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赦してくれて当たり前の気でいるサウルに嫌気が差したサムエル(1サムエル記15:24-35)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 1サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-3-26 23:50
礼拝説教メッセージ音声:赦してくれて当たり前の気でいるサウルに嫌気が差したサムエル(1サムエル記15:24-35):右クリックで保存
『サウルはサムエルに言った、「わたしは主の命令とあなたの言葉にそむいて罪を犯しました。民を恐れて、その声に聞き従ったからです。』(1サムエル記15:24)
サウルは「民を恐れた」という本心をやっと白状した。
民が、アマレクを撃った時、アマレクの牛や羊の良いものを、生かしたままにしておいたのを見たなら、本来は「それは聖絶すべきだ」と叱るべき所を、何も言わない、あるいは黙認するとしたら、彼らの罪に同意した事になってしまう。
私達も、親であったり上司であったりと、誰かを指導すべき立場でありながら、子や部下が過ちを犯しているのを見て、何も指摘しなかったり、黙認するとしたなら、その罪に同意した事になり、自分自身の罪となる。
これは社会では当然と言われている所であろうが、神の国でも、同じである。
「主の命令とあなたの言葉にそむいて」、ここは直訳すると、「主の命令とあなたの言葉を超えて」である。
自分の好き嫌いや、身勝手な判断によって、御言葉を乗り超えてしまう時、それは占いや偶像礼拝に等しい罪だ。
だから私達は、兄弟姉妹の交わりの中において、誰もその罪に陥らないよう、互いに励まし合うべきなのだ。
『あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。』(ヘブル3:13)
サウルは、サムエルから「主はあなたを王の位から退けられた」という、とても深刻な言葉を聞いた。
しかし次の言葉からは、彼は事の重大さに気づいていないような感じを受ける。
『どうぞ、今わたしの罪をゆるし、わたしと一緒に帰って、主を拝ませてください」。』(1サムエル記15:25)
どうも彼は、サムエルと主が、当然のように「赦してくれる」という前提で、話を進めている感がある。
私はごめんなさいをしました、だから自分は赦されましたね、では、わたしと一緒に帰って下さい、一緒に主を礼拝しましょう、と、言うような。
サムエルは、そんな誠意もなく、主を軽んじる者とは、到底一緒に礼拝したいとは思わないだろう。
赦してもらうこと前提で罪を犯し、平気で主の言葉を乗り越えておきながら、罪を指摘された時、しゃあしゃあと「赦し」を相手に押し付けるような人とは一緒にいたくないし、一緒に礼拝を捧げたくないものだ。
『サムエルはサウルに言った、「あなたと一緒に帰りません。あなたが主の言葉を捨てたので、主もあなたを捨てて、イスラエルの王位から退けられたからです」。』(1サムエル記15:26)
サムエルはサウルに、23節と同じ言葉を、繰り返している。
サムエルが「あなたが主のことばを捨てたので、主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた。」(23節)と言ったのに、どうもサウルの脳内では、罪はもう赦してもらって、無くなったかのようになっていりょうで、自分の王位も、まだ安泰して続くかのような、そういう現実感の無い認識だったから、サムエルは同じ言葉を、繰り返したのだろうし、彼のような浅ましい者とは一緒に帰りたくもない、一緒に礼拝を捧げたくもない、そう思って「帰りません」と言ったのだろう。
『こうしてサムエルが去ろうとして身をかえした時、サウルがサムエルの上着のすそを捕えたので、それは裂けた。』(1サムエル記15:27)
サウルは、帰ろうとするサムエルの服を無理に掴み、破いてしまった。
全く、年長の預言者への敬いが無いが、この、上着のすそを引き裂いた事から、主はサムエルに言葉を与えられた。
『サムエルは彼に言った、「主はきょう、あなたからイスラエルの王国を裂き、もっと良いあなたの隣人に与えられた。またイスラエルの栄光は偽ることもなく、悔いることもない。彼は人ではないから悔いることはない」。』(1サムエル記15:28-29)
主はひと度、サウルを王に任じた事を、悔いた。
しかし、イスラエルの栄光なるお方がこの度決心した事、すなわち、サウルをイスラエルから引き裂くという事については、もはや決して悔いる事は無く、その決心は変わらない。
罪赦してくれる事を当然のように押し付け、自らを頑として変えないような者から、恵みを取り退ける、という事について、主は惜しみも、悔いる事も、しないのだ。
『サウルは言った、「わたしは罪を犯しましたが、どうぞ、民の長老たち、およびイスラエルの前で、わたしを尊び、わたしと一緒に帰って、あなたの神、主を拝ませてください」。』(1サムエル記15:30)
サウルはなんと、この期の及んでなお人々の目を気にしている。
本来なら、必死になって悔い改めるべき所を、彼はそれよりも、民の前で面目を潰されないかどうかを、心配していた。
この点は、王族が永遠に続いたダビデとは大違いである。
ダビデは、罪を犯してそれを指摘された時、詩篇51編を詠んだが、そこには、ダビデ自身の罪を悔い、悩み、そこから救われたいという主への祈りが、切々と記されている。
『神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。』(詩篇51:1)
ダビデは、主に指摘された時、情けとあわれみを願い、そむきの罪を拭い去って下さるよう、願った。
罪を指摘されてもなお面目を心配したサウルとは大違いである。
『どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。』(詩篇51:2)
ダビデは、自分が犯した罪が、いつも目の前でちらついていて、悲しんでいた。
彼は、このどうしようもない罪を悲しんで、それを除き去りたい、という気持ちがあった。
『ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。』(詩篇51:7)
自分の内には、自分が母の胎にいる時から既に持っている罪があり、その罪から本当に救われたい、清められたい、そう願ったから、節に祈り求めているのだ。
『私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。』(詩篇51:11)
サウルは、王権が除かれた、と聞いた時、御前から投げ捨てないで下さい、と主に祈るのではなく、面目が除かれないように一緒に来て下さい、と、サムエルの服を掴んだ。
サウルは面目がつぶれる事を心配し悲しんだ。しかしダビデは、自分の罪を悲しんで、聖霊が取り除かれてしまう事を心配した。
私達は、自分の財産や人気、ステータスがなくなる事を悲しむ以前に、主から見放されてしまうような、自分の内に宿る罪の性質をこそ、悲しむべきである。
『そこでサムエルはサウルのあとについて帰った。そしてサウルは主を拝んだ。』(1サムエル記15:31)
サウルの、人目を記にしての礼拝、それは何と、心無しの礼拝であろうか。
神が求めておられる礼拝は、霊とまことの礼拝のはずである。
『そしてサムエルはラマに行き、サウルは故郷のギベアに上って、その家に帰った。サムエルは死ぬ日まで、二度とサウルを見なかった。しかしサムエルはサウルのために悲しんだ。また主はサウルをイスラエルの王としたことを悔いられた。』(1サムエル記15:34-35)
サウルによって、茶番の礼拝を一緒にさせられ、サムエルはもう、サウルと顔を合わせるのも、まっぴらだったのだろう。
私達は、サウルの道に歩んではならない。
御心を悲しませたり、主にある兄弟姉妹を悲しませたりする性質をこそ、悲しみ、投げ捨てるべきである。
聞き従う事はいけにえにまさり、そむく事は占いの罪、従わない事は偶像礼拝の罪(1サムエル記15:12-23)
