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メッセージ - 1サムエル記カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:主は真実を、人は不真実を、尽くして来た(1サムエル記12:6-15):右クリックで保存

前回のところでは、サムエルが今までイスラエルをいかに真実に導いて来たかを証し、人々もそれに同意したが、今回の所では、主がイスラエルに対しいかに真実を尽くして導いてこられたかを、思い起こさせている。

『サムエルは民に言った、「モーセとアロンを立てて、あなたがたの先祖をエジプトの地から導き出された主が証人です。それゆえ、あなたがたは今、立ちなさい。わたしは主が、あなたがたとあなたがたの先祖のために行われたすべての救のわざについて、主の前に、あなたがたと論じよう。』(1サムエル記12:6-7)

私達も、主がいかに良くしてくださったかを、事あるごとに思い起こす必要がある。
主は、私達のために、いかに良い事をはからい、私達を愛され、贖いの御業を為してくださったか。
主はそれを為し遂げるために、十字架上でどれほど傷まれ、うめかれ、苦しまれたか。
主が私達に為して下さった事は、ことごとく真実であったと、私達も証するべきなのだ。

『ヤコブがエジプトに行って、エジプトびとが、彼らを、しえたげた時、あなたがたの先祖は主に呼ばわったので、主はモーセとアロンをつかわされた。そこで彼らは、あなたがたの先祖をエジプトから導き出して、この所に住まわせた。』(1サムエル記12:8)
主は、エジプトで苦しめられているイスラエルを助けられた。
彼らが主に向かって叫び、助けを求めたからだ。
主は当初からイスラエルにいつも真実を尽くして来られたが、そのイスラエルは、主に対して不真実で答えて来た。

『しかし、彼らがその神、主を忘れたので、主は彼らをハゾルの王ヤビンの軍の長シセラの手に渡し、またペリシテびとの手とモアブの王の手にわたされた。そこで彼らがイスラエルを攻めたので、民は主に呼ばわって言った、『われわれは主を捨て、バアルとアシタロテに仕えて、罪を犯しました。今、われわれを敵の手から救い出してください。われわれはあなたに仕えます』。主はエルバアルとバラクとエフタとサムエルをつかわして、あなたがたを周囲の敵の手から救い出されたので、あなたがたは安らかに住むことができた。』(1サムエル記12:9-11)
申命記においてモーセが口を酸っぱくして言った事は、主の御声に聞き従い、それを守り行いなさい、という事であり、もし聞き従わずに主を捨てるなら、必ず災いが起こるという事も、何度も言って来た。
しかし彼らは、「してはならない」と言われた事を敢えて「して」、「行ってはならない」と言われていたの所に敢えて「行った」ため、当然のごとく、災いが身に降り掛かった。

しかし彼らが『われわれは主を捨て、バアルとアシタロテに仕えて、罪を犯しました。今、われわれを敵の手から救い出してください。われわれはあなたに仕えます』と言った時、彼らが主に為して来た所業にも関わらず、主は豊かに赦し、主は士師を遣わしてイスラエルを助けられた。
御言葉はまさに、法則そのものである。
御言葉に従って歩むなら、主守りの内に幸いに栄えるが、主と主の御言葉に背き、してはならないと言われている事を敢えてするなら、必ず災いを受ける。
しかし、そこからさらに立ち返るなら、主は豊かに許してくださる。
主こそまさに、憐れみ深いお方である。

そして12節以降で、サムエルは、イスラエルがまさに「している」事について言っている。
『ところが、アンモンびとの王ナハシが攻めてくるのを見たとき、あなたがたの神、主があなたがたの王であるのに、あなたがたはわたしに、『いいえ、われわれを治める王がなければならない』と言った。それゆえ、今あなたがたの選んだ王、あなたがたが求めた王を見なさい。主はあなたがたの上に王を立てられた。』(1サムエル記12:12)

イスラエルはかつて、王を求めた事は無かった。主が王であったからだ。
しかしこの度、イスラエルは、今まで真実に導いて来られた主を無視し、人間の王を求めたのだ。
たとえるなら、心砕いて養って来てくれたお母さんを目の前にして、「いや、自分には養ってくれるお母さんが必要なのだ」などと言っているようなものである。
イスラエルは、主を無視して王を求める、という罪を犯した、にも関わらず、主は彼らを見捨てず、真実を尽くして下さる。

『もし、あなたがたが主を恐れ、主に仕えて、その声に聞き従い、主の戒めにそむかず、あなたがたも、あなたがたを治める王も共に、あなたがたの神、主に従うならば、それで良い。しかし、もしあなたがたが主の声に聞き従わず、主の戒めにそむくならば、主の手は、あなたがたとあなたがたの王を攻めるであろう。』(1サムエル記12:14-15)
イスラエルは、王が自分達を正当に守り導いてくれると夢見ていたが、王たる者や指導者たる者が必ずしも間違えずに正当に導くとは限らないし、彼らが主に真実に従うとは限らない。
牧師や教職者といえども、人は皆、間違った道へと人々を導いてしまう可能性を秘めているのだ。

確かに地上には、服すべき指導者や王がいる。
しかし、私達が最も優先して服すべきは、御言葉であられるキリストだ。

礼拝説教メッセージ音声:霊的指導者の引き際(1サムエル記12:1-5):右クリックで保存

モーセも、ヨシュアも、引退する時には全イスラエルを呼び集めて、最後のメッセージをしたが、サムエルもこの章で引退メッセージをしている。

とは言っても、サムエルはそれで引退してめでたく隠居生活に入ったわけではなかった。
サウルが主の道を正しく歩まないために、色々と世話しなくてはならない事がまだまだ起こってしまうからである。
なにしろサウルは、サムエルが死んだ後さえ、口寄せを呼び寄せてまでサムエルから助言を得ようとしたほどだった。

『サムエルはイスラエルの人々に言った、「見よ、わたしは、あなたがたの言葉に聞き従って、あなたがたの上に王を立てた。見よ王は今、あなたがたの前に歩む。わたしは年老いて髪は白くなった。わたしの子らもあなたがたと共にいる。わたしは若い時から、きょうまで、あなたがたの前に歩んだ。』(1サムエル記12:1-2)
サムエルは、子供の時から主の言葉を伝える者として働き、イスラエルを導いてきたが、今や、サウルが油注がれ、イスラエルを導く王となった。

この時、サムエルが後継者として立てた彼の子達は、指導者の座から降りて一般人のようになっていたようだ。
サムエルは、子がわいろを取り、指導者として相応しくない行動を取ったとあれば、彼らをその座から降ろして、主に油注がれたサウルへと支配権を渡したのだろう。
サムエルは確かに子を霊的に純潔に育てる事はできなかったかもしれないが、祭司エリとは違い、子をそのまま支配の座につかせて続けて、罪を犯させる事を、させなかった。
私達もそのような潔さが必要である。

