うんでいる言葉を発したばかりなのに、その継承者である息子を殺す衝動にかられてしてしまう。
私達は、悪霊に秩序を求めてはならない。
ただ破壊し、殺し、壊す事が、彼らの衝動なのだ。

『ヨナタンは激しく怒って席を立ち、その月のふつかには食事をしなかった。父がダビデをはずかしめたので、ダビデのために憂えたからである。』(1サムエル記20:34)
ヨナタン自身と、彼の母がはずかしめられたというのに、彼は、ダビデがはずかしめられた事を憂いている。
主にある兄弟姉妹とは、そういうもので、自分の事より、愛する兄弟姉妹のほうを心配し、案じるのだ。
パウロも、自分の身よりも同胞の救いをこそ切望した。

『あくる朝、ヨナタンは、ひとりの小さい子供を連れて、ダビデと打ち合わせたように野原に出て行った。そしてその子供に言った、「走って行って、わたしの射る矢を捜しなさい」。子供が走って行く間に、ヨナタンは矢を彼の前の方に放った。』(1サムエル記20:35-36)
前回見たように、矢を前方に射るのは、サウルがダビデのいのちを狙っていて危険だ、というサインだ。

『そして子供が、ヨナタンの放った矢のところへ行った時、ヨナタンは子供のうしろから呼ばわって、「矢は向こうにあるではないか」と言った。ヨナタンはまた、その子供のうしろから呼ばわって言った、「早くせよ、急げ。とどまるな」。その子供は矢を拾い集めて主人ヨナタンのもとにきた。しかし子供は何も知らず、ヨナタンとダビデだけがそのことを知っていた。』(20:37-39)
ヨナタンは「早くせよ、急げ。とどまるな」と叫ぶ事で、事態の深刻さをダビデに伝えた。
ヨナタンの付き人には分からなかったが、これは、信仰の有志にのみ分かるサインであった。
迫害下にあった初代教会も、表向きは誰にも分からない、しかし、信仰の有志にのみ分かるサインで、互いの信仰を確認し合った。

『ヨナタンは自分の武器をその子供に渡して言った、「あなたはこれを町へ運んで行きなさい」。子供が行ってしまうとダビデは石塚のかたわらをはなれて立ちいで、地にひれ伏して三度敬礼した。そして、ふたりは互に口づけし、互に泣いた。やがてダビデは心が落ち着いた。』(1サムエル記20:40)
こうして、ダビデとヨナタンは、別れる事になる。
ダビデは国から追われる身、これからどうなるか分からない。
だから互いに、今生の別れを覚悟しただろう。

『その時ヨナタンはダビデに言った、「無事に行きなさい。われわれふたりは、『主が常にわたしとあなたの間におられ、また、わたしの子孫とあなたの子孫の間におられる』と言って、主の名をさして誓ったのです」。こうしてダビデは立ち去り、ヨナタンは町にはいった。』(1サムエル記20:41-42)
ヨナタンはこのように、信仰の友・ダビデ真実を尽くした。
私達も真実を尽くし、サウルの道に誰も陥らぬよう、互いに教え、戒めあって、信仰の交わりを健全に行って行きたい。

礼拝説教メッセージ音声:血を分けた親子も及ばない繋がり(1サムエル記20:1-23):右クリックで保存

ダビデは、自分の家に逃げても、サムエルの所に逃げて、サウルがしつこく追ってきたため、今度は、サウルの子であり信仰の兄弟であるヨナタンに訴えた。


『ダビデはラマのナヨテから逃げてきて、ヨナタンに言った、「わたしが何をし、どのような悪いことがあり、あなたの父の前にどんな罪を犯したので、わたしを殺そうとされるのでしょうか」。ヨナタンは彼に言った、「決して殺されることはありません。父は事の大小を問わず、わたしに告げないですることはありません。どうして父がわたしにその事を隠しましょう。そのようなことはありません」。』(1サムエル記20:1-2)
ヨナタンがダビデの言葉を聞いた時の最初の反応は、「そんな事はない」だった。
ヨナタンはサウルの息子である、にもかかわらず、父が兵を動員して何度もダビデを殺そうとした事を知らなかったばかりか、そんな事はありえない、と言う。
ダビデとしては、心外だったかもしれない。
しかし彼は、平和に答える。