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- 執筆 :
- pastor 2015-3-25 23:50
礼拝説教メッセージ音声:聞き従う事はいけにえにまさり、そむく事は占いの罪、従わない事は偶像礼拝の罪(1サムエル記15:12-23):右クリックで保存
アマレク人を絶ち滅ぼす事は、将来のイスラエルの存亡に関わる重要事項で、主は、そのミッションをサウルに託されたのだが、彼は命令に従い通さず、アマレクの王アガグと、肥えた羊や牛の良いものを惜しんだ。
それが主の御心を損ね、サムエルを悲しませた。
『そして朝サウルに会うため、早く起きたが、サムエルに告げる人があった、「サウルはカルメルにきて、自分のために戦勝記念碑を建て、身をかえして進み、ギルガルへ下って行きました」。』(1サムエル記15:12)
サウルは今回の戦勝の事で、「自分のために」記念碑を建てた。
そもそも、アマレクを滅ぼす事は主の御心であり、必ず勝利する事は、主が確定しておられたのに、サウルは、主の言葉どおりにはしなかったばかりか、その戦勝を、自分の実績としたのだ。
彼は、手柄は自分のものにし、都合の悪い事は他人のせいにする性質の持ち主だが、今回その性質が、遺憾なく発揮されている。
『サムエルがサウルのもとへ来ると、サウルは彼に言った、「どうぞ、主があなたを祝福されますように。わたしは主の言葉を実行しました」。』(1サムエル記15:13)
サウルは、サムエルと会う時、きっと何か言われるだろうと、あらかじめ踏んでいたのだろう。一見、信仰的な、きれいな言葉をかける。
人は、心にやましい事があると、それを隠すために、きれいな言葉で飾って、突いて欲しくない点を隠し、逸らそうとするものだ。
彼のサムエルへの第一声は「わたしは主の言葉を実行しました」だが、主の言葉を実行する・しないの点こそ、彼のやましさがある所である。
確かに彼は、ある部分は言葉を実行したが、全部ではなかった。
滅ぼし尽くすべきもの、そこに存在してはならないものを、残してしまう。それは例えば、料理の具材を置く場所に、毒も一緒に置かれているなら、一刻もはやく、取り除いておくべきような事である。
もし、ある人に毒を除き去っておくよう言ったのに、彼は除き去らず、かえって「わたしは頑張って料理しました、その毒の最もおいしいの部分を、お捧げしようと、取っておいたのです」などと言うとしたら、どうだろうか。サウルは、それをしたのである。
アマレクは、イスラエルを将来滅ぼしかねない毒であるのに、彼はアマレクの一部を生かしておいたからだ。
『サムエルは言った、「それならば、わたしの耳にはいる、この羊の声と、わたしの聞く牛の声は、いったい、なんですか」。サウルは言った、「人々がアマレクびとの所から引いてきたのです。民は、あなたの神、主にささげるために、羊と牛の最も良いものを残したのです。そのほかは、われわれが滅ぼし尽しました」。』(1サムエル記15:14-15)
サウルはここでも「”人々が”アマレクびとの所から引いてきた(KJV: 「"They" have brought them」)」と言って、自分に都合の悪いことは全部、人のせいにしている。
「”民は”、あなたの神、主にささげるために、羊と牛の最も良いものを残した」と。
「主に捧げる」。聞こえの良い言葉であるが、皆さんは、全てを見通している王を前に、毒入りの料理を献上して、平気でいられると思うだろうか。
『サムエルはサウルに言った、「おやめなさい。昨夜、主がわたしに言われたことを、あなたに告げましょう」。サウルは彼に言った、「言ってください」。サムエルは言った、「たとい、自分では小さいと思っても、あなたはイスラエルの諸部族の長ではありませんか。主はあなたに油を注いでイスラエルの王とされた。そして主はあなたに使命を授け、つかわして言われた、『行って、罪びとなるアマレクびとを滅ぼし尽せ。彼らを皆殺しにするまで戦え』。』(1サムエル記15:16-18)
皆さんもサウルのように、自分を小さいと思っていないだろうか。
『しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。』(1ペテロ2:9)
私達は、いかに自分がつまらない者のように見えても、キリストという尊いかしら石により頼んでいるのであるなら、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民であり(1ペテロ2:5-9)、歩むべき使命が与えられている。
それはすなわち、「暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、語り伝える」事である。
世の王は、ほしいままに好き勝手できるものだが、神の国における王族は、私達を王族にして下さったお方の声に聞き従い、与えられた使命に忠実であるべきである。
そうでないと、サウルのように、王権は剥奪されてしまうのだ。
『サウルはサムエルに言った、「わたしは主の声に聞き従い、主がつかわされた使命を帯びて行き、アマレクの王アガグを連れてきて、アマレクびとを滅ぼし尽しました。しかし民は滅ぼし尽すべきもののうち最も良いものを、ギルガルで、あなたの神、主にささげるため、ぶんどり物のうちから羊と牛を取りました」。』(1サムエル記15:20-21)
サウルは、同じ言い訳を繰り返した。
すなわち、自分は主の声に聞き従った、自分はアマレクを滅ぼした、しかし民は分捕りをして、しかもその理由は、主に捧げるため、という事を。
サウルはあらかじめ、サムエルにこう指摘されたら、こう返そう、と、用意していたのかもしれない。
『サムエルは言った、/「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、/燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、/聞くことは雄羊の脂肪にまさる。』(1サムエル記15:22)
この有名な聖句は、礼拝で既に何度も引用しているが、御言葉に聞き従う事こそ、どんな尊い捧げ物より、主に喜ばれる行為だ。
どんな美しいくちびるの果実も、どんな多額の献金も、どんなに身を粉にして働く奉仕も、御言葉に聞き従う事が無いなら、主は、そんな捧げ物を受け取らない。
『そむくことは占いの罪に等しく、/強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。あなたが主のことばを捨てたので、/主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」。』(1サムエル記15:23)
主は、混ぜ物つきの捧げ物や奉仕を、忌み嫌われる。
「これを滅ぼすのは惜しい、主に捧げるという口実なら、許してもらえるかも」などと、自分の都合の良いように、御言葉に身勝手な解釈を混ぜ込む事など、もってのほかである。
主の御言葉よりも、自分の好むことを優先させる事は「占いの罪」であり、強情に御言葉を跳ね除けるのは、偶像崇拝の罪なのだ。
「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)
私達が聞き従うべき「御言葉」とは、「ことば」そのものなる、イエスキリストである。(ガラテヤ2:16)
律法を全て成就して下さった方・イエス様に聞き従い、歩調を合わせて共に歩むなら、全ての「あれやこれをしなければ」という心配や重荷は降ろされ、たましいに安らぎが来るのだ。(マタイ11:28-30)
立て直しのチャンスをふいにしたサウル(1サムエル記15:1-11)
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- pastor 2015-3-23 15:55
礼拝説教メッセージ音声:立て直しのチャンスをふいにしたサウル(1サムエル記15:1-11):右クリックで保存
以前、サウルがサムエルを待ちきれずに勝手ないけにえを捧げた時、サムエルは怒りの内に別れたが、この時、再びサウルの所を訪れる。