『わたしはここにいる。主の前と、その油そそがれた者の前に、わたしを訴えよ。わたしが、だれの牛を取ったか。だれのろばを取ったか。だれを欺いたか。だれをしえたげたか。だれの手から、まいないを取って、自分の目をくらましたか。もしそのようなことがあれば、わたしはそれを、あなたがたに償おう」。彼らは言った、「あなたは、われわれを欺いたことも、しえたげたこともありません。また人の手から何も取ったことはありません」。』(1サムエル記12:3-4)
サムエルは、もし自分に何か不正や責められるべき所があるなら、言ってみなさいと、堂々と言えたし、民もまたそれを見出さなかった。。
パウロも、死を覚悟した時、エペソの長老たちを呼び寄せて最後のメッセージしたが、その内容はサムエルのメッセージと重なる所が多い。

『わたしはいま信じている、あなたがたの間を歩き回って御国を宣べ伝えたこのわたしの顔を、みんなが今後二度と見ることはあるまい。だから、きょう、この日にあなたがたに断言しておく。わたしは、すべての人の血について、なんら責任がない。神の御旨を皆あますところなく、あなたがたに伝えておいたからである。』(使徒20:25-27)
霊的指導者の責任は、主の御心をあます所なく伝えるまでである。
だから、キリスト者が為すべきは、慈善活動よりも、むしろ御言葉をあます所なく伝える事であり、その伝える中には当然、何が罪であり、罪を続ける結果の裁きや永遠の滅びなど、人が聞いて痛いような事も含まれ、そして、それからの救いは、主イエス・キリスト以外には誰もいない事を、はっきり伝えるべきである。

『だから、目をさましていなさい。そして、わたしが三年の間、夜も昼も涙をもって、あなたがたひとりびとりを絶えずさとしてきたことを、忘れないでほしい。今わたしは、主とその恵みの言とに、あなたがたをゆだねる。御言には、あなたがたの徳をたて、聖別されたすべての人々と共に、御国をつがせる力がある。』(使徒20:31-32)
主にある弟子訓練とは、一緒にいる時は御言葉をしっかり伝え、分かれるべき時が来たなら御言葉にその人をゆだねる事であり、決して自分色や教団色に染める事ではない。言ってみればキリスト色に染める事であり、それには御言葉への従順が不可欠である。

牧師や教職者など、霊的指導する立場にある人は、次のように断言出来るだろうか。
『わたしは、人の金や銀や衣服をほしがったことはない。あなたがた自身が知っているとおり、わたしのこの両手は、自分の生活のためにも、また一緒にいた人たちのためにも、働いてきたのだ。わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである」。』(使徒20:33-35)

私達はいつも主にあって走るべき道のりを熱心に走り、引くべき時には潔く引き、その時は、堂々と次のように言える者でありたい。
『サムエルは彼らに言った、「あなたがたが、わたしの手のうちに、なんの不正をも見いださないことを、主はあなたがたにあかしされる。その油そそがれた者も、きょうそれをあかしする」。彼らは言った、「あかしされます」。』(1サムエル記12:5)

礼拝説教メッセージ音声:確立されたサウル王朝(1サムエル記11:1-15):右クリックで保存

神と人との前で王の任命を受けたサウルだったが、王とはまだ名ばかりで、本人も民も、実体と心は全然伴なっていなかった。

そこで主は、彼を名実ともに王として整える出来事を起こされる。
それは、アモンという敵国の侵略だった。

イスラエル領内のヤベシュ・ギルアデに、アモンは大軍で攻め囲んで来たため、そこの人々は降伏を申し出るのだが、アモンの王ナハシュは言った。
『次の条件であなたがたと契約を結ぼう。すなわち、わたしが、あなたがたすべての右の目をえぐり取って、全イスラエルをはずかしめるということだ。』(1サムエル記11:2)
降伏を受け入れる条件に、人々の「右の目をえぐり出す」という残忍な事を要求し、その屈辱をさせて全イスラエルをはずかしめようとしたのだ。

『ヤベシの長老たちは彼に言った、「われわれに七日の猶予を与え、イスラエルの全領土に使者を送ることを許してください。そしてもしわれわれを救う者がない時は降伏します」。こうして使者が、サウルのギベアにきて、この事を民の耳に告げたので、民はみな声をあげて泣いた。』(1サムエル記11:3-4)
神の民イスラエル、随分となめられたものである。
アモン人は、イスラエルは自分達を恐れて、誰もヤベシュの人々を助けに来ないとたかをくくっていたのか、あるいは、たとえ助けが来たとしても、自分達はそれを圧倒できると思っていたのか、ともかくアモンは、ヤベシュの人々がイスラエル全土に使者を送るための七日の猶予を与えてやった。

近隣の敵国に、ここまで平然となめた行動を取られてしまう程に、イスラエルは、落ちぶれていたという事だ。
イスラエルは、自分達の一領土が異邦人に蹂躙されても何も出来ず、その知らせを受けても、ただ泣くしか無いほどに、無力、無能だったのだ。

この知らせをサウルが受けた時、彼は何をしていたか。
『その時サウルは畑から牛のあとについてきた。そしてサウルは言った、「民が泣いているのは、どうしたのか」。』(1サムエル記11:5)
サウルはなんと、王としての任職を受けたというのに、人々の先を進み行くのではなく、畑で牛のあとについて行っていたのだ。
何と情けない、と思うかもしれないが、私達もあながち、彼と同じような事をしているかもしれない。

ペテロとヨハネも、主が復活された後、宣教者として福音を届ける神の使者として任命され、聖霊の息を吹きこまれたはずなのに、一度手放した漁師の網を再び取って、元の生活に戻ろうとした。
私達も、せっかく任職を受けても、何をして良いのか分からない時は、以前の仕事に戻ってしまうような所があるかもしれない。
しかし主は、そんな私達に、聖なる任務を思い起こさせ、主の尊い働きへと導いて下さる。

『サウルがこの言葉を聞いた時、神の霊が激しく彼の上に臨んだので、彼の怒りははなはだしく燃えた。彼は一くびきの牛をとり、それを切り裂き、使者の手によってイスラエルの全領土に送って言わせた、「だれであってもサウルとサムエルとに従って出ない者は、その牛がこのようにされるであろう」。民は主を恐れて、ひとりのように出てきた。』(1サムエル記11:6-7)
ペテロやヨハネは、主に再び触れられた時、自ら網を捨て、宣教者として出て行ったが、サウルも同じように、それまで大事にして追っていた牛を、自らほふって切り刻んだばかりでなく、それを全イスラエルに送りつけて「だれであってもサウルとサムエルとに従って出ない者は、その牛がこのようにされるであろう」と、非常にシンプルかつ分かりやすいメッセージの道具とした。

サウルは、神の霊が激しく臨んだ時、怒りがはなはだしく燃えたが、聖なる神の集いが汚れた者にそしられ、なぶられている事に怒りを燃やすのは、正当である。
むしろ「忍耐します」「ゆるします」などとうそぶいて、聖なるものが蹂躙されてしまうのを許してしまう事こそ、不当である。
ダビデも、生ける神の陣がなぶられたのを見た時、また、なぶられ続けているイスラエルの情けない様を見た時、聖なる憤りに駆られ、じっとしていなかった。(17章)