『「あなたの父は、わたしがあなたの好意をえていることをよく知っておられます。それで『ヨナタンが悲しむことのないように、これを知らせないでおこう』と思っておられるのです。しかし、主は生きておられ、あなたの魂は生きています。わたしと死との間は、ただ一歩です」。ヨナタンはダビデに言った、「あなたが言われることはなんでもします」。』(1サムエル記20:3-4)
ダビデは、サウルからいのちを狙われている、というのに、サウルを悪く言わず、弁護し、ヨナタンの事も気遣っている。
意思疎通の食い違いや、自分が受けた情報の食い違いで、いざこざに発展する事は、よくある。特に、いのちに関わる事において、せっぱつまっている時なら、なおさらだ。
しかし、ダビデはあくまで柔和に、平和に対応した。

柔和な人は、地を受け継ぐ幸いな人であり(マタイ5:5)、平和をつくる人は、神の子と呼ばれるのだ。(マタイ5:9)
ヨナタンも、その性質があった。

『ダビデはヨナタンに言った、「あすは、ついたちですから、わたしは王と一緒に食事をしなければなりません。しかしわたしを行かせて三日目の夕方まで、野原に隠れることを許してください。』(1サムエル記20:5)
民数記28:11-15によると、月のはじめの一日は、月ごとの例祭が定められており、ダビデは毎回、サウルの食卓に出席していたのだ。
それを利用して、サウルがダビデを殺す心づもりがあるかどうかを計ろうと、ダビデは提案している。
『もしあなたの父がわたしのことを尋ねられるならば、その時、言ってください、『ダビデはふるさとの町ベツレヘムへ急いで行くことを許してくださいと、しきりにわたしに求めました。そこで全家の年祭があるからです』。もし彼が「良し」と言われるなら、しもべは安全ですが、怒られるなら、わたしに害を加える決心でおられるのを知ってください。』(1サムエル記20:6-7)

『そしてヨナタンはダビデに言った、「イスラエルの神、主が、証人です。明日か明後日の今ごろ、わたしが父の心を探って、父がダビデに対して良いのを見ながら、人をつかわしてあなたに知らせないようなことをするでしょうか。しかし、もし父があなたに害を加えようと思っているのに、それをあなたに知らせず、あなたを逃がして、安全に去らせないならば、主よ、どうぞ幾重にも、このヨナタンを罰してください。どうぞ主が父と共におられたように、あなたと共におられますように。』(1サムエル記20:12-13)
ヨナタンは、血の繋がった父よりも、血の繋がっていないダビデのほうを守った。

確かに父サウルが言う通り、ダビデを生かしておいたなら、ヨナタン自身の王位が危かっただろう。
それにも関わらず、彼は自分の王位よりもダビデをかくまう事のほうを、主の前で誓った。
なぜなら、主にある兄弟姉妹というものは、世の栄華や地位、富よりも、神の国のことを優先させてしまうものだからである。
世の栄華は過ぎ去るが、神の国の栄光は、世の何者にも優れた、永遠のものだからである。

ヨナタンはさらに言う。
『 もしわたしがなお生きながらえているならば、主のいつくしみをわたしに施し、死を免れさせてください。またわたしの家をも、長くあなたのいつくしみにあずからせてください。主がダビデの敵をことごとく地のおもてから断ち滅ぼされる時、ヨナタンの名をダビデの家から絶やさないでください。どうぞ主がダビデの敵に、あだを返されるように」。』(1サムエル記20:14-16)

この時、状況的にダビデは、国家から追われるお尋ね者であり、王子ヨナタンに比べて圧倒的に弱い立場のはずである。
いのちの危険が迫っているのは、ダビデのほうで、ヨナタンのほうではなかったはずだ。
それなのに、あたかも、ヨナタンのほうが、ダビデに命乞いをしているかのようだ。