『サムエルはサウルに言った、「主は、わたしをつかわし、あなたに油をそそいで、その民イスラエルの王とされました。それゆえ、今、主の言葉を聞きなさい。』(1サムエル記15:1)
前の失敗の時、彼は「今はあなたの王国は続かない」と言ったが(13:14)、主のサウルに対する憐れみは尽きておらず、今度こそ主の道に歩むようにと、立て直しのチャンスを与えられたのだ。
『万軍の主は、こう仰せられる、『わたしは、アマレクがイスラエルにした事、すなわちイスラエルがエジプトから上ってきた時、その途中で敵対したことについて彼らを罰するであろう。今、行ってアマレクを撃ち、そのすべての持ち物を滅ぼしつくせ。彼らをゆるすな。男も女も、幼な子も乳飲み子も、牛も羊も、らくだも、ろばも皆、殺せ』」。』(1サムエル記15:2-3)
アマレクは、イスラエルがエジプトを出て荒野を進んでいた時、イスラエルの中の、弱っている者を撃った。
それでヨシュアが戦い、モーセはアロンとフルに支えられて背後で祝福を祈り、そうして勝利した。(出エジプト記17章)
『あなたがエジプトから出てきた時、道でアマレクびとがあなたにしたことを記憶しなければならない。すなわち彼らは道であなたに出会い、あなたがうみ疲れている時、うしろについてきていたすべての弱っている者を攻め撃った。このように彼らは神を恐れなかった。それで、あなたの神、主が嗣業として賜わる地で、あなたの神、主があなたの周囲のすべての敵を征服して、あなたに安息を与えられる時、あなたはアマレクの名を天の下から消し去らなければならない。この事を忘れてはならない。』(申命記25:17-19)
昔、主がモーセを通して命じておられた事を、主はこの時、サウルに為すようにと命じられたのである。
しかしサウルは、その立て直しのチャンスを、ふいにしてしまった。
『サウルはアマレクびとを撃って、ハビラからエジプトの東にあるシュルにまで及んだ。そしてアマレクびとの王アガグをいけどり、つるぎをもってその民をことごとく滅ぼした。しかしサウルと民はアガグをゆるし、また羊と牛の最も良いもの、肥えたものならびに小羊と、すべての良いものを残し、それらを滅ぼし尽すことを好まず、ただ値うちのない、つまらない物を滅ぼし尽した。』(1サムエル記15:7-9)
サウルは、滅ぼし尽くすべきという事について、徹底しなかった。
その事が、サウルの王権剥奪の、決定的な原因となった。
どうしてそんな事で王権が剥奪されるのか、と、思うかもしれない。しかし、主が滅ぼし尽くせ、と言われたものは、滅ぼし尽くすべきなのだ。
主にあって新しく歩み出すべき時、以前の古い性質の痕跡は、残してはならないのだ。
例えば、偶像礼拝をしていた人がキリストに立ち返ったなら、今まで拝んでいた偶像が、いかに高価であろうとも、それを残してはならないし、また、それまで人を騙すテクニックだけで生きていたような人も、それをもう用いてはならない。
そうでないとそれが罠となり、自分自身ばかりでなく、多くの神の民をつまづかせてしまうのだ。
実際、サウルはアマレクを滅ぼさなかったために、イスラエル全体に後々続く災いの根を残してしまった。
アマレクの性質は、一言で言うなら「弱い者いじめ」であり、弱い者を狙い撃ちするのは、サタンの性質である。
『身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい。』(1ペテロ5:8-10)
ししは、動物の群れに向かって吠えたけり、恐れをなして群れの中からはみ出たものや、動けなくなったものに襲いかかって、食いつくす。
私達は、サタンがほえたける時こそ、信仰のスクラムをしっかりと組み、固く立って抵抗するのだ。
アマレクは、エジプトから出てきた会衆の後ろについて来ていた「弱っている人達」を狙い撃ちにしたし、後には、ダビデと部下達が戦争で留守中、天幕に留まっていた女子供を狙い撃ちにして、妻子もろとも財産を奪って行った。
さらに後の、エステルの時代には、ハマンが権力を利用して、イスラエル民族を皆殺しにしようと企んだが、このハマンはアマレクの子孫だと言われている。
未来も全て見通される主は、イスラエルや、また全て「弱い者」のために、このアマレクを必ず滅ぼし尽くさなければならない、と命じられたのだ。
『その時、主の言葉がサムエルに臨んだ、「わたしはサウルを王としたことを悔いる。彼がそむいて、わたしに従わず、わたしの言葉を行わなかったからである」。サムエルは怒って、夜通し、主に呼ばわった。』(1サムエル記15:10-11)
今回、主はサムエルにわざわざ現れ、サウルを王としたことを悔いる、と、直接伝えられた。
サムエルは夜通し主に叫んだが、老い先が短い彼が、イスラエルを導く王をようやく任命した、と思っていた矢先、その王が主にそむく者、主に従わない者だった、というのが、どんなに残念だっただろう。
そして、後のイスラエルをどんなに憂いた事だろう。
サウルがアマレクを滅ぼし尽くさなかった事の尻拭いは、ずっと後の時代、エステルとモルデカイがする事になる。
エステルは、ユダヤ人を滅ぼそうとしたアガグ人ハマンに対し、追及の手をゆるめず、ハマンの十人の子をも木にかけて晒し者にした。
その時、ユダヤ人達は、分捕り物には手をかけなかった。分捕る事を、許されていたのに。(エステル9:11-15)
しかしサウルはその真逆で、分捕る事は一切許されていなかったのに、分捕り物に手をかけてしまった。
私達の内の、滅ぼしつくすべきものは、滅ぼし尽くすべきであり、一切、物惜しみしてはならない。
『もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。』(ローマ8:13-14)
私達はサウルのように、主を悲しませてはならない。
主が「滅ぼし尽くすせ」と言われたものは、滅ぼし尽くすべきであり、待てと言われたなら待つべきであり、いつも主の御心を求めつつ、御言葉に従って歩むべきだ。
礼拝説教メッセージ音声:サウルの暴走と主の見事な采配(1サムエル記14:36-52):右クリックで保存
『サウルは言った、「われわれは夜のうちにペリシテびとを追って下り、夜明けまで彼らをかすめて、ひとりも残らぬようにしよう」。人々は言った、「良いと思われることを、なんでもしてください」。しかし祭司は言った、「われわれは、ここで、神に尋ねましょう」。』(1サムエル記14:36)
サウルは、あまりに御声に聞こうとせず、次から次へと何かしようとするので、祭司は、呼びかけたのだろう。
サウルには「御心を大事にしている」というアピールも大事なので、「神に尋ねましょう」という提案に従う。
『そこでサウルは神に伺った、「わたしはペリシテびとを追って下るべきでしょうか。あなたは彼らをイスラエルの手に渡されるでしょうか」。しかし神はその日は答えられなかった。』(1サムエル記14:37)
主から何も答えがない。
そのように、主からの答えが無いような時は、自分の中に、神との隔ての壁となっているような罪や不義がないかを、真っ先にチェックすべきである。
次のように書いてあるからだ。
『見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。ただ、あなたがたの不義が/あなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が/主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。』(イザヤ59:1-2)
『そこでサウルは言った、「民の長たちよ、みなこの所に近よりなさい。あなたがたは、よく見きわめて、きょうのこの罪が起きたわけを知らなければならない。イスラエルを救う主は生きておられる。たとい、それがわたしの子ヨナタンであっても、必ず死ななければならない」。しかし民のうちにはひとりも、これに答えるものがいなかった。』(1サムエル記14:38-39)
サウルは、自分が神に求めても、何も答えて下さらない「罪」の原因者は、たとえ、自分の子であろうと赦さない、という意気込みを見せた。
しかし、「たといそれが”わたし”であっても、”わたし”は必ず死ななければならない」とは言わず、今回の大勝利の最大の功労者・ヨナタンであっても、と言った所がミソである。
