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礼拝説教メッセージ音声:ハンナの賛歌(1サムエル記2:1-10):右クリックで保存

今回の箇所は、ハンナの喜びに溢れた祈りが記されており、その内容は、イエスの母マリヤの賛歌に、非常によく似ている。

天地宇宙を造られた、永遠なる主が、こんなにも小さな、貧しい、取るに足らない自分に関わって下さって、とても大きな事を為して下さった。
その事を、マリヤもハンナも大いに喜んでいる。
当然その喜びは、私達キリスト者の喜びでもある。

ハンナは、主は全部知っておられた、あの時の言葉にならない呻きの祈りも、長い間ペニンナに心悩まされていた事も、あの時この時の私の心理状態や状況も、全部知っておられたのだ、と驚いている。(3節)
それはキリスト者なら皆味わうはずの共通の驚きと喜びであり、有名な「おどろくばかりの(アメージンググレース)」の賛美も、そのようにして生まれた。

『ハンナは祈って言った、/「わたしの心は主によって喜び、/わたしの力は主によって強められた、/わたしの口は敵をあざ笑う、/あなたの救によってわたしは楽しむからである。』(1サムエル記2:1)
ハンナは、最もいとしいであろう幼子を、神の家に預けたその直後の時期に、なぜ、こんなにも喜んでいられるのか。
それは、主が彼女を全部知っておられた事、主ご自身が直接的に関わって下さった事が、嬉しくて嬉しくて仕方なかったのだろう。
そして、その子が全能なる主の元で養われる事が、彼にとって何より幸せであると、わかっていたからだろう。
事実、サムエルの名は、聖書の一巻の名前にもなる程、重要な人物となった。
それはまさしく、彼女の信仰による行いの故である。

『主のように聖なるものはない、/あなたのほかには、だれもない、/われわれの神のような岩はない。』(1サムエル記2:2)
主を「岩」とする表現は申命記にも少し出てきたが、岩なる主は、キリストを意味している。(1コリント10:4)
「岩」であられる主は、信じる人には頼もしい救いの拠り所だが、信じない人には、妨げの岩、つまづきの岩である。(1ペテロ2:8)

『あなたがたは重ねて高慢に語ってはならない、/たかぶりの言葉を口にすることをやめよ。主はすべてを知る神であって、/もろもろのおこないは主によって量られる。勇士の弓は折れ、/弱き者は力を帯びる。飽き足りた者は食のために雇われ、/飢えたものは、もはや飢えることがない。うまずめは七人の子を産み、/多くの子をもつ女は孤独となる。』(1サムエル記2:3-5)
自分の力や富、持ちものの故に高慢になっている者は、必ず衰える。そして、主に信頼を置く者こそ、永遠に幸いを得る。
彼女はその事を歌っており、これはマリヤも同じ賛歌を歌っている。
『主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。』(ルカ1:51-53)
全てのものは主から出たものであり、その主を重んじるか、軽んじるかによって、人の永遠は決まってしまうのだ。

『主は殺し、また生かし、/陰府にくだし、また上げられる。主は貧しくし、また富ませ、/低くし、また高くされる。貧しい者を、ちりのなかから立ちあがらせ、/乏しい者を、あくたのなかから引き上げて、/王侯と共にすわらせ、/栄誉の位を継がせられる。地の柱は主のものであって、/その柱の上に、世界をすえられたからである。』(1サムエル記2:6-8)
これはまさしくメシヤなるキリストを現している。
彼は殺され、また生かされた。陰府に降り、三日目に上げられ、天に昇られた。
主はひと度、貧しくなられ、低くされ、そして圧倒的に高くされ、富む者となった。
これはまさに、十字架につけられた神の子キリストの有り様であり、そして私達キリスト者も、キリストと同じく、世にあっては低い身分のように見えても、天においては高い身分であり、悲しんでいるかのように見えても、大いに喜んでおり、死んだも同然のような者であっても、永遠に生きるものとされ、何も持たないかのように見えても、全てを持っている。(2コリント6:1-10)