サウルのこの知らせが届いた先では、「主」への恐れが生じ、彼らは「ひとりの人のように」サウルの元に出てきた。
『サウルはベゼクでそれを数えたが、イスラエルの人々は三十万、ユダの人々は三万であった。そして人々は、きた使者たちに言った、「ヤベシ・ギレアデの人にこう言いなさい、『あす、日の暑くなるころ、あなたがたは救を得るであろう』と」。使者が帰って、ヤベシの人々に告げたので、彼らは喜んだ。』(1サムエル記11:8)
彼らは、わずか七日以内に、全イスラエルから集まって来たのだ。
それまで、てんでバラバラだったのに、驚くべき一致の仕方である。

『そこでヤベシの人々は言った、「あす、われわれは降伏します。なんでも、あなたがたが良いと思うことを、われわれにしてください」。明くる日、サウルは民を三つの部隊に分け、あかつきに敵の陣営に攻め入り、日の暑くなるころまで、アンモンびとを殺した。生き残った者はちりぢりになって、ふたり一緒にいるものはなかった。』(1サムエル記11:10-11)
こうして、イスラエルは救いを得、サウルの見事な王としての導きに、全イスラエルが認めざるを得なくなった。
こうして皆、主が確かにサウルを王として立てられたと知ったのだ。

『その時、民はサムエルに言った、「さきに、『サウルがどうしてわれわれを治めることができようか』と言ったものはだれでしょうか。その人々を引き出してください。われわれはその人々を殺します」。しかしサウルは言った、「主はきょう、イスラエルに救を施されたのですから、きょうは人を殺してはなりません」。そこでサムエルは民に言った、「さあ、ギルガルへ行って、あそこで王国を一新しよう」。こうして民はみなギルガルへ行って、その所で主の前にサウルを王とし、酬恩祭を主の前にささげ、サウルとイスラエルの人々は皆、その所で大いに祝った。』(1サムエル記11:12-15)
このようにしてイスラエル最初の王朝、サウル王朝が成立されたが、その王朝はわずか一代で終わってしまった。
サウルはその後、主に従順してイスラエルを統治して行くのではなく、不従順となって主を退けたからだ。
私達も、従順して永遠の栄光を勝ち得るか、それとも不従順となってサウルの道を行くか、それは私達の「これから」にかかっている。

礼拝説教メッセージ音声:公に王となったサウル(1サムエル記10:14-27):右クリックで保存

『サウルのおじが、サウルとそのしもべとに言った、「あなたがたは、どこへ行ったのか」。サウルは言った、「ろばを捜しにいったのですが、どこにもいないので、サムエルのもとに行きました」。サウルのおじは言った、「サムエルが、どんなことを言ったか、どうぞ話してください」。サウルはおじに言った、「ろばが見つかったと、はっきり、わたしたちに言いました」。しかしサムエルが言った王国のことについて、おじには何も告げなかった。』(1サムエル記10:14-16)


サウルはそれまで、父の家畜の面倒を見るだけの者だったのが、いきなり、イスラエル全体の面倒を見る王へと、主が任命されたのだ。
あまりの突拍子無さ故に、サムエルが言った事を、中々言い出せなかったのだろう。
私達にも、そのようなふしが、あるかもしれない。
私達もキリストにあっては、サウルのように、聖霊の油が注がれ、新しい者に造り変えられ、王族の祭司とされ、聖なる国民とされた。
『あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。』(1ペテロ2:9)
この素晴らしい特権が与えられておきながら、その事を家族に黙っていて、相変わらず以前のような生き方をするようなキリスト者がいるとするなら、それは速やかに改めなくてはならない。

主からの「召命」を受け、それが確かに主から出た事であるという「しるし」を受け、「聖霊」も与えられたのであるのなら、いかなる事であっても、主が示して下さった道を歩むべきであり、また、他に対してもそれを明示していくべきである。
いかに主からの召命を「聞かなかった事」にしようとしても、それは隠すことは出来ず、いかに今までどおりの生活を続けようとしたところで、それは維持できなくなり、主の召された通りに歩まなくては、どうにもならなくなってしまうのだ。

サムエルはイスラエル全体を召集して、イスラエルに新しく王が誕生した事を、公然と示した。
『「それゆえ今、あなたがたは、部族にしたがい、また氏族にしたがって、主の前に出なさい」。こうしてサムエルがイスラエルのすべての部族を呼び寄せた時、ベニヤミンの部族が、くじに当った。またベニヤミンの部族をその氏族にしたがって呼び寄せた時、マテリの氏族が、くじに当り、マテリの氏族を人ごとに呼び寄せた時、キシの子サウルが、くじに当った。』(1サムエル記10:19-21)

サウルは王である事の召命を「個人的に」受けてはいたが、今度は「くじ」によって公に、彼が王である事を明らかにされた。
くじで王を選出する、というのは、常識では考えられないかもしれない。しかし当時のイスラエルでは、主の御名の元に投げられる「くじ」は、主の御心そのものを示すものであり(民数記26:55-56、34:13、箴言16:33)、くじの結果は100発100中の、御心を示すものだった。
実際、ヨシュアの時代には、聖絶のものを隠し持っている者を、イスラエル六十万の中からピンポイントで示したし、またこの時も、サウルを多くの群衆の中からピンポイントで示した。
ちなみに、くじが聖書で最後に用いられたのは、12使徒の補欠を補う時であり、その直後、ペンテコステの出来事で聖霊がしもべにもはしためにも注がれるようになったために、もはやくじで決める事はなくなり、主の働き人たちは、聖霊の導きによって主の働きを進めて行くようになって行った。

『しかし人々が彼を捜した時、見つからなかった。そこでまた主に「その人はここにきているのですか」と問うと、主は言われた、「彼は荷物の間に隠れている」。』(1サムエル記10:21-22)
サウルが王である事は、既に何度も主が示した事で、サウルはもはや隠れている場合ではないはずであるが、彼は隠れた。
しかし主は、その彼が隠れている場所さえピンポイントで示した。

主がヨナに、ニネベへ行って預言するよう命じた時、彼はその任務から逃げ、人混みにまぎれて、船の奥底に隠れたが、主はそれを露わにて引き出し、彼に与えた任務を遂行させた。
主が任命したからには、逃げ隠れしても、引きずり出されてしまうのだ。
私達も、王である祭司、聖なる国民という地位を頂いて、召し出して下さった方の御業をのべ伝えるという任務が与えられておきながら、逃げ隠れしたり、聞かなかったふりをしたり、今までどおり生活を続けようとしても、引きずり出されて、その任務へと戻されてしまうのだ。