結局彼は、「罪」の原因を、自分ではなく、他人に求めているのだ。
彼の言動は、主に「熱心」であるかのような素振りではあるが、どうも”ちぐはぐ感”を否めない。
彼は、自ら御心を求めようとせず、祭司に勧められてから、やっと御心を求めた程だから、自分の大切な息子よりも神様のほうが大事だ、などという気が無いのは、明らかである。
(むしろ、最大功労者ヨナタンを、実は死に追いやりたいのではないか、と思える程に、ヨナタンの名をしきりに出している。)
サウルのやり方は、自分の命令を守らない者は、たとえ自分の子であろうとも死を免れない、という、恐怖政治である。
だから人々は凍りついた。
極端な言動をして、場の雰囲気を凍りつかせる人はいるが、サウルは神を黙らせ、また人を黙らせてしまった。
『サウルはイスラエルのすべての人に言った、「あなたがたは向こう側にいなさい。わたしとわたしの子ヨナタンはこちら側にいましょう」。』(1サムエル記14:40)
結局、御心を示すくじは、ヨナタンに当たった。
『サウルはヨナタンに言った、「あなたがしたことを、わたしに言いなさい」。ヨナタンは言った、「わたしは確かに手にあったつえの先に少しばかりの蜜をつけて、なめました。わたしはここにいます。死は覚悟しています」。サウルは言った、「神がわたしをいくえにも罰してくださるように。ヨナタンよ、あなたは必ず死ななければならない」。』(1サムエル記14:43-45)
ヨナタンは、自分の死を認めた。
まがりなりにも、油注がれた王の定めた誓いを、知らなかったとは言え、破ってしまったのだから、自分は死んで仕方がなし、と。
そして父は、ヨナタンが死なないなら、神が幾重にも自分を罰して下さるように、と、答えた。
この独特の表現、**しないなら、神が幾重にも自分を罰して下さるように、という言い方は、主に誓う時の言い方である。
なぜこんな事になってしまうのか、と、私達は思う。
しかし、後の結果を見るに、主の采配の仕方は見事としか言いようがない、と思える。
サウルは、誰かが犯した「罪」の故に、他人を死へと追いやろうとしたが、そもそも、サウルがサムエルを待てず、分を超えていけにえを勝手に捧げてしまった「罪」の故に、主の示しが与えられなくなってしまってはいなかったか。
そもそも、サウルと民が、ペリシテを前にただ怯えるしか無かったのは、彼のせいではなかったか。
そこをヨナタンが、サウルの不信仰とは一切関係なしに、主の救いを信じて行動し、その結果、サウルをはじめイスラエルに救いをもたらしたのではなかったか。
自ら勝手に定めた色々の取り決めによって、一番の恩人、一番死刑にしてはならない人を、死刑に導いてしまう。この性質は、パリサイ人の性質である。
パリサイ人の性質は、御言葉を曲解し、沢山の「しろ」「してはならない」でがんじがらめにして、自分はそれらを守っているようで守らず、神の国に入ろうとしないばかりか、人々をも入らせようとせず、肝心の愛と憐れみをおろそかにしている。
しかし主は、サウルもヨナタンも、誰も死なせる事なく、ヨナタンは人々の口によって弁護された。
『その時、民はサウルに言った、「イスラエルのうちにこの大いなる勝利をもたらしたヨナタンが死ななければならないのですか。決してそうではありません。主は生きておられます。ヨナタンの髪の毛一すじも地に落してはなりません。彼は神と共にきょう働いたのです」。こうして民はヨナタンを救ったので彼は死を免れた。』(1サムエル記14:45)
主はアブラハムに、イサクをほふって捧げるよう命じた時、別の身代わりの羊を備えて、死ぬべきイサクの身代わりとさせて下さった。
イサクが両手両足をおとなしく縛られ、父アブラハムが刀を振り下ろそうとした時、イサクは確かに、神の目にも、アブラハムの目にも、死んだのだ。
しかし、彼らの覚悟と、その行動の故に、神は彼らを弁護して下さり、イサクを死から救って、生かして下さった。
同じようにヨナタンも、死を覚悟し、また、父がヨナタンの死を宣誓した時、ヨナタンは、人々の口によって弁護され、死から救われたのだ。
サウルは人々の目を非常に気にするので、みんなに言われては、そうするしかなかった。
彼は「主が幾重にも罰してくださるように」とまで言った誓いを、いとも簡単にひるがえし、ヨナタンを死なせなかった。
こんなにもコロコロと、主との取り決めを翻してしまうサウル。
なぜ「罪あり」を示すくじは、サウルではなく、ヨナタンに示されたのだろう。
それはやはり、主の采配である。
サウルは、曲がりなりにも、主に油注がれた王である。
主に油注がれた王であるからには、主からの憐れみも、注がれている。
結局主は、サウル自身の愚かな言葉によって、サウル自身を滅ぼさせる事なく、また、義人ヨナタンも殺される事なく、誰も死ぬ事がないようにして下さった。
罪と背きにまみれた者が、本来、死のくじが当てられるはずの所を、それを逃れ、その代わり、罪がなく、神の民に救いをもたらした「子」に、死の宣告がくだされる。
これはまさしく、キリストを示している。
本来、私達こそ、サウルのように主に背き、御言葉をないがしろにし、死が宣告されるべき者であった。
しかし、神の御子、キリストが身代わりとなって、死に定められた。
キリストはひと度、罪の身代わりとなって死なれたが、父なる神様は彼を復活させ、永遠に生きる者とし、そして、彼を信じる者は誰一人として滅びる事なく、永遠のいのちが与えられるのである。
そして、キリストを信じる私達は生かされ、王族の祭司職があたえられた。
なんという素晴らしい恵みと特権だろうか。
しかし、この素晴らしい恵みと特権をないがしろにし、恵みと赦し下さった主に背き続けるなら、与えられている特権は、やがて剥奪されてしまう。
サウルは、主の憐れみのゆえに救われたという事を、恩にも感じず、御声に背く事を続けるが故に、やがて王権が剥奪されてしまう。
私達は、主にしていただいた恩を決して忘れてはならない。
ちぐはぐでとんちんかんな指導者となってしまう原因(1サムエル記14:24-35)
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- pastor 2015-3-19 23:50
礼拝説教メッセージ音声:ちぐはぐでとんちんかんな指導者となってしまう原因(1サムエル記14:24-35):右クリックで保存
『しかしその日イスラエルの人々は苦しんだ。これはサウルが民に誓わせて「夕方まで、わたしが敵(mine enemies)にあだを返すまで、食物を食べる者は、のろわれる」と言ったからである。それゆえ民のうちには、ひとりも食物を口にしたものはなかった。』(1サムエル記14:24)
主の敵を滅ぼす、という誓いならともかく、サウルは「わたしの敵」(mine enemies)に復讐する事を強要するため、夕方まで民に断食を強要した。
誓う事は霊的な意思表示であるが(民数記30章)、彼は一見、その霊的な事をしはしても、その動機は結局、自己中心である。
彼は、御心を求めてから途中でそれを止めさせたり、サムエルを待てなかったくせに人々には食べるのを待つよう強要したりしたりと、ちぐはぐで、芯の無い行動をしている。
それは結局、人々に信仰的だと思わせる動機でしているから、人々の賛同如何で、ころころ変わってしまうような、ちぐはぐで芯の無い行動となってしまうのだ。
彼のような、外見は”信仰的”でも、心は人受けする事を第一とするような指導者の下にいる人は、サウルの部下達のように、振り回されっぱなしである。
『ところで、民がみな森の中にはいると、地のおもてに蜜があった。民は森にはいった時、蜜のしたたっているのを見た。しかしだれもそれを手に取って口につけるものがなかった。民が誓いを恐れたからである。しかしヨナタンは、父が民に誓わせたことを聞かなかったので、手を伸べてつえの先を蜜ばちの巣に浸し、手に取って口につけた。すると彼は目がはっきりした。』(1サムエル記14:25-27)
ヨナタンは、サウルが立てさせた誓いを知らなかったので、何の良心のとがめも、悪意もなく、蜜を味わった。