『主と争うものは粉々に砕かれるであろう、/主は彼らにむかって天から雷をとどろかし、/地のはてまでもさばき、/王に力を与え、/油そそがれた者の力を強くされるであろう。』(1サムエル記2:10)
ここに「油注がれた者(ヘブライ語:マシヤハ)」と記されているが、それはメシヤなるキリストが力を受け、神の敵を永遠に滅ぼす事を預言している。
一介の、貧しい、一女性が、メシヤを預言した。
私達信仰者も、メシヤなるキリストを表現する者である。
ただ主にだけ寄り頼む者に、主はインマヌエル(共におられる主)として現れ、プライベートに密接に関わってくださり、そしてメシヤなるキリストの有り様を、細かく示して下さるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:神は聞かれた(1サムエル記1:19-28):右クリックで保存

『彼らは朝早く起きて、主の前に礼拝し、そして、ラマにある家に帰って行った。エルカナは妻ハンナを知り、主が彼女を顧みられたので、彼女はみごもり、その時が巡ってきて、男の子を産み、「わたしがこの子を主に求めたからだ」といって、その名をサムエルと名づけた。』(1サムエル記1:19-20)

サムエルの名は「シェムー(聞かれる)エル(神)」、まさしく「神は聞かれた」のだ。
彼女が誓願したその一年後には、もう男の子を出産していたので、彼女の祈りは、あの祈りをした直後に成就していた、という事である。

『エルカナその人とその家族とはみな上っていって、年ごとの犠牲と、誓いの供え物とをささげた。しかしハンナは上って行かず、夫に言った、「わたしはこの子が乳離れしてから、主の前に連れていって、いつまでも、そこにおらせましょう」。夫エルカナは彼女に言った、「あなたが良いと思うようにして、この子の乳離れするまで待ちなさい。ただどうか主がその言われたことを実現してくださるように」。』(1サムエル1:21-22)
彼女は元々、「男の子が与えられたら、主に捧げる」という誓願をしていたのだが、この時点、その子はまだ乳離れしておらず、主の宮に捧げられる状態には至っていなかったため、彼が乳離れして主に捧げる事が出来るようになるまでは、行かずにおきましょう、という事だろう。

夫のいる女性が誓いをする場合、夫の承認が必要であるため(民数記30章)、彼女は夫エルカナに自分の誓いを夫に言ったのだが、夫は「どうか主がその言われたことを実現してくださるように」と言って快諾した。
彼も、良き信仰の人だった。
自分の気に入る・気に入らないによって妻の誓いを支配するではなく、「主の御心が成るように」という、主への従順と信仰が彼の言動に現れている。

『乳離れした時、三歳の雄牛一頭、麦粉一エパ、ぶどう酒のはいった皮袋一つを取り、その子を連れて、シロにある主の宮に行った。その子はなお幼かった。そして彼らはその牛を殺し、子供をエリのもとへ連れて行った。
ハンナは言った、「わが君よ、あなたは生きておられます。わたしは、かつてここに立って、あなたの前で、主に祈った女です。この子を与えてくださいと、わたしは祈りましたが、主はわたしの求めた願いを聞きとどけられました。それゆえ、わたしもこの子を主にささげます。この子は一生のあいだ主にささげたものです」。そして彼らはそこで主を礼拝した。』(1サムエル記1:24-28)

彼女は自分が誓願した通りに、その子を捧げに行った。
アブラハムといい、ハンナといい、そしてイエス・キリストの父なる神といい、親が、ひとり子を自分の懐から手放す事は、どれ程の事だろう。
しかし、ハンナの言葉や続く賛歌からは、悲壮感の類は一切、感じられない。

主が聞かれた、主はこれから与えて下さる、そして、その子は主のものとされ、主の守りと養いの内に栄え、主のわざを成していく、という確信が、彼女に与えられたのだろう。
彼女は本当に、信仰の人である。
子を与えて下さいという、声にもならない呻きの祈りをした時も「主が聞き入れて下さった」という平安と確信が与えられた。
そしてこの時も、この子は主に捧げられたものとして聖別され、祝福され、そして自分はこれから、さらに子を産んで行き、ますます栄誉が増し加わって行く、という確信までも与えられたのだ。

キリスト者の、そのような信仰の確信と喜びは、人生に一度や二度の特殊体験ではない。
祈る度に、信仰によって御言葉を受け止める度に、すなわち、日々自分を下ろし、自分の十字架を負って、主について行く度ごとに、日常的に起こるものである。