『人々は走って行って、彼をそこから連れてきた。彼は民の中に立ったが、肩から上は、民のどの人よりも高かった。サムエルはすべての民に言った、「主が選ばれた人をごらんなさい。民のうちに彼のような人はないではありませんか」。民はみな「王万歳」と叫んだ。その時サムエルは王国のならわしを民に語り、それを書にしるして、主の前におさめた。こうしてサムエルはすべての民をそれぞれ家に帰らせた。』(1サムエル記10:23-25)
彼は美しくて背が高く、人受けする外見であったため、人々から、王と認められやすい人だった。
人々は王を望み、そののぞみどおりに王が与えられたというのに、それでも反対者が出た。
『サウルもまたギベアにある彼の家に帰った。そして神にその心を動かされた勇士たちも彼と共に行った。しかし、よこしまな人々は「この男がどうしてわれわれを救うことができよう」と言って、彼を軽んじ、贈り物をしなかった。しかしサウルは黙っていた。』(1サムエル記10:26-27)

神が示され、任命された王である。
それを拒否するような者は、本来許してはならないものだが、サウルはこの時、黙っていた。まだ王として未熟であり、権力を遂行する勇気も自覚も無かったからであろう。
未熟であるが故に、あるいは無知である故に、御胸どおりに行えないのであるなら、主は憐れみ深く、赦して下さり、さらにフォローさえして下さる。
しかし、そのようなフォローを受け続け、主がたしかにその道を守り、祝福しておられる事を沢山体験しておきながら、それでもなお意図的に主の御胸に反し続けるなら、それは許されない事であ。

礼拝説教メッセージ音声:主の霊が激しく降って預言をした、後(1サムエル記10:1-13):右クリックで保存

『その時サムエルは油のびんを取って、サウルの頭に注ぎ、彼に口づけして言った、「主はあなたに油を注いで、その民イスラエルの君とされたではありませんか。あなたは主の民を治め、周囲の敵の手から彼らを救わなければならない。主があなたに油を注いで、その嗣業の君とされたことの、しるしは次のとおりです。』(1サムエル記10:1)


サウルに王としての任職の油が注がれ、ついに、イスラエルに王が誕生した。
サムエルはサウルに、この事は主から出た事である事を明確に示すため、かなり具体的に、これから彼に起こるしるしを告げる。

『あなたがきょう、わたしを離れて、去って行くとき、ベニヤミンの領地のゼルザにあるラケルの墓のかたわらで、ふたりの人に会うでしょう。そして彼らはあなたに言います、『あなたが捜しに行かれたろばは見つかりました。いま父上は、ろばよりもあなたがたの事を心配して、「わが子のことは、どうしよう」と言っておられます』。
あなたが、そこからなお進んで、タボルのかしの木の所へ行くと、そこでベテルに上って神を拝もうとする三人の者に会うでしょう。ひとりは三頭の子やぎを連れ、ひとりは三つのパンを携え、ひとりは、ぶどう酒のはいった皮袋一つを携えている。彼らはあなたにあいさつし、二つのパンをくれるでしょう。あなたはそれを、その手から受けなければならない。』(1サムエル記10:2-4)

これほどまでに具体的かつ事細かに示されるのは、聖書の中でも珍しい。
しかしそこまでサウルに示されたのは、彼に王としての油が注がれたのは、確かに全能の主から来た事であり、主は未来の事も完全に知り、全てを支配しておられる事を彼に教えるためだ。

『その後、あなたは神のギベアへ行く。そこはペリシテびとの守備兵のいる所である。あなたはその所へ行って、町にはいる時、立琴、手鼓、笛、琴を執る人々を先に行かせて、預言しながら高き所から降りてくる一群の預言者に会うでしょう。その時、主の霊があなたの上にもはげしく下って、あなたは彼らと一緒に預言し、変って「新しい(アカー:別の、違った)」人となるでしょう。』(1サムエル記10:5)
主の霊が激しく降ると、それまでとは違った、新しい人になる。
私達も同じように、主キリストにあって、新しく造り変えられた者だ。
『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』(ガラテヤ5:17)

ただし、武器を買ってもそれを装備しなければ効力を発揮出来ないように、「キリストのうちに」あり続けないなら、新しく造られた者としての効力は一切発揮されない。
サウルは、王としての任職の油が注がれたからには、その特権を正しく行使する責任も与えられたのであり、それをしないなら、せっかく主から任職の油が与えられても全く無益どころか、逆に害なすものとなってしまう。
私達も、王として、祭司として、聖なる国民としての特権が与えられている。その理由は、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さった方の御業を、語り伝えるためである。(1ペテロ2:9)

だから、与えられた特権を活用し、主の栄光のため・神の国の働きのために用いるなら、その人自身も、その働きも、どんどん祝福されていく。
しかしその特権を乱用し、古き罪深い生き方をし続けるなら、不信者よりも格別きびしいさばきを受けてしまう。
『主人のこころを知っていながら、それに従って用意もせず勤めもしなかった僕は、多くむち打たれるであろう。しかし、知らずに打たれるようなことをした者は、打たれ方が少ないだろう。多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求されるのである。』(ルカ12:47-48)

聖霊が激しく自分に降る事を求めるキリスト者は、たくさんいる。
しかし結局大事なのは、それが与えられた後の、御言葉への従順である。
サムエルは続けて言う。
『これらのしるしが、あなたの身に起ったならば、あなたは手当りしだいになんでもしなさい。神があなたと一緒におられるからです。あなたはわたしに先立ってギルガルに下らなければならない。わたしはあなたのもとに下っていって、燔祭を供え、酬恩祭をささげるでしょう。わたしがあなたのもとに行って、あなたのしなければならない事をあなたに示すまで、七日のあいだ待たなければならない」。』(1サムエル記10:7)

手当たり次第、何でもしなさい。
ここを直訳するなら「あなたの手に来た事は何でもしなさい」であり、つまり、何も起きていない所から自ら何かを考え出して実行する、という事ではなく、何か事が起きたなら、それに対して何とでも対処しなさい、という事である。
主の霊に導かれる人は、自分から何か思いついた事をするのではなく、主の霊の導きに従って行動するものなのだ。

当面、サウルが従順すべき事は、彼は先にギルガルに行くべき事、そして、そこで七日の間、サムエルを待つ事だと言われた。
忍耐して待つ事が七という完全数に満ちた時、サムエルが来て燔祭と酬恩祭をささげ、その後彼が為すべき事が示されるというのだ。
しかし、結論から言うと、サムエルが来る前にサウルが勝手に燔祭と酬恩祭をささげてしまったため、その後サウルに示されるべき道は、結局分からずじまいとなってしまった。

『サウルが背をかえしてサムエルを離れたとき、神は彼に新しい心を与えられた。これらのしるしは皆その日に起った。彼らはギベアにきた時、預言者の一群に出会った。そして神の霊が、はげしくサウルの上に下り、彼は彼らのうちにいて預言した。もとからサウルを知っていた人々はみな、サウルが預言者たちと共に預言するのを見て互に言った、「キシの子に何事が起ったのか。サウルもまた預言者たちのうちにいるのか」。(1サムエル記10:9-11)
サウルは実際に預言し、「サウルもまた預言者たちのうちにいるのか」という言葉が、ことわざのようになった。