『その時、民のひとりが言った、「あなたの父は、かたく民に誓わせて『きょう、食物を食べる者は、のろわれる』と言われました。それで民は疲れているのです」。ヨナタンは言った、「父は国を悩ませました。ごらんなさい。この蜜をすこしなめたばかりで、わたしの目がこんなに、はっきりしたではありませんか。まして、民がきょう敵からぶんどった物を、じゅうぶん食べていたならば、さらに多くのペリシテびとを殺していたでしょうに」。』(1サムエル記14:28-30)
このような、いらぬ「せよ」「してはならない」の命令を、神の名の元に乱発し、群れ全体の仕事効率を低下させたり、聖徒達を苦しめたりする霊的指導者は、いつの時代でも、いるが、彼らは、主の御心を行う事が第一ではなく、主の御名を借りて、人々に自分の好む事を押し付けたいに過ぎない。
主にある指導者が、主にあって正当に支配しているかどうかの指標は、御霊の実を実らせているかいないかという事、そして、そこに自由があるかないか、である。
『主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。』(2コリント3:17)
ヨナタンの言葉には、自由があるが、サウルの言葉には、自由が見られない。
以下、見比べて見ると、よく分かる。
『ヨナタンはその武器を執る若者に言った、「さあ、われわれは、この割礼なき者どもの先陣へ渡って行こう。主がわれわれのために何か行われるであろう。多くの人をもって救うのも、少ない人をもって救うのも、主にとっては、なんの妨げもないからである」。武器を執る者は彼に言った、「あなたの望みどおりにしなさい。わたしは一緒にいます。わたしはあなたと同じ心です」。』(1サムエル記14:6-7)
『しかしその日イスラエルの人々は苦しんだ。これはサウルが民に誓わせて「夕方まで、わたしが敵にあだを返すまで、食物を食べる者は、のろわれる」と言ったからである。それゆえ民のうちには、ひとりも食物を口にしたものはなかった。』(同24節)
もちろん、自由とは、好き勝手に欲望のおもむくまま、ではなく、御霊にある自由であり、そこには愛、喜び、誠実、自制などの、御霊の実が結ばされているものである。
御霊が働かれる所には、自由がある。
しかし、人の押し付けには自由は無く、行動の制限と束縛感があり、そして束縛がきつ過ぎると、人に罪を犯させてしまう。
『その日イスラエルびとは、ペリシテびとを撃って、ミクマシからアヤロンに及んだ。そして民は、ひじょうに疲れたので、ぶんどり物に、はせかかって、羊、牛、子牛を取って、それを地の上に殺し、血のままでそれを食べた。』(1サムエル記14:31-32)
血のあるままで肉を食べる事、これは、律法では禁じられている事であるが、人々にその罪を犯させる「とっかかり」を作ったのは、サウルだった。
『またあなたがたはすべてその住む所で、鳥にせよ、獣にせよ、すべてその血を食べてはならない。だれでもすべて血を食べるならば、その人は民のうちから断たれるであろう』」。』(レビ記7:26-27)
もしサウルが、あくまで律法を徹底するとしたら、血のまま食べた人々を、民の内から絶たなければならないはずだが、それはしなかった。
そして、別の「ある事」を徹底させ、さらに「とんちんかん」を増し加えて行く事になる。
礼拝説教メッセージ音声:霊的優先順位を外したサウル(1サムエル記14:16-23):右クリックで保存
『ベニヤミンのギベアにいたサウルの番兵たちが見ると、ペリシテびとの群衆はくずれて右往左往していた。』(1サムエル記14:16)
ペリシテの中に、神からの恐れが入り、陣営は大混乱に陥った。そのとっかかりを作ったのは、ヨナタンと道具持ちの二人である。
主は、彼らの信仰に基づいた行動を、大いに用いられたのだ。
主は、ご自分の心に適う者、御声に聞き従い、それを、守り行う人を求められる。
サウルはひと度、それに失敗したが、主は、一人の代表者の不信仰によって神の民全体を見捨てる事をせず、その中の一人の信仰者の行動を汲み取ってそれを用い、イスラエル全体に救いをもたらされる。
『その時サウルは、共にいる民に言った、「人数を調べて、われわれのうちのだれが出て行ったかを見よ」。人数を調べたところ、ヨナタンとその武器を執る者とがそこにいなかった。サウルはアヒヤに言った、「エポデをここに持ってきなさい」。その時、アヒヤはイスラエルの人々の前でエポデを身に着けていたからである。サウルが祭司に語っている間にも、ペリシテびとの陣営の騒ぎはますます大きくなったので、サウルは祭司に言った、「手を引きなさい」。』(1サムエル記14:17-19)
サウルが、敵の状況が変わったのを見て起こした行動は、実に、霊的優先順位を外したものである点に、私達は着目すべきである。
彼が真っ先に求めたのは、「誰がこの事をしたのか?」であり、騒乱している敵を前に、自軍600人の人員点呼を取らせるという行動に出た。
物事が有利に起こった時、あるいは不利になった時、真っ先に「それは誰か」を探る事は、ナンセンスである。
サウルは、人を見た。「人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである。」(箴言29:25)
この後もサウルは「御心が示されなくなってしまったのは、誰のせいか」を追求し、そうして最大の功労者であるヨナタンの命を、落とそうとしてしまう。
社会や政治の場において、何か危急の事が起きた時、一刻も早く対処するではなく「誰彼追求」をして、かえって物事を悪くしてしまうような人がいるが、私達はそうした「誰彼追求」を、霊的現場において、していないだろうか。それはサウルの、失敗する道である。
サウルがそうして人員を調べさせた結果、出て行ったのは、ヨナタンと道具持ちである事が分かった。
それで、彼が次に彼が行った事は、ヨナタンを助けに行くではなく、この機に乗じて奇襲を仕掛けに行くでもなく、祭司にエポデ(主の御心を伺うための道具)を持って来させ、このまま攻めに行くべきか、行かないべきかを伺う事だった。
サウルは、祭司がずっと一緒にいた、にもかかわらず、御心を伺う事をしたのは、もしかしたらここが初めてだったのかもしれない。
あるいは、御心を求めても何の答えも無かったか、それとも、答えはあっても、その通り行動していなかったかであろう。
なぜなら、もし御心を伺ってその通り行動していたとしたなら、何も、ヨナタンに先んじられる事なく、サウルはもっと別の有益な結果を残していたであろうから。
サウルが御心を求めている間、敵陣の混乱はますます大きくなったので、サウルは祭司に「手を引きなさい」と遮り、戦いの場へと急行した。
さて、サウルがした事を順番に並べると、一番最初は「これは誰のせいか」を求めた事、次に、御心を伺わせた事、しかし、状況が変わったのを見て途中で止めさせ、ようやく戦場へと駆けつけた事だった。
全くもって、優先順位が逆である。
ヨナタンには、御心を伺う祭司が、一緒にいただろうか? 彼は祭司なしに自分の信仰だけで出て行った。
彼は、敵が右往左往しているのを見てから戦場へ出て行っただろうか? いや、彼は戦況が圧倒的不利な状態で、敵前へと出て行ったのだ。
彼は、人を求めただろうか。いや、彼には、自分と信仰の行動を共にする人一人さええれば、道具持ちの若者一人で充分だった。
ヨナタンは主に伺う以前に、主が何かをして下さるだろう、という信仰と期待だけを握り締めて、行ったのだ。
彼の信仰と期待はそれだけ確信があったが、私達は、信仰に自信が無い時は当然、主に伺うべきである。
しかし、サウルのように、御心を伺っている最中にそれを差し止めたり、御心が与えられるのが「待ちきれず」に行動を起こしてしまうのは、失敗の道である。
『こうしてサウルおよび共にいる民は皆、集まって戦いに出た。ペリシテびとはつるぎをもって同志打ちしたので、非常に大きな混乱となった。また先にペリシテびとと共にいて、彼らと共に陣営にきていたヘブルびとたちも、翻ってサウルおよびヨナタンと共にいるイスラエルびとにつくようになった。またエフライムの山地に身を隠していたイスラエルびとたちも皆、ペリシテびとが逃げると聞いて、彼らもまた戦いに出て、それを追撃した。こうして主はその日イスラエルを救われた。』(1サムエル記14:20-23)
結局、この戦いは、ヨナタンの信仰の行いの、一人勝ちであった。