礼拝説教メッセージ音声:人知れぬ呻きの祈りによって生み出されたサムエル(1サムエル記1:9-18):右クリックで保存

『シロで彼らが飲み食いしたのち、ハンナは立ちあがった。その時、祭司エリは主の神殿の柱のかたわらの座にすわっていた。ハンナは心に深く悲しみ、主に祈って、はげしく泣いた。』(1サムエル記1:9-10)

エルカナの一家が主の神殿で食事をした中で、ハンナだけは食べようともしなかったが、皆の食事が終わった時、彼女は一人、主の御前に出て激しく泣いた。
彼女は、礼拝中も食事中も心に苦しみがあったのだが、それは一切出さず、皆の飲食がひと通り終わった後、一人、御前にそれを持っていったのだ。

教会や交わりにおいて、兄弟姉妹に嫌味を言って、その言われた人が、礼拝や交わりが苦々しくなってしまうような事は、あってはならない事である。
苦々しくなってしまった人が、その思いを他の兄弟姉妹にぶつけてしまうなら、礼拝や愛餐の聖なる集いが汚されてしまうが、ハンナはそれをしなかった。
彼女のように、憂いや憤りを人にではなく、主へと持っていくならば、主がその問題を請け負って下さり、解決は主の仕事となる。

『そして誓いを立てて言った、「万軍の主よ、まことに、はしための悩みをかえりみ、わたしを覚え、はしためを忘れずに、はしために男の子を賜わりますなら、わたしはその子を一生のあいだ主にささげ、かみそりをその頭にあてません」。』(1サムエル記1:11)
彼女は今まで、幾度も、男の子が与えられるように祈って来ただろう。
しかし、この時の彼女の祈りは、特別だった。
もし、その子が与えられるなら、その子を神様に捧げます、という誓願をしたのだ。
主に捧げられた子、その子は神のものとされ、神の事を為し、神の御心を行い、そして彼が主にあって為す事は、人間の力や知恵、限界を遥かに超えたものである。

『彼女が主の前で長く祈っていたので、エリは彼女の口に目をとめた。ハンナは心のうちで物を言っていたので、くちびるが動くだけで、声は聞えなかった。それゆえエリは、酔っているのだと思って、彼女に言った、「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい」。』(1サムエル記1:12-14)
彼女は悩みと憂いに満ちていたため、眉間に皺が寄り、目を赤く腫らし、苦しみに震えつつ、唇だけが動いていたのだろう。
祭司は「酔っ払っている」と勘違いしたが、主はご存知だった。彼女の心の願いを、そして、彼女が声に出さずして誓った内容も。
そして、彼女が人知れず誓った内容を、彼女は果たす気でいる、という事も。

主は私達を探り、知っておられる。
座るのも立つのも、どこに行こうとしているのかも知っておられ、私達の思いを遠くから読み取られる。
言葉が私達の舌にのぼる前に、主はそれを、ことごとく知っておられる。(詩篇139編)

『しかしハンナは答えた、「いいえ、わが主よ。わたしは不幸な女です。ぶどう酒も濃い酒も飲んだのではありません。ただ主の前に心を注ぎ出していたのです。はしためを、悪い女と思わないでください。積る憂いと悩みのゆえに、わたしは今まで物を言っていたのです」。そこでエリは答えた、「安心して行きなさい。どうかイスラエルの神があなたの求める願いを聞きとどけられるように」。彼女は言った、「どうぞ、はしためにも、あなたの前に恵みを得させてください」。
こうして、その女は去って食事し、その顔は、もはや悲しげではなくなった。』(1サムエル記1:15-18)
祭司エリは、あまり良い祭司ではなかったが、そんな祭司であっても、彼女は彼の言葉を信仰によって受け止めた。
その瞬間から、彼女は変わった。
状況は変わっていない。しかし心は、あたかも目の前の問題は無くなったかのような、平安に満たされたのだ。

私達キリスト者にも、そのような「信仰の瞬間」がある。
悪い状況は、変わっていない。しかし、その悪い状況など、あたかも無くなったかのように、平安に満たされる、という瞬間が。
キリスト者の特権であるその「信仰の瞬間」は、心から主に祈った時や、信仰によって御言葉を受け止めた時に、起こる。

御言葉に記されている真理を、信仰によってその人の霊の中へと引き出す時、主が約束して下さった事は、もう成就した、という確信が沸き起こる。
その時、現実の状況とは全く関係なく、心は平安で満たされ、やがては現実世界のほうが、その人が信じた通りに成って行くのだ。
それはちょうど、預金通帳に記されている数字を、当たり前のように信じて疑わず、それを持って銀行へ行ってしかるべき手続きをするなら、現実に現金が手元へ引き出されるのと同じである。