預言したり、聖霊が激しく降る事を望むキリスト者は多い。
しかし、聖霊に満たされる事や、預言が言えるようになる事が、キリスト者のゴールではない。
主が約束された永遠の御国に入る事こそ、ゴールであるべきだ。

モーセの時代、主の霊が与えられて預言したイスラエルの七十人の長老たちは、果たして約束の国に入れただろうか?
彼らは不従順の故に、約束の地に入れず、荒野で死んでいった。
サムソンは、主の霊が激しく降って、すさまじい力を発揮し大活躍したがその最後はどうだっただろうか。
彼は不従順を重ねた故に、壮絶な最後を遂げた。
サウルも同じである。
いかに主の霊が激しく降り、預言したとしても、不従順を重ね続けるなら、預言も夢も幻も取り上げられ、悲惨な最後となってしまうのだ。

今は終わりの時代であり、主の霊は、しもべにもはしためにも注がれている。(ヨエル2:28-32)
そして私達キリスト者は、王として、祭司として、聖なる国民として、主に立てられており、御言葉に従順となって、与えられている特権を正しく活かす事が求められている。
それを正しく行使するなら、永遠の栄光が待っている。
しかし不従順を重ねるなら、サウルのように、かの七十人の長老達のように、約束の地に入れないまま、荒野をさまよい続けるしか無いのだ。

礼拝説教メッセージ音声:突然の貴賓扱いを受けたサウル、と私達(1サムエル記9:17-27):右クリックで保存

『そのときサウルは、門の中でサムエルに近づいて言った、「先見者の家はどこですか。どうか教えてください」。サムエルはサウルに答えた、「わたしがその先見者です。わたしの前に行って、高き所に上りなさい。あなたがたは、きょう、わたしと一緒に食事しなさい。わたしはあすの朝あなたを帰らせ、あなたの心にあることをみな示しましょう。

三日前に、いなくなったあなたのろばは、もはや見つかったので心にかけなくてもよろしい。しかしイスラエルのすべての望ましきものはだれのものですか。それはあなたのもの、あなたの父の家のすべての人のものではありませんか」。』(1サムエル記9:18-20)

サウルは先見者サムエルとこの時初対面のはずが、なんと彼は、きょう、あなたと一緒に食事をすることになっている、と意外な事を言った。
そればかりでなく、サウルが父のろばを三日前から探し歩いていた事も、そして既にそれは見つかっているという、サウルさえ知らない事さえも、知っていたのだ。
さらに驚くことに、イスラエル全体は、あなたを望んでいる、と言うのだ。
サウルは面食らっただろう。
聖なる方の助言をちょっと伺おう、といったつもりで来たのに、相手は自分の何もかもを、それも自分の知らない事までも知っており、しかも、一緒に食事をすることになっている、というのだから。

この状況は、私達と主との出会いにも似ている。
取税人ザアカイは、聖なるお方イエスをひと目見ようと木に登ったのに、イエス様のほうから近づいて来られ、自分の名前を呼び、「今日はあなたの家に泊まる事になっている」と声をかけられた。
ザアカイは自分の名前で声をかけられた時、悟ったのだろう。
自分がしてきた、あらゆる悪事も。それ故人々から憎まれ、蔑まれている事も。そして、そのような状況から自分は救われたいと、密かに願っていたその事も。
この聖なる方は、そんな自分を全部知っており、しかもその上で「今日はあなたの家に泊まる事になっている」とまで言われた。
それでザアカイは、一瞬にしてこのお方に心を捕えられ、それまでの行いを悔い改め、新しい聖なる生き方をすると決心したのだ。

私達も人生のある時、サウルのように、ザアカイのように、聖なるお方に呼び止められたのではなかろうか。
自分の事を何もかも知り尽くし、その上で、わたしはあなたと食事を共にしたい、あなたの内に宿りたい、と、誘われたのではなかろうか。
そして主から、あなたはこれから全く違った歩みをしなさい、王族の祭司として、聖なる国民として、相応しく歩みなさい、と、勧められたのではなかろうか。

『サウルは答えた、「わたしはイスラエルのうちの最も小さい部族のベニヤミンびとであって、わたしの一族はまたベニヤミンのどの一族よりも卑しいものではありませんか。どうしてあなたは、そのようなことをわたしに言われるのですか」。』(1サムエル記9:21)
サウルとしては、晴天の霹靂だったろう。
自分はイスラエルという集団の中では、もっとも弱い、小さい、つまらない者なのに、なぜそのように言うのですか、と。
私達もまったく同じだ。
イエス様、なぜ、こんな弱い、小さい罪人に呼びかけて下さったのですか、と。
主の選びは、そのようである。
主は、この世の力ある者・知恵ある者をはずかしめるため、あえて弱く無に等しい人を、選ばれるのだ。(1コリント1章)

『サムエルはサウルとそのしもべを導いて、へやにはいり、招かれた三十人ほどのうちの上座にすわらせた。そしてサムエルは料理人に言った、「あなたに渡して、取りのけておくようにと言っておいた分を持ってきなさい」。料理人は、ももとその上の部分を取り上げて、それをサウルの前に置いた。そしてサムエルは言った、「ごらんなさい。取っておいた物が、あなたの前に置かれています。召しあがってください。あなたが客人たちと一緒に食事ができるように、この時まで、あなたのために取っておいたものです」。こうしてサウルはその日サムエルと一緒に食事をした。
そして彼らが高き所を下って町にはいった時、サウルのために屋上に床が設けられ、彼はその上に身を横たえて寝た。』(1サムエル記9:22-25)

サウル達は、この突然の貴賓扱いに、とまどっただろう。
聖なる方から宴会に招かれ、上座へと導かれ、最上のごちそうを頂いて貴賓扱いを受けたのだから。
私達もまさしく、イエス様から最上のごちそうを用意された宴会に招かれ、王侯に属するような貴賓扱いを受けたようなものだ。

父なる神は、御子イエス・キリストを、和解のいけにえとしてほふり、共にこの食卓に与からせようと、私達を招いておられる。その事を、王子の結婚の披露宴を設けた王のたとえ(マタイ22:1-14)で示された。
『そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。』(マタイ22:8-10)
今や、この天の大宴会には、良い人も悪い人も、あまねく招かれ、その招待に応じる人は、だれでも宴会場に入る特権があるのだ。

しかし、礼服を身に着けずに宴会場に入った者が、外の暗闇に追い出され、泣いて歯ぎしりしてしまう事もまた、書いてある。
せっかくキリストが命を裂いてまで与えて下さった贖いの衣を、敢えて身につけず、天の宴会のごちそうだけ頂こうとするような者は、外の暗闇に追い出されてしまうのだ。
サウルは後に、せっかく与えられた特権を軽んじ続けたため、王族から追い出されてしまう事となる。