私達も、ヨナタンのように、信仰によって行動するなら、遣わされている仕事場において、戦いの場において、そしてこの日本において、勝利のきっかけの重要パーソンとなれるのだ。
礼拝説教メッセージ音声:信仰の二人は万を打つ(1サムエル記14:6-15):右クリックで保存
『ヨナタンはその武器を執る若者に言った、「さあ、われわれは、この割礼なき者どもの先陣へ渡って行こう。主がわれわれのために何か行われるであろう。多くの人をもって救うのも、少ない人をもって救うのも、主にとっては、なんの妨げもないからである」。武器を執る者は彼に言った、「あなたの望みどおりにしなさい。わたしは一緒にいます。わたしはあなたと同じ心です」。』(1サムエル14:6-7)
ヨナタンは、主が何かをして下さると期待して、出て行った。
主が御業をなされる上では、人の頭数の多さより、むしろ、その集まりの、主を信頼する純粋さこそが、重要な鍵となる。
不信仰な人間の頭数の多さは、逆に邪魔だ。
実際主は、エジプトを出た男子六十万全部を約束の地へ導き入れたのではなく、純粋な信仰を保ったヨシュアとカレブの二人だけを入れたし、また、ギデオンの時は32000人を、主は「多すぎる」として、300人へと絞った。
集いの中に、不信仰の者が混ざると、信仰者の足を引っ張る。
だからヨナタンは、祭司を呼び寄せても何もしない父サウルや、サウルと一緒にただ震えて待っているだけの人々には何も告げずに、出て行ったのだ。
『こうしてふたりはペリシテびとの先陣に、その身を現したので、ペリシテびとは言った、「見よ、ヘブルびとが、隠れていた穴から出てくる」。先陣の人々はヨナタンと、その武器を執る者に叫んで言った、「われわれのところに上ってこい。目に、もの見せてくれよう」。ヨナタンは、その武器を執る者に言った、「わたしのあとについて上ってきなさい。主は彼らをイスラエルの手に渡されたのだ」。』(1サムエル記14:11-12)
大軍の敵を前に、姿を現した若者二人。
信仰なき者達には、命知らずの自殺行為であろうが、ヨナタンにとってはたとえ二人であろうと、イスラエルを代表した戦いであり、そして、敵の嘲りの言葉は、彼には「主は彼らをイスラエルの手に渡されたのだ」という勝利のしるしだった。
『そしてヨナタンはよじ登り、武器を執る者もそのあとについて登った。ペリシテびとはヨナタンの前に倒れた。武器を執る者も、あとについていってペリシテびとを殺した。ヨナタンとその武器を執る者とが、手始めに殺したものは、おおよそ二十人であって、このことは一くびきの牛の耕す畑のおおよそ半分の内で行われた。』(1サムエル記14:13-14)
岩をよじ登って来る者を迎え撃つ。それは、赤子の首をひねるよりも簡単と思われるが、どういう戦いが展開されたのか、なんと、よじ登っていったヨナタンのほうが、ペリシテを二十人も打ったのだ。
「一くびきの牛の耕す畑のおおよそ半分」、それは英語聖書では半エーカー、すなわちおよそ60mx30mほどの場所である。
ちなみに、ギリシャ語「エーカー」は「くびき」を意味する言葉で、ひとくびきの牛が一日間で耕すことが可能な土地の広さを一エーカーとして定めたとされている。
『そして陣営にいる者、野にいるもの、およびすべての民は恐怖に襲われ、先陣のもの、および略奪隊までも、恐れおののいた。また地は震い動き、非常に大きな恐怖となった。』(1サムエル記14:15)
こうして、たった二人の信仰ある者の行動が、ペリシテの陣営全体を、震えおののかせた。
また、地は震い動き(the earth quaked)、非常に大きな恐怖(原文では、神(エローヒム)の恐れ)が沸き起こった。
モーセは言っている。
「彼らの岩が彼らを売らず、/主が彼らをわたされなかったならば、/どうして、ひとりで千人を追い、/ふたりで万人を敗ることができたであろう。彼らの岩はわれらの岩に及ばない。われらの敵もこれを認めている。」(申命記32:30-31)
そう、彼らは「岩」であられる主に信頼したから、二人で万人を破る事が出来たのだ。
『主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。聖書にこう書いてある、/「見よ、わたしはシオンに、/選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、/決して、失望に終ることがない」。』(1ペテロ2:4-6)
岩なる主は、寄り頼む者には、決して揺るがされる事の無い救いである。
しかし、寄り頼まない者には、全く逆の作用を及ぼす。
『この石は、より頼んでいるあなたがたには尊いものであるが、不信仰な人々には「家造りらの捨てた石で、隅のかしら石となったもの」、また「つまずきの石、妨げの岩」である。しかし、彼らがつまずくのは、御言に従わないからであって、彼らは、実は、そうなるように定められていたのである。』(同7-8節)
主イエス・キリストという救いの岩に信頼を置く私達には、次の特権が与えられている。
『しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている。』(同9-10節)
主を信頼する私達は、選ばれた種族、王のような祭司、聖なる国民、神の民であり、あわれみを受けた者となっているのだ。
神の国、すなわち「神の支配領域」は、神の子が、神の御言葉を信じて、その通り行動する所に、現れる。
そしてそこは、物理法則さえ凌駕する神の力、神の業がなされる。ヨシュアが祈りで地球の自転を停止させたように、エリヤとやもめのパンが尽きなかったように、また、ペテロが少しの間だが水の上を歩いたように。
皆さんの家、職場、行く先々は、神の国となっているだろうか。
私達が、御言葉に信頼して行動するなら、そこは、神の支配が行き届く所となるのだ。
神の国は、神の子とされた者が、神のことばを信頼し、行使する所に現れる。
行く先々において、神の国を興し、闇を光に、死をいのちに塗りつぶして行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
圧倒的不利な状況下で、一人、信仰によって立ち向かうヨナタン(1サムエル記13:15-14:5)
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- pastor 2015-3-13 23:39
礼拝説教メッセージ音声:圧倒的不利な状況下で、一人、信仰によって立ち向かうヨナタン(1サムエル記13:15-14:5):右クリックで保存
『こうしてサムエルは立って、ギルガルからベニヤミンのギベアに上っていった。サウルは共にいる民を数えてみたが、おおよそ六百人あった。サウルとその子ヨナタン、ならびに、共にいる民は、ベニヤミンのゲバにおり、ペリシテびとはミクマシに陣を張っていた。』(1サムエル記13:15-16)
サムエルは、サウルを置いて行ってしまった。
サムエルが来ていけにえを捧げるまで待て、と言われていたのに待ちきれず、身勝手に自分でいけにえを捧げ、主にそむいてしまったためだ。
これから何を為すべきか、という示しを何も頂けないまま、サムエルに去られてしまったが、それでもペリシテ人は容赦なく迫ってくる。
ペリシテ人達は、三組に分かれて、イスラエル領土内を荒らしに来ていたが、サウルに付き従う人々は既に大勢逃げてしまい、今や、六百人ほどになってしまった。
しかも、武器を持っているのは、サウルとヨナタンだけだった。なぜなら、ペリシテ人はイスラエルに武器を作らせないようにと、鍛冶を禁じていたからだ。
イスラエルに敵するペリシテは、戦車3万に、騎兵6千、歩兵は海辺の砂粒のように多い。
誰がどう見ても、イスラエルに勝ち目が無い状況である。
この時、再びヨナタンが行動を起こす。
『ある日、サウルの子ヨナタンは、その武器を執る若者に「さあ、われわれは向こう側の、ペリシテびとの先陣へ渡って行こう」と言った。しかしヨナタンは父には告げなかった。』(1サムエル記14:1)
この戦いが始まったのも、そもそも彼がペリシテの守備隊長を打ったのが発端だった。
彼は、父サウルには黙ってペリシテ人の先陣へと行った。
なぜ父サウルに黙って行ったのだろう。