こうして、時代の指導者・サムエルは、一人の不妊の女の、言葉にならない人知れぬ祈り、しかも、祭司さえ「酔っぱらい」と勘違いするような、呻きの祈りによって、生み出される。
私達も、主に捧げる心を持ち、信仰によって祈るなら、時の指導者さえ生み出す事が可能なのである。

礼拝説教メッセージ音声:ハンナとペニンナ(1サムエル記1:1-8):右クリックで保存

歴代誌によると、サムエルの父エルカナは、ケハテ族のレビ人であり、コラの子孫である。(1歴代誌6:33-43)

「エフライムびと」とは記されているが、それはエフライムの血筋の子孫という事ではなく、エフライムの地域に住む人という事である。(ルツ1:2 1サムエル17:12)
ちなみに、サムエルの孫にあたるヘマンは、詩篇88編の作者であり、神の宮で賛美する代表的な者の一人となった。

『エフライムの山地のラマタイム・ゾピムに、エルカナという名の人があった。エフライムびとで、エロハムの子であった。エロハムはエリウの子、エリウはトフの子、トフはツフの子である。エルカナには、ふたりの妻があって、ひとりの名はハンナといい、ひとりの名はペニンナといった。ペニンナには子どもがあったが、ハンナには子どもがなかった。』(1サムエル記1:1-2)

エルカナの二人の妻のうち、不妊の女・ハンナの名の意味は「自発的に与えられる賜物」、子があるほうのペニンナの名の意味は「真珠」である。
真珠は、貝に傷をつける事で徐々に醸成されていく尊い宝石であるが、ペニンナ自身が真珠を生み出すのではなく、ペニンナがハンナを傷つける事によって、ハンナを通して、サムエルという尊い真珠が生み出されていく事になる。

『この人は年ごとに、その町からシロに上っていって、万軍の主を拝し、主に犠牲をささげるのを常とした。・・・エルカナは、犠牲をささげる日、妻ペニンナとそのむすこ娘にはみな、その分け前を与えた。エルカナはハンナを愛していたが、彼女には、ただ一つの分け前を与えるだけであった。主がその胎を閉ざされたからである。また彼女を憎んでいる他の妻は、ひどく彼女を悩まして、主がその胎を閉ざされたことを恨ませようとした。』(1サムエル記1:3-6)
この時代は、士師記の荒んだ時代ではあったものの、ルツ記のように神を恐れ敬う民は確かにおり、エルカナの一家もそれに含まれていた。
彼らが捧げた犠牲は、神と人と祭司が共に食す「和解のいけにえ」と思われるが、この礼拝の日は、ハンナにとって心痛い日だった。

ペニンナには息子たちや娘たちがいたため、彼女自身の分と、さらに息子娘達の分も犠牲が与えられた。
それに対しハンナは、捧げる犠牲は自身ひとり分しか与えられず、そして”主がハンナの胎を閉じていた”事をもって、ペニンナはハンナをいじめていたのだ。

一人の夫に二人の妻がおり、一方が他方から憎まれる。
どことなく、創世記に出てくるヤコブの妻たち、ラケルとレアに似ているが、そのケースと逆なの点は、いじめる側のほうが子沢山で、いじめられる側には、子がいない、という点である。
また、ハンナはペニンナに何かで仕返しをする事も、言い返したりする事なく、そして、夫にぶちまける事もしなかったようである。
『ハンナが主の宮に上るごとに、ペニンナは彼女を悩ましたので、ハンナは泣いて食べることもしなかった。夫エルカナは彼女に言った、「ハンナよ、なぜ泣くのか。なぜ食べないのか。どうして心に悲しむのか。わたしはあなたにとって十人の子どもよりもまさっているではないか」。』(1サムエル記1:7)

ハンナは、夫から慰めの言葉をもらうのだが、それは何の功も奏さない。
彼女はただ、やられったなしで、それを仕返ししたり、夫にぶちまける事もせず、ただ自分の中で押さえ、泣き、食事も取らずにいた。
そうして彼女は、この事を主に持っていく事になる。