『そして夜明けになって、サムエルは屋上のサウルに呼ばわって言った、「起きなさい。あなたをお送りします」。サウルは起き上がった。そしてサウルとサムエルのふたりは、共に外に出た。彼らが町はずれに下った時、サムエルはサウルに言った、「あなたのしもべに先に行くように言いなさい。しもべが先に行ったら、あなたは、しばらくここに立ちとどまってください。神の言葉を知らせましょう」。』(1サムエル記9:26-27)
サウルとしては、ろばが見つかったのなら、もうここには用なしのはずであるが、予見者サムエルのほうが、サウルに用があるというのだ。

私達も、主に何か願い事を叶えて頂いたなら、もう用済み、ではない。
主イエス様の側が、いつでも、私達に用があるのだ。
『あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。』(1ペテロ2:9)
主は私達に、いつも、この与えられた特権に相応しく歩みなさい、と言われているのだ。

 礼拝説教メッセージ音声:サウルの成り立ち(1サムエル記9:1-16):右クリックで保存

イスラエルは主の御心に反して王を求めたが、主は、彼らが求めるがままに、イスラエルに王を与える。

『さて、ベニヤミンの人で、キシという名の裕福な人があった。キシはアビエルの子、アビエルはゼロルの子、ゼロルはベコラテの子、ベコラテはアピヤの子、アピヤはベニヤミンびとである。キシにはサウルという名の子があった。若くて麗しく、イスラエルの人々のうちに彼よりも麗しい人はなく、民のだれよりも肩から上、背が高かった。』(1サムエル記9:1)
このサウルが、主が定めたイスラエルの最初の王である。
 
サウルの名は「尋ねられる」「面会を求められる」という意味である。
彼は「若くて麗しく、イスラエルの人々のうちに彼よりも麗しい人はなく、民のだれよりも肩から上、背が高」かった、ばかりでなく、裕福な家出身であり、場の空気をよく読む、思いやりのある人だった。
まさに、人々から「求められる」という名前の通りの者であった。
人を思いやるのは良いことであるが、神よりも人を思いやるとしたら、災いの性質であり、それが後の彼にとって罠となってしまう。
 
『サウルの父キシの数頭のろばがいなくなった。そこでキシは、その子サウルに言った、「しもべをひとり連れて、立って行き、ろばを捜してきなさい」。そこでふたりはエフライムの山地を通りすぎ、シャリシャの地を通り過ぎたけれども見当らず、シャリムの地を通り過ぎたけれどもおらず、ベニヤミンの地を通り過ぎたけれども見当らなかった。彼らがツフの地にきた時、サウルは連れてきたしもべに言った、「さあ、帰ろう。父は、ろばのことよりも、われわれのことを心配するだろう」。』(1サムエル記9:3-5)
彼がベニヤミンの地を出て、サムエルの所へ行ったのは、王として任職を受ける気があったからでは毛頭無く、ただ、父のろばがいなくなったので、探しに行くよう頼まれたからだった。
彼は一人のしもべと一緒に遠くまで探しに来たのだが、なかなか見つからず、あまり手間取って父を心配させるのも悪いので、帰ろうと言い出す。
『ところが、しもべは言った、「この町には神の人がおられます。尊い人で、その言われることはみなそのとおりになります。その所へ行きましょう。われわれの出てきた旅のことについて何か示されるでしょう」。』(1サムエル記9:6)
 
この町に神の人がいる、という事をサウルは知らなかったのか、それとも、知っていても伺おうという気が起きなかったのか、分からないが、とにかく、自分の問題を神に伺おうと提案したのは、サウルではなく、名も無きしもべのほうだった。
この、主に聞くという事が、頭の中から抜け落ちているような性質は、私達も改めなくてはならないものであり、人を導く王であるなら、なおさらである。
しかしサウルはその後、部下に勧められて初めて御心を求めるような性質を改めず、また、御心を超えて勝手に行動してしまったりした。(1サムエル記13章、15章)
彼のそのような性質を取り除かない事は、せっかく与えられた王権が剥奪されてしまう元となってしまう。
 
このように、神の導きを求める事を、自分からせず、人に勧めれれてから、はじめてするような信仰者は、自立していない信仰者である。
人から勧められない限りは、自分からは礼拝には行かない、自分からは祈らない、自分からは賛美しない、勧める人がいなくなると、しなくなる。
初心の時ならいざ知らず、いつまでもそのようなキリスト者であるなら、災いが絶えないものだ。
 
『サウルはしもべに言った、「しかし行くのであれば、その人に何を贈ろうか。袋のパンはもはや、なくなり、神の人に持っていく贈り物がない。何かありますか」。しもべは、またサウルに答えた、「わたしの手に四分の一シケルの銀があります。わたしはこれを、神の人に与えて、われわれの道を示してもらいましょう」。・・・サウルはそのしもべに言った、「それは良い。さあ、行こう」。こうして彼らは、神の人のいるその町へ行った。』(1サムエル記9:7-10)
サウルは、御心を伺うときに贈り物をする事を気にした。
人を思いやる事、神の働き人を敬うのは良いことであるが、神よりも、人を思いやる事を優先させるとしたら、順番違いである。
 
『こうして彼らは町に上っていった。そして町の中に、はいろうとした時、サムエルは高き所に上るため彼らのほうに向かって出てきた。さてサウルが来る一日前に、主はサムエルの耳に告げて言われた、「あすの今ごろ、あなたの所に、ベニヤミンの地から、ひとりの人をつかわすであろう。あなたはその人に油を注いで、わたしの民イスラエルの君としなさい。彼はわたしの民をペリシテびとの手から救い出すであろう。わたしの民の叫びがわたしに届き、わたしがその悩みを顧みるからである」。』(1サムエル記9:14-)
 
サムエルには主からあらかじめベニヤミン人と出会う事、そして、その者に油をそそいで王とすべき事が命じられていた。
この時点、サウルはこれから王となり、イスラエルを正しく治めペリシテ人から救い、サウルの家は王家として確立されていく、はずだった。
ところが聖書で記されている後の歴史は、違う。
彼の家は王家としては続かず、王権は剥奪されてダビデの家へと移ってしまう。
なぜなら彼は、神よりも人を恐れ、御言葉よりも自分のよかれを押し通す性質を、手放さなかったからだ。
 
私達の内に、サウルの性質は無いだろうか。
人に勧められなければ礼拝に行かない、人に見られていなければ祈りをしない、人に促されなければ賛美しない、というようなサウルの性質は早急に手放し、自ら進んで喜んで礼拝を捧げ、王として栄えていくダビデの性質を身に着けていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

 

礼拝説教メッセージ音声:王なる主を退けるイスラエル(1サムエル記8:1-22):右クリックで保存

『サムエルは年老いて、その子らをイスラエルのさばきづかさとした。長子の名はヨエルといい、次の子の名はアビヤと言った。彼らはベエルシバでさばきづかさであった。しかしその子らは父の道を歩まないで、利にむかい、まいないを取って、さばきを曲げた。』(1サムエル記8:1-3)