後の箇所を見るとわかるが、サウルは民に無意味な制約を科したり、いらぬ所で変な命令を出したり、あるいはそれを翻したりして、民を右往左往させる事をしきりに行うのだが、すでにその徴候があったのかもしれない。それでヨナタンは、父に何も知らせずに行ったのかもしれない。
『サウルはギベアのはずれで、ミグロンにある、ざくろの木の下にとどまっていたが、共にいた民はおおよそ六百人であった。またアヒヤはエポデを身に着けて共にいた。アヒヤはアヒトブの子、アヒトブはイカボデの兄弟、イカボデはピネハスの子、ピネハスはシロにおいて主の祭司であったエリの子である。民はヨナタンが出かけることを知らなかった。』(1サムエル記14:2-3)
アヒヤは、かの悪名高きエリの子ピネハス、聖徒の捧げ物をかすめ奪って聖所でみだらな事をした、あの祭司・ピネハスの孫で、ピネハスが死んだ日に生まれたイカボテ(栄光なしという意味)の兄・アヒトブの子であり、エリの「ひ孫」にあたる。
サウルは、神に伺いを立てる祭司を近くに呼び寄せていたが、それはサウルには、あまり意味をなしていない事が後に明らかになる。
サウルは、ざくろの木の下で、何の手立てもなくただじっとして、民がこっそり逃げて行くにも手をこまねいているだけの状況だったが、ヨナタンの心には、サウルとは別の思いがあった。
こんな時機に、父サウルと一緒に手をこまねいていても、主は何も働かれない、自分で信仰による行動した方がいい、そう思って、父に黙って出かけたのだろう。
不信仰の愚かな者が、支配権を握っている時、その配下の信仰者が、不信仰の者に黙って行動する、という事は、確かにある。ナバルに対してのアビガイルもそうだった。(1サムエル記25章)
ペリシテの略奪隊は、既に三組に分かれて、イスラエルをなぶり始めている。
ヨナタンは彼らを「割礼なき者ども」と見、主は神の民をなぶる者達を必ず滅ぼしてくださると、信頼して出て行った。
それは、信仰なき者が見るなら無謀以外の何者でも無い。父が聞くなら、当然止める事だろう。
だから、父に内緒で行ったのだ。
主を知らず、生まれながらの感性や価値観で生きている「生まれながらの人」は、「霊の人」の信仰の行動を、愚かと見なす。
『生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。しかし、霊の人は、すべてのものを判断するが、自分自身はだれからも判断されることはない。「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」。』(1コリント2:14-16)
御霊にある人は、肉にある人には想像もできないような事業を為し、そしてそれは成功し、その全ての行程において、神が栄光をお受けになるのだ。
ヨナタンのその信仰の行動が、再び、イスラエルと敵とを、大いに揺り動かす。
世を支配しておられるのは主であるが、主はどういうわけか、主を畏れ敬う人達の、信仰にある行動を用いて、世界を動かして行く。
信仰によって御言葉に従順し、主の御胸を行い、いのちで満たしていく事に用いられていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:待つ事が出来なかったサウル(1サムエル記13:1-14):右クリックで保存
『サウルは三十歳で王の位につき、二年イスラエルを治めた。』(1サムエル記13:1)
この1節の原文は、どう訳して良いのか難解な文となっており、訳し方が多岐に分かれる所である。
口語訳や新改訳では、三十歳で王の位についた、とあるが、脚注にある通り、それは「推定」であって正確ではない。
ちなみに原文をそのまま並べると、「子(血筋) 年 サウル 中で 統治する と 二つの 年 統治する 上に イスラエル」となっており、どのように意味を汲んで良いのか正確な所が分からない。
サウルが何年王として統治し影響力を振るったのかは、正確な所は分からないが、ひとつ明らかな事は、彼の統治は「短かった」事だ。
なぜなら、サウルは主の道を歩まなかったからである。
この箇所では、サウルはまだ王となったばかりであるが、早速、主の道に歩まない性質が現れはじめる。
『さてサウルはイスラエルびと三千を選んだ。二千はサウルと共にミクマシ、およびベテルの山地におり、一千はヨナタンと共にベニヤミンのギベアにいた。サウルはその他の民を、おのおの、その天幕に帰らせた。ヨナタンは、ゲバにあるペリシテびとの守備兵を敗った。ペリシテびとはそのことを聞いた。そこで、サウルは国中に、あまねく角笛を吹きならして言わせた、「ヘブルびとよ、聞け」。』(1サムエル記13:2-3)
神の民の敵・ペリシテに、最初に戦いを挑み、そして勝利したのは、サウルの子・ヨナタンだった。彼は手勢の1000人を引き連れ、守備兵を破った。
その事は、イスラエルにも、敵にも、動きを起こさせる事となった。
それにしても、サウルはなぜこの時、「イスラエルよ」と呼びかけずに、「ヘブルびとよ」と呼びかけたのだろう。
14:21を見ると分かるが、ヘブル人でありながら、神の民イスラエルに逆らい、ペリシテについた者もいた。だから、いわゆる「神の民イスラエル」へ限定した呼びかけではなく、ヘブル語がわかる者なら誰であっても聞け、という事だったのかもしれない。
『イスラエルの人は皆、サウルがペリシテびとの守備兵を敗ったこと、そしてイスラエルがペリシテびとに憎まれるようになったことを聞いた。こうして民は召されて、ギルガルのサウルのもとに集まった。 』(1サムエル記13:4)
ペリシテの守備兵を破ったのは、ヨナタンだったはずだが、なぜか「サウルがペリシテびとの守備兵を敗った」事が、イスラエル中に広まった。
後のサウルの言動を見ると分かるのだが、彼は、人の手柄は自分のものにし、自分の都合が悪い事は人のせいにする性質がある。
『ペリシテびとはイスラエルと戦うために集まった。戦車三千(原文:三万)、騎兵六千、民は浜べの砂のように多かった。彼らは上ってきて、ベテアベンの東のミクマシに陣を張った。イスラエルびとは、ひどく圧迫され、味方が危くなったのを見て、ほら穴に、縦穴に、岩に、墓に、ため池に身を隠した。また、あるヘブルびとはヨルダンを渡って、ガドとギレアデの地へ行った。しかしサウルはなおギルガルにいて、民はみな、ふるえながら彼に従った。』(1サムエル記13:5-7)
イスラエルの軍隊は、三千。それに比べ、ペリシテが戦うために出てきたのは、戦車の数だけで、イスラエルの数を上回っている。
それで人々は、逃げ隠れした。
サウルが守備隊を破った、というだけ取り上げていたなら、サウルの(本当はヨナタンの)手柄で沸き立っていたであろうが、それがペリシテを怒らせ、大軍を呼び覚ましてしまった、となっては、大変な事になったと思っただろう。
人々はこの大軍を前に、震えるしかなかった。
しかし今まで、神の民・イスラエルに対して敵が圧倒的勢力で攻めて来た事は、幾度もあった。
例えばギデオンの時は、わずか三百人で、十三万五千の敵を圧倒した。
神の国の戦いは、兵力や装備による戦争ではなく、神ご自身が戦われるか、闘われないか、によって、勝敗が決まってきた。だからサウルに必要な事は、兵や装備をつのる事ではなく、ただ勝利の主に信頼する事だけだった。
しかしサウルは誤った事をしてしまう。
『サウルは、サムエルが定めたように、七日のあいだ待ったが、サムエルがギルガルにこなかったので、民は彼を離れて散って行った。そこでサウルは言った、「燔祭と酬恩祭をわたしの所に持ってきなさい」。こうして彼は燔祭をささげた。』(1サムエル記13:8-9)
サウルはここで、二つの罪を犯している。
祭壇で主にいけにえを捧げる行為は、レビ族しか許されていないはずだが、それを行ってしまった事、そして、サムエルを待たずに自分勝手に行動してしまった事だ。
『その燔祭をささげ終ると、サムエルがきた。サウルはあいさつをしようと、彼を迎えに出た。その時サムエルは言った、「あなたは何をしたのですか」。サウルは言った、「民はわたしを離れて散って行き、あなたは定まった日のうちにこられないのに、ペリシテびとがミクマシに集まったのを見たので、わたしは、ペリシテびとが今にも、ギルガルに下ってきて、わたしを襲うかも知れないのに、わたしはまだ主の恵みを求めることをしていないと思い、やむを得ず燔祭をささげました」。』(1サムエル記13:10-12)