ヨナタンは、信仰によって知っていたのだ。
これからサウル家は没落し、ダビデが栄えると、たとえ今、いかに立場逆転していようとも。
なぜなら、ダビデこそ主の御旨を行っており、サウルこそ主の御旨を損ねているからだ。
これは、イエス様の十字架の場面と良く似ている。

十字架上で、ひとりの強盗はイエス様をなじり、もう一人の強盗は「御国の座につく時には、私を思い出して下さい」と、イエス様にお願いした。
状況的に見れば、もうあと数時間もすれば、イエス様も死ぬし自分も死ぬはずである。
それなのに、この強盗は、信仰によって知っていたのである。
イエス様は決して死を見る事なく、永遠の王座につく、という事を。それだから彼は、その日、イエス様とともにパラダイスに行く恵みにあずかったのだ。

信仰によって、自分の家を絶やさぬようダビデににお願いしたヨナタンも、実際、ダビデが王になってから、ヨナタンの家には慈しみが施された。
私達も、信仰によってイエス様にお願いするなら、実際、イエス様から永遠の慈しみが施されるのである。

『そしてヨナタンは重ねてダビデに誓わせた。彼を愛したからである。ヨナタンは自分の命のように彼を愛していた。』(1サムエル記20:17)
主イエスにある兄弟姉妹こそ、血を分けた親子のつながりよりも、はるかに勝るつながりである。
『すると、イエスは彼らに答えて言われた、「わたしの母、わたしの兄弟とは、だれのことか」。そして、自分をとりかこんで、すわっている人々を見まわして、言われた、「ごらんなさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。』(マルコ3:33-35)

このように、ヨナタンはダビデに真実を尽くした。
私達も、主にある同じ兄弟姉妹に真実を尽くすべきだ。

礼拝説教メッセージ音声:捕らえに来る人達が預言状態になる事で守られたダビデ(1サムエル記19:18-24):右クリックで保存

ミカルの助けによって何とか命拾いしたダビデは、サムエルの所へ逃れた。

彼はサウルにされた事を全てサムエルに告げ、そして彼の所にしばし住んだ。(1サムエル記19:18)
サムエルは、サウルが主の御言葉にそむいてアマレクを聖絶しなかった時以来、サウルに会わなかったが、あれ以来どんどん邪悪な性質に崩れていくサウルをどう見ていただろうか。

『ある人がサウルに「ダビデはラマのナヨテにいます」と告げたので、サウルは、ダビデを捕えるために、使者たちをつかわした。彼らは預言者の一群が預言していて、サムエルが、そのうちの、かしらとなって立っているのを見たが、その時、神の霊はサウルの使者たちにも臨んで、彼らもまた預言した。』(1サムエル記19:19-20)
サムエルは、ラマで、預言者たちを養成し、訓練していたのだろう。
面白い事に、ダビデを捕らえるためにサウルから遣わされた者達が、そこに行くと、彼らも預言し、そしてダビデを捕らえる事ができなかったようだ。
なぜだろう。

神の霊は、神の御前に何が正しく、何が正しくないのかを示す、知恵と啓示の霊である。
そもそも、ダビデは何も悪い事をしていないし、彼は主の御旨を果たす勇士として、主から大いに用いられている。
それに引き換えサウルは、主から油を注がれたにも関わらず、御旨に背き、主の言葉を軽んじる事を止めないばかりか、何も悪い事をしていないダビデを殺そうと、使者を遣わす。
サウルに従って、ダビデを追い回す事が、いかに愚かで、主の御胸を損ねているか。
それを示され、ダビデを追う事が、もはやできなくなったのではないだろうか。

『サウルは、このことを聞いて、他の使者たちをつかわしたが、彼らもまた預言した。サウルは三たび使者たちをつかわしたが、彼らもまた預言した。そこでサウルはみずからラマに行き、セクの大井戸に着いた時、問うて言った、「サムエルとダビデは、どこにおるか」。ひとりの人が答えた、「彼らはラマのナヨテにいます」。』(1サムエル記19:21-22)
遣わした使者が、2度ならず3度も預言するようになって、ダビデを追う事をやめている。
もう、明らかに、ダビデを追う事は御旨にかなっていない、と、主が示されているのに、サウルは今度は、自らダビデを捕らえに行く事にした。