父が素晴らしい信仰者だからと言って、子も自動的にそうなるとは限らない。
信仰は結局、本人の意志決断に依るのものだが、親の愛情と祈りは、それを養うのに大きな力がある。
実際、サムエルは年に一度しか親と会う事ができない状況だったのにも関わらず、母の愛と祈りによって、良き信仰者として成長した。

そこで人々は、サムエルに、「ほかの国々のように、われわれをさばく王を、われわれのために立ててください」と願い出た。
『彼らが、「われわれをさばく王を、われわれに与えよ」と言うのを聞いて、サムエルは喜ばなかった。そしてサムエルが主に祈ると、主はサムエルに言われた、「民が、すべてあなたに言う所の声に聞き従いなさい。彼らが捨てるのはあなたではなく、わたしを捨てて、彼らの上にわたしが王であることを認めないのである。彼らは、わたしがエジプトから連れ上った日から、きょうまで、わたしを捨ててほかの神々に仕え、さまざまの事をわたしにしたように、あなたにもしているのである。』(1サムエル記8:6-8)

彼らが王を求めた事は、サムエルの機嫌を損ね、主もまた、「わたしがエジプトから連れ上った日から、きょうまで、わたしを捨ててほかの神々に仕え、さまざまの事をわたしにした。」とまで言われた。
王を求める事。
一般的に見るなら、何ら問題もなさそうなこの事が、一体なぜこんなにも主を怒らせ、サムエルの機嫌を損ねたのか。
それは、王を求める事も偶像礼拝も、「主を捨てる」という一点においては、なんら変わり無いからである。

『「今その声に聞き従いなさい。ただし、深く彼らを戒めて、彼らを治める王のならわしを彼らに示さなければならない。」サムエルは王を立てることを求める民に主の言葉をことごとく告げて、言った』(1サムエル記8:9-11)
主は、もしイスラエルが王を立てるとするなら、いかなる事になるのかを説いて聞かせた。
すなわち、王は息子娘達を徴用して使い、畑の産物や家畜を徴用し、望まぬ事をさせられ、人々は、奴隷のようになってしまうという事を。
『「そしてその日あなたがたは自分のために選んだ王のゆえに呼ばわるであろう。しかし主はその日にあなたがたに答えられないであろう」。ところが民はサムエルの声に聞き従うことを拒んで言った、「いいえ、われわれを治める王がなければならない。われわれも他の国々のようになり、王がわれわれをさばき、われわれを率いて、われわれの戦いにたたかうのである」。サムエルは民の言葉をことごとく聞いて、それを主の耳に告げた。主はサムエルに言われた、「彼らの声に聞き従い、彼らのために王を立てよ」。』(1サムエル記8:18-22)

彼らは、「われわれも他の国々のようになり」と言ったが、要するに、彼らには他の国々への妙なあこがれがあるのだ。
はたして、神が直接導かれるイスラエルのほうが劣っていて、人間の王が導く他の国のほうが優れている、というのだろうか?とんでもない!
ところが、彼らには、そう見えたのだ。
神が王として自分達を治め、導いておられる事が、どんなに素晴らしく特権的であるのかを、彼らは知らないのだ。

彼らは「われわれも他の国々のようになり、王がわれわれをさばき、われわれを率いて、われわれの戦いにたたかうのである。」と言ったが、果たして今まで主は正当にさばいてくださっていなかったのだろうか。
主は、ペリシテ人に対し、そして背いたイスラエルに対しても、先頭に先んじて戦っておられたではないか。
イスラエルは、あんなにも不従順ゆえに神を怒らせていたにも関わらず、主はここまで守って下さったという「エベン・エゼル」の幸いを、早速忘れてしまったのだ。
まさに、彼らは主を捨てたのだ。

『ピラトはユダヤ人らに言った、「見よ、これがあなたがたの王だ」。すると彼らは叫んだ、「殺せ、殺せ、彼を十字架につけよ」。ピラトは彼らに言った、「あなたがたの王を、わたしが十字架につけるのか」。祭司長たちは答えた、「わたしたちには、カイザル以外に王はありません」。そこでピラトは、十字架につけさせるために、イエスを彼らに引き渡した。彼らはイエスを引き取った。』(ヨハネ19:14-16)
まことの王なる主を差し置いて、別のものを王としてあこがれる時、王なる主を「除け」と叫び、十字架につけようとしているようなものである。
もし、主を王座から退けてしまい、主とは別物の、例えばお金や権力、自分自身を「王」と据えるなら、その「王」によって、散々な目に遭ってしまうのだ。
イスラエルはイエス様を王から除き、カイザルを王としたその結果、すぐ後にローマによって亡ぼされ、1900年もの離散生活を送らなくてはならなかった。

主は敢えて、主以外のものを王として据える事を許される。王なる主を十字架につける自由さえ与えられたのだ。
私達は、主イエスキリストを王とし、そこからぶれる事なく、違った別物を王とする者が受けるような災いから遠ざかる歩みをしたい。

礼拝説教メッセージ音声:エベン・エゼルを忘れるなかれ(1サムエル記7:7-17):右クリックで保存

『イスラエルの人々のミヅパに集まったことがペリシテびとに聞えたので、ペリシテびとの君たちは、イスラエルに攻め上ってきた。イスラエルの人々はそれを聞いて、ペリシテびとを恐れた。そしてイスラエルの人々はサムエルに言った、「われわれのため、われわれの神、主に叫ぶことを、やめないでください。そうすれば主がペリシテびとの手からわれわれを救い出されるでしょう」。』(1サムエル記7:7-8)


イスラエルは、悔い改めの集会をするためにミツパに集まったのであって、軍事的行動をしたのでは決してなかった。それなのに、ペリシテ人は攻めて来た。
それには意味がある。
神の民が、主に立ち返る事。それは、神の民の根本的な敵である悪魔サタンが、最も嫌がる行動だからだ。
現代を生きる私達・神の民も、誰かを主に立ち返らせたり、あるいは今まで悔い改めていなかった態度を悔い改めたりする時、大体このような霊的攻撃が起こり、その気を挫こうと仕掛けてくるが、それに負けてはならない。

イスラエルはこの時、今までとは違った、悔い改めに相応しい行動パターンを取った。
すなわち、力やご利益など、自分の良かれと思うやり方で、困難に対抗するのではなく、主に助けを求め、主から救いを得ようとしたのだ。
もっとも、サムエルなど霊的指導者まかせのままでいるなら、後々、同じ過ちを繰り返してしまうのだが、しかし少なくとも、神の契約の箱さえも自分都合の勝利の道具に利用しようとしたような今までとは、違った行動である。