サウルは、民は彼を離れて散って行くのを見て、これ以上民が離れて行かないようにするため、アピール目的でいけにえを捧げたのだ。
燔祭とは全焼のいけにえであり、自分の全てを捧げます、という主に対する意思表示のはずだが、彼の場合、主に対する信仰は一切無く、ただ人をつなぎとめるための「動物焼きパフォーマンス」に過ぎなかった。
それは、主の御前に悪でしか無い。
『サムエルはサウルに言った、「あなたは愚かなことをした。あなたは、あなたの神、主の命じられた命令を守らなかった。もし守ったならば、主は今あなたの王国を長くイスラエルの上に確保されたであろう。しかし今は、あなたの王国は続かないであろう。主は自分の心にかなう人を求めて、その人に民の君となることを命じられた。あなたが主の命じられた事を守らなかったからである」。』(1サムエル記13:13-14)
サムエルがかつてサウルに命じたのは、『あなたはわたしに先立ってギルガルに下らなければならない。わたしはあなたのもとに下っていって、燔祭を供え、酬恩祭をささげるでしょう。わたしがあなたのもとに行って、あなたのしなければならない事をあなたに示すまで、七日のあいだ待たなければならない」。』(1サムエル記10:8) であった。
サムエルが来ていけにえを捧げたなら、サウルがその後しなければならない事が、主から告げられる、はずだった。
しかし、彼が主を待たず、身勝手な事をしてしまった今となっては、次なる主の示しは与えられない。
しかし、このただ一度の失敗で、もはや永遠に手遅れ、という訳ではない。
サムエルが言ったのは「今は、あなたの王国は続かない」であって、「もう決して、あなたの王国は続かない」ではない。
実際、サウルは敗者復活のチャンスが後に与えられる。
終わりの時代、患難の時がやって来る。
その時、主を忍耐して待たなければならないが、それは人が思っているよりも遅い事が、あらかじめ主から示されている。(2ペテロ3:9)
主を待ち望め、それは旧約でも新約でも共通する命令である。
いかに「遅い」と思えるようであっても、主が「待ち望みなさい」と言われたからには待つべきであって、サウルのように焦って、ひとりよがりの行動してはならない。
不真実な民を養う事を止めないサムエルと主(1サムエル記12:16-25)
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- pastor 2015-3-11 23:50
礼拝説教メッセージ音声:不真実な民を養う事を止めないサムエルと主(1サムエル記12:16-25):右クリックで保存
サムエルは、イスラエルがモーセの時以来、いかに主に対して不真実に歩んできたかを指摘し、それに加えて、王を求めるという罪まで犯した事を指摘した。
『それゆえ、今、あなたがたは立って、主が、あなたがたの目の前で行われる、この大いなる事を見なさい。きょうは小麦刈の時ではないか。わたしは主に呼ばわるであろう。そのとき主は雷と雨を下して、あなたがたが王を求めて、主の前に犯した罪の大いなることを見させ、また知らせられるであろう」。そしてサムエルが主に呼ばわったので、主はその日、雷と雨を下された。民は皆ひじょうに主とサムエルとを恐れた。』(1サムエル記12:16-18)
イスラエルには雨季と乾季があり、小麦の刈り入れ時、すなわち、6月頃は雨は降らないはずなのだが、サムエルが祈り求めると、主は雷と雨がくだされた。
それは、あり得ない天気である。
サムエルがありえない時期に雷と雨を呼び求め、そして主がそれに応えられたのは、イスラエルの民がいかに主を無視し、主に罪を犯したかを示すためであり、また、主は呼び求めるなら答えてくださるお方であると示すためでもある。
『民はみなサムエルに言った、「しもべらのために、あなたの神、主に祈って、われわれの死なないようにしてください。われわれは、もろもろの罪を犯した上に、また王を求めて、悪を加えました」。』(1サムエル記12:19)
イスラエルの民は恐れ、自分達が主の御心を損ねた事を明確に告白した。
そして、主から災いが降されないよう祈り求めるように、サムエルに願った。
私達も、罪が示された時、具体的にそれを告白して悔い改めているだろうか。
そして、それを改めるための行動を起こしているだろうか。
私達は、主の愛の広さ、高さ、長さ、深さをますます理解できるよう、その理解力が与えられるように祈る必要があるが、それと同時に、自分達がいかに主を悲しませ、御旨を損ねて来たかも理解できるよう、祈り求める必要がある。
『サムエルは民に言った、「恐れることはない。あなたがたは、このすべての悪をおこなった。しかし主に従うことをやめず、心をつくして主に仕えなさい。むなしい物に迷って行ってはならない。それは、あなたがたを助けることも救うこともできないむなしいものだからである。』(1サムエル記12:20-21)
サムエルは、恐れてはならない、と言った。
民は確かに罪を犯した。しかし主に従って歩むなら、主は赦してくださる、と。
主はなぜ赦して下さるのか。
それは、自分達が主に対して罪を犯し、御心を損ねた事を正確に認知し、具体的にそれを告白し、救われたいと願ったからだ。
このように、罪の赦しと、神との和解とは、無条件のものではない。自分の罪を告白し、悔い改めの意思表示をして、はじめて与えられるものである。
『もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、彼をいさめなさい。そして悔い改めたら、ゆるしてやりなさい。もしあなたに対して一日に七度罪を犯し、そして七度『悔い改めます』と言ってあなたのところへ帰ってくれば、ゆるしてやるがよい」。』(ルカ17:3-4)
悔い改め無き赦しは、ありえない。
しかし、もし「悔い改めます」と言って一日に七度でも来るなら、七度でも赦すべきなのだ。
『主は、その大いなる名のゆえに、その民を捨てられないであろう。主が、あなたがたを自分の民とすることを良しとされるからである。』(1サムエル記12:22)
主は、主の御名のプライドにかけて、イスラエルの民を捨てる事をされない。
確かにイスラエルはかたくなな民であり、主に罪を犯し続ける事も、かたくなに止めないものだが、それでも主が捨てられないのは、「主が、あなたがたを自分の民とすることを良しとされるから」である。
『また、わたしは、あなたがたのために祈ることをやめて主に罪を犯すことは、けっしてしないであろう。わたしはまた良い、正しい道を、あなたがたに教えるであろう。』(1サムエル記12:23)
サムエルもまた、イスラエルのために、執り成し祈る事を止めて「主に罪を犯す」わけにはいかない、と言った。
サムエルからすれば、イスラエルはずっと主に罪を犯し続けてきたのを、彼は若い時からずっと見て来て、もううんざりしていた事だろう。
もうそろそろ、投げ出してしまいたい、と思っていたかもしれないが、それでも、祈りをやめる事はしなかった。祈る事を止めるのは、主に罪を犯すことである、として。
私達も、家族や仕事場、友人知人のため、そしてこの国のために、祈る事をストップするべきではない。
『あなたがたは、ただ主を恐れ、心をつくして、誠実に主に仕えなければならない。そして主がどんなに大きいことをあなたがたのためにされたかを考えなければならない。しかし、あなたがたが、なおも悪を行うならば、あなたがたも、あなたがたの王も、共に滅ぼされるであろう」。』(1サムエル記12:24-25)
ここに、二つの道が示されている。
「ただ主を恐れ、心をつくして、誠実に主に仕え」るか。それとも、「なおも悪を行う」か。
主に誠実に心を尽くして仕えるなら、末永く幸いを得る。しかし「なおも悪を行うならば、あなたがたも、あなたがたの王も、共に滅ぼされる。」
もはや主を悲しませる歩みを止めて、主を喜ばせる歩みをし、主が喜んで祝福を注いで下さるような者へと変えられていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!