主の御霊は、何をすべきか、そして、何をすべきでないかを、私達に告げる。
パウロの場合、第一次宣教旅行はアジアで成功したため、再びアジアに行こうとしたが、行く所行く所、御言葉を語る事を聖霊に禁じられ、リストラからトロアスまでのおよそ千キロ以上、霊的収穫も特に無いままさまよったが、トロアスに来て、ようやく御旨はマケドニアにある事が分かった。(使徒16:6-15)
宣教という良い事においても、また、殺人という悪い事においても、主の御霊は、その時その時人に示し、導きを与える。

サウルの場合、明らかにダビデを追うべきでないと示されたのに、彼は御旨に従う事より、自分のしたい事、すなわち、ダビデを殺したいという思いを、優先させてしまった。
主は、御霊によって導きや警告を与えられるが、それに従うかどうかは、最終的には人の自由意志に委ねられている。
御旨に従い続けるなら、「いのち」の良き実を刈り取るが、背き続けるなら、「死」という苦々しい実を刈り取ってしまう。
パウロは、御霊の導きに忠実に従ってマケドニア、すなわち、ヨーロッパ方面へ渡り、その方面の福音宣教の豊かな実りを得た。
その反対に、バラムは、主が阻止した道をさらに進み行って、その身は剣によって刺し貫かれてしまい、サウルもまた、御旨に背き続け、ついには自ら剣でその身を刺し貫くこととなってしまう。

『そこでサウルはそこからラマのナヨテに行ったが、神の霊はまた彼にも臨んで、彼はラマのナヨテに着くまで歩きながら預言した。そして彼もまた着物を脱いで、同じようにサムエルの前で預言し、一日一夜、裸で倒れ伏していた。人々が「サウルもまた預言者たちのうちにいるのか」というのはこのためである。』(1サムエル記19:23-22)
このようにダビデは、捕らえに来る人達が全て預言状態になる、という、実にユニークな方法で、主から守られた。
主は、主に寄り頼む聖徒を、悪しき者から守られる。

私達も、世にあっては患難がある。
主は、私達を世から取り除くように、とは祈られず、悪しき者から守られるように、と祈られた。
ダビデの患難の日々がしばし続いたように、私達もそのような日々が続くかもしれない。
しかし主は、その期間、私達を練り清め、将来主に大いに用いられるために素晴らしい訓練をしておられるのである。

礼拝説教メッセージ音声:ミカルとダビデ(1サムエル記19:11-17):右クリックで保存

ダビデが逃げた先は、自分の家だった。

その家は、父エッサイからのものではなくサウルから与えられたものであろう。
そこには、新妻でありサウルの娘であるミカルがいる。

『その夜、サウルはダビデの家に使者たちをつかわして見張りをさせ、朝になって彼を殺させようとした。しかしダビデの妻ミカルはダビデに言った、「もし今夜のうちに、あなたが自分の命を救わないならば、あすは殺されるでしょう」。そしてミカルがダビデを窓からつりおろしたので、彼は逃げ去った。ミカルは一つの「像(テラフィム)」をとって、寝床の上に横たえ、その頭にやぎの毛の網をかけ、着物をもってそれをおおった。』(1サムエル記19:11-13)
ミカルはダビデを愛していたので、父の殺意を汲むのではなく、ダビデを助け、逃し、寝床に服を着せた像(テラフィム)を置いて、人が寝ているかのように見せかけた。

テラフィムは、家族・子孫繁栄のご利益物として、あるいは家督権相続のしるしとして用いられる事もあった。
ミカルはテラフィムをカムフラージュとして手軽に使った所を見ると、崇拝対象としていなかったようだが、サウルから分与された家に、そのような物が置いてあった事自体、サウル家の信仰が伺える。
(ちなみに、サムエルがサウルを叱った言葉、「そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しい」(1サムエル記15:23)の、「偶像礼拝の罪」は、直訳すれば「罪とテラフィム」となる。)