『そこでサムエルは乳を飲む小羊一頭をとり、これを全き燔祭として主にささげた。そしてサムエルはイスラエルのために主に叫んだので、主はこれに答えられた。サムエルが燔祭をささげていた時、ペリシテびとはイスラエルと戦おうとして近づいてきた。しかし主はその日、大いなる雷をペリシテびとの上にとどろかせて、彼らを乱されたので、彼らはイスラエルびとの前に敗れて逃げた。イスラエルの人々はミヅパを出てペリシテびとを追い、これを撃って、ベテカルの下まで行った。』(1サムエル記7:9-11)
かつてイスラエルは、主を軽んじた事により主に激しく打たれ、その打たれた数は、ペリシテ人に打たれた数よりも多かった。
しかし今回、イスラエルは悔い改めて主に返り、心を尽くして主に求めたたため、主はペリシテ人に敵対し、イスラエルに勝利をもたらして下さった。

イスラエルに、ようやく勝利が与えられた。
それは、イスラエルが主の忌み嫌われるものを取り除き、自分に罪がある事を認め、悔い改め、主にのみ仕えたからに他ならない。

神の民にとって、勝ち負けは、主を重んじるか、それとも軽んじるかによりけりである。
勝利とは、自分の力や知恵で勝ち取るものではなく、主から与えられるものなのだ。
まさしくサムエルが言った通りである。「もし、あなたがたが一心に主に立ち返るのであれば、ほかの神々とアシタロテを、あなたがたのうちから捨て去り、心を主に向け、主にのみ仕えなければならない。そうすれば、主はあなたがたをペリシテびとの手から救い出されるであろう。」(3節)

そして、勝利の後こそ肝心だ。
『その時サムエルは一つの石をとってミヅパとエシャナの間にすえ、「主は今に至るまでわれわれを助けられた」と言って、その名をエベネゼルと名づけた。こうしてペリシテびとは征服され、ふたたびイスラエルの領地に、はいらなかった。サムエルの一生の間、主の手が、ペリシテびとを防いだ。』(1サムエル記7:12)
主は今までイスラエルが犯してきた背きの罪の数々にかかわらず、今に至るまで、助けて来られた。
その事を覚えさせるため、また、勝利の秘訣は主にある事を後々に伝えるため、サムエルは、エベンエゼル(助けの岩、救いの岩という意味)という記念の岩を立てた。
私達も、主に立ち返って助けられたなら、それを忘れないように、心の内に”エベンエゼル”を建て、事あるごとに思い返し、主に感謝すべきである。

『サムエルは一生の間イスラエルをさばいた。年ごとにサムエルはベテルとギルガル、およびミヅパを巡って、その所々でイスラエルをさばき、ラマに帰った。そこに彼の家があったからである。その所でも彼はイスラエルをさばき、またそこで主に祭壇を築いた。』(1サムエル記7:15-17)
サムエルは、主への感謝と従順をキープさせるために、平和が与えられて後も、年ごとに各所を巡回し霊的指導を続けた。
せっかく手術して治っても、以前の不摂生を相変わらず続けるなら、全く意味が無いのと同じように、ひと度、主にあって勝利をしたなら、主に喜ばれる霊的健全さをキープし続けなくては、意味が無い。だからサムエルは年ごとに巡回し、それをキープさせたのだ。
そこには、戦いに勝利するような派手さは無く、地道なものであるが、これはひとつの戦いに勝利する事よりも、はるかに偉大な彼の功績である。
私達もそれを怠ってはならない。

礼拝説教メッセージ音声:”珍しく”悔い改めて主に立ち返るイスラエル(1サムエル記7:1-6):右クリックで保存

当初はイスラエル人にもペリシテ人にも軽んじられたような扱いをされた主の箱だが、主は、そのように軽んじた者達全てに災いを降し、誰の目にも明らかな形で主の栄光が現され、皆、恐れるようになった。
主の箱はベテ・シェメシュの住人からも恐れられ、そこからさらに移される事になる。

『キリアテ・ヤリムの人々は、きて、主の箱を携え上り、丘の上のアビナダブの家に持ってきて、その子エレアザルを聖別して、主の箱を守らせた。その箱は久しくキリアテ・ヤリムにとどまって、二十年を経た。イスラエルの全家は主を慕って嘆いた。』(1サムエル記7:1-2)
この時以降、ダビデ王がエルサレムへ主の箱を導き入れるまで、長らくそこに留まる事になる。(1歴代誌13章)
イスラエルは、これら一連の事を通して、主の栄光と自分達の不実とを思い知り、主を慕って嘆く心が湧き起こって来た。

災い遭う事は、実は幸いである。
それによって自分の中の正すべき事を正し、主に立ち返るからである。
『苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを/学ぶことができました。』(詩篇119:71)
そこでサムエルは、全イスラエルに、悔い改めを促す。

『その時サムエルはイスラエルの全家に告げていった、「もし、あなたがたが一心に主に立ち返るのであれば、ほかの神々とアシタロテを、あなたがたのうちから捨て去り、心を主に向け、主にのみ仕えなければならない。そうすれば、主はあなたがたをペリシテびとの手から救い出されるであろう」。そこでイスラエルの人々はバアルとアシタロテを捨て去り、ただ主にのみ仕えた。』(1サムエル記7:3-4)
彼らは、あれほどの目に遭っておきながら、いまだに、他の神々を持っている状況だった。
あの神もこの神も仲良くあわせて持つのに何の抵抗も感じない日本人のように、当時のイスラエルは、主の聖の基準から長らく離れていたため、何が主に喜ばれ、何が喜ばれないかを知らなかったのかもしれない。
サムエルは、全て他の神々を除き去って、ただ主にのみ仕えるよう促した。
そしてイスラエルは、素直にそれに従った。

『サムエルはまた言った、「イスラエルびとを、ことごとくミヅパに集めなさい。わたしはあなたがたのために主に祈りましょう」。人々はミヅパに集まり、水をくんでそれを主の前に注ぎ、その日、断食してその所で言った、「われわれは主に対して罪を犯した」。サムエルはミヅパでイスラエルの人々をさばいた。』(1サムエル記7:5-6)
彼らは実に「珍しい事」をしている。
それは、一つに集まり、心を主に向けて悔い改めの集会を開いた事だ。
悔い改めて主の前に出るのが「珍しい」というのも、情けない話である。
しかし、ヨシュアが死んで以降、イスラエルはずっとそのような霊的状態であり、また、悔い改めて主の前に出るのが「珍しい」というキリスト者も、実は多いのだ。
皆さんは、そのような状態に、なっていないだろうか。
災い続きではないだろうか。

主の救いと立て直しは、悔い改めて主に立ち返る所から始まり、それをするなら、主は豊かに恵みを施して下さる。
『わたしがあなたがたの前に述べたこのもろもろの祝福と、のろいの事があなたに臨み、あなたがあなたの神、主に追いやられたもろもろの国民のなかでこの事を心に考えて、あなたもあなたの子供も共にあなたの神、主に立ち帰り、わたしが、きょう、命じるすべてのことにおいて、心をつくし、精神をつくして、主の声に聞き従うならば、あなたの神、主はあなたを再び栄えさせ、あなたをあわれみ、あなたの神、主はあなたを散らされた国々から再び集められるであろう。』(申命記30:1-4)

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