礼拝を”ねた”に、誰かを悩ませたり、また、「主が与えてくださらない」点を突いて悩ませるのは、良くない事である。
私達も、礼拝という場、クリスチャンの集いという場から、そういった類の悩みやいじめを受ける事があるが、それでも主に向かうのであるなら、主が顧みて下さり、幸いを得させてくださる。
事実、ハンナは真剣に主に求めるようになって、ついには、彼女はペニンナよりも幸いを得る事となって行く。

礼拝説教メッセージ音声:サムエル記概要(1サムエル記1:1-2):右クリックで保存

本日より講解説教は第一サムエル記に入る。

このサムエル記は、それまでイスラエルの国全体を統治する者がいなかった士師の時代から、王によって統治される時代への重要な転換点が記されている歴史書である。
サムエル記は元々、列王記と共に一つの歴史書だったものが、分割されたものであり、ギリシャ語聖書の70人訳聖書では、第一・第二サムエル記を「王国の第1・2」と、列王記は「王国の第3・4」とされている。

この書の名前は、その登場人物・サムエルから取られている。
サムエルの名前の意味は「名は神」であるが、この名前を分解すると「シェムー + エル」で、シェムーは「聞く(シャマー)」の受動態分詞、エルは「神」の意味である。
すなわち、「神に聞かれた」「神に尋ねられる」という意味になる。
「神は聞かれる。」
これはサムエル記にとって重要なキーワードであるばかりでなく、聖書全体でも、そして、私達の日常においても、そうである。

聖書の書名は、人物の名から取られる事は多いが、サムエルという人物は、1-8章の所にしか登場しない。
9−15章はサウル王が、そしてサムエル記の大部分、16章以降から2サムエル記の終わりまでは、ダビデ王が主役となる。
だから「サムエル記」と言うより「ダビデ記」と題したほうが良いのでは、と思うかもしれない。
しかし、そのダビデに油を注いで王として任職したのも、また、初代の王サウルに油を注いで任職したのも、サムエルである。
彼は士師としては最後であり、イスラエル全体を導く預言者の最初であり、そして、王たちを任職する祭司として、とても重要な役割りを担った。

そのサムエルを生んだのは、一人の不妊の女・ハンナであるが、サムエルの誕生は、彼女の、言葉にならないような、人に聞かれないような、密かな祈りから始まった。
社会的に立場の弱い、寡婦や不妊の女の祈りによって、イスラエルの歴史を動かす重要な家系や人物が生み出される点は、ルツ記も共通している。
そして聖書は、そのような「逆転劇」に満ちている。
実際、バプテスマのヨハネの母エリサベツも、イエスの母マリヤも、イスラエル民族の父アブラハムも、子が生まれるはずが無い者が、神の大いなる力によって産み、その後の霊的歴史を大きく動かしている。

『「子を産まなかったうまずめよ、歌え。産みの苦しみをしなかった者よ、声を放って歌いよばわれ。夫のない者の子は、とついだ者の子よりも多い」と主は言われる。「あなたの天幕の場所を広くし、あなたのすまいの幕を張りひろげ、惜しむことなく、あなたの綱を長くし、あなたの杭を強固にせよ。あなたは右に左にひろがり、あなたの子孫はもろもろの国を獲、荒れすたれた町々をも住民で満たすからだ。
恐れてはならない。あなたは恥じることがない。あわてふためいてはならない。あなたは、はずかしめられることがない。あなたは若い時の恥を忘れ、寡婦であった時のはずかしめを、再び思い出すことがない。あなたを造られた者はあなたの夫であって、その名は万軍の主。あなたを「あがなわれる者(ゴエル)」は、イスラエルの聖者であって、全地の神ととなえられる。』(イザヤ54:1-5)
この「あがなわれる者(ゴエル)」は、ルツ記においてはボアズであり、そして私達・全人類にとっては、万軍の主である。

ルツ記も、サムエル記も、主に信頼する不妊の女や、夫のいない女の祈りから始まり、彼女達が生み出す子がその後の歴史を大きく動かしている。
彼らは主しか頼りどころがないため、主はよく彼らの祈りを聞かれるのだ。
イスラエルの王達は、そのような女達、主に寄り頼む男達の祈りによって、生み出されてきた。

サムエル(神は聞かれる)記。
この書から、主はどのように人々の祈りを聞かれ、主に寄り頼む者にはどのような幸いが待っているのか、また、その主をないがしろにするなら、どんな災いが待っているのか、この書から見て行きたい。

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