彼女はダビデを愛し、彼をかばった故に、サウル家が没落した後でも、ダビデの妻として生き残ったが、子は無かった。
ヤコブの妻ラケルも、このテラフィムがらみで災い多き人生だった。彼女は子孫繁栄のご利益物であるテラフィムを、父の所から盗み、自分のものとした結果、その子孫繁栄がらみの災いを刈り取ってしまった。

ミカルは、ダビデを窓から吊り降ろして救った。
遊女ラハブも、神の民からの斥候をかくまって窓から吊り降ろして救ったが、ラハブとミカルの違いは、ミカルはその後、夫であり王であるダビデが、主の前で無邪気に楽しみ踊っているのを見下ろして、さげすんだ所だ。
カナン人であるラハブから、ボアズという信仰の立派な子が生まれて育ったのは、彼女がイスラエル人の夫・サルモンに従順に仕え、サルモンが施す律法教育に従順に従ったからだ。
キリスト者は、まことの花婿であるキリストに嫁ぎに行く時、神ではなきものは捨て去り、まことの夫、購い救ってくれたキリストに仕える事を、しなくてはならない。

ダビデは、今回のこの時の祈りを、詩篇59編にて記している。
『 聖歌隊の指揮者によって、「滅ぼすな」というしらべにあわせてうたわせたダビデのミクタムの歌。これはサウルがダビデを殺そうとして人をつかわし、その家をうかがわせたときダビデのよんだもの
わが神よ、どうかわたしをわが敵から助け出し、わたしに逆らって起りたつ者からお守りください。悪を行う者からわたしを助け出し、血を流す人からわたしをお救いください。見よ、彼らはひそみかくれて、わたしの命をうかがい、力ある人々が共に集まってわたしを攻めます。主よ、わたしにとがも罪もなく、わたしにあやまちもないのに、彼らは走りまわって備えをします。わたしを助けるために目をさまして、ごらんください。』(詩篇59:1-4)

ダビデは、いつでも主を頼りとした。
国家の最高権力者である王から、指名手配犯のように追われ、先行きが全く絶望であるかのように見えたかもしれないが、彼は全てを主に訴えた。
主は、主に助けを求める人を守られる。

『どうぞ、わが民の忘れることのないために、彼らを殺さないでください。主、われらの盾よ、み力をもって彼らをよろめかせ、彼らを倒れさせないでください。彼らの口の罪、そのくちびるの言葉のために/彼らをその高ぶりに捕われさせてください。彼らが語るのろいと偽りのために憤りをもって彼らを滅ぼし、もはやながらえることのないまでに、彼らを滅ぼしてください。そうすれば地のはてまで、人々は神がヤコブを治められることを/知るに至るでしょう。』(1サムエル記59:11-13)
ダビデを追う者、苦しめる者の災いを彼は求めている。
彼は上っ面で祈るのではなく、そのようないらだちの心さえ主に隠し立てせずに、正直に、心のままを打ち明けている。
ダビデは、主を喜ぶ時も、ミカルにさげすまれる程に喜びの感情をあらわしたし、敵に追われる時も、心に湧き上がる思いを全部、主に打ち明けた。

そうして心の全てを、主に洗いざらい打ち明ける時、平安が来る。
実際、この詩篇の最後は、心からの賛美と、救いの確信で閉じられている。
『しかし、わたしはあなたのみ力をうたい、朝には声をあげてみいつくしみを歌います。あなたはわたしの悩みの日にわが高きやぐらとなり、わたしの避け所となられたからです。わが力よ、わたしはあなたにむかってほめうたいます。神よ、あなたはわが高きやぐら、わたしにいつくしみを賜わる神であられるからです。』(詩篇59:15-17)

全能者なる主に、何もかもを打ち明ける時、平安が与えられ、そして罪や弱さは覆われ、きよく平和な心が与えられるのだ。
私達も、ダビデのように、主に隠し立てせず何もかも打ち明け、ダビデが詩篇を編纂したように、私達も主と共に歩んだ日々を、心に、あるいは書物に記し、主の良くして下さった事を何一つ忘れない者でありたい。

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